五十嵐敬喜の発言 (憲法調査会公聴会)
⚠️ コピーしたテキストを転載する際は、転載元URL(kokkai-data.com)および原典URL(kokkai.ndl.go.jp)を必ず残してください。発言内容の改変・出典削除は禁止です。
詳細は利用規約をご確認ください。
○公述人(五十嵐敬喜君) 法政大学の五十嵐です。
今日、時間が十五分というふうに限られておりますので、既に提出してありますレジュメに基づきまして簡単に日本国憲法改正に関する私の意見を申し上げたいと思います。よろしくお願いいたします。
まず、憲法を改正するということは一体どういうことだろうかということでありますけれども、私自身は二つの方向から考えていきたいと思っております。
一つは、日本の歴史の中で縦軸として今どういう地位にあるかを見るということです。本来なら憲法ですから聖徳太子から始まるんでしょうけれども、一応まあ近代という意味で、明治憲法、昭和憲法、もしこういう言い方が許されるんなら平成憲法を日本の歴史の中で考えていくというのが第一点であります。
それから第二点は、日本は孤立して生きているわけでありませんので、世界との比較の中で世界の動向を見ながら、そのクロスする地点で憲法を考えていくという立場を取りたいということであります。
そこで、今後、憲法改正というのは恐らく五十年とかそういう単位のことを考えるわけですけれども、日本が世界の中で五十年先どういう国になるんだろうかということを考えてみまして、私の大学院でちょっと調査をいたしました。しかし、すべての資料を見ても確実性というものは余りありませんで、人口とか資源などについてはある程度の数字は出てきますが、より主体的にどういう道を判断するのかということの方が五十年先、六十年先の将来展望としてはウエートが掛かっているというふうに調査の結果分かりました。
しかし、なおその不確定な五十年、六十年先の中でも確実なことも幾つかありまして、憲法論に限って言いますと二つのことは確実に進化するだろうと予測されます。
一つは、世界的にグローバリゼーションという波が世界を今後もずっと覆っていくだろうということです。このグローバリゼーションの中には、もちろん経済とか金融とか情報とか旅行とかということがありますけれども、もっと根源的に言いますと血の混交が始まるということです。つまり、生物学的な意味での血の混交も進化していくだろうということですね。
もう一つは、それと反比例するかのように、より地域的なるもの、より個性的なるものが尊重されていくということです。より地域的なるもの、より個性的なものの代表例を挙げますと、一つは言語であります。もう一つは、歴史や文化というもの、あるいは宗教というようなものがより本質的不可欠なものとして追求されていくということであります。
このグローバリゼーションと個性化の視点から日本国憲法を眺めますと、非常に大きな特徴があることが分かります。これは日本国憲法に限らず二十世紀につくられた世界各国の憲法の共通的な性質として、一国ナショナリズム、国というものを一つの単位として、その中で二つの方向から、つまり基本的人権と統治機構という二つの側面から様々なデッサンを行って、それが二十世紀の世界の近代的憲法法典として成立しているということだと思います。
しかし、二十一世紀の憲法を考えるときに、その一国ナショナリズムを前提とした憲法体制というのはどういうことになるんだろうかということをより憲法学的に詰めていかなきゃいけないというのが私の考え方の原点であります。
もっと具体的に言いますと、一国ナショナリズムの考え方の前提には国家主権というのがありまして、この国家主権を前提として統治機構と基本的人権を設計するという形になっています。しかし、グローバリゼーションとか地域の個性化というものはこの国家主権を限りなく解体していく、相対化していくという形にならざるを得ないというふうに思っています。
グローバリゼーションの典型は最近のEU憲法でありますけれども、ここは一国ナショナリズムが持っていた主権というものを従来の国家を超える超国家というところに、最初は通貨発行権、二番目には外交権、場合によったら最終的には軍事権まで言わば主権移譲するということでありまして、国家の持っている主権の大方の部分が解体されていきます。
一方、補完性の原理で有名なように、地域に近いところの決定権はできるだけ地域にゆだねるということがありまして、本来、国家が法律の制定等でやってきたことが徐々に地域の方に移されていくという意味で、そういう意味での国家の主権も、一方、地域の方に還元される。つまり、国家が真ん中にあったものが、より超国家の方とより地域の方に還元されていくということだろうというふうに思いまして、EU憲法にも既にそういう兆しが現れております。
それで、これを前提として統治機構論と基本的人権論を考えますとどういう論点が生まれるかといいますと、多分、統治機構論は従来の国家主権論から徐々に国家政府論の方に移行していくだろうということです。つまり、政府の形はどういうふうにあるべきか。その政府というのは、中央政府、地方政府以外に、様々なところで自分たちの自己決定をする共同体の自己決定権が生まれてきて、場合によったら、それを政府と言ってもいいかもしれないという形で国家主権論、ある種の観念のドグマである国家主権論から政府機構論に移っていくというふうに思っております。
もう一つ、人権論にも非常に大きな変動が生まれてくるだろうというふうに理解しております。
一つは、従来の人権論は、一国ナショナリズムの下では国家主権というものを前提としておりまして、例えば言論の自由に見られますように、国家からの自由という形で国家との関係で基本的人権を考えています。あるいは二十五条の社会権などについては国家への自由ということが考えられております。あるいは参政権、投票権等を見ますと、これも国家への参加という形で考えておりまして、国家論中心人権論がつくられておりますけれども、既にヨーロッパ、EUの人権憲章などを見られると分かると思いますけれども、要するに国家を超えて人類普遍的なところに進んでいくという形が一方で見られると同時に、国家との関係を、もっと国家と協力して、国家と共同してというような形で人権論が構築されていく。私の言葉で言いますと、これ、第四の人権の形と言っておりますけれども、つまり国家との関係を超えて、あるいは国家との関係を協力し合ってつくっていく人権論へという形で進化していくのではないかというふうに私は考えております。
