松浦正浩の発言 (原子力問題調査特別委員会)
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○松浦参考人 本日は、貴重な機会を賜りましてまことにありがとうございます。東京大学公共政策大学院で特任准教授というものをしております松浦と申します。
まず初めに、私は、原子力規制そのものについての専門家ではないこと、また福島の現実についてお話しさせていただくような立場ではないということをお断りさせてください。
何で話をするかということなんですけれども、これまで合意形成という単語をテーマにアメリカなり東京大学で学術の研究と実践にかかわってまいりましたので、その分野の専門家として、原子力規制に関連して、御参考にしていただけそうなことをかいつまんでお話しさせていただければと思います。
一応お手元にスライドがあると思いますが、印刷してきたものもあるんですけれども、まず第一に、合意形成という単語について定義させていただければというふうに思います。
皆さん、合意形成という単語は、政治のいろいろな場面でお聞きになったこと、お使いになったことがある単語かと思いますけれども、その定義というのは人によってまちまちだと思いますし、またそのことが実は混乱を招く要因ではないかというふうに思います。
合意形成というものはコミュニケーションとか説得ではないということを、まず確認させてください。
むしろ、合意形成というのは、異なる意見とか志向、自分と異なる意見を持った人たちと共存していくための手段やプロセスというものです。ですから、合意形成は、異なる意見とか志向を持った人たちの存在をまず認めてあげるところ、そこから、否定しないところから始まるというのが大前提としてあります。
そのような自分と異なる人たちと、互恵関係、ウイン・ウインみたいな言葉もありますけれども、そういったような関係を通じて、自分と相手の双方に利益が生じるような取引を見つけることというのが合意形成であります。
また、状況によっては、取引ではなくて、誰もが共有する価値観とかモラルみたいなものを言葉として具体化するという作業も、一種の合意形成だということが考えられています。
では、原子力規制に特に関連する問題として、科学的情報と合意形成というもののかかわりについてお話しさせてください。
利害関係者とか一般国民のような人たちが何らかの政治課題について議論しているという状況を想像してみてください。そこに専門家とか科学者のような方々がどのようなかかわりを持つことができるでしょうか。
よくあることなんですけれども、残念ながら、人々が対立していると、その陣営をサポートするための科学者とか専門家グループができてしまう。そしてまた、それに対立する陣営をサポートするための科学者や専門家グループというものができてしまう。それが顕在化するような状況のことを弁護科学というふうな言い方を私はしております。
こうなってしまうと、それぞれ対立する陣営は、個人の思いを語るのではなくて、結局、専門家グループの方をそれぞれ指さして、自分の方は正しい、相手の専門家グループを間違っているといった批判をお互いに繰り返すという事態になってしまいます。このこと自体が絶対的に悪いとまでは言えませんけれども、もし合意形成を本気で目指すのであれば、このような形での専門家の関与というのは、残念ながら混乱を増長するだけだというふうに考えられます。
実は、合意形成を目指す場合に、科学的情報がかかわってくると非常に多くの障壁が存在するということを、ピーター・アドラーさんという方がまとめています。ここにいっぱい載っているんですけれども、一つ一つ説明できませんが、要は、科学的情報が出てきた場合に、十分考えておかないと議論は簡単に混乱するということを申し上げたいというふうに思います。
そこで、科学的情報を必要とする合意形成について、私は共同事実確認というふうな訳し方をしていますが、英語でジョイント・ファクトファインディングという呼び方があります。そのような枠組みを導入すべきだということが、八〇年代からアメリカの環境政策とか環境論争の文脈の中で言われるようになってきています。
具体的には、情報の利用者の側、つまり皆さんのような議員の方々、意思決定をなさる方々、政府、関係者、国民全体などになりますけれども、そちらの側がもっと責任と自主性を持って科学的情報を扱うという立場が必要じゃないかということです。
第一に、情報の利用者が個別に専門家に接触して弁護科学に陥るのではなく、情報の利用者の集団として専門家集団に一元的に情報を請求するというのが望ましいというふうに思います。
また、どのような情報を要求するのかについても、原則として、情報の利用者の側で決める。つまり、専門家の方がこれが大事な情報ですよというものを与えてきたときに、そのまま素直に受け取らないということですね。自分で考えて必要な情報を取得するという姿勢が一番大事になってくるということです。
