辻惠の発言 (法務委員会)
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○辻委員 犯罪と刑罰というのは古くて新しい問題で、ある意味では現実的な問題なんですね。刑罰のありようについて講学的には応報刑とか教育刑とかいうことがありますけれども、今日の社会において再犯者が非常にふえている、では収容先の刑務所における刑罰の機能として、教育刑的な要素がどれだけきちっと充実させられているのかということについても検討していかなきゃいけない問題だというふうに思っております。
翻って、国家の刑罰権の根拠というものについてどう考えるのかということ、国家の刑罰権は絶対のものではないわけでありまして、その根拠にさかのぼって考えれば、やはり合理的な範囲の中で行使をされなければならない、このように思うわけであります。
近代国家の成立ということからいえば、一七八九年のフランス革命の人権宣言によって罪刑法定主義がうたわれた。これは、罪刑の法定、罪刑の均衡、類推解釈の禁止、遡及処罰の禁止ということで、罪刑の法定されていること以外は自由なんだという意味で人権保障機能をうたったものであろうと思います。
このフランス革命の二十五年前にイタリアのベッカリーアという学者が「犯罪と刑罰」という著作を発表して、これは、いわゆるルソーの社会契約論やまたモンテスキューの権力分立論、三権分立論を引き継いで、罪刑法定主義を確立するに当たって大きな役割を果たした方だというふうに思います。
今、私の手元に岩波文庫の「犯罪と刑罰」、ベッカリーアを持ってまいりました。この中で、刑罰の起源と刑罰権の真の基礎ということについて、少し長くなりますが、ベッカリーアは次のように言っております。
拘束されず孤立していた人間が、たがいに結合しあったその条件が法律を作った。たえまない戦いの状態に疲れ、保持して行くことが不確実になったむなしい自由の享受に疲れた人間は、じぶんの自由の一部分をさし出して残った自由を確保することを考えたのである。この各人の自由の分け前の総和が一国の主権をかたちづくる。そして主権者とは、とりもなおさず、合法的にこれらの自由の供託を受け、その管理をおおせつかった者にほかならない。
しかしこのような供託をつくっただけでは十分でなかった。各個人の侵害からこの供託を守らなければならない。
社会をふたたびその昔の混乱状態におとし入れようとするこうした専制主義的な精神をおさえつけるに十分な力強さをもち、感性にじかに作用する契機が、ここに必要になってくる。この契機がすなわち、法の背反者に対してもうけられた刑罰であった。
このように言っているわけであります。
これは、その後、ベッカリーアの系譜の中で、いわゆる客観主義の刑法学が確立されていって、刑罰については応報刑主義ということが思想的には定着をして、他方で主観主義刑法がその後出てきて、教育刑という要素も加味をして、そして議論の中で現在があるということでありますけれども、そもそも刑罰権の基礎を考えるときに、客観主義刑法の確立ということが罪刑法定主義をもたらしたものであって、今日、私たちは歴史的に先人の知恵としてそれは非常に尊重すべき考え方であろうと私は思うわけであります。
そういう立場に立って、刑罰の基礎ということについて、ベッカリーアはさらに次のように言っているわけであります。
各人にその自由の割り前をさし出させるように強制するものは、ただ一つその必要性だけである。こうして各人はできるだけすくない割り前だけを公けの供託にまかせようとする。いいかえればじぶんが残った部分を勝手に処理することを他の人々に許容してもらうのに必要なだけの最少限度をさしだすのである。
この自由の小さな割り前の総和が刑罰権の基礎である。この基礎を逸脱する刑罰権の行使は、すべて濫用であり、不正である。それは事実上の権力ではあっても、法にもとづいた権利ではない。
ということを言っているわけです。
刑罰をできるだけ最小限度にとどめるべきだという考え方、国家に委託をして自由の制約を与えた、しかし、その国家権力が与えた範囲以外のものに濫用的に権力を行使する場合には、これは不正なんだということを言っているわけなんですね。ですから、この考え方の延長で罪刑法定主義も出てくるでありましょうし、刑罰の均衡という問題も必要だという考え方も出てくるのではないかというふうに思うわけであります。
現実的に考えた場合に、国家の刑罰権の合理的な範囲はどのような基準でどう考えられるべきなのかというときに、一つは、被侵害利益がどうであったのかという、利益の侵害の大きさですね。それからもう一つは、行為者の犯意についてどのように評価するのか。故意、過失とか、ドイツなんかでは、殺人罪については謀殺とか故殺とかいうことで、細かくその犯意を認定していくという作業の上で、刑罰権の範囲はどこまでなのかということを議論していくべきだというふうになっているわけであります。
確かに、そういう議論の中で、被害者の感情というものについては、量刑判断に当たって非常に重要な要素ではあるけれども、法のあり方をどうするのか、法制度をどう決めていくのかというときに、被害者の個々の感情が法や法制度を動かしてはならない、このように考えますが、大臣、この点のお考えはいかがでしょうか。