つまり、国家論の相対的な解体現象の中で、従来の一国主権を前提とした物の考え方は、統治機構論で言いますと、より政府論に移る、それから人権論でいきますと、国家という呪縛から解放されていく、そういうコンテクストの中で二十一世紀日本の言わば平成憲法も考えていくべきではないかということです。
レジュメに戻りまして、具体的に、ではどういうことを言いたいのかということを言いますと、第一番目には国民の直接決定権というものが非常に重要になる。つまり、国民主権は現憲法でも採用されておりますけれども、少なくとも地方自治体の地方自治法の規定などと比べますと国家に関する国民のかかわり方は非常に限定されております。憲法改正手続自体がそうでありますけれども、国民が直接国政に関与する直接民主主義型の参加権というものが非常に重要になってくるだろうと思います。EU憲法も既に採用しておりますし、イギリスでもアメリカでもこういう国民が直接政治に参加する兆候が増えております。
この関係で見ますと、日本国憲法の憲法四十一条、つまり国権の最高機関であり、かつ唯一の立法機関であるという規定は果たしていかがなものだろうかと。あれは間接民主主義の論理の体系としては見事に完結した美しい規定でありますけれども、国民主権論から見ますとやや時代後れの感があるということであります。つまり、直接民主主義をまず前提に考えようというのが第一点であります。
第二点は、政府論で考えますと、今の議院内閣、これはまあ非常にここでもたくさん論じられていますけれども、議院内閣制が将来、二十一世紀もずっとこれでいいものかどうかということの問題点、より根源的に言いますと、国民が何で自分たちのリーダーを選んではいけないのかと。つまり、大統領制も改めて考えるべきではないかということであります。大統領制など、つまり行政権限が国民に近くなりますとこれは暴走する可能性がありますので、それとの関係で現在の裁判所の機能というものももっと別な意味で強化しなければいけない。つまり、憲法裁判所の設置なども考えるべきであると。つまり国民主権論、直接民主主義をやればやるほど裁判所の機能ももっと重要になってくるということであります。
それから、自治体の規定、ここが非常に現憲法では抽象的になっておりますが、もっと多様な設計図をかいてよろしいというふうに思います。現憲法によりますと、首長さんも議員さんも直接民主主義でありますけれども、首長さんは議院内閣制に変えてもいいですし、場合によったら議会のないいろんな政府をつくってもよろしいというふうに考えるべきではないかと。とりわけ、先ほど言いました地域性がより重視される時代になりますと、自治体の設計も、例えば東京都と沖縄の何とかの町が同じような設計図である必要は全くなくて、新たな多様な自治体の設計図をかいていいというふうに思います。ここも憲法と抵触してまいります。
それから、人権論についていきますと、先ほど言いましたように、従来型の国家に対する関係で新しい権利が必要になってくるということですね。知る権利やらプライバシー権などもそうでありますけれども、もうちょっとこれを大きな、二十一世紀を見渡すような人権論を考えてもらいたいというふうに私は思っております。
幾つか新しい問題点をここに列記しておきます。
一つは、日本の二十一世紀は美しい都市をつくることを目指すべきであると思います。衣食住、既にある程度足りておりますけれども、やっぱり世界の先進国と比べて最もみすぼらしいのは都市の風景ではないかと私は思っています。各国憲法を見ますと、文化とか美しいというものについて、やっぱりちゃんとしなきゃいけないということをそれぞれが書いておりまして、そういう権利を考えるべきであるというふうに思います。
それから二番目の論点は、宗教に対する態度が極めて日本の場合には窮屈であって、いろんな現象を見ますと、奇妙な取扱いになっているということです。私の宗教に対する考え方、地域の個性や文化を考える上で、何々教と限らず、地域的な、伝統的な神々を含めまして非常に重要であるというのが私の考え方でありまして、果たして現在のような厳格な宗教規定でいいのかどうか。むしろ、EU憲法などを考えまして、御承知のとおりEU憲法ではキリスト教そのものを憲法前文に入れるかどうかということで大論争ありましたけれども、あの意味は宗教が政治を支配するという意味じゃなくて、ヨーロッパのアイデンティティーを保つためにやっぱり宗教が必要であると。例えばヨーロッパでは、国の歌として、超国家の歌としてベートーベンの第九番の「歓喜の歌」というものをヨーロッパ全体の国の歌というふうにしたように、文化的価値、歴史的価値を、ポジションを取るためにその神々を考えたいというふうに言っておりまして、そこまでもう宗教への接近もできてきている。これをもうちょっと日本国憲法で考えられないかということです。
それから三番目、生きる権利であります。これは一応、幸福追求権、十三条に書いてありますけれども、もう一つは、死ぬということに関してどう考えたらいいかというようなことなどについてもいろいろ憲法上考えるべきではないかと思っています。
一つは、何といっても自殺が急増をしております。これが単なる社会現象の一つとして等閑視していいかどうかも非常に私は問題でありまして、憲法上も生きるということを考えるべきことではないかと思います。
さらに、アメリカやヨーロッパなどの歴史を見ますと、安楽死や脳死、あるいはクローンなどに対する新しい生命観というものが問われているということですね。こういうことについて、衆参両議院における現在の憲法論議を見ますと、余り十分に論議されていないのではないかというふうな感じしまして、死ぬ権利の否定を含めまして、私自身は新しい技術、生命の命というものに対してアクセスをするべきではないかと思います。
最後は、是非、憲法前文の中に、日本が世界と共存しながら生きていくための宣言として、持続的社会の形成ということを是非入れていただきたいというのが私の意見であります。
時間が来ましたので、終わりにさせていただきます。
どうもありがとうございました。