また、第三に、分析結果には必ずや仮定とか不確実性というものが含まれます。そのときに、どのような仮定を置いた分析なのか、あるいは、どの程度の不確実性があるのかということを、情報の利用者の側、つまり皆さんがきちんと聞いてそれを理解するということが必要だというふうに考えます。
最後に、判断というものは情報の利用者が行うべきだというふうに考えます。つまり、専門家というのは情報提供の役割に徹しまして、安全か危険かといったゼロ、一の判断については情報の利用者が責任を持つということですね。不確実性があるという以上は、そのリスクを受け入れるのか受け入れないのかというのは、専門家が判断することではなく皆さんが判断すること、ひいては国民が決めることなのではないかというふうに私はいつも主張をしております。
このようなことを実際に行う場合に二つの形がありまして、ちょっとテクニカルな話ですけれども、先ほどのように、政治的な協議の場を設けた上で、専門家集団に対して科学的な専門知というものを一元的に請求するという、事実確認取りまとめ型というものがあります。あるいは、対立の規模が非常に大きくなって、もう協議すること自体がなかなか難しいけれども、現在の原子力の問題は近いかもしれませんが、弁護科学のような様相を呈している状況では、それぞれの陣営の専門家を連れてきて、安全とか危険とかいうことを言っている先生が、どういう仮定を置いて安全と言っているのか、あるいはどういう仮定を置いて危険と言っているのかということを公の場で確認する、みんなで確認するという、背景情報確認型という作業も可能ではないかと思います。
ちょっと抽象的な話が続いてしまいましたので、原子力の文脈で幾つか事例がございますので御紹介したいというふうに思います。
まず第一に、事実確認取りまとめ型というふうに呼べると思うんですが、二〇〇七年に、アメリカにおいて、原子力共同事実確認、ニュークリアパワー・ジョイント・ファクトファインディングという取り組みが行われました。これはアメリカのNGOが主催で行ったんですが、NGOというとどうも色がついているように思われるかもしれませんが、このNGOは、賛成、反対のような政治スタンスは絶対にとらないで、とにかく合意形成を支援するんだということのみをミッションとしているキーストーンセンターという団体があります。そこが、連邦政府の上院議員の人たちから、こういうことをやった方がいいんじゃないかという働きかけを受けて実施した事例です。
実際、二十七名のいろいろな意見を持った参加者の人たちが、十六名の専門家から情報提供を受けながら政策提言をまとめたという事例です。
この事例ですけれども、参加者の中に、現在、アメリカのNRC、原子力規制委員会委員長のアリソン・マクファーレンさんも実は入っていました。私が実際数年前に主催した研究会でも、このマクファーレンさんに来日していただいて、この事例についてお話しいただいたということもあります。
具体的な結果ですけれども、この議論の結果、原子力の発電コストというものは、キロワットアワー当たり八から十一セントだろうということで、推進派のような人たちから懸念を持つ人たちまで、ある程度意見の集約が図れたという事例です。ほかにも幾つか論点があります。
これは、福島第一の事故の前の、しかもアメリカの話ですので、この八から十一なんて数字は全く参考にはならないとは思いますし、現在の日本で、このようにみんなが対話することというのは不可能かもしれません。ただ、賛成、反対の人たちが、みんなで納得できるような科学的な情報というのを、前提とか不確実性まで含めて整理して、それをもとに政策とか規制というものを合意形成でつくっていくということは、現実はともかくとして、理想の形というふうに言えるかもしれません。もちろん、これは原子力でできるかどうかはまた別の話です。
次に、実際に私が日本でやらせていただいた事例ですけれども、原子炉というよりは高レベル放射性廃棄物の地層処分に関する問題です。
実際に何をしたかといいますと、NUMOの方、事業者の方と懸念を持たれている研究者の方、それぞれお一人お呼びして対話を実施したという事例です。
このときも、賛否を問うということではなくて、むしろ、地層処分の安全性について考えるときに、どのような視点が我々に必要なのかということ、そして、どのようなことを事実として現状、確認できそうかということを、二時間半ですけれども、対話で実施した事例です。
この議論の結論については、お二人に御相談させていただきながら作成したまとめの文章というものがございまして、そこはホームページに載っておりますのでごらんいただきたいんですけれども、当時の法制度の中で、安全にかかわる判断基準というものがどのように設定されてきたのか、あるいはまだ設定されていなかったのかといった点、あるいは安全評価の際のシナリオ設定、特に火山現象のような相対的には確率が非常に小さい現象を評価することというのが技術的に可能なのかどうかといったような点について、実はある程度意見の収れんが見られたのではないかというふうに、個人的には思っております。
