我が国及び国際社会の平和安全法制に関する特別委員会公聴会
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会
会議録情報#0
平成二十七年七月十三日(月曜日)
午前九時開議
出席委員
委員長 浜田 靖一君
理事 今津 寛君 理事 岩屋 毅君
理事 江渡 聡徳君 理事 松本 純君
理事 御法川信英君 理事 長妻 昭君
理事 下地 幹郎君 理事 遠山 清彦君
小田原 潔君 小野寺五典君
大西 宏幸君 大野敬太郎君
勝沼 栄明君 木原 誠二君
笹川 博義君 白石 徹君
武井 俊輔君 中谷 真一君
橋本 英教君 原田 義昭君
平沢 勝栄君 星野 剛士君
宮川 典子君 宮崎 政久君
宮澤 博行君 武藤 貴也君
盛山 正仁君 山口 壯君
山田 賢司君 若宮 健嗣君
緒方林太郎君 大串 博志君
後藤 祐一君 辻元 清美君
寺田 学君 長島 昭久君
青柳陽一郎君 太田 和美君
柿沢 未途君 吉田 豊史君
岡本 三成君 角田 秀穂君
浜地 雅一君 赤嶺 政賢君
宮本 徹君
…………………………………
公述人
(岡本アソシエイツ代表) 岡本 行夫君
公述人
(東京慈恵会医科大学教授) 小澤 隆一君
公述人
(首都大学東京法学系准教授) 木村 草太君
公述人
(同志社大学法学部教授) 村田 晃嗣君
公述人
(法政大学法学部教授) 山口 二郎君
衆議院調査局我が国及び国際社会の平和安全法制に関する特別調査室長 齋藤久爾之君
—————————————
本日の公聴会で意見を聞いた案件
我が国及び国際社会の平和及び安全の確保に資するための自衛隊法等の一部を改正する法律案(内閣提出第七二号)
国際平和共同対処事態に際して我が国が実施する諸外国の軍隊等に対する協力支援活動等に関する法律案(内閣提出第七三号)
————◇—————
この発言だけを見る →午前九時開議
出席委員
委員長 浜田 靖一君
理事 今津 寛君 理事 岩屋 毅君
理事 江渡 聡徳君 理事 松本 純君
理事 御法川信英君 理事 長妻 昭君
理事 下地 幹郎君 理事 遠山 清彦君
小田原 潔君 小野寺五典君
大西 宏幸君 大野敬太郎君
勝沼 栄明君 木原 誠二君
笹川 博義君 白石 徹君
武井 俊輔君 中谷 真一君
橋本 英教君 原田 義昭君
平沢 勝栄君 星野 剛士君
宮川 典子君 宮崎 政久君
宮澤 博行君 武藤 貴也君
盛山 正仁君 山口 壯君
山田 賢司君 若宮 健嗣君
緒方林太郎君 大串 博志君
後藤 祐一君 辻元 清美君
寺田 学君 長島 昭久君
青柳陽一郎君 太田 和美君
柿沢 未途君 吉田 豊史君
岡本 三成君 角田 秀穂君
浜地 雅一君 赤嶺 政賢君
宮本 徹君
…………………………………
公述人
(岡本アソシエイツ代表) 岡本 行夫君
公述人
(東京慈恵会医科大学教授) 小澤 隆一君
公述人
(首都大学東京法学系准教授) 木村 草太君
公述人
(同志社大学法学部教授) 村田 晃嗣君
公述人
(法政大学法学部教授) 山口 二郎君
衆議院調査局我が国及び国際社会の平和安全法制に関する特別調査室長 齋藤久爾之君
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本日の公聴会で意見を聞いた案件
我が国及び国際社会の平和及び安全の確保に資するための自衛隊法等の一部を改正する法律案(内閣提出第七二号)
国際平和共同対処事態に際して我が国が実施する諸外国の軍隊等に対する協力支援活動等に関する法律案(内閣提出第七三号)
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浜
浜田靖一#1
○浜田委員長 これより会議を開きます。
内閣提出、我が国及び国際社会の平和及び安全の確保に資するための自衛隊法等の一部を改正する法律案及び国際平和共同対処事態に際して我が国が実施する諸外国の軍隊等に対する協力支援活動等に関する法律案の両案について公聴会を行います。
この際、公述人各位に一言御挨拶を申し上げます。
本日は、御多用のところ御出席をいただきまして、まことにありがとうございます。公述人各位におかれましては、それぞれのお立場から忌憚のない御意見をお述べいただき、審査の参考にさせていただきたいと思いますので、よろしくお願いをいたします。本日は、まことにありがとうございます。
次に、議事の順序について申し上げます。
岡本公述人、小澤公述人、木村公述人、村田公述人、山口公述人の順に、お一人十五分以内で御意見をお述べいただき、その後、委員からの質疑に対してお答えを願いたいと存じます。
なお、念のため申し上げますが、御発言の際はその都度委員長の許可を受けることになっております。また、公述人は委員に対して質疑することはできないことになっておりますので、あらかじめ御承知おき願いたいと存じます。
それでは、まず岡本公述人にお願いをいたしたいと思います。
この発言だけを見る →内閣提出、我が国及び国際社会の平和及び安全の確保に資するための自衛隊法等の一部を改正する法律案及び国際平和共同対処事態に際して我が国が実施する諸外国の軍隊等に対する協力支援活動等に関する法律案の両案について公聴会を行います。
この際、公述人各位に一言御挨拶を申し上げます。
本日は、御多用のところ御出席をいただきまして、まことにありがとうございます。公述人各位におかれましては、それぞれのお立場から忌憚のない御意見をお述べいただき、審査の参考にさせていただきたいと思いますので、よろしくお願いをいたします。本日は、まことにありがとうございます。
次に、議事の順序について申し上げます。
岡本公述人、小澤公述人、木村公述人、村田公述人、山口公述人の順に、お一人十五分以内で御意見をお述べいただき、その後、委員からの質疑に対してお答えを願いたいと存じます。
なお、念のため申し上げますが、御発言の際はその都度委員長の許可を受けることになっております。また、公述人は委員に対して質疑することはできないことになっておりますので、あらかじめ御承知おき願いたいと存じます。
それでは、まず岡本公述人にお願いをいたしたいと思います。
岡
岡本行夫#2
○岡本公述人 本委員会が私の意見を聞いてくださることを大変光栄に存じます。
まず、平和安全法制のうち、集団的自衛権に関する議論について一言申し上げます。
内閣法制局がつくりました一九七二年政府見解は、全ての集団的自衛権を、他国に加えられた武力攻撃を阻止する権利と定義しました。つまり、日本国土を直接守る個別的自衛権以外の武力行使は全てが他国を守るための行為であり、したがって、憲法違反だとしたわけです。
しかし、このいささか荒っぽい区分けをもってしては、日本は、一九八〇年ごろから変容した国際情勢には対応できなくなりました。日本と日本人を守るための集団的自衛権というものの存在を認めなかったからであります。
例えば、多数の日本船に外国船がまじった船団があります。それを海上自衛隊が守ることは、相手が国または国に準ずる組織であれば集団的自衛権の行使に当たりますが、この海上自衛隊の行動は、他国を守る行為なのでしょうか。
本委員会やその他の場で、何人もの元法制局長官の方々が今回の平和安全法制は違憲であり撤回すべきと発言しておられますが、私は、むしろ、国際安全保障環境の変化を見れば、行政府の部局である法制局が直接的な国土防衛以外の行動は全て黒と判断してきたことが、果たして海外で日本人の生命と財産を守るために適切だったかどうかを考え直す時期だと思うのです。
どのように国際環境は変化してきたのでしょうか。
政府見解が出された一九七二年は、可能性の低い米ソの軍事衝突さえ起きなければ、日本人の生命や財産が海外で危険に脅かされる事態はほとんど考えなくてよい時代でした。
しかし、その後、情勢は激変いたしました。北朝鮮の核・ミサイル開発や中国の膨張主義などももちろんありますが、日本にとっての生命線である中東、欧州方面からのシーレーンをめぐる情勢を考えただけでも、その変化は直ちにわかります。
一九七九年にイラン革命が、そして一九八〇年からはその後九年間続くイラン・イラク戦争が始まり、それ以降、ペルシャ湾情勢は危険を伴うものに変化しました。湾内の民間船舶にイランのシルクワームミサイルが発射され、無数の浮遊機雷が設置されていた時期もありました。
ホルムズ海峡を通ってインド洋に出れば、そこはアフガニスタンのタリバンが麻薬と武器を輸送するルートです。マラッカ海峡を通って日本に向かえば、その先には、中国海軍が支配しようとしている南シナ海が広がります。
一方、欧州からスエズ運河、バブエルマンデブ海峡を経てアラビア海に出る日本の船舶は、ソマリア海賊が待ち受けるアラビア海を通ります。二〇〇〇年以降でもソマリア海賊の襲撃は一千回を超え、四千人を超える乗組員が人質にとられました。
この膨大な海域で日本人の生命と船舶を守ることは、日本単独では無理です。日本の護衛艦は、一九九〇年代には六十隻ありましたが、予算上の理由で、現在は四十七隻にまで削減されております。このわずかな護衛艦で日本の二千六百隻の商船隊を守れるわけがありません。日本にとっての唯一の道は、各国の海軍と共同しての護衛であります。
海賊からの商船隊護衛を考えれば、おわかりいただけると思います。自衛隊の護衛艦は、派遣以来、ことしの五月までに六百六十三隻の日本の民間船舶を護衛しましたが、同時に二千九百隻以上の外国船舶を護衛し、海賊の襲撃から守ってきているのであります。日本人にとっての誇りです。そして、他国の海軍も、同じように外国と日本の船舶を一緒に護衛しています。
現在、海上自衛隊がやっていることは海賊対処法に基づく警察行動ではありますが、相手が国または国に準ずる組織に変われば、自衛隊の行動は集団的自衛権の行使に該当しますから、護衛任務から離れなければならなくなります。
イスラム国と称するISILは、国に準ずる組織であると思います。彼らの勢いは減っていません。
考えていただきたいのです。海上自衛隊が襲撃してきた海賊を撃退した後に、ISILが襲撃したときにはどうなるのか。現在の法制では、海上自衛隊は拱手傍観しなければなりません。どう考えてもおかしい。弱い海賊に対してすら護衛艦を出動させて警護しているのに、より強大な襲撃者があらわれれば、どうぞ御自由にと道をあけるのでしょうか。この法制に反対する人々がここのところをどう考えているのか、私には理解できません。
国際護衛艦隊は仮定の議論ではありません。一九八七年、イランの攻撃から湾内の商船隊を守るための国際護衛艦隊が組織され、日本も参加を要請されましたが、政府見解に縛られる日本は、護衛対象の七割が日本関係船舶であったにもかかわらず、参加は集団的自衛権の行使に当たるとして断りました。その結果、アメリカ、イギリス、フランスなどの艦隊が日本船の護衛に当たりました。
陸上においても、内戦やテロが激増しています。ISILが後藤健二さんと湯川遥菜さんを残虐に殺害した後、これから日本国民を場所を問わずに殺りくすると宣言したのは記憶に新しいところです。テロからの邦人保護については警察が対応すべきケースも多いと思いますが、自衛隊が日本人を保護しなければならない可能性も増していると思います。
集団的自衛権の限定的容認には、日本の存立危機事態といういささか大仰な表紙がつけられておりますけれども、実際上は、集団的自衛権が行使される可能性が高いのは、海外での日本人の人命と財産を保護するケースだと思います。この意味で、立派な責任政党が、集団的自衛権は他国の戦争に参加することですとの誤ったキャンペーンを国民にしていることは残念であります。
この法制は、日本の安全を守る上で最も重要な仕組みである日米安保体制を強くするものでもあります。
日米安保体制は、日米両国の相互信頼の上に成り立っています。
このようなことがありました。
二〇〇一年の九・一一テロの際、全世界に展開する米軍にテロリストが攻撃をしかける可能性があるとの情報があり、横須賀の米第七艦隊も速やかに硫黄島海域へ退避することになりました。そのときに、アメリカ側から、交通量の多い東京湾を迅速に航行しなければならないので海上自衛隊が先導してくれないかとの要請がありました。
根拠法規を持たない海上自衛隊は、苦肉の策として、当時の防衛庁設置法第五条の、所掌事務の遂行に必要な調査及び研究を行うことができるとの項目を援用し、米艦隊の退避行動を調査するという理由をつけて護衛艦を出動させました。それも日本の領海内だけでした。しかし、こうして第七艦隊を先導して東京湾を南下した日本の護衛艦の姿は繰り返しアメリカのテレビで放映され、アメリカ国民の大きな感動を呼んだのであります。
自衛隊の現場は、このような苦労をしながら抑止力の維持を図ってきました。今回の法制のもとでは、自衛隊の護衛艦が堂々と米艦隊を護衛して、しかも領海の外まで伴走することが可能になります。
再び本旨に戻ります。
世界が助け合っているときに、日本が我関せずという態度をとり続けることは、すなわち、日本人の命と財産を守るリスクと負担はほかの国に押しつけるということを意味します。
現在の世界では、宗教や民族や国家間の対立が先鋭化し、ISILのような暴力的な準国家組織が、主権国家の連合軍をもってしても制圧することができないほど勢力を伸ばしています。その中で、日本が一国で日本人の生命と財産を守り抜くことは不可能です。
一九九四年、イエメンの内戦で九十六人の日本人観光客が孤立したとき、救ってくれたのはドイツ、フランス、イタリアの軍隊でした。二〇〇〇年からだけでも、総計二百三十八人の日本人が十一カ国の軍用機や艦船などで救出されてきました。
一九八五年三月、イラン・イラク戦争でイランの首都のテヘランが危機になり、日本人二百十五人が孤立しましたが、日本の民間航空機は、危険だからとテヘランまで飛んでくれませんでした。それを救ってくれたのはトルコでした。トルコ政府は、テヘランに派遣した二機の救出機のうちの一機を日本人救出に当て、そのために乗れなくなってしまった何百人かのトルコ人は陸路で脱出させたのです。
日本では報道されませんでしたが、二〇〇四年四月、日本の三十万トンタンカーのTAKASUZUがイラクのバスラ港沖で原油を積んでいた際に、自爆テロボートに襲われました。そのときに身を挺して守ってくれたのは、アメリカの三名の海軍軍人と沿岸警備隊員でした。彼らは日本のタンカーを守って死に、本国には幼い子供たちを抱えた家族が残されました。
みんながみんなを守り合っているのです。
先週、私はイラクにおりました。ISILとの戦いの前線から四十キロメートルのところに首都を持つクルド自治区を訪れて話をしました。クルドの人々は、私たちが多くの犠牲を出してISILと戦っているのは自分たちのためだけではない、世界の安全のためですと語っていました。
著名な憲法学者の方が先般の本委員会で、平和安全法制が通れば、日本はイスラムグループの敵になり、現在キリスト教国だけで起きているテロが東京で起こることになると陳述しておられましたが、ISILのテロをキリスト教国家にだけ向けさせておけばいいという話ではありません。国際社会はお互いに助け合っていかなければ生存できないのです。
あえて申し上げますが、安全保障や対外関係に携わる公務員にとって、リスクは不可避であります。だからこそ、多くの日本政府や援助関係機関の職員が命をかけて危険地域で活動してきているのです。
別の著名な憲法学者の方が、外務官僚には全員自衛隊入隊を義務づけて危険地域を体験させよとマスコミで主張しておられます。そうすれば、自衛隊を危険地域に送る法律はつくらないだろうと。こうした現実を無視した意見によって反対論が主導されているのは、不幸なことだと思います。
事実は逆であります。危険だから自衛隊は派遣できないというバグダッドでは、二十数名の外交官が大使館に住み込んで、必死でイラクの復興のためにきょうも走り回っております。既に二名の外務省員がとうとい命をテロリストに奪われましたが、彼らはひるむことなくバグダッドに踏みとどまり、今もその職務を全うしているのです。
この関連で、法案審議とは関係ありませんが、一つ述べさせてください。
バグダッドに置かれた各国大使館のうち、全ての主要国を含む二十四カ国の大使館には武官が駐在し、軍同士でしか行い得ない情報交換を活発に行っています。しかし、日本大使館には一名の武官も駐在していません。もちろん、防衛省や自衛隊員の腰が引けているためではありません。危険な地域には自衛官を派遣しないという、政治的につくり出された方針のためです。武官をバグダッドの日本大使館に常駐させることは、日本自身の安全に必要な情報を得るためにも必要なことです。実現に向けての御支援をお願いしたく存じます。
最後に、もう一言だけ申し上げたいと思います。
この平和安全法制の大きな意義は、外敵の暴力から身を守り合う仲間のコミュニティーに日本も参加すること、そして、そのために十分な訓練を受け、装備を有している自衛隊が、今日も危機の最前線で働いている公務員と協力して日本人の命と財産を守れるようにすることであると信じます。私は、自衛隊員がそのための強い使命感を持っていることを知っております。
皆様の御判断は決定的に重要であります。我々は今、日本がこれまで各国の善意と犠牲の上に日本人の生命と財産を守ってもらい、それでよしとしてきたこの国のあり方を転換できるかどうかの歴史的な分岐点にいると思うからであります。
ありがとうございました。拍手
この発言だけを見る →まず、平和安全法制のうち、集団的自衛権に関する議論について一言申し上げます。
内閣法制局がつくりました一九七二年政府見解は、全ての集団的自衛権を、他国に加えられた武力攻撃を阻止する権利と定義しました。つまり、日本国土を直接守る個別的自衛権以外の武力行使は全てが他国を守るための行為であり、したがって、憲法違反だとしたわけです。
しかし、このいささか荒っぽい区分けをもってしては、日本は、一九八〇年ごろから変容した国際情勢には対応できなくなりました。日本と日本人を守るための集団的自衛権というものの存在を認めなかったからであります。
例えば、多数の日本船に外国船がまじった船団があります。それを海上自衛隊が守ることは、相手が国または国に準ずる組織であれば集団的自衛権の行使に当たりますが、この海上自衛隊の行動は、他国を守る行為なのでしょうか。
本委員会やその他の場で、何人もの元法制局長官の方々が今回の平和安全法制は違憲であり撤回すべきと発言しておられますが、私は、むしろ、国際安全保障環境の変化を見れば、行政府の部局である法制局が直接的な国土防衛以外の行動は全て黒と判断してきたことが、果たして海外で日本人の生命と財産を守るために適切だったかどうかを考え直す時期だと思うのです。
