世取山洋介の発言 (教育基本法に関する特別委員会)

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○参考人(世取山洋介君) 世取山です。今日はこういう機会を与えていただきまして、ありがとうございました。
 私は、職業研究者として新潟大学に勤めており、教育行政、教育法、そして子供の権利を専門としております。また、ボランティアベースでありますけれども、国連子どもの権利条約と深い関係を持つディフェンス・フォー・チルドレン・インターナショナルというところの日本支部の事務局長を九四年以来務めてきました。
 今日私がお話ししたいのは、子供の権利という観点から見た国会審議の問題点、現行教育基本法の先駆性及び政府法案の問題点ないしは欠陥についてです。二つの国会にまたがって百三十時間ぐらいの審議が行われてきたことは承知しておりますし、可能な限りそれをフォローし、精査するように努めてまいりました。
 で、その成果に基づいてはっきり申し上げなければならないのは、実はこの国会の中で子供の権利という観点からの法案審議がさほど充実してなされていないということです。例えば政府法案の最大のポイントになっている第十六条ですけれども、ここでは現行法十条の一項の規定の趣旨、すなわち、たとえ国会の定めた法律に基づくものであったとしても行政の行為が不当な支配に該当する場合があり得るのだという現行教育基本法の十条の趣旨が十六条においてもなお継承されているのかどうかということがこの議場で大きな問題とされてきました。
 その際、委員の多くの方が引用するのは、七六年の最高裁学テ判決ということになるわけですけれども、引用されている部分は、まあかぎ括弧ですけれども、教育内容に対する国家的介入についてはできるだけ抑制的であることが要請されると、この部分です。
 しかしながら、その直後について、一体なぜ国家的干渉が抑制的であることが望まれるのかということの理由を子供の権利という観点から指摘した次の文章はさほど引用されているわけではありません。読みます。「殊に個人の基本的自由を認め、その人格の独立を国政上尊重すべきものとしている憲法の下においては、子どもが自由かつ独立の人格として成長することを妨げるような国家的介入、」、中略しますが、「は、憲法二十六条、十三条の規定上からも許されない」と。
 憲法十三条は個人の尊重原理を定めたものであります。しかし、もし仮に国家が、人間が自立した大人になる前の子供時代に自由に干渉することができるとすれば、実は将来における自立した大人というのは子供時代において根絶やしにされることになるわけです。したがって、憲法十三条の個人の尊重原理から見れば、子供時代を国家干渉からどのように守るのかということは当然重大な関心事とならざるを得ないわけです。
 現行教育基本法の先駆的な性格として指摘しなければならないのは、この関心を既に持ちながらこの教育基本法がもう作られたという事実です。例えば、前文では個人の尊厳を重んじる教育が行われなければならないとはっきり言い、そしてそのような教育の目的が、教育の第一目的が人格の完成、すなわち人格の全面的発達に求められることを第一条で明らかにし、その結果としてのみ良き国民形成が行われるということを明らかにしている。さらに、第二条においては、そういった人格の完成を満たす教育が行われなければならない方法について規定しているわけですけれども、そこで書いてあることは、学問の自由の尊重と自他の敬愛と協力なわけです。今風に言いますと、相互尊重と協働に基づいて教育が行われなければならないんだということを二条は実は言っているわけなんですね。
 教育基本法の立法者意思を最もよく示すと言われている一九四七年の「教育基本法の解説」を読みますと、十条のところを読みますと、実は十条は民主主義国家における国家と国民との関係についての規定なので、本来であれば二条に規定されていてしかるべきだったんだけれども、しかし特に教育行政に関係するので独立した条項に起こしたと言っているわけです。つまり、二条と十条は表裏一体の関係にあり、自他の敬愛と協力、学問の自由の尊重という言葉は十条一項において、引用しますが、教育は国民全体に対して直接責任を負って行わなければならないと言い換えられているわけです。
