憲法調査会公聴会

2005-02-21 参議院 全140発言

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会議録情報#0
平成十七年二月二十一日(月曜日)
   午前九時三十分開会
    ─────────────
   委員の異動
 二月九日
    辞任         補欠選任
     尾立 源幸君     松岡  徹君
    ─────────────
  出席者は左のとおり。
    会 長         関谷 勝嗣君
    幹 事
                愛知 治郎君
                荒井 正吾君
                舛添 要一君
                若林 正俊君
                鈴木  寛君
                簗瀬  進君
                若林 秀樹君
                山下 栄一君
    委 員
                秋元  司君
                浅野 勝人君
                岡田 直樹君
                河合 常則君
                国井 正幸君
                桜井  新君
                田村耕太郎君
                松村 龍二君
                森元 恒雄君
                山下 英利君
                山本 順三君
                江田 五月君
                郡司  彰君
                佐藤 道夫君
                田名部匡省君
                高嶋 良充君
                富岡由紀夫君
                那谷屋正義君
                直嶋 正行君
                前川 清成君
                松井 孝治君
                松下 新平君
                魚住裕一郎君
                山口那津男君
                仁比 聡平君
                吉川 春子君
                田  英夫君
   事務局側
       憲法調査会事務
       局長       桐山 正敏君
   公述人
       法政大学法学部
       教授       五十嵐敬喜君
       岡山県議会議員  小田 春人君
       日本民主法律家
       協会事務局長
       弁護士      澤藤統一郎君
       日本弁理士政治
       連盟会長     森  哲也君
       ふぇみん婦人民
       主クラブ職員   赤石千衣子君
       東京大学大学院
       生        高見 康裕君
       PHP総合研究
       所第二研究本部
       本部長      永久 寿夫君
       国立大学財務・
       経営センター教
       授        山本  清君
    ─────────────
  本日の会議に付した案件
○日本国憲法に関する調査
 (今後の日本と憲法について)
    ─────────────
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関谷勝嗣#1
○会長(関谷勝嗣君) ただいまから憲法調査会公聴会を開会いたします。
 日本国憲法に関する調査を議題といたします。
 本日は、「今後の日本と憲法について」、お手元の名簿の八名の公述人の方々から御意見を伺います。
 午前は、法政大学法学部教授五十嵐敬喜君、岡山県議会議員小田春人君、日本民主法律家協会事務局長・弁護士澤藤統一郎君及び日本弁理士政治連盟会長森哲也君、以上四名の公述人の方々に御出席いただいております。
 この際、公述人の方々に一言ごあいさつを申し上げます。
 本調査会は、平成十二年一月に設置され、日本国憲法について広範かつ総合的に調査を行ってきたところでございますが、本日は、「国民とともに議論する」という本調査会の基本方針を踏まえ、憲法のこれからの在り方を私たちはどのように考えるべきか、また憲法を生かすためには何が必要か、参議院の在り方なども含め公述人の方々から幅広く忌憚のない御意見をお述べいただき、本調査会の調査に役立ててまいりたいと存じますので、よろしくお願いをいたします。
 議事の進め方でございますが、まず公述人の方々からお一人十五分程度で順次御意見をお述べいただきまして、その後、各委員からの質疑にお答えをいただきます。
 なお、公述人、委員ともに御発言は着席のままで結構でございます。
 それでは、まず五十嵐公述人、お願いをいたします。
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五十嵐敬喜#2
○公述人(五十嵐敬喜君) 法政大学の五十嵐です。
 今日、時間が十五分というふうに限られておりますので、既に提出してありますレジュメに基づきまして簡単に日本国憲法改正に関する私の意見を申し上げたいと思います。よろしくお願いいたします。
 まず、憲法を改正するということは一体どういうことだろうかということでありますけれども、私自身は二つの方向から考えていきたいと思っております。
 一つは、日本の歴史の中で縦軸として今どういう地位にあるかを見るということです。本来なら憲法ですから聖徳太子から始まるんでしょうけれども、一応まあ近代という意味で、明治憲法、昭和憲法、もしこういう言い方が許されるんなら平成憲法を日本の歴史の中で考えていくというのが第一点であります。
 それから第二点は、日本は孤立して生きているわけでありませんので、世界との比較の中で世界の動向を見ながら、そのクロスする地点で憲法を考えていくという立場を取りたいということであります。
 そこで、今後、憲法改正というのは恐らく五十年とかそういう単位のことを考えるわけですけれども、日本が世界の中で五十年先どういう国になるんだろうかということを考えてみまして、私の大学院でちょっと調査をいたしました。しかし、すべての資料を見ても確実性というものは余りありませんで、人口とか資源などについてはある程度の数字は出てきますが、より主体的にどういう道を判断するのかということの方が五十年先、六十年先の将来展望としてはウエートが掛かっているというふうに調査の結果分かりました。
 しかし、なおその不確定な五十年、六十年先の中でも確実なことも幾つかありまして、憲法論に限って言いますと二つのことは確実に進化するだろうと予測されます。
 一つは、世界的にグローバリゼーションという波が世界を今後もずっと覆っていくだろうということです。このグローバリゼーションの中には、もちろん経済とか金融とか情報とか旅行とかということがありますけれども、もっと根源的に言いますと血の混交が始まるということです。つまり、生物学的な意味での血の混交も進化していくだろうということですね。
 もう一つは、それと反比例するかのように、より地域的なるもの、より個性的なるものが尊重されていくということです。より地域的なるもの、より個性的なものの代表例を挙げますと、一つは言語であります。もう一つは、歴史や文化というもの、あるいは宗教というようなものがより本質的不可欠なものとして追求されていくということであります。
 このグローバリゼーションと個性化の視点から日本国憲法を眺めますと、非常に大きな特徴があることが分かります。これは日本国憲法に限らず二十世紀につくられた世界各国の憲法の共通的な性質として、一国ナショナリズム、国というものを一つの単位として、その中で二つの方向から、つまり基本的人権と統治機構という二つの側面から様々なデッサンを行って、それが二十世紀の世界の近代的憲法法典として成立しているということだと思います。
 しかし、二十一世紀の憲法を考えるときに、その一国ナショナリズムを前提とした憲法体制というのはどういうことになるんだろうかということをより憲法学的に詰めていかなきゃいけないというのが私の考え方の原点であります。
 もっと具体的に言いますと、一国ナショナリズムの考え方の前提には国家主権というのがありまして、この国家主権を前提として統治機構と基本的人権を設計するという形になっています。しかし、グローバリゼーションとか地域の個性化というものはこの国家主権を限りなく解体していく、相対化していくという形にならざるを得ないというふうに思っています。
 グローバリゼーションの典型は最近のEU憲法でありますけれども、ここは一国ナショナリズムが持っていた主権というものを従来の国家を超える超国家というところに、最初は通貨発行権、二番目には外交権、場合によったら最終的には軍事権まで言わば主権移譲するということでありまして、国家の持っている主権の大方の部分が解体されていきます。
 一方、補完性の原理で有名なように、地域に近いところの決定権はできるだけ地域にゆだねるということがありまして、本来、国家が法律の制定等でやってきたことが徐々に地域の方に移されていくという意味で、そういう意味での国家の主権も、一方、地域の方に還元される。つまり、国家が真ん中にあったものが、より超国家の方とより地域の方に還元されていくということだろうというふうに思いまして、EU憲法にも既にそういう兆しが現れております。
