憲法審査会

2015-03-04 参議院 全80発言

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会議録情報#0
平成二十七年三月四日(水曜日)
   午後一時開会
    ─────────────
   委員の異動
 二月二十五日
    辞任         補欠選任
     河野 義博君     魚住裕一郎君
 三月三日
    辞任         補欠選任
     石橋 通宏君     森本 真治君
     魚住裕一郎君     若松 謙維君
    ─────────────
  出席者は左のとおり。
    会 長         柳本 卓治君
    幹 事
                愛知 治郎君
                高野光二郎君
                堂故  茂君
                豊田 俊郎君
                丸山 和也君
                金子 洋一君
                小西 洋之君
                西田 実仁君
                儀間 光男君
                仁比 聡平君
    委 員
                阿達 雅志君
                赤池 誠章君
                石井 正弘君
                石田 昌宏君
                大沼みずほ君
                木村 義雄君
                北村 経夫君
                小坂 憲次君
                上月 良祐君
                佐藤 正久君
                滝波 宏文君
                中曽根弘文君
                中西 祐介君
                山下 雄平君
                有田 芳生君
                徳永 エリ君
                那谷屋正義君
                野田 国義君
                福山 哲郎君
                藤末 健三君
                前川 清成君
                牧山ひろえ君
                森本 真治君
               佐々木さやか君
                矢倉 克夫君
                若松 謙維君
                清水 貴之君
                吉良よし子君
                田中  茂君
                江口 克彦君
               渡辺美知太郎君
                福島みずほ君
                主濱  了君
   事務局側
       憲法審査会事務
       局長       情野 秀樹君
   参考人
       日本大学法学部
       教授       百地  章君
       早稲田大学法学
       学術院教授    水島 朝穂君
    ─────────────
  本日の会議に付した案件
○日本国憲法及び日本国憲法に密接に関連する基
 本法制に関する調査
 (憲法とは何かについて)
    ─────────────
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柳本卓治#1
○会長(柳本卓治君) ただいまから憲法審査会を開会いたします。
 日本国憲法及び日本国憲法に密接に関連する基本法制に関する調査を議題といたします。
 本日は、憲法とは何かについて参考人から意見を聴取いたします。
 御出席いただいております参考人は、日本大学法学部教授百地章君及び早稲田大学法学学術院教授水島朝穂君の二名でございます。
 この際、参考人の皆様に一言御挨拶を申し上げます。
 本日は、御多忙のところ本審査会に御出席をいただきまして、誠にありがとうございます。
 参考人の皆様から忌憚のない御意見を賜りまして、今後の調査の参考にいたしたいと存じますので、よろしくお願いをいたします。
 議事の進め方でございますが、百地参考人、水島参考人の順にお一人二十分程度で順次御意見をお述べいただいた後、各委員からの質疑にお答えをいただきたいと存じます。
