教育基本法に関する特別委員会
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会
会議録情報#0
平成十八年十二月一日(金曜日)
午後一時一分開会
─────────────
委員の異動
十一月三十日
辞任 補欠選任
鰐淵 洋子君 山下 栄一君
十二月一日
辞任 補欠選任
福島みずほ君 渕上 貞雄君
─────────────
出席者は左のとおり。
委員長 中曽根弘文君
理 事
岸 信夫君
北岡 秀二君
保坂 三蔵君
佐藤 泰介君
櫻井 充君
蓮 舫君
風間 昶君
委 員
岩城 光英君
小野 清子君
岡田 直樹君
小泉 昭男君
小泉 顕雄君
坂本由紀子君
中島 啓雄君
南野知惠子君
舛添 要一君
松村 祥史君
神本美恵子君
下田 敦子君
鈴木 寛君
西岡 武夫君
林 久美子君
広中和歌子君
藤本 祐司君
水岡 俊一君
浮島とも子君
谷合 正明君
山下 栄一君
井上 哲士君
渕上 貞雄君
亀井 郁夫君
事務局側
常任委員会専門
員 山口 俊史君
参考人
八洲学園大学生
涯学習学部教授
筑波大学名誉教
授 山本 恒夫君
全日本仏教会宗
教教育推進特別
委員会委員長 杉谷 義純君
静岡大学教育学
部教授 馬居 政幸君
新潟大学大学院
実務法学研究科
教授 成嶋 隆君
新潟大学教育人
間科学部助教授
ディフェンス・
フォー・チルド
レン・インター
ナショナル日本
支部事務局長 世取山洋介君
狭山ヶ丘高等学
校校長 小川 義男君
─────────────
本日の会議に付した案件
○教育基本法案(第百六十四回国会内閣提出、第
百六十五回国会衆議院送付)
○日本国教育基本法案(輿石東君外六名発議)
○地方教育行政の適正な運営の確保に関する法律
案(輿石東君外六名発議)
○学校教育の環境の整備の推進による教育の振興
に関する法律案(輿石東君外六名発議)
─────────────
この発言だけを見る →午後一時一分開会
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委員の異動
十一月三十日
辞任 補欠選任
鰐淵 洋子君 山下 栄一君
十二月一日
辞任 補欠選任
福島みずほ君 渕上 貞雄君
─────────────
出席者は左のとおり。
委員長 中曽根弘文君
理 事
岸 信夫君
北岡 秀二君
保坂 三蔵君
佐藤 泰介君
櫻井 充君
蓮 舫君
風間 昶君
委 員
岩城 光英君
小野 清子君
岡田 直樹君
小泉 昭男君
小泉 顕雄君
坂本由紀子君
中島 啓雄君
南野知惠子君
舛添 要一君
松村 祥史君
神本美恵子君
下田 敦子君
鈴木 寛君
西岡 武夫君
林 久美子君
広中和歌子君
藤本 祐司君
水岡 俊一君
浮島とも子君
谷合 正明君
山下 栄一君
井上 哲士君
渕上 貞雄君
亀井 郁夫君
事務局側
常任委員会専門
員 山口 俊史君
参考人
八洲学園大学生
涯学習学部教授
筑波大学名誉教
授 山本 恒夫君
全日本仏教会宗
教教育推進特別
委員会委員長 杉谷 義純君
静岡大学教育学
部教授 馬居 政幸君
新潟大学大学院
実務法学研究科
教授 成嶋 隆君
新潟大学教育人
間科学部助教授
ディフェンス・
フォー・チルド
レン・インター
ナショナル日本
支部事務局長 世取山洋介君
狭山ヶ丘高等学
校校長 小川 義男君
─────────────
本日の会議に付した案件
○教育基本法案(第百六十四回国会内閣提出、第
百六十五回国会衆議院送付)
○日本国教育基本法案(輿石東君外六名発議)
○地方教育行政の適正な運営の確保に関する法律
案(輿石東君外六名発議)
○学校教育の環境の整備の推進による教育の振興
に関する法律案(輿石東君外六名発議)
─────────────
中
中曽根弘文#1
○委員長(中曽根弘文君) ただいまから教育基本法に関する特別委員会を開会いたします。
委員の異動について御報告いたします。
昨十一月三十日、鰐淵洋子君が委員を辞任され、その補欠として山下栄一君が選任されました。
また、本日、福島みずほ君が委員を辞任され、その補欠として渕上貞雄君が選任されました。
─────────────
この発言だけを見る →委員の異動について御報告いたします。
昨十一月三十日、鰐淵洋子君が委員を辞任され、その補欠として山下栄一君が選任されました。
また、本日、福島みずほ君が委員を辞任され、その補欠として渕上貞雄君が選任されました。
─────────────
中
中曽根弘文#2
○委員長(中曽根弘文君) 教育基本法案、日本国教育基本法案、地方教育行政の適正な運営の確保に関する法律案及び学校教育の環境の整備の推進による教育の振興に関する法律案、以上四案を一括して議題といたします。
本日は、八洲学園大学生涯学習学部教授・筑波大学名誉教授山本恒夫君、全日本仏教会宗教教育推進特別委員会委員長杉谷義純君、静岡大学教育学部教授馬居政幸君、新潟大学大学院実務法学研究科教授成嶋隆君、新潟大学教育人間科学部助教授・ディフェンス・フォー・チルドレン・インターナショナル日本支部事務局長世取山洋介君及び狭山ヶ丘高等学校校長小川義男君、以上六名の参考人の御出席をいただき、御意見を聴取し、質疑を行います。
この際、参考人の皆様に対し、本委員会を代表して一言ごあいさつを申し上げます。
本日は、御多忙のところ本委員会に御出席をくださいまして、誠にありがとうございます。
皆様から忌憚のない御意見をいただき、今後の審査の参考にいたしたいと存じますので、よろしくお願いいたします。
それでは、議事の進め方について申し上げます。
まず、山本参考人、杉谷参考人、馬居参考人、成嶋参考人、世取山参考人及び小川参考人の順序でお一人十五分以内で御意見をお述べいただき、その後、各委員の質疑にお答えいただきたいと存じます。
なお、御発言は着席のままで結構でございます。
それでは、まず山本参考人からお願いいたします。山本参考人。
この発言だけを見る →本日は、八洲学園大学生涯学習学部教授・筑波大学名誉教授山本恒夫君、全日本仏教会宗教教育推進特別委員会委員長杉谷義純君、静岡大学教育学部教授馬居政幸君、新潟大学大学院実務法学研究科教授成嶋隆君、新潟大学教育人間科学部助教授・ディフェンス・フォー・チルドレン・インターナショナル日本支部事務局長世取山洋介君及び狭山ヶ丘高等学校校長小川義男君、以上六名の参考人の御出席をいただき、御意見を聴取し、質疑を行います。
この際、参考人の皆様に対し、本委員会を代表して一言ごあいさつを申し上げます。
本日は、御多忙のところ本委員会に御出席をくださいまして、誠にありがとうございます。
皆様から忌憚のない御意見をいただき、今後の審査の参考にいたしたいと存じますので、よろしくお願いいたします。
それでは、議事の進め方について申し上げます。
まず、山本参考人、杉谷参考人、馬居参考人、成嶋参考人、世取山参考人及び小川参考人の順序でお一人十五分以内で御意見をお述べいただき、その後、各委員の質疑にお答えいただきたいと存じます。
なお、御発言は着席のままで結構でございます。
それでは、まず山本参考人からお願いいたします。山本参考人。
山
山本恒夫#3
○参考人(山本恒夫君) 山本でございます。今日はこういう機会をお与えくださいまして、ありがとうございました。
私は、生涯学習関係の研究をしております。今回のこの法案につきましては、教育基本法案につきましてですが、時代の変化の激しい中で大事なことを盛り込んでくださっておりますので、私は賛成でございます。
生涯学習のところを中心にお話しさせていただきますが、お手元に資料をお届けしてあるかと思います。その一、「生涯学習について」の頭では法案の条文を少し引いておりますけれども、「国民一人一人が、」「その生涯にわたって、あらゆる機会に、あらゆる場所において学習することができ、その成果を適切に生かすことのできる社会の実現が図られなければならない。」と。これは生涯学習社会のことを言っているわけでございまして、私どもは、やはり教育はこのような生涯学習社会の基盤の上に築かれる必要があるというふうに思っております。
この生涯学習社会につきましては、昭和五十六年の中教審答申「生涯教育について」の中で、学歴社会から学習社会へ転換を図るということが言われております。その後、臨教審で生涯学習社会ということが言われまして、以後ずっと生涯学習社会の建設、実現ということが言われているわけですが、国におかれましても、また地方でも、少しずつ進めるという漸進的アプローチでこの生涯学習を支援する仕組みをつくってきていると思います。しかし、これからますます流動化が進みますから、更にこの整備を加速化する必要があるかと思います。この場合に、例えば各地の自治体なんかですと、せっかくそれを進めようとしても教育基本法にないと、そういうところに法的根拠がないと言われることが多いわけでございまして、この際、是非その法的根拠を与えていただきたいというふうに思っているわけでございます。
お手元の資料のその下ですが、それではどんな仕組みにしていったらいいのかということになるわけですけれども、三点ほどございます。
一つ、この生涯学習社会を実現していくための仕組みとしては、一つは学習機会の選択援助の仕組みと。学習機会がたくさんございます。ですから、それについての生涯学習支援情報を提供する、学習相談を充実させていく。情報提供の方は大分進んできましたけれども、学習相談の方はまだまだ整備が進んでおりません。こういう仕組みを整備していく。
二番目が、学習機会等の提供の仕組みでございます。学校教育、社会教育などとしてございますが、それの学習機会、学習コンテンツの提供システムを整備していく必要がありますが、この中の学習コンテンツはちょっと説明をさせていただきたいと思います。
どういうことかといいますと、例えば放送大学で今衛星系で授業をやっていますけれども、それは録画されて取っておきますと後で使えます。そういうものが学習コンテンツですし、来年の四月からインターネットだけでオンディマンドの授業を行うという大学が開設されるようでございますが、実は八洲学園大学はそれよりも早く、平成十六年にオンディマンドではなくてライブでインターネットで授業をする大学として開設しました。ただし、ここはテキスト履修というのがございます。ですから、テキスト履修とそれからライブ配信というのを併用しているわけでございますが、ライブ配信はトラブルが多くて非常に難しいんですけれども、一年半掛けまして大体安定化に成功しました。ですから、これからいろんな大学でやりやすくなっていくかなと思いますが、その中で一日大体三十こまぐらいの授業があります。それを蓄積しているわけです。経営者の方は、これを何十年と蓄積すれば大変な財産になると言っております。そういうものが学習コンテンツの中にはあるということを一言申し上げておきたいと思います。
それから、その次の学習成果の認定、それから認証サービスの仕組みですが、これは評価にかかわってきますので希望する場合のみのサービスということになりますが、修了証とか単位とか免状とか資格等の付与でございます。これはその条文にございます学習成果を適切に生かすための資料、何か資料がないと社会では認めてもらえません。一生懸命地域で勉強していても、勉強しましたというだけでは認めてもらえませんので、そういう勉強したことを認証する何かの資料が必要という意味でございます。
これについては、その下にございますけれども、一九九九年のケルン・サミットのケルン憲章とか、その後のG8の教育大臣会議議長サマリーでも、生涯学習教育というのは社会における流動性へのパスポートになると言っているわけでございまして、そういうパスポートにしていくためにもこういう資料が必要と。これは整備が遅れてきましたけれども、今中教審の生涯学習分科会の方でいろいろ検討してくださっております。これらの三つの仕組みを整備していく、それを促進する必要があると思います。
そういう点で賛成でございますが、二番目、家庭教育について。新たに入りました条文でございますけれども、家庭教育につきましては二つありまして、時間がありませんので一項目めは省略して、二項目めに「家庭教育の自主性を尊重しつつ、保護者に対する学習の機会及び情報の提供その他の家庭教育を支援するために必要な施策を講ずる」とございます。この中の情報を提供するというところはやはり非常に大事だろうと思います。家庭の教育機能が低下している今日では非常に重要だと思いますが、一つの例を挙げたいと思います。
私のところに結婚して二年目ぐらいのある夫婦がやってまいりまして、子供ができたので喜んで来たわけでございます。そして話しているうちに、しばらくしたら赤ちゃんがしゃっくりを始めたわけですね。そうしたら、若いお母さん、もう子供ができて喜んでいるんですけれども、そのお母さんが何を言ったかというと、先生、お水を下さいと言ったんです。ところが、私は共働きで親と一緒に住んでいまして、親からいろんなことを教わりながら子供を育てていますから、ちょっと待ってと、おしめを見てくださいと言ったわけです。もう皆さんお笑いになっていますけれども、若い人は分かりません。開けてみて、ぬれていたんですよ。それを取り替えたらしゃっくりは止まったんです。
これは、今までだったらば次々と世代を伝わっていきますから当たり前の話なんです。それが分からない。ですから、そういうことをもういろいろ情報として伝えていく必要があります。今、地域でもそういうことを盛んにやるようになってきているので、ますますその点を進めていただきたいというようなことがございます。
それから、その次の現行法の「社会教育」、第七条ですが、その中に「家庭教育及び勤労の場所その他社会において行われる教育は、国及び地方公共団体によつて奨励されなければならない。」とあります。なぜ家庭教育が社会教育のここに入っているのかというのは、やはりその時代の要請があったわけでございます。
その下にございますが、戦後の日本では六三制の義務教育について保護者の理解を得ることが問題であったと。大問題だったようでございます。我々はまだ新制中学の四回生で入ったばっかりですから受ける側としてしか分かりませんけれども、大変な問題でした。で、これをどうするか。結局、PTAにお願いしたりとか、それから社会教育でこの理解を保護者の方に図るということをやったわけでございます。そのために、この現行の教育基本法では、社会教育の一番大事なところは家庭教育というようなことでここに入っているという話を当時のこういう関係の法律を作っていた方々からお聞きしております。
しかし、時代が変わりまして学校をめぐる教育問題というのは変化してまいりまして、もうそれは言わずもがなと思いますが、今や学校、家庭、地域住民等の連携が必要ということで、第十三条にそういう条項を入れていただいておりますけれども、これは非常に大事なことだと思います。
したがって、社会教育から家庭教育を切り離すと同時に、こういうことで連携協力を図るという考えは大変良いと思っておりますので、これについても法的にしっかりした根拠を与えていただきたいというところでございます。
私の方で用意してまいりました第一回目の意見陳述は以上でございます。
この発言だけを見る →私は、生涯学習関係の研究をしております。今回のこの法案につきましては、教育基本法案につきましてですが、時代の変化の激しい中で大事なことを盛り込んでくださっておりますので、私は賛成でございます。
生涯学習のところを中心にお話しさせていただきますが、お手元に資料をお届けしてあるかと思います。その一、「生涯学習について」の頭では法案の条文を少し引いておりますけれども、「国民一人一人が、」「その生涯にわたって、あらゆる機会に、あらゆる場所において学習することができ、その成果を適切に生かすことのできる社会の実現が図られなければならない。」と。これは生涯学習社会のことを言っているわけでございまして、私どもは、やはり教育はこのような生涯学習社会の基盤の上に築かれる必要があるというふうに思っております。
この生涯学習社会につきましては、昭和五十六年の中教審答申「生涯教育について」の中で、学歴社会から学習社会へ転換を図るということが言われております。その後、臨教審で生涯学習社会ということが言われまして、以後ずっと生涯学習社会の建設、実現ということが言われているわけですが、国におかれましても、また地方でも、少しずつ進めるという漸進的アプローチでこの生涯学習を支援する仕組みをつくってきていると思います。しかし、これからますます流動化が進みますから、更にこの整備を加速化する必要があるかと思います。この場合に、例えば各地の自治体なんかですと、せっかくそれを進めようとしても教育基本法にないと、そういうところに法的根拠がないと言われることが多いわけでございまして、この際、是非その法的根拠を与えていただきたいというふうに思っているわけでございます。
お手元の資料のその下ですが、それではどんな仕組みにしていったらいいのかということになるわけですけれども、三点ほどございます。
一つ、この生涯学習社会を実現していくための仕組みとしては、一つは学習機会の選択援助の仕組みと。学習機会がたくさんございます。ですから、それについての生涯学習支援情報を提供する、学習相談を充実させていく。情報提供の方は大分進んできましたけれども、学習相談の方はまだまだ整備が進んでおりません。こういう仕組みを整備していく。
二番目が、学習機会等の提供の仕組みでございます。学校教育、社会教育などとしてございますが、それの学習機会、学習コンテンツの提供システムを整備していく必要がありますが、この中の学習コンテンツはちょっと説明をさせていただきたいと思います。
どういうことかといいますと、例えば放送大学で今衛星系で授業をやっていますけれども、それは録画されて取っておきますと後で使えます。そういうものが学習コンテンツですし、来年の四月からインターネットだけでオンディマンドの授業を行うという大学が開設されるようでございますが、実は八洲学園大学はそれよりも早く、平成十六年にオンディマンドではなくてライブでインターネットで授業をする大学として開設しました。ただし、ここはテキスト履修というのがございます。ですから、テキスト履修とそれからライブ配信というのを併用しているわけでございますが、ライブ配信はトラブルが多くて非常に難しいんですけれども、一年半掛けまして大体安定化に成功しました。ですから、これからいろんな大学でやりやすくなっていくかなと思いますが、その中で一日大体三十こまぐらいの授業があります。それを蓄積しているわけです。経営者の方は、これを何十年と蓄積すれば大変な財産になると言っております。そういうものが学習コンテンツの中にはあるということを一言申し上げておきたいと思います。
それから、その次の学習成果の認定、それから認証サービスの仕組みですが、これは評価にかかわってきますので希望する場合のみのサービスということになりますが、修了証とか単位とか免状とか資格等の付与でございます。これはその条文にございます学習成果を適切に生かすための資料、何か資料がないと社会では認めてもらえません。一生懸命地域で勉強していても、勉強しましたというだけでは認めてもらえませんので、そういう勉強したことを認証する何かの資料が必要という意味でございます。
これについては、その下にございますけれども、一九九九年のケルン・サミットのケルン憲章とか、その後のG8の教育大臣会議議長サマリーでも、生涯学習教育というのは社会における流動性へのパスポートになると言っているわけでございまして、そういうパスポートにしていくためにもこういう資料が必要と。これは整備が遅れてきましたけれども、今中教審の生涯学習分科会の方でいろいろ検討してくださっております。これらの三つの仕組みを整備していく、それを促進する必要があると思います。
そういう点で賛成でございますが、二番目、家庭教育について。新たに入りました条文でございますけれども、家庭教育につきましては二つありまして、時間がありませんので一項目めは省略して、二項目めに「家庭教育の自主性を尊重しつつ、保護者に対する学習の機会及び情報の提供その他の家庭教育を支援するために必要な施策を講ずる」とございます。この中の情報を提供するというところはやはり非常に大事だろうと思います。家庭の教育機能が低下している今日では非常に重要だと思いますが、一つの例を挙げたいと思います。
私のところに結婚して二年目ぐらいのある夫婦がやってまいりまして、子供ができたので喜んで来たわけでございます。そして話しているうちに、しばらくしたら赤ちゃんがしゃっくりを始めたわけですね。そうしたら、若いお母さん、もう子供ができて喜んでいるんですけれども、そのお母さんが何を言ったかというと、先生、お水を下さいと言ったんです。ところが、私は共働きで親と一緒に住んでいまして、親からいろんなことを教わりながら子供を育てていますから、ちょっと待ってと、おしめを見てくださいと言ったわけです。もう皆さんお笑いになっていますけれども、若い人は分かりません。開けてみて、ぬれていたんですよ。それを取り替えたらしゃっくりは止まったんです。
これは、今までだったらば次々と世代を伝わっていきますから当たり前の話なんです。それが分からない。ですから、そういうことをもういろいろ情報として伝えていく必要があります。今、地域でもそういうことを盛んにやるようになってきているので、ますますその点を進めていただきたいというようなことがございます。
それから、その次の現行法の「社会教育」、第七条ですが、その中に「家庭教育及び勤労の場所その他社会において行われる教育は、国及び地方公共団体によつて奨励されなければならない。」とあります。なぜ家庭教育が社会教育のここに入っているのかというのは、やはりその時代の要請があったわけでございます。