 それで、これを前提として統治機構論と基本的人権論を考えますとどういう論点が生まれるかといいますと、多分、統治機構論は従来の国家主権論から徐々に国家政府論の方に移行していくだろうということです。つまり、政府の形はどういうふうにあるべきか。その政府というのは、中央政府、地方政府以外に、様々なところで自分たちの自己決定をする共同体の自己決定権が生まれてきて、場合によったら、それを政府と言ってもいいかもしれないという形で国家主権論、ある種の観念のドグマである国家主権論から政府機構論に移っていくというふうに思っております。
 もう一つ、人権論にも非常に大きな変動が生まれてくるだろうというふうに理解しております。
 一つは、従来の人権論は、一国ナショナリズムの下では国家主権というものを前提としておりまして、例えば言論の自由に見られますように、国家からの自由という形で国家との関係で基本的人権を考えています。あるいは二十五条の社会権などについては国家への自由ということが考えられております。あるいは参政権、投票権等を見ますと、これも国家への参加という形で考えておりまして、国家論中心人権論がつくられておりますけれども、既にヨーロッパ、EUの人権憲章などを見られると分かると思いますけれども、要するに国家を超えて人類普遍的なところに進んでいくという形が一方で見られると同時に、国家との関係を、もっと国家と協力して、国家と共同してというような形で人権論が構築されていく。私の言葉で言いますと、これ、第四の人権の形と言っておりますけれども、つまり国家との関係を超えて、あるいは国家との関係を協力し合ってつくっていく人権論へという形で進化していくのではないかというふうに私は考えております。
 つまり、国家論の相対的な解体現象の中で、従来の一国主権を前提とした物の考え方は、統治機構論で言いますと、より政府論に移る、それから人権論でいきますと、国家という呪縛から解放されていく、そういうコンテクストの中で二十一世紀日本の言わば平成憲法も考えていくべきではないかということです。
 レジュメに戻りまして、具体的に、ではどういうことを言いたいのかということを言いますと、第一番目には国民の直接決定権というものが非常に重要になる。つまり、国民主権は現憲法でも採用されておりますけれども、少なくとも地方自治体の地方自治法の規定などと比べますと国家に関する国民のかかわり方は非常に限定されております。憲法改正手続自体がそうでありますけれども、国民が直接国政に関与する直接民主主義型の参加権というものが非常に重要になってくるだろうと思います。EU憲法も既に採用しておりますし、イギリスでもアメリカでもこういう国民が直接政治に参加する兆候が増えております。
 この関係で見ますと、日本国憲法の憲法四十一条、つまり国権の最高機関であり、かつ唯一の立法機関であるという規定は果たしていかがなものだろうかと。あれは間接民主主義の論理の体系としては見事に完結した美しい規定でありますけれども、国民主権論から見ますとやや時代後れの感があるということであります。つまり、直接民主主義をまず前提に考えようというのが第一点であります。
 第二点は、政府論で考えますと、今の議院内閣、これはまあ非常にここでもたくさん論じられていますけれども、議院内閣制が将来、二十一世紀もずっとこれでいいものかどうかということの問題点、より根源的に言いますと、国民が何で自分たちのリーダーを選んではいけないのかと。つまり、大統領制も改めて考えるべきではないかということであります。大統領制など、つまり行政権限が国民に近くなりますとこれは暴走する可能性がありますので、それとの関係で現在の裁判所の機能というものももっと別な意味で強化しなければいけない。つまり、憲法裁判所の設置なども考えるべきであると。つまり国民主権論、直接民主主義をやればやるほど裁判所の機能ももっと重要になってくるということであります。
 それから、自治体の規定、ここが非常に現憲法では抽象的になっておりますが、もっと多様な設計図をかいてよろしいというふうに思います。現憲法によりますと、首長さんも議員さんも直接民主主義でありますけれども、首長さんは議院内閣制に変えてもいいですし、場合によったら議会のないいろんな政府をつくってもよろしいというふうに考えるべきではないかと。とりわけ、先ほど言いました地域性がより重視される時代になりますと、自治体の設計も、例えば東京都と沖縄の何とかの町が同じような設計図である必要は全くなくて、新たな多様な自治体の設計図をかいていいというふうに思います。ここも憲法と抵触してまいります。
 それから、人権論についていきますと、先ほど言いましたように、従来型の国家に対する関係で新しい権利が必要になってくるということですね。知る権利やらプライバシー権などもそうでありますけれども、もうちょっとこれを大きな、二十一世紀を見渡すような人権論を考えてもらいたいというふうに私は思っております。
 幾つか新しい問題点をここに列記しておきます。
 一つは、日本の二十一世紀は美しい都市をつくることを目指すべきであると思います。衣食住、既にある程度足りておりますけれども、やっぱり世界の先進国と比べて最もみすぼらしいのは都市の風景ではないかと私は思っています。各国憲法を見ますと、文化とか美しいというものについて、やっぱりちゃんとしなきゃいけないということをそれぞれが書いておりまして、そういう権利を考えるべきであるというふうに思います。
 それから二番目の論点は、宗教に対する態度が極めて日本の場合には窮屈であって、いろんな現象を見ますと、奇妙な取扱いになっているということです。私の宗教に対する考え方、地域の個性や文化を考える上で、何々教と限らず、地域的な、伝統的な神々を含めまして非常に重要であるというのが私の考え方でありまして、果たして現在のような厳格な宗教規定でいいのかどうか。むしろ、EU憲法などを考えまして、御承知のとおりEU憲法ではキリスト教そのものを憲法前文に入れるかどうかということで大論争ありましたけれども、あの意味は宗教が政治を支配するという意味じゃなくて、ヨーロッパのアイデンティティーを保つためにやっぱり宗教が必要であると。例えばヨーロッパでは、国の歌として、超国家の歌としてベートーベンの第九番の「歓喜の歌」というものをヨーロッパ全体の国の歌というふうにしたように、文化的価値、歴史的価値を、ポジションを取るためにその神々を考えたいというふうに言っておりまして、そこまでもう宗教への接近もできてきている。これをもうちょっと日本国憲法で考えられないかということです。
 それから三番目、生きる権利であります。これは一応、幸福追求権、十三条に書いてありますけれども、もう一つは、死ぬということに関してどう考えたらいいかというようなことなどについてもいろいろ憲法上考えるべきではないかと思っています。
 一つは、何といっても自殺が急増をしております。これが単なる社会現象の一つとして等閑視していいかどうかも非常に私は問題でありまして、憲法上も生きるということを考えるべきことではないかと思います。
 さらに、アメリカやヨーロッパなどの歴史を見ますと、安楽死や脳死、あるいはクローンなどに対する新しい生命観というものが問われているということですね。こういうことについて、衆参両議院における現在の憲法論議を見ますと、余り十分に論議されていないのではないかというふうな感じしまして、死ぬ権利の否定を含めまして、私自身は新しい技術、生命の命というものに対してアクセスをするべきではないかと思います。
 最後は、是非、憲法前文の中に、日本が世界と共存しながら生きていくための宣言として、持続的社会の形成ということを是非入れていただきたいというのが私の意見であります。
 時間が来ましたので、終わりにさせていただきます。
 どうもありがとうございました。
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関谷勝嗣#3
○会長(関谷勝嗣君) ありがとうございました。
 次に、小田公述人、お願いいたします。
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小田春人#4
○公述人(小田春人君) 岡山県議会議員の小田春人です。よろしくお願いします。
 参議院憲法調査会活動経過によると、今まで三回公聴会が開かれています。平成十二年一月に設置され、この春から夏にかけて最終報告をまとめられようとしている大詰めの現段階で、第四回目の公聴会で意見陳述できる機会を与えていただきましたこと、心より感謝しております。
 言論の自由が保障されている我が国ですが、わずか二十数年前でさえ、憲法改正論議、とりわけ第九条の改正論議をすることはタブー視される風潮がありました。衆参両議院の憲法調査会で本格的に議論され、各種世論調査でも六割以上が憲法改正賛成に変わったのは、歓迎すべきこととはいえ、正に隔世の感があります。
 私は昭和二十三年生まれで、いわゆる団塊の世代です。団塊の世代を昭和二十二年から二十五年までとすると、一千万人を超え、全人口の八%を占める大きな固まりであります。
 就学、就職、結婚、子育てのライフステージにおいて、経済を拡大し、社会をにぎやかにし、流行をつくってまいりました。一方、意識の面では、戦後民主主義教育の影響で、愛国心や日本の歴史、伝統、文化を大切にする心が相対的に薄い世代のように思います。
 立場はどうあれ、団塊の世代は、世代的に見てサイレントマジョリティーであってはなりませんし、より積極的に憲法論議に参加する意識を持つべきだと考えます。
 私は、団塊の世代に属する一個人として、憲法改正賛成の立場から陳述します。