 なお、御発言は、質疑、答弁とも着席のままで結構でございます。
 それでは、まず百地参考人にお願いいたします。百地参考人。
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百地章#2
○参考人(百地章君) それでは、参考意見を述べさせていただきます。
 改めて、日本大学の百地でございます。
 本日は、参議院憲法審査会にお招きをいただきまして、大変光栄に存じます。
 与えられましたテーマは、憲法とは何かということでございまして、憲法学の基礎に関わる問題です。時間も限られておりますので、皆様既に御存じのことは簡単に済ませまして、私の特に申し上げたい事柄を中心にお話しさせていただこうと思います。
 お手元に一枚の簡単なレジュメを用意させていただきました。詳しい内容につきましては、先にお配りさせていただきました参考人資料をお読みいただきたいと思います。
 それでは、一から順を追ってお話し申し上げます。
 一、初めに。
 言うまでもなく、憲法は国家の基本法であり、今日流行の言葉を使うならば、国の形を法的に表現したものと言えましょう。それゆえ、国家というものがまず存在し、その国家を前提として初めて憲法や憲法典というものが考えられることになります。とすれば、憲法の意味を正しく理解するためには、まず国家とは何かを知らなければならないはずであります。
 ところが、戦後、我が国の憲法学者たちの多くは、国家とは何かということについてきちんと論じようとしませんでした。たまに語られるとしても、国家とは権力であり権力機構であるの一言で済ませてしまう傾向がありました。つまり、戦後憲法学は、権力機構としての国家、つまり政府のみを問題とし、国民共同体としての国家についてはまともに考えようとしませんでした。そのため、憲法についての理解も一面的に終わることが多かったのではないでしょうか。ここに、戦後憲法学の最大の欠陥があると思われます。
 そこで、初めに、国家とは何かという問題について簡単に触れてみたいと思います。
 二の、国家とは何かでございますが、まず、国家と政府の区別をという点です。
 国家の本質をめぐりましては、古来、多くの思想家たちが様々な見解を唱えてきました。このうち、私どもが国家の本質を考える上で参考になるのは、社会契約説と国家有機体説ではないかと思います。そこで、この二つの代表的な国家論を基に、国家とは何かを考えてみることにします。
 まず、社会契約説ですが、この国家論の代表的な主張者は、言うまでもなく十七世紀の思想家ホッブスやロックです。そして、その特徴は、個人の絶対性ということを出発点とし、国家は各個人の合意によってつくられたものであると説くところにあります。つまり、個人主義的国家論であります。
 社会契約説の前提とされたのは、国家が成立する以前の状態、つまり自然状態です。この自然状態についての考え方はホッブスとロックとでは大きく異なりますが、いずれも、自然状態のままでは得られない平和と秩序を樹立するために社会契約がなされ、国家がつくられたとする点では変わりません。したがって、このような国家論においては、国家が個人のために存在するということになります。
 言うまでもなく、このような国家論は、あくまで国家というものを合理的に説明し、正当化するための理論にすぎず、社会契約説などもそのためにつくられた擬制、フィクションでしかありません。
 これに対して、国家有機体説が主張されるようになったのは十八世紀から十九世紀にかけてのことで、その代表的な主張者は哲学者ヘーゲルやフランス革命批判で知られているイギリス保守主義の思想家エドマンド・バークなどでした。また、国法学者としてはドイツのブルンチュリー、ゲルバー、ギールケなどの学者を挙げることができます。
 社会契約説は、抽象的な個人というものを出発点とし、国家を個人の合意によってつくられたものと見ました。つまり、国家を合理的に説明しようとしたわけであります。これと対照的に、国家有機体説の特徴は、国家を個々の国民が生まれ落ちる以前から存在するもの、つまり歴史的、伝統的な存在と見るところにあります。そして、国家とは、合理性だけでなく非合理性をも併せ持った精神的存在と考えます。つまり、国家とは単なる抽象的な個人の集合体ではなく、歴史、伝統、文化を背景に持った具体的な国民の共同体、つまり有機的共同体であると考えます。
