伊藤真の発言 (憲法審査会)

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○参考人(伊藤真君) それでは、少しお話をさせていただきます。伊藤真といいます。
 今回、国民投票法の改正について三点ほどお題をいただきましたが、最初に確認をしておきたいことがあります。
 言わずもがなのことではあるのですが、そもそも憲法というのは、一人一人を個人として尊重する、そのために日本の社会で多様な価値観が公平に共存し合えるような、そのための方策を定めております。そして、その方法としては、国家権力の行使者たる公務員の皆さんたちの権力行使を制限をして、そして国民がその公務員に言わば命令をする、憲法の規定に従って政治を行ってくださいと命じるものだと考えています。まさに国民が憲法を制定し、そして国民が憲法に従った政治権力の行使を言わば公務員に指示をするものでありますから、国民がその制定の主体であります。
 したがって、国民が、憲法による歯止めの掛け方、またその命令の仕方というものに国民自身が不都合を感じたときには、その命令書の中身を自ら、憲法を作った国民自身が改定する、それは当然のことだと考えています。
 ただ、そのためには、国民が十分な議論をし、しかもできるだけ多くの国民がこの議論に参加し、意見表明ができること、そのための自由な討論をする、その空間をどうつくり出すのか、これがこの国民投票法というものを考えていく上で極めて重要なことだと思っています。
 理由は幾つもあるんですけれども、法律も憲法改正も多数決によって最終的には決まります。ですが、その多数決の結果の意味というのは全く違います。
 法律が多数決によって可決されましたという場合と、憲法改正が国民の多数によって通りましたといった場合、どちらも多数決による結果ですから、少数派はそれに従わなければならない、これはもう多数決の基本的なルールなんですが、法律が国会の多数決によって可決された場合、仮にその法律によって少数派の方が余りにも不利益を受ける、時に人権の侵害を受けてしまうというようなことがあった場合には、裁判所に訴えを提起して、裁判所の違憲立法審査権という手続によってその少数派は自己の権利を回復する手段を持っています。
 まさに多数派の横暴に対して裁判所が歯止めを掛けるという仕組みが憲法の中に組み込まれているわけです。ですから、もちろん、国会での御審議の過程で少数意見を尊重しながら、十分少数派への配慮を考慮した上で法律ができたとしても、仮にそこで少数派の方の人権が侵害されたときには裁判所を通じてそこを回復する手だてが残されています。
 ところが、憲法改正という場面においては、まさにその少数意見を十分に反映させるような形で、また、国民の多数派が少数派に対する十分な配慮というものを仮に怠った形で憲法改正の国民投票が実施されてしまいますと、もうそこで憲法自体が変わってしまいますから、その結果、仮に少数派の方の人権が侵害されたり、大きな不利益を課せられるようなことになった場合、その少数派はもう取るべき手だてがありません。言うまでもないことですが、この憲法改正は不当だといって裁判所に訴え出ることはできないわけです。あり得る方法は唯一、自分たち少数派が多数派の側に何とか回るように努力をしてもう一度憲法改正をし直すか、若しくはこの国の国民をやめて出ていくかしか方法はないということになります。
 ですから、憲法改正という場面における少数者への配慮、また、多様な意見を尊重するということは、立法の過程におけるそれとは比べ物にならないほど格段の重要性があるということ、それを是非前提にこの改正法の議論をしていかなければいけないんだろうと思っています。
 憲法改正の結果が国民の幸せにつながるかどうか、それは正直言って誰も客観的に証明はできないことなんだろうと思います。まあ、言わばやってみなければ分からないというところも多々あるかと思うんですね。ですが、だからこそ、その審議の過程、プロセスが適正であること。その手続の適正さというものによって、結果が正しいかどうか分からないときに、この憲法改正は正しいんだという国民の、少数派の方の思いも含めた国民の信頼というものが得られなければならないと思っております。
 ですから、国会における審議の過程において、この場もそうだと思いますが、少数意見、多様な意見が十分に出てきて議論を闘わせることができるその手続のプロセスがフェアであるということは、通常の立法過程においても重要なことなんですが、憲法改正の手続過程においてはより一層重要であると私は考えています。
 そうした前提の下で考えた場合、憲法制定権者である、主権者である国民と、実際に国民投票に参加できる投票権者、ここの差をできるだけ縮める、可能な限り一致させる方向でやはり考えていくのが基本であろうかと思います。
 ですから、今回十八歳への引下げという方向を打ち出されていますけれども、私はこれには賛成です。十八歳、四年後十八歳ということがもし実現することになれば、十四歳ぐらいから、現在の十四歳の子供たちも言わば憲法国民投票に参加する可能性が出てきます。ですから、中学、高校、そういった子供たちに対する憲法教育、立憲主義教育、これは本当に重要なことになるんだろうと思っています。
 特に、民主主義の本質はどこにあるのか。それは国民が主権者である、どういうことか。主体であるというのはどういうことか。国民が主人公ですよと、よくそんなことが言われます。主人公ってどういうこと。子供たちに聞いてもちょっとぴんとこない。国民が主人公ってどういうことなんですか。そういうことをしっかり自分の頭で考えて、自分の頭で考えて自分の価値観で意思決定をし自分で行動する。そういう言わば国民主権、民主主義の基本を十分理解し、実践し、そしてまた、民主主義の一つの本質は権力を監視すること、権力を監視し続けるということが民主主義のやはり重要なポイントなんだ。そういうことも子供のうちからきちっと教育をしていくということが必要ではないかと考えています。