どのように国際環境は変化してきたのでしょうか。
政府見解が出された一九七二年は、可能性の低い米ソの軍事衝突さえ起きなければ、日本人の生命や財産が海外で危険に脅かされる事態はほとんど考えなくてよい時代でした。
しかし、その後、情勢は激変いたしました。北朝鮮の核・ミサイル開発や中国の膨張主義などももちろんありますが、日本にとっての生命線である中東、欧州方面からのシーレーンをめぐる情勢を考えただけでも、その変化は直ちにわかります。
一九七九年にイラン革命が、そして一九八〇年からはその後九年間続くイラン・イラク戦争が始まり、それ以降、ペルシャ湾情勢は危険を伴うものに変化しました。湾内の民間船舶にイランのシルクワームミサイルが発射され、無数の浮遊機雷が設置されていた時期もありました。
ホルムズ海峡を通ってインド洋に出れば、そこはアフガニスタンのタリバンが麻薬と武器を輸送するルートです。マラッカ海峡を通って日本に向かえば、その先には、中国海軍が支配しようとしている南シナ海が広がります。
一方、欧州からスエズ運河、バブエルマンデブ海峡を経てアラビア海に出る日本の船舶は、ソマリア海賊が待ち受けるアラビア海を通ります。二〇〇〇年以降でもソマリア海賊の襲撃は一千回を超え、四千人を超える乗組員が人質にとられました。
この膨大な海域で日本人の生命と船舶を守ることは、日本単独では無理です。日本の護衛艦は、一九九〇年代には六十隻ありましたが、予算上の理由で、現在は四十七隻にまで削減されております。このわずかな護衛艦で日本の二千六百隻の商船隊を守れるわけがありません。日本にとっての唯一の道は、各国の海軍と共同しての護衛であります。
海賊からの商船隊護衛を考えれば、おわかりいただけると思います。自衛隊の護衛艦は、派遣以来、ことしの五月までに六百六十三隻の日本の民間船舶を護衛しましたが、同時に二千九百隻以上の外国船舶を護衛し、海賊の襲撃から守ってきているのであります。日本人にとっての誇りです。そして、他国の海軍も、同じように外国と日本の船舶を一緒に護衛しています。
現在、海上自衛隊がやっていることは海賊対処法に基づく警察行動ではありますが、相手が国または国に準ずる組織に変われば、自衛隊の行動は集団的自衛権の行使に該当しますから、護衛任務から離れなければならなくなります。
イスラム国と称するISILは、国に準ずる組織であると思います。彼らの勢いは減っていません。
考えていただきたいのです。海上自衛隊が襲撃してきた海賊を撃退した後に、ISILが襲撃したときにはどうなるのか。現在の法制では、海上自衛隊は拱手傍観しなければなりません。どう考えてもおかしい。弱い海賊に対してすら護衛艦を出動させて警護しているのに、より強大な襲撃者があらわれれば、どうぞ御自由にと道をあけるのでしょうか。この法制に反対する人々がここのところをどう考えているのか、私には理解できません。
国際護衛艦隊は仮定の議論ではありません。一九八七年、イランの攻撃から湾内の商船隊を守るための国際護衛艦隊が組織され、日本も参加を要請されましたが、政府見解に縛られる日本は、護衛対象の七割が日本関係船舶であったにもかかわらず、参加は集団的自衛権の行使に当たるとして断りました。その結果、アメリカ、イギリス、フランスなどの艦隊が日本船の護衛に当たりました。
陸上においても、内戦やテロが激増しています。ISILが後藤健二さんと湯川遥菜さんを残虐に殺害した後、これから日本国民を場所を問わずに殺りくすると宣言したのは記憶に新しいところです。テロからの邦人保護については警察が対応すべきケースも多いと思いますが、自衛隊が日本人を保護しなければならない可能性も増していると思います。
集団的自衛権の限定的容認には、日本の存立危機事態といういささか大仰な表紙がつけられておりますけれども、実際上は、集団的自衛権が行使される可能性が高いのは、海外での日本人の人命と財産を保護するケースだと思います。この意味で、立派な責任政党が、集団的自衛権は他国の戦争に参加することですとの誤ったキャンペーンを国民にしていることは残念であります。
この法制は、日本の安全を守る上で最も重要な仕組みである日米安保体制を強くするものでもあります。
日米安保体制は、日米両国の相互信頼の上に成り立っています。
このようなことがありました。
二〇〇一年の九・一一テロの際、全世界に展開する米軍にテロリストが攻撃をしかける可能性があるとの情報があり、横須賀の米第七艦隊も速やかに硫黄島海域へ退避することになりました。そのときに、アメリカ側から、交通量の多い東京湾を迅速に航行しなければならないので海上自衛隊が先導してくれないかとの要請がありました。
根拠法規を持たない海上自衛隊は、苦肉の策として、当時の防衛庁設置法第五条の、所掌事務の遂行に必要な調査及び研究を行うことができるとの項目を援用し、米艦隊の退避行動を調査するという理由をつけて護衛艦を出動させました。それも日本の領海内だけでした。しかし、こうして第七艦隊を先導して東京湾を南下した日本の護衛艦の姿は繰り返しアメリカのテレビで放映され、アメリカ国民の大きな感動を呼んだのであります。
自衛隊の現場は、このような苦労をしながら抑止力の維持を図ってきました。今回の法制のもとでは、自衛隊の護衛艦が堂々と米艦隊を護衛して、しかも領海の外まで伴走することが可能になります。
再び本旨に戻ります。
世界が助け合っているときに、日本が我関せずという態度をとり続けることは、すなわち、日本人の命と財産を守るリスクと負担はほかの国に押しつけるということを意味します。
現在の世界では、宗教や民族や国家間の対立が先鋭化し、ISILのような暴力的な準国家組織が、主権国家の連合軍をもってしても制圧することができないほど勢力を伸ばしています。その中で、日本が一国で日本人の生命と財産を守り抜くことは不可能です。
一九九四年、イエメンの内戦で九十六人の日本人観光客が孤立したとき、救ってくれたのはドイツ、フランス、イタリアの軍隊でした。二〇〇〇年からだけでも、総計二百三十八人の日本人が十一カ国の軍用機や艦船などで救出されてきました。
一九八五年三月、イラン・イラク戦争でイランの首都のテヘランが危機になり、日本人二百十五人が孤立しましたが、日本の民間航空機は、危険だからとテヘランまで飛んでくれませんでした。それを救ってくれたのはトルコでした。トルコ政府は、テヘランに派遣した二機の救出機のうちの一機を日本人救出に当て、そのために乗れなくなってしまった何百人かのトルコ人は陸路で脱出させたのです。
日本では報道されませんでしたが、二〇〇四年四月、日本の三十万トンタンカーのTAKASUZUがイラクのバスラ港沖で原油を積んでいた際に、自爆テロボートに襲われました。そのときに身を挺して守ってくれたのは、アメリカの三名の海軍軍人と沿岸警備隊員でした。彼らは日本のタンカーを守って死に、本国には幼い子供たちを抱えた家族が残されました。
みんながみんなを守り合っているのです。
先週、私はイラクにおりました。ISILとの戦いの前線から四十キロメートルのところに首都を持つクルド自治区を訪れて話をしました。クルドの人々は、私たちが多くの犠牲を出してISILと戦っているのは自分たちのためだけではない、世界の安全のためですと語っていました。
著名な憲法学者の方が先般の本委員会で、平和安全法制が通れば、日本はイスラムグループの敵になり、現在キリスト教国だけで起きているテロが東京で起こることになると陳述しておられましたが、ISILのテロをキリスト教国家にだけ向けさせておけばいいという話ではありません。国際社会はお互いに助け合っていかなければ生存できないのです。
あえて申し上げますが、安全保障や対外関係に携わる公務員にとって、リスクは不可避であります。だからこそ、多くの日本政府や援助関係機関の職員が命をかけて危険地域で活動してきているのです。
別の著名な憲法学者の方が、外務官僚には全員自衛隊入隊を義務づけて危険地域を体験させよとマスコミで主張しておられます。そうすれば、自衛隊を危険地域に送る法律はつくらないだろうと。こうした現実を無視した意見によって反対論が主導されているのは、不幸なことだと思います。
事実は逆であります。危険だから自衛隊は派遣できないというバグダッドでは、二十数名の外交官が大使館に住み込んで、必死でイラクの復興のためにきょうも走り回っております。既に二名の外務省員がとうとい命をテロリストに奪われましたが、彼らはひるむことなくバグダッドに踏みとどまり、今もその職務を全うしているのです。
この関連で、法案審議とは関係ありませんが、一つ述べさせてください。
バグダッドに置かれた各国大使館のうち、全ての主要国を含む二十四カ国の大使館には武官が駐在し、軍同士でしか行い得ない情報交換を活発に行っています。しかし、日本大使館には一名の武官も駐在していません。もちろん、防衛省や自衛隊員の腰が引けているためではありません。危険な地域には自衛官を派遣しないという、政治的につくり出された方針のためです。武官をバグダッドの日本大使館に常駐させることは、日本自身の安全に必要な情報を得るためにも必要なことです。実現に向けての御支援をお願いしたく存じます。
最後に、もう一言だけ申し上げたいと思います。
この平和安全法制の大きな意義は、外敵の暴力から身を守り合う仲間のコミュニティーに日本も参加すること、そして、そのために十分な訓練を受け、装備を有している自衛隊が、今日も危機の最前線で働いている公務員と協力して日本人の命と財産を守れるようにすることであると信じます。私は、自衛隊員がそのための強い使命感を持っていることを知っております。
皆様の御判断は決定的に重要であります。我々は今、日本がこれまで各国の善意と犠牲の上に日本人の生命と財産を守ってもらい、それでよしとしてきたこの国のあり方を転換できるかどうかの歴史的な分岐点にいると思うからであります。
ありがとうございました。拍手
浜
小
小澤隆一#4
○小澤公述人 本日は、お招きいただきましてありがとうございます。
お手元に資料がありますので、それをごらんください。
私は、東京慈恵会医科大学の小澤です。専門は憲法学です。
本委員会に付託されている法案を違憲とする憲法学者の見解について、ある議員の方が、憲法学者は九条二項の字面に拘泥すると述べたという報道に接しました。しかし、字面はすなわち言葉であり、言葉は文化です。明確な言葉によって、そしてまた明晰な論理によって思想やルールを表現して、同時代の人々や後世に伝えるのが文明国、立憲国家の作法です。その作法に反する政治が行われようとするとき、その非を指摘するのは作法を学んでいる者の務めだと思います。
そこで、法文の字面、文面にあえて拘泥して、法案についての意見を述べさせていただきます。
憲法九条の解釈について。
付託されている法案には、憲法九条との適合性という重要問題があるにもかかわらず、本委員会では憲法九条の解釈について余り正面から論じられていない印象を持ちます。
私は、憲法九条の解釈としては、戦争放棄に関する本案の規定は、直接自衛権を否定しておりませんが、九条二項において一切の軍備と国の交戦権を認めない結果、自衛権の発動としての戦争も、また交戦権も放棄したものでありますという一九四六年六月二十六日の衆議院での吉田茂首相の言葉が、端的に正統なものと判断します。これによって、憲法九条のもとでは、個別的、集団的を問わず、自衛権の行使のためであっても戦争や武力の行使はできないという結論が導かれます。
しかしながら、政府は、この解釈を、一九五四年の自衛隊創設に伴い変更しました。自衛のために必要相当な範囲の実力部隊を設けることは憲法に違反しないというものです。この自衛隊創設には、一九五二年の日米安保条約の前文で、日本の自国防衛の責任へのアメリカ側の期待が記されたということが大きく影響しています。
その後は、この安保、自衛隊という既成事実の重みによって、一種の魔法にかかったような状態が続いています。私は、憲法学者の端くれとして、多くの先達が汗牛充棟さながらに唱えてきた、自衛隊は違憲という九条解釈論に学びながら、この魔法の呪縛を解き、憲法九条の本来の意義を究明することに微力ながら努めてきました。この間、国民の命と暮らしを守るのは憲法学者ではなく政治家だという声も聞こえましたが、これは、学者と政治家のそれぞれの役割の違いをわきまえずてんびんにかける、ミスリーディングな言葉だと思います。
学者は、あくまでも学術の立場から社会や政治に対して意見を提出するものです。日本学術会議が作成した「科学者の行動規範」は、「科学者は、」「社会の様々な課題の解決と福祉の実現を図るために、政策立案・決定者に対して政策形成に有効な科学的助言の提供に努める。」「科学者は、公共の福祉に資することを目的として研究活動を行い、客観的で科学的な根拠に基づく公正な助言を行う。」と定めています。
この間の憲法学者の違憲論、とりわけ砂川事件最高裁判決の読み方についての意見、また、多くの学者が示している法案に対する消極論、慎重論をそのようなものとして受けとめることを貴院には強く求めます。
もちろん、憲法九条をどのように解釈するか、学界の中には多様な説があります。しかし、多様な説が併存する学界の中で、集団的自衛権は違憲という点において、なかんずく政府が長年維持してきた集団的自衛権違憲論を一片の閣議決定で覆すことに合理性、正当性がないという点について幅広い一致が見られることに、今回の法案審議において特段の重視をお願いしたいと思います。
二、法案の違憲性等について。
私も呼びかけ人の一人である六月三日発表の憲法研究者の声明が、これは資料を御参照ください、述べているように、今回の法案には幾つかの看過しがたい違憲性が含まれています。以下、法案の違憲性や問題点について私見を述べます。
第一に、歯どめのない存立危機事態における集団的自衛権行使の問題です。
自衛隊法と武力攻撃事態法の改正案は、存立危機事態における自衛隊による武力の行使を規定していますが、その中での我が国と密接な関係にある他国は、米国に限定されません。また、存立危機武力攻撃とはどのような武力攻撃のことなのか、何を基準にして他に適当な手段がなく、事態に対処するため武力の行使が必要と認めるかなど、曖昧です。そして、この攻撃を排除するために必要な自衛隊が実施する武力の行使がどの程度のものであれば、事態に応じ合理的に必要と判断される限度にとどまるかなど、使われている概念が極めて漠然としており、その範囲は不明確です。個別的自衛権行使を念頭に置いた今までの自衛権発動の三要件が曲がりなりにも有していた要件の明確性、限定性が、存立危機事態を含む自衛の措置の三要件になったことで失われてしまったと判断せざるを得ません。
存立危機事態対処は、歯どめのない集団的自衛権行使につながりかねず、憲法九条に反するものであると考えます。
なお、この存立危機事態対処が加わったからでしょう、自衛隊法三条一項の任務規定から、「直接侵略及び間接侵略に対し」という文言を削除しました。これでつじつまが合うとされたのでしょうが、これにより、何からどうやって我が国を防衛するかが不明となり、我が国の防衛が際限なく広がる危険を生じさせた、安易かつ不適切な改正だというふうに思います。
さらに、武力攻撃事態法改正案の三条一項では、武力攻撃事態等及び存立危機事態への対処を、国、地方公共団体、指定公共機関が相互に連携し、万全の措置を講ずるとしています。これは、存立危機事態での対処措置を国だけでなく地方自治体や指定公共機関にも行わせる可能性を排除しないことを意味し、重大な問題をはらんでいます。
この公聴会は、国会法五十一条に基づき、真に利害関係を有する者または学識経験者から意見を聞く会ですが、指定公共機関は、この真に利害関係を有する者に該当するはずです。その意見を聞かずに法案を採決することは、丁寧な審議とは言えないと思います。
(二)に行きます。
重要影響事態法案における後方支援活動と国際平和支援法案における協力支援活動は、いずれも他国軍隊に対する自衛隊の支援活動ですが、これらは、活動地域について地理的限定がなく、現に戦闘行為が行われている現場以外どこでも行われ、従来の周辺事態法やテロ特措法、イラク特措法などでは禁じられていた弾薬の提供も可能にするなど、自衛隊が戦闘現場近くで外国の軍隊に緊密に協力して支援活動を行うことが想定されています。
これは、もはや、外国の武力行使とは一体化しないといういわゆる一体化論がおよそ成立をしないことを意味するものであり、そこでの自衛隊の支援活動は武力行使に該当し、憲法九条一項に違反するものです。
重要影響事態法案、国際平和支援法案とも、二条二項で、日本の支援活動は武力の行使に当たるものではないとしていますが、これは、後方支援、ロジスティックサポートは武力行使の一環という国際法、国際社会の常識に反しています。
深刻なのは、このことにより、支援活動中に武力紛争の相手方に拘束された自衛隊員が捕虜としての扱いを受けないことです。これは、七月八日の本委員会での岸田外務大臣の答弁で確認されています。
他方、他国の軍隊への支援活動を行う自衛隊は、相手側からすれば、敵対行為に直接参加する者として、文民としての保護を受けない可能性があります。いや、武器を持った文民などあり得ません。
結局、自衛隊員は、軍人としても捕虜扱いされず、文民としての保護も受けない、勝手に敵対行為に参加している者という著しく不安定な法的地位に置かれます。これは、支援活動が武力行使ではないとしたことによる根本矛盾です。
私は、九条の解釈として、自衛隊はこれに反する存在であると判断しますが、自衛隊員の生命や権利が軽んじられることがあってはならないと考えます。
しかし、今回の法案は、武力行使はしない、他国の武力行使とは一体化しないという根拠に乏しい前提に立ちながら、自衛隊員に戦闘現場近くでの支援活動に従事させるものであり、結果として、自衛隊員が相手方に拘束された場合に、戦闘員でも文民でもないという不安定な地位に追いやられ、その生命と権利を著しく害する事態を引き起こしかねないという根本的な欠陥を抱え込んでいます。
このような欠陥法案を成立させることは、政治の責任の放棄のそしりを免れないでしょう。自衛隊員の命と暮らしを守るのは政治家の務めではないでしょうか。
また、国際平和支援法案の支援活動には、いわゆる例外なき国会事前承認が求められることになりましたが、この歯どめとしての実効性は、国会での審議時間の短さなどから大いに疑問です。
他方、重要影響事態法案は、日本の平和と安全に重要な影響を与える事態という極めて曖昧な要件で、国連決議等の有無にかかわりなく米軍等への支援活動が可能となることから、国際法上違法な武力行使に加担する危険性をはらみ、かつ国会による事後承認も許されるという点で、大きな問題点があります。
