百地章の発言 (憲法審査会)

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○参考人(百地章君) それでは、参考意見を述べさせていただきます。
 改めて、日本大学の百地でございます。
 本日は、参議院憲法審査会にお招きをいただきまして、大変光栄に存じます。
 与えられましたテーマは、憲法とは何かということでございまして、憲法学の基礎に関わる問題です。時間も限られておりますので、皆様既に御存じのことは簡単に済ませまして、私の特に申し上げたい事柄を中心にお話しさせていただこうと思います。
 お手元に一枚の簡単なレジュメを用意させていただきました。詳しい内容につきましては、先にお配りさせていただきました参考人資料をお読みいただきたいと思います。
 それでは、一から順を追ってお話し申し上げます。
 一、初めに。
 言うまでもなく、憲法は国家の基本法であり、今日流行の言葉を使うならば、国の形を法的に表現したものと言えましょう。それゆえ、国家というものがまず存在し、その国家を前提として初めて憲法や憲法典というものが考えられることになります。とすれば、憲法の意味を正しく理解するためには、まず国家とは何かを知らなければならないはずであります。
 ところが、戦後、我が国の憲法学者たちの多くは、国家とは何かということについてきちんと論じようとしませんでした。たまに語られるとしても、国家とは権力であり権力機構であるの一言で済ませてしまう傾向がありました。つまり、戦後憲法学は、権力機構としての国家、つまり政府のみを問題とし、国民共同体としての国家についてはまともに考えようとしませんでした。そのため、憲法についての理解も一面的に終わることが多かったのではないでしょうか。ここに、戦後憲法学の最大の欠陥があると思われます。
 そこで、初めに、国家とは何かという問題について簡単に触れてみたいと思います。
 二の、国家とは何かでございますが、まず、国家と政府の区別をという点です。
 国家の本質をめぐりましては、古来、多くの思想家たちが様々な見解を唱えてきました。このうち、私どもが国家の本質を考える上で参考になるのは、社会契約説と国家有機体説ではないかと思います。そこで、この二つの代表的な国家論を基に、国家とは何かを考えてみることにします。
 まず、社会契約説ですが、この国家論の代表的な主張者は、言うまでもなく十七世紀の思想家ホッブスやロックです。そして、その特徴は、個人の絶対性ということを出発点とし、国家は各個人の合意によってつくられたものであると説くところにあります。つまり、個人主義的国家論であります。
 社会契約説の前提とされたのは、国家が成立する以前の状態、つまり自然状態です。この自然状態についての考え方はホッブスとロックとでは大きく異なりますが、いずれも、自然状態のままでは得られない平和と秩序を樹立するために社会契約がなされ、国家がつくられたとする点では変わりません。したがって、このような国家論においては、国家が個人のために存在するということになります。
 言うまでもなく、このような国家論は、あくまで国家というものを合理的に説明し、正当化するための理論にすぎず、社会契約説などもそのためにつくられた擬制、フィクションでしかありません。
 これに対して、国家有機体説が主張されるようになったのは十八世紀から十九世紀にかけてのことで、その代表的な主張者は哲学者ヘーゲルやフランス革命批判で知られているイギリス保守主義の思想家エドマンド・バークなどでした。また、国法学者としてはドイツのブルンチュリー、ゲルバー、ギールケなどの学者を挙げることができます。
 社会契約説は、抽象的な個人というものを出発点とし、国家を個人の合意によってつくられたものと見ました。つまり、国家を合理的に説明しようとしたわけであります。これと対照的に、国家有機体説の特徴は、国家を個々の国民が生まれ落ちる以前から存在するもの、つまり歴史的、伝統的な存在と見るところにあります。そして、国家とは、合理性だけでなく非合理性をも併せ持った精神的存在と考えます。つまり、国家とは単なる抽象的な個人の集合体ではなく、歴史、伝統、文化を背景に持った具体的な国民の共同体、つまり有機的共同体であると考えます。
