杉谷義純の発言 (教育基本法に関する特別委員会)
⚠️ コピーしたテキストを転載する際は、転載元URL(kokkai-data.com)および原典URL(kokkai.ndl.go.jp)を必ず残してください。発言内容の改変・出典削除は禁止です。
詳細は利用規約をご確認ください。
○参考人(杉谷義純君) ただいま御紹介いただきました全日本仏教会の杉谷でございます。このような大切な場を与えられましたことを心から感謝を申し上げます。
全日本仏教会といいますと、お聞き及びでない先生方もいらっしゃると思いますが、全国にある五十八教宗派、ほとんどの伝統仏教を網羅した組織でございまして、そこで特に宗教教育についてまとめさせていただいたことを今日はお話をさせていただきます。
実は、中教審の中間報告がなされた折に、日本宗教連盟という組織がございまして、そこには全日本仏教会、神社本庁、教派神道連合会、日本キリスト教連合会、新日本宗教団体連合会という日本にあるほとんどの宗教組織が関係しているんでございますが、そちらから意見書をまず中教審に出させていただきました。
その背景と申しますのは、もう先生方御高承のとおり、戦後の日本において、科学技術の目覚ましい発展、さらには経済成長、そういうところに主眼が置かれ時代が流れてきたために、精神文化に対する洞察が非常に粗末になってきたといいますか、力点が置かれてこなかった。そういうようなことから、物質中心主義、さらには命の尊厳の軽視等々、教育の荒廃、また最近に至るいろいろなゆゆしい状況が起きていると。
一方では、政教分離、信教の自由という輝かしい我が国憲法の原則がございますけれども、それを、その精神を十分理解されずに、非宗教性、無宗教、そういうようなことがむしろ社会が進化した状態ではなかろうかというような考え方が進んでまいりました。教育現場における宗教教育の軽視、また教育者の宗教に関する無知というような傾向が表れてきたと。
そういうような中において、日本宗教連盟としては、文化としての宗教について生きた学びをする教育が必要ではなかろうかというような意見書を提出をさせていただいたわけでございます。
それらを土台にしまして更に深めて、具体的に今日資料で先生方にお配りいたしました。全日本仏教会における教育基本法第九条、現行法第九条の改正試案というものを作成して、各方面に御説明、また要請をしてきたわけでございます。
その点について御説明をさせていただきますが、総論的なことは時間もございませんので、今日お渡ししたプリントの最後の方に、総論が「適切なる宗教教育実現のための教育基本法第九条改正に関するお願い」ということに書いてございますので、ひとつ後ほどごらんいただければ大変有り難いと、このように思っております。
そこで、まず具体的に教育基本法九条、これを三つの項目に分けまして、宗教的な伝統や文化に関する基本的知識及び意義、これをやはり教育上重視しなければならないだろうと。さらに第二項として、宗教的感性の涵養、これが心の問題を扱う上で非常に重要であるというようなこと。それから第三項、この禁止規定が、今まで特定の宗教のための宗教教育が禁止されている、これを拡大解釈といいますか、印象的に幅広く、宗教教育は全般的に余りしてはならないというようなことがといいますか、そういう意識が広がりまして、公教育の場では宗教教育というのはちょっと何となくはばかれるというような状況で来ました。ですから、この禁止を、物事を禁止をするということを明確に定めておきませんと、いろいろと法律の運用上、また現場での教育活動が阻害されるんじゃないか、このように思うわけでございます。
そこで、その次に、この改正についての解説を書かせていただいておりますが、その要点をお話をさせていただきたいと。
特に、宗教的な伝統や文化に関する基本的知識及び意義、これを教育上重視しなければならない。これは、どのような社会にも固有の伝統と文化があり、教育の目的がこの社会を形成するより良き人間の育成にあるとするならば、自らが暮らす社会の伝統や文化に関しての知識を持つことが必要不可欠であるというようなことでございますし、日本の文化を学ぶ際に、内外の様々な文化、それらと不可分の関係にある宗教とともに理解することが重要であると。宗教的な伝統や文化を学ぶことによって、私たちはそれらの宗教に包含する多様な世界観、生命観、あるいは人としてのあるべき姿などを学ぶことができるというような立場から、さらには、科学技術等が幾ら便利になり、社会が豊かになっても、やはり人生に意味を与えてくれるものでも人の生き方を指し示すものでもない。そういう意味で、それらを文化の中で主として担っているのは宗教であり、宗教的な伝統や文化を学ぶ意義というもの、これを重視をしなければならないというふうに考えているわけでございます。
