高原孝恵の発言 (文部科学委員会)

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○高原参考人 皆様、おはようございます。このような場で意見を述べさせていただきますこと、ありがとうございます。
 お手元の資料、私の場合かなりはしょっております。なぜかといいますと、個人情報的なこともございますので、このような書き方をさせていただきました。
 私は、埼玉県で、NPO法人発達障害支援センターひまわりということで活動をさせていただいております。なぜそのような活動をしてきたかといいますと、私の長男、現在中学三年生になりますが、この長男が五歳のときにADHDという診断を受けました。今から十年ほど前になりますので、今のように特別支援教育ですとか、まずADHDといったこと自体もわかってもらえない時代でした。
 なぜ診断を受けるいきさつになったかと申しますと、まず、生まれて、多動傾向というか、重い方の多動だと思うんですね、私自身育ててきまして。十カ月を過ぎたあたりからなんですが、周りの保護者というかお母さん方からもマイペースな子だねというようなことをよく言われていました。私自身、初めての子でしたので、ああ、男の子ってこんなものなのかなというような形で来ていました。
 すぐ下に、年子で一つ下に弟がおりますが、ここと比較ができるようになって、この子はやはり違うなというのを感じましたが、それは二歳を過ぎたあたりからだったんですね。遊びですとか興味が非常にころころと変わっていくんです。ものの何分ももたないんですね。これで本当にいいのかなとやはり親として心配になりまして、三歳三カ月という小児の健診が各市であるんですが、そちらの方でまず相談をいたしました。
 当時、まだやはりこの発達障害というのをわかっていただけるお医者さんもいらっしゃらなかったんですね。ただ、保健婦の方からは、はっきり多動だということではないんですが、このような症状の病気もありますよ、もしお母さんが心配であれば専門医を紹介しますということがあったんです。当時、手先の不器用さが伴うとかとよく言われて、今は全くそういうのは関係ないと言われていますが、それが唯一うちの場合は当たらなかったんですね。それで、では様子を見ましょうということになってしまったんです。
 そして、公立の保育園に通っていまして、これは二歳から保育園の方に通っていたんですが、そこで、やはり年齢が上がるとともに、問題が非常に出てきました。
 まず、担任の保母、今は保育士さんですが、この子がこういうことをするのはこの子の個性だねというふうにとらえていただける担任の先生とは比較的うまくいっていました。ところが、これをしなければいけないんだというような形で、がんじがらめといいますか、そのような先生とはとことん相性が悪くて、よくやったのが、かみつくですとか、とにかく行ってパニックを起こすですとか、必ず行くと、ひどい場合は、私には見られませんと迎えに行った玄関先でよく言われて帰ってくるような次第でした。ですから、親としては隠れて送り迎えをして、そっと置いてそっと逃げてくる、ほかのお母さんたちとなるべく顔を合わせないように、合わせれば、済みません済みませんと頭を下げて回っている毎日だったわけなんです。
 それが、五歳のときに一番悪化をしまして、ちょうどそのときだったと思います、マスコミでこのADHDというのを取り上げられた時期だったんです。その症状を映し出されたのを見まして、自分としては非常に当てはまることが多かったんですね。そして、三歳のときの健診の病気としてありますというそれがずっと頭にあったものですから、そこで市内の保健所の発達相談というのを受けました。そこで、小児科の先生から、この子は多動傾向があるから一度診てもらった方がいいということで専門医を紹介していただきました。そこで受診をしました。
 私自身、やはり周りから、保育園の先生からも、お母さん、ちょっと愛情が不足していますよとか、いろいろ言われていましたので、非常に自信もなくしておりました、やはり私の育て方が間違ってしまったのかなと。だから、余計子供を締めつけるということもありました。結果として、やはり小学校に上がった時点で、既にもう行為障害というものまで起こしていました。ですので、就学前に至っては、とにかく少しでも面倒見のいい担任の先生に振り分けてもらうように、当時であれば、とにかくわかってもらってください、周りの人にこの子の状態をわかってもらってくださいというのが主治医の先生からの指導でした。
