佐藤榮佐久の発言 (原子力問題調査特別委員会)
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○佐藤参考人 佐藤でございます。
たまたま、こちらに出る前に一枚の写真を見まして、これは、事故後一年半後に富岡町で撮影した猟友会の方の写真でございまして、まさにこのイノシシは、県内の人は皆御存じのように、阿武隈川から西には行かなかったんですが、今や中通り、そして会津にも行っております。生態系が本当に壊されている。単に原発の放射能が飛んだだけの問題ではなくて、そういう大きな問題であるということを、この写真を、ありましたので、御紹介しておきます。イノブタですね、イノシシと豚の。
この順に沿ってお話しいたします。
自己紹介も兼ねて、私は、チェルノブイリ事故の前の年に、自民党の青年部の皆さんをお連れして、県会議員の皆さんですが、船田団長だと思いますが、この写真のように、スウェーデンの核シェルターを拝見した経験がございます。その次、一年たたないうちに、チェルノブイリの事故が一九八六年四月二十六日に起こりました。そして、その数カ月後、中曽根総理の随行で北欧と東欧に行ってまいりました。この写真は、八七年の東ドイツ、ホーネッカー議長さんとの握手の写真です。
このとき、外務省筋からだと思いますが、国会議員同士でしゃべっていることは全部あっちに通じるから注意するように、ホテルの部屋からうちに電話するのは全部盗聴されていますという話がありました。私は、ソ連崩壊前の、ファシズム、民主主義の国でないからこういう事故が起きたとそのとき思って、帰ってきておりました。残念ながら、その事故が日本で起きたわけでございます。
次に、悲しいポスターが皆さんのお手元にあると思います。何とか四十年以上原子炉をたかないでくれと、四十年目に三月二十六日に入るわけです。ですから、もうやめてくれということでずっとお願いしておりましたが、二月七日に経産省はオーケーを出しました。五十年に向かってのオーケーを出しました。そして三月十一日の事故であり、三月二十六日、私はいわきでやれと、やれというのはおかしいですが、やろうよと言いましたが、いわきの方の電話で、主催者の電話で、とてもやれるような、どんな小さな、こういう集会場でさえ、少なくとも集まれるような状況ではないという返事がありました。
残念ながら、二月七日にどういうチェックをしたのかわかりませんが、五十年目に向けてのオーケーを出したんですね。ですから、今東大の先生からいろいろお話がありましたけれども、非常に重要な問題提起がありましたけれども、そんな問題じゃなくて、日本の役所も含めた体質の問題がこの事故を起こしていると私は思います。
次に、欧州地方自治体会議に、ちょうど二十周年目のとき、私が知事をやめる年で、やめるというのは、行くときはやめる気持ちもなかったんですが、残念ながら、九月の二十八日ですかね、辞職するつもりもないで県庁に行きましたら、帰りには辞職会見をして帰ってきたことがございます。
その年の二カ月前に、欧州の自治体会議というところに出席して、日本の地方自治について講演をしてきたのがこのパンフレットですが、私の講演の後に、チェルノブイリ二十周年の原則をスラヴィティチというチェルノブイリの仮の町でつくりました。その原則を、我々地方自治体も、ロシアからも来ておりましたけれども、欧州全部の地方自治体で原則を確認しようということで確認したのが、お手元にある五つの原則でございます。
その一つ目が、原子力の問題というのは国が完全にコントロールして、責任もあり、全てあれするんだよということであります。残念ながら、今の原子力の事故の後も、私は、誰が責任を持っているのか、電力会社が責任を持っているとしか思えないような状況で進んでおります。この問題等については後でまた話題になると思いますが。
また、この二条ですか、一番の関係者は誰か。一番の関係者は、国でも原子力会社でも誰でもなくて、住民そのものが、その周りにいる人が一番の関係者だよということであります。それは、この事故が起きておわかりのように、本当に一番苦労しているのは原発の周りの皆さんであることはおわかりのとおりであります。
それから次に、そういういろいろな状況の中で、私は、エネルギー政策というのはどうなっているのかということで、お手元のこういうパンフレットをつくるために、日本の学会も含め、総力を集めて、一年ぐらいかけてこのパンフレットをつくりました。表紙だけにしようと思ったんですが、これはぜひ皆さんに読んでいただきたいと思って、本物もきょう持ってまいりました。