 このように、国家の本質をめぐっては二つの全く対照的な国家論が対立しており、従来はそのいずれが正当かといった形で議論がなされてきたように思われます。しかしながら、この両説については次のように考えることはできないでしょうか。つまり、政府と国家を区別した上で、社会契約説の主張する国家とは単に政府、ステートの説明にすぎず、国家有機体説の主張する国家、ネーションこそが本来の国家である、国家の本質を言い当てたものであると考えるわけであります。
 ちなみに、近代国家とは国民国家、ネーションステートであり、国家をもってステート、つまり政府と政府をも含む国民の共同体、つまりネーションとによって成り立っていると見るのが政治学における常識ではないでしょうか。
 このように考えますと、確かに政府の説明であれば、社会契約説の言うように、国民の意思を基に国民の合意によってつくられたのが政府であり、政府のために国民があるのではなく、国民のために政府が存在するということになります。それに対して、そのような政府をも含む国民共同体としての国家について言えば、国家とはまさに、国家有機体説の主張するように、歴史的に形成されてきた国民の共同体であると考えることができます。
 次に、国家論を踏まえた憲法論議をということですが、このように国家と政府を分けて考えますと従来の混乱が解決するのではないでしょうか。例えば国益と政府益の違いです。もちろん民主主義国家においては国益と政府益は本来一致するはずですが、時としてこれが対立することがあります。そのようなときには国益、つまり国民全体の利益と政府益、つまり時の政権にとっての利益を分けて考えれば、何が国益かという問題も取りあえず整理できるのではないでしょうか。もちろん、何が国益か、政府益かの区別が難しいことは事実でございましょうが。
 同様に、国家秘密、つまり国民全体の利益に関わる秘密と政府秘密、つまり時の政権の都合で隠しておきたい秘密も異なるはずです。平成二十二年、あの尖閣諸島事件の折、政府が隠そうとしたビデオテープは、私に言わせればまさに政府秘密に属し、公開することが国民全体にとっての利益となるはずでした。他方、さきの特定秘密保護法は国家秘密の保護が目的ですから、特定秘密などといった曖昧な命名をすべきはなかったのではないかと考えております。
 さらに、日本国憲法下の政教分離ですが、我が国の学説はしばしばこれを国家と宗教の分離と解してきました。しかし、欧米諸国にあっては、政教分離という場合は、国家と教会の分離、セパレーション・オブ・チャーチ・アンド・ステートという言い方が一般的です。つまり、政教分離とは、国家と特定の教会、日本的に言えば宗教団体が結び付くことを禁止するものであって、国家と宗教そのものの分離ではありません。我が国の政教分離も国家と教会、つまり宗教団体との分離であって、欧米諸国と同じです。このことは、憲法の条文や成立過程あるいは立法意図、意思等を見れば明らかであります。
 さらに、国家論を踏まえて考えますと、政教分離とはあくまで国家、つまりステートと宗教団体、つまりチャーチとの分離であって、国民共同体としての国家、つまりネーションから宗教、レリジョンを排除することではありません。すなわち、政教分離とは、世俗的権力としての国家、つまり政府が特定の宗教団体、つまりチャーチと結び付くことを禁止するにとどまります。
 ですから、政教分離国アメリカでも、国民共同体としての国家の存続のため、様々な宗教的慣行が今なお続けられています。例えば、大統領就任式における宗教儀式や、連邦及び各州議会におけるチャプレン、つまり専属牧師の祈祷、あるいはアーリントン墓地におけるユダヤ・キリスト教式の戦没者追悼式などであります。しかし、これに対して政教分離違反などといった批判はほとんど聞かれません。
 このように、国家論を踏まえて考えますと、従来の混乱がかなり解消するのではないかと思います。
 三の、憲法とは何かでございますが、従来の学説における説明ですが、教科書に書かれているように、憲法といいましても極めて多義的な概念でありまして、分類の仕方次第で様々な説明が可能です。例えば、一、固有の意味の憲法と立憲的意味の憲法、二、実質的意味の憲法と形式的意味の憲法、三、成文憲法と不文憲法、四、硬性憲法と軟性憲法といった具合です。
 ちなみに、我が国の憲法はもちろん硬性憲法に属しますが、硬性憲法の中でもとりわけ改正手続が厳しい、憲法改正のハードルが高いグループに属するものと考えております。
 また、これらの分類の中で、本日特に問題となるのが立憲的意味の憲法ではなかろうかと思います。この点、周知のとおり、固有の意味の憲法とは、古今東西を問わず、国家あるところ必ず憲法ありという場合の憲法を指します。それに対して、立憲的意味の憲法は、近代立憲主義に基づき、基本的人権の保障と権力分立による国家権力の抑制、さらに国民の政治参加を内容とする憲法のことを意味しております。