 そこで、教育委員会の就学相談を受けまして、こういう子なんですと、三回ほど受けたんですね。ところが、やはりこの発達障害自体、今でもそうですけれども、この子に合った場というのはないんです。今ある中では、通常学級、いわゆる特殊学級、そして養護学校、あとは情緒障害の通級がどうかすれば適用するかなというようなところでしたので、まず選択肢としてはやはり選べなかったですね。就学相談を受けた結果、知的にも問題ないですし、衣服の着脱もできますし、通常どおり学区内の小学校に入学しましょうということで、小学校への入学となりました。
 やはり学校でも、まず、この軽度発達障害、ADHD、これ自体がわかっていただけませんでした。入学して十日目に校長から呼ばれました。私も、この子のことに関しては隠すつもりもありませんでしたし、わかっていただくというのが一番だと思っていましたので、まず先生と、ああよかったということで早速伺いました。十日間のいろいろやったことを全部羅列されまして、結果、とにかくお母さん、この子がこういうことをするのはADHDとかじゃないんですよ、親が原因です、とにかくあしたから学校へ来なさいと。
 それから毎日子供に付き添って、一年近くです、学校通いが始まりました。ひどいときには、休み時間だけ来てくださいと。うちの場合は、教室の中で席には比較的座っていられたんですね。ところが、対人関係ですとか、やはりそういったところでのトラブルが多いものですから、休み時間での問題が大きいんです。例えば、友達とけんかを始めてしまった、かんでしまった、たたいてしまったということがありますので、二時間目の休み時間というのは二十五分間と比較的長いですから、そういう時間ですとか昼休みですとか、そのときだけ今度は来てくださいと。
 あとは、夏場になりますと、今度はプールなんですね。水遊びが好きな子でしたから、非常に興奮するんです。そうすると、やはり危ないですから、お母さん、プールサイドに立っていて見ていてくださいと。そのために毎日学校へ行くような次第でした。
 時には、朝行きまして、きょうは急に担任の先生が休みになりました、ほかに先生がいないので、お母さん、ずっと後ろにいてくださいと。玄関のかぎも閉めずに行った状態で、一日ずっと学校にとどまりました。そんなこともあったわけですね。
 私としては、いろいろなことを校長先生ともお話しました。担任の先生にもこの子の状態というのを伝えていきました。ところが、やはりなかなかわかっていただけなかったんです。なぜかといえば、発達障害というのは見てわかる障害ではないんですね。見ても全く普通なんです。ですから、何でこの子がというようなことなんですね。中には、元気がよくていいじゃないと言われてしまったりするわけです。そうすると、どうしてもわかっていただけないというのが一番ありました。
 それと、現実問題、やはり、一クラス三十何人、四十人いるクラスの中では、場合によっては、先生によっては、わかってはいるんですけれども、でもできません、はっきりそうやっておっしゃる先生もいらっしゃるわけです。
 そこで、では私がどうしたかといえば、教育委員会に、例えば、この子に対しての支援員さんを派遣してください、つけてください、そういうお願いもまずしていきました。ところが、やはり返ってくる答えは、お金がないです、そういう人的な配置をできるだけ余裕がないです、それができるだけの人材がいません、このことが、いつも、どこへ行っても返ってくる答えだったわけですね。
 その中で、とうとう三年生に上がる段になりまして、いろいろなことが情報として回っていきますので、この子と同じクラスになったら嫌だわというようなことも言われるようになりました。
 そこで、私は、二年生のときに合同懇談会を開いてくださいということで学校側に申し入れをしまして、一カ月間、やるのやらないの、そのすったもんだの繰り返しをしまして、二クラスだったんですけれども、五十何人のお母さん方を一堂に集めていただきまして、私の口からこの子の状態というのをやっと説明させていただきました。中にはそれで納得されたお母さんもいらっしゃいますが、こじれてしまった関係というのはなかなか修復ができない、そういった方もやはり何名かはいらっしゃいました。
 その中で、三年生、四年生、とうとう五年生に至ったときに、子供は不登校になりました。やはり今までの対応をしくじってしまった、だからこそ幼年期の対応というのは大事だというのは私自身が体験した思いです。その中で、学校に行きたくないになってしまったんです。
 私の場合は、もうこれはどうにもならないということで、実を言うと、こちらにいらっしゃいます市川先生に今現在お世話になっておりますので、梅ヶ丘病院の方に七カ月間入院ということをしました。
