西原博史の発言 (日本国憲法に関する調査特別委員会)
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○参考人(西原博史君) 御紹介いただきました西原でございます。本日は、重要な法案審議におきまして意見陳述の機会をお認めいただきましたことを深く感謝しております。
私は、憲法学を研究する者として今日ここに参ったつもりでおりまして、その観点から、憲法改正、国民投票の在り方をめぐる幾つかの点について私見を申し述べさせていただきます。
インターネットの中継等々、これまで審議経過をずっと拝見してまいりましたけれども、正直、なお根本的な諸問題について十分な議論がなされていないのではないかという印象をぬぐえないでおります。特に、今日のテーマであります国民投票運動について、基本線において公職選挙法の発想を受け継ぐ枠組みというものは、憲法改正国民投票というものの本質とかなりのずれを見せているのではないかという危惧を抱いておりまして、それらの点についてもなお国民全体を巻き込んだ慎重な審議が必要なのではないかというふうに考えております。
大上段に振りかぶった物の言い方で恐縮なんですけれども、憲法改正国民投票という制度は、日本国憲法の国民主権原理の中で極めて特殊な位置を持っております。日本国憲法は基本的に議会制の構造を採用しているわけで、国民が一つの意思主体となって決定を下すという場面は憲法改正国民投票の場合にしか想定されていません。その憲法改正国民投票は、代表者を選びあるいは罷免するといった選挙とは本質においてかなり構造の異なるものだということになります。
選挙の場合、人を選ぶために便宜的に投票という手段を用いているという側面がございまして、そこでは具体的な意思を持つ国家機関としての国民という存在が立ち現れてくるということではございません。それに対して憲法改正国民投票においては、国民という一つの団体、実際には有権者団という形で行動するわけですけれども、その国民という団体が特定の意思決定を任務とする国家機関として機能するということになります。そして、国会はその国民に対する提案者としての資格において行動するということが一つの特徴なわけです。
日本国憲法は、議会制の構造にあえて強烈な例外を持ち込んでまで、なぜ憲法改正に当たってだけこうした特殊な意思決定の役割を国民に割り振ったのでしょうか。
これは、この問いに答えを出すことはそう難しいことではありません。憲法改正という事柄の本質上、国会の三分の二という特別多数決をもってなお配慮されていない国民各層の多様な見解による吟味にゆだねなければならないということを考えているからというのが恐らくその答えでしょう。そのため、国民投票の実施に当たっては、ただ国会における発議に向けた審議で明らかになった論点について国民の判断を求めるというだけでは足りず、国民自らがいまだ明らかになっていない論点を発掘し検討をし尽くすということが必要となるわけです。
こうした点を考えれば、例えば政党というものの機能は、選挙の場合と憲法改正国民投票の場合で全く異なるということが明らかになります。選挙の場合には、民意を集約する形で候補者と選挙民を媒介する政党の働きは不可欠なものと位置付けられるでしょう。それに対して憲法改正国民投票の場合、政党を通じて媒介された民意は既に発議過程で配慮済みということになりますから、政党を通じて媒介されていない部分、そして媒介し得なかった多様な見解、多様な利害関係に配慮すると、そしてそれを踏まえた総合的な判断を行うということが国民としての大きな課題となるわけです。
私が最初にこれまでの審議、なお不十分な点があるかもしれないと申し上げたのは、このような憲法改正国民投票というものの日本国憲法の中での位置付けを踏まえた上でのことになります。
以下、今日のテーマであります国民投票運動に関して、幾つかの点で具体的な帰結を御紹介させていただければというふうに思います。
まず最初に、大きな枠組みとして、憲法改正国民投票が国民という主権的国家機関の意思決定であるという属性に伴う幾つかの問題があるということになります。
まず第一に、国民投票運動期間の問題があります。与党併合修正案はこの期間を最短六十日まで国会が短縮してよいというか、六十日まで切ってよいという可能性を認めておりますけれども、先ほど申しましたように、国会審議でなお明らかになっていない論点まで検討するという上での国民投票が必要だと考えるならば、六十日というのは明らかに短過ぎるということが指摘できるように思われるわけです。
さらに、この主権的国家機関である国民の意思決定という観点で申しますと、やはり最低投票率の問題というのは一定程度配慮を必要とするのではないかということになります。選挙の場合、投票率というのはあくまで便宜的な選出手続の正統性にかかわる事実上の問題なのですけれども、そこでは例えば棄権する選挙民の自由をも含めた考察が必要になってくるでしょう。それに対して、国民という具体的な国家機関が構成され、そこでの決定が行われるときには、これは最低投票率あるいは参加率の問題は機関決定としての質を持っているかどうか、その点にかかわる問題になってきます。選挙においては定足数という考え方は必要ないでしょうけれども、機関決定としての憲法改正国民投票において同じことが当てはまるわけではないということを考えに入れておく必要があるように思われます。
第二に大きな論点、二つ目になりますけれども、国民投票運動に関して政党というものにどういう役割が期待されるのかという点についても若干の考察の余地がございます。