その下にございますが、戦後の日本では六三制の義務教育について保護者の理解を得ることが問題であったと。大問題だったようでございます。我々はまだ新制中学の四回生で入ったばっかりですから受ける側としてしか分かりませんけれども、大変な問題でした。で、これをどうするか。結局、PTAにお願いしたりとか、それから社会教育でこの理解を保護者の方に図るということをやったわけでございます。そのために、この現行の教育基本法では、社会教育の一番大事なところは家庭教育というようなことでここに入っているという話を当時のこういう関係の法律を作っていた方々からお聞きしております。
しかし、時代が変わりまして学校をめぐる教育問題というのは変化してまいりまして、もうそれは言わずもがなと思いますが、今や学校、家庭、地域住民等の連携が必要ということで、第十三条にそういう条項を入れていただいておりますけれども、これは非常に大事なことだと思います。
したがって、社会教育から家庭教育を切り離すと同時に、こういうことで連携協力を図るという考えは大変良いと思っておりますので、これについても法的にしっかりした根拠を与えていただきたいというところでございます。
私の方で用意してまいりました第一回目の意見陳述は以上でございます。
中
杉
杉谷義純#5
○参考人(杉谷義純君) ただいま御紹介いただきました全日本仏教会の杉谷でございます。このような大切な場を与えられましたことを心から感謝を申し上げます。
全日本仏教会といいますと、お聞き及びでない先生方もいらっしゃると思いますが、全国にある五十八教宗派、ほとんどの伝統仏教を網羅した組織でございまして、そこで特に宗教教育についてまとめさせていただいたことを今日はお話をさせていただきます。
実は、中教審の中間報告がなされた折に、日本宗教連盟という組織がございまして、そこには全日本仏教会、神社本庁、教派神道連合会、日本キリスト教連合会、新日本宗教団体連合会という日本にあるほとんどの宗教組織が関係しているんでございますが、そちらから意見書をまず中教審に出させていただきました。
その背景と申しますのは、もう先生方御高承のとおり、戦後の日本において、科学技術の目覚ましい発展、さらには経済成長、そういうところに主眼が置かれ時代が流れてきたために、精神文化に対する洞察が非常に粗末になってきたといいますか、力点が置かれてこなかった。そういうようなことから、物質中心主義、さらには命の尊厳の軽視等々、教育の荒廃、また最近に至るいろいろなゆゆしい状況が起きていると。
一方では、政教分離、信教の自由という輝かしい我が国憲法の原則がございますけれども、それを、その精神を十分理解されずに、非宗教性、無宗教、そういうようなことがむしろ社会が進化した状態ではなかろうかというような考え方が進んでまいりました。教育現場における宗教教育の軽視、また教育者の宗教に関する無知というような傾向が表れてきたと。
そういうような中において、日本宗教連盟としては、文化としての宗教について生きた学びをする教育が必要ではなかろうかというような意見書を提出をさせていただいたわけでございます。
それらを土台にしまして更に深めて、具体的に今日資料で先生方にお配りいたしました。全日本仏教会における教育基本法第九条、現行法第九条の改正試案というものを作成して、各方面に御説明、また要請をしてきたわけでございます。
その点について御説明をさせていただきますが、総論的なことは時間もございませんので、今日お渡ししたプリントの最後の方に、総論が「適切なる宗教教育実現のための教育基本法第九条改正に関するお願い」ということに書いてございますので、ひとつ後ほどごらんいただければ大変有り難いと、このように思っております。
そこで、まず具体的に教育基本法九条、これを三つの項目に分けまして、宗教的な伝統や文化に関する基本的知識及び意義、これをやはり教育上重視しなければならないだろうと。さらに第二項として、宗教的感性の涵養、これが心の問題を扱う上で非常に重要であるというようなこと。それから第三項、この禁止規定が、今まで特定の宗教のための宗教教育が禁止されている、これを拡大解釈といいますか、印象的に幅広く、宗教教育は全般的に余りしてはならないというようなことがといいますか、そういう意識が広がりまして、公教育の場では宗教教育というのはちょっと何となくはばかれるというような状況で来ました。ですから、この禁止を、物事を禁止をするということを明確に定めておきませんと、いろいろと法律の運用上、また現場での教育活動が阻害されるんじゃないか、このように思うわけでございます。
そこで、その次に、この改正についての解説を書かせていただいておりますが、その要点をお話をさせていただきたいと。
特に、宗教的な伝統や文化に関する基本的知識及び意義、これを教育上重視しなければならない。これは、どのような社会にも固有の伝統と文化があり、教育の目的がこの社会を形成するより良き人間の育成にあるとするならば、自らが暮らす社会の伝統や文化に関しての知識を持つことが必要不可欠であるというようなことでございますし、日本の文化を学ぶ際に、内外の様々な文化、それらと不可分の関係にある宗教とともに理解することが重要であると。宗教的な伝統や文化を学ぶことによって、私たちはそれらの宗教に包含する多様な世界観、生命観、あるいは人としてのあるべき姿などを学ぶことができるというような立場から、さらには、科学技術等が幾ら便利になり、社会が豊かになっても、やはり人生に意味を与えてくれるものでも人の生き方を指し示すものでもない。そういう意味で、それらを文化の中で主として担っているのは宗教であり、宗教的な伝統や文化を学ぶ意義というもの、これを重視をしなければならないというふうに考えているわけでございます。
さらに第二項としまして、「宗教的感性の涵養及び宗教に関する寛容の態度の育成は、これを尊重する。」。宗教は人類に固有の文化であり、有史以前の様々な遺跡にもその痕跡は残されています。自然の驚異に対する畏怖の念や自然の恵みへの感謝の祈り、新たな生命の誕生を目の当たりにしての深い感動や命の尊厳を感ずる心、そして、だれもが避け得ぬ死への恐怖など、こうした人知を超えた力や超越的存在に対する畏敬の念は、人類の発生以来、宗教的感性として私たちの心の根源的な部分を構成しているものです。そして、社会に存在する様々な宗教は、このような宗教的感性の上に、あるものは習俗となり、あるものは高度な教理として体系化され、様々な形態で表れていると言える。
今日、命の尊さや他人の痛みを感ずることのできる豊かな心をはぐくむ教育が求められています。しかし、それが単に社会規範としての道徳を教えるにとどまるものであらば十分な成果は望めないでありましょう。
こうして宗教的感性の素地は人々の心のうちに共通に備わっていると考えられることから、教育の場で個々の宗教的感性に気付かせ、これを育てるに当たっては、特定の宗教教義や儀礼の介在は必要ないものと考えます。あくまでも、慈悲や愛や祈りや誓願など、諸宗教に共通する宗教的感性に裏付けられた徳性の涵養が図られるべきである、こう考えるわけでございます。
また、宗教に対する寛容という点においては、多様な考え方のある現代社会においては、異なった考えや生き方に関して寛容でなければいけないし、また国際社会を迎え、異文化、異宗教を持った人々と接する機会が多くなった中で、やはりそういう異宗教、異文化に対しての寛容性が求められるのは当然なことでございます。
さらに第三項、国及び地方公共団体が設置する学校は、特定の宗教教義に基づく宗教教育、これは禁止すべきでありますけれども、ただこれをあいまいに特定の宗教教育といたしますと、釈尊のお話やキリストのお話、そういうことまでもはばかれるようなことになってはいけません。禁止規定というのはあくまでも限定的に行わなければいけないと思います。自己の信念体系として宗教を選び取る、これは全く個人の自由でございますけれども、やはり知識及び意義ということを学ぶ必要があるんではないか。
以上でございますが、一、二問題点を申し上げますと、現在、政府案では、宗教に関する一般教養を教育上尊重するとございます。小坂前文科相は、社会科において宗教に関する知識や宗教の意義について指導が適切に行われるようにすると。これは衆議院の委員会で答弁されておりますが、そのようであるならば、なぜ明確に宗教の知識や意義について教えることを尊重すると条文にお書きいただけないのか。あいまいな形でしますと、一般的な教養、まあ大事だけれども、まあ社会科でもちょっと触れているかというようなことで、現状の打開ができない、今まで以上のいい結果が得られないというようなことは過去のいろいろと経緯が示しているんではないか。
さらに、政府案の第二条に、「教育の目標」の中で豊かな情操と道徳心を養うと。この中に、この豊かな情操の中に宗教情操は入っているのかというような御質問が衆議院の委員会であったように聞いておりますが、伊吹文科相は、それは入っていないというような御答弁をされているようでございます。
知識や意義だけを教えるのであれば、これは宗教に関する関心や、また逆に批判精神は生まれますけれども、心の教育、命の尊厳さや他者に対する痛み、また自分の至らなさ、宗教的にはさんげとかざんげとか申し上げますけれども、そういうこと、おかげさまでというような謙虚な気持ち、畏敬の念、そういうものはこの感性を育てなければ生まれていかないのではないかというようなことで、この宗教的感性を大変重要に思うわけでございます。
中教審で長らく御検討をいただきまして、答申がされました。その中にも、宗教の意義を客観的に学ぶことの重要性、宗教教育の禁止規定の拡大解釈の禁止、人格形成上の宗教的情操をはぐくむことの重要性、これが述べてあるにもかかわらず、このことが十分法案に盛られていない。そうなると、せっかくこの戦後の大改正、こういう厳しい時代にすばらしい国民を育てていく、そういうような視点の下に改正を行うというようなことが、なかなか本来の目的が結実してないんではないかというように考えるわけでございます。
そして、あわせて、この大事な教育基本法というものが、党派性を超えて、広く国民的な基盤に立った、今までいろいろな議論が積み重ねられた上でのことであろうかと思いますが、更に慎重に、本来どうあるべきことか、もう一度振り返って、でき得るならば何とかより良い宗教教育が実現できるように先生方のお力添えを賜れば大変有り難いと、このように存じまして、意見陳述を終わらせていただきます。
ありがとうございました。
この発言だけを見る →全日本仏教会といいますと、お聞き及びでない先生方もいらっしゃると思いますが、全国にある五十八教宗派、ほとんどの伝統仏教を網羅した組織でございまして、そこで特に宗教教育についてまとめさせていただいたことを今日はお話をさせていただきます。
実は、中教審の中間報告がなされた折に、日本宗教連盟という組織がございまして、そこには全日本仏教会、神社本庁、教派神道連合会、日本キリスト教連合会、新日本宗教団体連合会という日本にあるほとんどの宗教組織が関係しているんでございますが、そちらから意見書をまず中教審に出させていただきました。
その背景と申しますのは、もう先生方御高承のとおり、戦後の日本において、科学技術の目覚ましい発展、さらには経済成長、そういうところに主眼が置かれ時代が流れてきたために、精神文化に対する洞察が非常に粗末になってきたといいますか、力点が置かれてこなかった。そういうようなことから、物質中心主義、さらには命の尊厳の軽視等々、教育の荒廃、また最近に至るいろいろなゆゆしい状況が起きていると。
一方では、政教分離、信教の自由という輝かしい我が国憲法の原則がございますけれども、それを、その精神を十分理解されずに、非宗教性、無宗教、そういうようなことがむしろ社会が進化した状態ではなかろうかというような考え方が進んでまいりました。教育現場における宗教教育の軽視、また教育者の宗教に関する無知というような傾向が表れてきたと。
そういうような中において、日本宗教連盟としては、文化としての宗教について生きた学びをする教育が必要ではなかろうかというような意見書を提出をさせていただいたわけでございます。
それらを土台にしまして更に深めて、具体的に今日資料で先生方にお配りいたしました。全日本仏教会における教育基本法第九条、現行法第九条の改正試案というものを作成して、各方面に御説明、また要請をしてきたわけでございます。
その点について御説明をさせていただきますが、総論的なことは時間もございませんので、今日お渡ししたプリントの最後の方に、総論が「適切なる宗教教育実現のための教育基本法第九条改正に関するお願い」ということに書いてございますので、ひとつ後ほどごらんいただければ大変有り難いと、このように思っております。
そこで、まず具体的に教育基本法九条、これを三つの項目に分けまして、宗教的な伝統や文化に関する基本的知識及び意義、これをやはり教育上重視しなければならないだろうと。さらに第二項として、宗教的感性の涵養、これが心の問題を扱う上で非常に重要であるというようなこと。それから第三項、この禁止規定が、今まで特定の宗教のための宗教教育が禁止されている、これを拡大解釈といいますか、印象的に幅広く、宗教教育は全般的に余りしてはならないというようなことがといいますか、そういう意識が広がりまして、公教育の場では宗教教育というのはちょっと何となくはばかれるというような状況で来ました。ですから、この禁止を、物事を禁止をするということを明確に定めておきませんと、いろいろと法律の運用上、また現場での教育活動が阻害されるんじゃないか、このように思うわけでございます。
そこで、その次に、この改正についての解説を書かせていただいておりますが、その要点をお話をさせていただきたいと。
特に、宗教的な伝統や文化に関する基本的知識及び意義、これを教育上重視しなければならない。これは、どのような社会にも固有の伝統と文化があり、教育の目的がこの社会を形成するより良き人間の育成にあるとするならば、自らが暮らす社会の伝統や文化に関しての知識を持つことが必要不可欠であるというようなことでございますし、日本の文化を学ぶ際に、内外の様々な文化、それらと不可分の関係にある宗教とともに理解することが重要であると。宗教的な伝統や文化を学ぶことによって、私たちはそれらの宗教に包含する多様な世界観、生命観、あるいは人としてのあるべき姿などを学ぶことができるというような立場から、さらには、科学技術等が幾ら便利になり、社会が豊かになっても、やはり人生に意味を与えてくれるものでも人の生き方を指し示すものでもない。そういう意味で、それらを文化の中で主として担っているのは宗教であり、宗教的な伝統や文化を学ぶ意義というもの、これを重視をしなければならないというふうに考えているわけでございます。
さらに第二項としまして、「宗教的感性の涵養及び宗教に関する寛容の態度の育成は、これを尊重する。」。宗教は人類に固有の文化であり、有史以前の様々な遺跡にもその痕跡は残されています。自然の驚異に対する畏怖の念や自然の恵みへの感謝の祈り、新たな生命の誕生を目の当たりにしての深い感動や命の尊厳を感ずる心、そして、だれもが避け得ぬ死への恐怖など、こうした人知を超えた力や超越的存在に対する畏敬の念は、人類の発生以来、宗教的感性として私たちの心の根源的な部分を構成しているものです。そして、社会に存在する様々な宗教は、このような宗教的感性の上に、あるものは習俗となり、あるものは高度な教理として体系化され、様々な形態で表れていると言える。
今日、命の尊さや他人の痛みを感ずることのできる豊かな心をはぐくむ教育が求められています。しかし、それが単に社会規範としての道徳を教えるにとどまるものであらば十分な成果は望めないでありましょう。
こうして宗教的感性の素地は人々の心のうちに共通に備わっていると考えられることから、教育の場で個々の宗教的感性に気付かせ、これを育てるに当たっては、特定の宗教教義や儀礼の介在は必要ないものと考えます。あくまでも、慈悲や愛や祈りや誓願など、諸宗教に共通する宗教的感性に裏付けられた徳性の涵養が図られるべきである、こう考えるわけでございます。
また、宗教に対する寛容という点においては、多様な考え方のある現代社会においては、異なった考えや生き方に関して寛容でなければいけないし、また国際社会を迎え、異文化、異宗教を持った人々と接する機会が多くなった中で、やはりそういう異宗教、異文化に対しての寛容性が求められるのは当然なことでございます。
さらに第三項、国及び地方公共団体が設置する学校は、特定の宗教教義に基づく宗教教育、これは禁止すべきでありますけれども、ただこれをあいまいに特定の宗教教育といたしますと、釈尊のお話やキリストのお話、そういうことまでもはばかれるようなことになってはいけません。禁止規定というのはあくまでも限定的に行わなければいけないと思います。自己の信念体系として宗教を選び取る、これは全く個人の自由でございますけれども、やはり知識及び意義ということを学ぶ必要があるんではないか。
以上でございますが、一、二問題点を申し上げますと、現在、政府案では、宗教に関する一般教養を教育上尊重するとございます。小坂前文科相は、社会科において宗教に関する知識や宗教の意義について指導が適切に行われるようにすると。これは衆議院の委員会で答弁されておりますが、そのようであるならば、なぜ明確に宗教の知識や意義について教えることを尊重すると条文にお書きいただけないのか。あいまいな形でしますと、一般的な教養、まあ大事だけれども、まあ社会科でもちょっと触れているかというようなことで、現状の打開ができない、今まで以上のいい結果が得られないというようなことは過去のいろいろと経緯が示しているんではないか。
さらに、政府案の第二条に、「教育の目標」の中で豊かな情操と道徳心を養うと。この中に、この豊かな情操の中に宗教情操は入っているのかというような御質問が衆議院の委員会であったように聞いておりますが、伊吹文科相は、それは入っていないというような御答弁をされているようでございます。
知識や意義だけを教えるのであれば、これは宗教に関する関心や、また逆に批判精神は生まれますけれども、心の教育、命の尊厳さや他者に対する痛み、また自分の至らなさ、宗教的にはさんげとかざんげとか申し上げますけれども、そういうこと、おかげさまでというような謙虚な気持ち、畏敬の念、そういうものはこの感性を育てなければ生まれていかないのではないかというようなことで、この宗教的感性を大変重要に思うわけでございます。
中教審で長らく御検討をいただきまして、答申がされました。その中にも、宗教の意義を客観的に学ぶことの重要性、宗教教育の禁止規定の拡大解釈の禁止、人格形成上の宗教的情操をはぐくむことの重要性、これが述べてあるにもかかわらず、このことが十分法案に盛られていない。そうなると、せっかくこの戦後の大改正、こういう厳しい時代にすばらしい国民を育てていく、そういうような視点の下に改正を行うというようなことが、なかなか本来の目的が結実してないんではないかというように考えるわけでございます。
そして、あわせて、この大事な教育基本法というものが、党派性を超えて、広く国民的な基盤に立った、今までいろいろな議論が積み重ねられた上でのことであろうかと思いますが、更に慎重に、本来どうあるべきことか、もう一度振り返って、でき得るならば何とかより良い宗教教育が実現できるように先生方のお力添えを賜れば大変有り難いと、このように存じまして、意見陳述を終わらせていただきます。
ありがとうございました。
中
馬
馬居政幸#7
○参考人(馬居政幸君) 静岡大学の馬居政幸と申します。
私は、教育学部で社会科になる人たちを育てていますが、社会学と社会科教育を担当しております。それから、地域社会における生涯学習、あるいは男女共同参画の推進、あるいは子育て支援、介護支援等の支援活動を行政が行うことにお手伝いをさせていただく仕事を幾つかやってまいりました。研究者としては、そういう中から、いわゆる少子化、高齢化、それから人口減少という段階に入った日本の社会が、その基盤となる教育システムをどのように変えていかなきゃならないのかということを、自分の現在の一番関心を持つ課題として向かっております。その立場から、今回の基本法の改正について意見を述べさせていただきますけれども。
その前に、まず私の基本的な立場というものを申し上げておきますと、個人的には、現行の教育基本法も含めて、国家が国民に対して教育の理念を説くということ自体は余り好きではありません。したがって、現在の教育基本法は、その前の教育勅語と同様に私はない方がいいと思っていますが、しかし、実際にはそういうことを欲している国民があり、あるいはそれがそれなりの機能を持つということを前提としたときに、実証的に社会学の目から見るという意味も含めてですけれども、戦後の日本を平和国家として再建する上で、また現在の自由で豊かな日本社会を構築する上で現行の教育基本法が非常に大きな役割を果たしてきたことは評価したいと思います。
そして、この基本法とほぼ同じ時期に私は生まれた団塊の世代の一人として、また基本法に支えられた日本の教育の世界を対象とする研究者として、基本法の存在を誇りとも思ってきました。しかし、このことは、それゆえにこそ、制定時より六十年近い時間を経て、団塊の世代と全く異なる条件の下で生まれ育った人たちにとって必要な教育の基本法という面では不適切と言わざるを得ないというのもまた私の立場であります。
そういう意味で、問題は変えるか変えないかではなくて、変える方向であり、その理由であります。で、私なりに変える方向として三点、賛成する立場から述べていきたいと思います。
まずその一点は、急激に進行するグローバル化に対応した国家と国民の位置付けの再定義を、個人の自由意思に基づく選択を基盤とする政治システムとの関係において行う必要性であります。
すなわち、国家と国民の関係が変化しているその中において、教育は国家をどのように教えなきゃならないのかということを改めて問い直さなきゃならないと。教えなくていいという時代から教えなきゃならない時代になったときに、何を教えるかという問題になると思います。あるいは、そのときに、どういう論理、システムを前提として考えなきゃならないのかという。
