小川義男の発言 (教育基本法に関する特別委員会)
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○参考人(小川義男君) 今度の戦争が始まった当時、アジア、アフリカに独立国は日本とタイぐらい、世界のほとんどが白人列強に支配されておりました。我が国はこれに対して、それに対する様々な問題点を内包しながらも強烈な抵抗を試みて、白人列強の心胆を寒からしめたと。その是非を私はここで問題にするのではなく、こういう状況の中で戦争に勝った後のアメリカを中心とする勢力が、日本という国民を軍事的に武装解除するだけではなく精神的にも武装解除したいと、そのような衝動を持ったであろうことについては、政党政派のいかんを問わず異論のないところであろうと思います。
私は、そのアメリカの押し付けによって教育基本法が制定されたからなどというけちなことを言うつもりはありません。現実に六十年間実効支配してきたという意味で、憲法にしても教育基本法にしても、その制定の沿革よりは、現在に何らかの問題点を残しているかどうか、この点で見詰めるべきであろうと思います。
しかしながら、教育基本法は、やはりその当時の政治情勢をいささか反映して、日本の国というものを、国家というものを、国民主権の原理になっているにもかかわらず、我が国においては国家と国民はシノニムであります。にもかかわらず、国家は悪であるというような考えが今日なおかなり有力に我が国に存在していることは、私は一つの保守的傾向として遺憾なことであると思います。
それからもう一つは、我が国を精神的にも武装解除したいという当時の時代風潮、そのことが我が国の伝統文化、これに対する否定的傾向を相当示すに至ったと。この点で教育基本法が、我が国のナショナリティーを示すというよりは、全世界のどこへ持っていってもそう文句は言われないような、まあ辞書でいえばコンサイスのような、だれにでも役に立つが本当にはだれにも役に立たないという、そういう側面を持っていることはやっぱり否定できないのでないか。
この辺りを振り返って、やっぱり六十年たったから、あの終戦当時に形成されたものはいかなるものも一点一画変えることなくこれを守っていかねばならないというのを、漢文の言葉で言えば旧慣墨守と言うのであります。やっぱり、その中でいささかここは問題かもしれないと思うところは、謙虚に見直してみるべき時期に今来ているのでないか。また、時代の変化もあって、環境その他、やはり教育基本法を見直せばならないところへ来ているというふうに思います。
愛国心の問題は、例えば自分の父親や母親の悪口言われたら、たとえ悪いおやじであっても、一緒になって隣のおかみさんとおやじの悪口言うような息子は、これは本当に人間らしい息子と言えないでしょう。国家の場合は、悪いところもいいところだと言い張ったんでは、これは話にならぬけれども、我が国の悪口を言われたら、ちょっと暗い気持ちになる。よその国の人と一緒になってうれしくなるというようなことでは、そういう国民ではやっぱり一国を保全していくことが難しいのでないかと、私は思います。
私の弟子で難関大学に受かったのを校長室に呼んで、おまえはこれからどういうふうに生きたいんだと私が聞いたら、私は一つの国にこだわるような生き方をしたくないんです。私のひざ元でこういうことが起こっておる。私は、地球市民、地球国家というのは美しいけれども、お隣の中国、お隣の韓国、まあ北朝鮮はちょっと今おきますが、こういう国では非常に高度の愛国心教育をやっておる。その一方、我が国では、地球市民、地球国家というような美名で、無国籍主義的な、コスモポリタンとも言えるような若者が育ちつつあるという辺りは、やっぱりこれはこのままに看過してよいのではないと思うんです。
そういう点で、例えば北方領土は、歯舞、色丹、国後、択捉、ロシアに不法占領されておりますが、この面積は沖縄本島の四・二倍です。竹島の問題もある。こういう問題に国民的怒りというのが、外国だったら大変なことになるだろうけれども、日本だけはこれを怒ってこないと。寸土を奪われて怒ることを知らぬ民族は、やがて本土を失います。
そういうことを考えても、やはり愛国心、すぐ軍国主義なんて、そういうことを言うのではなくて、我が国の歴史、国家、同胞に対して一体感を持つ。日本の悪口言われたらちょっと悲しくなる、バレーで勝ったら涙が流れると、こういうナショナリティーを育成するためには、やっぱり愛国心という文言が教育基本法に入っていた方がよいと。ただ、政府案はこれを態度というふうにつなげて言っておりますが、民主党の原案では、「同時に、日本を愛する心を涵養し、祖先を敬い、子孫に想いをいたし、伝統、文化、芸術を尊び、」云々というふうにすっきり述べている。これは美しい。これは何とか政府原案に修正して入れていただけないものかと思います。
教育基本法十条の問題が参考人の先生方からもいろいろ出ておりますけれども、ここで問題になっているのは、最高裁の判例、私もここへ持ってきて熟読してきておりますが、あそこで問題になっているのは、教育の中身に対して国家、自治体が関与することは、それ自体が不当な支配になると、こういう要求が出されているのです。
