山田昌弘の発言 (国民生活・経済に関する調査会)
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○参考人(山田昌弘君) 山田昌弘でございます。座らせてやらせていただきます。
もう何度か出させていただきまして、今日は幸福ということ、幸福というものの時代的変化についてお話しさせていただきたいと思います。
何度かお会いした方もいらっしゃいますので御存じの方もいらっしゃると思いますが、私は、余り仕掛けがない人間なので、レジュメに沿ってお話しさせていただきます。
まず、自己紹介を簡単にさせていただきますと、私は家族社会学、中村先生が生命を研究してウン十年であると思われますが、私は家族を研究して何十年やっております。そのほかに感情社会学というのもやっておりまして、感情がどのように社会的に形成されるかということも含めて研究しております。耳慣れない方もいらっしゃるかと思いますが、アメリカではもう数百人規模で学会が組織されているほどの研究分野でございます。
あと、御存じの方もいらっしゃると思いますが、家族を調査する中で、少子化を調査する中で、独身者というのは独り暮らしの人ではなくてパラサイト、親と同居している人であるとか、あと、前回お呼びいただいたときはフリーター調査などを基にして格差社会等について発言させていただきました。今は、次の家族ペットとか個人化とか、そういうことについて研究しております。
最初、幸福というテーマをいただいたときに、ああ、これは面白いことに国会の方々も着手したなというふうに思われ、私も同感したわけです。私は社会学を中心にやっておりますが、社会学の中では、幸福というものは社会的なものであって、時代とともにその感じ方は変化するというのは基本的な考え方としてあります。例えば、生きててよかったと実感することが幸福感であるならば、まず、幸福というものは意志や説得によって感じられるものではない。マズローの幸福の段階説にあるように、社会の発展段階や人の成長段階によって幸福を感じる要素が異なるであろうという立場に立っております。
そして、感情社会学の成果を応用しまして、幸福と言っても一口に手掛かりがないので、私は、希望と愛情と物語というこの三つの点に、もちろんこれだけが幸福ではありませんけれども、希望と愛情という感情、そして物語、この三つの点についてお話をさせていただきたいと思います。
社会心理学者のネッセという人は、努力が報われると感じれば希望が、努力がむなしいと感じれば絶望が生じるというふうに述べました。つまり、人間は一生懸命いろいろ努力をしたり、働いたり、家族をつくったり、家事をしたりして努力をするんですけれども、それが報われるというふうに感じれば人間には希望という感情がわくであろうと、しかし努力してもしなくても同じだと考えれば絶望感が生じるだろうと、それがどういうふうに社会的に変化しているかというのが一つの主題でございます。
もう一つは愛情でございます。ラブというのを、これは一応愛情と日本では訳すことになっているんですけれども、江戸時代は、ラブ若しくはそれに相当、アムールとか、相当語は、江戸時代は実はお大切、つまり人を大切にすることというふうに訳していたわけです。つまり、人間関係の中で自分が大切にされ、自分が必要とされるということを経験する、そういうときに愛情が生じるんだ。逆に言えば、愛情を実感するには自分を大切に思う他者若しくは、かつであればいいんですけれども、自分を個人として必要としてくれる他者というものが必要になってくるわけです。
そして、三番目の要素が物語でございます。物語というのはその希望や愛情を実感できるモデルでございます。つまり、その物語に自分を乗せていったときに希望を感じたり愛情を感じたりするということが起きてくるわけで、その物語の在り方が社会的に時代的に変化しているというふうに私は考えております。
そこで、まず幸福の時代変化を先にざっと述べさせていただきたいと思います。