次に、自衛隊法改正案は、自衛隊と連携して我が国の防衛に資する活動に現に従事している米軍等の武器等防護のために自衛隊に武器の使用を認める規定を盛り込んでいます。
自衛隊法の九十五条は、規定の仕方からして、もともと保管されている武器についての規定のはずです。それが、周辺事態法の制定を契機にして、活動中の武器等の防護にも使用可能な規定とされたことから問題が生じています。
しかし、改正法案九十五条の二は、米軍等の武器等防護という全く性格の異なるものまで引き及ぼしています。この規定は、自衛隊が米軍等と警戒監視活動や軍事演習などで平時から事実上の同盟軍的な行動をとることを想定していると言わざるを得ません。一体いつから日本はオーストラリアと同盟関係に入ったんでしょうか。不可思議です。
このような活動は、周辺諸国との軍事的緊張を高め、偶発的な武力紛争を誘発しかねません。そして、武器の使用といいながら武力の行使までエスカレートする危険をはらむものです。現に、本委員会での審議では、共同で警戒監視活動をしている米艦へのミサイル攻撃を自衛隊のイージス艦が迎撃する場合も、九十五条の二が適用され得ると政府答弁があります。これが認められるならば、集団的自衛権行使としての武力の行使との違いはほとんどないと言わざるを得ません。
結局、改正法案九十五条の二の規定は、集団的自衛権行使の前倒しとしての意味を持ち、憲法九条に反するものです。領域をめぐる紛争や海洋の安全の確保は、本来、平和的な外交交渉や警察的活動で対応すべきものです。これこそが、憲法九条の平和主義の志向と合致するものであることを強調しておきます。
以上述べたように、憲法上多くの問題点をはらむ二つの法案は、速やかに廃案にされるべきです。政府は、この法案の前提となっている昨年七月一日の閣議決定と日米ガイドラインを直ちに撤回すべきです。そして、憲法に基づく政治、立憲政治を担う国家機関としての最低限の責務として、貴院には、このような重大な問題をはらむ法案の拙速な審議と採決を断じて行わぬよう求めたいと思います。
御清聴ありがとうございました。拍手
この発言だけを見る →お手元に資料がありますので、それをごらんください。
私は、東京慈恵会医科大学の小澤です。専門は憲法学です。
本委員会に付託されている法案を違憲とする憲法学者の見解について、ある議員の方が、憲法学者は九条二項の字面に拘泥すると述べたという報道に接しました。しかし、字面はすなわち言葉であり、言葉は文化です。明確な言葉によって、そしてまた明晰な論理によって思想やルールを表現して、同時代の人々や後世に伝えるのが文明国、立憲国家の作法です。その作法に反する政治が行われようとするとき、その非を指摘するのは作法を学んでいる者の務めだと思います。
そこで、法文の字面、文面にあえて拘泥して、法案についての意見を述べさせていただきます。
憲法九条の解釈について。
付託されている法案には、憲法九条との適合性という重要問題があるにもかかわらず、本委員会では憲法九条の解釈について余り正面から論じられていない印象を持ちます。
私は、憲法九条の解釈としては、戦争放棄に関する本案の規定は、直接自衛権を否定しておりませんが、九条二項において一切の軍備と国の交戦権を認めない結果、自衛権の発動としての戦争も、また交戦権も放棄したものでありますという一九四六年六月二十六日の衆議院での吉田茂首相の言葉が、端的に正統なものと判断します。これによって、憲法九条のもとでは、個別的、集団的を問わず、自衛権の行使のためであっても戦争や武力の行使はできないという結論が導かれます。
しかしながら、政府は、この解釈を、一九五四年の自衛隊創設に伴い変更しました。自衛のために必要相当な範囲の実力部隊を設けることは憲法に違反しないというものです。この自衛隊創設には、一九五二年の日米安保条約の前文で、日本の自国防衛の責任へのアメリカ側の期待が記されたということが大きく影響しています。
その後は、この安保、自衛隊という既成事実の重みによって、一種の魔法にかかったような状態が続いています。私は、憲法学者の端くれとして、多くの先達が汗牛充棟さながらに唱えてきた、自衛隊は違憲という九条解釈論に学びながら、この魔法の呪縛を解き、憲法九条の本来の意義を究明することに微力ながら努めてきました。この間、国民の命と暮らしを守るのは憲法学者ではなく政治家だという声も聞こえましたが、これは、学者と政治家のそれぞれの役割の違いをわきまえずてんびんにかける、ミスリーディングな言葉だと思います。
学者は、あくまでも学術の立場から社会や政治に対して意見を提出するものです。日本学術会議が作成した「科学者の行動規範」は、「科学者は、」「社会の様々な課題の解決と福祉の実現を図るために、政策立案・決定者に対して政策形成に有効な科学的助言の提供に努める。」「科学者は、公共の福祉に資することを目的として研究活動を行い、客観的で科学的な根拠に基づく公正な助言を行う。」と定めています。
この間の憲法学者の違憲論、とりわけ砂川事件最高裁判決の読み方についての意見、また、多くの学者が示している法案に対する消極論、慎重論をそのようなものとして受けとめることを貴院には強く求めます。
もちろん、憲法九条をどのように解釈するか、学界の中には多様な説があります。しかし、多様な説が併存する学界の中で、集団的自衛権は違憲という点において、なかんずく政府が長年維持してきた集団的自衛権違憲論を一片の閣議決定で覆すことに合理性、正当性がないという点について幅広い一致が見られることに、今回の法案審議において特段の重視をお願いしたいと思います。
二、法案の違憲性等について。
私も呼びかけ人の一人である六月三日発表の憲法研究者の声明が、これは資料を御参照ください、述べているように、今回の法案には幾つかの看過しがたい違憲性が含まれています。以下、法案の違憲性や問題点について私見を述べます。
第一に、歯どめのない存立危機事態における集団的自衛権行使の問題です。
自衛隊法と武力攻撃事態法の改正案は、存立危機事態における自衛隊による武力の行使を規定していますが、その中での我が国と密接な関係にある他国は、米国に限定されません。また、存立危機武力攻撃とはどのような武力攻撃のことなのか、何を基準にして他に適当な手段がなく、事態に対処するため武力の行使が必要と認めるかなど、曖昧です。そして、この攻撃を排除するために必要な自衛隊が実施する武力の行使がどの程度のものであれば、事態に応じ合理的に必要と判断される限度にとどまるかなど、使われている概念が極めて漠然としており、その範囲は不明確です。個別的自衛権行使を念頭に置いた今までの自衛権発動の三要件が曲がりなりにも有していた要件の明確性、限定性が、存立危機事態を含む自衛の措置の三要件になったことで失われてしまったと判断せざるを得ません。
存立危機事態対処は、歯どめのない集団的自衛権行使につながりかねず、憲法九条に反するものであると考えます。
なお、この存立危機事態対処が加わったからでしょう、自衛隊法三条一項の任務規定から、「直接侵略及び間接侵略に対し」という文言を削除しました。これでつじつまが合うとされたのでしょうが、これにより、何からどうやって我が国を防衛するかが不明となり、我が国の防衛が際限なく広がる危険を生じさせた、安易かつ不適切な改正だというふうに思います。
さらに、武力攻撃事態法改正案の三条一項では、武力攻撃事態等及び存立危機事態への対処を、国、地方公共団体、指定公共機関が相互に連携し、万全の措置を講ずるとしています。これは、存立危機事態での対処措置を国だけでなく地方自治体や指定公共機関にも行わせる可能性を排除しないことを意味し、重大な問題をはらんでいます。
この公聴会は、国会法五十一条に基づき、真に利害関係を有する者または学識経験者から意見を聞く会ですが、指定公共機関は、この真に利害関係を有する者に該当するはずです。その意見を聞かずに法案を採決することは、丁寧な審議とは言えないと思います。
(二)に行きます。
重要影響事態法案における後方支援活動と国際平和支援法案における協力支援活動は、いずれも他国軍隊に対する自衛隊の支援活動ですが、これらは、活動地域について地理的限定がなく、現に戦闘行為が行われている現場以外どこでも行われ、従来の周辺事態法やテロ特措法、イラク特措法などでは禁じられていた弾薬の提供も可能にするなど、自衛隊が戦闘現場近くで外国の軍隊に緊密に協力して支援活動を行うことが想定されています。
これは、もはや、外国の武力行使とは一体化しないといういわゆる一体化論がおよそ成立をしないことを意味するものであり、そこでの自衛隊の支援活動は武力行使に該当し、憲法九条一項に違反するものです。
重要影響事態法案、国際平和支援法案とも、二条二項で、日本の支援活動は武力の行使に当たるものではないとしていますが、これは、後方支援、ロジスティックサポートは武力行使の一環という国際法、国際社会の常識に反しています。
深刻なのは、このことにより、支援活動中に武力紛争の相手方に拘束された自衛隊員が捕虜としての扱いを受けないことです。これは、七月八日の本委員会での岸田外務大臣の答弁で確認されています。
他方、他国の軍隊への支援活動を行う自衛隊は、相手側からすれば、敵対行為に直接参加する者として、文民としての保護を受けない可能性があります。いや、武器を持った文民などあり得ません。
結局、自衛隊員は、軍人としても捕虜扱いされず、文民としての保護も受けない、勝手に敵対行為に参加している者という著しく不安定な法的地位に置かれます。これは、支援活動が武力行使ではないとしたことによる根本矛盾です。
私は、九条の解釈として、自衛隊はこれに反する存在であると判断しますが、自衛隊員の生命や権利が軽んじられることがあってはならないと考えます。
しかし、今回の法案は、武力行使はしない、他国の武力行使とは一体化しないという根拠に乏しい前提に立ちながら、自衛隊員に戦闘現場近くでの支援活動に従事させるものであり、結果として、自衛隊員が相手方に拘束された場合に、戦闘員でも文民でもないという不安定な地位に追いやられ、その生命と権利を著しく害する事態を引き起こしかねないという根本的な欠陥を抱え込んでいます。
このような欠陥法案を成立させることは、政治の責任の放棄のそしりを免れないでしょう。自衛隊員の命と暮らしを守るのは政治家の務めではないでしょうか。
また、国際平和支援法案の支援活動には、いわゆる例外なき国会事前承認が求められることになりましたが、この歯どめとしての実効性は、国会での審議時間の短さなどから大いに疑問です。
他方、重要影響事態法案は、日本の平和と安全に重要な影響を与える事態という極めて曖昧な要件で、国連決議等の有無にかかわりなく米軍等への支援活動が可能となることから、国際法上違法な武力行使に加担する危険性をはらみ、かつ国会による事後承認も許されるという点で、大きな問題点があります。
次に、自衛隊法改正案は、自衛隊と連携して我が国の防衛に資する活動に現に従事している米軍等の武器等防護のために自衛隊に武器の使用を認める規定を盛り込んでいます。
自衛隊法の九十五条は、規定の仕方からして、もともと保管されている武器についての規定のはずです。それが、周辺事態法の制定を契機にして、活動中の武器等の防護にも使用可能な規定とされたことから問題が生じています。
しかし、改正法案九十五条の二は、米軍等の武器等防護という全く性格の異なるものまで引き及ぼしています。この規定は、自衛隊が米軍等と警戒監視活動や軍事演習などで平時から事実上の同盟軍的な行動をとることを想定していると言わざるを得ません。一体いつから日本はオーストラリアと同盟関係に入ったんでしょうか。不可思議です。
このような活動は、周辺諸国との軍事的緊張を高め、偶発的な武力紛争を誘発しかねません。そして、武器の使用といいながら武力の行使までエスカレートする危険をはらむものです。現に、本委員会での審議では、共同で警戒監視活動をしている米艦へのミサイル攻撃を自衛隊のイージス艦が迎撃する場合も、九十五条の二が適用され得ると政府答弁があります。これが認められるならば、集団的自衛権行使としての武力の行使との違いはほとんどないと言わざるを得ません。
結局、改正法案九十五条の二の規定は、集団的自衛権行使の前倒しとしての意味を持ち、憲法九条に反するものです。領域をめぐる紛争や海洋の安全の確保は、本来、平和的な外交交渉や警察的活動で対応すべきものです。これこそが、憲法九条の平和主義の志向と合致するものであることを強調しておきます。
以上述べたように、憲法上多くの問題点をはらむ二つの法案は、速やかに廃案にされるべきです。政府は、この法案の前提となっている昨年七月一日の閣議決定と日米ガイドラインを直ちに撤回すべきです。そして、憲法に基づく政治、立憲政治を担う国家機関としての最低限の責務として、貴院には、このような重大な問題をはらむ法案の拙速な審議と採決を断じて行わぬよう求めたいと思います。
御清聴ありがとうございました。拍手
浜
木
木村草太#6
○木村公述人 本日は、貴重な機会をいただきありがとうございます。
今回の安保法制、特に集団的自衛権の行使容認部分と憲法との関係について、意見を述べさせていただきます。
まず、結論から申しますと、日本国憲法のもとでは、日本への武力攻撃の着手がない段階での武力行使は違憲です。ですから、日本への武力攻撃の着手に至る前の武力行使は、たとえ国際法上、集団的自衛権の行使として正当化されるとしても、日本国憲法に違反します。
政府が提案した存立危機事態条項が、仮に日本への武力攻撃の着手に至る前の武力行使を根拠づけるものだとすれば、明白に違憲です。
さらに、今までのところ、政府が我が国の存立という言葉の明確な定義を示さないため、存立危機事態条項の内容は余りにも漠然、不明確なものになっています。したがって、存立危機事態条項は、憲法九条違反である以前に、そもそも、漠然、不明確ゆえに違憲の評価を受けるものと思われます。
また、維新の党より提案された武力攻撃危機事態条項も、仮に日本への武力攻撃の着手がない段階での武力行使を根拠づけるものだとすれば、憲法に違反します。逆に、武力攻撃危機事態とは、外国軍隊への攻撃が同時に日本への武力攻撃の着手になる事態を意味すると解釈するのであれば、武力攻撃事態条項は合憲だと考えられます。
以下、詳述いたします。
まず、日本国憲法が、日本政府の武力行使をどう制限しているのかを説明いたします。
憲法九条は、武力行使のための軍事組織、戦力の保有を禁じていますが、外国への武力行使は原則として違憲であると解釈されています。もっとも、例外を許容する明文の規定があれば、武力行使を合憲と解釈することは可能ですから、九条の例外を認める根拠が存在するのかどうかを検討する必要があります。
従来の政府及び有力な憲法学説は、憲法十三条が自衛のための必要最小限度の武力行使の根拠となると考えてきました。憲法十三条は、生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利は、国政の上で、最大の尊重を必要とすると定めており、政府に国内の安全を確保する義務を課しています。個別的自衛権の行使は、その義務を果たすためのもので、憲法九条の例外として許容されるという解釈も可能でしょう。
他方、外国を防衛する義務を政府に課す規定は日本国憲法には存在しませんから、九条の例外を認めるわけにはいかず、集団的自衛権を行使することは憲法上許されないと結論されます。
また、自衛のための必要最小限度を超える武力行使は、憲法九条とは別に、政府の越権行為としても違憲の評価を受けます。
そもそも、国民主権の憲法のもとでは、政府は、憲法を通じて国民から負託された権限しか行使ができません。そして、日本国憲法には、政府に行政権と外交権を与える規定はあるものの、軍事権を与えた規定が存在しません。憲法学説は、このことを軍事権のカテゴリカルな消去と表現します。憲法が政府に軍事権を与えていない以上、日本政府が軍事権を行使すれば、越権行為であり、違憲です。
では、政府と自衛隊は、どのような活動ができるのでしょうか。
まず、行政権とは、自国の主権を用いた国内統治作用のうち、立法、司法を控除したものと定義されます。自衛のための必要最小限度の武力行使は、自国の主権を維持管理する行為なので、防衛行政として行政権に含まれるとの解釈も十分にあり得ます。
また、外交とは、相互の主権を尊重して外国と関係を取り結ぶ作用をいいます。武力行使に至らない範囲での国連PKOへの協力は、外交協力の範囲として政府の権限に含まれると理解することも可能でしょう。
これに対し、他国防衛のための武力行使は、日本の主権維持作用ではありませんから、防衛行政の一部とは説明ができず、また、相手国を実力で制圧する作用であり、外交協力とも言えません。
したがいまして、集団的自衛権の行使として正当化される他国防衛のための武力行使は、軍事権の行使だと言わざるを得ず、越権行為としても憲法違反の評価を受けます。
では、自衛のための必要最小限度の武力行使とは、どのような範囲の武力行使をいうのでしょうか。
法的に見た場合、日本の防衛のための武力行使には、自衛目的の先制攻撃と個別的自衛権の行使の二種類があります。
前者の自衛目的の先制攻撃は、日本への攻撃の具体的な危険、すなわち着手がない段階で、将来武力攻撃が生じる可能性を除去するために行われる武力行使をいいます。
他方、後者の個別的自衛権の行使は、日本への武力攻撃の具体的な危険を除去するために国際法上の個別的自衛権で認められた武力行使をいいます。武力攻撃の具体的な危険を認定するには、攻撃国の武力攻撃への着手が必要であり、着手のない段階での攻撃は、必要最小限度の自衛の措置には含まれないはずです。
先ほど見た憲法十三条は、国民の生命、自由、幸福追求の権利を保護していますが、それらの権利が侵害される具体的な危険がない段階、すなわち抽象的な危険しかない段階で、それを除去してもらう安心感を保障しているわけではありません。したがって、自衛目的の先制攻撃を憲法九条の例外として認めることはできません。
自衛のための必要最小限度の武力行使と認められるのは、あくまで個別的自衛権の行使に限られるでしょう。
これに対し、集団的自衛権が行使できる状況では、既に外国に武力攻撃があり、国際法上は他国防衛のための措置であり、先制攻撃ではないとの反論も想定されます。
しかし、国際法上の適法、違法と日本国憲法上の合憲、違憲の判断は、独立に検討されるべきものです。