このように考えるようになったのは、私は、九〇年代半ばから韓国で広がる日本の漫画やアニメの子供たちへの影響について調査を続けてまいりました。そのときに、いつも学生を連れていっておりました。そして、向こうの学生と、子供たちと交流をしてきました。
そのときにいつも出てくることは、韓国の子供たちがウリナラという言葉、すなわち我が国ですね、という言葉とともに質問をあるいは詰問を学生たちに浴びせてきます。そのときに、学生たちはみんな戸惑います。その姿からあるいは学生たちの言葉から私が学んだことは、グローバル化という、だれもが日常的に国境を越える状況が進めば進むほど、国の境の自分にとっての意味を語る言葉が必要になるということでした。学生が求めたのは、よく言われる国の近代史を教わっていなかったということではなくて、国家の歴史を何で自分が答えなきゃならないのかという問いでありました。
そういう意味で、今回のいわゆる教育基本法改正に関する論議で最も問題にされる教育の目標を示した第二条の五、「伝統と文化を尊重し」というところと言わばかかわることであります。私はこの、多分紆余曲折したんだと思いますけれども、最後に表れてきた文章を読んだときに、本来異なる理念の下にある与党の二つの党が、対立しながらも粘り強く同意点を積み上げてきた努力に敬意を表したいと思います。多分、お互いに不満を持ちながらこういう案を作ったんだと思います。それに対して、言わばある種の神学論争に近い批判あるいは肯定、あるいは日本語として不自然という批判もありますけれども、私はその不自然さほど、本改正の評価すべき点だと考えます。
すなわち、いろいろと悩みながら論議を尽くしたという過程の中で、特にこの教育の目標として示される国という概念に統治機構が含まれないことを明確にし、ナショナリズムではなくてパトリオティズムとしたこと、さらには、「他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。」という条文で結んでいること、この二重の作業によって、国と郷土を愛する対象と目的に対して、自国中心主義に陥る危険性に歯止めを掛け、他国と世界に開くという方向付けを明確に規定したことを評価したいと思っています。
さらに、この愛する対象の国という概念から統治機構を除いたことによって、これは私自身の考えで、あるいは論議された方がどこまで意図したかは分かりませんけれども、私自身は、このことによってこの基本法が国家と国民の関係を再定義する新たな方向を開示することになったと考えます。その理由は、国を愛することを民に強制することではなく、民が愛することができる国土、自然、文化、社会にすることへの責任をこの基本法を提示した統治機構が負うことを意味するというふうに私は考えました。
他方、統治機構というのは、実際、具体的には政府と政党です。その担い手は国民の中から試験と選挙で選ばれた人たちであります。このことは、一方で、統治機構を担う人を教え育て、選び送り出す役割を国民が担わなければならないことを意味し、他方で、統治機構、すなわち政府と政党は、国民に対して、統治に従うことだけではなくて、統治に誤りがあれば批判し、その担い手を排除することもいとわない態度を教え育てる義務を負うという循環構造によってのみ実現され得るということを意味していると私は考えました。これが統治機構が外された積極的な意味と。
そういう意味で、誤解を恐れずに言えば、このような国と民と統治機構、すなわち政府と政党の循環構造が組み込まれていることにより、現行教育基本法にも潜在する国家の統治機構を介して特別な知識層が特定の理念の下に国民を教え導くという教育勅語の呪縛からようやく解放されたと思います。言わば、特別な基本法ではなくて、通常の基本法に教育基本法が変化したと。具体的な実定法を規定する政府の理念を提示するという意味での他の基本法と同様の基本法に言わば肩を並べるようになったということであります。
そこで、このような民が愛することができる国づくりのために必要な教育課題という観点から、基本法改正の論議を通じて確認していきたいことを指摘したいと思います。それは、人口減少社会という現実であります。すなわち、人口減少社会に適合した教育システムへのソフトランディング、これが基本法改正を必要と私が考える二つ目の条件であります。
そのために必要な条文として評価するのが、新たに加えられた第二章第五条の二のいわゆる義務教育を規定した部分と、第十条の父母その他の保護者のことを規定した部分であります。この二つは、私は、今後の日本という国と社会を担う人の教育という点で、さきの第二条にも増して重要と考えております。
その理由は、この二つの条文を重ねて読むと、義務教育の目的が第五条の二にある国家及び社会の形成者として必要とされる基本的な資質を養うということであるならば、第十条の子の教育について第一義的責任を有することが可能な父母その他の保護者となる基本的な資質を養うことが義務教育に課せられることになるからです。
なぜこのような強引とも思える解釈を強調するのか、その理由をお手元に配付していただいた資料により説明します。
人口減少の状況を示した図でありますけれども、図一は、出生数と出生率のグラフに死亡者のグラフが入り、出生数よりも死亡者が多いことを示す図であります。こういう図は今年初めて出ました。自分で厚生労働白書から取ったものなんですが、ちょっとショッキングだったんですけれども、現行教育基本法成立時には多分想像も付かなかった子供の現実を象徴する図と考えられます。
そして、この六十年間の社会と子供と学校教育の変化を示したのが図二から四です。時間の制約上詳しい説明は省きますけれども、現行教育基本法が誕生した時代の教育、すなわち「国破れて山河あり」から出発し、ベビーブーマーの後、少なく産んで良く育てることを求めた時代の教育と、国豊かになって子供生まれずという社会に変わり、少しでも子供が増えることを願う時代の教育が同じということはないでしょう。
そういう意味で、変えるべき課題は何かということを、私は、ヒントは子供が減る理由から取りたいと思います。
図五から八を見てください。いずれも昨年の国勢調査の集計結果から作成したものなんですけれども、まず図五と六から未婚率が男女ともにバブル景気が始まる一九八〇年代半ばから上昇していることが分かります。最近、未婚率の上昇と社会の格差の拡大を因果関係で結び、出生率低下を格差拡大の証明とみなす論議がありますが、それが一面的な主張であることを示す図であります。
さらに、図七と八は、問題が女性ではなく男性の方にあることを示しています。東京の大田区の場合、三十代後半の男性の三人に一人、四十代前半の四人に一人が独身であります。女性との差が約一〇%あります。
日本は、図二に示すように、現在四十歳代半ばになった一九六〇年を前後して生まれた男女から子供は二人の社会に変わります。この多数派が二人っ子になった男女の高校入学時に進学率は九〇%を超え、大学進学時に専修専門学校制度ができ、合わせれば七割近い男女が高卒後も学校にいる社会になります。その男女が実社会に出た八〇年代の日本経済は、女性の労働力を必要とするポスト工業社会、すなわち情報化の段階に入りました。その八〇年代に女性の大学進学率は男性を超え、短大を含むですけれども、性差ではなく個性と能力によって人を選別配置することが求められる社会に変わりました。
それにもかかわらず、子供を産み育てるのは母親の責任という意識と制度を変えられなかった結果が現在の未婚率の上昇です。ただし、それでも多くの女性は結婚して子供を二人を産み育ててくれています。問題は、仕事を理由に子育てから逃げる男性と、それを強制する働き方であります。
ここまではよく指摘されることですが、より重要なのは、そのような男性像や働き方、より広く人間像や会社、社会像の再生産の役割を学校教育が担ってきたということです。言い換えれば、女性が選ぶ側に、男性が選ばれる側に変わってしまったにもかかわらず、選ばれるために努力する関心、意欲、態度に支えられた知識、技能、表現を男性に教育することを怠った結果が、本当は男女ということになると思いますけれども、男性未婚率上昇の背景にあると考えます。
その結果、子供たちの世界はどうなったか。図九を見てください。団塊の世代は人口千人当たり三十四・三人、団塊ジュニアはその半分の十八・八人、昨年生まれた少子世代はそのまた半分以下の八・五人。さらに、図十を見てください。十八歳以下の子供のいる家庭が、団塊ジュニアの場合、全世帯の半分以上ありましたが、現在は四世帯に一つであります。この二つの変化と合計特殊出生率の変化を重ねたモデル図が図十一で、これは私が作ったものですけれども。どこの家にも四人から五人の子供がいて鍛えられた団塊の世代、同学年の友達だけになった団塊ジュニア、それから、それすらも失った現在の子供たち、その親の孤立した状況を理解できると思います。
家庭の教育力を問題にする前に、家庭をつくる関心、意欲、態度、知識、技能、表現の方法を教えていくことから始めなければ、正に国栄えて人なしとなることを危惧します。これは現行教育基本法が全く想定していない条件だと思います。
もちろん、このことは女性に子供を産み育てることを勧奨する教育が必要ということではありません。仕事は男女ともにできます。しかし、子供を産むことができるのは女性のみで、それも一定の年齢の範囲です。ならば、せめて育てることの責任は、産むことができない男性と社会の仕組みの方で取ること。言い換えれば、子供を産んでくれさえすれば後は社会全体で支えますという制度と意識に急速に転換しない限り、図十二と十三にあるように、現在の六割台にまで再び子供が減少することが推計されています。
これが五条の二の「国家及び社会の形成者として必要とされる基本的な資質を養う」という表現が向かわなければならない現実です。学校教育の目的の重みが理解できると思います。そういう意味で、具体的に規定された今回の教育基本法の積極的な意味があると思います。
さらに、それが具体化する意味でもう一つ、時間が来たんで簡単に終わりたいと思いますけれども、この基本法が国民の教育に対する基本法である以上、日本政府全体の基準にならなければならないということであります。
この基本法が求める教育の在り方を実現するためには、省庁の壁を越えた取組が要求されます。これもまた、現行基本法が成立したときと異なる条件です。このことを象徴するのが第十一条の「幼児期の教育」です。この十一条の対象が、幼稚園だけではなくて、保育園あるいは認可外の保育施設をも含むものでなければならないと考えます。児童福祉法にある保育に欠けるという保育園と幼稚園を分ける基準は、正に現行基本法が施行された時代の条件でした。その基本法の改正が必要ということは、保育園と幼稚園を区別する法と、その前提にある福祉と教育の施設を評価する基準もまた改正すべきであると思います。
あと、少子化への対応と高齢化の持つ問題等がありますが、これはまた改めて質問がありましたら答えたいと思います。あるいは、今のいじめの問題とのかかわりでのレジュメも入れてあります。必要であればまた後で答えたいと思います。
以上であります。
この発言だけを見る →私は、教育学部で社会科になる人たちを育てていますが、社会学と社会科教育を担当しております。それから、地域社会における生涯学習、あるいは男女共同参画の推進、あるいは子育て支援、介護支援等の支援活動を行政が行うことにお手伝いをさせていただく仕事を幾つかやってまいりました。研究者としては、そういう中から、いわゆる少子化、高齢化、それから人口減少という段階に入った日本の社会が、その基盤となる教育システムをどのように変えていかなきゃならないのかということを、自分の現在の一番関心を持つ課題として向かっております。その立場から、今回の基本法の改正について意見を述べさせていただきますけれども。
その前に、まず私の基本的な立場というものを申し上げておきますと、個人的には、現行の教育基本法も含めて、国家が国民に対して教育の理念を説くということ自体は余り好きではありません。したがって、現在の教育基本法は、その前の教育勅語と同様に私はない方がいいと思っていますが、しかし、実際にはそういうことを欲している国民があり、あるいはそれがそれなりの機能を持つということを前提としたときに、実証的に社会学の目から見るという意味も含めてですけれども、戦後の日本を平和国家として再建する上で、また現在の自由で豊かな日本社会を構築する上で現行の教育基本法が非常に大きな役割を果たしてきたことは評価したいと思います。
そして、この基本法とほぼ同じ時期に私は生まれた団塊の世代の一人として、また基本法に支えられた日本の教育の世界を対象とする研究者として、基本法の存在を誇りとも思ってきました。しかし、このことは、それゆえにこそ、制定時より六十年近い時間を経て、団塊の世代と全く異なる条件の下で生まれ育った人たちにとって必要な教育の基本法という面では不適切と言わざるを得ないというのもまた私の立場であります。
そういう意味で、問題は変えるか変えないかではなくて、変える方向であり、その理由であります。で、私なりに変える方向として三点、賛成する立場から述べていきたいと思います。
まずその一点は、急激に進行するグローバル化に対応した国家と国民の位置付けの再定義を、個人の自由意思に基づく選択を基盤とする政治システムとの関係において行う必要性であります。
すなわち、国家と国民の関係が変化しているその中において、教育は国家をどのように教えなきゃならないのかということを改めて問い直さなきゃならないと。教えなくていいという時代から教えなきゃならない時代になったときに、何を教えるかという問題になると思います。あるいは、そのときに、どういう論理、システムを前提として考えなきゃならないのかという。
このように考えるようになったのは、私は、九〇年代半ばから韓国で広がる日本の漫画やアニメの子供たちへの影響について調査を続けてまいりました。そのときに、いつも学生を連れていっておりました。そして、向こうの学生と、子供たちと交流をしてきました。
そのときにいつも出てくることは、韓国の子供たちがウリナラという言葉、すなわち我が国ですね、という言葉とともに質問をあるいは詰問を学生たちに浴びせてきます。そのときに、学生たちはみんな戸惑います。その姿からあるいは学生たちの言葉から私が学んだことは、グローバル化という、だれもが日常的に国境を越える状況が進めば進むほど、国の境の自分にとっての意味を語る言葉が必要になるということでした。学生が求めたのは、よく言われる国の近代史を教わっていなかったということではなくて、国家の歴史を何で自分が答えなきゃならないのかという問いでありました。
そういう意味で、今回のいわゆる教育基本法改正に関する論議で最も問題にされる教育の目標を示した第二条の五、「伝統と文化を尊重し」というところと言わばかかわることであります。私はこの、多分紆余曲折したんだと思いますけれども、最後に表れてきた文章を読んだときに、本来異なる理念の下にある与党の二つの党が、対立しながらも粘り強く同意点を積み上げてきた努力に敬意を表したいと思います。多分、お互いに不満を持ちながらこういう案を作ったんだと思います。それに対して、言わばある種の神学論争に近い批判あるいは肯定、あるいは日本語として不自然という批判もありますけれども、私はその不自然さほど、本改正の評価すべき点だと考えます。
すなわち、いろいろと悩みながら論議を尽くしたという過程の中で、特にこの教育の目標として示される国という概念に統治機構が含まれないことを明確にし、ナショナリズムではなくてパトリオティズムとしたこと、さらには、「他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。」という条文で結んでいること、この二重の作業によって、国と郷土を愛する対象と目的に対して、自国中心主義に陥る危険性に歯止めを掛け、他国と世界に開くという方向付けを明確に規定したことを評価したいと思っています。
さらに、この愛する対象の国という概念から統治機構を除いたことによって、これは私自身の考えで、あるいは論議された方がどこまで意図したかは分かりませんけれども、私自身は、このことによってこの基本法が国家と国民の関係を再定義する新たな方向を開示することになったと考えます。その理由は、国を愛することを民に強制することではなく、民が愛することができる国土、自然、文化、社会にすることへの責任をこの基本法を提示した統治機構が負うことを意味するというふうに私は考えました。
他方、統治機構というのは、実際、具体的には政府と政党です。その担い手は国民の中から試験と選挙で選ばれた人たちであります。このことは、一方で、統治機構を担う人を教え育て、選び送り出す役割を国民が担わなければならないことを意味し、他方で、統治機構、すなわち政府と政党は、国民に対して、統治に従うことだけではなくて、統治に誤りがあれば批判し、その担い手を排除することもいとわない態度を教え育てる義務を負うという循環構造によってのみ実現され得るということを意味していると私は考えました。これが統治機構が外された積極的な意味と。
そういう意味で、誤解を恐れずに言えば、このような国と民と統治機構、すなわち政府と政党の循環構造が組み込まれていることにより、現行教育基本法にも潜在する国家の統治機構を介して特別な知識層が特定の理念の下に国民を教え導くという教育勅語の呪縛からようやく解放されたと思います。言わば、特別な基本法ではなくて、通常の基本法に教育基本法が変化したと。具体的な実定法を規定する政府の理念を提示するという意味での他の基本法と同様の基本法に言わば肩を並べるようになったということであります。
そこで、このような民が愛することができる国づくりのために必要な教育課題という観点から、基本法改正の論議を通じて確認していきたいことを指摘したいと思います。それは、人口減少社会という現実であります。すなわち、人口減少社会に適合した教育システムへのソフトランディング、これが基本法改正を必要と私が考える二つ目の条件であります。
そのために必要な条文として評価するのが、新たに加えられた第二章第五条の二のいわゆる義務教育を規定した部分と、第十条の父母その他の保護者のことを規定した部分であります。この二つは、私は、今後の日本という国と社会を担う人の教育という点で、さきの第二条にも増して重要と考えております。
その理由は、この二つの条文を重ねて読むと、義務教育の目的が第五条の二にある国家及び社会の形成者として必要とされる基本的な資質を養うということであるならば、第十条の子の教育について第一義的責任を有することが可能な父母その他の保護者となる基本的な資質を養うことが義務教育に課せられることになるからです。
なぜこのような強引とも思える解釈を強調するのか、その理由をお手元に配付していただいた資料により説明します。
人口減少の状況を示した図でありますけれども、図一は、出生数と出生率のグラフに死亡者のグラフが入り、出生数よりも死亡者が多いことを示す図であります。こういう図は今年初めて出ました。自分で厚生労働白書から取ったものなんですが、ちょっとショッキングだったんですけれども、現行教育基本法成立時には多分想像も付かなかった子供の現実を象徴する図と考えられます。
そして、この六十年間の社会と子供と学校教育の変化を示したのが図二から四です。時間の制約上詳しい説明は省きますけれども、現行教育基本法が誕生した時代の教育、すなわち「国破れて山河あり」から出発し、ベビーブーマーの後、少なく産んで良く育てることを求めた時代の教育と、国豊かになって子供生まれずという社会に変わり、少しでも子供が増えることを願う時代の教育が同じということはないでしょう。
そういう意味で、変えるべき課題は何かということを、私は、ヒントは子供が減る理由から取りたいと思います。
図五から八を見てください。いずれも昨年の国勢調査の集計結果から作成したものなんですけれども、まず図五と六から未婚率が男女ともにバブル景気が始まる一九八〇年代半ばから上昇していることが分かります。最近、未婚率の上昇と社会の格差の拡大を因果関係で結び、出生率低下を格差拡大の証明とみなす論議がありますが、それが一面的な主張であることを示す図であります。
さらに、図七と八は、問題が女性ではなく男性の方にあることを示しています。東京の大田区の場合、三十代後半の男性の三人に一人、四十代前半の四人に一人が独身であります。女性との差が約一〇%あります。
日本は、図二に示すように、現在四十歳代半ばになった一九六〇年を前後して生まれた男女から子供は二人の社会に変わります。この多数派が二人っ子になった男女の高校入学時に進学率は九〇%を超え、大学進学時に専修専門学校制度ができ、合わせれば七割近い男女が高卒後も学校にいる社会になります。その男女が実社会に出た八〇年代の日本経済は、女性の労働力を必要とするポスト工業社会、すなわち情報化の段階に入りました。その八〇年代に女性の大学進学率は男性を超え、短大を含むですけれども、性差ではなく個性と能力によって人を選別配置することが求められる社会に変わりました。
それにもかかわらず、子供を産み育てるのは母親の責任という意識と制度を変えられなかった結果が現在の未婚率の上昇です。ただし、それでも多くの女性は結婚して子供を二人を産み育ててくれています。問題は、仕事を理由に子育てから逃げる男性と、それを強制する働き方であります。
ここまではよく指摘されることですが、より重要なのは、そのような男性像や働き方、より広く人間像や会社、社会像の再生産の役割を学校教育が担ってきたということです。言い換えれば、女性が選ぶ側に、男性が選ばれる側に変わってしまったにもかかわらず、選ばれるために努力する関心、意欲、態度に支えられた知識、技能、表現を男性に教育することを怠った結果が、本当は男女ということになると思いますけれども、男性未婚率上昇の背景にあると考えます。
