五十嵐敬喜の発言 (憲法調査会公聴会)
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○公述人(五十嵐敬喜君) 今二点の質問かと思います。
一つは、国家論の射程距離といいますか、有用性とかそういうことではないかと思いますが、憲法史を勉強いたしますと、この国家論というものが非常にピークに達するのが実は明治憲法のときであります。特に伊藤博文さんを中心としまして、ヨーロッパのプロイセン憲法の、特にベルリン大学の経由の国家学というものを経由いたしまして、これを日本的に置き換えて明治憲法にいたしました。国家学の前提としまして、天皇、神聖なる天皇とありまして、この大権が隅々を支配するという構成になっています。昭和憲法のときにはこれが少し薄まりまして、国家学、国家主権よりも国民主権論の方に移動いたしましたけれども、ちょうど過渡期にある憲法がちょうど天皇象徴になっているというふうに私は理解しております。
今後更に五十年考えるときに、国家論として何を想定し、何を考えていくのかということをずっと勉強してまいりましたけれども、具体的に国家主権論とは何かといいますと、やっぱり究極的には通貨発行権とか外交権とか軍事権というようなものが国家主権の内容と言われています。
しかし、一方では、この国家主権がどんどんとEUを見ますと移譲されております。さらに、日本国憲法の論議の際でも、例えば軍事権について、国連との関係などを見ますと、軍事権に関する主権の一部の移譲といいますか委託といいますか、協力関係といいますか、しかしそこも離れていくということですね。すると、具体的に今後、国家論として何が残るんだろうかということを見ますと、何か明治憲法以来の抽象的な、ある種のレトリック、ある種の観念論をやっているような気がいたします。
是非、この論争は詰めていただきたいと思います。そのときには是非、国家主権というものの内容というのは一体何なのかということを詰めていただければと思います。私は、国家学よりもやっぱり政府論に移るべきであるというのが、私の言った、先ほどのとおりであります。
二番目は、国民主権と直接民主主義の関係であります。
今日ここで、わずかな時間でこのことをすべて言い切ることはもちろんできませんが、世界人類史的にやっぱり二千年ぐらいの単位で変動が始まっていると私は見ております。御承知のとおり、議会というのがあのジョン・ロック以来定立されました近代政治学あるいは近代憲法学の前提になっていますけれども、議会というのは果たして今後も有用かと、これは皆さん方の直接かかわる問題でありますけれども、少しクエスチョンマークが付いてきました。
それは何かといいますと、議会でなければやれないことというのは何であったのかということに関しまして、非常にせんじ詰めてざっくり言いますと、二つ特色があるというふうに言われています。
一つは、選ばれた者と選ばれた側の関係を見るとどちらが優位かということを見ますと、ずっと、やっぱり複数の人から支持されるという意味で、選ばれた側の方が賢明であると。だから、政治はやっぱり賢明な人に任せた方がいいということが一つであります。もう一つは、直接民主主義にいたしますといろいろ議論ができない、人数が大き過ぎて議論ができないので、議場という言わばある種の閉ざされた空間を持つべきである。この二つが、議会というものの絶対的な、本質的な要素として、四百年ぐらい続いてきた大きな理由であります。
しかし、その二つとも正しいかといいますと、やや、やっぱり率直に言って疑問があります。選ばれた者と選ばれる側との関係で常に絶えず選ばれた側が賢明であるかというと、どうもそうではない可能性も大きいということであります。それから、技術の発達が議場という閉鎖空間を必要としなくなりました。そうすると、議会の存立根拠は一体何かの、かなり根底的な本質的な根拠が薄れてまいります。
やっぱり一番重要なことは、国民が主権者であるということは、国民が一人一人、選挙のときだけでなく、大事のときにはこれを具体的に決めていいというものが国民主権の本質、ルソー以来国民の立法権というのがありまして、この立法権、国民の立法権が本質的なことというふうに言われておりまして、ここをもう一度考えてみるべきだろうというふうに思います。
具体的にはどうかといいますと、EU憲法がここでも非常に参考になりますけれども、EUの場合には、百万人、EU市民百万人の署名が集まりますと直接国民はヨーロッパ議会に対しまして議案を提案することができます。議案が提案された後の処理については、否決された場合はどうするか、可決された場合はどうするかについていろいろテクニックありますけれども、そういう形で議案を提案することができるというふうになっております。
もちろん、地方自治法レベルではこれはできておりますけれども、実は国会についてはこれができておりません。せいぜいやるとすれば請願か陳情でありまして、正式に議案とはなりません。まず一つはそういうことであります。
それから、地方自治レベルで認められる様々な住民投票がいろんな形で行われてきておりまして、国家の重要案件にかかわるものについては場合によったら国民投票をしてもよろしいということがいろんな国家の憲法に見られるようになりました。具体的に国家の重要事項について国会が発議してこれを国民投票にかけようということがあってもいいだろうと私は思っております。特に、近代政治でいいますと、政党政治を超える問題というのがたくさん出てきております。例えば、先ほど申し上げました安楽死をどうするかとか脳死をどうするかというようなことについて言えば、これは政党政治等を超えて国民全体で議論をすべきものでありまして、こういうものについては例えば国民投票にかけてみようという意味での民主主義的な実験をやるべきだと思いますけれども、現在のところ日本国憲法は、これは窒息状態であります。
それから、先ほど言いました憲法四十一条の関係で、憲法で認める二つの国民投票以外については法的効力は認められません。しかし、地方自治体で行われている住民投票の結果などを見ますと、ある種の法的拘束力を認めてもいいという事例がたくさん出てきていると思います。
これは日本だけの状況でありますけれども、先ほど言いましたEUとかアメリカなどを見ますと、やっぱり政治が徐々に二千年前のギリシャに戻ってきておりまして、正に国民主権というものが非常に重要視されてきているということです。
もう一つだけ、一点だけ付加しますと、日本の場合には、特に昭和憲法の本質的な問題点として、官僚支配ということが日本の現実の政治の非常に大きな政治的論点としてあると思っております。
この官僚支配に対抗するのに、従来のような言わば三権分立の枠組みで本当に官僚主権に対して対抗できるかどうかとなりますと、必ずしも十分でない。十分でない結果が今日のある種の官僚支配を許していると思います。官僚支配に対する最も有効な対抗軸はやっぱり国民主権があるし、この点からも国民主権論としての直接民主、国民投票法案というものを考えるべきだし、それに抵触する憲法の規定は訂正すべきであるというのが私の考え方であります。
以上です。