澤藤統一郎の発言 (憲法調査会公聴会)
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○公述人(澤藤統一郎君) 私は、弁護士として三十年余りの職業生活を送ってまいりました。その実務の経験を通して、現行日本国憲法は擁護すべきであり、改憲には強く反対するという見解を持っております。本日は、その立場から意見を申し上げます。
私は、現行日本国憲法を人類の英知の結実と高く評価しています。もっとも、日本国憲法をこの上ない理想の憲法と考えているわけではありません。個人的に希望を述べれば際限はなく、細部に幾つかの不満を持ってはいます。国民一人一人が異なる国家観、社会観、人生観を持っている以上、国民の数だけ理想の憲法があり得ます。日本の国民全員が完全に満足する憲法を持つというわけにはまいりません。
元々、憲法というものは国の骨格を定めるもので、肉付けは日々不断の努力を積み重ねていくことになるのだと思います。私が現行憲法に不満に思う諸点は肉付けの問題として十分にカバーできる範囲のものだと考えております。むしろ、憲法の細部にこだわり枝や葉に対する不満を是正しようとすることが、根や幹の部分の改正論議を後押しすることになりはしまいかと危惧せざるを得ません。現実的に考えれば、一国の実定憲法としてこれだけの内容を持った憲法があることは誠にすばらしいことだと思います。この優れた憲法を軽々に変えてはならない、そう考えております。
現行憲法を優れていると考える根拠は、何よりも後れた現実を批判する道具として極めて有効だからです。憲法は規範ですから、常に現実と距離があります。現実の先にあって現実を批判し、現実が進むべき方向を指し示す、これが憲法の役割だと思っております。そのような規範として、現行憲法は誠に優れ物だと考えます。
かつて、私は、ある地方銀行の女性行員に対する賃金差別裁判を担当したことがあります。この裁判で銀行側はこう言いました。男性が主たる家計の維持者であることは現実であり社会通念である、だから家族手当や世帯手当は男性には支給するが女性には必ずしも支給の必要はない、こう言い切りました。確かに、このような現実や社会通念があるのかもしれません。しかし、その後れた現実を批判するあるべき基準として憲法十四条があります。一審、二審とも女子行員が勝訴を得ました。そして、銀行の賃金規定も変わりました。まさしく、憲法が現実批判の道具としてその役割を果たし、現実をリードした分かりやすい事例です。このとき、私は憲法の役割を明瞭に認識しました。
当然のことですが、人権も平和も民主主義も、憲法に書き込んであるからといって既に実現されているものではありません。理念と現実とは別物。実は、国民一人一人が憲法に明記された理念の実現に努力していくこと、言い換えれば現実を理念に近づけることが要請されています。そのような国民の行動や運動が伴って初めて憲法は意味のある存在になるのだと思います。
理念と現実とのそごは至る所にあります。
政教分離という確固たる憲法上の原則がありながら、首相や都知事による靖国神社への公式参拝は毎年反省なく続けられています。
憲法十九条には思想・良心の自由が明記されているにもかかわらず、教育現場では日の丸・君が代の強制がまかり通っています。
憲法には両性の平等がうたわれています。しかし、職場で家庭で教育の場で平等は実現されてはいません。むしろ、ジェンダーフリーという思想が激しく攻撃されている現実があります。
政治的表現の自由は最も尊重されるべきであるにもかかわらず、イラク派兵反対のビラ入れが住居侵入ということで逮捕され、勾留され、起訴にまで至っています。マンションで政党のビラをまいたことがまた同様に弾圧の対象になっています。
憲法では検閲が禁止されています。にもかかわらず、公共放送の幹部が与党の議員に事前に番組の内容を報告し、その議員の意向に添う形で番組の改変が行われたという醜悪な事実も明らかとなりました。これら本来あってはならない後れた現実を(発言する者あり)後でどうぞ御質問をお願いいたします。これら本来あってはならない後れた現実を批判する鋭利な道具として、憲法は更に研ぎ澄まされることが必要だと思います。
今必要なのは、憲法を改正することではなく、憲法をより良く使いこなし、憲法の掲げる理念を実現することなのだと思います。今、声高に憲法改正の必要を唱えている人の多くは、憲法によって批判されるべき側の人々のように思えます。
憲法の理念が現実を批判する道具として正常に作用しているかという観点から、特に平和の問題について申し上げたいと思います。
現在の日本はアジア太平洋戦争における敗戦から再生しました。日本国憲法は、大日本帝国憲法が戦争を起こしたことの失敗をリアルに認識し、これを真摯に反省するところから生まれました。政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意して、恒久平和主義が憲法に明記されました。「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」というのが憲法九条二項です。これが改憲問題の焦点であることは、恐らく共通の認識であろうかと思います。