その結果、子供たちの世界はどうなったか。図九を見てください。団塊の世代は人口千人当たり三十四・三人、団塊ジュニアはその半分の十八・八人、昨年生まれた少子世代はそのまた半分以下の八・五人。さらに、図十を見てください。十八歳以下の子供のいる家庭が、団塊ジュニアの場合、全世帯の半分以上ありましたが、現在は四世帯に一つであります。この二つの変化と合計特殊出生率の変化を重ねたモデル図が図十一で、これは私が作ったものですけれども。どこの家にも四人から五人の子供がいて鍛えられた団塊の世代、同学年の友達だけになった団塊ジュニア、それから、それすらも失った現在の子供たち、その親の孤立した状況を理解できると思います。
家庭の教育力を問題にする前に、家庭をつくる関心、意欲、態度、知識、技能、表現の方法を教えていくことから始めなければ、正に国栄えて人なしとなることを危惧します。これは現行教育基本法が全く想定していない条件だと思います。
もちろん、このことは女性に子供を産み育てることを勧奨する教育が必要ということではありません。仕事は男女ともにできます。しかし、子供を産むことができるのは女性のみで、それも一定の年齢の範囲です。ならば、せめて育てることの責任は、産むことができない男性と社会の仕組みの方で取ること。言い換えれば、子供を産んでくれさえすれば後は社会全体で支えますという制度と意識に急速に転換しない限り、図十二と十三にあるように、現在の六割台にまで再び子供が減少することが推計されています。
これが五条の二の「国家及び社会の形成者として必要とされる基本的な資質を養う」という表現が向かわなければならない現実です。学校教育の目的の重みが理解できると思います。そういう意味で、具体的に規定された今回の教育基本法の積極的な意味があると思います。
さらに、それが具体化する意味でもう一つ、時間が来たんで簡単に終わりたいと思いますけれども、この基本法が国民の教育に対する基本法である以上、日本政府全体の基準にならなければならないということであります。
この基本法が求める教育の在り方を実現するためには、省庁の壁を越えた取組が要求されます。これもまた、現行基本法が成立したときと異なる条件です。このことを象徴するのが第十一条の「幼児期の教育」です。この十一条の対象が、幼稚園だけではなくて、保育園あるいは認可外の保育施設をも含むものでなければならないと考えます。児童福祉法にある保育に欠けるという保育園と幼稚園を分ける基準は、正に現行基本法が施行された時代の条件でした。その基本法の改正が必要ということは、保育園と幼稚園を区別する法と、その前提にある福祉と教育の施設を評価する基準もまた改正すべきであると思います。
あと、少子化への対応と高齢化の持つ問題等がありますが、これはまた改めて質問がありましたら答えたいと思います。あるいは、今のいじめの問題とのかかわりでのレジュメも入れてあります。必要であればまた後で答えたいと思います。
以上であります。
中
成
成嶋隆#9
○参考人(成嶋隆君) 新潟大学の成嶋でございます。
私は、憲法学及び教育法学を専攻する者としまして、これらの学問的な観点から、主として政府提出の教育基本法案について所見を述べたいと思います。論点は大きく二つありまして、一つは法律主義の限界という問題、もう一点は法と道徳の関係という、原理原則にかかわる問題であります。
第一の法律主義の限界についてであります。
法律主義といいますのは、戦後日本の教育法制の改革の中で確立されました教育法制上の原則の一つであります。これは、戦前日本の学校教育が天皇の発する勅令により規律されるという、いわゆる勅令主義を取っていたのを改めまして、教育に関する事項を国会の制定する法律により規定すべきこと、そして教育行政はその法律に基づいて行うべきことを要請する原則であります。この法律主義の原則は、国会が国民代表機関であり、その定める法律が民主的な正当性を担っていると、そういったことの確認に基づいております。したがいまして、それ自体は極めて積極的な意義を持つ民主主義的なルールであります。
しかしながら、この法律につきましては留意すべき点があると思います。それは、この原則の内に、言わば内在的な限界があるということであります。言うまでもなく、法律を含む法という規範は、違反に対して何らかの制裁が加えられる、つまり強制力を伴うという非常に強力な社会規範であります。これに対しまして、教育という営みはすぐれて精神的、文化的な営みでありまして、そこには強い自律性ないし自主性が確保されなければなりません。とりわけ、教育の内容や方法など、教育の内的事項と呼ばれる領域につきましては、法による画一的な規制に本来なじまない。基本的には、日々の教育実践を踏まえて、教育界において自主的、自律的な討議、あるいは研究を通じて確定されていく、そういったものであると考えられます。
言い換えますと、法律によって規律することが許されるのは、基本的には教育の外的事項、つまり条件整備の面に限られるということであります。そして、仮に教育の内容に関する立法、つまり教育課程立法が許容される場合でありましても、それは教育課程のごく大綱的な、あるいは大枠的な部分に限定されなければならないということであります。
このように、教育に対する立法の関与にはおのずと限界があると考えられますが、このことを教育という営みの持ちますもう一つの本質に照らして考えてみたいと思います。
教育は、現在の世代を超えて次の時代を担う主体の形成、次の時代の新しい文化を創造する人間の形成を任務としております。このことを、近現代の教育思想界に大きな影響を及ぼしましたフランスの教育思想家であるコンドルセという人物は、次のような言葉で語っております。
教育の目的は、既成の意見、既にある意見ですね、既成の意見を神聖化するのではなく、既成の意見を次々の世代の自由な検証にゆだねることにあると、このようにコンドルセは申しております。
つまり、教育が現在の価値を次の世代による自由な検証にゆだねる営みであるということであります。そうであるとしますと、その教育の在り方を現在の世代が法律によって拘束するということは、創造的な、クリエーティブな教育の余地、あるいはそれが将来において開花する可能性の芽を摘み取ってしまう、そういう危険性があります。このことも、教育に対する法による規律が抑制的、謙抑的でなければならないということのもう一つの理由であります。
以上のような原則的な観点から政府の改正案の条項を見てみますと、看過できない問題点が幾つかございます。
まず、教育の目標を定めた法案の第二条であります。既に指摘されておりますように、ここには極めて数多くの道徳規範、つまり徳目が教育の目標として掲げられております。法律の中に道徳を盛り込むということの問題につきましては後ほど申し上げますが、ここでは先ほど申しました教育の在り方についての立法の謙抑性という、これは教育条理上の要請と考えられますけれども、そういった条理上の要請に照らして、この法案二条の規定が自主的、自律的に展開されるべき教育実践を法的に拘束することになるということの問題性を指摘しておきたいと思います。
次に政府案で問題になりますのは教育行政に関する法案の十六条、特にその第一項であります。この規定は、現行法の教育行政条項であります十条一項の規定のうち、その前段にあります「教育は、不当な支配に服することなく、」、この文言は残しておりますが、一項後段の、教育は「国民全体に対し直接に責任を負つて行われるべきものである。」と、この部分を、教育は「この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきもの」という文言に変えております。
政府案において削除されました現行法十条一項後段の部分、私はこれを直接責任の原理と呼んでおりますが、それは、子供の教育につき、親からの信託を受けた学校における教師集団が、免許制度によって公証された専門的な職能を発揮することを通して文字通り直接的に教育責任を果たしていく、このような教育の在り方を定めているというふうに解されます。国家は、そのような自主的、自律的な教育の場あるいは教育空間に権力的な干渉を及ぼしてはならないと、それが一項前段の不当な支配の禁止規定の趣旨であると考えられます。
現行法の十条二項は、教育行政につきまして、「教育行政は、この自覚のもとに、」、つまり一項の自覚の下に、「教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行われなければならない。」と、このように定めております。現行法十条は、このように、教育と教育行政の関係につきまして極めて重要な原則を定めております。
ところで、この現行教基法十条に関しまして、従来から政府は、法令に基づく教育行政機関の行為は、たとえそれが教育内容にわたるものであっても不当な支配には当たらないという解釈を取ってまいりました。
一方、国家の教育への関与につきまして指導的な判断を示しました学力テスト事件に関する一九七六年の最高裁判決は、教育行政機関が教育関係法律を運用する場合には、教基法十条一項の不当な支配とならないように配慮しなければならない拘束を受けており、その意味で、教育基本法十条一項は、法令に基づく教育行政機関の行為にも適用があると、このように判示しております。
元々、この現行教基法十条が、戦前における教育行政というものが、法令に基づく場合も含めて教育内容に対する立ち入った干渉をなしていたということに対する反省に基づいているということを踏まえるならば、この最高裁の解釈の方が私は妥当であるというふうに考えております。
条件整備を基本的な任務とする教育行政機関は、教育の自主性、自律性を損ねるような介入を行うことは、たとえそれが法律に基づいている場合であっても不当な支配となるということであります。
更に申し上げますと、教育行政機関の依拠する法律自体が教育内容への不合理な、あるいは不当な介入、干渉を可能とするようなものであった場合、これも私は不当な支配に該当することになるというふうに考えます。つまり、法律自体が不当であるならば、その法律による行政も当然不当なものになるということであります。言わば、法律による不当な支配と言うことができると思います。
このような見地から、改正法案を再度見てみますと、先ほど指摘しましたように、法案の十六条一項の後段部分が「この法律及び他の法律の定めるところにより」と、このように規定していることが問題となります。「この法律」というのは、言うまでもなく改正教育基本法のことでありますけれども、この改正教育基本法は、二条におきまして道徳規範を教育の目標として掲げ、それを学校教育のみならず、教育のすべての分野に及ぼすような法律であります。このように、私はその改正教基法自体が不当性を帯びているというふうに考えるわけです。そうしますと、それに基づく行政も当然に不当性を帯びるということになるはずであります。
ところで、この法案の十六条一項の規定ですが、私の見たところ、この規定は大日本帝国憲法の権利規定にありました、いわゆる法律の留保という仕組みをほうふつさせるというふうに見ております。法律の留保と申しますのは、例えば旧憲法の二十九条、これは言論、著作等の自由を保障した規定ですが、その二十九条では、日本臣民は法律の範囲内において言論、著作等の自由を有すと、このように規定されています。ここに見られる法律の範囲内においてという文言の示すのがこの法律の留保であります。
その意味するところは、憲法に規定された権利や自由の具体的な保障内容であるとか、あるいはその保障の範囲、これは憲法ではなく法律で定めるというものであります。つまり、すべてはその法律任せ、法律次第ということになります。旧憲法の下では、この法律の留保の仕組みの下で、多数の言論規制立法などが行われ、憲法の言論の自由の保障が実質的には骨抜きになってしまったと、このような経緯がございます。
改正法案の十六条の規定というのは、この法律の留保が果たしたあしき役割を教育の場面で演じる危険性がある。教育の自主性、自律性を保障する現在の教基法を国家による法律を通した、法律の力によるその教育統制立法、このようなものに変質させてしまうということになると思います。
第二の論点は、法案の第二条における徳目の法定の問題であります。このことも非常に重要な問題点をはらんでいるというふうに思われます。
先ほど、教育立法における謙抑、抑制の要請とかかわって、法律が教育の内的事項を規律する際の限界を指摘いたしましたが、とりわけ道徳規範につきましては、これを法律に規定すること自体に大きな問題点があるように考えられます。
実は、この点は教育基本法の立法者たちも十分に自覚していたように思われます。例えば、立法時に文部大臣を務めました田中耕太郎氏は、道徳の徳目などを公権的に、公にですね、公権的に決定することは国家の任務の逸脱であると、このように述べております。
また、教育基本法の立法事務に主導的にかかわった行政法学者の田中二郎氏、この人は後に最高裁の判事を務めました。その判事在任中、いわゆる尊属殺人重罰規定に関する一九七三年の最高裁判決におきまして重要なことを意見として述べております。尊属殺人重罰規定といいますのは、後に一九九五年に削除されました刑法の旧二百条が定めていたものでありまして、尊属殺人、つまり親殺しですね、これを普通殺人よりも重く罰するという規定でありました。この規定に関しまして、田中二郎判事はこのように言っています。
親を尊敬し、尊重するという道徳は、個人の尊厳と人格価値の平等の原理の上に立って、個人の自覚に基づき自発的に遵守されるべき道徳であって、次が大事です、法律をもって強制されたり、刑罰を科すことによって遵守させようとすべきものではない、こういう発言です。
この田中意見のとおり、人間の良心の命令である道徳規範はまさしく諸個人の自覚に基づいて自発的に守られるべきものでありまして、決して法によって強制すべきものではないというふうに考えられます。としますと、正にその道徳規範を法定した法案の第二条はこの点で重大な問題点があると、このように言わなければなりません。
法案二条は、道徳規範を法定するのみならず、更に「態度を養う」という文言にも見られますように、法定された道徳規範に見合うような態度まで求めているということがあります。このことは、憲法との関係でいいますと、思想及び良心の自由を保障した憲法十九条に違反すると、このように考えられます。道徳というのは良心の命令でありますけれども、諸個人の内心における良心の判断、つまり倫理的な価値判断、これが道徳ということであります。その内心における良心の判断の自由を保障したのが憲法十九条であるということになります。
それから、道徳規範を法定することは国家が特定の道徳規範を公定することを意味するわけで、公に定める、このことは憲法十九条の規範内容の一つであります国家の価値中立性という原則に反することになります。耳慣れない表現かもしれませんけれども、この価値中立性といいますのは、例えば憲法学者の西原博史氏によりますと、倫理的、道徳的な領域における国家の中立性ということです。
で、国家が特定……
この発言だけを見る →私は、憲法学及び教育法学を専攻する者としまして、これらの学問的な観点から、主として政府提出の教育基本法案について所見を述べたいと思います。論点は大きく二つありまして、一つは法律主義の限界という問題、もう一点は法と道徳の関係という、原理原則にかかわる問題であります。
第一の法律主義の限界についてであります。
法律主義といいますのは、戦後日本の教育法制の改革の中で確立されました教育法制上の原則の一つであります。これは、戦前日本の学校教育が天皇の発する勅令により規律されるという、いわゆる勅令主義を取っていたのを改めまして、教育に関する事項を国会の制定する法律により規定すべきこと、そして教育行政はその法律に基づいて行うべきことを要請する原則であります。この法律主義の原則は、国会が国民代表機関であり、その定める法律が民主的な正当性を担っていると、そういったことの確認に基づいております。したがいまして、それ自体は極めて積極的な意義を持つ民主主義的なルールであります。
しかしながら、この法律につきましては留意すべき点があると思います。それは、この原則の内に、言わば内在的な限界があるということであります。言うまでもなく、法律を含む法という規範は、違反に対して何らかの制裁が加えられる、つまり強制力を伴うという非常に強力な社会規範であります。これに対しまして、教育という営みはすぐれて精神的、文化的な営みでありまして、そこには強い自律性ないし自主性が確保されなければなりません。とりわけ、教育の内容や方法など、教育の内的事項と呼ばれる領域につきましては、法による画一的な規制に本来なじまない。基本的には、日々の教育実践を踏まえて、教育界において自主的、自律的な討議、あるいは研究を通じて確定されていく、そういったものであると考えられます。
言い換えますと、法律によって規律することが許されるのは、基本的には教育の外的事項、つまり条件整備の面に限られるということであります。そして、仮に教育の内容に関する立法、つまり教育課程立法が許容される場合でありましても、それは教育課程のごく大綱的な、あるいは大枠的な部分に限定されなければならないということであります。
このように、教育に対する立法の関与にはおのずと限界があると考えられますが、このことを教育という営みの持ちますもう一つの本質に照らして考えてみたいと思います。
教育は、現在の世代を超えて次の時代を担う主体の形成、次の時代の新しい文化を創造する人間の形成を任務としております。このことを、近現代の教育思想界に大きな影響を及ぼしましたフランスの教育思想家であるコンドルセという人物は、次のような言葉で語っております。
教育の目的は、既成の意見、既にある意見ですね、既成の意見を神聖化するのではなく、既成の意見を次々の世代の自由な検証にゆだねることにあると、このようにコンドルセは申しております。
つまり、教育が現在の価値を次の世代による自由な検証にゆだねる営みであるということであります。そうであるとしますと、その教育の在り方を現在の世代が法律によって拘束するということは、創造的な、クリエーティブな教育の余地、あるいはそれが将来において開花する可能性の芽を摘み取ってしまう、そういう危険性があります。このことも、教育に対する法による規律が抑制的、謙抑的でなければならないということのもう一つの理由であります。
以上のような原則的な観点から政府の改正案の条項を見てみますと、看過できない問題点が幾つかございます。
まず、教育の目標を定めた法案の第二条であります。既に指摘されておりますように、ここには極めて数多くの道徳規範、つまり徳目が教育の目標として掲げられております。法律の中に道徳を盛り込むということの問題につきましては後ほど申し上げますが、ここでは先ほど申しました教育の在り方についての立法の謙抑性という、これは教育条理上の要請と考えられますけれども、そういった条理上の要請に照らして、この法案二条の規定が自主的、自律的に展開されるべき教育実践を法的に拘束することになるということの問題性を指摘しておきたいと思います。
次に政府案で問題になりますのは教育行政に関する法案の十六条、特にその第一項であります。この規定は、現行法の教育行政条項であります十条一項の規定のうち、その前段にあります「教育は、不当な支配に服することなく、」、この文言は残しておりますが、一項後段の、教育は「国民全体に対し直接に責任を負つて行われるべきものである。」と、この部分を、教育は「この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきもの」という文言に変えております。
政府案において削除されました現行法十条一項後段の部分、私はこれを直接責任の原理と呼んでおりますが、それは、子供の教育につき、親からの信託を受けた学校における教師集団が、免許制度によって公証された専門的な職能を発揮することを通して文字通り直接的に教育責任を果たしていく、このような教育の在り方を定めているというふうに解されます。国家は、そのような自主的、自律的な教育の場あるいは教育空間に権力的な干渉を及ぼしてはならないと、それが一項前段の不当な支配の禁止規定の趣旨であると考えられます。
現行法の十条二項は、教育行政につきまして、「教育行政は、この自覚のもとに、」、つまり一項の自覚の下に、「教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行われなければならない。」と、このように定めております。現行法十条は、このように、教育と教育行政の関係につきまして極めて重要な原則を定めております。
ところで、この現行教基法十条に関しまして、従来から政府は、法令に基づく教育行政機関の行為は、たとえそれが教育内容にわたるものであっても不当な支配には当たらないという解釈を取ってまいりました。
一方、国家の教育への関与につきまして指導的な判断を示しました学力テスト事件に関する一九七六年の最高裁判決は、教育行政機関が教育関係法律を運用する場合には、教基法十条一項の不当な支配とならないように配慮しなければならない拘束を受けており、その意味で、教育基本法十条一項は、法令に基づく教育行政機関の行為にも適用があると、このように判示しております。
元々、この現行教基法十条が、戦前における教育行政というものが、法令に基づく場合も含めて教育内容に対する立ち入った干渉をなしていたということに対する反省に基づいているということを踏まえるならば、この最高裁の解釈の方が私は妥当であるというふうに考えております。
条件整備を基本的な任務とする教育行政機関は、教育の自主性、自律性を損ねるような介入を行うことは、たとえそれが法律に基づいている場合であっても不当な支配となるということであります。
