山口二郎の発言 (我が国及び国際社会の平和安全法制に関する特別委員会公聴会)

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○山口公述人 法政大学の山口です。
 きょうは、このような機会をいただきまして、大変感謝しております。
 私は、政治学の観点から、戦後日本の安全保障政策の展開について、まずおさらいをしておきたいと思います。
 ことしは戦後七十年の年でありまして、日本の来し方行く末を考える重要な機会であります。したがって、安全保障法制をこの戦後日本の歩みの中に位置づけ、意味を考えてみたいと思います。
 戦後日本の国の形が大きく変化した契機は、一九六〇年のいわゆる安保騒動でありました。
 当時の岸信介首相は、憲法、特に九条を改正して、国軍を持つことを宿願としておりました。そのための第一歩として、安保条約の改定を図りました。これに対して、空前の規模の抗議活動が起こり、数十万の市民が国会や首相官邸を取り巻きました。当時の人々が新安保条約を理解していたかどうかはともかく、人々は、岸首相が体現する戦前回帰、戦後民主主義の否定という価値観に反発して、未曽有の運動を起こしました。安保条約自体は衆議院の可決により承認されましたが、岸首相は退陣を余儀なくされました。
 自民党は、この騒動から重要な教訓を学び取りました。憲法と戦後民主主義に対する国民の愛着は強いものであり、それを争点化することには大きなリスクが伴うという教訓であります。
 岸首相の後を襲った池田勇人首相は、憲法改正を事実上棚上げし、経済成長によって国民を統合する道を選択しました。この路線は、以後の自民党政権にも継承されました。
 安全保障政策においても、憲法九条を前提とし、これと自衛隊や日米安保条約を整合的に関係づける論理が構築されました。それが専守防衛という日本的平和国家路線でありました。憲法九条のもとで、日本は自国を守るためだけに必要最小限の自衛力を持つという原理が確立したわけであります。海外派兵はしない、集団的自衛権を行使しないという原則は、そこから必然的に導き出されるものであります。
 一九六〇年代以降の自民党政権は、この原理を定着させ、軍事力の行使について謙抑的な姿勢を貫きました。まさに、戦後レジームはほかならぬ自民党がつくり出した体制であり、そのもとで日本は平和と繁栄を享受したわけであります。
 今回の安全保障法制に関連して、日本が他国の戦争に巻き込まれるおそれがあるという議論があります。戦後日本が他国の戦争に巻き込まれずに済んだのはなぜでしょうか。それは、緊密な日米同盟のおかげではなく、日米安保条約のもと、日本が憲法九条により集団的自衛権の行使を禁止していたからでありました。
 この点は、一九六〇年代末のベトナム戦争への対応をめぐる日本と韓国の違いを見れば明らかであります。
 韓国は、米韓相互防衛条約のもと、アメリカにベトナムへの出兵を求められ、韓国軍はベトナムで殺し、殺されるという悲惨な経験をしました。
 集団的自衛権の行使を否定していた日本は、ベトナムへの派兵など全く考慮する必要もなかったわけであります。一九六〇年の安保闘争で、市民が岸政権を退陣に追い込み、憲法九条の改正を阻止したことで、日本は戦争に巻き込まれずに済んだのであります。
 このように、二十世紀後半に非常に大きな効果を発揮した日本的平和路線が二十一世紀にも有効かどうか、今問われております。
 確かに、この二十年間の国際環境の変化は大きいものがあります。中国の経済発展と軍事力の拡大、北朝鮮の核開発など、日本に隣接する地域での不安定性は増加しています。日本は、みずからの安全を確保するために、集団的自衛権の行使に転換する必要があるのでしょうか。私は違うと考えます。
 日本の領域を守ることは、基本的には個別的自衛権によって対処すべき課題であります。安倍首相御自身が、国民の理解を得るためと称して七月六日に行ったインターネット番組で使われた表現を検討することによって、この点を考えてみたいと思います。
 首相は、次のように述べました。
 一般の家庭でも戸締まりをしっかりしていれば泥棒や強盗が入らない。また、その地域や町内会でお互いに協力し合って、隣の家に泥棒が入ったのがわかったらすぐに警察に通報する、そういう助け合いがちゃんとできている町内は犯罪が少ない。これが抑止力なんですね。