 まず、教育問題について述べます。
 私たち日本人が憲法をどのように考えるかは、小学校、中学校、高等学校における憲法教育によって基礎付けられます。つまり、教科書の中での憲法に関する記述が憲法意識形成に相当の影響を与えると言っても差し支えありません。
 戦後教科書の変遷について調査すれば、興味深い結果が得られるかもしれません。今はとてもその時間的余裕がないので、現在使われている教科書について率直な私見を申し上げます。
 小学校は六年生の社会科で憲法を勉強します。平成十七年度から二十年度まで使用されるその社会科の教科書は五社発行しています。
 指導要領に、「日本国憲法は、国家の理想、天皇の地位、国民としての権利及び義務など国家や国民生活の基本を定めていること。」とあるように、基本的人権の尊重、国民主権、平和主義の三原則を中心に記述してあります。
 国民の権利、国民の義務については、いずれの教科書も分かりやすく図示して権利と義務を並列的に扱っています。国民としての義務を果たすことは基本的人権が尊重される社会をつくる上で大切なことですと、義務についての記述が見られる教科書もあります。しかしながら、公共の福祉に関しては全社、全く触れていないのはなぜでしょうか。この点は不満です。平和主義を特に強調しているものもありますが、全体として各社ともおおむねバランスが取れているとの印象を受けました。
 ところが、中学校となると大違いです。
 歴史的分野について指導要領が指摘しているのは大日本帝国憲法の制定のみなので、公民的分野の教科書を取り上げます。
 中学校は平成十七年度が採択年に当たります。したがって、平成十四年度から十七年度まで使用する教科書を対象とします。対象となるのは八社です。
 日本国憲法の制定過程について、政府は大日本帝国憲法を基に改正案を作成した。だが、連合国軍総司令部、GHQはこれを受け入れず、自ら一週間で憲法草案を作成した後、日本政府に受け入れるよう厳しく迫った。政府は英語原案を翻訳し、修正を加え、総司令部の強い指導の下に改正案を作成したと、歴史的事実に沿って記述しているのはわずか一社であります。政府は連合国総司令部の作成した原案を基に憲法改正案をつくりました、あるいは、連合国総司令部から民主主義を基本とする憲法案を示された。これを基につくられた改正案がといった表現で、大変重要な制定状況には触れず、意識的に無視しているとしか思えません。
 権利と義務に至っては、余りの極端さに形容の言葉もないくらいです。二十ページから最も長いのは三十ページにも及ぶ権利と義務の記述の中で、公共の福祉と義務はわずか一ページです。
 基本的人権については、歴史から始まってその内容、差別などの問題点、新しい人権まで、これでもかこれでもかというほど懇切丁寧に記述されています。義務については、国民の三大義務はこれですとわずか数行で、説明は全然ありません。ただし、さきの一社のみがここでも際立った違いを見せています。自由には責任や秩序、権利には義務が対置されていなければなりません。
 指導要領は、社会科の目標として「我が国の国土と歴史に対する理解と愛情を深め、公民としての基礎的教養を培い、国際社会に生きる民主的、平和的な国家・社会の形成者として必要な公民的資質の基礎を養う。」とうたっています。国家と国民を対立的にとらえ、殊更に権利の重要性を強調する教科書で学んで、公民的資質が養えるのでしょうか。私は深刻な危惧の念を持つものであります。
 高等学校では、現代社会か政治・経済で憲法を学ぶことになっています。指導要領上はほぼ同じと考えてよいと思います。
 現代社会は十二社十六種類、政治・経済は十一社十五種類と、多くの出版社から発行されています。使用年度は小学校と一緒で、平成十七年度から二十年度であります。
 岡山県の例で申し上げれば、小中学校は七つの採択区で、高等学校は各学校ごとに採択しています。
 高等学校についても、概観すればほぼ同じ傾向と言えます。日本国憲法の制定過程については、各社とも中学校と同じような記述です。権利と義務については、種類が多いだけに、中には義務の記述が全然ないものもあります。そして、人権の限界と関係して義務の問題がある。もっとも、義務というのは長い歴史を掛けて獲得してきた権利とは違って、憲法が定めなくても法律で定めればよい性格のものであると極論しているのもあります。
 松本健一氏は次のように言われています。
 「私」という字は、のぎへんに「ム」と書く、のぎへんは収穫物が実った状態を表しています。この収穫物に対して「ム」という形でひじを張ると「私」という字になる。ひじを張って収穫物を独り占めする状態が「私」なんです。これに対する自省、慎みとあるのが「公」という文字です。字を見ればすぐ分かるように、ひじを張って私が独り占めしている状態「ム」を「ハ」という形で開いている、あるいは背こうとしている「公」というのは、収穫物を独り占めするように争う状態を開いてゆく、そういう意味です。「公」は必ずしも国家だけではなく、世間でもあるし社会でもある。また共同体でもある。言わば「公」は社会の規範としてある。
 含蓄と説得力のある説明です。こうした「公」の精神を共有したいものであります。
 教科書における歴史教育は、様々な論議を醸してきました。平和主義は今回取り上げませんでした。無論問題ありであります。私はほんの片りんを申したわけでありますが、教科書における憲法教育ももっともっと問題にするべきではないでしょうか。
 櫻井よしこさんは、「憲法とはなにか」という本の中で、このように書かれております。
 第三章の権利及び義務の章を始めから終わりまで読んでみますと、権利、自由という言葉が各々十六回と九回出てくるのに対し、責任と義務は各々四回と三回しか登場しません。文言からも日本国憲法が権利と自由を強調し、責任と義務を相対的に軽視していることが見えてきます。学校や社会の崩壊の根本には、このような憲法のゆがみが影を落としているのではないでしょうか。
 日本国憲法制定後、六十年近くたった現在の日本は、当時とは想像も付かない姿に変貌しており、憲法と現実には抜き差しならぬほどの乖離が生じていると考えます。責任と義務を相対的に軽視している現法を、全体として見直し改正する必要があります。
 権利については、人格権、環境権、知る権利などの新しい権利や犯罪被害者の権利を入れるべきであり、義務については、国防の義務も聖域とせず議論の俎上にのせるべきです。
 教育については、私は現行の第二十六条のままでよいと考えていますが、第八十九条の私学助成に関しては疑義を生じないよう、できるようにした方がよいと思います。
 そして、急務の課題は、憲法と密接不可分のセットとなっている教育の憲法と言われる教育基本法の改正です。
 岡山県議会では、教育基本法の早期改正を求める意見書案を、私たち自由民主党県議団の提案により平成十五年二月、十二月及び十六年六月定例会の三回も可決しています。全国でも三十三都県が可決されています。
 平成十六年九月、日本世論調査会の教育に関する全国世論調査によると、基本法改正に五九%が賛成し、愛国心盛り込みも六六%が肯定しており、国民的コンセンサスもできつつあります。
 昨年に続き、今国会でも与党が早々と上程を見送ったのは誠に残念であります。早期の改正を特に期待するものです。
 次に、地方自治について述べます。
 当然のことながら、平成五年の衆参両議院における地方分権の推進に関する決議から本格的に始まった十年余りの地方分権推進の動きと実態を踏まえて、憲法上の地方自治の改正を考えていかねばなりません。
 平成八年、地方の行政権は内閣からは独立したものであると、内閣法制局長官の画期的な答弁がありました。国が地方独自の行政権を認めたわけですから、住民自治と団体自治を表していると一般に解釈されている地方自治の本旨を明確に改定する必要があります。その際、国は地方自治体の地域住民の意思を尊重して、地方自治は地方自治体及びその住民の自立と自己責任を原則とすると明記する考えに私も賛成です。
 従来、機関委任事務は都道府県事務の七割から八割、市町村事務の三割から四割を占め、言わば国の下請事務で、条例制定権も及びませんでした。国と地方自治体との関係は、上下、主従の関係から対等、協力の新しい関係に転換され、法定受託事務、自治事務すべてにわたって条例制定権が及ぶことになりました。外交、防衛、警察、司法制度等、国家の存立にかかわることはもちろん国の役割ですが、住民福祉の向上等、住民に身近な行政は地方自治体に任せるべきです。
 したがって、国と地方自治体の役割分担を憲法に明文化した方がよいと思います。現在、三位一体改革攻防の真っ最中ですが、地方自治体の財政は独自の自主財源を基礎にして健全に運営されなければならないといった地方財政に関する規定も入れたらどうでしょうか。
 最後に、住民投票について一言。
 特に、市町村合併の賛否を住民投票で問うケースが全国でありました。憲法は、代表制民主主義を基本にしており、直接民主主義は例外的に法定されているときにのみ認められるべきであります。混乱に拍車を掛ける場合もあり、住民投票は極力抑制的な運用が望ましいと思います。住民投票に頼るというのは議会に信用がない裏返しでもあり、根本的な地方議会の自立、自己責任が求められるのは言うまでもありません。
 以上をもちまして私の陳述を終わります。
 ありがとうございました。
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関谷勝嗣#5
○会長(関谷勝嗣君) ありがとうございました。
 次に、澤藤公述人、お願いいたします。