更に申し上げますと、教育行政機関の依拠する法律自体が教育内容への不合理な、あるいは不当な介入、干渉を可能とするようなものであった場合、これも私は不当な支配に該当することになるというふうに考えます。つまり、法律自体が不当であるならば、その法律による行政も当然不当なものになるということであります。言わば、法律による不当な支配と言うことができると思います。
このような見地から、改正法案を再度見てみますと、先ほど指摘しましたように、法案の十六条一項の後段部分が「この法律及び他の法律の定めるところにより」と、このように規定していることが問題となります。「この法律」というのは、言うまでもなく改正教育基本法のことでありますけれども、この改正教育基本法は、二条におきまして道徳規範を教育の目標として掲げ、それを学校教育のみならず、教育のすべての分野に及ぼすような法律であります。このように、私はその改正教基法自体が不当性を帯びているというふうに考えるわけです。そうしますと、それに基づく行政も当然に不当性を帯びるということになるはずであります。
ところで、この法案の十六条一項の規定ですが、私の見たところ、この規定は大日本帝国憲法の権利規定にありました、いわゆる法律の留保という仕組みをほうふつさせるというふうに見ております。法律の留保と申しますのは、例えば旧憲法の二十九条、これは言論、著作等の自由を保障した規定ですが、その二十九条では、日本臣民は法律の範囲内において言論、著作等の自由を有すと、このように規定されています。ここに見られる法律の範囲内においてという文言の示すのがこの法律の留保であります。
その意味するところは、憲法に規定された権利や自由の具体的な保障内容であるとか、あるいはその保障の範囲、これは憲法ではなく法律で定めるというものであります。つまり、すべてはその法律任せ、法律次第ということになります。旧憲法の下では、この法律の留保の仕組みの下で、多数の言論規制立法などが行われ、憲法の言論の自由の保障が実質的には骨抜きになってしまったと、このような経緯がございます。
改正法案の十六条の規定というのは、この法律の留保が果たしたあしき役割を教育の場面で演じる危険性がある。教育の自主性、自律性を保障する現在の教基法を国家による法律を通した、法律の力によるその教育統制立法、このようなものに変質させてしまうということになると思います。
第二の論点は、法案の第二条における徳目の法定の問題であります。このことも非常に重要な問題点をはらんでいるというふうに思われます。
先ほど、教育立法における謙抑、抑制の要請とかかわって、法律が教育の内的事項を規律する際の限界を指摘いたしましたが、とりわけ道徳規範につきましては、これを法律に規定すること自体に大きな問題点があるように考えられます。
実は、この点は教育基本法の立法者たちも十分に自覚していたように思われます。例えば、立法時に文部大臣を務めました田中耕太郎氏は、道徳の徳目などを公権的に、公にですね、公権的に決定することは国家の任務の逸脱であると、このように述べております。
また、教育基本法の立法事務に主導的にかかわった行政法学者の田中二郎氏、この人は後に最高裁の判事を務めました。その判事在任中、いわゆる尊属殺人重罰規定に関する一九七三年の最高裁判決におきまして重要なことを意見として述べております。尊属殺人重罰規定といいますのは、後に一九九五年に削除されました刑法の旧二百条が定めていたものでありまして、尊属殺人、つまり親殺しですね、これを普通殺人よりも重く罰するという規定でありました。この規定に関しまして、田中二郎判事はこのように言っています。
親を尊敬し、尊重するという道徳は、個人の尊厳と人格価値の平等の原理の上に立って、個人の自覚に基づき自発的に遵守されるべき道徳であって、次が大事です、法律をもって強制されたり、刑罰を科すことによって遵守させようとすべきものではない、こういう発言です。
この田中意見のとおり、人間の良心の命令である道徳規範はまさしく諸個人の自覚に基づいて自発的に守られるべきものでありまして、決して法によって強制すべきものではないというふうに考えられます。としますと、正にその道徳規範を法定した法案の第二条はこの点で重大な問題点があると、このように言わなければなりません。
法案二条は、道徳規範を法定するのみならず、更に「態度を養う」という文言にも見られますように、法定された道徳規範に見合うような態度まで求めているということがあります。このことは、憲法との関係でいいますと、思想及び良心の自由を保障した憲法十九条に違反すると、このように考えられます。道徳というのは良心の命令でありますけれども、諸個人の内心における良心の判断、つまり倫理的な価値判断、これが道徳ということであります。その内心における良心の判断の自由を保障したのが憲法十九条であるということになります。
それから、道徳規範を法定することは国家が特定の道徳規範を公定することを意味するわけで、公に定める、このことは憲法十九条の規範内容の一つであります国家の価値中立性という原則に反することになります。耳慣れない表現かもしれませんけれども、この価値中立性といいますのは、例えば憲法学者の西原博史氏によりますと、倫理的、道徳的な領域における国家の中立性ということです。
で、国家が特定……
中
成
成嶋隆#11
○参考人(成嶋隆君) はい。
国家が特定内容の倫理的な、道徳的な規範にくみすること、あるいは国家が道徳に関する監督の任務を引き受けることは許されないと、そういう原則であります。で、法案二条はまさしくこのように国家が特定の世界観を正当なものとして公認したということを意味するわけですので、この点でも憲法十九条に違反いたします。
まとめます。総じて教育基本法案は、教育や道徳に対する法の関与の在り方という点で極めて重大な問題点を含んでいると思われます。参議院は良識の府、理性の府と言われています。法改正を含むその立法の本来の在り方について、良識ある判断を切に望むものであります。
ありがとうございました。
この発言だけを見る →国家が特定内容の倫理的な、道徳的な規範にくみすること、あるいは国家が道徳に関する監督の任務を引き受けることは許されないと、そういう原則であります。で、法案二条はまさしくこのように国家が特定の世界観を正当なものとして公認したということを意味するわけですので、この点でも憲法十九条に違反いたします。
まとめます。総じて教育基本法案は、教育や道徳に対する法の関与の在り方という点で極めて重大な問題点を含んでいると思われます。参議院は良識の府、理性の府と言われています。法改正を含むその立法の本来の在り方について、良識ある判断を切に望むものであります。
ありがとうございました。
中
世
世取山洋介#13
○参考人(世取山洋介君) 世取山です。今日はこういう機会を与えていただきまして、ありがとうございました。
私は、職業研究者として新潟大学に勤めており、教育行政、教育法、そして子供の権利を専門としております。また、ボランティアベースでありますけれども、国連子どもの権利条約と深い関係を持つディフェンス・フォー・チルドレン・インターナショナルというところの日本支部の事務局長を九四年以来務めてきました。
今日私がお話ししたいのは、子供の権利という観点から見た国会審議の問題点、現行教育基本法の先駆性及び政府法案の問題点ないしは欠陥についてです。二つの国会にまたがって百三十時間ぐらいの審議が行われてきたことは承知しておりますし、可能な限りそれをフォローし、精査するように努めてまいりました。
で、その成果に基づいてはっきり申し上げなければならないのは、実はこの国会の中で子供の権利という観点からの法案審議がさほど充実してなされていないということです。例えば政府法案の最大のポイントになっている第十六条ですけれども、ここでは現行法十条の一項の規定の趣旨、すなわち、たとえ国会の定めた法律に基づくものであったとしても行政の行為が不当な支配に該当する場合があり得るのだという現行教育基本法の十条の趣旨が十六条においてもなお継承されているのかどうかということがこの議場で大きな問題とされてきました。
その際、委員の多くの方が引用するのは、七六年の最高裁学テ判決ということになるわけですけれども、引用されている部分は、まあかぎ括弧ですけれども、教育内容に対する国家的介入についてはできるだけ抑制的であることが要請されると、この部分です。
しかしながら、その直後について、一体なぜ国家的干渉が抑制的であることが望まれるのかということの理由を子供の権利という観点から指摘した次の文章はさほど引用されているわけではありません。読みます。「殊に個人の基本的自由を認め、その人格の独立を国政上尊重すべきものとしている憲法の下においては、子どもが自由かつ独立の人格として成長することを妨げるような国家的介入、」、中略しますが、「は、憲法二十六条、十三条の規定上からも許されない」と。
憲法十三条は個人の尊重原理を定めたものであります。しかし、もし仮に国家が、人間が自立した大人になる前の子供時代に自由に干渉することができるとすれば、実は将来における自立した大人というのは子供時代において根絶やしにされることになるわけです。したがって、憲法十三条の個人の尊重原理から見れば、子供時代を国家干渉からどのように守るのかということは当然重大な関心事とならざるを得ないわけです。
現行教育基本法の先駆的な性格として指摘しなければならないのは、この関心を既に持ちながらこの教育基本法がもう作られたという事実です。例えば、前文では個人の尊厳を重んじる教育が行われなければならないとはっきり言い、そしてそのような教育の目的が、教育の第一目的が人格の完成、すなわち人格の全面的発達に求められることを第一条で明らかにし、その結果としてのみ良き国民形成が行われるということを明らかにしている。さらに、第二条においては、そういった人格の完成を満たす教育が行われなければならない方法について規定しているわけですけれども、そこで書いてあることは、学問の自由の尊重と自他の敬愛と協力なわけです。今風に言いますと、相互尊重と協働に基づいて教育が行われなければならないんだということを二条は実は言っているわけなんですね。
教育基本法の立法者意思を最もよく示すと言われている一九四七年の「教育基本法の解説」を読みますと、十条のところを読みますと、実は十条は民主主義国家における国家と国民との関係についての規定なので、本来であれば二条に規定されていてしかるべきだったんだけれども、しかし特に教育行政に関係するので独立した条項に起こしたと言っているわけです。つまり、二条と十条は表裏一体の関係にあり、自他の敬愛と協力、学問の自由の尊重という言葉は十条一項において、引用しますが、教育は国民全体に対して直接責任を負って行わなければならないと言い換えられているわけです。
先ほど直接責任については成嶋先生から説明がありまして、そのとおりだと思いますので、それについては説明は加えませんが、皆さんに対しては釈迦に説法であるということを重々承知した上で、直接責任と対になる概念、すなわち間接責任とは一体何なのかということの定義だけはここで言っておきたいと思います。それは、国会に定められた法律に従って教育を実行し、国民代表を通してそれを選出した親や国民に対して責任を果たすという考え方です。教育基本法十条は、個人の尊重原理から出発し、直接責任性を採用したということになっているわけです。つまり、個人の尊重原則に基づけば、教育における責任の果たし方というのは直接責任以外あり得ないというのが一九四七年に日本人が示した見解だということになるわけです。
教育基本法の骨格というのは、前文、一条、二条、十条ということになっているわけですけれども、政府法案の最も大きな特徴は、この背骨に対して実に精密で緻密なアタックを掛けているということです。
政府法案は、前文で「個人の尊厳を重んじ、」とは言っているんですけれども、それは個人の尊厳を重んじる人間というふうに係っておりまして、結局国家との関係における個人の尊厳の尊重原理は骨抜きにされているわけです。したがって、そのような骨抜きにされた下において第一条に規定されている人格の完成というものも骨抜きにされていくわけで、むしろ第一条の後段に規定されている、必要とされる資質を身に付けた国民育成こそが実は政府法案においては教育の第一目的となっているというふうに言って構わないというふうに思います。しかも、第二条では二十以上にわたる徳目が規定され、そして第十六条では直接責任が明示的に排除されて、間接責任が採用されているということになっているわけですね。
現行教育基本法が個人の尊厳原理に基づく教育の自主性擁護法であったというふうに言うのであれば、政府法案は端的に教育の国家統制法だと言うべきであると思いますし、最高裁学テが示した子供時代に対する配慮は喪失させられているというふうに言っておきたいと思います。
これが政府法案の最大の問題点なわけですけれども、あえて二つだけ突き付けられている問題点を指摘したいと思います。
一つは二条です。
二条に掲げられている一号から五号の徳目の構造というのは現行学習指導要領の道徳編とほぼ同じです。これは何を意味しているかというと、学習指導要領を基本法に格上げするということを意味しています。しかも、道徳だけを基本法に格上げしているわけですから、道徳が筆頭科目化されることになるわけです。そうすれば、英、数、国、理、社などの教科教育が道徳教育化させられるということが法的にオーソライズされるという極めて大きな問題点を持っており、これはもちろん修身が筆頭教科であった戦前の教育制度を想起させるものとなっているわけですが、しかし残念ながらこの問題はまだこの国会において取り上げられているわけではないということです。
第二番目に指摘しなければならないのは十六条と十七条の問題です。
経済財政諮問会議や規制改革・民間開放推進会議が提案している学テ、学校ごとの成績公表、学校選択、バウチャー制度などが結局内閣が自由に決めることができるようになって、トップダウンで降ってきたそのような指令を無限定の権限を持つ文科省が実行できる体制ができ上がるわけですけれども、しかしあえて言いますけれども、新しい学力テスト体制が最高裁学テ判決で示した合憲性審査の基準をクリアできるかどうかは私には疑問です。
ここでもう一度最高裁学テ判決に戻りますが、最高裁学テ判決の十条解釈の最大のポイントは、それを教育人権と結び付けたというところにあるわけです。つまり、二十六条の背後には子供の学習する権利があると言い、さらに、一定範囲の下において、初等中等教育の教師にも教育の自由があるというふうにはっきり述べています。
その際に根拠としたのは、引用しますが、子供の教育が教師と子供との間の直接の人格的接触を通じ、その個性に応じて行われなければならないという本質的要請があるからこそ自由が必要とされると言っているわけです。ただ、これは三十年前の判決でして、この三十年間、子供の権利は飛躍的に進展していて、それは国連子どもの権利条約に規定されているわけです。
六条二項では、生存と発達が子供の権利であることを確認した上で、さらに十二条では、意見表明権を規定しています。
これは、子供に自由に意見を表明させ、これは感情も含めてですけれども、その表明した感情や意見に対して大人が適切に応答しなければならないということを規定したものですけれども、実はこれは、こういう大人と子供との間の応答的な関係、決して大人に対して服従するという権威的関係ではなくて、そういう応答的な関係こそが子供の人間としての成長、発達をもたらすというふうに考えている条項であるわけです。これを、先ほど言った最高裁学テの本質的要請と共鳴していることは比較的分かりやすいことだというふうに私は思います。
もし政府が、教基法、最高裁学テ判決、そして国連子どもの権利条約というものを真剣に考えるとなるとすれば、最低限四つのことが必要とされると思います。
一つ、子供の要求への柔軟な応答を不可能にするような国家介入を差し控えること。二つ、自らの要求や欲求を表明できなくするような子供へのプレッシャーを減じること。具体的には、競争主義的な教育制度を改めるということ。第三に、大人が子供の要求に応答できるような条件を整備すること。端的に言えば少人数学級の実現です。そして第四に、学校において子供の自由な意見表明を奨励し、子供の要求に応じる自由と責任を教師に移譲していくこと。
以上の四つの観点から見た場合に、政府法案が数多くの問題点を持っているということは確かだと思いますが、時間がありませんので、一つだけ指摘させていただきたいというふうに思います。
国連子どもの権利条約の実施監視機関である国連子どもの権利委員会は、既に九八年と〇四年に日本政府報告の審査を行っております。そこで、次のような懸念を九八年に示しました。これ外務省訳ですけれども、児童が、高度に競争的な教育制度のストレス及びその結果としての余暇、運動、休息の時間が欠如していることにより、発達障害にさらされていることについて、条約の原則及び規定、特に第三条、第六条、第十二条、第二十九条及び第三十一条に照らし懸念する。
つまり、ここでは既に日本の教育制度全体が子供の成長、発達権と相当に緊張関係を持っているということが国際的には承認されているわけです。にもかかわらず、どういうわけかこの競争主義的な教育制度を更に競争主義的にする新学力テスト体制の導入が政府によって提唱されているということになるわけです。
その際、伊吹文科大臣は、今の日本の教育の実態は余りにもひどいので、そのマイナス面を引き受けてもなおそれを実行する必要があるのだというふうに言っているわけですけれども、しかしこの国会に、日本の学力をめぐる、何がどういうふうに悪くて、それが何に由来するのかということについての量的、質的なデータが出たということは私は知っておりません。したがって、立法事実はここでもやみの中ということになります。
これに対して、国連子どもの権利委員会は、競争主義的教育制度の是正のためには、今の質の高い教育を維持しながら、高校を卒業すればだれでも高等教育に進学することが可能なカリキュラムをNGOと一緒に開発すべきだということも言っています。さらに、競争主義的教育制度から受けるプレッシャーを他の子供に転嫁することを意味しているいじめについては、子供の参加の下にその解決を図れと言っているわけです。ここに教育基本法に示された個人の尊重原理、直接責任、さらには最高裁学テ判決が示した子供自体の尊重の発展形を見ることは実に簡単なことであるというのが私の意見です。
教育の自主性擁護法、個人の尊厳原則に基づく教育の自主性擁護法を皆さんは発展させていくのか、それとも全く逆の教育の国家統制法の道を選ぶのか、相当に重大な選択を皆様はこれからされようとしているのだろうというふうに思います。
ただ、研究者としてあるいはボランティアのアクティビストとして言いますが、選択をするのに果たして国会内で十分な議論がされたと言えるのでしょうか。立法者意思は明確にされたのでしょうか。立法事実はどうでしょうか。さらに、この国会の外に目を転じてみれば、果たして国民的議論は十分展開したと言えるのでしょうか。あるいは、国民的合意は成立したと言えるのでしょうか。教育は国家百年の計だというふうに言いますけれども、相互信頼に基づかない基本法制定は将来に必ず禍根を残すということを申し上げて、意見陳述を終わりとします。
どうもありがとうございました。
この発言だけを見る →私は、職業研究者として新潟大学に勤めており、教育行政、教育法、そして子供の権利を専門としております。また、ボランティアベースでありますけれども、国連子どもの権利条約と深い関係を持つディフェンス・フォー・チルドレン・インターナショナルというところの日本支部の事務局長を九四年以来務めてきました。
今日私がお話ししたいのは、子供の権利という観点から見た国会審議の問題点、現行教育基本法の先駆性及び政府法案の問題点ないしは欠陥についてです。二つの国会にまたがって百三十時間ぐらいの審議が行われてきたことは承知しておりますし、可能な限りそれをフォローし、精査するように努めてまいりました。
で、その成果に基づいてはっきり申し上げなければならないのは、実はこの国会の中で子供の権利という観点からの法案審議がさほど充実してなされていないということです。例えば政府法案の最大のポイントになっている第十六条ですけれども、ここでは現行法十条の一項の規定の趣旨、すなわち、たとえ国会の定めた法律に基づくものであったとしても行政の行為が不当な支配に該当する場合があり得るのだという現行教育基本法の十条の趣旨が十六条においてもなお継承されているのかどうかということがこの議場で大きな問題とされてきました。
その際、委員の多くの方が引用するのは、七六年の最高裁学テ判決ということになるわけですけれども、引用されている部分は、まあかぎ括弧ですけれども、教育内容に対する国家的介入についてはできるだけ抑制的であることが要請されると、この部分です。
しかしながら、その直後について、一体なぜ国家的干渉が抑制的であることが望まれるのかということの理由を子供の権利という観点から指摘した次の文章はさほど引用されているわけではありません。読みます。「殊に個人の基本的自由を認め、その人格の独立を国政上尊重すべきものとしている憲法の下においては、子どもが自由かつ独立の人格として成長することを妨げるような国家的介入、」、中略しますが、「は、憲法二十六条、十三条の規定上からも許されない」と。
憲法十三条は個人の尊重原理を定めたものであります。しかし、もし仮に国家が、人間が自立した大人になる前の子供時代に自由に干渉することができるとすれば、実は将来における自立した大人というのは子供時代において根絶やしにされることになるわけです。したがって、憲法十三条の個人の尊重原理から見れば、子供時代を国家干渉からどのように守るのかということは当然重大な関心事とならざるを得ないわけです。