既に指摘しましたとおり、国民投票運動の中において必要なのは、発議に至る過程の中で必ずしも十分に配慮されていない観点まで取り込んだ総合的な検証作業だということになります。その点において、例えば与党併合修正案百六条四項及び百七条四項に言う政党による賛否の意見の放送あるいは広告については、それが仮に同時間同分量という一見公平なルールを踏まえたように見えるものであっても、むしろ国民による審議を特定方向に誘導し、効果的な討論を阻害する危険があるのではないかという観点がなお残っております。
特に危惧されるのは、この賛成、反対の意見表明が両議院の議長が協議して定めるところにより国民投票広報協議会の活動として行われることです。国会は国民との関係においてあくまで提案者としての立場において行動するわけであり、賛否の議論をリードする役割までもが国会あるいは国会に付随して活動する政党という存在に期待されているわけではないということを確認せざるを得ないような気がします。そうでありながら、国民投票広報協議会が主要な論点設定の機能まで引き受けようとするのは、憲法改正国民投票における主権的国家機関としての国民の活動をむしろ妨げるものとなっているのではないかという危惧があるわけです。
大きな論点の三つ目として、狭い意味での国民投票運動に対する制限の問題があります。選挙運動はあくまで候補者が主体になって支持を呼び掛ける運動ですが、国民投票運動は、その本質において国会であれば審議に該当する主権的機関内部の決定作成過程そのものであります。その意味で、国民投票運動という呼び名そのものがある種、場違いの事柄の本質を逸脱したとんちんかんな用語法ということさえ言えるかもしれません。公職選挙法の枠組みを参照したこと、それ自身に一定の問題があるというふうに私が先ほど申し上げましたのはこういう前提に立ってのことであります。
ここでは国民投票運動という言葉を便宜的に使い続けますけれども、この国民投票運動が国民という機関内部の決定作成過程そのものであるということからしますと、ここで国民の自由な討論を阻害するような法制度上の規制は極めて不適切であり、また憲法二十一条の表現の自由に違反する疑いが強いということを指摘せざるを得ないわけです。
これは若干私個人の問題を含みますが、私個人の職業上の立場から特に困っているのが、与党併合修正案百三条二項の教育者の地位利用による国民投票運動の禁止規定です。私も学校教育法上の学校に勤める教育者の端くれで、その中で大学で憲法を講じて日々の糧を得ているわけですけれども、この憲法の中で憲法改正に係る論点を回避することは恐らく可能ではないように思われるわけです。憲法改正で具体的な論点とされた項目を含む授業内容で、現行憲法が踏まえている論理、踏まえている構造を紹介することすらもが憲法改正に反対の影響力利用だというそしりを受けかねないわけです。
また、例えばテレビの討論番組に招待されたときに、憲法学を専門とする私は出席が許されるのかどうか。何しろ私の学生との関係では、テレビ画面を通じた影響力というものもあり得るというふうに考えられるわけです。
このような指摘は半分冗談を含んでおりまして、もちろん法案の規定がそこまで教育者の自由を制限する趣旨で起草されているということではないと信じております。また、そもそも罰則がないのだから杞憂にすぎないということもある程度正統性を持った言い回しになっております。しかし、罰則規定がないからそれでよいのかというとそうではないわけでして、むしろ罰則規定がないことによって処罰の可否を問う運用の一元性すら確保されないという危惧が生じてきているという、もう一つの現状があります。例えば、私を雇用する学校法人が教育者としての地位利用を理由に私を解雇しようとした場合、私は長く苦しい裁判闘争を経ることによってしか自分を守れないということになるのでしょうか。
このようなあいまいな条項でもって教育者の学問研究、及び教授の自由や表現の自由を制限することは、与党併合修正案百条にある適用制限にもかかわらず、やはり憲法違反の疑いを濃厚に持っているということになると思います。
同じ危惧は、公務員による地位利用禁止についても当てはまります。与党併合修正案百九条二項に規定された利益誘導の禁止があれば必要な範囲での地位利用禁止は実効的に保てるはずでありまして、それを超えて禁止規定を置くことは、やはり萎縮的効果を発生させるし、そして主権的国家機関内部におけるきちんとした審議を阻害する役割しか果たさないのではないかという危惧があるわけです。少なくとも、民主党百一条にあるような公務員等の政治活動禁止の適用除外条項をきちんと法文化し、国民としての討議が十分に促進されるような法的環境を整えることは必須のことと思われるわけです。
最後に、まとめ的なことになりますけれども、そもそも、今ここで審議しておりますこの国民投票法というものは極めて特殊な性格の法律だということになります。本来、主権的国家機関としての国民の意思表示の仕方は、その機関、国民が自ら決めるべきことであって、その国民に対して提案を行う主体である国会が決めることなのかどうかということにすら本質的な矛盾は実はあるわけです。ただ、もちろん国民自身がそのルールを作ることはできないわけですから、このルール設定は国会の任務とならざるを得ません。ただ、事柄が国民固有の意思決定の在り方にかかわるわけですから、この法案審議においてもっと国民各層の見解が反映されるような形で、そして国民としての合意と言えるだけの実質を持った立法過程の在り方が求められているように思われます。
既に御指摘しましたような点を含め、なお国民としてのきちんとした議論に付すべき論点が数多く残されているように思われるわけでありまして、理性の府としての参議院におかれましても、軽挙妄動に走ることなく十分時間を掛けた、歴史の検証に堪える立派な御審議をいただけるものと切に期待しております。
御清聴ありがとうございました。