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澤藤統一郎#6
○公述人(澤藤統一郎君) 私は、弁護士として三十年余りの職業生活を送ってまいりました。その実務の経験を通して、現行日本国憲法は擁護すべきであり、改憲には強く反対するという見解を持っております。本日は、その立場から意見を申し上げます。
 私は、現行日本国憲法を人類の英知の結実と高く評価しています。もっとも、日本国憲法をこの上ない理想の憲法と考えているわけではありません。個人的に希望を述べれば際限はなく、細部に幾つかの不満を持ってはいます。国民一人一人が異なる国家観、社会観、人生観を持っている以上、国民の数だけ理想の憲法があり得ます。日本の国民全員が完全に満足する憲法を持つというわけにはまいりません。
 元々、憲法というものは国の骨格を定めるもので、肉付けは日々不断の努力を積み重ねていくことになるのだと思います。私が現行憲法に不満に思う諸点は肉付けの問題として十分にカバーできる範囲のものだと考えております。むしろ、憲法の細部にこだわり枝や葉に対する不満を是正しようとすることが、根や幹の部分の改正論議を後押しすることになりはしまいかと危惧せざるを得ません。現実的に考えれば、一国の実定憲法としてこれだけの内容を持った憲法があることは誠にすばらしいことだと思います。この優れた憲法を軽々に変えてはならない、そう考えております。
 現行憲法を優れていると考える根拠は、何よりも後れた現実を批判する道具として極めて有効だからです。憲法は規範ですから、常に現実と距離があります。現実の先にあって現実を批判し、現実が進むべき方向を指し示す、これが憲法の役割だと思っております。そのような規範として、現行憲法は誠に優れ物だと考えます。
 かつて、私は、ある地方銀行の女性行員に対する賃金差別裁判を担当したことがあります。この裁判で銀行側はこう言いました。男性が主たる家計の維持者であることは現実であり社会通念である、だから家族手当や世帯手当は男性には支給するが女性には必ずしも支給の必要はない、こう言い切りました。確かに、このような現実や社会通念があるのかもしれません。しかし、その後れた現実を批判するあるべき基準として憲法十四条があります。一審、二審とも女子行員が勝訴を得ました。そして、銀行の賃金規定も変わりました。まさしく、憲法が現実批判の道具としてその役割を果たし、現実をリードした分かりやすい事例です。このとき、私は憲法の役割を明瞭に認識しました。
 当然のことですが、人権も平和も民主主義も、憲法に書き込んであるからといって既に実現されているものではありません。理念と現実とは別物。実は、国民一人一人が憲法に明記された理念の実現に努力していくこと、言い換えれば現実を理念に近づけることが要請されています。そのような国民の行動や運動が伴って初めて憲法は意味のある存在になるのだと思います。
 理念と現実とのそごは至る所にあります。
 政教分離という確固たる憲法上の原則がありながら、首相や都知事による靖国神社への公式参拝は毎年反省なく続けられています。
 憲法十九条には思想・良心の自由が明記されているにもかかわらず、教育現場では日の丸・君が代の強制がまかり通っています。
 憲法には両性の平等がうたわれています。しかし、職場で家庭で教育の場で平等は実現されてはいません。むしろ、ジェンダーフリーという思想が激しく攻撃されている現実があります。
 政治的表現の自由は最も尊重されるべきであるにもかかわらず、イラク派兵反対のビラ入れが住居侵入ということで逮捕され、勾留され、起訴にまで至っています。マンションで政党のビラをまいたことがまた同様に弾圧の対象になっています。
 憲法では検閲が禁止されています。にもかかわらず、公共放送の幹部が与党の議員に事前に番組の内容を報告し、その議員の意向に添う形で番組の改変が行われたという醜悪な事実も明らかとなりました。これら本来あってはならない後れた現実をヤジ後でどうぞ御質問をお願いいたします。これら本来あってはならない後れた現実を批判する鋭利な道具として、憲法は更に研ぎ澄まされることが必要だと思います。
 今必要なのは、憲法を改正することではなく、憲法をより良く使いこなし、憲法の掲げる理念を実現することなのだと思います。今、声高に憲法改正の必要を唱えている人の多くは、憲法によって批判されるべき側の人々のように思えます。
 憲法の理念が現実を批判する道具として正常に作用しているかという観点から、特に平和の問題について申し上げたいと思います。
 現在の日本はアジア太平洋戦争における敗戦から再生しました。日本国憲法は、大日本帝国憲法が戦争を起こしたことの失敗をリアルに認識し、これを真摯に反省するところから生まれました。政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意して、恒久平和主義が憲法に明記されました。「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」というのが憲法九条二項です。これが改憲問題の焦点であることは、恐らく共通の認識であろうかと思います。
 恒久平和主義は、この地上から戦争をなくそうと努力を傾注してきた国際社会の良心と英知との終局の到達点だと考えます。
 ヨーロッパ社会に国際法ができて以来、聖戦論から無差別戦争観の時代を経て、侵略戦争違法論、戦争手段の違法化という大きな潮流が形成されてきます。
 第一次大戦後、国際連盟憲章ができ、不戦条約が締結され、さらに第二次大戦という戦争の惨禍を各国が経験した後に国際連合ができます。国際連合憲章は原則として戦争を違法化しましたが、例外を設けています。必ずしも戦争違法化の原則を貫いてはおりません。その後に日本国憲法ができ、恒久平和主義を採用いたしました。
 国連憲章と日本国憲法成立の間に何があったか。御存じのとおり、広島、長崎の悲劇です。核の恐ろしさを人類が知って、日本国憲法ができました。夢想された憲法ではなく、現実に第七十六帝国議会の議を経て帝国憲法の改正として日本国憲法が成立し、九条も採択されたのです。
 私は、人類の英知が一国の憲法に盛り込まれたものと考えます。人類史上の偉業と言ってもよいとまで考えます。これまで人類は憎悪と報復の悪循環の中で戦争を繰り返してまいりました。相手が軍備を増強するからには、こちらも軍備を拡大しなければならない。こちらは、備えあれば憂いなし、自国の軍備は防衛のためだと思っていても、相手国はそのようには取らない。あちらの国の軍備はこちらへの攻撃のためではないか、こちらも自衛のための軍備を拡充しなければならないとなります。
 お互いに、自分の国の軍隊は良い軍隊、よその軍隊は悪い軍隊、よその国は攻めてくる可能性がある、だからそれをうちの良い軍隊で防衛するという、こういう発想から抜けられないのです。お互い、相手国に勝る軍備を持たないと安心できない。この悪循環を断ち切るためには、軍備を持たないということが一番。憲法九条はこれを宣言しました。
 少なくとも日本はこれまで、専守防衛の姿勢をアピールして、軍備は抑制する方向にかじを切ってきたと思います。この人類の英知を投げ捨てて、普通の国に戻してしまおうということは誠に残念、人類史に対する裏切り行為ではないかと思います。
 私は、憲法ができて半世紀を経た今、理念としての恒久平和主義が妥当しない国際社会になってしまったのか、そのように国際社会は無法化してきたかと自問をしてみて、決してそうではないと考えます。むしろ、武力による平和、その試みの失敗、あるいはその無力があらわになってきているのが同時代史ではないでしょうか。パレスチナの悲惨、ベトナム戦争やイラク戦争、こういう失敗を見れば明らかではなかろうかと思います。
 憲法の理念と現実とは緊張関係にあります。理念を変えることは当然に現実をも変えることになります。これまでも九条二項の下で自衛隊が生まれ育ってきた、九条二項を削除したところで現実は変わらないという意見もあるようです。私は、これは楽観に過ぎると思います。
 九九年、百四十五国会は憲法受難国会と言うべきものでした。ここで、国旗・国歌法が成立しました。よく知られているとおり、国旗・国歌法は定義規定で、わずか二か条、国旗・国歌に対する国民の尊重義務は規定されていません。元東大学長だった文部大臣を始め、政府答弁では繰り返して、この法律によって事態は変わらない、国旗・国歌が強制されることはあり得ないと言われました。
 しかし、現実はどうでしょうか。二〇〇〇年の春から教育現場はがらりと変わりました。各地の教育委員会が卒業式、入学式での国旗・国歌の強制に乗り出し、ついには大量処分、そして法廷闘争、現在、裁判を行っている教職員は四百人に近いのです。ついには、園遊会で天皇に、日本じゅうの学校に国旗を揚げて国歌を斉唱させるというのが私の仕事でございますと話し掛けた教育委員まで現れたのです。
 私は、今、九条二項あってなおの自衛隊の存在だと思います。九条二項の歯止めを失えば、装備、人員、予算、作戦、いずれの面でも軍事が大手を振るう、そういう社会になることを恐れます。
 憲法九条あればこそ、集団的自衛権はまだ否定されています。海外での武力行使はまだできません。できることは、せいぜい武力行使とは一体とならない後方支援活動の範囲。これまで、自衛隊員が戦闘で人を殺したり、殺されたりしたこともありません。日本が紛争の火種となる時代もありません。私はこれは、九条二項の理念がまだ現実を批判しリードする機能を持っている証拠だと考えます。