 ちなみに、最近、とりわけ護憲派の皆さんの間でよく言われているのが権力を縛る憲法という言い方です。これは立憲的意味の憲法、あるいは後で触れます制限規範としての憲法のことを一般向けに分かりやすく説明したものでしょう。この権力を縛るという言い方は、恐らく、十四年前に某政治学者が一般向けの著書の中で、法律は国民を縛るものだが憲法は国家権力を縛るものであると述べたのが最初ではなかろうかと思います。
 確かにこれは一つの特徴を捉えていますが、縛るとは一体何でしょうか。文字どおり拘束してしまうのか、それとも抑制し制限することなのか、その意味も不明です。したがって、このような曖昧な言い方では正確な議論ができませんから、私は憲法学を専攻する者として、憲法は権力を縛るものなどといった粗っぽい表現は避けたいと思っております。
 例えば、緊急権ですが、国家的な危機に臨んで権力を縛ってばかりいたら、それこそ肝腎の危機を克服することはできませんし、国民の生命や財産を守ることさえできないのではないでしょうか。
 また、レジュメに書きましたとおり、憲法の定義は様々ですが、そのうちの一つの定義だけを取り出して、それがあたかも全てであるかのように決め付けることは国民をミスリードしかねないからです。もちろん、制限規範としての憲法を重視することは権力の濫用を防ぐために必要なことですが、そればかり主張されるとやはりバランスを欠くことになります。
 次に、憲法規範の特質ですが、憲法には、授権規範としての憲法、制限規範としての憲法、それに最高規範としての憲法などの特質が見られます。このうち、近代立憲主義の観点から見て最も重要とされるのが制限規範としての憲法です。制限規範としての憲法とは、憲法が国家権力の行使につき内容と方向を定め、その限界を画する規範であることを言います。
 例えば、日本国憲法第四十一条は国会が国の唯一の立法機関であると規定していますが、この規定は国会に立法権を与えるという、文字どおりの意味は授権規範です。と同時に、国会が立法権以外の行政権や司法権を行使することはできないという国会の権限行使の限界を定めた制限規範でもあります。また、憲法二十一条は国民に表現の自由を保障したものですが、その反面において、国家権力が表現の自由を侵害してはならないことを命じた制限規範でもあります。
 このように、憲法の条文は授権規範と制限規範の両者を含むことが多いのですが、制限規範としての憲法ということだけが強調された場合には、憲法で認められた正当な国家権力の行使まで否定的ないし懐疑的に解されるおそれがあります。
 事実、戦後の我が国では、国家権力そのものが悪ないし必要悪であるかのように言われることがありました。しかしながら、国家権力そのものは善でも悪でもありません。要は、行使の仕方次第です。それどころか、今日の社会国家においては、自由国家時代とは比較にならないほど国家権力の果たす役割は増大してきています。
 つまり、国家からの自由を標榜した自由国家から社会国家への移行に伴い、国家権力は、単に国内の治安を維持したり消極的に国民の自由を守るだけでなく、より積極的に国民生活の充実と向上のために社会福祉、経済、文化、さらに科学技術等の発展に努めなければならないことになりました。
 したがって、憲法の役割を考える場合には、この授権規範としての憲法と制限規範としての憲法という憲法の両側面についてバランスの取れた見方が必要ではないかと思います。
 さらに、初めに述べました国家論を踏まえた憲法とは何かを考え直してみますと、このような分類も可能ではないでしょうか。
 つまり、一つは権力機構としての国家、つまり政府を前提としたもので、言わば統治のルールとしての憲法が考えられます。諸外国におきましては必要に応じて憲法を改正していますが、この統治のルールとしての憲法に着目するならば、必要に応じて憲法を改正するのは自然でありましょう。なぜなら、ルールのために国家が存在するのではなく、国家のためにルールが存在するからです。
 もう一つは、国民共同体としての国家を前提とした憲法、つまり国柄を示す憲法が考えられます。憲法の語はコンスティチューションの訳語ですが、コンスティチューションには、元々、国柄、国体といった意味があります。近年、憲法は国の姿、形を示すものといった言い方がなされることがありますが、これこそ憲法の本来の意味を示すものとも考えられます。