 このように、国家の本質をめぐっては二つの全く対照的な国家論が対立しており、従来はそのいずれが正当かといった形で議論がなされてきたように思われます。しかしながら、この両説については次のように考えることはできないでしょうか。つまり、政府と国家を区別した上で、社会契約説の主張する国家とは単に政府、ステートの説明にすぎず、国家有機体説の主張する国家、ネーションこそが本来の国家である、国家の本質を言い当てたものであると考えるわけであります。
 ちなみに、近代国家とは国民国家、ネーションステートであり、国家をもってステート、つまり政府と政府をも含む国民の共同体、つまりネーションとによって成り立っていると見るのが政治学における常識ではないでしょうか。
 このように考えますと、確かに政府の説明であれば、社会契約説の言うように、国民の意思を基に国民の合意によってつくられたのが政府であり、政府のために国民があるのではなく、国民のために政府が存在するということになります。それに対して、そのような政府をも含む国民共同体としての国家について言えば、国家とはまさに、国家有機体説の主張するように、歴史的に形成されてきた国民の共同体であると考えることができます。
 次に、国家論を踏まえた憲法論議をということですが、このように国家と政府を分けて考えますと従来の混乱が解決するのではないでしょうか。例えば国益と政府益の違いです。もちろん民主主義国家においては国益と政府益は本来一致するはずですが、時としてこれが対立することがあります。そのようなときには国益、つまり国民全体の利益と政府益、つまり時の政権にとっての利益を分けて考えれば、何が国益かという問題も取りあえず整理できるのではないでしょうか。もちろん、何が国益か、政府益かの区別が難しいことは事実でございましょうが。
 同様に、国家秘密、つまり国民全体の利益に関わる秘密と政府秘密、つまり時の政権の都合で隠しておきたい秘密も異なるはずです。平成二十二年、あの尖閣諸島事件の折、政府が隠そうとしたビデオテープは、私に言わせればまさに政府秘密に属し、公開することが国民全体にとっての利益となるはずでした。他方、さきの特定秘密保護法は国家秘密の保護が目的ですから、特定秘密などといった曖昧な命名をすべきはなかったのではないかと考えております。
 さらに、日本国憲法下の政教分離ですが、我が国の学説はしばしばこれを国家と宗教の分離と解してきました。しかし、欧米諸国にあっては、政教分離という場合は、国家と教会の分離、セパレーション・オブ・チャーチ・アンド・ステートという言い方が一般的です。つまり、政教分離とは、国家と特定の教会、日本的に言えば宗教団体が結び付くことを禁止するものであって、国家と宗教そのものの分離ではありません。我が国の政教分離も国家と教会、つまり宗教団体との分離であって、欧米諸国と同じです。このことは、憲法の条文や成立過程あるいは立法意図、意思等を見れば明らかであります。
 さらに、国家論を踏まえて考えますと、政教分離とはあくまで国家、つまりステートと宗教団体、つまりチャーチとの分離であって、国民共同体としての国家、つまりネーションから宗教、レリジョンを排除することではありません。すなわち、政教分離とは、世俗的権力としての国家、つまり政府が特定の宗教団体、つまりチャーチと結び付くことを禁止するにとどまります。
 ですから、政教分離国アメリカでも、国民共同体としての国家の存続のため、様々な宗教的慣行が今なお続けられています。例えば、大統領就任式における宗教儀式や、連邦及び各州議会におけるチャプレン、つまり専属牧師の祈祷、あるいはアーリントン墓地におけるユダヤ・キリスト教式の戦没者追悼式などであります。しかし、これに対して政教分離違反などといった批判はほとんど聞かれません。
 このように、国家論を踏まえて考えますと、従来の混乱がかなり解消するのではないかと思います。
 三の、憲法とは何かでございますが、従来の学説における説明ですが、教科書に書かれているように、憲法といいましても極めて多義的な概念でありまして、分類の仕方次第で様々な説明が可能です。例えば、一、固有の意味の憲法と立憲的意味の憲法、二、実質的意味の憲法と形式的意味の憲法、三、成文憲法と不文憲法、四、硬性憲法と軟性憲法といった具合です。