さらに第二項としまして、「宗教的感性の涵養及び宗教に関する寛容の態度の育成は、これを尊重する。」。宗教は人類に固有の文化であり、有史以前の様々な遺跡にもその痕跡は残されています。自然の驚異に対する畏怖の念や自然の恵みへの感謝の祈り、新たな生命の誕生を目の当たりにしての深い感動や命の尊厳を感ずる心、そして、だれもが避け得ぬ死への恐怖など、こうした人知を超えた力や超越的存在に対する畏敬の念は、人類の発生以来、宗教的感性として私たちの心の根源的な部分を構成しているものです。そして、社会に存在する様々な宗教は、このような宗教的感性の上に、あるものは習俗となり、あるものは高度な教理として体系化され、様々な形態で表れていると言える。
今日、命の尊さや他人の痛みを感ずることのできる豊かな心をはぐくむ教育が求められています。しかし、それが単に社会規範としての道徳を教えるにとどまるものであらば十分な成果は望めないでありましょう。
こうして宗教的感性の素地は人々の心のうちに共通に備わっていると考えられることから、教育の場で個々の宗教的感性に気付かせ、これを育てるに当たっては、特定の宗教教義や儀礼の介在は必要ないものと考えます。あくまでも、慈悲や愛や祈りや誓願など、諸宗教に共通する宗教的感性に裏付けられた徳性の涵養が図られるべきである、こう考えるわけでございます。
また、宗教に対する寛容という点においては、多様な考え方のある現代社会においては、異なった考えや生き方に関して寛容でなければいけないし、また国際社会を迎え、異文化、異宗教を持った人々と接する機会が多くなった中で、やはりそういう異宗教、異文化に対しての寛容性が求められるのは当然なことでございます。
さらに第三項、国及び地方公共団体が設置する学校は、特定の宗教教義に基づく宗教教育、これは禁止すべきでありますけれども、ただこれをあいまいに特定の宗教教育といたしますと、釈尊のお話やキリストのお話、そういうことまでもはばかれるようなことになってはいけません。禁止規定というのはあくまでも限定的に行わなければいけないと思います。自己の信念体系として宗教を選び取る、これは全く個人の自由でございますけれども、やはり知識及び意義ということを学ぶ必要があるんではないか。
以上でございますが、一、二問題点を申し上げますと、現在、政府案では、宗教に関する一般教養を教育上尊重するとございます。小坂前文科相は、社会科において宗教に関する知識や宗教の意義について指導が適切に行われるようにすると。これは衆議院の委員会で答弁されておりますが、そのようであるならば、なぜ明確に宗教の知識や意義について教えることを尊重すると条文にお書きいただけないのか。あいまいな形でしますと、一般的な教養、まあ大事だけれども、まあ社会科でもちょっと触れているかというようなことで、現状の打開ができない、今まで以上のいい結果が得られないというようなことは過去のいろいろと経緯が示しているんではないか。
さらに、政府案の第二条に、「教育の目標」の中で豊かな情操と道徳心を養うと。この中に、この豊かな情操の中に宗教情操は入っているのかというような御質問が衆議院の委員会であったように聞いておりますが、伊吹文科相は、それは入っていないというような御答弁をされているようでございます。
知識や意義だけを教えるのであれば、これは宗教に関する関心や、また逆に批判精神は生まれますけれども、心の教育、命の尊厳さや他者に対する痛み、また自分の至らなさ、宗教的にはさんげとかざんげとか申し上げますけれども、そういうこと、おかげさまでというような謙虚な気持ち、畏敬の念、そういうものはこの感性を育てなければ生まれていかないのではないかというようなことで、この宗教的感性を大変重要に思うわけでございます。
中教審で長らく御検討をいただきまして、答申がされました。その中にも、宗教の意義を客観的に学ぶことの重要性、宗教教育の禁止規定の拡大解釈の禁止、人格形成上の宗教的情操をはぐくむことの重要性、これが述べてあるにもかかわらず、このことが十分法案に盛られていない。そうなると、せっかくこの戦後の大改正、こういう厳しい時代にすばらしい国民を育てていく、そういうような視点の下に改正を行うというようなことが、なかなか本来の目的が結実してないんではないかというように考えるわけでございます。
そして、あわせて、この大事な教育基本法というものが、党派性を超えて、広く国民的な基盤に立った、今までいろいろな議論が積み重ねられた上でのことであろうかと思いますが、更に慎重に、本来どうあるべきことか、もう一度振り返って、でき得るならば何とかより良い宗教教育が実現できるように先生方のお力添えを賜れば大変有り難いと、このように存じまして、意見陳述を終わらせていただきます。
ありがとうございました。