外国への武力攻撃があったとしても、それが日本への武力攻撃と評価できないのであれば、仮に国際法上は集団的自衛権で正当化できるとしても、それは他国防衛として正当化できるにとどまり、憲法上の自衛の措置としては、違憲な先制攻撃と評価されます。
また、政府は、最高裁砂川事件判決で、集団的自衛権の行使は合憲だと認められたかのような説明をすることもあります。しかし、この判決は、日本の自衛の措置として米軍駐留を認めることの合憲性を判断したものにすぎません。さらに、この判決は、自衛隊を編成して個別的自衛権を行使することの合憲性すら判断を留保しており、どう考えても集団的自衛権の合憲性を認めたものとは言えません。
以上より、日本国憲法のもとで許容されるのは、日本への武力攻撃の着手があった段階でなされる自衛のための必要最小限度の武力行使に限られます。このため、集団的自衛権の行使は憲法違反になるとされてきたのです。
ただし、日本と外国が同時に武力攻撃を受けている場合の反撃は、国際法的には、集団的自衛権でも個別的自衛権でも正当化できるでしょう。このため、同時攻撃の場合に武力行使をすることは憲法違反にはならないものと解釈できます。
では、今回の法案の存立危機事態条項について、どう評価すべきでしょうか。
皆さんも御存じのとおり、存立危機事態という概念は、今回初めて登場した概念ではありません。昭和四十七年の政府見解は、我が国の存立を全うするために必要な自衛の措置をとることは禁じていないとしており、存立危機事態での自衛の措置をとることを認めています。
昨年七月一日の閣議決定も、外国への武力攻撃によって存立危機事態が生じたときには、昭和四十七年の政府見解とは矛盾せずに武力行使ができるという趣旨の議論を展開しています。形式論としてはそのとおりと言える面もあります。
ただし、昭和四十七年見解は、存立危機事態を認定し、「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」と明言しています。つまり、我が国の存立が脅かされる事態だと認定できるのは、武力攻撃事態に限られると述べているのです。
そもそも、近代国家は主権国家ですから、法学的には、我が国の存立が維持されているかどうかは、日本の主権が維持できているかどうかを基準に判断されるはずです。
国家間の関係のうち、外交は相互の主権を尊重する作用、軍事は相手国の主権を制圧する活動ですから、国家の存立が脅かされる事態とは、軍事権が行使された状態、武力攻撃を受ける事態と定義せざるを得ないのです。そうすると、昭和四十七年見解と矛盾しない形で存立危機事態を認定できるのは、日本自身も武力攻撃を受けている場合に限られるでしょう。
しかし、現在の政府答弁は、我が国の存立という概念について、ほとんど明確な定義を与えていません。また、存立危機事態は日本への武力攻撃がない事態だけでは認定ができないという、従来の説明を避け、石油の値段が上がったり、日米同盟が揺らいだりする場合には、日本が武力攻撃を受けていなくても存立危機事態を認定できるかのように答弁することもあります。
我が国の存立という言葉を従来の政府見解から離れて解釈するのであれば、存立危機事態条項は、日本への武力攻撃の着手のない段階での武力行使を根拠づけるもので、明白に憲法違反です。
以上の見解は、著名な憲法学者はもちろん、歴代内閣法制局長官ら、憲法解釈の専門的知識を持った法律家の大半が一致する見解であり、裁判所が同様の見解をとる可能性も高いと言えます。
したがって、これまでの議論を前提にすると、存立危機事態条項の制定は、看過しがたい訴訟リスクを発生させます。この条項が日本の安全保障に必要不可欠であるのであれば、そのような法的安定性が著しく欠ける形で制定すべきではなく、憲法改正の手続は必須と思われます。
また、そもそも、現在の政府答弁では、我が国の存立という言葉が余りにも曖昧模糊としております。明確な解釈指針を伴わない法文は、いかなる場合に武力行使を行えるかの基準を曖昧にするもので、憲法九条違反である以前に、そもそも、曖昧、不明確ゆえに違憲だと評価すべきでしょう。
さらに、内容が不明確だということは、そもそも、今回の法案で、可能な武力行使の範囲に過不足がないかを政策的に判定することができないということを意味します。
どんな場合に武力行使をするのかの基準が曖昧、不明確なままでは、国民は法案の適否を判断しようがありません。仮に法律が成立したとしても、国会が武力行使が法律にのっとってなされているか判断する基準を持たないことになります。これでは、政府の武力行使の判断を白紙で一任するようなもので、法の支配そのものの危機だと言えます。
さて、日本への武力攻撃の着手がない段階で武力行使を認めることが憲法違反になるとの法理は、維新の党より提案のありました、いわゆる武力攻撃危機事態条項にもそのまま当てはまります。もし、維新の党のが、日本への武力攻撃の着手のない段階での武力行使を認める条項であるとの解釈を前提にしたものであるなら、憲法違反のそしりを免れないと思われます。
したがって、武力攻撃危機事態条項について、これまで認めてこなかった個別的自衛権の拡張である、ないし集団的自衛権の行使容認であるといった説明を行うことは不適切と思われます。
ただし、維新案における武力攻撃危機事態条項は、他国への攻撃が同時に日本への武力攻撃の着手になる場合に武力行使を認めたものと解釈することもでき、また、そう解釈する限りで合憲と言えます。
もっとも、外国への攻撃が同時に日本への武力攻撃の着手になる事態であれば、現行法でも武力攻撃事態と認定ができるはずであり、個別的自衛権を行使することは可能です。この点は、一九七五年十月二十九日の衆議院予算委員会における宮沢喜一外務大臣答弁以降、何度か確認をされていることであります。
したがって、維新の党の皆様より御提案のあった武力攻撃危機事態条項は、武力攻撃事態条項の内容の一部を確認する条項だということになるでしょう。このような従来の法理を確認する条項は、法内容を明確にするという点では意義があります。これまでにも、従来の政府解釈や最高裁の判例法理を明確に確認するために立法が行われた例は多くあります。
逆に、維新案の内容を拒否した場合には、政府案が日本への武力攻撃の着手がない段階での武力行使を行う内容であることが明確になります。対案の提示は、政府の考え方を明確にする一助になるという点でも意義があるものと思われます。
以上述べたように、集団的自衛権の行使は憲法違反となります。もちろん、集団的自衛権の行使が憲法違反であるということは、集団的自衛権の行使容認が政策的に不要であるということまでを意味するものではありません。
集団的自衛権の行使容認が政策的に必要であるのなら、憲法改正の手続を踏み、国民の支持を得ればよいだけです。仮に改憲手続が成立しないのであれば、国民が、改憲を提案した政治家、国際政治、外交、安全保障の専門家、改憲派の市民の主張を説得力がないと判断したというだけです。
先ほど強調しましたように、国家は、国民により負託された権限しか行使ができません。軍事権を日本国政府に付与するか否かは、主権者である国民が憲法を通じて決めることです。憲法改正が実現できないということは、それを国民が望んでいないということでしょう。
憲法を無視した政策論は、国民を無視した政策論であるということを自覚しなければならないと思います。
以上、終わります。拍手
この発言だけを見る →今回の安保法制、特に集団的自衛権の行使容認部分と憲法との関係について、意見を述べさせていただきます。
まず、結論から申しますと、日本国憲法のもとでは、日本への武力攻撃の着手がない段階での武力行使は違憲です。ですから、日本への武力攻撃の着手に至る前の武力行使は、たとえ国際法上、集団的自衛権の行使として正当化されるとしても、日本国憲法に違反します。
政府が提案した存立危機事態条項が、仮に日本への武力攻撃の着手に至る前の武力行使を根拠づけるものだとすれば、明白に違憲です。
さらに、今までのところ、政府が我が国の存立という言葉の明確な定義を示さないため、存立危機事態条項の内容は余りにも漠然、不明確なものになっています。したがって、存立危機事態条項は、憲法九条違反である以前に、そもそも、漠然、不明確ゆえに違憲の評価を受けるものと思われます。
また、維新の党より提案された武力攻撃危機事態条項も、仮に日本への武力攻撃の着手がない段階での武力行使を根拠づけるものだとすれば、憲法に違反します。逆に、武力攻撃危機事態とは、外国軍隊への攻撃が同時に日本への武力攻撃の着手になる事態を意味すると解釈するのであれば、武力攻撃事態条項は合憲だと考えられます。
以下、詳述いたします。
まず、日本国憲法が、日本政府の武力行使をどう制限しているのかを説明いたします。
憲法九条は、武力行使のための軍事組織、戦力の保有を禁じていますが、外国への武力行使は原則として違憲であると解釈されています。もっとも、例外を許容する明文の規定があれば、武力行使を合憲と解釈することは可能ですから、九条の例外を認める根拠が存在するのかどうかを検討する必要があります。
従来の政府及び有力な憲法学説は、憲法十三条が自衛のための必要最小限度の武力行使の根拠となると考えてきました。憲法十三条は、生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利は、国政の上で、最大の尊重を必要とすると定めており、政府に国内の安全を確保する義務を課しています。個別的自衛権の行使は、その義務を果たすためのもので、憲法九条の例外として許容されるという解釈も可能でしょう。
他方、外国を防衛する義務を政府に課す規定は日本国憲法には存在しませんから、九条の例外を認めるわけにはいかず、集団的自衛権を行使することは憲法上許されないと結論されます。
また、自衛のための必要最小限度を超える武力行使は、憲法九条とは別に、政府の越権行為としても違憲の評価を受けます。
そもそも、国民主権の憲法のもとでは、政府は、憲法を通じて国民から負託された権限しか行使ができません。そして、日本国憲法には、政府に行政権と外交権を与える規定はあるものの、軍事権を与えた規定が存在しません。憲法学説は、このことを軍事権のカテゴリカルな消去と表現します。憲法が政府に軍事権を与えていない以上、日本政府が軍事権を行使すれば、越権行為であり、違憲です。
では、政府と自衛隊は、どのような活動ができるのでしょうか。
まず、行政権とは、自国の主権を用いた国内統治作用のうち、立法、司法を控除したものと定義されます。自衛のための必要最小限度の武力行使は、自国の主権を維持管理する行為なので、防衛行政として行政権に含まれるとの解釈も十分にあり得ます。
また、外交とは、相互の主権を尊重して外国と関係を取り結ぶ作用をいいます。武力行使に至らない範囲での国連PKOへの協力は、外交協力の範囲として政府の権限に含まれると理解することも可能でしょう。
これに対し、他国防衛のための武力行使は、日本の主権維持作用ではありませんから、防衛行政の一部とは説明ができず、また、相手国を実力で制圧する作用であり、外交協力とも言えません。
したがいまして、集団的自衛権の行使として正当化される他国防衛のための武力行使は、軍事権の行使だと言わざるを得ず、越権行為としても憲法違反の評価を受けます。
では、自衛のための必要最小限度の武力行使とは、どのような範囲の武力行使をいうのでしょうか。
法的に見た場合、日本の防衛のための武力行使には、自衛目的の先制攻撃と個別的自衛権の行使の二種類があります。
前者の自衛目的の先制攻撃は、日本への攻撃の具体的な危険、すなわち着手がない段階で、将来武力攻撃が生じる可能性を除去するために行われる武力行使をいいます。
他方、後者の個別的自衛権の行使は、日本への武力攻撃の具体的な危険を除去するために国際法上の個別的自衛権で認められた武力行使をいいます。武力攻撃の具体的な危険を認定するには、攻撃国の武力攻撃への着手が必要であり、着手のない段階での攻撃は、必要最小限度の自衛の措置には含まれないはずです。
先ほど見た憲法十三条は、国民の生命、自由、幸福追求の権利を保護していますが、それらの権利が侵害される具体的な危険がない段階、すなわち抽象的な危険しかない段階で、それを除去してもらう安心感を保障しているわけではありません。したがって、自衛目的の先制攻撃を憲法九条の例外として認めることはできません。
自衛のための必要最小限度の武力行使と認められるのは、あくまで個別的自衛権の行使に限られるでしょう。
これに対し、集団的自衛権が行使できる状況では、既に外国に武力攻撃があり、国際法上は他国防衛のための措置であり、先制攻撃ではないとの反論も想定されます。
しかし、国際法上の適法、違法と日本国憲法上の合憲、違憲の判断は、独立に検討されるべきものです。
外国への武力攻撃があったとしても、それが日本への武力攻撃と評価できないのであれば、仮に国際法上は集団的自衛権で正当化できるとしても、それは他国防衛として正当化できるにとどまり、憲法上の自衛の措置としては、違憲な先制攻撃と評価されます。
また、政府は、最高裁砂川事件判決で、集団的自衛権の行使は合憲だと認められたかのような説明をすることもあります。しかし、この判決は、日本の自衛の措置として米軍駐留を認めることの合憲性を判断したものにすぎません。さらに、この判決は、自衛隊を編成して個別的自衛権を行使することの合憲性すら判断を留保しており、どう考えても集団的自衛権の合憲性を認めたものとは言えません。
以上より、日本国憲法のもとで許容されるのは、日本への武力攻撃の着手があった段階でなされる自衛のための必要最小限度の武力行使に限られます。このため、集団的自衛権の行使は憲法違反になるとされてきたのです。
ただし、日本と外国が同時に武力攻撃を受けている場合の反撃は、国際法的には、集団的自衛権でも個別的自衛権でも正当化できるでしょう。このため、同時攻撃の場合に武力行使をすることは憲法違反にはならないものと解釈できます。
では、今回の法案の存立危機事態条項について、どう評価すべきでしょうか。
皆さんも御存じのとおり、存立危機事態という概念は、今回初めて登場した概念ではありません。昭和四十七年の政府見解は、我が国の存立を全うするために必要な自衛の措置をとることは禁じていないとしており、存立危機事態での自衛の措置をとることを認めています。
昨年七月一日の閣議決定も、外国への武力攻撃によって存立危機事態が生じたときには、昭和四十七年の政府見解とは矛盾せずに武力行使ができるという趣旨の議論を展開しています。形式論としてはそのとおりと言える面もあります。
ただし、昭和四十七年見解は、存立危機事態を認定し、「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」と明言しています。つまり、我が国の存立が脅かされる事態だと認定できるのは、武力攻撃事態に限られると述べているのです。
そもそも、近代国家は主権国家ですから、法学的には、我が国の存立が維持されているかどうかは、日本の主権が維持できているかどうかを基準に判断されるはずです。
国家間の関係のうち、外交は相互の主権を尊重する作用、軍事は相手国の主権を制圧する活動ですから、国家の存立が脅かされる事態とは、軍事権が行使された状態、武力攻撃を受ける事態と定義せざるを得ないのです。そうすると、昭和四十七年見解と矛盾しない形で存立危機事態を認定できるのは、日本自身も武力攻撃を受けている場合に限られるでしょう。
しかし、現在の政府答弁は、我が国の存立という概念について、ほとんど明確な定義を与えていません。また、存立危機事態は日本への武力攻撃がない事態だけでは認定ができないという、従来の説明を避け、石油の値段が上がったり、日米同盟が揺らいだりする場合には、日本が武力攻撃を受けていなくても存立危機事態を認定できるかのように答弁することもあります。
我が国の存立という言葉を従来の政府見解から離れて解釈するのであれば、存立危機事態条項は、日本への武力攻撃の着手のない段階での武力行使を根拠づけるもので、明白に憲法違反です。
以上の見解は、著名な憲法学者はもちろん、歴代内閣法制局長官ら、憲法解釈の専門的知識を持った法律家の大半が一致する見解であり、裁判所が同様の見解をとる可能性も高いと言えます。
したがって、これまでの議論を前提にすると、存立危機事態条項の制定は、看過しがたい訴訟リスクを発生させます。この条項が日本の安全保障に必要不可欠であるのであれば、そのような法的安定性が著しく欠ける形で制定すべきではなく、憲法改正の手続は必須と思われます。
また、そもそも、現在の政府答弁では、我が国の存立という言葉が余りにも曖昧模糊としております。明確な解釈指針を伴わない法文は、いかなる場合に武力行使を行えるかの基準を曖昧にするもので、憲法九条違反である以前に、そもそも、曖昧、不明確ゆえに違憲だと評価すべきでしょう。
さらに、内容が不明確だということは、そもそも、今回の法案で、可能な武力行使の範囲に過不足がないかを政策的に判定することができないということを意味します。
どんな場合に武力行使をするのかの基準が曖昧、不明確なままでは、国民は法案の適否を判断しようがありません。仮に法律が成立したとしても、国会が武力行使が法律にのっとってなされているか判断する基準を持たないことになります。これでは、政府の武力行使の判断を白紙で一任するようなもので、法の支配そのものの危機だと言えます。
さて、日本への武力攻撃の着手がない段階で武力行使を認めることが憲法違反になるとの法理は、維新の党より提案のありました、いわゆる武力攻撃危機事態条項にもそのまま当てはまります。もし、維新の党のが、日本への武力攻撃の着手のない段階での武力行使を認める条項であるとの解釈を前提にしたものであるなら、憲法違反のそしりを免れないと思われます。
したがって、武力攻撃危機事態条項について、これまで認めてこなかった個別的自衛権の拡張である、ないし集団的自衛権の行使容認であるといった説明を行うことは不適切と思われます。
ただし、維新案における武力攻撃危機事態条項は、他国への攻撃が同時に日本への武力攻撃の着手になる場合に武力行使を認めたものと解釈することもでき、また、そう解釈する限りで合憲と言えます。
もっとも、外国への攻撃が同時に日本への武力攻撃の着手になる事態であれば、現行法でも武力攻撃事態と認定ができるはずであり、個別的自衛権を行使することは可能です。この点は、一九七五年十月二十九日の衆議院予算委員会における宮沢喜一外務大臣答弁以降、何度か確認をされていることであります。