前近代社会は、宗教や共同体が信じられていた時代でありますし、選択の自由がなかった時代です。要するに、今の学生に、選択の自由も、結婚の選択の自由も職業の選択の自由もなくて何が楽しかったんだというふうに聞かれるわけですけれども、確かに日常生活は単調で繰り返しであったけれども、希望や愛情は確保されていた。それは宗教や共同体が保証していたわけです。つまり、良いことをすれば、死んだ後、天国に行けるなり良いところに生まれ変わるなり、そういうことが希望になっていたわけです。逆に、努力しなければ地獄に落ちてしまったりするというようなことで、来世に希望が持ち越されていたわけですし、さらに、伝統を守って努力していさえすれば、人が大切にし、自分を必要としてくれるわけです。じゃ、楽しみはと言えば、年に一回のお祭りとかカーニバルといったようなところで循環的に楽しみが巡ってくるというような生活をしていたわけです。ただ、そういう生活に今の自由を知った我々が戻れるかどうかといったらなかなか難しいところがあるというのが実感でございます。
次に来るのが近代社会でありますが、その近代社会を産業社会とポスト産業社会の二つに分けております。特に、社会科学系、もちろん経済学もそうなんですけれども、そういう理論家の人たちにとっては、どうも世界的に見ても一九八〇年代ぐらいに社会が変わり始めた。つまり、ここに書いてあるように、工業を中心とした、生産者を中心とした成長社会、中流社会であったものが、一九八〇年代を境に消費社会、豊かな社会、脱工業社会、グローバル化社会、そして格差社会といったものに全世界的に転換しているというようなことを言っておりますので、二つに分けさせていただきました。
日本では大体戦後から一九九〇年ごろの社会が産業社会であり、一九九〇年代後半以降の社会がポスト産業社会になったと私は判定しております。
戦後から一九九〇年ごろまでの幸福のモデルというのは、私は家族社会学をやっていたということもありますが、家族生活が豊かになるということが多くの人々の幸福を形作っていた。つまり、だんだん家族生活が豊かになってくること、それが幸福であったというふうに私は考えております。そして、希望や愛情というものが、安定的な職場や安定的な家族がありましたので、それが保証されていた。これは後でまた解説いたします。しかし、ポスト産業社会になると、そろそろ家族が豊かになるという物語がだんだん信じられなくなる。つまり、自分を家族が豊かになるという物語に乗せて幸福を感じるという回路が細ってくる時代になってきたと思います。
第一番目には、まず実現できない人が増大してくる。つまり、将来家族生活が豊かになるという見通しがない中で暮らす人が増えてきたというのが一つです。もう一つは、逆に物足りないと思う人が増えてくるわけです。つまり、豊かな家族をつくり上げた人でも、それだけでは物足りないという人が出てくる。それは富裕層とかパラサイトシングルとかそういう人たちを見ていて思うことなんですが、そうなるとどうなっていくかというと、小さな物語による幸福を消費するというパターンが出現している。別にこれは日本だけではなくて全世界的に出現しているわけですけれども。そして、実現可能性が低い夢を見続ける人というものが出現してきている。そういう流れだと考えております。
あと十分間、時間がある限りこの流れについて説明していきたいと思います。
三番目に行きます。戦後社会の幸福というのは、先ほども言ったように家族とともにあった。それは家族を豊かにすること。つまり、仕事をするのも家族生活を豊かにするための手段という意味付けが強く、消費をするのも幸福な家族生活をつくり出すということを実現するために行われたものだと考えます。その豊かさの物語のアイテムとしてあったのが、より広く快適な住宅、家電製品や車、そして子供の育ちであったわけです。そして、この物語を完成に向かって進ませることが幸せの実感をつくっていったわけであって、戦後から一九九〇年、まさにバブルのころまでは、これがすべての人がすべて実現できる、そして幸せであるというような幸せの方程式が存在していたというふうに考えられます。
それは同時に希望保証社会でした。つまり努力が報われることが保証されていた。教育においては、努力をして勉強して卒業すれば学校相応の就職先がだれでも保証されましたし、仕事は、これは男性に限られますが、だれでも仕事で努力すれば昇進し、収入が増えた。家族であれば、女性ならだれでも家事、育児をしていれば、夫の収入が上がっていって、豊かな生活を将来築ける見通しが持てた。つまり報われたわけですね。