 また、国柄を示す憲法は、さきの統治のルールとしての憲法と異なり、簡単に変更されることはあり得ません。つまり、不易流行という言葉に即して考えれば、不易に当たるのが国柄、つまり国家のアイデンティティーを示す憲法であり、流行に当たるのが統治のルールとしての憲法ということになると思われます。この点、憲法は権力を縛るものなどと決め付けた場合、この大切な部分が欠落してしまうのではないでしょうか。
 第三の、不文の憲法につきましては、時間の関係で簡単に触れることにします。
 そもそも不文の憲法とは何か。不文の憲法などを認めれば立憲主義の否定につながるのではないかなどといった意見もありますが、結論的に言いましたら、私は、立憲主義の立場に立った上でなお不文の憲法を認めざるを得ない場合があるのではないかと考えております。
 例えば、憲法に緊急事態対処規定が存在しない場合、国家の非常時において国は拱手傍観して何もできないのでよろしいでしょうか。あるいは、憲法上の緊急権、憲法上緊急権が位置付けられている場合でありましても、それこそ国家の存立そのものが危ぶまれる究極の緊急事態においては、その緊急権を超える不文の緊急権という問題も出てくると思います。もちろん、これはもはや法の領域を超えているんだという議論もありますけれども、そういった意味での不文の憲法というものが論ぜられる余地があると思います。なぜなら、国家あっての憲法典であって、不文の憲法が国家は滅亡すれども憲法典を守るべしなどと命じているはずがないからであります。
 四、立憲主義について。この立憲主義でありますが、これも時間がありませんので一言言及するだけにします。
 さきに立憲的意味のところで簡単に触れましたとおり、近代立憲主義とは一般に、憲法によって個人の人権を保障し、権力分立を行い、国民の政治参加への道を開くものと考えられていますし、私もそのように理解しています。そして、国民主権の下では、主権者国民が憲法改正に参加できることこそ最大の政治参加ではないでしょうか。
 この点、日本国憲法の改正手続が諸外国と比べて極めて厳しいグループに属することはさきに述べたとおりです。そのため、国会の発議が容易でなく、憲法制定後、一度も改正の発議がなされたことがありません。そのため、憲法改正国民投票への参加という主権者国民が主権を行使する唯一の機会が奪われ続けているわけであります。このことは、立憲主義における国民の政治参加という問題を考えるならば、ゆゆしき事柄ではないでしょうか。
 五、終わりに。
 最後に、意外に思われるかもしれませんが、東大法学部法学協会が編さんしました「註解日本国憲法 下」には、憲法制定者たる国民が憲法を尊重し擁護すべきことは当然であるとの言葉があります。しばしば憲法擁護義務を負うのは公務員だけであるといった議論がありますが、法学協会の「註解日本国憲法」にはこのようなことが示されております、当然のことでありますけれども。
 それから、美濃部達吉博士の「日本国憲法原論」には、国家の構成員である国民は国家への忠誠義務を負っているとの言葉を紹介させていただきたいと思います。もちろん、ここで言う国家は政府ではなく、国民共同体としての国家、歴史的、伝統的な国家を指すはずであります。この言葉を紹介させていただきまして、私の意見陳述を終わらせていただきます。
 御清聴ありがとうございました。
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柳本卓治#3
○会長(柳本卓治君) ありがとうございます。
 次に、水島参考人にお願いいたします。水島参考人。
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水島朝穂#4
○参考人(水島朝穂君) 私は、二〇〇三年だったと思いますが、参議院の憲法調査会で緊急事態法制の問題についてお話をさせていただいて以来でございますので、本委員会にお呼びいただきましてありがとうございました。
 とはいえ、バンクーバーのブリティッシュコロンビア大学で実は二日の日の午後、講演をしておりまして、集団的自衛権と憲法九条というテーマでございました。大変向こうの学者や市民も安倍政権のそういうことに関心が高かったんですけれども、ここに間に合うために早めに出まして、ぎりぎり今日の五時に着きました。したがいまして、ここにもしかしたらいなかったかもしれないという状態が実は起こりまして、そういう意味では、無事に今日お話ができることを大変うれしく思っております。
 さて、お手元に資料、私の資料は三十七ページから始まっておりますけれども、憲法とは何かというのをこの時期、このタイミングで、この本院が行うことについて一言申し上げます。