 先ほど直接責任については成嶋先生から説明がありまして、そのとおりだと思いますので、それについては説明は加えませんが、皆さんに対しては釈迦に説法であるということを重々承知した上で、直接責任と対になる概念、すなわち間接責任とは一体何なのかということの定義だけはここで言っておきたいと思います。それは、国会に定められた法律に従って教育を実行し、国民代表を通してそれを選出した親や国民に対して責任を果たすという考え方です。教育基本法十条は、個人の尊重原理から出発し、直接責任性を採用したということになっているわけです。つまり、個人の尊重原則に基づけば、教育における責任の果たし方というのは直接責任以外あり得ないというのが一九四七年に日本人が示した見解だということになるわけです。
 教育基本法の骨格というのは、前文、一条、二条、十条ということになっているわけですけれども、政府法案の最も大きな特徴は、この背骨に対して実に精密で緻密なアタックを掛けているということです。
 政府法案は、前文で「個人の尊厳を重んじ、」とは言っているんですけれども、それは個人の尊厳を重んじる人間というふうに係っておりまして、結局国家との関係における個人の尊厳の尊重原理は骨抜きにされているわけです。したがって、そのような骨抜きにされた下において第一条に規定されている人格の完成というものも骨抜きにされていくわけで、むしろ第一条の後段に規定されている、必要とされる資質を身に付けた国民育成こそが実は政府法案においては教育の第一目的となっているというふうに言って構わないというふうに思います。しかも、第二条では二十以上にわたる徳目が規定され、そして第十六条では直接責任が明示的に排除されて、間接責任が採用されているということになっているわけですね。
 現行教育基本法が個人の尊厳原理に基づく教育の自主性擁護法であったというふうに言うのであれば、政府法案は端的に教育の国家統制法だと言うべきであると思いますし、最高裁学テが示した子供時代に対する配慮は喪失させられているというふうに言っておきたいと思います。
 これが政府法案の最大の問題点なわけですけれども、あえて二つだけ突き付けられている問題点を指摘したいと思います。
 一つは二条です。
 二条に掲げられている一号から五号の徳目の構造というのは現行学習指導要領の道徳編とほぼ同じです。これは何を意味しているかというと、学習指導要領を基本法に格上げするということを意味しています。しかも、道徳だけを基本法に格上げしているわけですから、道徳が筆頭科目化されることになるわけです。そうすれば、英、数、国、理、社などの教科教育が道徳教育化させられるということが法的にオーソライズされるという極めて大きな問題点を持っており、これはもちろん修身が筆頭教科であった戦前の教育制度を想起させるものとなっているわけですが、しかし残念ながらこの問題はまだこの国会において取り上げられているわけではないということです。
 第二番目に指摘しなければならないのは十六条と十七条の問題です。
 経済財政諮問会議や規制改革・民間開放推進会議が提案している学テ、学校ごとの成績公表、学校選択、バウチャー制度などが結局内閣が自由に決めることができるようになって、トップダウンで降ってきたそのような指令を無限定の権限を持つ文科省が実行できる体制ができ上がるわけですけれども、しかしあえて言いますけれども、新しい学力テスト体制が最高裁学テ判決で示した合憲性審査の基準をクリアできるかどうかは私には疑問です。
 ここでもう一度最高裁学テ判決に戻りますが、最高裁学テ判決の十条解釈の最大のポイントは、それを教育人権と結び付けたというところにあるわけです。つまり、二十六条の背後には子供の学習する権利があると言い、さらに、一定範囲の下において、初等中等教育の教師にも教育の自由があるというふうにはっきり述べています。
 その際に根拠としたのは、引用しますが、子供の教育が教師と子供との間の直接の人格的接触を通じ、その個性に応じて行われなければならないという本質的要請があるからこそ自由が必要とされると言っているわけです。ただ、これは三十年前の判決でして、この三十年間、子供の権利は飛躍的に進展していて、それは国連子どもの権利条約に規定されているわけです。
 六条二項では、生存と発達が子供の権利であることを確認した上で、さらに十二条では、意見表明権を規定しています。