 本人は、最初はやはり嫌がっていました。病棟に入って、病棟だけでいいと。青鳥養護学校の梅ヶ丘分教室というのがあるんですが、そちらに通っていいですよという許可がおりたんですけれども、本人はとにかく嫌がりました。もう学校自体も嫌になってしまったんですね。その中で、とにかく七月一日から行くということになりまして、毎日電話をかけることができましたから、夜本人から電話がかかってきた中で、どうだったと聞くと、楽しいとなったんですね。何でこんなに変わるんだろうというのが不思議でした。よく分教室の先生ともお話ししたのは、医療機関の中にある学校ではなくて、通常の中で、一般の中でこういう子供たちを受け入れてくれる場があったらというのをよくお話をさせていただいた次第です。いつまでも病院にはいられないわけです。ですから、七カ月たって退院をしてきました。
 では、今度退院をした後に受け入れてくれる学校はどこか。私は、この子たち、この子たちといいますのは、今ひまわりとしていろいろ療育活動なんかもしておりますので、感じるのは、この子たちに適した環境が必要だと思います。それは、教育もそうです。親子関係も友達も兄弟関係ももちろんそうだと思います。現にうちのすぐ下の弟も、兄のことが原因で周りからいろいろ言われるものですから、やはり不登校ということを体験しております。それで、私は、支援というのは、その環境の度合いによって必要か不必要かというのが決まると思います。適した環境であれば支援というのは要らないと思います。けれども、そこが適してないから不適応状態を起こすわけですから、支援の手というものが必要になってしまうのではないかと思います。
 今現在、中学もう三年生で、今度いよいよ次のステップになるわけなんですが、この間、小学校、中学校、いつもずっと思ってきたことは、やはり発達障害をわかってくれる人はほとんどいないな、余りにも理解されないんだなというのを一番感じています。
 ここに、次の二番目のレジュメの方になりますが、そんなことがありまして、四年ほど前に、実を言うと、親の会としてひまわりは立ち上がりました。当初は親同士の慰めの場だったわけです。愚痴のこぼし合いです。わかってもらえない。親同士、わからないんですね。同じ学校に通っていても、まずそういう情報が入りませんから、わからないんです。会員で入ってきて同じ学校のお母さん方が三人そろったとか、そんなことがあるわけなんですね。中には、私、こんな思いをしているのは市内で私一人だけかと思っていましたとか、中には、お母さん自身が精神科に通ってうつ病の薬を飲まなければ夜も眠れないとか、そこまで悩んでいる方もいらしたわけです。
 そこから始まってきまして、今度は、子供というのは日々成長していきます。今必要なんですね、今生きているわけですから。今きちんとした療育とか、この子たちに適した学びの場というのが必要だと思います。教育というのは子供が自立していくためにあるものだと思うんですね。それをやはり、なかなか今の学校現場の中にはないんです。居場所がまずないですから。
 そこで、今度はNPO法人化をしまして、子供たちの支援というような形で今活動をさせていただいております。その内容が、こういったパンフレット、ここにある事業なんですね。
 これはなぜ始めたかといいますと、私自身体験をしてきまして、こういったものがあればいいなという思いでつくりました。ですから、これを見た保護者の方には、親が望むものばかりですねと言われた方がいらっしゃるんです。つくったのが私、親ですからとよくお話をするんですね。専門の先生方ですとかいろいろな研究者の方々が、何かそれぞれの研究の場としていろいろなものはあるんですが、どれもやはりしっくりこない。やはり当事者の親のもどかしさですとか、そういったものをわかっていただける場ってなかなかないなというのがあるんですね。そこで、当事者として、当事者の思いがわかるものとしてこのようなものを活動事業として行っています。
 ここで、その次の資料になりますが、このサポーター養成講座というのは、わかる人材が余りにもいないということで、今年度から始めました。実を言いますと、これを受けている方の大半は保護者なんですね。自分はエジソンの母にならなければいけないのかと。余りにも、学校というものに期待できないと思っていると思うんです。だからこそ自分がきちんと学んで、この子をという思いなんだと思うんですね。
 そして、これだけの長い期間です。なかなか余り、これだけやるところがなくて、いろいろこれをやるに当たっては、本来もっと長かったんです。それを切り詰めまして切り詰めまして、なぜかといいますと、ボランティア講座ですとか、いろいろな研修会ですとか、一日ですとか二日、三日、その程度のものはあるんですが、さらっと、ああそうかなという程度で終わってしまうんですね。真に支援できるだけの人材までは至らないのではないかなというのを感じています。