 ちなみに、我が国の憲法はもちろん硬性憲法に属しますが、硬性憲法の中でもとりわけ改正手続が厳しい、憲法改正のハードルが高いグループに属するものと考えております。
 また、これらの分類の中で、本日特に問題となるのが立憲的意味の憲法ではなかろうかと思います。この点、周知のとおり、固有の意味の憲法とは、古今東西を問わず、国家あるところ必ず憲法ありという場合の憲法を指します。それに対して、立憲的意味の憲法は、近代立憲主義に基づき、基本的人権の保障と権力分立による国家権力の抑制、さらに国民の政治参加を内容とする憲法のことを意味しております。
 ちなみに、最近、とりわけ護憲派の皆さんの間でよく言われているのが権力を縛る憲法という言い方です。これは立憲的意味の憲法、あるいは後で触れます制限規範としての憲法のことを一般向けに分かりやすく説明したものでしょう。この権力を縛るという言い方は、恐らく、十四年前に某政治学者が一般向けの著書の中で、法律は国民を縛るものだが憲法は国家権力を縛るものであると述べたのが最初ではなかろうかと思います。
 確かにこれは一つの特徴を捉えていますが、縛るとは一体何でしょうか。文字どおり拘束してしまうのか、それとも抑制し制限することなのか、その意味も不明です。したがって、このような曖昧な言い方では正確な議論ができませんから、私は憲法学を専攻する者として、憲法は権力を縛るものなどといった粗っぽい表現は避けたいと思っております。
 例えば、緊急権ですが、国家的な危機に臨んで権力を縛ってばかりいたら、それこそ肝腎の危機を克服することはできませんし、国民の生命や財産を守ることさえできないのではないでしょうか。
 また、レジュメに書きましたとおり、憲法の定義は様々ですが、そのうちの一つの定義だけを取り出して、それがあたかも全てであるかのように決め付けることは国民をミスリードしかねないからです。もちろん、制限規範としての憲法を重視することは権力の濫用を防ぐために必要なことですが、そればかり主張されるとやはりバランスを欠くことになります。
 次に、憲法規範の特質ですが、憲法には、授権規範としての憲法、制限規範としての憲法、それに最高規範としての憲法などの特質が見られます。このうち、近代立憲主義の観点から見て最も重要とされるのが制限規範としての憲法です。制限規範としての憲法とは、憲法が国家権力の行使につき内容と方向を定め、その限界を画する規範であることを言います。
 例えば、日本国憲法第四十一条は国会が国の唯一の立法機関であると規定していますが、この規定は国会に立法権を与えるという、文字どおりの意味は授権規範です。と同時に、国会が立法権以外の行政権や司法権を行使することはできないという国会の権限行使の限界を定めた制限規範でもあります。また、憲法二十一条は国民に表現の自由を保障したものですが、その反面において、国家権力が表現の自由を侵害してはならないことを命じた制限規範でもあります。
 このように、憲法の条文は授権規範と制限規範の両者を含むことが多いのですが、制限規範としての憲法ということだけが強調された場合には、憲法で認められた正当な国家権力の行使まで否定的ないし懐疑的に解されるおそれがあります。
 事実、戦後の我が国では、国家権力そのものが悪ないし必要悪であるかのように言われることがありました。しかしながら、国家権力そのものは善でも悪でもありません。要は、行使の仕方次第です。それどころか、今日の社会国家においては、自由国家時代とは比較にならないほど国家権力の果たす役割は増大してきています。
 つまり、国家からの自由を標榜した自由国家から社会国家への移行に伴い、国家権力は、単に国内の治安を維持したり消極的に国民の自由を守るだけでなく、より積極的に国民生活の充実と向上のために社会福祉、経済、文化、さらに科学技術等の発展に努めなければならないことになりました。
 したがって、憲法の役割を考える場合には、この授権規範としての憲法と制限規範としての憲法という憲法の両側面についてバランスの取れた見方が必要ではないかと思います。
 さらに、初めに述べました国家論を踏まえた憲法とは何かを考え直してみますと、このような分類も可能ではないでしょうか。