 憲法典が、憲法典という法律があるからというだけではなく、国民の平和意識、国民の平和運動と結び付いて今これだけの事態があります。仮に九条、なかんずく二項が改正されるようなことになれば、つまりは理念を現実に押し戻せば、現実は更におかしなことになってしまう、これが私の危惧です。憲法九条、特に二項は守らなければならない、そう考えて陳述といたします。
 以上です。
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関谷勝嗣#7
○会長(関谷勝嗣君) 次に、森公述人、お願いいたします。
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森哲也#8
○公述人(森哲也君) 私は、化学をバックグラウンドとする弁理士でございますが、言論の府、良識の府であります当院憲法調査会で意見を述べる機会をいただき、大変名誉に存じ、御指名を有り難くお受けいたします。
 なお、私がこれから申し上げますことは、既に提出してありますところのレジュメと見出し等において表現の違いがあることをお許しください。
 さて、私は二つの観点から憲法を改正すべきであると考えております。
 一つは、一国民としての考えですが、平和主義の平和概念の認識を明確にし、それによって憲法第九条は全面改正されるべきこと、いま一つは、司馬遼太郎さんの文学的表現をおかりして申せば、この国の形として知的創造立国を憲法にうたうように改正があるべきことであります。これによって我が国は競争力国家として国際社会で雄飛できるものと確信いたします。
 まず、平和主義の平和概念の認識を明確にし、九条を論じてみます。
 すなわち、憲法前文は、我が国は恒久平和、絶対的意味の平和を理想とする宣言で、言わば政治的マニフェストないしは政治規範であると言えますので、その平和主義は、表現の当否は別といたしましてそのまま妥当するものと考えております。
 他方で、第九条は、戦争の全面放棄をうたい、前文の理想的な恒久平和あるいは絶対的意味の平和概念に依拠するもののごとくであります。
 そうなりますと、この第九条は、現実の社会に適用される裁判規範ではなく、前文と同様に政治的マニフェストないし政治規範と言わなければならないと思うのであります。なぜならば、現実の社会には恒久平和などというものはなく、戦争と戦争との間の平穏な状態というような、相対的、現実的意味の平和しか存在しないことは明らかでありますところ、厳然たる軍備、戦力である自衛隊の存在が第九条の裁判規範性にとどめを刺すからであります。
 第九条が政治的マニフェストないし政治規範だとすれば、法的意味の憲法違反の問題は生じることなく、厳然たる軍備、戦力である自衛隊の存在についても同様の結論となります。このように考えますと、我が国が実は戦争の全面放棄はしていないこと、厳然たる軍備、戦力の存在について、裁判規範としての憲法上の認知が必要になりましょう。
 私は、誠に素人考えではあるんですが、侵略戦争を抑止するだけの一国防衛の個別的自衛ないし集団的自衛の権利を認め国際の平和のために軍備を加盟国に義務付けている国連憲章と、これに対応する内容を持つ日米のいわゆる六〇年安保条約とを最高法規の章の第九十八条第二項、条約の誠実遵守義務経由で国内法化していること、つまりトランスフォーメーションの法理によるのが一番すっきりして納得がいく認知だと考えるのであります。このことは、ハンス・ケルゼンやハンス・モーゲンソーの言う国際法の有効性の担保である執行力を主権国家に分権していることだと思うのであります。
 このような国際法上の義務を果たすために、第九条でうたわれている戦争の放棄は、我が国が相対的、現実的意味の平和を具体的に追求できるよう、また明確に侵略戦争だけの放棄の形となるよう、さらに、軍備は安全保障上、侵略には用いない抑止力として保持できるものとなればよいと考えます。それには、第九条は現実に合わせ全面的に改正し、文民優位の原則、軍の統帥、編成、非常事態の宣言、軍法会議、国会との関係を正面から規定して、国家の超法規的軍事行動や旧軍の過ちの繰り返しが防止できるようにすべきであります。
 次に、知的財産の仕事をしている弁理士として、憲法に知的創造立国をうたうべきことを提言いたします。
 この知的創造立国の歴史は意外に古いのであります。一三三一年、英国はエドワード三世王が競争政策としてフランダースの織物職人ケンプに特許状を与えました。これによって、英国は羊毛の輸出国から付加価値のある織物の輸出国に変身していくのであります。
 一八八三年、明治十六年に締結された産業財産の保護に関するパリ同盟条約は、発明、意匠、商標、原産地表示などの知的財産の保護を目的として成立し、二〇〇二年では百二十六か国の加盟となっております。我が国は、一連の不平等条約解消の外交交渉の中でこの条約の加盟が要求され、明治三十二年に加盟したのであります。自来、特許制度の整備、改革が続き、偉大なる発明が生まれ、科学技術立国の礎が築かれました。
 一八八六年、明治十九年にスイスのベルヌで締結された文学的及び美術的著作物の保護に関するベルヌ条約は、知的財産の一つである著作物の保護を目的として成立し、一九九八年で百三十か国の加盟となっております。我が国は、やはり一連の不平等条約解消の外交交渉の中でこの条約の加盟が要求され、明治三十二年に加盟したのであります。自来、我が国は著作物の保護のための法整備が続けられ、今日の著作権大国となることができました。
 次に、知的財産権と市場との関係を多少原理主義者的に御説明を申し上げます。
 今、国際社会では情報が高速化し、規制、障壁要因が改革、解消されたグローバル市場に向かっております。そこではアナロガスに完全市場モデルが想定され、それは競争には何でもありの世界であります。
 我が国の失われた十年を振り返ってみますと、規制改革を進めながら、デフレーションと経済の不活性とに悩まされた十年間ではありました。それは物理的に必然性があったのであります。固体の最適化と系の予定調和で、これがアダム・スミスの見えざる手だと考えます。規制緩和でより自由となった市場は、特に創意工夫をした新規創業者が出て、一時的に活性化いたします。
 しかし、市場への先行参入者がいれば、これをキャッチアップする者が出てまいります。キャッチアップする者は創意工夫に投資した先行参入者よりコストが低く、より低価格で商品やサービスを提供することができます。
 ここに価格競争の連鎖が起こり、ついには利益の出ないところまで価格は下落するのであります。そこで、先行参入のメリットがないことが分かって、市場の失敗という膠着状態が起こります。これは、活性を失った市場から脱却できなくなる現象であります。
 そこで、一定の範囲で一定の期間、創意工夫の独占を許す知的財産権が作用いたしますと、創意工夫をした先行参入者の利益は確保され、膠着状態は解消して市場は再び活性化するのであります。
 そして、以後、キャッチアップする、キャッチアップ型の行動者は知的財産権によって抑止され、かかる経済行動による価格競争の連鎖は断たれることになります。
 一九九五年に成立したWTOは、TRIPsにより、そのような創意工夫を知的財産として保護することをグローバル市場のルールといたしました。幸いにも、我が国が他国に比し、すぐれてこのルールに合致していることを、国民の知的創造力、伝統文化、科学技術のレベルの高さが示しております。
 そこで、我が国は、平成十二年にこのWTOルールの国際戦略化とし、制度の改革、強化をしつつあります。けだし、時宜を得た政策でありました。
 とりわけ、特許制度の運用は、産業政策という性格と条約上の義務があることから政府が行政として自ら行うべきものであり、それを所管する特許庁はアジアを視野に入れて戦略的に強化拡充され、これを野にあって支える知的財産専門家制度の弁理士制度も強化拡充されるべきであります。
 しかし、この知的財産の保護は時の政権の政策に終わってはなりません。なぜならば、今申し上げた市場原理、国際社会の動き、資源の少ない我が国の事情、そして何よりも、知的創造力に優れた国民性にかんがみれば、それは国家百年の大計であるべきです。
 したがって、知的創造立国を憲法にうたい、我が国が国民の頭脳を競争力の資源とすることで国益を守り、国を発展させ、世界に富をもたらす国であることを内外に示すべきでありましょう。
 三浦朱門博士会長の民間憲法臨調は、知的創造に関する新しい権利を憲法にと提言しておられますし、私が会長をしております日本弁理士政治連盟も、今月の八日に結成三十周年記念祝賀会を行った際に、知的財産の創造、保護、活用を憲法にと提言させていただきました。
 それでは、具体的にどのようにすればよいのかと申せば、前文に知的創造立国を、財産権の規定に知的財産権を、教育を受ける権利の規定に知的創造教育を、内閣の職務の規定に知的創造施策を、司法においては専門裁判所の位置付けをそれぞれ明確にうたうのであります。
 なお、世界には知的財産関係の規定を有する憲法は、米国を始め少なくとも四十八か国ございます。
 以上で私の公述を終わらせていただきます。
 ありがとうございました。
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関谷勝嗣#9
○会長(関谷勝嗣君) 以上で公述人の方々の御意見の陳述は終わりました。
 この際、十分程度休憩をいたします。
   午前十時二十九分休憩
     ─────・─────
   午前十時四十分開会
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関谷勝嗣#10
○会長(関谷勝嗣君) ただいまから憲法調査会公聴会を再開いたします。
 休憩前に引き続き、日本国憲法に関する調査を議題といたします。
 これより公述人に対する質疑に入ります。