 そこで、実習まで入れたこのようなサポーター養成講座というのを、これは今年度から毎年開校していく予定でいます。こちらは基礎コースですから、今後は、子供たち、いつまでも子供ではいません、成人になっていきますから、今度は成人のサポートですね。
 そして、私自身、子供を育てていて一番感じているのは、家庭の中においてもサポートしてくれる人がいたらいいなと思っています。なぜかといいますと、非常に活発に動く子たちですから、お使いなんかに行っても大変なんですね、大体余計なものまで買い込んでくるような。普通であれば、隣の人へ、済みません、ちょっと見ててもらえますかと普通に気楽に頼めるんですが、この子を持っていますととてもそれはできないんですね。かなり迷惑をかけてしまうかなとか、誤解されちゃうかなとか、何、あのうちはどういうしつけをしているんだろうと思われちゃうだろうなと。であれば、実を言いますと、現に私も親の葬式にも出られなかった次第なんです、子供を見てくれる場がなかったものですから。やはり家庭でもそういうサポートは必要だと思います。
 結果として、こういう子たちです、決して褒められるようなことをする子たちではないものですから、どうしても親としてはしかってしまうのが多いんですね。これは学校でも同じだと思います。それはやめよう、やめさせたいという思いでしかるものですから、果ては、虐待ですとかそういったものにもつながるケースが非常にふえています。一番怖いのは、子供を受け入れられなくなってしまう関係なんですね。こういったケースも何例か私どもの相談の中には来ております。
 そのような点で、ぜひ、教育の場でも、発達障害というのを、子供にかかわる方々というのはすべてまず理解していただきたいな、学んでいただきたいなと思います。
 それともう一点、この子たちの場というのは、今のところどこにも属してないんですね。通常学級でもだめなんです。では、今ある特殊学級でどうかというと、ここでもやはり居場所がありません。就学相談もわかっている方が担当されればいいんですが、そうでない場合は、通常学級がだめだとでは特学、特学がだめだったらもう養護。養護なんかに行きますと、逆に言うと、今度は養護のお母さん方から、あんたたちは軽度なんだから、ここは軽度の子たちの来る学校じゃないんですよということで言われるんですね。もっと軽度のお母さんたち頑張りなさいよと、そういうようなことが返ってくるわけです。
 ですから、私としては、この子たちの学ぶ場、そういったものがきちんとあれば、適切な療育、そういったものがあれば、何の問題もなく社会の中で自立していける子たちだと思います。その場においても、やはり教育の場というのは大事なものだと思います。
 それから、実を言いますと、二〇〇二年に親の会を立ち上げまして、まず一般の方々にも、社会の中でやはりこの軽度発達障害というようなものの市民権を得なければいけないという思いがありますので、理解促進ということで、後援会ですとかセミナーなんかを毎年ひまわりとしては開催しています。
 ところが、それを休日、まして民間団体でやる、お金も払って参加するというと、やはり意識のある方なんですね。本当は、意識が薄い、その他大勢、大多数の方に私なんかは聞いていただきたいことなんですが、なかなかそういう方の参加というのは得られないんです。
 そこで、今年度、実を言うと、この三冊、これは絵本なんですが、各百部限定で私どもがつくったものなんです。これは軽度発達障害をわかっていただくという意図のもとでつくりました。ですから、親しみやすい絵本という形に置きかえて出させていただきました。これは、学校ですとか児童相談所、それから教育センターですとか、そういったところに無料で配付をさせていただいている資料なんです。今回、ちょっと八十部御用意できなかったので何部かだけなんですけれども、ぜひごらんいただきたいと思います。
 一番は、やはり教育というのは絶対大事なものだと思いますので、十分に、こういった子供たち、人もそれから時間もかけていただきたいなと思います。発達の度合いに応じた学校、今回の法案の中にも障害の種別をなくすということが言われていますけれども、やはり、個々に応じた専門的な教育というのは必要だと思います。もし言うのであれば、私は、障害児学校の総合病院のような、間口が一つとしても専門の科に分かれていくような、そういうきちんとした学びの場ですね、そして、発達の保障というのをきちんと得られる、こういう教育の場というのをつくっていただきたいと思います。
 どうもありがとうございました。(拍手)

発言情報

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発言者: 高原孝恵

speaker_id: 20720

日付: 2006-06-13

院: 衆議院

会議名: 文部科学委員会