 この憲法改正国民投票の年齢と選挙権の年齢、できるだけ一致させるべきだろうと思いますが、それがずれたとしても私は憲法に違反するとは考えません。また、成年、民法上の成年ですとか、様々な法律におけるその一定の基準が全てこの憲法改正の国民投票と一致すべき憲法上の要請があるとも考えていません。それぞれの法律の立法趣旨によって最も適切な年齢が決定されるのであろうとは思っています。
 二つ目のテーマであるところの公務員の政治的行為に関してですけれども、ここは先ほど申し上げたとおり、公務員も主権者国民であります。もちろん、仕事の場面では権力を行使する側、公務員の立場で、の側なんですが、同時に、国民という主権者であるという面が当然あるわけですし、そちらの方がむしろ重要であります。ですから、主権者たる国民であるところの公務員に、憲法制定権者である公務員に、この運動に参加し自由な意見を述べる機会を与えるということは極めて重要というか、言わば当然のことだと考えています。
 また、公務員は憲法尊重擁護義務を九十九条で課せられていますから、憲法によって拘束される側の立場です。言わば、一番の利害関係人と言ってもいいかもしれません。自分が憲法によってどういうことを命じられることになるのかということについて自由に意見が述べられないということになってしまったら、これはやはり民主的な空間ではないと思います。
 例えば、自衛官の方に、集団的自衛権を行使できるように憲法を改正するから海外に行って武力行使をしてきなさいと。国民の名によって、言葉はきついかもしれませんが、国民の名によって殺人を強要するということを求められる仕事になるわけですから、それは言わばその当事者であるところの公務員の皆さんがそれについての意見を述べる機会が封じられてしまうということがあってはならないだろうと。憲法尊重擁護義務を課されている側の人間が、警察官でもそうでしょう、ありとあらゆる公務員の皆さんたちは最も重要な当事者である。そこの意見を聞かずして憲法の改正の議論は前に進まないと思っています。
 政治的中立性という言葉がございます。多くの方は誤解しておられます。政治的中立性というのは職務において公正中立な職務を行うということであって、当たり前のことですが、公務員の方も一人一人政治的な信条を持っておられます。選挙になれば、当然自分の政治的な信条に基づいて投票行動をするわけであります。公務員も、外からは見えませんが、それぞれ思想、信条を持っている、当たり前のことです。そして、その思想、信条に基づいて言わば選挙権を行使するわけです。
 その個人の思想、信条が中立的であるなんてことはあり得ない話。あくまでも職務行為のその場において公正中立でなければならないということにほかなりません。裁判官に関してはまた別の考え方等あるかもしれませんけれども、公務員の職務の中立性、あくまでも職務の中立性、それが求められているということです。
 個人として投票運動をしたことが、じゃ、その職務の中立性に具体的に、観念的ではなく、現実的にそして実質的にどれだけその中立性を損ねるおそれがあるのか。これが近時の最高裁の判例の重要な言わば指針、基準でありますから、その公務員がこの投票運動に参加すること、それが果たして観念的な職務の中立性を損なうおそれにとどまらず、現実的で実質的なものなのかどうなのか。その点を考えると、あらかじめ様々な法的な規制をしておくという必要は全くないと考えています。
 特に今回、特定公務員、罰則付きで運動を禁止するということになっていますが、私は、裁判官であろうが警察官であろうが職務を公正に中立な立場で職務を行う、それさえきちっと守られるのであれば、その職務を離れて個人として投票運動に参加する、これは何ら問題ないと思っています。
 ドイツの裁判官などは原発反対と自分の部屋にポスターを掲げていたり、ミサイル配備反対というデモ行進に参加したり、むしろ目の前の裁判官がどういう政治的な信条を持っているかということを明らかにすることが裁判の公正さ、それにつながる、そういう考え方もあります。逆に言えば、個人としてどういう信条を持っているのかが一般の国民に明らかにされることによって、より厳しい目で、その職務行為が公正に中立に行われているかどうかという、より厳しい目でそれは監視されることになるからです。
 自分は政治的に中立だというふりをすることが国民の信頼につながるのではなく、情報を公開し、自分はこういう考え方だ、しかしこの事件やこの仕事において、私はこれだけ公正に、中立に仕事をしている。その職務内容によって、その公正さ、中立さを示す。それが公務員の仕事であろうと考えています。
 ですから、公正さに対する国民の信頼というこの点についても、私は多様な議論があってしかるべきであろうというふうに思っています。公正さのためにというだけで、抽象的な、観念的な議論で終わらせてはならないと、そう考えています。
 最後に、国民投票の対象の拡大という点についてですが、ここはもう少し慎重に検討しなければならない。現在の憲法の下では、代議制民主主義ということですから、少なくとも拘束力のあるような国民投票制度は取れないと私は考えています。この言わば国民投票制度を拡大するという議論をすることもとても重要かもしれませんが、それ以前に、この国会が民意を正しく反映している、そういう代表者で構成されているのかどうか、正当に選挙された国民の代表と言えるかどうか。一票の不平等の問題など、まだまだ先に議論をし、そして正していかなければいけない問題が山積みではないのかなと思っています。むしろ、代議制の健全化を今の制度の下で図っていくこと、それが先決ではないかと考えています。
 以上です。

発言情報

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発言者: 伊藤真

speaker_id: 32111

日付: 2014-06-04

院: 参議院

会議名: 憲法審査会