 質疑のある方は順次御発言願います。
 なお、質疑の際は、最初にどなたに対する質問かお述べください。また、時間が限られておりますので、質疑、答弁とも簡潔にお願いをいたします。
 若林正俊君。
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若林正俊#11
○若林正俊君 自由民主党の若林正俊でございます。
 公述人の方々には、お忙しい中をわざわざお時間をいただいてありがとうございました。
 先ほどそれぞれのお立場から憲法についての認識、そしてまた改正についての考え方、お話を伺いました。そこで逐次御質問を申し上げたいと思います。
 まず、五十嵐先生にお伺いいたしたいと思います。
 世界が大きく動いており、そして国家というものの領域を超えて一方はグローバリズムが進んでいく。一方、国家の内部においてもそれぞれの個の考え方が強くなってきて、まあ言ってみれば国家が、今までの国家というのは解体していくというような基本的な認識をお持ちでございます。
 歴史認識としてこれからの五十年、百年を展望して、大きく世界が変わっていき、世界の中の日本の位置付けも変わっていくでありましょう。日本もそれぞれの社会経済の変化によって大きく変わっていくということについてはそのとおりだと私も思いますけれども、しかしこのことを、今我々が議論しています憲法改正の中において、今のような認識を先生と共有するわけにはいかないなというふうに考えております。予見し得る将来にわたって、やはり国家というものの存在というものはますますその役割が強化されていくのではないかというふうに私は思っております。
 その意味で、新しい憲法を考えるに当たりまして、国民的論議を経て、国民の合意の下に新しい憲法が制定されるべきであるという、そういう御認識について共有しながらも、国家の位置付けについては考え方が違うということをまず申し上げながら、あるべき憲法改正論というお話の中で、国民の直接参加、直接民主主義の手法というものをやはり評価をして導入しなきゃならないと、こういうことを御指摘されていることについて、私も何らかの形で重要事項について国民の直接参加の手法というものを考えなければいけないんではないかというふうに思っておりますが、この点について少し具体的に何かお考えがありましたらお聞かせいただきたいと思います。
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関谷勝嗣#12
○会長(関谷勝嗣君) 五十嵐公述人、お願いいたします。
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五十嵐敬喜#13
○公述人(五十嵐敬喜君) 今二点の質問かと思います。
 一つは、国家論の射程距離といいますか、有用性とかそういうことではないかと思いますが、憲法史を勉強いたしますと、この国家論というものが非常にピークに達するのが実は明治憲法のときであります。特に伊藤博文さんを中心としまして、ヨーロッパのプロイセン憲法の、特にベルリン大学の経由の国家学というものを経由いたしまして、これを日本的に置き換えて明治憲法にいたしました。国家学の前提としまして、天皇、神聖なる天皇とありまして、この大権が隅々を支配するという構成になっています。昭和憲法のときにはこれが少し薄まりまして、国家学、国家主権よりも国民主権論の方に移動いたしましたけれども、ちょうど過渡期にある憲法がちょうど天皇象徴になっているというふうに私は理解しております。
 今後更に五十年考えるときに、国家論として何を想定し、何を考えていくのかということをずっと勉強してまいりましたけれども、具体的に国家主権論とは何かといいますと、やっぱり究極的には通貨発行権とか外交権とか軍事権というようなものが国家主権の内容と言われています。
 しかし、一方では、この国家主権がどんどんとEUを見ますと移譲されております。さらに、日本国憲法の論議の際でも、例えば軍事権について、国連との関係などを見ますと、軍事権に関する主権の一部の移譲といいますか委託といいますか、協力関係といいますか、しかしそこも離れていくということですね。すると、具体的に今後、国家論として何が残るんだろうかということを見ますと、何か明治憲法以来の抽象的な、ある種のレトリック、ある種の観念論をやっているような気がいたします。
 是非、この論争は詰めていただきたいと思います。そのときには是非、国家主権というものの内容というのは一体何なのかということを詰めていただければと思います。私は、国家学よりもやっぱり政府論に移るべきであるというのが、私の言った、先ほどのとおりであります。
 二番目は、国民主権と直接民主主義の関係であります。
 今日ここで、わずかな時間でこのことをすべて言い切ることはもちろんできませんが、世界人類史的にやっぱり二千年ぐらいの単位で変動が始まっていると私は見ております。御承知のとおり、議会というのがあのジョン・ロック以来定立されました近代政治学あるいは近代憲法学の前提になっていますけれども、議会というのは果たして今後も有用かと、これは皆さん方の直接かかわる問題でありますけれども、少しクエスチョンマークが付いてきました。
 それは何かといいますと、議会でなければやれないことというのは何であったのかということに関しまして、非常にせんじ詰めてざっくり言いますと、二つ特色があるというふうに言われています。
 一つは、選ばれた者と選ばれた側の関係を見るとどちらが優位かということを見ますと、ずっと、やっぱり複数の人から支持されるという意味で、選ばれた側の方が賢明であると。だから、政治はやっぱり賢明な人に任せた方がいいということが一つであります。もう一つは、直接民主主義にいたしますといろいろ議論ができない、人数が大き過ぎて議論ができないので、議場という言わばある種の閉ざされた空間を持つべきである。この二つが、議会というものの絶対的な、本質的な要素として、四百年ぐらい続いてきた大きな理由であります。
 しかし、その二つとも正しいかといいますと、やや、やっぱり率直に言って疑問があります。選ばれた者と選ばれる側との関係で常に絶えず選ばれた側が賢明であるかというと、どうもそうではない可能性も大きいということであります。それから、技術の発達が議場という閉鎖空間を必要としなくなりました。そうすると、議会の存立根拠は一体何かの、かなり根底的な本質的な根拠が薄れてまいります。
 やっぱり一番重要なことは、国民が主権者であるということは、国民が一人一人、選挙のときだけでなく、大事のときにはこれを具体的に決めていいというものが国民主権の本質、ルソー以来国民の立法権というのがありまして、この立法権、国民の立法権が本質的なことというふうに言われておりまして、ここをもう一度考えてみるべきだろうというふうに思います。
 具体的にはどうかといいますと、EU憲法がここでも非常に参考になりますけれども、EUの場合には、百万人、EU市民百万人の署名が集まりますと直接国民はヨーロッパ議会に対しまして議案を提案することができます。議案が提案された後の処理については、否決された場合はどうするか、可決された場合はどうするかについていろいろテクニックありますけれども、そういう形で議案を提案することができるというふうになっております。
 もちろん、地方自治法レベルではこれはできておりますけれども、実は国会についてはこれができておりません。せいぜいやるとすれば請願か陳情でありまして、正式に議案とはなりません。まず一つはそういうことであります。
 それから、地方自治レベルで認められる様々な住民投票がいろんな形で行われてきておりまして、国家の重要案件にかかわるものについては場合によったら国民投票をしてもよろしいということがいろんな国家の憲法に見られるようになりました。具体的に国家の重要事項について国会が発議してこれを国民投票にかけようということがあってもいいだろうと私は思っております。特に、近代政治でいいますと、政党政治を超える問題というのがたくさん出てきております。例えば、先ほど申し上げました安楽死をどうするかとか脳死をどうするかというようなことについて言えば、これは政党政治等を超えて国民全体で議論をすべきものでありまして、こういうものについては例えば国民投票にかけてみようという意味での民主主義的な実験をやるべきだと思いますけれども、現在のところ日本国憲法は、これは窒息状態であります。
 それから、先ほど言いました憲法四十一条の関係で、憲法で認める二つの国民投票以外については法的効力は認められません。しかし、地方自治体で行われている住民投票の結果などを見ますと、ある種の法的拘束力を認めてもいいという事例がたくさん出てきていると思います。
 これは日本だけの状況でありますけれども、先ほど言いましたEUとかアメリカなどを見ますと、やっぱり政治が徐々に二千年前のギリシャに戻ってきておりまして、正に国民主権というものが非常に重要視されてきているということです。
 もう一つだけ、一点だけ付加しますと、日本の場合には、特に昭和憲法の本質的な問題点として、官僚支配ということが日本の現実の政治の非常に大きな政治的論点としてあると思っております。
 この官僚支配に対抗するのに、従来のような言わば三権分立の枠組みで本当に官僚主権に対して対抗できるかどうかとなりますと、必ずしも十分でない。十分でない結果が今日のある種の官僚支配を許していると思います。官僚支配に対する最も有効な対抗軸はやっぱり国民主権があるし、この点からも国民主権論としての直接民主、国民投票法案というものを考えるべきだし、それに抵触する憲法の規定は訂正すべきであるというのが私の考え方であります。