恒久平和主義は、この地上から戦争をなくそうと努力を傾注してきた国際社会の良心と英知との終局の到達点だと考えます。
ヨーロッパ社会に国際法ができて以来、聖戦論から無差別戦争観の時代を経て、侵略戦争違法論、戦争手段の違法化という大きな潮流が形成されてきます。
第一次大戦後、国際連盟憲章ができ、不戦条約が締結され、さらに第二次大戦という戦争の惨禍を各国が経験した後に国際連合ができます。国際連合憲章は原則として戦争を違法化しましたが、例外を設けています。必ずしも戦争違法化の原則を貫いてはおりません。その後に日本国憲法ができ、恒久平和主義を採用いたしました。
国連憲章と日本国憲法成立の間に何があったか。御存じのとおり、広島、長崎の悲劇です。核の恐ろしさを人類が知って、日本国憲法ができました。夢想された憲法ではなく、現実に第七十六帝国議会の議を経て帝国憲法の改正として日本国憲法が成立し、九条も採択されたのです。
私は、人類の英知が一国の憲法に盛り込まれたものと考えます。人類史上の偉業と言ってもよいとまで考えます。これまで人類は憎悪と報復の悪循環の中で戦争を繰り返してまいりました。相手が軍備を増強するからには、こちらも軍備を拡大しなければならない。こちらは、備えあれば憂いなし、自国の軍備は防衛のためだと思っていても、相手国はそのようには取らない。あちらの国の軍備はこちらへの攻撃のためではないか、こちらも自衛のための軍備を拡充しなければならないとなります。
お互いに、自分の国の軍隊は良い軍隊、よその軍隊は悪い軍隊、よその国は攻めてくる可能性がある、だからそれをうちの良い軍隊で防衛するという、こういう発想から抜けられないのです。お互い、相手国に勝る軍備を持たないと安心できない。この悪循環を断ち切るためには、軍備を持たないということが一番。憲法九条はこれを宣言しました。
少なくとも日本はこれまで、専守防衛の姿勢をアピールして、軍備は抑制する方向にかじを切ってきたと思います。この人類の英知を投げ捨てて、普通の国に戻してしまおうということは誠に残念、人類史に対する裏切り行為ではないかと思います。
私は、憲法ができて半世紀を経た今、理念としての恒久平和主義が妥当しない国際社会になってしまったのか、そのように国際社会は無法化してきたかと自問をしてみて、決してそうではないと考えます。むしろ、武力による平和、その試みの失敗、あるいはその無力があらわになってきているのが同時代史ではないでしょうか。パレスチナの悲惨、ベトナム戦争やイラク戦争、こういう失敗を見れば明らかではなかろうかと思います。
憲法の理念と現実とは緊張関係にあります。理念を変えることは当然に現実をも変えることになります。これまでも九条二項の下で自衛隊が生まれ育ってきた、九条二項を削除したところで現実は変わらないという意見もあるようです。私は、これは楽観に過ぎると思います。
九九年、百四十五国会は憲法受難国会と言うべきものでした。ここで、国旗・国歌法が成立しました。よく知られているとおり、国旗・国歌法は定義規定で、わずか二か条、国旗・国歌に対する国民の尊重義務は規定されていません。元東大学長だった文部大臣を始め、政府答弁では繰り返して、この法律によって事態は変わらない、国旗・国歌が強制されることはあり得ないと言われました。
しかし、現実はどうでしょうか。二〇〇〇年の春から教育現場はがらりと変わりました。各地の教育委員会が卒業式、入学式での国旗・国歌の強制に乗り出し、ついには大量処分、そして法廷闘争、現在、裁判を行っている教職員は四百人に近いのです。ついには、園遊会で天皇に、日本じゅうの学校に国旗を揚げて国歌を斉唱させるというのが私の仕事でございますと話し掛けた教育委員まで現れたのです。
私は、今、九条二項あってなおの自衛隊の存在だと思います。九条二項の歯止めを失えば、装備、人員、予算、作戦、いずれの面でも軍事が大手を振るう、そういう社会になることを恐れます。
憲法九条あればこそ、集団的自衛権はまだ否定されています。海外での武力行使はまだできません。できることは、せいぜい武力行使とは一体とならない後方支援活動の範囲。これまで、自衛隊員が戦闘で人を殺したり、殺されたりしたこともありません。日本が紛争の火種となる時代もありません。私はこれは、九条二項の理念がまだ現実を批判しリードする機能を持っている証拠だと考えます。
憲法典が、憲法典という法律があるからというだけではなく、国民の平和意識、国民の平和運動と結び付いて今これだけの事態があります。仮に九条、なかんずく二項が改正されるようなことになれば、つまりは理念を現実に押し戻せば、現実は更におかしなことになってしまう、これが私の危惧です。憲法九条、特に二項は守らなければならない、そう考えて陳述といたします。
以上です。