 これは、子供に自由に意見を表明させ、これは感情も含めてですけれども、その表明した感情や意見に対して大人が適切に応答しなければならないということを規定したものですけれども、実はこれは、こういう大人と子供との間の応答的な関係、決して大人に対して服従するという権威的関係ではなくて、そういう応答的な関係こそが子供の人間としての成長、発達をもたらすというふうに考えている条項であるわけです。これを、先ほど言った最高裁学テの本質的要請と共鳴していることは比較的分かりやすいことだというふうに私は思います。
 もし政府が、教基法、最高裁学テ判決、そして国連子どもの権利条約というものを真剣に考えるとなるとすれば、最低限四つのことが必要とされると思います。
 一つ、子供の要求への柔軟な応答を不可能にするような国家介入を差し控えること。二つ、自らの要求や欲求を表明できなくするような子供へのプレッシャーを減じること。具体的には、競争主義的な教育制度を改めるということ。第三に、大人が子供の要求に応答できるような条件を整備すること。端的に言えば少人数学級の実現です。そして第四に、学校において子供の自由な意見表明を奨励し、子供の要求に応じる自由と責任を教師に移譲していくこと。
 以上の四つの観点から見た場合に、政府法案が数多くの問題点を持っているということは確かだと思いますが、時間がありませんので、一つだけ指摘させていただきたいというふうに思います。
 国連子どもの権利条約の実施監視機関である国連子どもの権利委員会は、既に九八年と〇四年に日本政府報告の審査を行っております。そこで、次のような懸念を九八年に示しました。これ外務省訳ですけれども、児童が、高度に競争的な教育制度のストレス及びその結果としての余暇、運動、休息の時間が欠如していることにより、発達障害にさらされていることについて、条約の原則及び規定、特に第三条、第六条、第十二条、第二十九条及び第三十一条に照らし懸念する。
 つまり、ここでは既に日本の教育制度全体が子供の成長、発達権と相当に緊張関係を持っているということが国際的には承認されているわけです。にもかかわらず、どういうわけかこの競争主義的な教育制度を更に競争主義的にする新学力テスト体制の導入が政府によって提唱されているということになるわけです。
 その際、伊吹文科大臣は、今の日本の教育の実態は余りにもひどいので、そのマイナス面を引き受けてもなおそれを実行する必要があるのだというふうに言っているわけですけれども、しかしこの国会に、日本の学力をめぐる、何がどういうふうに悪くて、それが何に由来するのかということについての量的、質的なデータが出たということは私は知っておりません。したがって、立法事実はここでもやみの中ということになります。
 これに対して、国連子どもの権利委員会は、競争主義的教育制度の是正のためには、今の質の高い教育を維持しながら、高校を卒業すればだれでも高等教育に進学することが可能なカリキュラムをNGOと一緒に開発すべきだということも言っています。さらに、競争主義的教育制度から受けるプレッシャーを他の子供に転嫁することを意味しているいじめについては、子供の参加の下にその解決を図れと言っているわけです。ここに教育基本法に示された個人の尊重原理、直接責任、さらには最高裁学テ判決が示した子供自体の尊重の発展形を見ることは実に簡単なことであるというのが私の意見です。
 教育の自主性擁護法、個人の尊厳原則に基づく教育の自主性擁護法を皆さんは発展させていくのか、それとも全く逆の教育の国家統制法の道を選ぶのか、相当に重大な選択を皆様はこれからされようとしているのだろうというふうに思います。
 ただ、研究者としてあるいはボランティアのアクティビストとして言いますが、選択をするのに果たして国会内で十分な議論がされたと言えるのでしょうか。立法者意思は明確にされたのでしょうか。立法事実はどうでしょうか。さらに、この国会の外に目を転じてみれば、果たして国民的議論は十分展開したと言えるのでしょうか。あるいは、国民的合意は成立したと言えるのでしょうか。教育は国家百年の計だというふうに言いますけれども、相互信頼に基づかない基本法制定は将来に必ず禍根を残すということを申し上げて、意見陳述を終わりとします。
 どうもありがとうございました。

発言情報

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発言者: 世取山洋介

speaker_id: 7081

日付: 2006-12-01

院: 参議院

会議名: 教育基本法に関する特別委員会