ところが、子供たちの教育を受ける権利を保障するためには、ある程度全国的均質な教育、それからある程度の水準の維持ということが日本全体で担保されなければならない。それが学校における教師の、まあ自治と言ったら言い過ぎかもしれないが、自主性の名の下にすべて任されてしまったら、教育の内的事項に地方自治体、国家は介入してならないと、法律は介入してならないという見解であれば、それは学校でどのような決定を下すか分からなくなるのです。
例えば、一時はローマ字で国字を変えようと言う人もいたし、漢字をもっともっと減らすべきだと言う人もいる。札幌の子供が大阪へ転校してみたら、掛け算の九九が終わってしまっていたと。これは大変な問題になる。いじめにだって発展するかもしれない。そういう点で、教育における一定の水準の維持とある程度の均質性の保全というためには、大まかな学習指導要領というような枠がなければならない。
これは、よく読んでみれば分かるが、大変弾力的なもので、大綱的なもので、まあ言ってみれば、イワシやサンマやブリぐらいは自由に通り抜けてよろしい、ただし鯨やマグロは通さないと、この程度の大綱的基準において、国家、自治体、つまり国民が法律の名の下に教育に関与をしていくということを拒否するならば、これはやっぱり実質的に子供たちの教育を受ける権利が侵されるということになる。
現実に最高裁の判決も、これは同じものでも見方によって随分違うなと思って私もびっくりしておったんだけれども、右教育における云々と言って、右の大綱的基準の範囲に関する原判決の見解は狭きに失し、これを前記学習指導要領についていえば、文部大臣は、学校教育法三十八条、百六条による学校の教科に関する事項を定める権限に基づき、普通教育における中学校における教育の内容及び方法につき、上述のような教育の機会均等の確保等の目的のために合理的な基準を設定することができると。そうして後の方で、この教育の内的事項に対する大綱的関与は駄目ではないということを、むしろこの最高裁学テ判決は、教育の内的事項に対する国家、すなわち国民の名における関与は正しいものであるということを最終有権判断として示したものだと私は理解しております。
その意味で、これまでの教育基本法十条のあの文言というのは、元々は国家を悪としてとらえて、国家を教育の内的事項から排除していこうという意図の下に運ばれたんだけれども、その後何十年かの経過の中で、やっぱりその内的事項に関して大綱的基準、大まかな基準は国家が触れてよろしい、つまり国民が触れてよろしいと。一つの学校における教師の意見の多数か少数かと、そういうことに揺さぶられるのではなくて、国民全体で教育の内的事項に触れていくことができるのだと、このように述べていると私は理解しております。
その意味で、この教育基本法十条の現行法の「不当な支配」という文言は取った方がいいと思うけれども、政府原案はこれについてはかなりきちっと修正していると思います。その点で、私はこれは支持したいと。
最後に、宗教的情操についてでありますけれども、最近学校では、例えば七夕祭りに短冊を下げて、そしてお父さんの病気が治りますようにという、年に一度の牽牛織女の祭りに祈りを込めることも何かためらわれるような、あるいはごちそうさまでしたと言うのも芳しくないというような、そういう動きがある。しかし、人間というものは元々小さい存在で、遺伝学者なんかも、宗教とは別に、サムシンググレートというような偉大な存在があって遺伝子情報を書いているとしか思えないと言う人もおります。やっぱり子供たちの心に、特定の宗教に、宗教宗派に属するかどうかは別として、やっぱり人間を超える何物かがあるという謙虚な心を育成しておくということは人間として非常に重要な問題ではないかと私は思います。
その意味で、やっぱり宗教的情操の育成ということは決して好ましくないというものではない。その意味では、民主党案の「宗教的感性の涵養及び宗教に関する寛容の態度を養うことは、教育上尊重されなければならない。」と、この原案の趣旨は誠に美しく適切だと。これは是非盛り込んでもらいたい。
最後に、まだ二分ほどありますから申し上げますが、キリスト教的一神教の下で、キリスト教で一番の犯罪は何か。これは偶像崇拝ですね。私はねたみ深い神である、私以外のものを拝んではならない、こういうふうに言っている。だから、一神教、イスラム教、ユダヤ教、キリスト教の中では、信教の自由がなかったら生命、身体を維持することはできないんですね。そういう中で、一神教的背景の下に、宗教に対する非常にアレルギーと言われるぐらいの警戒心が生まれている。
我が国やギリシャは多神教の国家であります。我が国の神様もギリシャの神様も、よく調べてみると誠にだらしのない神様だ、伸びやかな神様。だから、宗教的情操の育成といったから、それが一党一派に偏し、一宗派を奨励するというようなことにならないと。その点では、宗教的情操、感性の育成ということは是非修正案の中に入れて通していただきたいものだと思います。