 以上です。
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若林正俊#14
○若林正俊君 ありがとうございました。
 次に、小田公述人に御質問をしたいと思います。
 憲法教育の問題について大変詳しく事実に即して、教科書を中心にお述べになられました。非常に参考になりました。憲法教育が小学校段階、中学段階、高等学校段階、それぞれの段階に応じて憲法教育というものが正しくきちっと行われなければならないということについては全く認識を共有するものでございます。
 そこで、もう一つお触れになりました国と地方公共団体の役割の関係、地方自治の関係についてでございます。現行憲法で地方自治に対する規定が大変弱いというふうに私も思っております。地方自治に関する規定が抽象的過ぎて簡潔過ぎるという御見解については私も同感でございます。
 そこでお伺いをしたいんですけれども、地方自治体、地方自治体というふうに一くくりで、憲法の上でも地方自治を一くくりにしておりますし、公述人のお話の中でも地方自治体というものを一つのものとして考えていろいろ論述されましたけれども、現実には都道府県と市町村があるわけであります。憲法で規定する場合の、地方自治の原則、原理という場合の基礎的自治体というのはどのように考えておられますか。
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小田春人#15
○公述人(小田春人君) ちょっと最後のこと、ちょっとよく分からなかったんですが、一番最後のときに何自治体というふうにおっしゃったんですか。
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若林正俊#16
○若林正俊君 基礎的自治体と。
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小田春人#17
○公述人(小田春人君) 基礎的自治体ですね。
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若林正俊#18
○若林正俊君 はい。つまり、都道府県と市町村、さらには市町村以外にも地方自治の原点たる地方公共団体というのはあり得るわけですけれども、憲法で国と対置して考えていき、その基礎的自治体の、つまり自治体の位置付けというのを明らかにする場合、その場合の基礎的自治体というのはどのようにお考えなのか。
 私は、実は基礎的自治体は市町村だと考えておりまして、地方自治の本旨というものをきちっと規定する場合の主体は市町村を対象に考えていくべきだというふうに考えているんです。都道府県というのは中間段階にありまして、言ってみれば市町村の連合体のような形に組み立てていかざるを得ないんではないかと。そういう意味で、都道府県に市町村と同じような意味で地方自治体の自治権とか、それを、独立して自立的に都道府県に地方自治体としての権能を付与することについてやや疑問を感じておるもんですから御質問をいたしました。
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小田春人#19
○公述人(小田春人君) 先ほど私も基礎的自治体について市町村と都道府県という形で分けては申し上げませんでしたが、私は、今先生おっしゃったように、基本的には、市町村合併が進んでおりますし、岡山県でも、いろんな方式ありますが、これから権限ともに市町村へ岡山県独自に権限移譲していこうという時代でありますから、市町村というのが一番基礎的な自治体だと思っています。
 それから、これからは都道府県の道州制、あるいはいろんな考え方があるわけですが、私は道州制に行くべきだろうと思っています。
 例えば、中国地方で現在市町村というのは、合併が進む前は三百三十ぐらいございました。ところが、今進んでいる中で、岡山県は七十八が三十四になって、来年には三十を切るぐらいになると思いますが、中国地方でも合併の各県がつくりましたパターンによりますと三百三十が百以下になると。こういうときに、果たして県の在り方はどうかなということもありますから、基本的にはこれから先は基礎的自治体は市町村を念頭に置いてやっていくべきだと思いますし、道州制を将来は、道州制によって、道州制と市町村と、市町村というよりも市や町と言った方がいいと思いますけれども、そういうふうに行った方がいいというふうに思っております。
 以上です。
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若林正俊#20
○若林正俊君 この憲法改正に当たりまして、地方自治の部分にどのような国と自治体、地方自治体との関係、自治体相互間の関係、自治体相互間という意味は、今ある都道府県、今お話しになりました将来の道州制といったようなことを念頭に置きましたそういう相互間の関係、それから首長と議会との関係。それらについても、これから地方分権を強力に進めていくという方向を考えました場合に、憲法上これらを明確に規定しておくべきではないかというふうに考えておりますが、いろいろお伺いしたいことはありますが、時間もなくなってまいりましたので、申し訳ございませんが先に進ませていただきたいと思います。
 澤藤公述人に申し上げたいと思います。
 実は、先ほどのお話の最中に、我々議員の中からやや不規則な発言がありましたことについておわびしなければならないと思います。
 ただ、澤藤さんのお話は、おっしゃっておられることは、そのような御意見を持っておられるグループの代表的な意見だとお伺いいたしました。これらのグループの御意見というのは、大体判で押したように同じような認識で、同じようなことをおっしゃっておられますので、我々もいろんなところでお聞きしておりますから、お話しになりましたことについて御質問はいたしません。意見も申し上げません。
 ただ、基本的な認識が違っていると大変かみ合わない話でございますが、一つお願い申し上げますと、いろんなことをお話しの際に、事実について、客観的なその事実認識は主観を交えずにおっしゃっていただきたいと。例えば、NHKの報道との関係などについては事実認識を異にいたしておりますので、その事実に基づいてお話をいただきたいと思います。
 一点だけ、もう時間が参りましたのでお聞きしたいと思いますが、例えば北朝鮮の核武装をしたんだというような発言ございましたが、北朝鮮との関係を日本国の防衛と平和と安全を守るという観点から、北朝鮮についてどのようにお考えですか。
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澤藤統一郎#21
○公述人(澤藤統一郎君) 済みません。二点の問題としてちょっと答えさせていただきたいんですが、最初のNHKの問題ですけれども、私は、民主主義の政治というのはこれは世論による政治である、世論の形成に決定的な影響を持つものはこれは報道とそして教育である、報道と教育には権力的な介入は許されない、これが基本的認識で、憲法改正問題などを考えるときにはこの点に留意していただきたいと思います。事実を確認しなければいけないということはおっしゃるとおりで、私は私なりに両方、三者のあるいは四者の意見の相違のないところで、つまり意見の食い違いがあるところは捨象して、意見、今のところ一致しているところを土台にしてお話を申し上げたつもりです。それで、ヤジはい、分かりました。
 それから、北朝鮮の問題について、私は言及しませんでしたが、御質問がありましたので私なりの見解をお話しさしていただきたいと思いますけれども、私は、北朝鮮の体制ということについては大変奇異な体制だと、不自然なものだというふうに考えております。しかし、だからといって内政不干渉の原則は、これはこれで一つの大原則だというふうに考えております。
 私は前には中国に大変関心を持っていたものですけれども、中国が一九六六年から七六年まで文化大革命というこれも大変不自然な体制がありましたけれども、これに対して周りの国が開放・改革を促すような、そういう措置をとったことが極めて適切であって、現在は私は中国の状態は大変適切だというふうに考えております。
 北朝鮮にも同じような対応をすべきでないかというのが私の基本的な考え方、北朝鮮が改革・開放の路線を取れば今のあの大変不自然な体制というのがもつまいというふうに考えております。それを超えた過剰な反応は私は基本的には得策ではないというふうに思っております。
 手短ですが、そういう意見を申し上げます。
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関谷勝嗣#22
○会長(関谷勝嗣君) 若林正俊君の時間は過ぎましたので。
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若林正俊#23
○若林正俊君 はい。ちょっと一言。
 北朝鮮の問題については国民の大多数の人が大変に不安を持っております。そういう国民の不安を解消するための方策というものを政府、国家として持たなければならないということを一言申し添えておきたいと思います。
 森公述人には、本当に申し訳ございません。お時間がなくなりました。ただ、平和主義、安全保障、そしてこの抑止力についての基本的な認識は全く同感でございまして、共有いたしております。おっしゃっておられることについても理解をさせていただきました。