もちろん、政治的なその後の判断について、そしてまた、ほかの技術的な要素についても、議論が分かれる部分は多々あったかもしれません。ただ、ピュアに技術的な議論だけしてみると、あるいは事実関係の特定だけしてみると、実はこのような人たちの間でも共通認識が全く存在しないわけではない、全て共通認識があるとまでは言いませんけれども、しないわけではないという事実こそが、多分、これから先の未来を考える上で重要なことなんじゃないかなというふうに思います。
最後にですけれども、原子力規制についてということで少し絞って、これは私見になりますが、述べさせていただければというふうに思います。
まず、今、一番の皆さんの懸念事項かと思われますけれども、新規制基準適合性審査という件ですね。
まず、先ほど申し上げました共同事実確認の思想を前提とするんだったら、意思決定とか判断みたいなものを専門家の先生に委ねるべきではないということです。つまり、専門家は、新基準へ適合していますよ、していませんよといったようなことまでは情報を提示していただけるとは思いますけれども、そこに限定すべきだということです。
また、審査を通じて許可、認可が出たということが今後あるかもしれませんけれども、それをもって社会的合意が得られたというふうな言い方をするのは、ちょっと言い過ぎだというふうに私は考えます。
もちろん、法制度のもとで許可や認可が出ているという事実は変わらないでしょうけれども、現実問題として、その後自治体の同意が必要だったりしますし、結局、合意という言い方をするのは言い過ぎなんじゃないかという点について御注意いただきたいというのがもう一つの点。
そして、科学以外の視点というものがどこで介入する余地があるのかというのが、私、実は気になっているところです。
例えば、適合性審査というのは、科学的な調査分析、活断層がある、ないとかそういったような話だとは思うんですけれども、そもそも、倫理として、甚大な被害をもたらす可能性がたとえわずかでもある技術というものを社会として導入するのかどうか。あるいは、高レベル放射性廃棄物のように超長期の将来世代にわたってリスクを負わせることというのが倫理的に認められることなのかどうかといった問題について、議論する場が今ないんじゃないかというふうに思っております。そういった点がどこで考慮されるのかという点が気になっております。
そして、最後に、適合性審査において、不確実性のもとでの判断はどのように行われるのかという点が気がかりであります。
例えば、何かの危険性についてある程度の幅があったときに、真ん中くらいのところをもって安全か危険かというふうに判断するのか、それとも安全寄りのところを見て安全か危険かというふうに判断するのかといったようなこと。あるいは、そもそも危険かどうかということを定量的に評価できない事象というものは世の中にたくさんあると思うんですが、そういったような事柄はどういう形で判断されるのだろうかということです。
そこの点につきまして、共同事実確認という考え方に基づけば、専門家の人に任せるのではなくて、むしろ科学的情報の利用者、つまり皆さん、政治家の皆様であったり、政権の皆さんであったり、あるいは国民一人一人かもしれません、その人たち一人一人が判断すべきことだと思います。ここの判断まで専門家に委ねてしまってブラックボックス化するというのは、極めて社会として望ましいことではないというふうに考えております。
これが本当に最後のポイントなんですけれども、規制だけでなくて、原子力の合意形成全般について、これは利害調整なのか、あるいはモラルの問題なのかという疑問を実は持っております。
つまり、利害調整だけということであれば、いわゆる条件闘争みたいなものですので、補償の条件をどれぐらいまで上げるのかとか、安全性のレベルをどのくらいのところで設定するのかといったちょうちょうはっしの交渉で合意形成が実は可能なのかもしれません。
しかし、もしモラルの問題、つまり、今、桜井市長がおっしゃいましたけれども、福島の事故という経験を踏まえた上で、社会として原子力を利用すべきか、あるいはすべきでないのか。あと、先ほど申しましたけれども、廃棄物を将来世代に回すことが倫理的に認められるのか、認められないのかといった、べき論の論争が今回の原子力の経緯に含まれているのであれば、実は、合意形成などそう簡単に実現するものではないというふうに思っております。
私自身、原子力利用の問題は、利害調整だけではなくて、モラルの問題もはらんでいるんじゃないか、だから、そう簡単に解決しないんじゃないかというふうに考えております。逆に、そういったようなモラルの論争があるんだよということを認めることによって、たとえ合意には至らなくても、現在何か閉塞感のようなものを感じているわけですが、それを乗り越えることができるんじゃないかというふうに感じております。
以上です。どの程度お役に立てるかどうか大変不安ではございますけれども、一般的な合意形成の話をさせていただきました。原子力以外の分野でも、例えば皆さん地元で道路建設とかいろいろな合意形成上の課題があるかと思いますので、そういったところまで含めて御参考にしていただければ、大変ありがたく存じます。
きょうは、御清聴どうもありがとうございました。(拍手)