 この点で、私は、珍しく安倍首相と意見が一致いたします。国を例に例えるなら、戸締まりをしっかりするのが自衛力の整備です。しかし、門の外まで出張っていって悪者退治に加わることは、自宅の安全に資する行為ではないと私は考えます。また、近隣の人々と協力し合うことは、地域の安全にとって極めて重要であります。日本が協力し合う近隣とは、もちろんアメリカを中心とするわけでしょうが、韓国や中国を抜きに町内会は構成できないはずであります。自衛力を整備しつつ、隣家との利害の違いは認識した上で、隣家との共存のために話し合いをすることこそ、自宅の安全を高める道ではないのでしょうか。
 安倍首相のインターネットでの演説は、集団的自衛権の行使の理由を説明するものではなく、全く逆に、専守防衛と地域的協力が必要な理由を説明するものでありました。私は、首相御自身に、御自身が何を実現したいのか、冷静に認識していただきたいと思います。
 安保法制を推進する政府・与党は、日本が集団的自衛権を行使することによって、日米の同盟関係が一層緊密化し、抑止力が高まると期待しています。しかし、これは希望的観測というものではないでしょうか。
 アメリカは、日米安全保障条約第五条が定めるとおり、自国の憲法上の規定及び手続に従って条約上の義務を果たすにとどまります。アメリカが大規模な軍事力の行使を行う際、アメリカの憲法により、議会の承認が必要とされています。
 アメリカが中国との武力紛争を望んでいないことは明らかであります。尖閣諸島の問題についても、アメリカは、日本の施政権の保有は支持していますが、領有権にはコミットしておりません。アメリカは常に、日中間の領土紛争は平和的に解決することを求めていることも忘れてはなりません。
 米中関係、それ自体が今決してうまくいっているわけではありませんが、両国は、戦争は何としても避けるという前提で、粘り強く対話しようとしています。それに引きかえ、日本が、中国との対話や相互理解はそっちのけで、自国が武力行使をする可能性を拡大すればより安全になると主張しているのは、政治的に稚拙ではないかと思います。
 次に、安全保障法制が抱える問題点について考えてみたいと思います。
 そもそもこの法案は、専守防衛を逸脱するものであり、憲法違反であると私も考えます。それに加えて、特に憂慮すべき点を指摘したいと思います。
 第一は、武力行使が可能となる状況の規定であります。
 法案では、存立危機事態、重要影響事態という新しい概念が提示され、それぞれにおいて日本が集団的自衛権を行使できるとされています。
 しかし、国会審議においても、二つの事態の意味が明確に定義されることはありませんでした。状況がどの事態に該当するかを判断する際の考慮事項は例示されましたが、実際の判断は政府が総合的に決めるという答弁しかありませんでした。
 これでは、存立危機事態も重要影響事態も武力行使を制約する縛りにはなり得ません。政府は、集団的自衛権の行使に当たって、非常に大きな裁量を手にすることになります。日本が他国の戦争に巻き込まれる危険性が高まるという批判は、この点を捉えています。
 また、自衛隊による後方支援活動について、それを行える場所と行えない場所の線引きはなくなりました。
 従来は、戦闘地域と非戦闘地域という一応の概念的区別が存在しました。この区別は、現場の指揮官が、他国軍隊の武力行使と一体化するおそれについてその都度判断することの困難を踏まえ、余裕を持って一律の判断ができるための配慮として設けられたものでありました。
 今回の法制で、現に戦闘が行われていない地域において、自衛隊は他国軍に対して後方支援が行えるとされています。自衛隊が行うと想定されている武器弾薬の提供や燃料の供給は、武力行使と一体の行為であります。この点で、後方支援活動は憲法違反であると私は考えます。
 第二は、余りに空想的な希望的観測の上に法制が構築されている点であります。
 重要影響事態における後方支援活動について、現に戦闘が始まったら撤収するから危険ではないと説明されていますが、これほど荒唐無稽な空論はありません。現に戦闘が行われていない地域であっても、いつ何どき本格的な戦闘が行われるかわかりません。