したがって、維新の党の皆様より御提案のあった武力攻撃危機事態条項は、武力攻撃事態条項の内容の一部を確認する条項だということになるでしょう。このような従来の法理を確認する条項は、法内容を明確にするという点では意義があります。これまでにも、従来の政府解釈や最高裁の判例法理を明確に確認するために立法が行われた例は多くあります。
逆に、維新案の内容を拒否した場合には、政府案が日本への武力攻撃の着手がない段階での武力行使を行う内容であることが明確になります。対案の提示は、政府の考え方を明確にする一助になるという点でも意義があるものと思われます。
以上述べたように、集団的自衛権の行使は憲法違反となります。もちろん、集団的自衛権の行使が憲法違反であるということは、集団的自衛権の行使容認が政策的に不要であるということまでを意味するものではありません。
集団的自衛権の行使容認が政策的に必要であるのなら、憲法改正の手続を踏み、国民の支持を得ればよいだけです。仮に改憲手続が成立しないのであれば、国民が、改憲を提案した政治家、国際政治、外交、安全保障の専門家、改憲派の市民の主張を説得力がないと判断したというだけです。
先ほど強調しましたように、国家は、国民により負託された権限しか行使ができません。軍事権を日本国政府に付与するか否かは、主権者である国民が憲法を通じて決めることです。憲法改正が実現できないということは、それを国民が望んでいないということでしょう。
憲法を無視した政策論は、国民を無視した政策論であるということを自覚しなければならないと思います。
以上、終わります。拍手
浜
村
村田晃嗣#8
○村田公述人 貴重な発言の機会を頂戴いたしましたことに感謝申し上げます。
私は、法律学者ではございませんで、国際政治学者でございますので、国際政治学者としての個人の見解を申し述べたいと思います。
まず、今般、政府がこのような安全保障に関する法案を御提出になっている背景として、国際情勢の急速な変化というものがあるだろうと思います。それは、グローバルにも、そして日本を取り巻くこの東アジア太平洋地域、リージョナルな面でも起こっていることだろうというふうに思います。
中国が経済的に急速に力をつけ、この分でいけば、恐らく二〇二四、五年には、たとえ一時的にせよ、GDPの規模でアメリカを抜くのではないかとすら見られておりますけれども、そうした大きな経済力を軍事力やさらには外交的な影響力に転化もしようとしている。
そうした中で、アメリカの圧倒的な優位が完全に崩れたわけではありませんけれども、旧来に比べればアメリカの影響力というものが後退しつつあり、そして我が国は経済的に相対的に地位を下げ、そして少子高齢化に直面をしている、こうした主要国の力の変化。
さらには、安全保障のボーダーレス化の進行というものがあると思います。とりわけ、サイバー空間や海、空、宇宙といったグローバルコモンズでの安全保障環境のボーダーレス化というのが一層進んでいるということだと思います。
こうした中で、日本とアメリカは、この二つの市民社会が共有する価値観の幅が最も広いということ、そして、どのような国際環境が自国にとって望ましいかという国際環境についての認識、目標についても、全く同じではないけれども、共有の度合いが非常に高い国である。そうした中で日米同盟の強化に当たるということは、極めて理にかなったことではないかというふうに思います。
最近、日本と中国あるいは日本と韓国との関係でも改善の兆しが見えてきておりますけれども、この背景にもやはり日米同盟の強化というものが効果を及ぼしていると考えるべきではなかろうかと思います。
これまでの安全保障をめぐる法案での議論では、法律の議論についていろいろと議論が闘わされておりますけれども、そもそも、政治がこの非常に流動的で大きく変わりつつある国際情勢についてどう認識しているのかという、国際情勢についての大きな議論がやや不足をしているのではないか、その点について、与野党がしっかりと国際情勢認識について御議論をいただくということが大切な前提ではなかろうかというふうに思います。
もちろん、憲法の精神を守らなければならないことは言うまでもないわけであります。我が国が国際社会の責任ある一員であり続けるということ、そして軍事力は国力の重要なコンポーネントの一つでありますけれども、我が国は、もしその必要があるときにも、軍事力の行使については極めて抑制的にそれを行使するという、その大原則といいますか、方針にかなったものでなければならないことは言うまでもありません。
憲法学者の中には今回の法案について憲法違反であるというお考えの方が多いというふうに承っております。
冒頭申し上げましたように、私は、法律学者ではございませんで、国際政治学者でございますので、憲法学者の御専門の知見には十分敬意を表しながら、あえて申し上げますけれども、今般の法案は、もちろん憲法上の問題を含んでおりますけれども、同時に安全保障上の問題でございます。もし、今回の法案についての意見を憲法の専門家の方々の学界だけではなくて安全保障の専門家から成る学界で同じような意見を問われれば、多くの安全保障専門家は、今回の法案にかなり肯定的な回答をするのではなかろうか。学者は憲法学者だけではないということでございます。
さらに、今回の法案の中に含まれている存立危機事態でありますとかあるいは重要影響事態というのは、確かに、概念としてなかなか理解しにくい、そして曖昧な部分を含んでいることは否めないであろうと思います。ただ、これらの事態のかなりの部分は、幸いにして、いまだまだ起こっていない事態についての想定であるということです。
したがいまして、仮想の事態の想定について、全てを一〇〇%明確に定義し、曖昧性を払拭しなければ法律として成り立たないということは、非常にこれは難しいのではないかと思います。
今回の法案は、既にあるさまざまな安全保障上の法律の間隙を詰めていって、そしてそれをシェープアップしようとするものでありますけれども、例えば、既存の周辺事態法における周辺事態という概念にもやはりある種の曖昧性が伴っていることは、これは否定できないわけであります。
それは、日本の法律の概念が曖昧であるというよりも、そもそも、国際情勢そのものが流動的で、不明確で、曖昧模糊としている部分をかなりの程度含んでいるからであります。そして、その国際情勢の変化の速度が科学技術の向上と相まって一層大きく速くなっているということであります。そうした中で、国際情勢を曖昧、不明確であるとして国際情勢を憲法違反であると断定したところで、国際情勢そのものは変わらないわけであります。
それから、侵略と防衛についても、二点だけ御指摘申し上げたいと思いますけれども、侵略について明確なコンセンサス、定義があるわけではありません。しかしながら、一方で、例えばさきの大戦で我が国がアジアにおいて行った多くの行為がかなりの部分において侵略と言われても仕方がない側面を持っていることは、否定をできないのであろうと思います。
明確に定義できないということと何が侵略であるかが個別に判断できないということは、別だと思います。ですから、さきの大戦で我が国がアジアにおいて行った行為のかなりの部分についてまでその侵略性を否定するというような議論が流布すれば、戦後日本が自衛隊という実力組織をもって自衛に徹してきたという戦後の正当性が損なわれるであろう。ですから、明確に一〇〇%定義できないからといって、個別の事柄について侵略かどうかが判断できないわけではないというふうに思います。
他方で、先ほど来申し上げているような国際情勢の流動化や、あるいは科学技術の進歩に伴って、全ての事柄について明確に防衛と侵略の一線を必ず引けるかというと、それは非常に難しくなっているのが現実だと思います。そういう二つの極端な議論を排したところで安全保障は考えていかなければならないだろうと思います。
中には、今回のような法案が通れば、自衛隊が地球の裏側まで行って戦争するというような議論もあるようでありますけれども、そもそも自衛隊にはそのような能力が多分に欠けているだろうというふうに思います。また、自衛隊がそのような行為をとるときには、政府の政策判断というものがあるわけですし、さらには国会での御議論や承認というものがあるわけであります。
秘密保護法等の関係で国会で十分な判断ができないという御意見もあるようでありますけれども、もしそうであれば、国権の最高機関である国会がそれを乗り越える措置をとられればいいことであろうというふうに思います。
さらに、仮に、今政府が御提案になっている法案が国会で認められて、成立をしたとしても、これで終わりではなくて、むしろこれは始まりであろうということであります。法律ができた後も、その運用をめぐって、さまざまな形で、国会だけではなくて、民間で不断のオープンな議論を続けていく必要があるだろうと思います。
今オープンと申しましたけれども、一つには、この法案に対してもちろん否定的な御意見の専門家の方々や一般の方々もたくさんいらっしゃると承知しておりますけれども、しかし、だからといって、この法案を戦争法案だというような表現で議論をするところからは安全保障についての理解の深まりというものは得られないだろうというふうに思います。
他方で、しかし、自分と見解が異なる人たちを売国的であるというようなレッテルを張って批判するという議論からも深まりは生まれないのであって、こういう二つの議論は、共通の土壌、つまり不寛容の精神から生じている。そういう不寛容の精神を我々は乗り越えていかなければならないだろうと思います。
また、もう一つ申し上げたいことは、今回の法案につきまして、地方の議会などからも御懸念の声が上がっているやに報道で承っておりますけれども、安全保障や外交の問題は東京だけの問題ではございません。日本全体で、深く、そして常に議論されなければならない問題でございます。
そういう意味では、安全保障の問題を地方でもしっかりと議論できるような環境を整備していかなければならない。外交、安全保障は首都だけの問題ではないわけでございます。きょうの公述人でも、首都圏以外から出てきているのは私だけでございますけれども、地方でも安全保障の問題を正面から深く議論できるような工夫というものをぜひ考えていかなければならないだろうというふうに存じます。
最後に、四月から五月にかけて安倍総理が訪米をされましたけれども、その際に、アメリカの連邦議会で総理が演説されたときに、日米同盟を希望の同盟というふうに呼ばれました。私はこれは大変魅力的な表現だというふうに思いますけれども、日米同盟が希望の同盟であるというのはどういうことなのかということであります。
もっと言うならば、希望とは何かということでございますけれども、希望は単なる欲望ではありません。欲望は個人の利益の追求でありますけれども、希望は欲望ではありません。希望には公共性というものがなければなりません。そして、希望は単なる願望ではありません。願望は現実可能性を無視してもよろしいですけれども、希望には実現可能性が伴っていかなければなりません。そして、希望は単なる待望ではありません。待望は待っていればよろしいのですけれども、希望には主体性、能動性というものが求められます。
そういう意味で、日米同盟が今後、二十一世紀を支える国際公共財として、希望の同盟として機能するためには、そうした公共性と実現可能性、そして当事者意識、主体性というものが必要であろうと思います。
さらに、仮に今回の法案が成立をしたとしても、例えば、日米の同盟関係では沖縄という非常に大きな難しい問題を抱えているわけであって、ここでやはり前進が見られなければ日米同盟の強化というのは図れないわけでございますから、この法案の国会での議論だけで完結するのではなくて、引き続きさまざまな観点から、安全保障について、その公共性と実現可能性と主体性について議論できる場を持っていくということが非常に大切であろうというふうに思います。
以上でございます。拍手
この発言だけを見る →私は、法律学者ではございませんで、国際政治学者でございますので、国際政治学者としての個人の見解を申し述べたいと思います。
まず、今般、政府がこのような安全保障に関する法案を御提出になっている背景として、国際情勢の急速な変化というものがあるだろうと思います。それは、グローバルにも、そして日本を取り巻くこの東アジア太平洋地域、リージョナルな面でも起こっていることだろうというふうに思います。
中国が経済的に急速に力をつけ、この分でいけば、恐らく二〇二四、五年には、たとえ一時的にせよ、GDPの規模でアメリカを抜くのではないかとすら見られておりますけれども、そうした大きな経済力を軍事力やさらには外交的な影響力に転化もしようとしている。
そうした中で、アメリカの圧倒的な優位が完全に崩れたわけではありませんけれども、旧来に比べればアメリカの影響力というものが後退しつつあり、そして我が国は経済的に相対的に地位を下げ、そして少子高齢化に直面をしている、こうした主要国の力の変化。
さらには、安全保障のボーダーレス化の進行というものがあると思います。とりわけ、サイバー空間や海、空、宇宙といったグローバルコモンズでの安全保障環境のボーダーレス化というのが一層進んでいるということだと思います。
こうした中で、日本とアメリカは、この二つの市民社会が共有する価値観の幅が最も広いということ、そして、どのような国際環境が自国にとって望ましいかという国際環境についての認識、目標についても、全く同じではないけれども、共有の度合いが非常に高い国である。そうした中で日米同盟の強化に当たるということは、極めて理にかなったことではないかというふうに思います。
最近、日本と中国あるいは日本と韓国との関係でも改善の兆しが見えてきておりますけれども、この背景にもやはり日米同盟の強化というものが効果を及ぼしていると考えるべきではなかろうかと思います。
これまでの安全保障をめぐる法案での議論では、法律の議論についていろいろと議論が闘わされておりますけれども、そもそも、政治がこの非常に流動的で大きく変わりつつある国際情勢についてどう認識しているのかという、国際情勢についての大きな議論がやや不足をしているのではないか、その点について、与野党がしっかりと国際情勢認識について御議論をいただくということが大切な前提ではなかろうかというふうに思います。
もちろん、憲法の精神を守らなければならないことは言うまでもないわけであります。我が国が国際社会の責任ある一員であり続けるということ、そして軍事力は国力の重要なコンポーネントの一つでありますけれども、我が国は、もしその必要があるときにも、軍事力の行使については極めて抑制的にそれを行使するという、その大原則といいますか、方針にかなったものでなければならないことは言うまでもありません。
憲法学者の中には今回の法案について憲法違反であるというお考えの方が多いというふうに承っております。
冒頭申し上げましたように、私は、法律学者ではございませんで、国際政治学者でございますので、憲法学者の御専門の知見には十分敬意を表しながら、あえて申し上げますけれども、今般の法案は、もちろん憲法上の問題を含んでおりますけれども、同時に安全保障上の問題でございます。もし、今回の法案についての意見を憲法の専門家の方々の学界だけではなくて安全保障の専門家から成る学界で同じような意見を問われれば、多くの安全保障専門家は、今回の法案にかなり肯定的な回答をするのではなかろうか。学者は憲法学者だけではないということでございます。
さらに、今回の法案の中に含まれている存立危機事態でありますとかあるいは重要影響事態というのは、確かに、概念としてなかなか理解しにくい、そして曖昧な部分を含んでいることは否めないであろうと思います。ただ、これらの事態のかなりの部分は、幸いにして、いまだまだ起こっていない事態についての想定であるということです。
したがいまして、仮想の事態の想定について、全てを一〇〇%明確に定義し、曖昧性を払拭しなければ法律として成り立たないということは、非常にこれは難しいのではないかと思います。
今回の法案は、既にあるさまざまな安全保障上の法律の間隙を詰めていって、そしてそれをシェープアップしようとするものでありますけれども、例えば、既存の周辺事態法における周辺事態という概念にもやはりある種の曖昧性が伴っていることは、これは否定できないわけであります。
それは、日本の法律の概念が曖昧であるというよりも、そもそも、国際情勢そのものが流動的で、不明確で、曖昧模糊としている部分をかなりの程度含んでいるからであります。そして、その国際情勢の変化の速度が科学技術の向上と相まって一層大きく速くなっているということであります。そうした中で、国際情勢を曖昧、不明確であるとして国際情勢を憲法違反であると断定したところで、国際情勢そのものは変わらないわけであります。
それから、侵略と防衛についても、二点だけ御指摘申し上げたいと思いますけれども、侵略について明確なコンセンサス、定義があるわけではありません。しかしながら、一方で、例えばさきの大戦で我が国がアジアにおいて行った多くの行為がかなりの部分において侵略と言われても仕方がない側面を持っていることは、否定をできないのであろうと思います。
明確に定義できないということと何が侵略であるかが個別に判断できないということは、別だと思います。ですから、さきの大戦で我が国がアジアにおいて行った行為のかなりの部分についてまでその侵略性を否定するというような議論が流布すれば、戦後日本が自衛隊という実力組織をもって自衛に徹してきたという戦後の正当性が損なわれるであろう。ですから、明確に一〇〇%定義できないからといって、個別の事柄について侵略かどうかが判断できないわけではないというふうに思います。
他方で、先ほど来申し上げているような国際情勢の流動化や、あるいは科学技術の進歩に伴って、全ての事柄について明確に防衛と侵略の一線を必ず引けるかというと、それは非常に難しくなっているのが現実だと思います。そういう二つの極端な議論を排したところで安全保障は考えていかなければならないだろうと思います。
中には、今回のような法案が通れば、自衛隊が地球の裏側まで行って戦争するというような議論もあるようでありますけれども、そもそも自衛隊にはそのような能力が多分に欠けているだろうというふうに思います。また、自衛隊がそのような行為をとるときには、政府の政策判断というものがあるわけですし、さらには国会での御議論や承認というものがあるわけであります。
秘密保護法等の関係で国会で十分な判断ができないという御意見もあるようでありますけれども、もしそうであれば、国権の最高機関である国会がそれを乗り越える措置をとられればいいことであろうというふうに思います。