現行教育基本法の先駆的な性格として指摘しなければならないのは、この関心を既に持ちながらこの教育基本法がもう作られたという事実です。例えば、前文では個人の尊厳を重んじる教育が行われなければならないとはっきり言い、そしてそのような教育の目的が、教育の第一目的が人格の完成、すなわち人格の全面的発達に求められることを第一条で明らかにし、その結果としてのみ良き国民形成が行われるということを明らかにしている。さらに、第二条においては、そういった人格の完成を満たす教育が行われなければならない方法について規定しているわけですけれども、そこで書いてあることは、学問の自由の尊重と自他の敬愛と協力なわけです。今風に言いますと、相互尊重と協働に基づいて教育が行われなければならないんだということを二条は実は言っているわけなんですね。
教育基本法の立法者意思を最もよく示すと言われている一九四七年の「教育基本法の解説」を読みますと、十条のところを読みますと、実は十条は民主主義国家における国家と国民との関係についての規定なので、本来であれば二条に規定されていてしかるべきだったんだけれども、しかし特に教育行政に関係するので独立した条項に起こしたと言っているわけです。つまり、二条と十条は表裏一体の関係にあり、自他の敬愛と協力、学問の自由の尊重という言葉は十条一項において、引用しますが、教育は国民全体に対して直接責任を負って行わなければならないと言い換えられているわけです。
先ほど直接責任については成嶋先生から説明がありまして、そのとおりだと思いますので、それについては説明は加えませんが、皆さんに対しては釈迦に説法であるということを重々承知した上で、直接責任と対になる概念、すなわち間接責任とは一体何なのかということの定義だけはここで言っておきたいと思います。それは、国会に定められた法律に従って教育を実行し、国民代表を通してそれを選出した親や国民に対して責任を果たすという考え方です。教育基本法十条は、個人の尊重原理から出発し、直接責任性を採用したということになっているわけです。つまり、個人の尊重原則に基づけば、教育における責任の果たし方というのは直接責任以外あり得ないというのが一九四七年に日本人が示した見解だということになるわけです。
教育基本法の骨格というのは、前文、一条、二条、十条ということになっているわけですけれども、政府法案の最も大きな特徴は、この背骨に対して実に精密で緻密なアタックを掛けているということです。
政府法案は、前文で「個人の尊厳を重んじ、」とは言っているんですけれども、それは個人の尊厳を重んじる人間というふうに係っておりまして、結局国家との関係における個人の尊厳の尊重原理は骨抜きにされているわけです。したがって、そのような骨抜きにされた下において第一条に規定されている人格の完成というものも骨抜きにされていくわけで、むしろ第一条の後段に規定されている、必要とされる資質を身に付けた国民育成こそが実は政府法案においては教育の第一目的となっているというふうに言って構わないというふうに思います。しかも、第二条では二十以上にわたる徳目が規定され、そして第十六条では直接責任が明示的に排除されて、間接責任が採用されているということになっているわけですね。
現行教育基本法が個人の尊厳原理に基づく教育の自主性擁護法であったというふうに言うのであれば、政府法案は端的に教育の国家統制法だと言うべきであると思いますし、最高裁学テが示した子供時代に対する配慮は喪失させられているというふうに言っておきたいと思います。
これが政府法案の最大の問題点なわけですけれども、あえて二つだけ突き付けられている問題点を指摘したいと思います。
一つは二条です。
二条に掲げられている一号から五号の徳目の構造というのは現行学習指導要領の道徳編とほぼ同じです。これは何を意味しているかというと、学習指導要領を基本法に格上げするということを意味しています。しかも、道徳だけを基本法に格上げしているわけですから、道徳が筆頭科目化されることになるわけです。そうすれば、英、数、国、理、社などの教科教育が道徳教育化させられるということが法的にオーソライズされるという極めて大きな問題点を持っており、これはもちろん修身が筆頭教科であった戦前の教育制度を想起させるものとなっているわけですが、しかし残念ながらこの問題はまだこの国会において取り上げられているわけではないということです。
第二番目に指摘しなければならないのは十六条と十七条の問題です。
経済財政諮問会議や規制改革・民間開放推進会議が提案している学テ、学校ごとの成績公表、学校選択、バウチャー制度などが結局内閣が自由に決めることができるようになって、トップダウンで降ってきたそのような指令を無限定の権限を持つ文科省が実行できる体制ができ上がるわけですけれども、しかしあえて言いますけれども、新しい学力テスト体制が最高裁学テ判決で示した合憲性審査の基準をクリアできるかどうかは私には疑問です。
ここでもう一度最高裁学テ判決に戻りますが、最高裁学テ判決の十条解釈の最大のポイントは、それを教育人権と結び付けたというところにあるわけです。つまり、二十六条の背後には子供の学習する権利があると言い、さらに、一定範囲の下において、初等中等教育の教師にも教育の自由があるというふうにはっきり述べています。
その際に根拠としたのは、引用しますが、子供の教育が教師と子供との間の直接の人格的接触を通じ、その個性に応じて行われなければならないという本質的要請があるからこそ自由が必要とされると言っているわけです。ただ、これは三十年前の判決でして、この三十年間、子供の権利は飛躍的に進展していて、それは国連子どもの権利条約に規定されているわけです。
六条二項では、生存と発達が子供の権利であることを確認した上で、さらに十二条では、意見表明権を規定しています。
これは、子供に自由に意見を表明させ、これは感情も含めてですけれども、その表明した感情や意見に対して大人が適切に応答しなければならないということを規定したものですけれども、実はこれは、こういう大人と子供との間の応答的な関係、決して大人に対して服従するという権威的関係ではなくて、そういう応答的な関係こそが子供の人間としての成長、発達をもたらすというふうに考えている条項であるわけです。これを、先ほど言った最高裁学テの本質的要請と共鳴していることは比較的分かりやすいことだというふうに私は思います。
もし政府が、教基法、最高裁学テ判決、そして国連子どもの権利条約というものを真剣に考えるとなるとすれば、最低限四つのことが必要とされると思います。
一つ、子供の要求への柔軟な応答を不可能にするような国家介入を差し控えること。二つ、自らの要求や欲求を表明できなくするような子供へのプレッシャーを減じること。具体的には、競争主義的な教育制度を改めるということ。第三に、大人が子供の要求に応答できるような条件を整備すること。端的に言えば少人数学級の実現です。そして第四に、学校において子供の自由な意見表明を奨励し、子供の要求に応じる自由と責任を教師に移譲していくこと。
以上の四つの観点から見た場合に、政府法案が数多くの問題点を持っているということは確かだと思いますが、時間がありませんので、一つだけ指摘させていただきたいというふうに思います。
国連子どもの権利条約の実施監視機関である国連子どもの権利委員会は、既に九八年と〇四年に日本政府報告の審査を行っております。そこで、次のような懸念を九八年に示しました。これ外務省訳ですけれども、児童が、高度に競争的な教育制度のストレス及びその結果としての余暇、運動、休息の時間が欠如していることにより、発達障害にさらされていることについて、条約の原則及び規定、特に第三条、第六条、第十二条、第二十九条及び第三十一条に照らし懸念する。
つまり、ここでは既に日本の教育制度全体が子供の成長、発達権と相当に緊張関係を持っているということが国際的には承認されているわけです。にもかかわらず、どういうわけかこの競争主義的な教育制度を更に競争主義的にする新学力テスト体制の導入が政府によって提唱されているということになるわけです。
その際、伊吹文科大臣は、今の日本の教育の実態は余りにもひどいので、そのマイナス面を引き受けてもなおそれを実行する必要があるのだというふうに言っているわけですけれども、しかしこの国会に、日本の学力をめぐる、何がどういうふうに悪くて、それが何に由来するのかということについての量的、質的なデータが出たということは私は知っておりません。したがって、立法事実はここでもやみの中ということになります。
これに対して、国連子どもの権利委員会は、競争主義的教育制度の是正のためには、今の質の高い教育を維持しながら、高校を卒業すればだれでも高等教育に進学することが可能なカリキュラムをNGOと一緒に開発すべきだということも言っています。さらに、競争主義的教育制度から受けるプレッシャーを他の子供に転嫁することを意味しているいじめについては、子供の参加の下にその解決を図れと言っているわけです。ここに教育基本法に示された個人の尊重原理、直接責任、さらには最高裁学テ判決が示した子供自体の尊重の発展形を見ることは実に簡単なことであるというのが私の意見です。
教育の自主性擁護法、個人の尊厳原則に基づく教育の自主性擁護法を皆さんは発展させていくのか、それとも全く逆の教育の国家統制法の道を選ぶのか、相当に重大な選択を皆様はこれからされようとしているのだろうというふうに思います。
ただ、研究者としてあるいはボランティアのアクティビストとして言いますが、選択をするのに果たして国会内で十分な議論がされたと言えるのでしょうか。立法者意思は明確にされたのでしょうか。立法事実はどうでしょうか。さらに、この国会の外に目を転じてみれば、果たして国民的議論は十分展開したと言えるのでしょうか。あるいは、国民的合意は成立したと言えるのでしょうか。教育は国家百年の計だというふうに言いますけれども、相互信頼に基づかない基本法制定は将来に必ず禍根を残すということを申し上げて、意見陳述を終わりとします。
どうもありがとうございました。
中
小
小川義男#15
○参考人(小川義男君) 今度の戦争が始まった当時、アジア、アフリカに独立国は日本とタイぐらい、世界のほとんどが白人列強に支配されておりました。我が国はこれに対して、それに対する様々な問題点を内包しながらも強烈な抵抗を試みて、白人列強の心胆を寒からしめたと。その是非を私はここで問題にするのではなく、こういう状況の中で戦争に勝った後のアメリカを中心とする勢力が、日本という国民を軍事的に武装解除するだけではなく精神的にも武装解除したいと、そのような衝動を持ったであろうことについては、政党政派のいかんを問わず異論のないところであろうと思います。
私は、そのアメリカの押し付けによって教育基本法が制定されたからなどというけちなことを言うつもりはありません。現実に六十年間実効支配してきたという意味で、憲法にしても教育基本法にしても、その制定の沿革よりは、現在に何らかの問題点を残しているかどうか、この点で見詰めるべきであろうと思います。
しかしながら、教育基本法は、やはりその当時の政治情勢をいささか反映して、日本の国というものを、国家というものを、国民主権の原理になっているにもかかわらず、我が国においては国家と国民はシノニムであります。にもかかわらず、国家は悪であるというような考えが今日なおかなり有力に我が国に存在していることは、私は一つの保守的傾向として遺憾なことであると思います。
それからもう一つは、我が国を精神的にも武装解除したいという当時の時代風潮、そのことが我が国の伝統文化、これに対する否定的傾向を相当示すに至ったと。この点で教育基本法が、我が国のナショナリティーを示すというよりは、全世界のどこへ持っていってもそう文句は言われないような、まあ辞書でいえばコンサイスのような、だれにでも役に立つが本当にはだれにも役に立たないという、そういう側面を持っていることはやっぱり否定できないのでないか。
この辺りを振り返って、やっぱり六十年たったから、あの終戦当時に形成されたものはいかなるものも一点一画変えることなくこれを守っていかねばならないというのを、漢文の言葉で言えば旧慣墨守と言うのであります。やっぱり、その中でいささかここは問題かもしれないと思うところは、謙虚に見直してみるべき時期に今来ているのでないか。また、時代の変化もあって、環境その他、やはり教育基本法を見直せばならないところへ来ているというふうに思います。
愛国心の問題は、例えば自分の父親や母親の悪口言われたら、たとえ悪いおやじであっても、一緒になって隣のおかみさんとおやじの悪口言うような息子は、これは本当に人間らしい息子と言えないでしょう。国家の場合は、悪いところもいいところだと言い張ったんでは、これは話にならぬけれども、我が国の悪口を言われたら、ちょっと暗い気持ちになる。よその国の人と一緒になってうれしくなるというようなことでは、そういう国民ではやっぱり一国を保全していくことが難しいのでないかと、私は思います。
私の弟子で難関大学に受かったのを校長室に呼んで、おまえはこれからどういうふうに生きたいんだと私が聞いたら、私は一つの国にこだわるような生き方をしたくないんです。私のひざ元でこういうことが起こっておる。私は、地球市民、地球国家というのは美しいけれども、お隣の中国、お隣の韓国、まあ北朝鮮はちょっと今おきますが、こういう国では非常に高度の愛国心教育をやっておる。その一方、我が国では、地球市民、地球国家というような美名で、無国籍主義的な、コスモポリタンとも言えるような若者が育ちつつあるという辺りは、やっぱりこれはこのままに看過してよいのではないと思うんです。
そういう点で、例えば北方領土は、歯舞、色丹、国後、択捉、ロシアに不法占領されておりますが、この面積は沖縄本島の四・二倍です。竹島の問題もある。こういう問題に国民的怒りというのが、外国だったら大変なことになるだろうけれども、日本だけはこれを怒ってこないと。寸土を奪われて怒ることを知らぬ民族は、やがて本土を失います。
そういうことを考えても、やはり愛国心、すぐ軍国主義なんて、そういうことを言うのではなくて、我が国の歴史、国家、同胞に対して一体感を持つ。日本の悪口言われたらちょっと悲しくなる、バレーで勝ったら涙が流れると、こういうナショナリティーを育成するためには、やっぱり愛国心という文言が教育基本法に入っていた方がよいと。ただ、政府案はこれを態度というふうにつなげて言っておりますが、民主党の原案では、「同時に、日本を愛する心を涵養し、祖先を敬い、子孫に想いをいたし、伝統、文化、芸術を尊び、」云々というふうにすっきり述べている。これは美しい。これは何とか政府原案に修正して入れていただけないものかと思います。
教育基本法十条の問題が参考人の先生方からもいろいろ出ておりますけれども、ここで問題になっているのは、最高裁の判例、私もここへ持ってきて熟読してきておりますが、あそこで問題になっているのは、教育の中身に対して国家、自治体が関与することは、それ自体が不当な支配になると、こういう要求が出されているのです。
ところが、子供たちの教育を受ける権利を保障するためには、ある程度全国的均質な教育、それからある程度の水準の維持ということが日本全体で担保されなければならない。それが学校における教師の、まあ自治と言ったら言い過ぎかもしれないが、自主性の名の下にすべて任されてしまったら、教育の内的事項に地方自治体、国家は介入してならないと、法律は介入してならないという見解であれば、それは学校でどのような決定を下すか分からなくなるのです。
例えば、一時はローマ字で国字を変えようと言う人もいたし、漢字をもっともっと減らすべきだと言う人もいる。札幌の子供が大阪へ転校してみたら、掛け算の九九が終わってしまっていたと。これは大変な問題になる。いじめにだって発展するかもしれない。そういう点で、教育における一定の水準の維持とある程度の均質性の保全というためには、大まかな学習指導要領というような枠がなければならない。
これは、よく読んでみれば分かるが、大変弾力的なもので、大綱的なもので、まあ言ってみれば、イワシやサンマやブリぐらいは自由に通り抜けてよろしい、ただし鯨やマグロは通さないと、この程度の大綱的基準において、国家、自治体、つまり国民が法律の名の下に教育に関与をしていくということを拒否するならば、これはやっぱり実質的に子供たちの教育を受ける権利が侵されるということになる。
現実に最高裁の判決も、これは同じものでも見方によって随分違うなと思って私もびっくりしておったんだけれども、右教育における云々と言って、右の大綱的基準の範囲に関する原判決の見解は狭きに失し、これを前記学習指導要領についていえば、文部大臣は、学校教育法三十八条、百六条による学校の教科に関する事項を定める権限に基づき、普通教育における中学校における教育の内容及び方法につき、上述のような教育の機会均等の確保等の目的のために合理的な基準を設定することができると。そうして後の方で、この教育の内的事項に対する大綱的関与は駄目ではないということを、むしろこの最高裁学テ判決は、教育の内的事項に対する国家、すなわち国民の名における関与は正しいものであるということを最終有権判断として示したものだと私は理解しております。
その意味で、これまでの教育基本法十条のあの文言というのは、元々は国家を悪としてとらえて、国家を教育の内的事項から排除していこうという意図の下に運ばれたんだけれども、その後何十年かの経過の中で、やっぱりその内的事項に関して大綱的基準、大まかな基準は国家が触れてよろしい、つまり国民が触れてよろしいと。一つの学校における教師の意見の多数か少数かと、そういうことに揺さぶられるのではなくて、国民全体で教育の内的事項に触れていくことができるのだと、このように述べていると私は理解しております。
その意味で、この教育基本法十条の現行法の「不当な支配」という文言は取った方がいいと思うけれども、政府原案はこれについてはかなりきちっと修正していると思います。その点で、私はこれは支持したいと。
最後に、宗教的情操についてでありますけれども、最近学校では、例えば七夕祭りに短冊を下げて、そしてお父さんの病気が治りますようにという、年に一度の牽牛織女の祭りに祈りを込めることも何かためらわれるような、あるいはごちそうさまでしたと言うのも芳しくないというような、そういう動きがある。しかし、人間というものは元々小さい存在で、遺伝学者なんかも、宗教とは別に、サムシンググレートというような偉大な存在があって遺伝子情報を書いているとしか思えないと言う人もおります。やっぱり子供たちの心に、特定の宗教に、宗教宗派に属するかどうかは別として、やっぱり人間を超える何物かがあるという謙虚な心を育成しておくということは人間として非常に重要な問題ではないかと私は思います。
その意味で、やっぱり宗教的情操の育成ということは決して好ましくないというものではない。その意味では、民主党案の「宗教的感性の涵養及び宗教に関する寛容の態度を養うことは、教育上尊重されなければならない。」と、この原案の趣旨は誠に美しく適切だと。これは是非盛り込んでもらいたい。
最後に、まだ二分ほどありますから申し上げますが、キリスト教的一神教の下で、キリスト教で一番の犯罪は何か。これは偶像崇拝ですね。私はねたみ深い神である、私以外のものを拝んではならない、こういうふうに言っている。だから、一神教、イスラム教、ユダヤ教、キリスト教の中では、信教の自由がなかったら生命、身体を維持することはできないんですね。そういう中で、一神教的背景の下に、宗教に対する非常にアレルギーと言われるぐらいの警戒心が生まれている。
我が国やギリシャは多神教の国家であります。我が国の神様もギリシャの神様も、よく調べてみると誠にだらしのない神様だ、伸びやかな神様。だから、宗教的情操の育成といったから、それが一党一派に偏し、一宗派を奨励するというようなことにならないと。その点では、宗教的情操、感性の育成ということは是非修正案の中に入れて通していただきたいものだと思います。
この発言だけを見る →私は、そのアメリカの押し付けによって教育基本法が制定されたからなどというけちなことを言うつもりはありません。現実に六十年間実効支配してきたという意味で、憲法にしても教育基本法にしても、その制定の沿革よりは、現在に何らかの問題点を残しているかどうか、この点で見詰めるべきであろうと思います。
しかしながら、教育基本法は、やはりその当時の政治情勢をいささか反映して、日本の国というものを、国家というものを、国民主権の原理になっているにもかかわらず、我が国においては国家と国民はシノニムであります。にもかかわらず、国家は悪であるというような考えが今日なおかなり有力に我が国に存在していることは、私は一つの保守的傾向として遺憾なことであると思います。
それからもう一つは、我が国を精神的にも武装解除したいという当時の時代風潮、そのことが我が国の伝統文化、これに対する否定的傾向を相当示すに至ったと。この点で教育基本法が、我が国のナショナリティーを示すというよりは、全世界のどこへ持っていってもそう文句は言われないような、まあ辞書でいえばコンサイスのような、だれにでも役に立つが本当にはだれにも役に立たないという、そういう側面を持っていることはやっぱり否定できないのでないか。
この辺りを振り返って、やっぱり六十年たったから、あの終戦当時に形成されたものはいかなるものも一点一画変えることなくこれを守っていかねばならないというのを、漢文の言葉で言えば旧慣墨守と言うのであります。やっぱり、その中でいささかここは問題かもしれないと思うところは、謙虚に見直してみるべき時期に今来ているのでないか。また、時代の変化もあって、環境その他、やはり教育基本法を見直せばならないところへ来ているというふうに思います。