 古来、戦争において糧道を断つことは戦術の常識でありました。自衛隊が同盟軍に武器、燃料等の補給を行えば、相手方にとって自衛隊は敵軍であります。当然、補給を断つ攻撃をしかけてくることは明らかです。後方支援の本質は兵たんであります。後方支援だから危険ではないなどという言い分は、日本政府が国民に気休めを与えるための机上の空論であります。
 後方支援であれ、他国の武力行使に一体化することは、戦争への参加を意味します。このことは、自衛隊員の危険を高めます。また、日本国内に生活する国民の危険をも高めます。アメリカによるイラク戦争に参戦したイギリスとスペインで、大規模なテロが発生し、多くの市民が犠牲になったことを忘れてはなりません。私はもちろん、テロを正当化したいわけではありません。戦争に参加する以上、相手方からのさまざまな攻撃を受ける危険があるという現実を、包み隠さず自衛隊員と国民に告知することが指導者の責務だと言いたいのであります。
 さて、今回の安保法制の議論を契機に、日本政治の劣化と民主主義原理の侵食が明らかになっていると私は思います。
 まず、安倍首相は野党の質問に対して、自分は総理大臣だから正しいとか、合憲、安全だと確信していると答え、それ以上議論を深めようとしていません。中世のヨーロッパ人は、太陽が地球の周りを回っていると信じていました。確信の強さは、信じている事柄の正しさとは無関係であります。根拠と論理を示して説明することが為政者の義務でありますが、国会の審議は空洞化していると言わざるを得ません。
 また、自民党の高村副総裁は、三人の憲法学者が衆議院の憲法審査会で安保法制を違憲と断じたことに反発し、憲法学者は憲法の字面にこだわるとか、学者の言うとおりにして平和が守れるかと述べました。学者の端くれとして、これには断固として反論しておきたいと思います。
 そもそも、憲法学者が憲法の文言にこだわるのは当然であります。それは、数学者が一足す一は二であるという数式にこだわるのと同じであります。高村氏の発言は、政治権力は論理をねじ曲げることもあるという含意を持っていると私は解釈いたします。氏は、一足す一が為政者の意向次第で三にも四にもなるような独裁国家をつくりたいのかという疑問を私は抱くわけであります。
 ことしは、戦後七十年でありますが、天皇機関説事件から八十年でもあります。権力が学問を弾圧してから敗戦で国が滅びるまでわずか十年であったという事実を今ここで思い起こすべきであります。
 私は、学者の言うとおりにすれば国が平和になるなどとおごったことを言うつもりはありません。逆に、政治家の言うとおりにして国が愚かな戦争に突入した経験もあるわけであります。戦後日本を振り返れば、政治家と学者が異なった観点から議論をし、それらの議論が正反合の関係で日本的平和国家の路線をつくり出したという成功体験があることをかみしめるべきではないでしょうか。
 先般の自民党文化芸術懇話会における沖縄差別や報道機関統制の発言は、自民党という偉大な政権政党の変質を物語っていると私には思えました。あの会合で気勢を上げた政治家に共通するのは、実証性、客観性を無視して、自分の欲するように世界を解釈するという反知性主義の態度であります。あの事件が発覚した直後、政府・与党の首脳は、同懇話会に参加した政治家にも発言の自由があると擁護しました。したがって、同懇話会の反知性主義は局部的現象ではないと言わざるを得ません。
 国の安全を最後に担保するのは、冷静な状況認識と現実感覚を持った政治指導者であります。政治の世界に反知性主義が蔓延する現状において、安保法制が成立をし、日本が集団的自衛権を行使できるようになったら、日本の政府は日本の安全と国益を守るために冷静な判断を下すのだろうかという疑問を持ちます。武力行使の範囲が広がる一方で、政治家の現実主義的な判断能力が低下する。このギャップこそが、日本にとっての存立を脅かす事態だと私は憂慮しております。
 以上でございます。(拍手)

発言情報

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発言者: 山口二郎

speaker_id: 24305

日付: 2015-07-13

院: 衆議院

会議名: 我が国及び国際社会の平和安全法制に関する特別委員会公聴会