さらに、仮に、今政府が御提案になっている法案が国会で認められて、成立をしたとしても、これで終わりではなくて、むしろこれは始まりであろうということであります。法律ができた後も、その運用をめぐって、さまざまな形で、国会だけではなくて、民間で不断のオープンな議論を続けていく必要があるだろうと思います。
今オープンと申しましたけれども、一つには、この法案に対してもちろん否定的な御意見の専門家の方々や一般の方々もたくさんいらっしゃると承知しておりますけれども、しかし、だからといって、この法案を戦争法案だというような表現で議論をするところからは安全保障についての理解の深まりというものは得られないだろうというふうに思います。
他方で、しかし、自分と見解が異なる人たちを売国的であるというようなレッテルを張って批判するという議論からも深まりは生まれないのであって、こういう二つの議論は、共通の土壌、つまり不寛容の精神から生じている。そういう不寛容の精神を我々は乗り越えていかなければならないだろうと思います。
また、もう一つ申し上げたいことは、今回の法案につきまして、地方の議会などからも御懸念の声が上がっているやに報道で承っておりますけれども、安全保障や外交の問題は東京だけの問題ではございません。日本全体で、深く、そして常に議論されなければならない問題でございます。
そういう意味では、安全保障の問題を地方でもしっかりと議論できるような環境を整備していかなければならない。外交、安全保障は首都だけの問題ではないわけでございます。きょうの公述人でも、首都圏以外から出てきているのは私だけでございますけれども、地方でも安全保障の問題を正面から深く議論できるような工夫というものをぜひ考えていかなければならないだろうというふうに存じます。
最後に、四月から五月にかけて安倍総理が訪米をされましたけれども、その際に、アメリカの連邦議会で総理が演説されたときに、日米同盟を希望の同盟というふうに呼ばれました。私はこれは大変魅力的な表現だというふうに思いますけれども、日米同盟が希望の同盟であるというのはどういうことなのかということであります。
もっと言うならば、希望とは何かということでございますけれども、希望は単なる欲望ではありません。欲望は個人の利益の追求でありますけれども、希望は欲望ではありません。希望には公共性というものがなければなりません。そして、希望は単なる願望ではありません。願望は現実可能性を無視してもよろしいですけれども、希望には実現可能性が伴っていかなければなりません。そして、希望は単なる待望ではありません。待望は待っていればよろしいのですけれども、希望には主体性、能動性というものが求められます。
そういう意味で、日米同盟が今後、二十一世紀を支える国際公共財として、希望の同盟として機能するためには、そうした公共性と実現可能性、そして当事者意識、主体性というものが必要であろうと思います。
さらに、仮に今回の法案が成立をしたとしても、例えば、日米の同盟関係では沖縄という非常に大きな難しい問題を抱えているわけであって、ここでやはり前進が見られなければ日米同盟の強化というのは図れないわけでございますから、この法案の国会での議論だけで完結するのではなくて、引き続きさまざまな観点から、安全保障について、その公共性と実現可能性と主体性について議論できる場を持っていくということが非常に大切であろうというふうに思います。
以上でございます。拍手
浜
山
山口二郎#10
○山口公述人 法政大学の山口です。
きょうは、このような機会をいただきまして、大変感謝しております。
私は、政治学の観点から、戦後日本の安全保障政策の展開について、まずおさらいをしておきたいと思います。
ことしは戦後七十年の年でありまして、日本の来し方行く末を考える重要な機会であります。したがって、安全保障法制をこの戦後日本の歩みの中に位置づけ、意味を考えてみたいと思います。
戦後日本の国の形が大きく変化した契機は、一九六〇年のいわゆる安保騒動でありました。
当時の岸信介首相は、憲法、特に九条を改正して、国軍を持つことを宿願としておりました。そのための第一歩として、安保条約の改定を図りました。これに対して、空前の規模の抗議活動が起こり、数十万の市民が国会や首相官邸を取り巻きました。当時の人々が新安保条約を理解していたかどうかはともかく、人々は、岸首相が体現する戦前回帰、戦後民主主義の否定という価値観に反発して、未曽有の運動を起こしました。安保条約自体は衆議院の可決により承認されましたが、岸首相は退陣を余儀なくされました。
自民党は、この騒動から重要な教訓を学び取りました。憲法と戦後民主主義に対する国民の愛着は強いものであり、それを争点化することには大きなリスクが伴うという教訓であります。
岸首相の後を襲った池田勇人首相は、憲法改正を事実上棚上げし、経済成長によって国民を統合する道を選択しました。この路線は、以後の自民党政権にも継承されました。
安全保障政策においても、憲法九条を前提とし、これと自衛隊や日米安保条約を整合的に関係づける論理が構築されました。それが専守防衛という日本的平和国家路線でありました。憲法九条のもとで、日本は自国を守るためだけに必要最小限の自衛力を持つという原理が確立したわけであります。海外派兵はしない、集団的自衛権を行使しないという原則は、そこから必然的に導き出されるものであります。
一九六〇年代以降の自民党政権は、この原理を定着させ、軍事力の行使について謙抑的な姿勢を貫きました。まさに、戦後レジームはほかならぬ自民党がつくり出した体制であり、そのもとで日本は平和と繁栄を享受したわけであります。
今回の安全保障法制に関連して、日本が他国の戦争に巻き込まれるおそれがあるという議論があります。戦後日本が他国の戦争に巻き込まれずに済んだのはなぜでしょうか。それは、緊密な日米同盟のおかげではなく、日米安保条約のもと、日本が憲法九条により集団的自衛権の行使を禁止していたからでありました。
この点は、一九六〇年代末のベトナム戦争への対応をめぐる日本と韓国の違いを見れば明らかであります。
韓国は、米韓相互防衛条約のもと、アメリカにベトナムへの出兵を求められ、韓国軍はベトナムで殺し、殺されるという悲惨な経験をしました。
集団的自衛権の行使を否定していた日本は、ベトナムへの派兵など全く考慮する必要もなかったわけであります。一九六〇年の安保闘争で、市民が岸政権を退陣に追い込み、憲法九条の改正を阻止したことで、日本は戦争に巻き込まれずに済んだのであります。
このように、二十世紀後半に非常に大きな効果を発揮した日本的平和路線が二十一世紀にも有効かどうか、今問われております。
確かに、この二十年間の国際環境の変化は大きいものがあります。中国の経済発展と軍事力の拡大、北朝鮮の核開発など、日本に隣接する地域での不安定性は増加しています。日本は、みずからの安全を確保するために、集団的自衛権の行使に転換する必要があるのでしょうか。私は違うと考えます。
日本の領域を守ることは、基本的には個別的自衛権によって対処すべき課題であります。安倍首相御自身が、国民の理解を得るためと称して七月六日に行ったインターネット番組で使われた表現を検討することによって、この点を考えてみたいと思います。
首相は、次のように述べました。
一般の家庭でも戸締まりをしっかりしていれば泥棒や強盗が入らない。また、その地域や町内会でお互いに協力し合って、隣の家に泥棒が入ったのがわかったらすぐに警察に通報する、そういう助け合いがちゃんとできている町内は犯罪が少ない。これが抑止力なんですね。
この点で、私は、珍しく安倍首相と意見が一致いたします。国を例に例えるなら、戸締まりをしっかりするのが自衛力の整備です。しかし、門の外まで出張っていって悪者退治に加わることは、自宅の安全に資する行為ではないと私は考えます。また、近隣の人々と協力し合うことは、地域の安全にとって極めて重要であります。日本が協力し合う近隣とは、もちろんアメリカを中心とするわけでしょうが、韓国や中国を抜きに町内会は構成できないはずであります。自衛力を整備しつつ、隣家との利害の違いは認識した上で、隣家との共存のために話し合いをすることこそ、自宅の安全を高める道ではないのでしょうか。
安倍首相のインターネットでの演説は、集団的自衛権の行使の理由を説明するものではなく、全く逆に、専守防衛と地域的協力が必要な理由を説明するものでありました。私は、首相御自身に、御自身が何を実現したいのか、冷静に認識していただきたいと思います。
安保法制を推進する政府・与党は、日本が集団的自衛権を行使することによって、日米の同盟関係が一層緊密化し、抑止力が高まると期待しています。しかし、これは希望的観測というものではないでしょうか。
アメリカは、日米安全保障条約第五条が定めるとおり、自国の憲法上の規定及び手続に従って条約上の義務を果たすにとどまります。アメリカが大規模な軍事力の行使を行う際、アメリカの憲法により、議会の承認が必要とされています。
アメリカが中国との武力紛争を望んでいないことは明らかであります。尖閣諸島の問題についても、アメリカは、日本の施政権の保有は支持していますが、領有権にはコミットしておりません。アメリカは常に、日中間の領土紛争は平和的に解決することを求めていることも忘れてはなりません。
米中関係、それ自体が今決してうまくいっているわけではありませんが、両国は、戦争は何としても避けるという前提で、粘り強く対話しようとしています。それに引きかえ、日本が、中国との対話や相互理解はそっちのけで、自国が武力行使をする可能性を拡大すればより安全になると主張しているのは、政治的に稚拙ではないかと思います。
次に、安全保障法制が抱える問題点について考えてみたいと思います。
そもそもこの法案は、専守防衛を逸脱するものであり、憲法違反であると私も考えます。それに加えて、特に憂慮すべき点を指摘したいと思います。
第一は、武力行使が可能となる状況の規定であります。
法案では、存立危機事態、重要影響事態という新しい概念が提示され、それぞれにおいて日本が集団的自衛権を行使できるとされています。
しかし、国会審議においても、二つの事態の意味が明確に定義されることはありませんでした。状況がどの事態に該当するかを判断する際の考慮事項は例示されましたが、実際の判断は政府が総合的に決めるという答弁しかありませんでした。
これでは、存立危機事態も重要影響事態も武力行使を制約する縛りにはなり得ません。政府は、集団的自衛権の行使に当たって、非常に大きな裁量を手にすることになります。日本が他国の戦争に巻き込まれる危険性が高まるという批判は、この点を捉えています。
また、自衛隊による後方支援活動について、それを行える場所と行えない場所の線引きはなくなりました。
従来は、戦闘地域と非戦闘地域という一応の概念的区別が存在しました。この区別は、現場の指揮官が、他国軍隊の武力行使と一体化するおそれについてその都度判断することの困難を踏まえ、余裕を持って一律の判断ができるための配慮として設けられたものでありました。
今回の法制で、現に戦闘が行われていない地域において、自衛隊は他国軍に対して後方支援が行えるとされています。自衛隊が行うと想定されている武器弾薬の提供や燃料の供給は、武力行使と一体の行為であります。この点で、後方支援活動は憲法違反であると私は考えます。
第二は、余りに空想的な希望的観測の上に法制が構築されている点であります。
重要影響事態における後方支援活動について、現に戦闘が始まったら撤収するから危険ではないと説明されていますが、これほど荒唐無稽な空論はありません。現に戦闘が行われていない地域であっても、いつ何どき本格的な戦闘が行われるかわかりません。
古来、戦争において糧道を断つことは戦術の常識でありました。自衛隊が同盟軍に武器、燃料等の補給を行えば、相手方にとって自衛隊は敵軍であります。当然、補給を断つ攻撃をしかけてくることは明らかです。後方支援の本質は兵たんであります。後方支援だから危険ではないなどという言い分は、日本政府が国民に気休めを与えるための机上の空論であります。
後方支援であれ、他国の武力行使に一体化することは、戦争への参加を意味します。このことは、自衛隊員の危険を高めます。また、日本国内に生活する国民の危険をも高めます。アメリカによるイラク戦争に参戦したイギリスとスペインで、大規模なテロが発生し、多くの市民が犠牲になったことを忘れてはなりません。私はもちろん、テロを正当化したいわけではありません。戦争に参加する以上、相手方からのさまざまな攻撃を受ける危険があるという現実を、包み隠さず自衛隊員と国民に告知することが指導者の責務だと言いたいのであります。
さて、今回の安保法制の議論を契機に、日本政治の劣化と民主主義原理の侵食が明らかになっていると私は思います。
まず、安倍首相は野党の質問に対して、自分は総理大臣だから正しいとか、合憲、安全だと確信していると答え、それ以上議論を深めようとしていません。中世のヨーロッパ人は、太陽が地球の周りを回っていると信じていました。確信の強さは、信じている事柄の正しさとは無関係であります。根拠と論理を示して説明することが為政者の義務でありますが、国会の審議は空洞化していると言わざるを得ません。
また、自民党の高村副総裁は、三人の憲法学者が衆議院の憲法審査会で安保法制を違憲と断じたことに反発し、憲法学者は憲法の字面にこだわるとか、学者の言うとおりにして平和が守れるかと述べました。学者の端くれとして、これには断固として反論しておきたいと思います。
そもそも、憲法学者が憲法の文言にこだわるのは当然であります。それは、数学者が一足す一は二であるという数式にこだわるのと同じであります。高村氏の発言は、政治権力は論理をねじ曲げることもあるという含意を持っていると私は解釈いたします。氏は、一足す一が為政者の意向次第で三にも四にもなるような独裁国家をつくりたいのかという疑問を私は抱くわけであります。
ことしは、戦後七十年でありますが、天皇機関説事件から八十年でもあります。権力が学問を弾圧してから敗戦で国が滅びるまでわずか十年であったという事実を今ここで思い起こすべきであります。
私は、学者の言うとおりにすれば国が平和になるなどとおごったことを言うつもりはありません。逆に、政治家の言うとおりにして国が愚かな戦争に突入した経験もあるわけであります。戦後日本を振り返れば、政治家と学者が異なった観点から議論をし、それらの議論が正反合の関係で日本的平和国家の路線をつくり出したという成功体験があることをかみしめるべきではないでしょうか。
先般の自民党文化芸術懇話会における沖縄差別や報道機関統制の発言は、自民党という偉大な政権政党の変質を物語っていると私には思えました。あの会合で気勢を上げた政治家に共通するのは、実証性、客観性を無視して、自分の欲するように世界を解釈するという反知性主義の態度であります。あの事件が発覚した直後、政府・与党の首脳は、同懇話会に参加した政治家にも発言の自由があると擁護しました。したがって、同懇話会の反知性主義は局部的現象ではないと言わざるを得ません。
国の安全を最後に担保するのは、冷静な状況認識と現実感覚を持った政治指導者であります。政治の世界に反知性主義が蔓延する現状において、安保法制が成立をし、日本が集団的自衛権を行使できるようになったら、日本の政府は日本の安全と国益を守るために冷静な判断を下すのだろうかという疑問を持ちます。武力行使の範囲が広がる一方で、政治家の現実主義的な判断能力が低下する。このギャップこそが、日本にとっての存立を脅かす事態だと私は憂慮しております。
以上でございます。拍手
この発言だけを見る →きょうは、このような機会をいただきまして、大変感謝しております。
私は、政治学の観点から、戦後日本の安全保障政策の展開について、まずおさらいをしておきたいと思います。
ことしは戦後七十年の年でありまして、日本の来し方行く末を考える重要な機会であります。したがって、安全保障法制をこの戦後日本の歩みの中に位置づけ、意味を考えてみたいと思います。
戦後日本の国の形が大きく変化した契機は、一九六〇年のいわゆる安保騒動でありました。
当時の岸信介首相は、憲法、特に九条を改正して、国軍を持つことを宿願としておりました。そのための第一歩として、安保条約の改定を図りました。これに対して、空前の規模の抗議活動が起こり、数十万の市民が国会や首相官邸を取り巻きました。当時の人々が新安保条約を理解していたかどうかはともかく、人々は、岸首相が体現する戦前回帰、戦後民主主義の否定という価値観に反発して、未曽有の運動を起こしました。安保条約自体は衆議院の可決により承認されましたが、岸首相は退陣を余儀なくされました。
自民党は、この騒動から重要な教訓を学び取りました。憲法と戦後民主主義に対する国民の愛着は強いものであり、それを争点化することには大きなリスクが伴うという教訓であります。
岸首相の後を襲った池田勇人首相は、憲法改正を事実上棚上げし、経済成長によって国民を統合する道を選択しました。この路線は、以後の自民党政権にも継承されました。
安全保障政策においても、憲法九条を前提とし、これと自衛隊や日米安保条約を整合的に関係づける論理が構築されました。それが専守防衛という日本的平和国家路線でありました。憲法九条のもとで、日本は自国を守るためだけに必要最小限の自衛力を持つという原理が確立したわけであります。海外派兵はしない、集団的自衛権を行使しないという原則は、そこから必然的に導き出されるものであります。
一九六〇年代以降の自民党政権は、この原理を定着させ、軍事力の行使について謙抑的な姿勢を貫きました。まさに、戦後レジームはほかならぬ自民党がつくり出した体制であり、そのもとで日本は平和と繁栄を享受したわけであります。
今回の安全保障法制に関連して、日本が他国の戦争に巻き込まれるおそれがあるという議論があります。戦後日本が他国の戦争に巻き込まれずに済んだのはなぜでしょうか。それは、緊密な日米同盟のおかげではなく、日米安保条約のもと、日本が憲法九条により集団的自衛権の行使を禁止していたからでありました。
この点は、一九六〇年代末のベトナム戦争への対応をめぐる日本と韓国の違いを見れば明らかであります。
韓国は、米韓相互防衛条約のもと、アメリカにベトナムへの出兵を求められ、韓国軍はベトナムで殺し、殺されるという悲惨な経験をしました。
集団的自衛権の行使を否定していた日本は、ベトナムへの派兵など全く考慮する必要もなかったわけであります。一九六〇年の安保闘争で、市民が岸政権を退陣に追い込み、憲法九条の改正を阻止したことで、日本は戦争に巻き込まれずに済んだのであります。
このように、二十世紀後半に非常に大きな効果を発揮した日本的平和路線が二十一世紀にも有効かどうか、今問われております。