 権利としての知的財産権については、何か憲法にどこまで書くかという問題があるんですけれども、宣言的な意味合いで何らかの知的財産権を尊重していくというか推進していくということについて触れていってはどうかというのは、党内にもそういう意見がございます。参考にさしていただきたいと思いますが、ただ、この新しい権利の関係は、書けば書くほど、その書いてないものはどうするんだといったような問題に深くかかわってくるものですから、新しい権利として、知的財産権、決して新しい権利じゃないものですから、この触れ方は非常に難しいなというふうに感じました。
 感想だけ申し上げさしていただいて、終わりたいと思います。
 どうもありがとうございました。
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関谷勝嗣#24
○会長(関谷勝嗣君) 次に、若林秀樹君。
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若林秀樹#25
○若林秀樹君 民主党の若林秀樹と申します。
 まず、五十嵐公述人にお伺いしたいと思います。
 先ほどの質問とちょっと関係があるんですが、国民主権という問題について伺いたいと思います。
 憲法が制定されて約六十年近くたって、なかなかそれが、国民の、ともにこれまで活用されてこなかったんではないか、やっぱり置き去りにされてきたんではないかという問題意識もありまして、なかなかこれが本当に使いこなされた憲法なのかということに対するある問題提起でありまして、その意味において、国民主権というものがなかなか体現できないというんでしょうか、感じられないということが、恐らく国民も思っているんだろうなというふうに思います。
 確かに、憲法には国民主権、基本的人権、様々なことが書いてはあるんでありますけれど、一方、それが体現できてないということにおいて、先ほどはそれを補完するものとして直接民主主義というものを入れたらどうかというお話もありましたが、それを除いたときに、憲法の構成として何か問題があるのか、あるいはこれからの憲法を論じるときに国民主権ということを入れるのならどういう在り方が望ましいのかということについて、簡潔にちょっとお答えいただきたいと思います。
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五十嵐敬喜#26
○公述人(五十嵐敬喜君) 直截な回答になるかどうか分かりませんけれども、憲法を考えるときに何を考えたかということをずっと見ますと、明治の用語で言いますと、国家の基軸とは何かということをずっと考えるんです。昭和の場合は、ちょっと忙しかったんですけれども、やっぱり民主主義、当時は国家の基軸とは何かについてやっぱり天皇というのが考えだったんだということですね。戦後、昭和憲法でやっぱり国家の基軸の一つとして国民主権とか民主主義とかということを考えたということだと思うんです。
 今の質問でいきますと、これが実質化したかどうかということですが、いろんな言い方があると思いますけれども、やはり率直に大学で授業などをしながら含めて言いますと、必ずしもアメリカのような、国民一人一人が全部人権とか統治の構造を分かっていて、ある種の選択をし、生きていくということとはちょっと遠いなというふうに思うんですね。しかし、今後五十年、百年間は、これが絶えず問われる。やっぱり国家の力量、もし国家というものがあるとすれば、国家の力量は一人一人の国民の人々の総体だと思うんですね。
 なぜ、その国民主権が現実化しなかったこの大きな原因として、やっぱり、ちょっと先ほど言いましたけれども、全部官僚さんにゆだねておくと、少なくともここまでは余り大きな過ちはなかったということで、ややお任せ民主主義といいますか、だれかにゆだねた民主主義をずっとやってきたんだ、それで平和が保てたんだと思うんです。
 しかし、今後はそうならなくなりまして、いよいよ自分たちで自己決定しなきゃいけない、非常に大きな概念、自己決定しなきゃいけないと思うんです。自己決定が問われる。地域的に問われるし、世界的に問われる。そうなったときに日本国民は十分にちゃんとした回答をしていくだろうというふうに、ただその手続がない。その手続は憲法がやや閉じ込めているので、その手続を開放してくださいというのが私の二十一世紀の国民主権論のその憲法論なんです。
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若林秀樹#27
○若林秀樹君 ありがとうございます。
 次に、小田公述人にお伺いしたいと思います。
 先ほど五十嵐公述人の方から、地方自治の在り方という意味ではもう少し多様な自治体があってもいいんではないか、その設計図を、いろんな在り方があってもいいんではないかというお話がありました。非常に私も興味深く聞かさせていただいたところでございます。
 今、市町村合併が進んで、その地方自治がどうあるべきかというか、問われてはいるんですが、非常にある意味では、効率という言葉を前提にやっぱり画一的な自治が進みつつあるんではないか。そのアンチテーゼとしてもっとやっぱり多様な自治があってもいいんではないかということを考えますと、選ばれた側が賢明だというお話もありましたが、小田公述人の立場では様々な在り方はあるべきだということの言うことの難しさはあると思うんですが、例えば、青空議会的に、せっかくサッカー場をあれだけ造ったんだったら、たまに、年に一度は集まってそういう議論をして、あるいは直接投票を入れるとか、やっぱり補完する在り方とか、様々な地方自治の在り方があってもいいんではないかなと思いますが、その辺について、今の地方分権の流れの中で、このことについてどうお考えになるかお伺いしたいと思います。
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小田春人#28
○公述人(小田春人君) 機関委任事務から法定受託事務と自治事務に変わりまして、すべてにわたって原則的に条例制定権が及ぶようになりました。
 そういったことを受けて、全国的に都道府県議会でも、今までは議会提案の政策条例というのはほとんどなかったんですが、それをやろうという。これは一つの大きな執行部に対しての提案ができるという大きい権能を与えていただいたわけでありますし、そういったことを生かしていって、岡山県でも中山間に関する基本条例、あるいはまた、今も長期計画やあるいは中期計画、そういった基本的な計画に対して議会の承認を得るということで、この二月議会でも今準備を進めておりますが、そういった議会が今までにないやり方をする。その議会としてやっていく、与えられた権能をいかに生かしていくかという、青空議会というのもそうだろうと思いますし、それからもう一つは、私は議員個人がどのようにやるかということがあると思います。
 私も代表質問、一般質問、全国で議会で例が、原則は違うんですが、ずっと毎回質問、毎回傍聴をさせていただきまして、今まで五十二回やらしていただいております。やっておりますが、質問自体は個人の努力でできますけれども、毎回傍聴、毎回、少ないときでも三十人から四十人、多いときは百人ぐらい地元から傍聴に来てもらいまして、一回議会に傍聴に来られますと皆さん認識が変わります。延べでいいますと有権者の十分の一ぐらいの方に地元から毎回バスで来ていただいておりますけれども、そういった議員個人の、地元での県政報告会とかいうのはどなたもやられますけれども、そういった工夫をしながらやっていく。言わば、スキャンダルではなくて茶の間で政治を語る、地域を語る、これからどうなっていくんだろうかというような、そういう政治の空気といいますか風土といいますか、そういったものをつくっていく。それは議会全体として、あるいは県議会も会派で大体やっていますから国会と一緒ですけれども、会派あるいは県議会全体、まあ今はCATV等で議会の代表質問、一般質問、岡山県もほとんど流しておりますが、そういうふうに議会全体で取り組むこと、会派で取り組むこと、個人で取り組むこと、そういった中で地方自治も変えていけるんではないかなと、変わっていかなきゃいけないと、そういうふうに思っております。
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若林秀樹#29
○若林秀樹君 ありがとうございます。
 続きまして、澤藤公述人に憲法九条についてお伺いしたいと思います。
 平和をどう定義するかということが非常に重要だと思いますが、戦争がない状態であるということを定義すれば、それをつくり上げ、それを維持するということは相当な努力がやっぱり必要ではないかなというふうに思っておるところです。
 憲法九条は、私はやはりあの戦後の中で国際社会に復帰するパスポートとしての役割としてあの二項がどうしてもやっぱり必要だったんだろうというふうに思います。そのときには、やっぱり吉田茂首相等の発言を聞きますと、自衛としての武力行使もしないんだぐらいの議論をしているわけでありますが、この六十年間の変化で大分この安全保障に対する国民の意識もやっぱり変わってきたと。
 先ほど二項は残すべきだというお話がありました。その中で、自然権としての個別的自衛権を認めるんであれば、それに必要な武力を行使できる軍というものを、自衛隊というものをきちっとやっぱり明記することも逆に必要ではないか、そのことが国内外から理解されやすいやっぱり憲法になるんではないかなというふうに思いますが、普通の国民が読んで理解できるという意味において私は変えてもいいんではないかなという感じはしますが、その辺はいかがでしょうか。
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