愛情においても、自分が必要とされ、大切にされているということが保証されている社会であったと考えます。それは、男性であればほとんどの人が正社員若しくは業界の中での自営業の一員として生活できる環境が整っていましたので、職場が自分を必要とし、企業が自分を心配してくれるということを実感できていたわけです。
さらに、家族においては、男性は自分の稼ぎが必要、つまり自分が稼ぐのは家族のため、女性が家事、育児をするのは家族のため、そして二人の力で家族生活がどんどん豊かになっていって、そして一戸建て、車を持って、子供を大学に入れてゴールインというのが戦後の多くの人々の幸せの物語だったわけです。
しかし、それは実は危うい前提に立っておりまして、危ういというか、当時は当たり前だったんですけれども、三ページに参りますと、だれでも人並みに努力をすれば幸福の物語に自分を乗せることができた。つまり、職業上では男性の就業が安定していた。つまり、まじめな男性だったら正社員になれ、終身雇用で、努力して昇進した。自営業でしたら、安定して収入が増大した。そして皆婚社会であったということがあります。
その当時の消費活動というものは、つまり家族から消費活動を眺めてみれば、幸せな家族生活に必要だとされたものを一つ一つそろえていくことが戦後の社会における消費活動であったわけです。
当時は格差問題が起きなかったというのは、収入が上がれば将来のある時点でみんな同じようなものを手に入れられるんだというような期待があったからです。つまり、カラーテレビにしろ一戸建てにしろ、今は買えなくても、今は持てなくても、一年後、若しくは家だったら五年後、十年後に必ずうちの家族も持てるというようなことを思えたから格差問題というものは起きなかったわけです。
しかし、戦後の幸福モデルが一九九〇年ごろから揺らいできます。それは、先ほど言ったように、豊かな家族生活を築くことが、幸福という物語ができないという側面と物足りないという側面から崩れていくわけです。豊かな生活を自分の努力では築く見通しがなかったり、豊かな生活が失われるかもしれないという不安、多分年金不安というのはそれが大きいと思います。つまり、成長期は年金をもらっている人でも年金額は上がり続けたのでこのまま豊かな生活が続いて送れるんだろうなという見通しがあったんですけれども、今は何かあったらこの豊かな生活さえも失うかもしれないという不安と隣り合わせになってしまいましたので、それは消費は増えないだろうというふうに思います。
もちろん、格差社会ですから豊かな生活をしている人も一方で出てくるわけで、そういう人は物足りない、単に豊かな家族をつくっただけでは物足りないという人も出てくるわけです。そうすると、これから述べますが、小さな物語を消費することによって幸福感を感じようとするという動きが生まれてきます。
四の二、四ページに行きますと、それが崩れる原因というのは、これはもう私が言うまでもないんですけれども、仕事と家族が不安定化したということが一番大きな原因でございます。
それについてはいろいろ理由がありますが、非正規社員が増えた、つまり非正規社員が増えたというときに、多くの人は収入が少ないとかそういうことを心配なさいますが、それよりも、自分が職場で大切にされない、大事にされないという経験がどんどん増えてくるわけです。
私は、フリーターとか非正規雇用の人たち約百人以上の人にインタビュー、調査をしてきましたけれども、みんな、けっとか言うわけですね。こんな仕事はだれでもできますよ、けっ。つまり、必要ともされないし、何かあったらすぐ辞めさせられるし、過剰労働させられるしというところで、つまり職場で自分が大切にされないという経験がどんどん蓄積されているのが今の仕事の変化でございます。となると、仕事は単なるお金を稼ぐ手段になってしまうというのは、実は一つの不幸が始まっていると私は思っております。
二番目には家族の変化でありまして、未婚者の増大と離婚の増大というものが出てきます。
