成嶋隆の発言 (教育基本法に関する特別委員会)
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○参考人(成嶋隆君) 新潟大学の成嶋でございます。
私は、憲法学及び教育法学を専攻する者としまして、これらの学問的な観点から、主として政府提出の教育基本法案について所見を述べたいと思います。論点は大きく二つありまして、一つは法律主義の限界という問題、もう一点は法と道徳の関係という、原理原則にかかわる問題であります。
第一の法律主義の限界についてであります。
法律主義といいますのは、戦後日本の教育法制の改革の中で確立されました教育法制上の原則の一つであります。これは、戦前日本の学校教育が天皇の発する勅令により規律されるという、いわゆる勅令主義を取っていたのを改めまして、教育に関する事項を国会の制定する法律により規定すべきこと、そして教育行政はその法律に基づいて行うべきことを要請する原則であります。この法律主義の原則は、国会が国民代表機関であり、その定める法律が民主的な正当性を担っていると、そういったことの確認に基づいております。したがいまして、それ自体は極めて積極的な意義を持つ民主主義的なルールであります。
しかしながら、この法律につきましては留意すべき点があると思います。それは、この原則の内に、言わば内在的な限界があるということであります。言うまでもなく、法律を含む法という規範は、違反に対して何らかの制裁が加えられる、つまり強制力を伴うという非常に強力な社会規範であります。これに対しまして、教育という営みはすぐれて精神的、文化的な営みでありまして、そこには強い自律性ないし自主性が確保されなければなりません。とりわけ、教育の内容や方法など、教育の内的事項と呼ばれる領域につきましては、法による画一的な規制に本来なじまない。基本的には、日々の教育実践を踏まえて、教育界において自主的、自律的な討議、あるいは研究を通じて確定されていく、そういったものであると考えられます。
言い換えますと、法律によって規律することが許されるのは、基本的には教育の外的事項、つまり条件整備の面に限られるということであります。そして、仮に教育の内容に関する立法、つまり教育課程立法が許容される場合でありましても、それは教育課程のごく大綱的な、あるいは大枠的な部分に限定されなければならないということであります。
このように、教育に対する立法の関与にはおのずと限界があると考えられますが、このことを教育という営みの持ちますもう一つの本質に照らして考えてみたいと思います。
教育は、現在の世代を超えて次の時代を担う主体の形成、次の時代の新しい文化を創造する人間の形成を任務としております。このことを、近現代の教育思想界に大きな影響を及ぼしましたフランスの教育思想家であるコンドルセという人物は、次のような言葉で語っております。
教育の目的は、既成の意見、既にある意見ですね、既成の意見を神聖化するのではなく、既成の意見を次々の世代の自由な検証にゆだねることにあると、このようにコンドルセは申しております。
つまり、教育が現在の価値を次の世代による自由な検証にゆだねる営みであるということであります。そうであるとしますと、その教育の在り方を現在の世代が法律によって拘束するということは、創造的な、クリエーティブな教育の余地、あるいはそれが将来において開花する可能性の芽を摘み取ってしまう、そういう危険性があります。このことも、教育に対する法による規律が抑制的、謙抑的でなければならないということのもう一つの理由であります。
以上のような原則的な観点から政府の改正案の条項を見てみますと、看過できない問題点が幾つかございます。
まず、教育の目標を定めた法案の第二条であります。既に指摘されておりますように、ここには極めて数多くの道徳規範、つまり徳目が教育の目標として掲げられております。法律の中に道徳を盛り込むということの問題につきましては後ほど申し上げますが、ここでは先ほど申しました教育の在り方についての立法の謙抑性という、これは教育条理上の要請と考えられますけれども、そういった条理上の要請に照らして、この法案二条の規定が自主的、自律的に展開されるべき教育実践を法的に拘束することになるということの問題性を指摘しておきたいと思います。
次に政府案で問題になりますのは教育行政に関する法案の十六条、特にその第一項であります。この規定は、現行法の教育行政条項であります十条一項の規定のうち、その前段にあります「教育は、不当な支配に服することなく、」、この文言は残しておりますが、一項後段の、教育は「国民全体に対し直接に責任を負つて行われるべきものである。」と、この部分を、教育は「この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきもの」という文言に変えております。
政府案において削除されました現行法十条一項後段の部分、私はこれを直接責任の原理と呼んでおりますが、それは、子供の教育につき、親からの信託を受けた学校における教師集団が、免許制度によって公証された専門的な職能を発揮することを通して文字通り直接的に教育責任を果たしていく、このような教育の在り方を定めているというふうに解されます。国家は、そのような自主的、自律的な教育の場あるいは教育空間に権力的な干渉を及ぼしてはならないと、それが一項前段の不当な支配の禁止規定の趣旨であると考えられます。
現行法の十条二項は、教育行政につきまして、「教育行政は、この自覚のもとに、」、つまり一項の自覚の下に、「教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行われなければならない。」と、このように定めております。現行法十条は、このように、教育と教育行政の関係につきまして極めて重要な原則を定めております。
ところで、この現行教基法十条に関しまして、従来から政府は、法令に基づく教育行政機関の行為は、たとえそれが教育内容にわたるものであっても不当な支配には当たらないという解釈を取ってまいりました。