確かに、この二十年間の国際環境の変化は大きいものがあります。中国の経済発展と軍事力の拡大、北朝鮮の核開発など、日本に隣接する地域での不安定性は増加しています。日本は、みずからの安全を確保するために、集団的自衛権の行使に転換する必要があるのでしょうか。私は違うと考えます。
日本の領域を守ることは、基本的には個別的自衛権によって対処すべき課題であります。安倍首相御自身が、国民の理解を得るためと称して七月六日に行ったインターネット番組で使われた表現を検討することによって、この点を考えてみたいと思います。
首相は、次のように述べました。
一般の家庭でも戸締まりをしっかりしていれば泥棒や強盗が入らない。また、その地域や町内会でお互いに協力し合って、隣の家に泥棒が入ったのがわかったらすぐに警察に通報する、そういう助け合いがちゃんとできている町内は犯罪が少ない。これが抑止力なんですね。
この点で、私は、珍しく安倍首相と意見が一致いたします。国を例に例えるなら、戸締まりをしっかりするのが自衛力の整備です。しかし、門の外まで出張っていって悪者退治に加わることは、自宅の安全に資する行為ではないと私は考えます。また、近隣の人々と協力し合うことは、地域の安全にとって極めて重要であります。日本が協力し合う近隣とは、もちろんアメリカを中心とするわけでしょうが、韓国や中国を抜きに町内会は構成できないはずであります。自衛力を整備しつつ、隣家との利害の違いは認識した上で、隣家との共存のために話し合いをすることこそ、自宅の安全を高める道ではないのでしょうか。
安倍首相のインターネットでの演説は、集団的自衛権の行使の理由を説明するものではなく、全く逆に、専守防衛と地域的協力が必要な理由を説明するものでありました。私は、首相御自身に、御自身が何を実現したいのか、冷静に認識していただきたいと思います。
安保法制を推進する政府・与党は、日本が集団的自衛権を行使することによって、日米の同盟関係が一層緊密化し、抑止力が高まると期待しています。しかし、これは希望的観測というものではないでしょうか。
アメリカは、日米安全保障条約第五条が定めるとおり、自国の憲法上の規定及び手続に従って条約上の義務を果たすにとどまります。アメリカが大規模な軍事力の行使を行う際、アメリカの憲法により、議会の承認が必要とされています。
アメリカが中国との武力紛争を望んでいないことは明らかであります。尖閣諸島の問題についても、アメリカは、日本の施政権の保有は支持していますが、領有権にはコミットしておりません。アメリカは常に、日中間の領土紛争は平和的に解決することを求めていることも忘れてはなりません。
米中関係、それ自体が今決してうまくいっているわけではありませんが、両国は、戦争は何としても避けるという前提で、粘り強く対話しようとしています。それに引きかえ、日本が、中国との対話や相互理解はそっちのけで、自国が武力行使をする可能性を拡大すればより安全になると主張しているのは、政治的に稚拙ではないかと思います。
次に、安全保障法制が抱える問題点について考えてみたいと思います。
そもそもこの法案は、専守防衛を逸脱するものであり、憲法違反であると私も考えます。それに加えて、特に憂慮すべき点を指摘したいと思います。
第一は、武力行使が可能となる状況の規定であります。
法案では、存立危機事態、重要影響事態という新しい概念が提示され、それぞれにおいて日本が集団的自衛権を行使できるとされています。
しかし、国会審議においても、二つの事態の意味が明確に定義されることはありませんでした。状況がどの事態に該当するかを判断する際の考慮事項は例示されましたが、実際の判断は政府が総合的に決めるという答弁しかありませんでした。
これでは、存立危機事態も重要影響事態も武力行使を制約する縛りにはなり得ません。政府は、集団的自衛権の行使に当たって、非常に大きな裁量を手にすることになります。日本が他国の戦争に巻き込まれる危険性が高まるという批判は、この点を捉えています。
また、自衛隊による後方支援活動について、それを行える場所と行えない場所の線引きはなくなりました。
従来は、戦闘地域と非戦闘地域という一応の概念的区別が存在しました。この区別は、現場の指揮官が、他国軍隊の武力行使と一体化するおそれについてその都度判断することの困難を踏まえ、余裕を持って一律の判断ができるための配慮として設けられたものでありました。
今回の法制で、現に戦闘が行われていない地域において、自衛隊は他国軍に対して後方支援が行えるとされています。自衛隊が行うと想定されている武器弾薬の提供や燃料の供給は、武力行使と一体の行為であります。この点で、後方支援活動は憲法違反であると私は考えます。
第二は、余りに空想的な希望的観測の上に法制が構築されている点であります。
重要影響事態における後方支援活動について、現に戦闘が始まったら撤収するから危険ではないと説明されていますが、これほど荒唐無稽な空論はありません。現に戦闘が行われていない地域であっても、いつ何どき本格的な戦闘が行われるかわかりません。
古来、戦争において糧道を断つことは戦術の常識でありました。自衛隊が同盟軍に武器、燃料等の補給を行えば、相手方にとって自衛隊は敵軍であります。当然、補給を断つ攻撃をしかけてくることは明らかです。後方支援の本質は兵たんであります。後方支援だから危険ではないなどという言い分は、日本政府が国民に気休めを与えるための机上の空論であります。
後方支援であれ、他国の武力行使に一体化することは、戦争への参加を意味します。このことは、自衛隊員の危険を高めます。また、日本国内に生活する国民の危険をも高めます。アメリカによるイラク戦争に参戦したイギリスとスペインで、大規模なテロが発生し、多くの市民が犠牲になったことを忘れてはなりません。私はもちろん、テロを正当化したいわけではありません。戦争に参加する以上、相手方からのさまざまな攻撃を受ける危険があるという現実を、包み隠さず自衛隊員と国民に告知することが指導者の責務だと言いたいのであります。
さて、今回の安保法制の議論を契機に、日本政治の劣化と民主主義原理の侵食が明らかになっていると私は思います。
まず、安倍首相は野党の質問に対して、自分は総理大臣だから正しいとか、合憲、安全だと確信していると答え、それ以上議論を深めようとしていません。中世のヨーロッパ人は、太陽が地球の周りを回っていると信じていました。確信の強さは、信じている事柄の正しさとは無関係であります。根拠と論理を示して説明することが為政者の義務でありますが、国会の審議は空洞化していると言わざるを得ません。
また、自民党の高村副総裁は、三人の憲法学者が衆議院の憲法審査会で安保法制を違憲と断じたことに反発し、憲法学者は憲法の字面にこだわるとか、学者の言うとおりにして平和が守れるかと述べました。学者の端くれとして、これには断固として反論しておきたいと思います。
そもそも、憲法学者が憲法の文言にこだわるのは当然であります。それは、数学者が一足す一は二であるという数式にこだわるのと同じであります。高村氏の発言は、政治権力は論理をねじ曲げることもあるという含意を持っていると私は解釈いたします。氏は、一足す一が為政者の意向次第で三にも四にもなるような独裁国家をつくりたいのかという疑問を私は抱くわけであります。
ことしは、戦後七十年でありますが、天皇機関説事件から八十年でもあります。権力が学問を弾圧してから敗戦で国が滅びるまでわずか十年であったという事実を今ここで思い起こすべきであります。
私は、学者の言うとおりにすれば国が平和になるなどとおごったことを言うつもりはありません。逆に、政治家の言うとおりにして国が愚かな戦争に突入した経験もあるわけであります。戦後日本を振り返れば、政治家と学者が異なった観点から議論をし、それらの議論が正反合の関係で日本的平和国家の路線をつくり出したという成功体験があることをかみしめるべきではないでしょうか。
先般の自民党文化芸術懇話会における沖縄差別や報道機関統制の発言は、自民党という偉大な政権政党の変質を物語っていると私には思えました。あの会合で気勢を上げた政治家に共通するのは、実証性、客観性を無視して、自分の欲するように世界を解釈するという反知性主義の態度であります。あの事件が発覚した直後、政府・与党の首脳は、同懇話会に参加した政治家にも発言の自由があると擁護しました。したがって、同懇話会の反知性主義は局部的現象ではないと言わざるを得ません。
国の安全を最後に担保するのは、冷静な状況認識と現実感覚を持った政治指導者であります。政治の世界に反知性主義が蔓延する現状において、安保法制が成立をし、日本が集団的自衛権を行使できるようになったら、日本の政府は日本の安全と国益を守るために冷静な判断を下すのだろうかという疑問を持ちます。武力行使の範囲が広がる一方で、政治家の現実主義的な判断能力が低下する。このギャップこそが、日本にとっての存立を脅かす事態だと私は憂慮しております。
以上でございます。拍手
浜
浜
今
今津寛#13
○今津委員 自由民主党の今津寛であります。
五人の公述人の皆様方が日本国を思ってそれぞれ御意見をいただきましたこと、心から感謝を申し上げたいと思います。しかも、きょうは、多種多彩、大変いろいろな御意見を伺ったことを大変うれしく思うところであります。
最初に、我が国のあるべき姿、それと今回の平和安全法制との関係について、岡本公述人と村田公述人にお聞きをしたいと思います。
日本国憲法の前文には、平和主義の象徴でありますが、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、」こういう言葉があります。しかし、私はいつも、常日ごろ思っていたんですが、自分の国を守るということ、安全保障、防衛を、他国を信頼してそして守っていくという考え方は、周りがしっかり日本の国のことを思って協力をしてくれる国だけならばいいんですけれども、そうでない現実に、この言葉は大変疑義を持っておりました。
そして、同時に、「国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。」あるいは「われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、」と。要するに、日本国、自分だけが幸せになればいいのではない、他の国の人々にも、やはり幸せになるように、そういう努力をするということが我が国の憲法の前文に書いてあるわけであります。それが、今経済大国として世界で大きな地位を占める日本の大きな責務であると私は思います。
ですから、日本国国民を守るという国家の責務と、大国として成長した日本国が世界の平和のために貢献をする、この二つの大きな役割を私は日本国が担っていると思うんです。
ですから、安倍総理は、一国平和主義から積極的平和主義という言葉を使って国民の皆様方にこの言葉を投げかけ、そして御理解をいただくように努力をしております。また、もう何カ国行ったでしょうか、本当によく体がもつなと思うほど、ちょっと時間をつくっては外国へ行って、そして日本の立場というものを説明し、こうやって日本は国際貢献をするんだ、世界の中で役割を果たしていくんだ、こういう努力。私どもはその後ろ姿をずっと見てきたわけであります。
そういう積極的平和主義とこのたびの平和安全法制の御提案、これを御両人はどのように受けとめておられるか、御意見を伺いたいと思います。
この発言だけを見る →五人の公述人の皆様方が日本国を思ってそれぞれ御意見をいただきましたこと、心から感謝を申し上げたいと思います。しかも、きょうは、多種多彩、大変いろいろな御意見を伺ったことを大変うれしく思うところであります。
最初に、我が国のあるべき姿、それと今回の平和安全法制との関係について、岡本公述人と村田公述人にお聞きをしたいと思います。
日本国憲法の前文には、平和主義の象徴でありますが、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、」こういう言葉があります。しかし、私はいつも、常日ごろ思っていたんですが、自分の国を守るということ、安全保障、防衛を、他国を信頼してそして守っていくという考え方は、周りがしっかり日本の国のことを思って協力をしてくれる国だけならばいいんですけれども、そうでない現実に、この言葉は大変疑義を持っておりました。
そして、同時に、「国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。」あるいは「われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、」と。要するに、日本国、自分だけが幸せになればいいのではない、他の国の人々にも、やはり幸せになるように、そういう努力をするということが我が国の憲法の前文に書いてあるわけであります。それが、今経済大国として世界で大きな地位を占める日本の大きな責務であると私は思います。
ですから、日本国国民を守るという国家の責務と、大国として成長した日本国が世界の平和のために貢献をする、この二つの大きな役割を私は日本国が担っていると思うんです。
ですから、安倍総理は、一国平和主義から積極的平和主義という言葉を使って国民の皆様方にこの言葉を投げかけ、そして御理解をいただくように努力をしております。また、もう何カ国行ったでしょうか、本当によく体がもつなと思うほど、ちょっと時間をつくっては外国へ行って、そして日本の立場というものを説明し、こうやって日本は国際貢献をするんだ、世界の中で役割を果たしていくんだ、こういう努力。私どもはその後ろ姿をずっと見てきたわけであります。
そういう積極的平和主義とこのたびの平和安全法制の御提案、これを御両人はどのように受けとめておられるか、御意見を伺いたいと思います。
岡
岡本行夫#14
○岡本公述人 ただいまおっしゃられた今津先生の御意見に、私も全く同感であります。
積極的平和主義、これは日本として世界に誇るべき政策だと存じます。
ただ、内情を見てみますと、かつては日本は世界最大の援助供与国でありましたが、九七年のピークに比べれば、今、当初予算ベースでいえば、それは半分ぐらいまで減ってきております。第一位だった日本の座は、アメリカに譲り、イギリスに譲り、フランスに譲り、ドイツに譲り、どんどんと後退してきております。
一方、安全保障面では、日本は、今回の法案でまさに政府が提案されているようなことはできなかったわけであります。先ほど来の御議論にもございますけれども、これは、全て集団的自衛権はイコール他国を守るための権利であるというふうにしか見てこない、自国を守るための集団的自衛権というものを一切排除し、そしてそれを余りにも厳密に、厳格に運用してきたために、本来は日本自身がやるべきところまで外国におんぶしてきた。
日本は経済協力も減ってきている、そして、今までの、日本自身を守ることすら外国に押しつけてきているという中では、やはり今先生が御指摘になったような、憲法が想定します日本の地位というのは守れないわけであります。
日本人は世界じゅうで尊敬され、愛されております。しかし、政府が、外から見てわかりにくい、一体何を考えているんだと思われるこの大きな背景には、日本がその背骨の部分でどう考えているのかわからないというところがあると思います。
今回の法制が通ったからといって全てができるようになるわけではありません。例えば、外国人を、危機に瀕したときに日本がかつてほかの国にやってもらったように救出に行く。それは、あくまでも日本人を救出に行ったときに余席がある場合にのみ限られるとか、さまざまな制約はございます。しかし、大きな一歩だと思います。これが、少しずつ、野党の皆さんもかつてからおっしゃっておられた普通の国家になっていく道筋だと考えます。
以上です。
この発言だけを見る →積極的平和主義、これは日本として世界に誇るべき政策だと存じます。
ただ、内情を見てみますと、かつては日本は世界最大の援助供与国でありましたが、九七年のピークに比べれば、今、当初予算ベースでいえば、それは半分ぐらいまで減ってきております。第一位だった日本の座は、アメリカに譲り、イギリスに譲り、フランスに譲り、ドイツに譲り、どんどんと後退してきております。
一方、安全保障面では、日本は、今回の法案でまさに政府が提案されているようなことはできなかったわけであります。先ほど来の御議論にもございますけれども、これは、全て集団的自衛権はイコール他国を守るための権利であるというふうにしか見てこない、自国を守るための集団的自衛権というものを一切排除し、そしてそれを余りにも厳密に、厳格に運用してきたために、本来は日本自身がやるべきところまで外国におんぶしてきた。
日本は経済協力も減ってきている、そして、今までの、日本自身を守ることすら外国に押しつけてきているという中では、やはり今先生が御指摘になったような、憲法が想定します日本の地位というのは守れないわけであります。
日本人は世界じゅうで尊敬され、愛されております。しかし、政府が、外から見てわかりにくい、一体何を考えているんだと思われるこの大きな背景には、日本がその背骨の部分でどう考えているのかわからないというところがあると思います。
今回の法制が通ったからといって全てができるようになるわけではありません。例えば、外国人を、危機に瀕したときに日本がかつてほかの国にやってもらったように救出に行く。それは、あくまでも日本人を救出に行ったときに余席がある場合にのみ限られるとか、さまざまな制約はございます。しかし、大きな一歩だと思います。これが、少しずつ、野党の皆さんもかつてからおっしゃっておられた普通の国家になっていく道筋だと考えます。
以上です。
村
村田晃嗣#15
○村田公述人 御質問ありがとうございます。
今先生が御指摘になりました憲法の前文のくだり、国際社会の公正と信義に信頼してというところでございますが、かつて京都大学に高坂正堯先生という大変著名な国際政治学者がいらっしゃいましたけれども、高坂先生がかつて、この憲法前文の今御指摘のくだりを挙げられまして、自分は改憲論者ではないけれどもと断りをつけながら、このくだりはやはり少しおかしい、国際社会の公正と信義にちょっとだけ信頼しというふうに、ちょっとだけと入れるべきであるというふうに御指摘になったことがあります。これは高坂先生らしいユーモア感覚でもありますけれども、しかし、やはり物事の本質をついていると思います。