 つまり、一つは権力機構としての国家、つまり政府を前提としたもので、言わば統治のルールとしての憲法が考えられます。諸外国におきましては必要に応じて憲法を改正していますが、この統治のルールとしての憲法に着目するならば、必要に応じて憲法を改正するのは自然でありましょう。なぜなら、ルールのために国家が存在するのではなく、国家のためにルールが存在するからです。
 もう一つは、国民共同体としての国家を前提とした憲法、つまり国柄を示す憲法が考えられます。憲法の語はコンスティチューションの訳語ですが、コンスティチューションには、元々、国柄、国体といった意味があります。近年、憲法は国の姿、形を示すものといった言い方がなされることがありますが、これこそ憲法の本来の意味を示すものとも考えられます。
 また、国柄を示す憲法は、さきの統治のルールとしての憲法と異なり、簡単に変更されることはあり得ません。つまり、不易流行という言葉に即して考えれば、不易に当たるのが国柄、つまり国家のアイデンティティーを示す憲法であり、流行に当たるのが統治のルールとしての憲法ということになると思われます。この点、憲法は権力を縛るものなどと決め付けた場合、この大切な部分が欠落してしまうのではないでしょうか。
 第三の、不文の憲法につきましては、時間の関係で簡単に触れることにします。
 そもそも不文の憲法とは何か。不文の憲法などを認めれば立憲主義の否定につながるのではないかなどといった意見もありますが、結論的に言いましたら、私は、立憲主義の立場に立った上でなお不文の憲法を認めざるを得ない場合があるのではないかと考えております。
 例えば、憲法に緊急事態対処規定が存在しない場合、国家の非常時において国は拱手傍観して何もできないのでよろしいでしょうか。あるいは、憲法上の緊急権、憲法上緊急権が位置付けられている場合でありましても、それこそ国家の存立そのものが危ぶまれる究極の緊急事態においては、その緊急権を超える不文の緊急権という問題も出てくると思います。もちろん、これはもはや法の領域を超えているんだという議論もありますけれども、そういった意味での不文の憲法というものが論ぜられる余地があると思います。なぜなら、国家あっての憲法典であって、不文の憲法が国家は滅亡すれども憲法典を守るべしなどと命じているはずがないからであります。
 四、立憲主義について。この立憲主義でありますが、これも時間がありませんので一言言及するだけにします。
 さきに立憲的意味のところで簡単に触れましたとおり、近代立憲主義とは一般に、憲法によって個人の人権を保障し、権力分立を行い、国民の政治参加への道を開くものと考えられていますし、私もそのように理解しています。そして、国民主権の下では、主権者国民が憲法改正に参加できることこそ最大の政治参加ではないでしょうか。
 この点、日本国憲法の改正手続が諸外国と比べて極めて厳しいグループに属することはさきに述べたとおりです。そのため、国会の発議が容易でなく、憲法制定後、一度も改正の発議がなされたことがありません。そのため、憲法改正国民投票への参加という主権者国民が主権を行使する唯一の機会が奪われ続けているわけであります。このことは、立憲主義における国民の政治参加という問題を考えるならば、ゆゆしき事柄ではないでしょうか。
 五、終わりに。
 最後に、意外に思われるかもしれませんが、東大法学部法学協会が編さんしました「註解日本国憲法 下」には、憲法制定者たる国民が憲法を尊重し擁護すべきことは当然であるとの言葉があります。しばしば憲法擁護義務を負うのは公務員だけであるといった議論がありますが、法学協会の「註解日本国憲法」にはこのようなことが示されております、当然のことでありますけれども。
 それから、美濃部達吉博士の「日本国憲法原論」には、国家の構成員である国民は国家への忠誠義務を負っているとの言葉を紹介させていただきたいと思います。もちろん、ここで言う国家は政府ではなく、国民共同体としての国家、歴史的、伝統的な国家を指すはずであります。この言葉を紹介させていただきまして、私の意見陳述を終わらせていただきます。
 御清聴ありがとうございました。

発言情報

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発言者: 百地章

speaker_id: 18602

日付: 2015-03-04

院: 参議院

会議名: 憲法審査会