佐喜眞淳の発言 (沖縄及び北方問題に関する特別委員会)
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○参考人(佐喜眞淳君) 改めまして、皆さんこんにちは。普天間飛行場のある宜野湾市から参りました市長の佐喜眞でございます。
先般、二月にも同委員会の先生方が宜野湾市へお越しいただき、普天間飛行場を視察していただきましたこと、この場をお借りしまして感謝を申し上げたいと思います。
私の方から既にお手元にお配りしておりますけれども、宜野湾市が発行している、二〇一五年三月ということで、「まちのど真ん中にある普天間飛行場」という冊子をお手元の方にお配りをしていると思いますが、それに基づきながらお話をさせていただきたいと思います。
御案内のように、宜野湾市の町のど真ん中にある普天間飛行場が全面返還という合意がなされて十九年目を迎えます。実は、今日は当時の新聞を私はお持ちしておりますので、少し、どういうふうな記事になったかということをお話をさせていただきたいと思います。
一九九六年四月十三日、いわゆるSACOの中間報告の翌日の新聞でございます。地元でございます。普天間基地を全面返還をする、橋本・モンデール会談、五年ないし七年以内に日米合意し、普天間を返還するということが発信されました。その一つとして、当時の大田知事は同日、記者会見をし、様々な問題があるにせよ、総理の誠意の表れであり、今後は国に全面協力をしたいとして評価をしております。そして、当時の宜野湾市民はどのような反応を起こしたかというと、願いがかなった、何十年も我慢してきたが、かいがあった、普天間基地周辺の住民は、突然伝わった全面返還の報を手放しで喜んだと。
当然、当時の市長もそうですし、特に普天間飛行場に隣接する普天間第二小学校というのがございます。これはもう既にメディアとか、あるいは先生方は視察された方々もいらっしゃると思いますが、当時の第二小学校のPTA会長がこのようなことをお話をされております。墜落の危険がなくなることが何といっても大きい。いわゆる返還合意、五年ないし七年という返還合意をPTAという立場で、一市民という立場で喜び、そしてその実現を夢見たのが当時のSACO合意の中間報告でございました。
以来、この普天間飛行場の返還に向けての時間は十九年を過ぎたと、先ほど申し上げたようなとおりでございます。
今や普天間飛行場は、ページをめくっていただきたいんですけれども、三ページになりますが、市の四分の一、四百八十一ヘクタールの合わせての人口密度は、次のページになりますけれども、四千九百名・一キロ平方メートル。しかし、普天間基地を除いた中での宜野湾市の人口密度は七千二百五十四名と。十九年前の返還合意のときの八万二千名余りだった人口が、今現在、九万六千名となっております。人口もこの十九年の間に一万三千名余り人口が増え、当時と比較しますと、当然、危険度、市民に与える負担というものは数段に悪くなっております。
五年ないし七年の返還から、日米ロードマップの二〇一四年という年度が新たな返還期日として日米で合意されましたが、その期日すら残念ながら延長された背景の中、今は、二〇二二年、そしてその後という統合計画で普天間返還が進められていると理解しております。
我々宜野湾市民の願いは、今も昔も変わらず、一日も早く返還をしていただきたい、そして、日中、夜間ともなく騒音問題で苦しんでいる市民に対して、その危険性や基地負担軽減というものをしっかり取り組んでいただきたいというのが宜野湾市民の願いであり、宜野湾市長として、九万六千名余の市民の生命、財産を預かる市長としての何よりも責任を持ってやらなきゃならないことでございます。
残念ながら、今現在、この普天間飛行場は一センチも宜野湾市から動いてはございません。先生方にお話をさせていただける機会を与えていただいたことを感謝を申し上げながらも、この問題は解決する、解決をしなければならないということを国政の場でしっかりと取り組んでいただきたいというのが、今日、私がこの場で最も訴えたいことでございます。
危険性だけではなくて、御覧のように、普天間飛行場は町のど真ん中でございますから、北から南、西から東、どこへ移動するにしても普天間飛行場を迂回するような町づくりとなってございます。これはほかの、沖縄県の他市町村にある基地ともまた違う。まさに宜野湾市の町のど真ん中にあるがゆえに、SACOの合意というものが、橋本当時の総理、そしてクリントン大統領の中での、世界一危険だと言われている普天間飛行場が町のど真ん中にあるがゆえに返還しなければならないというのが普天間飛行場の全面返還の原点であるということをお忘れになってはならないと私は思っております。
是非そのような視点で、もう十九年もたってしまった、あと二〇二二年までは更に七年、八年掛かってまいります。その間の危険性の除去というものもやはり政府、国会としてしっかりと考えていただきながら、市民に不安やあるいは苦痛や、あるいはまた経済的負担を与えないようなことを考えていただきたいということを是非お願いもしていただきたいと思います。考えるだけではなくて、やはりしっかりと市民が実感できる基地負担軽減、危険性の除去、我々は今、計画的な町づくりもできないような狭隘な宜野湾市となってまいりました。
政府のおかげをもちまして、三月三十一日に西普天間住宅地区が返還をされました。五十一ヘクタールでございますけれども、私は、その五十一ヘクタールの跡地が、今後、四百八十一ヘクタールの普天間飛行場の跡地へとつながっていくものだと理解をし、そして、政府においても、あるいは国会議員の先生方におかれましても、是非、西普天間住宅地区が今後の跡地のモデル地区となるように、私どもが今考えている国際医療拠点というものをしっかりと実現できるように、そして、それがひいては沖縄の未来にとっても、あるいは日本全体の振興にとっても私は寄与するものだと。
今後、この跡地に対しては全力で取り組んでいきたいと思っておりますし、そのためにも、沖縄北方特別委員会の先生方を始め、国政の場で御尽力を賜っています先生方のお力添えが必要であるということを重ねて申し上げて、私のお話を閉じさせていただきます。
以上でございます。