双方実は身勝手な人が増えたというわけでもなく、私は離婚に関してここ数年アンケート調査、インタビュー調査をしてきましたが、結局、夫が失業したり収入が少なくなったんで見限って子供を連れて実家に帰ったというパターンが多分ここ十年ぐらいの離婚の増加のかなりの部分を占めております。さらに、私はそれをパラサイトディボースと呼びましたけれども、離婚してパラサイトで戻ってくるというケースが結構あるんだということが調査によって分かりました。
あと、家族が家を持ってしまって豊かになる。家を持ってしまいますと、今度は自分の必要性を実感できる場というのが家族の中で減少してくるということも出てくるわけです。
ということで、もう時間があと二分少々しかありませんので、四の三の若者世代と団塊世代の格差拡大の一つのモデルケースとして挙げておきました。
一方では、夫婦とも高収入で、夫婦ともフルタイムで働いていて、三十半ばで一戸建てや都心にマンションを買ってしまうといったような若者が現れる一方で、三十半ばでも収入が少なくて親と同居してフリーターとして暮らしているという人も増えてきているわけです。後で言いますけれども、この二つの層が同じことで楽しみを感じているというのは実は不思議なところでございます。
一方、団塊世代は、これは私いろいろなところで言っているんですけれども、団塊世代で親と同居している未婚者がいる確率はほぼ五割なんです。大体六十ですから、三十ぐらいで結婚していない子供が家にいる確率、一人以上家にいる確率は五割で、かつ未婚者ではフリーターが多いですので、大体団塊世代の十人に一人は未婚で親と同居していてフリーターなり失業者なりを抱えているという計算になりますから、インタビューしても心配で心配でしようがないわけです。
つまり、ずっと子供のサポートを続けることを運命付けられる人たちがいる一方で、子供が自立しちゃった人はそれで家も建てちゃったし何かすることもないしという形で自分探しを始め出すというように、団塊世代は自分の収入というよりも子供の状況によって消費行動が変わってくるらしいということまで分かっております。
次に、もう時間が一分ぐらいでございますので、最後に、じゃ小さな幸福な物語というのは何かというと、例えば、もう一、二、三に行きます、短く言ってしまえば、自分が他人から評価されているという幻想をどこで得るかということです。
ここでパチンコと書きましたけれども、つまり、現実の世界で努力が評価されない人は、パチンコとかゲームに行くと、あんたすばらしいって言ってくれるんですね、機械が、パチンコが。これだけ努力をした、頑張りましたねって言ってくれるわけです。つまり、逆に現実の仕事で努力が報われない人がそういうところへ向かっているというところがあるわけです。
さらに、私はメードカフェに通う人にインタビューしましたけれども、メードカフェというのは別にカフェを、コーヒーを売っているわけではなくて、自分が大切にされるというものを売っているわけですね。私は学生に聞いた。学生は妹カフェというのに行ってきたそうです。つまり、若い男性が行くと妹みたいな子が出てきて、お兄ちゃんお帰りなさい、今日は疲れたでしょう、今日は何々を入れてあげるわねというふうに言ってくれると。おまえ、妹いるじゃないかと言ったんですけれども、それが、いや、現実の妹はそういうことを言ってくれない。
ペットでも一緒でございまして、後で参考文献で付けましたけれども、ペットを家族のように飼う人に、十数家族にインタビューしたんですけれども、子供が小さいころは、おれが帰ってきたらお帰りとかいってパパどうこうと言ってくれたんだけれども、もう子供が中学生になると何も言ってくれない、だけれども、今は犬の何々ちゃんがおれが玄関を開けた途端に飛び付いてくる。つまり、私は必要とされ、私は大事にされているという場をお金で買っているわけです。
というように、つまりは小さな物語というものを、大きな物語、豊かな家族生活をつくるという物語で戦後ずっと来たわけですけれども、それが一方でできない人と物足りない人に分かれていって、できない人、物足りない人双方が小さな物語を消費し続けるというような状況が今生じているというふうに思っております。
済みません、ちょっと二分ぐらい時間を超過してしまいまして、どうも申し訳ございませんでした。これで終わらせていただきます。