愛国心の問題は、例えば自分の父親や母親の悪口言われたら、たとえ悪いおやじであっても、一緒になって隣のおかみさんとおやじの悪口言うような息子は、これは本当に人間らしい息子と言えないでしょう。国家の場合は、悪いところもいいところだと言い張ったんでは、これは話にならぬけれども、我が国の悪口を言われたら、ちょっと暗い気持ちになる。よその国の人と一緒になってうれしくなるというようなことでは、そういう国民ではやっぱり一国を保全していくことが難しいのでないかと、私は思います。
私の弟子で難関大学に受かったのを校長室に呼んで、おまえはこれからどういうふうに生きたいんだと私が聞いたら、私は一つの国にこだわるような生き方をしたくないんです。私のひざ元でこういうことが起こっておる。私は、地球市民、地球国家というのは美しいけれども、お隣の中国、お隣の韓国、まあ北朝鮮はちょっと今おきますが、こういう国では非常に高度の愛国心教育をやっておる。その一方、我が国では、地球市民、地球国家というような美名で、無国籍主義的な、コスモポリタンとも言えるような若者が育ちつつあるという辺りは、やっぱりこれはこのままに看過してよいのではないと思うんです。
そういう点で、例えば北方領土は、歯舞、色丹、国後、択捉、ロシアに不法占領されておりますが、この面積は沖縄本島の四・二倍です。竹島の問題もある。こういう問題に国民的怒りというのが、外国だったら大変なことになるだろうけれども、日本だけはこれを怒ってこないと。寸土を奪われて怒ることを知らぬ民族は、やがて本土を失います。
そういうことを考えても、やはり愛国心、すぐ軍国主義なんて、そういうことを言うのではなくて、我が国の歴史、国家、同胞に対して一体感を持つ。日本の悪口言われたらちょっと悲しくなる、バレーで勝ったら涙が流れると、こういうナショナリティーを育成するためには、やっぱり愛国心という文言が教育基本法に入っていた方がよいと。ただ、政府案はこれを態度というふうにつなげて言っておりますが、民主党の原案では、「同時に、日本を愛する心を涵養し、祖先を敬い、子孫に想いをいたし、伝統、文化、芸術を尊び、」云々というふうにすっきり述べている。これは美しい。これは何とか政府原案に修正して入れていただけないものかと思います。
教育基本法十条の問題が参考人の先生方からもいろいろ出ておりますけれども、ここで問題になっているのは、最高裁の判例、私もここへ持ってきて熟読してきておりますが、あそこで問題になっているのは、教育の中身に対して国家、自治体が関与することは、それ自体が不当な支配になると、こういう要求が出されているのです。
ところが、子供たちの教育を受ける権利を保障するためには、ある程度全国的均質な教育、それからある程度の水準の維持ということが日本全体で担保されなければならない。それが学校における教師の、まあ自治と言ったら言い過ぎかもしれないが、自主性の名の下にすべて任されてしまったら、教育の内的事項に地方自治体、国家は介入してならないと、法律は介入してならないという見解であれば、それは学校でどのような決定を下すか分からなくなるのです。
例えば、一時はローマ字で国字を変えようと言う人もいたし、漢字をもっともっと減らすべきだと言う人もいる。札幌の子供が大阪へ転校してみたら、掛け算の九九が終わってしまっていたと。これは大変な問題になる。いじめにだって発展するかもしれない。そういう点で、教育における一定の水準の維持とある程度の均質性の保全というためには、大まかな学習指導要領というような枠がなければならない。
これは、よく読んでみれば分かるが、大変弾力的なもので、大綱的なもので、まあ言ってみれば、イワシやサンマやブリぐらいは自由に通り抜けてよろしい、ただし鯨やマグロは通さないと、この程度の大綱的基準において、国家、自治体、つまり国民が法律の名の下に教育に関与をしていくということを拒否するならば、これはやっぱり実質的に子供たちの教育を受ける権利が侵されるということになる。
現実に最高裁の判決も、これは同じものでも見方によって随分違うなと思って私もびっくりしておったんだけれども、右教育における云々と言って、右の大綱的基準の範囲に関する原判決の見解は狭きに失し、これを前記学習指導要領についていえば、文部大臣は、学校教育法三十八条、百六条による学校の教科に関する事項を定める権限に基づき、普通教育における中学校における教育の内容及び方法につき、上述のような教育の機会均等の確保等の目的のために合理的な基準を設定することができると。そうして後の方で、この教育の内的事項に対する大綱的関与は駄目ではないということを、むしろこの最高裁学テ判決は、教育の内的事項に対する国家、すなわち国民の名における関与は正しいものであるということを最終有権判断として示したものだと私は理解しております。
その意味で、これまでの教育基本法十条のあの文言というのは、元々は国家を悪としてとらえて、国家を教育の内的事項から排除していこうという意図の下に運ばれたんだけれども、その後何十年かの経過の中で、やっぱりその内的事項に関して大綱的基準、大まかな基準は国家が触れてよろしい、つまり国民が触れてよろしいと。一つの学校における教師の意見の多数か少数かと、そういうことに揺さぶられるのではなくて、国民全体で教育の内的事項に触れていくことができるのだと、このように述べていると私は理解しております。
その意味で、この教育基本法十条の現行法の「不当な支配」という文言は取った方がいいと思うけれども、政府原案はこれについてはかなりきちっと修正していると思います。その点で、私はこれは支持したいと。
最後に、宗教的情操についてでありますけれども、最近学校では、例えば七夕祭りに短冊を下げて、そしてお父さんの病気が治りますようにという、年に一度の牽牛織女の祭りに祈りを込めることも何かためらわれるような、あるいはごちそうさまでしたと言うのも芳しくないというような、そういう動きがある。しかし、人間というものは元々小さい存在で、遺伝学者なんかも、宗教とは別に、サムシンググレートというような偉大な存在があって遺伝子情報を書いているとしか思えないと言う人もおります。やっぱり子供たちの心に、特定の宗教に、宗教宗派に属するかどうかは別として、やっぱり人間を超える何物かがあるという謙虚な心を育成しておくということは人間として非常に重要な問題ではないかと私は思います。
その意味で、やっぱり宗教的情操の育成ということは決して好ましくないというものではない。その意味では、民主党案の「宗教的感性の涵養及び宗教に関する寛容の態度を養うことは、教育上尊重されなければならない。」と、この原案の趣旨は誠に美しく適切だと。これは是非盛り込んでもらいたい。
最後に、まだ二分ほどありますから申し上げますが、キリスト教的一神教の下で、キリスト教で一番の犯罪は何か。これは偶像崇拝ですね。私はねたみ深い神である、私以外のものを拝んではならない、こういうふうに言っている。だから、一神教、イスラム教、ユダヤ教、キリスト教の中では、信教の自由がなかったら生命、身体を維持することはできないんですね。そういう中で、一神教的背景の下に、宗教に対する非常にアレルギーと言われるぐらいの警戒心が生まれている。
我が国やギリシャは多神教の国家であります。我が国の神様もギリシャの神様も、よく調べてみると誠にだらしのない神様だ、伸びやかな神様。だから、宗教的情操の育成といったから、それが一党一派に偏し、一宗派を奨励するというようなことにならないと。その点では、宗教的情操、感性の育成ということは是非修正案の中に入れて通していただきたいものだと思います。
中
中曽根弘文#16
○委員長(中曽根弘文君) ありがとうございました。
以上で参考人からの意見の聴取は終わりました。
暫時休憩いたします。
午後二時二十六分休憩
─────・─────
午後二時三十三分開会
この発言だけを見る →以上で参考人からの意見の聴取は終わりました。
暫時休憩いたします。
午後二時二十六分休憩
─────・─────
午後二時三十三分開会
中
中曽根弘文#17
○委員長(中曽根弘文君) ただいまから教育基本法に関する特別委員会を再開いたします。
休憩前に引き続き、教育基本法案、日本国教育基本法案、地方教育行政の適正な運営の確保に関する法律案及び学校教育の環境の整備の推進による教育の振興に関する法律案、以上四案を一括して議題といたします。
これより参考人に対する質疑を行います。
質疑のある方は順次御発言願います。
この発言だけを見る →休憩前に引き続き、教育基本法案、日本国教育基本法案、地方教育行政の適正な運営の確保に関する法律案及び学校教育の環境の整備の推進による教育の振興に関する法律案、以上四案を一括して議題といたします。
これより参考人に対する質疑を行います。
質疑のある方は順次御発言願います。
岸
岸信夫#18
○岸信夫君 自民党の岸信夫でございます。
本日は、参考人の皆様におかれましては、大変御多用中のところお集まりいただきまして、また、大変貴重な御意見を賜りまして、心より御礼申し上げる次第です。
これから質問をさせていただきますけれども、大変限られた時間でございます。多くの方に御意見をちょうだいしたいと思いますので、どうぞよろしくお願いいたします。
まず、山本参考人にお伺いしたいと思います。
今日の先ほどの陳述の中では、生涯学習についてとそれから家庭教育について、こういう二点でございましたけれども、家庭教育についてまずちょっと御質問させていただきたいと思います。
教育というのは、家庭と地域とそして学校というこの三つが連携をしながらやっていかなければいけないわけですけれども、その中でも私はやはり家庭教育の大切さというものを、特に幼児期のしつけの大切さというものを常々感じておる次第であります。人は生まれましてまず家庭の中ではぐくまれて、そして社会あるいは学校へと徐々にその行動範囲を広げていくわけです。
今回、教育基本法案の改正案の中で、第十条ですね、家庭教育の規定が新設されました。そして、父母や保護者の責任というものが明記されたわけであります。このことを、家庭教育に国家が介入するおそれがあるとか、あるいは家庭教育には政治が入っていくべきではないと、こういった批判をする向きも一方であるわけですけれども、従来から家庭教育の大切さというものを指摘されておられます山本参考人、先ほどもお触れになったわけですけれども、もう少し掘り下げた御意見として、このことが国家が家庭に入っていくのかどうかという点を含めて、この家庭教育の重要性、大切さ、この法案に盛り込まれたということの大切さについて御意見をいただきたいと思います。
この発言だけを見る →本日は、参考人の皆様におかれましては、大変御多用中のところお集まりいただきまして、また、大変貴重な御意見を賜りまして、心より御礼申し上げる次第です。
これから質問をさせていただきますけれども、大変限られた時間でございます。多くの方に御意見をちょうだいしたいと思いますので、どうぞよろしくお願いいたします。
まず、山本参考人にお伺いしたいと思います。
今日の先ほどの陳述の中では、生涯学習についてとそれから家庭教育について、こういう二点でございましたけれども、家庭教育についてまずちょっと御質問させていただきたいと思います。
教育というのは、家庭と地域とそして学校というこの三つが連携をしながらやっていかなければいけないわけですけれども、その中でも私はやはり家庭教育の大切さというものを、特に幼児期のしつけの大切さというものを常々感じておる次第であります。人は生まれましてまず家庭の中ではぐくまれて、そして社会あるいは学校へと徐々にその行動範囲を広げていくわけです。
今回、教育基本法案の改正案の中で、第十条ですね、家庭教育の規定が新設されました。そして、父母や保護者の責任というものが明記されたわけであります。このことを、家庭教育に国家が介入するおそれがあるとか、あるいは家庭教育には政治が入っていくべきではないと、こういった批判をする向きも一方であるわけですけれども、従来から家庭教育の大切さというものを指摘されておられます山本参考人、先ほどもお触れになったわけですけれども、もう少し掘り下げた御意見として、このことが国家が家庭に入っていくのかどうかという点を含めて、この家庭教育の重要性、大切さ、この法案に盛り込まれたということの大切さについて御意見をいただきたいと思います。
山
山本恒夫#19
○参考人(山本恒夫君) ありがとうございます。
今の点ですが、まず家庭教育の中で特にしつけの問題というのはもう本当に今先生のおっしゃるとおりで、人間の場合には大脳が発達して本能が衰えておりますから、なるべく早い段階、三歳ぐらいまでの段階でしっかりしつけをしないと、極端なことを言いますと、人間というのは極端、自分が生き残るだけで、あと殺し合うそうですね。ですから、そういうことを防ぐためにも、早い段階でしつけとか物の考え方は入れた方がいいと、教えた方がいいというふうに言われています。ですから、その点については問題ありませんで。
ただ、それについても簡単に触れておきますが、やっぱり親から子供へというふうに伝えていくところですね。それは社会的な役割というものを、あるいは社会的な考え方というものを伝えていくわけで、父親、母親と、これについていろいろ問題を言う方もいますけれども、やはり父親から男的な役割が伝わるとか母親から女的な役割が伝わるというのはあるんですよね。ですから、そこはしっかりやはり小さい段階で伝えていくべきだと思います。
国家統制云々と言いますけれども、これはほかの問題にも絡むんですが、教育というのを皆さんどう考えるかということなんですけれども、お話を伺っていると、教育と教化、教化って教え化すですね、インドクトリネーションと、それがごっちゃになっていて、ほとんど教え化す、教育といえば教化なのかというふうに受け取られるような議論がある。今日もあったと私は思います。
つまり、どういうことかといえば、家庭教育の場合でも、国とかあるいは地方公共団体等が学習の機会を提供いたします。それで、親が勉強しますですね。それを選択するかしないかは学習者の自由なんですよ。学習者が選択するかしないかということまで縛ったらば、これは国家統制です。でも、それはやってないんですよ。ちょっと済みません、時間取って申し訳ありません、その点を是非御理解いただきたいと。これは私が何も言っているわけではありません。戦後の日本の新しい教育ということを言って、その当時、まあ進歩派と言われていた教育学者が言っていることです。それで私たちは勉強してきました。
そうしますと、戦前まであった、あるいはナチス・ドイツがやったようなのは教化で、これは、教えます、教えたことをそのまま取りなさい、それを取らなければ罰則が科せられるか殺されます。これは教え化す教化なんですよ。宣伝なんです。
それに対して教育というのは、いろんなことを教えます。だけれども、最後、あなたがそれを取るかどうかは自由ですよと。その代わり、発達段階がありますから、小学校一年生に分かんないことを言ってこのとおりやりなさいというのは、これはさっきの教化と同じになっちゃう。ですから、発達段階ごとにそれは考えていかなくちゃいけない。それについては指導要領と専門家は見てくれているというふうに思います。
ですから、その点は国家統制にならないと私は思います。
この発言だけを見る →今の点ですが、まず家庭教育の中で特にしつけの問題というのはもう本当に今先生のおっしゃるとおりで、人間の場合には大脳が発達して本能が衰えておりますから、なるべく早い段階、三歳ぐらいまでの段階でしっかりしつけをしないと、極端なことを言いますと、人間というのは極端、自分が生き残るだけで、あと殺し合うそうですね。ですから、そういうことを防ぐためにも、早い段階でしつけとか物の考え方は入れた方がいいと、教えた方がいいというふうに言われています。ですから、その点については問題ありませんで。
ただ、それについても簡単に触れておきますが、やっぱり親から子供へというふうに伝えていくところですね。それは社会的な役割というものを、あるいは社会的な考え方というものを伝えていくわけで、父親、母親と、これについていろいろ問題を言う方もいますけれども、やはり父親から男的な役割が伝わるとか母親から女的な役割が伝わるというのはあるんですよね。ですから、そこはしっかりやはり小さい段階で伝えていくべきだと思います。
国家統制云々と言いますけれども、これはほかの問題にも絡むんですが、教育というのを皆さんどう考えるかということなんですけれども、お話を伺っていると、教育と教化、教化って教え化すですね、インドクトリネーションと、それがごっちゃになっていて、ほとんど教え化す、教育といえば教化なのかというふうに受け取られるような議論がある。今日もあったと私は思います。
つまり、どういうことかといえば、家庭教育の場合でも、国とかあるいは地方公共団体等が学習の機会を提供いたします。それで、親が勉強しますですね。それを選択するかしないかは学習者の自由なんですよ。学習者が選択するかしないかということまで縛ったらば、これは国家統制です。でも、それはやってないんですよ。ちょっと済みません、時間取って申し訳ありません、その点を是非御理解いただきたいと。これは私が何も言っているわけではありません。戦後の日本の新しい教育ということを言って、その当時、まあ進歩派と言われていた教育学者が言っていることです。それで私たちは勉強してきました。
そうしますと、戦前まであった、あるいはナチス・ドイツがやったようなのは教化で、これは、教えます、教えたことをそのまま取りなさい、それを取らなければ罰則が科せられるか殺されます。これは教え化す教化なんですよ。宣伝なんです。
それに対して教育というのは、いろんなことを教えます。だけれども、最後、あなたがそれを取るかどうかは自由ですよと。その代わり、発達段階がありますから、小学校一年生に分かんないことを言ってこのとおりやりなさいというのは、これはさっきの教化と同じになっちゃう。ですから、発達段階ごとにそれは考えていかなくちゃいけない。それについては指導要領と専門家は見てくれているというふうに思います。
ですから、その点は国家統制にならないと私は思います。
岸
岸信夫#20
○岸信夫君 ありがとうございました。
続いて、杉谷参考人。
杉谷参考人は慶応義塾の御卒業で、私の大先輩にもなるわけですけれども、福沢諭吉先生が晩年、子供の教育についてこのようなことを記しております。今日、子供たる身の独立自尊法は、ただ父母の教訓に従いて進退すべきのみと。すなわち、子供のうちはお父さん、お母さんの言い付けをしっかり守って勉強に励みなさいと、こういうことだと思いますけれども、それだけ家庭での教育、しつけというものが重要だと。こういうことと同時に、それを信頼していたということもあると思うんですね。
参考人は幼稚園もお持ちでいらっしゃると思いますけれども、この幼稚園の段階というのは、親御さんの元に置かれた子供たちが外に出て行って、そして新しい社会に飛び込んでいく、また同い年の子供たちと新しいサークルといいますか、子供たちの社会生活を築いていくという意味で、その後の小学校という段階へのステップの境目でもあるわけですけれども、その現場におられると、こういう立場から、その子たちがその家庭でどういうふうに育てられてきたか、しつけられてきたかというものもいろいろ御推察されることも多いと思います。
その家庭教育というものは、その長い戦後だけで見ても六十年ぐらいの期間、変わってきているというふうに思うわけですけれども、そのことが子供の社会性に対してどのように影響しているとお考えでしょうか。幼児教育の現場の立場からちょっと御意見をいただきたいと思います。
この発言だけを見る →続いて、杉谷参考人。
杉谷参考人は慶応義塾の御卒業で、私の大先輩にもなるわけですけれども、福沢諭吉先生が晩年、子供の教育についてこのようなことを記しております。今日、子供たる身の独立自尊法は、ただ父母の教訓に従いて進退すべきのみと。すなわち、子供のうちはお父さん、お母さんの言い付けをしっかり守って勉強に励みなさいと、こういうことだと思いますけれども、それだけ家庭での教育、しつけというものが重要だと。こういうことと同時に、それを信頼していたということもあると思うんですね。
参考人は幼稚園もお持ちでいらっしゃると思いますけれども、この幼稚園の段階というのは、親御さんの元に置かれた子供たちが外に出て行って、そして新しい社会に飛び込んでいく、また同い年の子供たちと新しいサークルといいますか、子供たちの社会生活を築いていくという意味で、その後の小学校という段階へのステップの境目でもあるわけですけれども、その現場におられると、こういう立場から、その子たちがその家庭でどういうふうに育てられてきたか、しつけられてきたかというものもいろいろ御推察されることも多いと思います。
その家庭教育というものは、その長い戦後だけで見ても六十年ぐらいの期間、変わってきているというふうに思うわけですけれども、そのことが子供の社会性に対してどのように影響しているとお考えでしょうか。幼児教育の現場の立場からちょっと御意見をいただきたいと思います。
杉
杉谷義純#21
○参考人(杉谷義純君) 特に幼児教育の場合、二面から見られると思うんですが、今、現今のほとんどの家庭では自由勝手放題、そんな子供が入ってきまして、お互いの仲間の中で一つ初めて出会う社会、そういう中で、やはり規律、お互いのルール、相手を存在を認めないとそこで一緒に過ごせていけない、そういうようなことを学んで、逆にもう百八十度変わるというか、一番の激変の時期であろうというようなことで、かつてはある程度当初からお互いに遊べたものを、それは近所そのほか子供が多くて、遊んで社会性を学んで入ってくる。昨今ではそういうことは全くございませんので、それぞれ殿様が集まって、もうそれは戦場と化すと。それがやがて、しつけそのほか団体生活の中ではぐくんでいかれる。
しかしながら、そういうお子様の中で、やはり親のしつけが行き届いている家庭とそうでない家庭という中で、幾分こうやっぱり差が見られるというようなこともございます。そういう意味で、家庭教育、大変重要に思います。