このペーパーを見まして、経産省の若手の四人が、見てやめたかどうかわかりませんが、見て、次のテーマにあります、週刊朝日に十九兆円の無駄遣いという記事が出ました。このまま原発政策を進めていく、「もんじゅ」を進めていく、サイクルを進めていくということになると大変なことになるよと。「「上質な怪文書」が訴える「核燃中止」」というのが、この年に週刊朝日の記事になりました。「第二の道路公団、年金になる。霞が関から噴き出す危機感」という文章で、後でわかりましたのは、四人がパージになったということでございます。
それが去年、次のページの週刊ポストというのに出まして、はっきりと、彼らがパージになって、そういう問題提起をしたのは、上質な怪文書、役人が書いたから「上質な」になったんでしょうが、怪文書を書いたのは、原発というのは、サイクルなんというのが不可能などうしようもないものだということを、我々のこの黄色い冊子を読んで通産の若手の官僚の皆さんは考えた。
それは、私がやめてからですが、県議会報告があるんですが、その報告でも、そのとき来た通産省の担当の課長は、どこに捨てるんだ、使用済み燃料をどうするんだということに関して、それは東電と原燃が相談して決めることだよというようなことをおっしゃっていたわけでございますので、そういう意味では、本当に、誰がどう考えてどうするのかということがめちゃくちゃな状況の中で今進んでいるということです。
もう時間も余りありませんので最後の部分ですが、「席がらがら 陳謝」という新聞のペーパーを挟んでおきました。事故の次の年の三月二十五日の朝日新聞であります。
原子力委員会を郡山で開催して、私もわからないで、私がやめる前ですが、二〇〇四年の十二月二十二日に、余りにいいかげんな原子力委員会なので、乗り込んでいって問題提起をしました。そうしたら、三十分間私に時間をくれるというので問題提起をしましたが。その委員長さんがまだやっていまして、そして、郡山で原子力委員会をやる、避難民が何千人もい、そして市民も何十万人もいる福島県で、福島県の人口は少なくなったとはいえ二百万近くいるわけですから。これが委員会をやったときの状況です。私でさえわからないように委員会をやっている。私の秘書が四時前後に来まして、四時まで委員会をやっているんだけれども、知事がいないのでと。昔の福島の秘書が来たので、どこでやっているんだと。郡山でやっているんだという話でございました。
これはもう入り切れないで大変だな、意見ももちろん言えないなと思って行ったんですが、行ってみたら、前の席は三列ぐらいあったんです、前の真ん中の席、十人、二十人もいないです。あと、ぱらぱらです。
福島県で、郡山で避難民がどれだけ苦労して、原子力委員会にどれだけ問題提起をしたいかというのにもかかわらず、残念ながら、そんなことをやっている委員会であり、私のときの委員長であり、たまたま委員が三人来ていて、司会者が一人だったんですが、私が挙手したら、時間ですからやめてくださいという話になりました。しかし、私の顔を見て委員長は驚いて、いや、しゃべらせろというので、しゃべりましたけれども。
いわゆる日本の劣化はここまで進んでいるんですね。これは国会議員の皆さんにお願いしなきゃならないので、本質的な問題をもう少し、本当にぶつかっていって直していかない限り、形だけ直していくなんということでは、日本はどうしようもない状況にこれからも行ってしまうだろうというふうに思います。
その後ろにあるペーパーは、事故の後、避難せざるを得なくなった二つの村の写真を、「かえる」というのが書いてありますね。この二つのペーパーは、合併をしろしろということで、福島県は、合併する、しないは自由だよということで進めてまいりました。多分、合併したところは、将来消滅都市に大体なっていくだろうところでございますが、福島県は十五の村が残っております。
合併した村は、この左の絵でありまして、四、五人しか四月二日の仕事始めにいませんで、私まで立ってくれと言われました。合併しなかった川内という村は、同じ阿武隈の同じ場所にあるんですが、合併しなかった村は、ちゃんとこのとき帰って、線量も大体同じぐらいの村に帰って、四月二日に戻って、にぎやかな村が戻りました。
以上、取りとめのない話でございました。ありがとうございました。(拍手)