一方、国家の教育への関与につきまして指導的な判断を示しました学力テスト事件に関する一九七六年の最高裁判決は、教育行政機関が教育関係法律を運用する場合には、教基法十条一項の不当な支配とならないように配慮しなければならない拘束を受けており、その意味で、教育基本法十条一項は、法令に基づく教育行政機関の行為にも適用があると、このように判示しております。
元々、この現行教基法十条が、戦前における教育行政というものが、法令に基づく場合も含めて教育内容に対する立ち入った干渉をなしていたということに対する反省に基づいているということを踏まえるならば、この最高裁の解釈の方が私は妥当であるというふうに考えております。
条件整備を基本的な任務とする教育行政機関は、教育の自主性、自律性を損ねるような介入を行うことは、たとえそれが法律に基づいている場合であっても不当な支配となるということであります。
更に申し上げますと、教育行政機関の依拠する法律自体が教育内容への不合理な、あるいは不当な介入、干渉を可能とするようなものであった場合、これも私は不当な支配に該当することになるというふうに考えます。つまり、法律自体が不当であるならば、その法律による行政も当然不当なものになるということであります。言わば、法律による不当な支配と言うことができると思います。
このような見地から、改正法案を再度見てみますと、先ほど指摘しましたように、法案の十六条一項の後段部分が「この法律及び他の法律の定めるところにより」と、このように規定していることが問題となります。「この法律」というのは、言うまでもなく改正教育基本法のことでありますけれども、この改正教育基本法は、二条におきまして道徳規範を教育の目標として掲げ、それを学校教育のみならず、教育のすべての分野に及ぼすような法律であります。このように、私はその改正教基法自体が不当性を帯びているというふうに考えるわけです。そうしますと、それに基づく行政も当然に不当性を帯びるということになるはずであります。
ところで、この法案の十六条一項の規定ですが、私の見たところ、この規定は大日本帝国憲法の権利規定にありました、いわゆる法律の留保という仕組みをほうふつさせるというふうに見ております。法律の留保と申しますのは、例えば旧憲法の二十九条、これは言論、著作等の自由を保障した規定ですが、その二十九条では、日本臣民は法律の範囲内において言論、著作等の自由を有すと、このように規定されています。ここに見られる法律の範囲内においてという文言の示すのがこの法律の留保であります。
その意味するところは、憲法に規定された権利や自由の具体的な保障内容であるとか、あるいはその保障の範囲、これは憲法ではなく法律で定めるというものであります。つまり、すべてはその法律任せ、法律次第ということになります。旧憲法の下では、この法律の留保の仕組みの下で、多数の言論規制立法などが行われ、憲法の言論の自由の保障が実質的には骨抜きになってしまったと、このような経緯がございます。
改正法案の十六条の規定というのは、この法律の留保が果たしたあしき役割を教育の場面で演じる危険性がある。教育の自主性、自律性を保障する現在の教基法を国家による法律を通した、法律の力によるその教育統制立法、このようなものに変質させてしまうということになると思います。
第二の論点は、法案の第二条における徳目の法定の問題であります。このことも非常に重要な問題点をはらんでいるというふうに思われます。
先ほど、教育立法における謙抑、抑制の要請とかかわって、法律が教育の内的事項を規律する際の限界を指摘いたしましたが、とりわけ道徳規範につきましては、これを法律に規定すること自体に大きな問題点があるように考えられます。
実は、この点は教育基本法の立法者たちも十分に自覚していたように思われます。例えば、立法時に文部大臣を務めました田中耕太郎氏は、道徳の徳目などを公権的に、公にですね、公権的に決定することは国家の任務の逸脱であると、このように述べております。
また、教育基本法の立法事務に主導的にかかわった行政法学者の田中二郎氏、この人は後に最高裁の判事を務めました。その判事在任中、いわゆる尊属殺人重罰規定に関する一九七三年の最高裁判決におきまして重要なことを意見として述べております。尊属殺人重罰規定といいますのは、後に一九九五年に削除されました刑法の旧二百条が定めていたものでありまして、尊属殺人、つまり親殺しですね、これを普通殺人よりも重く罰するという規定でありました。この規定に関しまして、田中二郎判事はこのように言っています。
親を尊敬し、尊重するという道徳は、個人の尊厳と人格価値の平等の原理の上に立って、個人の自覚に基づき自発的に遵守されるべき道徳であって、次が大事です、法律をもって強制されたり、刑罰を科すことによって遵守させようとすべきものではない、こういう発言です。
この田中意見のとおり、人間の良心の命令である道徳規範はまさしく諸個人の自覚に基づいて自発的に守られるべきものでありまして、決して法によって強制すべきものではないというふうに考えられます。としますと、正にその道徳規範を法定した法案の第二条はこの点で重大な問題点があると、このように言わなければなりません。
法案二条は、道徳規範を法定するのみならず、更に「態度を養う」という文言にも見られますように、法定された道徳規範に見合うような態度まで求めているということがあります。このことは、憲法との関係でいいますと、思想及び良心の自由を保障した憲法十九条に違反すると、このように考えられます。道徳というのは良心の命令でありますけれども、諸個人の内心における良心の判断、つまり倫理的な価値判断、これが道徳ということであります。その内心における良心の判断の自由を保障したのが憲法十九条であるということになります。
それから、道徳規範を法定することは国家が特定の道徳規範を公定することを意味するわけで、公に定める、このことは憲法十九条の規範内容の一つであります国家の価値中立性という原則に反することになります。耳慣れない表現かもしれませんけれども、この価値中立性といいますのは、例えば憲法学者の西原博史氏によりますと、倫理的、道徳的な領域における国家の中立性ということです。
で、国家が特定……