特に、ちょっと飛躍するかもしれませんけれども、青少年犯罪等の背景を見ますと、私は仏教徒でちょっと手前みそで恐縮ですが、両親あるいは祖父母がいて、仏壇があって、拝んでいるような家庭からは比較的統計的には少ないと、そういうような現象、これはそれだけがすべての原因ではありませんけれども、バックグラウンドとしてそういうこともあるということで、立場上申し上げますと、家庭のしつけ、さらには親、祖父母、先祖に対する意識、そういうバックボーンに支えられているということ、これが非常に清水がわき出るような意味での家庭教育の源泉になっていくというように感じております。
この発言だけを見る →しかしながら、そういうお子様の中で、やはり親のしつけが行き届いている家庭とそうでない家庭という中で、幾分こうやっぱり差が見られるというようなこともございます。そういう意味で、家庭教育、大変重要に思います。
特に、ちょっと飛躍するかもしれませんけれども、青少年犯罪等の背景を見ますと、私は仏教徒でちょっと手前みそで恐縮ですが、両親あるいは祖父母がいて、仏壇があって、拝んでいるような家庭からは比較的統計的には少ないと、そういうような現象、これはそれだけがすべての原因ではありませんけれども、バックグラウンドとしてそういうこともあるということで、立場上申し上げますと、家庭のしつけ、さらには親、祖父母、先祖に対する意識、そういうバックボーンに支えられているということ、これが非常に清水がわき出るような意味での家庭教育の源泉になっていくというように感じております。
岸
岸信夫#22
○岸信夫君 ありがとうございました。
同様に、小川参考人にもお尋ねしたいと思うんですけれども、参考人は高校の校長先生でもいらっしゃるわけですね。高校というのはある意味、子供から大人へのステップになるわけですけれども、この高校という場において、現場でお感じになられているところ、その家庭教育の最近の変化というものがどのように影響、子供たちの生活に影響しているか。
この発言だけを見る →同様に、小川参考人にもお尋ねしたいと思うんですけれども、参考人は高校の校長先生でもいらっしゃるわけですね。高校というのはある意味、子供から大人へのステップになるわけですけれども、この高校という場において、現場でお感じになられているところ、その家庭教育の最近の変化というものがどのように影響、子供たちの生活に影響しているか。
小
小川義男#23
○参考人(小川義男君) 高等学校によりましてそれぞれのカラーがあって、私の学校の場合は、時代的な変化を世間で騒がれるほど受けていないと。変わった変わったというふうに騒ぐ向きがありますけど、深く見詰めて、親が本当にそんなに変わっているのかどうか。離婚ぐらいは増えているでしょうけれども、その辺りはそれほど変わっていないと。もうとにかく我が子がかわいくて、我が子のためならどんなことでもしようと、この思いは大正、昭和、今日を通じて変わらないのでないか。我々、今変わったところに騒ぐことも大事だが、変わっていないものをしっかり見詰めることが大事ではないかと思っております。
それから、私はいじめ問題その他ありますけれども、存在感のある教師がいれば、これは家庭がどのような状態でもいじめは起きないと。
私は、五十七年間教壇に立ち続けておりますね。これは我が国で一人でしょう、恐らく。戦後教育のシーラカンスと言われているぐらいですから。
それで、私のクラスでいじめが起きたことはあるが、それを解決できなかったことはないですね。存在感のある教師とは何か。それは、子供を愛して、子供から好かれていることです。好かれていない先生に怒られてもおっかなくない。好かれている先生でがっと怒ったら、そのときが本当におっかない。好かれて恐れられている、必要なときにはですよ、その先生が存在感のある先生です。友達先生では務まらない。
教育とは、導き導かれる関係で、両者の間には親密さはあっても常に一定の緊張関係はかすかに残されていなければならない。そのような存在感のある教師だからこそいじめられているという情報が伝わってくる。存在感のない先生のところに伝えていったって、おまえチクったなと言っていじめられるのが落ちだと。この辺りで、私たちは存在感のある教師として子供を愛し、それからしからねばならないときには毅然としてしかると。そのときに両者の間に起きる緊張を恐れないと。この姿勢で臨めば、たとえ家庭に荒廃状況があっても良い子供を育てられる。
私は職員に言っている、家庭の教育が良くならなきゃ学校が良い人間を育てられないなら学校は要らない、どんな家庭でもおれのところへよこせと、いい子供にしてみせる。やれるかどうかそれは、今まではやれたと思うが、この先もやれるかどうかそれは分からないけれども、そのぐらいの自負を持って生きることが家庭をも変えると思います。
この発言だけを見る →それから、私はいじめ問題その他ありますけれども、存在感のある教師がいれば、これは家庭がどのような状態でもいじめは起きないと。
私は、五十七年間教壇に立ち続けておりますね。これは我が国で一人でしょう、恐らく。戦後教育のシーラカンスと言われているぐらいですから。
それで、私のクラスでいじめが起きたことはあるが、それを解決できなかったことはないですね。存在感のある教師とは何か。それは、子供を愛して、子供から好かれていることです。好かれていない先生に怒られてもおっかなくない。好かれている先生でがっと怒ったら、そのときが本当におっかない。好かれて恐れられている、必要なときにはですよ、その先生が存在感のある先生です。友達先生では務まらない。
教育とは、導き導かれる関係で、両者の間には親密さはあっても常に一定の緊張関係はかすかに残されていなければならない。そのような存在感のある教師だからこそいじめられているという情報が伝わってくる。存在感のない先生のところに伝えていったって、おまえチクったなと言っていじめられるのが落ちだと。この辺りで、私たちは存在感のある教師として子供を愛し、それからしからねばならないときには毅然としてしかると。そのときに両者の間に起きる緊張を恐れないと。この姿勢で臨めば、たとえ家庭に荒廃状況があっても良い子供を育てられる。
私は職員に言っている、家庭の教育が良くならなきゃ学校が良い人間を育てられないなら学校は要らない、どんな家庭でもおれのところへよこせと、いい子供にしてみせる。やれるかどうかそれは、今まではやれたと思うが、この先もやれるかどうかそれは分からないけれども、そのぐらいの自負を持って生きることが家庭をも変えると思います。
岸
岸信夫#24
○岸信夫君 私も今中学生の子供が二人いるんですけれども、小川先生のような学校に入れたらいいんだろうな、このように思うわけです。ありがとうございました。
続いて、成嶋参考人にお伺いしたいと思いますけれども、不当な支配のくだりでございますけれども、本日もお話ございました。また、委員会でも熱い議論がなされているところであります。先ほど、政府案のこのくだりについては先生の御批判がございましたけれども、民主党案について、日本国教育基本法案においては、現行法第十条にあります不当な支配という規定がこれは削除されておるわけです。この民主党案についてはどういう御意見をお持ちでしょうか。もし御意見があれば御指摘いただきたいと思います。
この発言だけを見る →続いて、成嶋参考人にお伺いしたいと思いますけれども、不当な支配のくだりでございますけれども、本日もお話ございました。また、委員会でも熱い議論がなされているところであります。先ほど、政府案のこのくだりについては先生の御批判がございましたけれども、民主党案について、日本国教育基本法案においては、現行法第十条にあります不当な支配という規定がこれは削除されておるわけです。この民主党案についてはどういう御意見をお持ちでしょうか。もし御意見があれば御指摘いただきたいと思います。
成
成嶋隆#25
○参考人(成嶋隆君) ありがとうございます。
現行教育基本法の十条一項の不当な支配のくだり、私は自主性原理と呼んでおりまして、後段の直接責任の原理とともに非常に重要な原理であります。政府案につきましては、自主性原理の部分は残しましたけれども、先ほど申し上げましたようなその後段の部分によって言わば不当な支配禁止規定が骨抜きになってしまうという、そういう危険性を先ほど申し上げました。
民主党案につきましては、不当な支配という文言そのものを削除しているわけでありまして、私は政府案以上にこれは現行法のより悪い形での改変だというふうに考えております。
以上です。
この発言だけを見る →現行教育基本法の十条一項の不当な支配のくだり、私は自主性原理と呼んでおりまして、後段の直接責任の原理とともに非常に重要な原理であります。政府案につきましては、自主性原理の部分は残しましたけれども、先ほど申し上げましたようなその後段の部分によって言わば不当な支配禁止規定が骨抜きになってしまうという、そういう危険性を先ほど申し上げました。
民主党案につきましては、不当な支配という文言そのものを削除しているわけでありまして、私は政府案以上にこれは現行法のより悪い形での改変だというふうに考えております。
以上です。
岸
岸信夫#26
○岸信夫君 ありがとうございました。
それでは、馬居参考人にお伺いします。
人は教育を通じて人から人間へと、こう変わっていくとよく言われていますね。我が国における教育というものを考えた場合は、一つはこういう人間を育成していく、人間を育てていく、もう一つの面はやはり日本人を育てる、この二面があるんだというふうに思います。
まず、なぜ今教育基本法を改正しなければならないかと、こういう議論については、私は特にこの日本人の育成という面が十分なされてこなかったんじゃないかと、こういうふうに思うわけであります。これは法律自体が悪いのか、あるいは、それを現場といいますか、教育の現場において実践できてこなかったのか、こういう両方あるんだとは思いますけれども、政府案では教育の目標の一つとして、「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、」、こういうくだりがございます。心ではなく態度という形でその国を愛するということをうたっておるわけでございますけれども、これは非常に今、知恵が、もう随分与党間での協議、激論が交わされた後の知恵を絞った上での結論と、こういうことだと思うんですけれども、参考人はこの条文についてどのような御意見をお持ちでしょうか。
さらに、特に現行法が成立した六十年くらい前の社会構造、それから今六十年たって大きく、先ほどもございましたけれども変化をしているわけです。この基本法ということを考えました際は、さらに、これから社会がどんどんスピードアップして変わっていくわけですけれども、その中で、ある意味では普遍性を持たしたような形での基本法というものがどうしても必要になるわけですけれども、この改正案の第二条第五項の文言についてどのように評価をされておられるでしょうか。
この発言だけを見る →それでは、馬居参考人にお伺いします。
人は教育を通じて人から人間へと、こう変わっていくとよく言われていますね。我が国における教育というものを考えた場合は、一つはこういう人間を育成していく、人間を育てていく、もう一つの面はやはり日本人を育てる、この二面があるんだというふうに思います。
まず、なぜ今教育基本法を改正しなければならないかと、こういう議論については、私は特にこの日本人の育成という面が十分なされてこなかったんじゃないかと、こういうふうに思うわけであります。これは法律自体が悪いのか、あるいは、それを現場といいますか、教育の現場において実践できてこなかったのか、こういう両方あるんだとは思いますけれども、政府案では教育の目標の一つとして、「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、」、こういうくだりがございます。心ではなく態度という形でその国を愛するということをうたっておるわけでございますけれども、これは非常に今、知恵が、もう随分与党間での協議、激論が交わされた後の知恵を絞った上での結論と、こういうことだと思うんですけれども、参考人はこの条文についてどのような御意見をお持ちでしょうか。
さらに、特に現行法が成立した六十年くらい前の社会構造、それから今六十年たって大きく、先ほどもございましたけれども変化をしているわけです。この基本法ということを考えました際は、さらに、これから社会がどんどんスピードアップして変わっていくわけですけれども、その中で、ある意味では普遍性を持たしたような形での基本法というものがどうしても必要になるわけですけれども、この改正案の第二条第五項の文言についてどのように評価をされておられるでしょうか。
馬
馬居政幸#27
○参考人(馬居政幸君) 先ほども述べさしていただきましたけれども、その経緯も含めてよくここまで来られたんだなという。先ほど言いましたけれども、多分、よって立つ基盤の違う人たちがお互いに何とかしたいという思いですり合わせていったということがこういう形になったんであろうという意味で、そのことについては評価したいと思います。
と同時に、どんな表現しようとこの部分の問題というのは、日本の歴史あるいは置かれた状況から考えて、反対の人もいれば、より積極的な人も出てくるという、それがいろんな形でこうバランスを取りながら一つの形を取っていくんだろうなという、社会学者のオプティミズムみたいな部分がありますけれども。
ただ、教育の問題になってくると、現場的にはそうはいかないと思いますので、そうなったときに、先ほど言われた日本人の教育をといった場合に、日本人をどう教育上育てていくかということですが、私は、これまでは日本人ということを意識しなくても日本人であり得たという。言い換えると、多くの人たちが外に行くことがなかったために、国の中だけでいれば日本人であることを余り自覚する必要がなかったわけであって、私のように、四国で生まれて、東京で勉強して、埼玉で結婚して、なおかつ静岡で仕事をし、東京に出てきてこういう出稼ぎやっているみたいな状況になれば、それぞれのところで自分の表現はできるわけですが、ただし、韓国に行くと、もう明らかに日本人になっちゃうわけですね。
そういう意味で、先ほど言いましたように、日本人という在り方を身に付けておかないと、自分自身の選択肢が非常に狭まっていくであろうと。先ほど山本先生が言われた選択するということを考えたときに、自分の選択肢を広げていくためには、日本人という選択肢を持っていかないとこれからは生きていけない社会だろう。もう現にそういうふうになってきている。とするならば、それなりのことをちゃんと教えていかなきゃならないのが一点。
もう一点は、教えないことによって日本人の形をこれまでは描けたと思います。戦前とのかかわりにおいてという、先ほどの法学者からの立場というのは正にそれを描いていると思いますが、しかし、具体的に、これから生きていく子たちにとってみると、日常的に日本人であることを問われる場面がたくさん出てくると思います。内なる世界において外国人との関係、ただし国の中において。国の外へ行くともう日常的になっていくと思います。
そのときに何を日本人として教えていくかという。ただ、その際に、先ほど山本先生言われたように、何が日本人として誇るべきかということは、最終的には、国家が決めるのではなく文科省が決めるのでもなくて、個々人が決めていくという意味において、心ではなく態度としたことに私は評価したいと思います。
すなわち、心はその人自身が最後まで守らなきゃならないものであって、あえて言いますと、態度はごまかすことができます。あるいは拒否することもできます。しかし、心は、その人の心が本当である限りにおいては、拒否することもごまかすことも本当はしてはならないですね。したがって、態度で止めたということが、公権力を基にした教育がなすべきこととしては限界だろうと。逆に、心は、これは私は中間集団の役割だと思っております。
以上です。
この発言だけを見る →と同時に、どんな表現しようとこの部分の問題というのは、日本の歴史あるいは置かれた状況から考えて、反対の人もいれば、より積極的な人も出てくるという、それがいろんな形でこうバランスを取りながら一つの形を取っていくんだろうなという、社会学者のオプティミズムみたいな部分がありますけれども。
ただ、教育の問題になってくると、現場的にはそうはいかないと思いますので、そうなったときに、先ほど言われた日本人の教育をといった場合に、日本人をどう教育上育てていくかということですが、私は、これまでは日本人ということを意識しなくても日本人であり得たという。言い換えると、多くの人たちが外に行くことがなかったために、国の中だけでいれば日本人であることを余り自覚する必要がなかったわけであって、私のように、四国で生まれて、東京で勉強して、埼玉で結婚して、なおかつ静岡で仕事をし、東京に出てきてこういう出稼ぎやっているみたいな状況になれば、それぞれのところで自分の表現はできるわけですが、ただし、韓国に行くと、もう明らかに日本人になっちゃうわけですね。
そういう意味で、先ほど言いましたように、日本人という在り方を身に付けておかないと、自分自身の選択肢が非常に狭まっていくであろうと。先ほど山本先生が言われた選択するということを考えたときに、自分の選択肢を広げていくためには、日本人という選択肢を持っていかないとこれからは生きていけない社会だろう。もう現にそういうふうになってきている。とするならば、それなりのことをちゃんと教えていかなきゃならないのが一点。
もう一点は、教えないことによって日本人の形をこれまでは描けたと思います。戦前とのかかわりにおいてという、先ほどの法学者からの立場というのは正にそれを描いていると思いますが、しかし、具体的に、これから生きていく子たちにとってみると、日常的に日本人であることを問われる場面がたくさん出てくると思います。内なる世界において外国人との関係、ただし国の中において。国の外へ行くともう日常的になっていくと思います。
そのときに何を日本人として教えていくかという。ただ、その際に、先ほど山本先生言われたように、何が日本人として誇るべきかということは、最終的には、国家が決めるのではなく文科省が決めるのでもなくて、個々人が決めていくという意味において、心ではなく態度としたことに私は評価したいと思います。
すなわち、心はその人自身が最後まで守らなきゃならないものであって、あえて言いますと、態度はごまかすことができます。あるいは拒否することもできます。しかし、心は、その人の心が本当である限りにおいては、拒否することもごまかすことも本当はしてはならないですね。したがって、態度で止めたということが、公権力を基にした教育がなすべきこととしては限界だろうと。逆に、心は、これは私は中間集団の役割だと思っております。
以上です。
岸
岸信夫#28
○岸信夫君 どうもありがとうございました。
確かにそのとおりで、そういう子供たちが愛せるような国をつくっていく、これはある意味では政治家の重い責任だろうと、こういうふうに思います。
同様のことを山本参考人にもお伺いしたいんですね。日本人の育成という観点から、このたびのこの基本法の改正をどのように考えておられるか、お願いします。
この発言だけを見る →確かにそのとおりで、そういう子供たちが愛せるような国をつくっていく、これはある意味では政治家の重い責任だろうと、こういうふうに思います。
同様のことを山本参考人にもお伺いしたいんですね。日本人の育成という観点から、このたびのこの基本法の改正をどのように考えておられるか、お願いします。
山
山本恒夫#29
○参考人(山本恒夫君) ありがとうございます。
私どもは実は、私は中教審の委員をやっていまして、この問題も大分議論しました。今、馬居参考人が言ったことですが、これから先はやはりいろんなところで日本人が問われるという時代だと思います。
ですから、日本人の育成というのは非常に大事ですが、ただ、中教審で議論したのは、それは私どもが言ったんですけれども、あれかこれかではないと、もう二項対立の時代ではないんじゃないかと。東欧を見ても中近東を見ても、争っていますよね。そうすると、二項対立ではなくて、そういう体質では、二つの項があればその中で何をどうしていくのか、その関係をどういうふうに解明して、その関係をつくっていくのか、そこが問われるだろう。
したがって、日本人という、まあ育成という場合でも、日本人だけを見ているんじゃなくて、今回の答申にもあります、先ほどいろいろ意見も出ました、国際的な社会の中での一員であるとか、他人のところをよく理解してとか、他国をですね、中教審の答申にも入っているんですけれども、それとのかかわりで日本人の育成というのを考えていくべきだと思っております。
この発言だけを見る →私どもは実は、私は中教審の委員をやっていまして、この問題も大分議論しました。今、馬居参考人が言ったことですが、これから先はやはりいろんなところで日本人が問われるという時代だと思います。
ですから、日本人の育成というのは非常に大事ですが、ただ、中教審で議論したのは、それは私どもが言ったんですけれども、あれかこれかではないと、もう二項対立の時代ではないんじゃないかと。東欧を見ても中近東を見ても、争っていますよね。そうすると、二項対立ではなくて、そういう体質では、二つの項があればその中で何をどうしていくのか、その関係をどういうふうに解明して、その関係をつくっていくのか、そこが問われるだろう。
したがって、日本人という、まあ育成という場合でも、日本人だけを見ているんじゃなくて、今回の答申にもあります、先ほどいろいろ意見も出ました、国際的な社会の中での一員であるとか、他人のところをよく理解してとか、他国をですね、中教審の答申にも入っているんですけれども、それとのかかわりで日本人の育成というのを考えていくべきだと思っております。