つまり、一方で、国際社会は弱肉強食であって、公正も信義もないというような粗暴な議論に流されてはならない。国際連合が存在し、国際法があり、そして国際世論というものが存在し、国際規範というものが形づくられているわけです。そういう意味で、ある程度の公正と信義があることは、これは間違いないわけです。しかし、他方で、諸国民の公正と信義だけに信頼して一国の安全が全うできるかというと、それほど甘いものではない。そういう両者のバランスの中で我々は生きているのだということだろうと思います。
先ほど来、例えば、重要影響事態であるとかあるいは存立危機事態であるとかいうのが概念として曖昧だという御指摘、それはごもっともなところがあるかと思いますけれども、しかし、日本の法案の中の概念の曖昧さを指摘しても、国際情勢そのものの曖昧さを我々が法律で変えることはできないわけであります。
周辺事態法にもそういう側面があって、そういう意味では、今回の提出されている法案というのは、確かに重要で大きなステップだけれども、今までの日本の安全保障の法体系とかあるいは考え方を革命的に変えるようなものではないだろうというふうに考えております。
それから、先ほど申し上げたように、仮にこの法案が成立をしても、その後不断の議論がなされるということが大事であって、そのことによって、例えば、存立危機事態であるとかあるいは重要影響事態について社会がどの程度受け入れるのか、どこを認めるのかという社会規範というものが積み重ねられていく、そういう作業が大変大事ではないかというふうに考えております。
この発言だけを見る →今先生が御指摘になりました憲法の前文のくだり、国際社会の公正と信義に信頼してというところでございますが、かつて京都大学に高坂正堯先生という大変著名な国際政治学者がいらっしゃいましたけれども、高坂先生がかつて、この憲法前文の今御指摘のくだりを挙げられまして、自分は改憲論者ではないけれどもと断りをつけながら、このくだりはやはり少しおかしい、国際社会の公正と信義にちょっとだけ信頼しというふうに、ちょっとだけと入れるべきであるというふうに御指摘になったことがあります。これは高坂先生らしいユーモア感覚でもありますけれども、しかし、やはり物事の本質をついていると思います。
つまり、一方で、国際社会は弱肉強食であって、公正も信義もないというような粗暴な議論に流されてはならない。国際連合が存在し、国際法があり、そして国際世論というものが存在し、国際規範というものが形づくられているわけです。そういう意味で、ある程度の公正と信義があることは、これは間違いないわけです。しかし、他方で、諸国民の公正と信義だけに信頼して一国の安全が全うできるかというと、それほど甘いものではない。そういう両者のバランスの中で我々は生きているのだということだろうと思います。
先ほど来、例えば、重要影響事態であるとかあるいは存立危機事態であるとかいうのが概念として曖昧だという御指摘、それはごもっともなところがあるかと思いますけれども、しかし、日本の法案の中の概念の曖昧さを指摘しても、国際情勢そのものの曖昧さを我々が法律で変えることはできないわけであります。
周辺事態法にもそういう側面があって、そういう意味では、今回の提出されている法案というのは、確かに重要で大きなステップだけれども、今までの日本の安全保障の法体系とかあるいは考え方を革命的に変えるようなものではないだろうというふうに考えております。
それから、先ほど申し上げたように、仮にこの法案が成立をしても、その後不断の議論がなされるということが大事であって、そのことによって、例えば、存立危機事態であるとかあるいは重要影響事態について社会がどの程度受け入れるのか、どこを認めるのかという社会規範というものが積み重ねられていく、そういう作業が大変大事ではないかというふうに考えております。
今
今津寛#16
○今津委員 どうもありがとうございました。
日本の周辺には軍事大国が三つありますよね。しかも、三国とも核ミサイルを持っていて、日本全土を射程の中に入れる、近代化を推し進めているところであります。詳しくは時間の関係で省きますが、これを脅威と言わないで何と言うのかというふうに思うわけであります。その脅威に対して、テロだとかサイバーとか宇宙とかもありますが、日本国だけで守ることができるのか、できないのかということ、これは非常に大きなことだと思うんです。
恐らく、これは専門家の方々が積算をしたんですが、日本国だけで今の安全保障体制を維持するためには、四倍を超える我々の、皆様方の貴重な税金を使わなければならないという試算も出ているところであります。
だから、日米同盟を基軸とした同盟関係をしっかりとして、そして、先ほど岡本さんが言ったように、みんなで守り合おう、そうやって自国を守る、そして同時に国際的な責任を果たしていくということが大切だと思いますが、日米同盟と今回の安全保障法制、これについて、お二人から、ごく簡単に御意見を聞きたいと思います。
この発言だけを見る →日本の周辺には軍事大国が三つありますよね。しかも、三国とも核ミサイルを持っていて、日本全土を射程の中に入れる、近代化を推し進めているところであります。詳しくは時間の関係で省きますが、これを脅威と言わないで何と言うのかというふうに思うわけであります。その脅威に対して、テロだとかサイバーとか宇宙とかもありますが、日本国だけで守ることができるのか、できないのかということ、これは非常に大きなことだと思うんです。
恐らく、これは専門家の方々が積算をしたんですが、日本国だけで今の安全保障体制を維持するためには、四倍を超える我々の、皆様方の貴重な税金を使わなければならないという試算も出ているところであります。
だから、日米同盟を基軸とした同盟関係をしっかりとして、そして、先ほど岡本さんが言ったように、みんなで守り合おう、そうやって自国を守る、そして同時に国際的な責任を果たしていくということが大切だと思いますが、日米同盟と今回の安全保障法制、これについて、お二人から、ごく簡単に御意見を聞きたいと思います。
岡
岡本行夫#17
○岡本公述人 御指摘のとおり、この地域には世界じゅうの大きな兵力を有する国家が集まっております。世界トップファイブの兵力国のうち、三つまでがこの地域におります。そして、日本は、その中で、防衛費をGDPの対比でいえば世界で百番目以下という非常に低い負担で、しかも、どこの国からも侵略されるおそれをなしにこれまでやってきているわけであります。
これは、私は、先ほどの山口公述人の意見とは異なります。日本が集団的自衛権を放棄したからではなくて、アメリカとの日米安保条約によって、米軍が、仮にも日本に侵略の動きを見せる国があれば、それに対してみずからの報復意思というものを示すということで保たれてきている平和でございます。
そのアメリカとの関係、先ほども冒頭陳述で申し上げましたけれども、アメリカの第七艦隊の退避行動を日本が正面から警護して随走してやるということすらできないこの状況を今度の法制で正すことは、この日米安保関係を随分と、本来あるべき姿に戻すことになると信じます。
この発言だけを見る →これは、私は、先ほどの山口公述人の意見とは異なります。日本が集団的自衛権を放棄したからではなくて、アメリカとの日米安保条約によって、米軍が、仮にも日本に侵略の動きを見せる国があれば、それに対してみずからの報復意思というものを示すということで保たれてきている平和でございます。
そのアメリカとの関係、先ほども冒頭陳述で申し上げましたけれども、アメリカの第七艦隊の退避行動を日本が正面から警護して随走してやるということすらできないこの状況を今度の法制で正すことは、この日米安保関係を随分と、本来あるべき姿に戻すことになると信じます。
村
村田晃嗣#18
○村田公述人 先生御指摘のように、冷戦のころには恐らく国際政治の中心、正面舞台はヨーロッパであったと思いますけれども、冷戦の終えんとともに、アジア太平洋地域が国際政治の大きな中心になってきた。中国、そしてロシアといった大国も存在する。
そういう東アジア地域が国際政治の正面舞台になってきたときに、我が国にとって組み合わせとして残念なことは、その時期にまさに我が国の国力が低下しつつある、こういう組み合わせの中で今我々はこの安全保障環境をサバイバルしなければならないということです。ですから、今まで以上の知恵と努力が必要である。
それから、私も日米同盟というものは維持、強化していかなければならないと思いますけれども、それは、しかし、国際政治のパワーバランスに反応するというだけではなくて、日米両国が市民社会の価値観の共有、そして、あるべき国際秩序についての目標の共有の度合いが最も高い国であるということもまた同時に大変重要なことではないかというふうに考えております。
この発言だけを見る →そういう東アジア地域が国際政治の正面舞台になってきたときに、我が国にとって組み合わせとして残念なことは、その時期にまさに我が国の国力が低下しつつある、こういう組み合わせの中で今我々はこの安全保障環境をサバイバルしなければならないということです。ですから、今まで以上の知恵と努力が必要である。
それから、私も日米同盟というものは維持、強化していかなければならないと思いますけれども、それは、しかし、国際政治のパワーバランスに反応するというだけではなくて、日米両国が市民社会の価値観の共有、そして、あるべき国際秩序についての目標の共有の度合いが最も高い国であるということもまた同時に大変重要なことではないかというふうに考えております。
今
今津寛#19
○今津委員 どうもありがとうございました。
小澤公述人にお聞きをしたいと思います。
先ほど、一九四六年の吉田内閣の見解、これを支持される、これが基本だということをおっしゃいましたね。
ところが、私はそれを聞いていて感じたんですが、実は解釈というのは、その都度その都度、自由民主党に大きな責任があると思いますが、そのときの政局によって解釈が幾度も変わっているんですね。その吉田茂内閣においても、例えば警察予備隊が創設されるときに、日本を守る自衛権までも放棄をしていた四六年見解から変えまして、自分たちは国を守る権利というものを有しているんだということで、そのときの政局によって変わっているということはもちろん御存じだというふうに思います。
ところで、先ほど公述人がおっしゃったんですが、自衛隊は違憲だとお考えになっていらっしゃるんですか。
この発言だけを見る →小澤公述人にお聞きをしたいと思います。
先ほど、一九四六年の吉田内閣の見解、これを支持される、これが基本だということをおっしゃいましたね。
ところが、私はそれを聞いていて感じたんですが、実は解釈というのは、その都度その都度、自由民主党に大きな責任があると思いますが、そのときの政局によって解釈が幾度も変わっているんですね。その吉田茂内閣においても、例えば警察予備隊が創設されるときに、日本を守る自衛権までも放棄をしていた四六年見解から変えまして、自分たちは国を守る権利というものを有しているんだということで、そのときの政局によって変わっているということはもちろん御存じだというふうに思います。
ところで、先ほど公述人がおっしゃったんですが、自衛隊は違憲だとお考えになっていらっしゃるんですか。
小
小澤隆一#20
○小澤公述人 はい、考えております。
それで、吉田内閣ではなくて、あれは吉田首相が、憲法制定過程において、憲法九条について質問されて示した解釈です。ですから、これは憲法制定におけるオリジナルな解釈だというふうに私は理解をしております。
以上です。
この発言だけを見る →それで、吉田内閣ではなくて、あれは吉田首相が、憲法制定過程において、憲法九条について質問されて示した解釈です。ですから、これは憲法制定におけるオリジナルな解釈だというふうに私は理解をしております。
以上です。
今
今津寛#21
○今津委員 自衛隊を違憲だと言う方は、もう最近まれじゃないのかなという感じがしますが。現に今、災害のときにこれだけの活躍、あの東北の災害のときに、あるいは外国へ行って、インドネシアとか、国際貢献も、いろいろ大活躍されている自衛隊を、そのものの存在を違憲だと言い切って、そしていろいろと御意見をおっしゃるのは、私は説得力がないなというふうに思います。
木村公述人にお尋ねをします。
私は、自分の家内が何か危険なときになったときはどこへでも行きますよ。何でもやりますよ、私は自分の家内や家族のためなら。みんなそういうふうに思っていると思うんです。国もそうだと思うんですね。
木村公述人の家が火事になる、そうすると隣の村田さんが火事を消しに来てくれる。ありがたいと思うのは当然ですよね。でも、村田さんの家が火事になったら、木村さん、やはり、ふだんお世話になっているし、おつき合いしているんだから、当然火事を消しに行きますよね。町内の方々がみんな集まって村田さんの火事を消しているときに、自分だけ家訓だからといって隣の家の火事を消しに行かないというのは、私は解せないと思うんですが、そこのところをちょっと御説明いただけないでしょうか。
この発言だけを見る →木村公述人にお尋ねをします。
私は、自分の家内が何か危険なときになったときはどこへでも行きますよ。何でもやりますよ、私は自分の家内や家族のためなら。みんなそういうふうに思っていると思うんです。国もそうだと思うんですね。
木村公述人の家が火事になる、そうすると隣の村田さんが火事を消しに来てくれる。ありがたいと思うのは当然ですよね。でも、村田さんの家が火事になったら、木村さん、やはり、ふだんお世話になっているし、おつき合いしているんだから、当然火事を消しに行きますよね。町内の方々がみんな集まって村田さんの火事を消しているときに、自分だけ家訓だからといって隣の家の火事を消しに行かないというのは、私は解せないと思うんですが、そこのところをちょっと御説明いただけないでしょうか。
木
木村草太#22
○木村公述人 火事と武力行使というものを同視する比喩が果たして成立しているのか私はよくわかりませんが、私が申し上げているのは現行憲法下ではそうなっているという議論であり、今御指摘いただいたことは、むしろ憲法審査会で問題提起していただくべきことではないかというふうに考えております。
この発言だけを見る →今
今津寛#23
○今津委員 では、ちょっと視点を変えますね。
存立危機事態というのは、また火事のことであれなんですけれども、また隣で火事になっていて、自分のところに火の粉が来る、うちも大変だ、焼けるぞ、そのときに初めて武力行使する。いや、隣は焼けているけれども俺のところは来ないぞというときは、存立危機事態にはなりませんから、これは手出しはしないということだと思うんですね。
ですから、戦争に参加することでもないし、そして、この法律が、あたかも戦争に参加する、それから戦争法案である、それからアメリカに引きずられて何でもしなければならないというような一部のマスコミの方々がいらっしゃるんですが、木村さん、どういうふうに思いますでしょうか。
この発言だけを見る →存立危機事態というのは、また火事のことであれなんですけれども、また隣で火事になっていて、自分のところに火の粉が来る、うちも大変だ、焼けるぞ、そのときに初めて武力行使する。いや、隣は焼けているけれども俺のところは来ないぞというときは、存立危機事態にはなりませんから、これは手出しはしないということだと思うんですね。
ですから、戦争に参加することでもないし、そして、この法律が、あたかも戦争に参加する、それから戦争法案である、それからアメリカに引きずられて何でもしなければならないというような一部のマスコミの方々がいらっしゃるんですが、木村さん、どういうふうに思いますでしょうか。
木
木村草太#24
○木村公述人 今御指摘いただいたことは、存立危機事態条項が、我が国への武力攻撃の明白な危険、つまり武力攻撃への着手がある場合に認定できる、それだけの条項だという解釈を前提にされているものであれば、従来の政府見解、すなわち昨年の七月一日の閣議決定以前の政府見解と武力行使が許される範囲は同じであり、もし先生がおっしゃったとおりの形で解釈されるのであれば、本規定はむしろ不要なのではないかというふうに思います。
この発言だけを見る →今
今津寛#25
○今津委員 先生は、堂々と憲法改正をして、そして国民に信を問うべきだというお考えなのは十分承知ですが、私どもは、憲法が許容する範囲、九条の二項も含めて、許容する範囲内で、今の憲法下でどこまでできるかという、その最低限の今回の法の整備だというつもりで出しているわけであります。
岡本公述人にお聞きをしたいと思うんですが……
この発言だけを見る →岡本公述人にお聞きをしたいと思うんですが……
浜
今
今津寛#27
○今津委員 ああ、もう時間になったので、では一言だけ。
奥さんとか中田厚仁さん、日本国の名誉のために亡くなった方がいますよね。そういう人たちがいろいろと頑張ってこられた。そして、先ほどもお話がありましたけれども、自衛隊の人も、それは危険というものは十分に感じながらも国家のために寄与したいと思っている。危険なときに、一般の人は、危ない、一歩下がれ、しかし、ある自衛隊の幹部は、危険なときに、危ない、一歩前へ出ろ、これが自衛隊の精神だ、信じてくれ、こういうお手紙が私に来ましたが、それについて一言だけ感想をお願いしたいと思います。
この発言だけを見る →奥さんとか中田厚仁さん、日本国の名誉のために亡くなった方がいますよね。そういう人たちがいろいろと頑張ってこられた。そして、先ほどもお話がありましたけれども、自衛隊の人も、それは危険というものは十分に感じながらも国家のために寄与したいと思っている。危険なときに、一般の人は、危ない、一歩下がれ、しかし、ある自衛隊の幹部は、危険なときに、危ない、一歩前へ出ろ、これが自衛隊の精神だ、信じてくれ、こういうお手紙が私に来ましたが、それについて一言だけ感想をお願いしたいと思います。
浜
岡
岡本行夫#29
○岡本公述人 それでは、一言だけ申し上げます。
中田厚仁さんとも、奥克彦さんとも、井ノ上正盛さんとも、私は話をしてきました。
彼らが言っていたのは、特に中田さんが言ってきたことを一言だけ御披露いたします。私だってこんな危ないところへは来たくない、しかし、日本のためには、政府が出てきてくれないから私はこうやってここにいるんです、彼はそう言って目を輝かせておりました。
この発言だけを見る →中田厚仁さんとも、奥克彦さんとも、井ノ上正盛さんとも、私は話をしてきました。
彼らが言っていたのは、特に中田さんが言ってきたことを一言だけ御披露いたします。私だってこんな危ないところへは来たくない、しかし、日本のためには、政府が出てきてくれないから私はこうやってここにいるんです、彼はそう言って目を輝かせておりました。