小島敏男の発言 (文部科学委員会)
⚠️ コピーしたテキストを転載する際は、転載元URL(kokkai-data.com)および原典URL(kokkai.ndl.go.jp)を必ず残してください。発言内容の改変・出典削除は禁止です。
詳細は利用規約をご確認ください。
○小島委員 ともかくそういうことで、時間がありませんから、了解しますが、いずれにしても、そういう形の中でぜひ頑張っていただきたいというふうに思っています。
それから、この間の質問の中で、私は感動を受けたのは、大前繁雄先生がみずからの子供のことを取り上げて、行政はどうなっているんだ、おれたちはこれだけ遠回りしながらもやってきたと。こういう、大前先生のようないろいろなことを知っている方が苦労して苦労して、自分の子供が三十数歳になったということなんですけれども、全く一般の方だったらば、とてもじゃないけれども動けませんね。だから、そういうことを考えると、大前先生のお話しされたことというのは、実体験として、私も感銘を受けたし、これからそういうことがないようにしなきゃいけないと思っています。
それで、これは「致知」という小説なんですけれども、一級一種の脳性麻痺の先生が、体が御不自由な方が高校、大学を出られて教員試験を取ったということで、やればできると、頑張ってきた方の記事を読ませてもらったんですけれども、この中で私が一番、ああそれはそうだなと思った点がありますので、この辺を一つ聞かせてもらいたいと思うんです。
これは担任の先生によって全く違うというんですね。小学校では、最初の担任の先生が障害のある僕に深い理解と愛情を示してくれた、それで生きがいを感じて、ともかく運動会でも何でも、駆け足をしなさいと。そして、途中で転んだら、頑張れということで、みんなが、泣きながら走った僕を応援してくれたということで、そういう先生がいて、そしてやってきたんだけれども、今度は、四年生のときの担任の先生というのは、残念ながらこの方を、三戸学という人なんですけれども、その人を受け入れてくれなかったんですね。そしてマラソン大会に参加しようとすると、「三戸君はいろいろ大変だから、参加しない方がいいと思います」、それから「少しは人の迷惑を考えなさい」などと平気な顔で言ったというんですね。だから、いずれにしても、障害を持つ人の担任の先生というのは、その子供の将来の成長に向かって大変なブレーキもかけるというわけですね。
ですから、そういう担任の先生を障害を持つクラスにしっかりと位置づけるということはできるんでしょうか、できないんでしょうか。