 報道によれば、来年、参議院選後に最初の憲法改正国民投票を行うというような言説が政府・与党筋から聞こえてまいりますけれども、参議院があえてこのような抽象的なテーマで議論することは、憲法改正の重さ、その重要性を政局的にではなく大局的に捉えようとするもので、私は敬意を表したいというふうに思います。参議院は、文字どおり熟議の府あるいは良識の府と言われると同時に、私は国権の再考機関であると、こういうふうに随分昔からしゃれで言ってまいりました。つまり、リシンキング、再び考える、再考機関。つまり、衆議院と同じように急いで決めたり、衆議院と同じことではなく、参議院は参議院らしくやっていただきたい。その意味で、私の、憲法とは何かという今回のテーマをお引き受けをした、こういう無理な日程でお引き受けした理由は、まさに参議院のその再考機関性、再び考える性に共感したからであります。
 では、憲法とは何かを考えることからまず始めたいと思います。
 今、百地参考人から一年生の一学期、まあ前期の二回目の講義でやる、私もやるお話をしていただきました。立場や内容は微妙に違いますし、反対するところもありますけれども、この論点で深めていきたいとは私は思いません。と申しますのは、この議論がもう少し次の段階で絡んでくる問題、これを、ここに書きました自明なことの自明でない確認から始めたいと、こういう意味でございます。
 自明でないことは何か。それは、今述べられた議論を含めて、政党から出ている改正案を含めて、憲法はこういうものじゃないかというのはそれぞれ意見が出ます。しかし、それが改正案となって出てきたとき、それは実は憲法という本質の議論からいってどういう問題があるのか。つまり、憲法とは何かを理解する上で、そうではないいろんな言説を逆に議論することによってそこから憲法とは何かに逆照射、光を当てたい、これが今日の手法でございます。そうしますと、実は、素材としまして自民党の改憲草案を素材にさせていただいておるわけですけれども、これは非常によく分かりやすいという意味でそういう意味でございます。
 一点目。まず、この憲法とは何かという議論で、先ほどもありましたけれども、縛るとかそういう意味で議論もありましたけれども、私の資料の四十二ページから四十五ページのところで随分昔の議論を書いてあります。
 これは、実は小林節教授と私とでフジテレビの番組に出まして、一般市民が議論をして最後フジテレビで放映されたんですが、改正について賛成か反対かでやったんですが、最後、その六人は全員一致で保留という結論を出したんです。その理由は、憲法は国民が守るものでなく、自分たちの政治を担当させる権力者に対してそれを縛る、統制するものだと、そういう結論に彼らは到達しました。それに至るプロセスは私と小林節教授は全く意見がほとんどの論点で違いましたけれども、唯一、憲法の本質論においては近代立憲主義の立場に立つ、小林先生も先ほどの百地参考人の国民共同体論には立たない、つまり伝統的な多数派憲法学の、近代立憲主義に立った場合こうだということを私と同じことを言ったために、市民がそこでは憲法の本質論を理解していただいてこういう結論になりました。これは後でお読みください。
 そして、私が十一年前、朝日新聞社で、当時幹事長だった安倍現総理が憲法改正をこう論議しようといった「論座」に書いた論文に対して、編集部から批判してほしいというので書いた論文が資料の四十九ページ辺りからございます。
 そこで私が述べた内容は、つまり、権力抑制原理としての憲法の意義というものの認識をめぐって違いがあると。つまり、憲法に与えられた機能の役割の第一義的なものというのは、権力担当者に対して政策選択肢の幅を限定させる。この考え方が立憲主義の基本にあって、基本的に主権者国民が時々の権力担当者の言わば政治を授権、与えるわけですけれども、それが暴走しない一つの障害として設けたものである。だから、立憲主義というのは、その意味では歴史的に培われてきた人類の英知の一つであると、こういうふうに述べまして、だからそのハードルを下げることには問題があるのだという趣旨のことなどを論じておりますので、そこは昔のものですけれども、現総理との議論のやり取りということでお読みいただければと思います。
 したがいまして、安易な憲法改正というのは、実はこの憲法とは何かの本質に関わるところの議論が不十分なままに変える、変えないの議論に移行してしまっている、そこに問題があるということを私は指摘したのであります。
 そこで、内容に入りたいと思います。まず二番目。憲法前文に歴史、伝統、文化、先ほどでいえば国柄、そういうものを書き込むことの意味であります。
 そういうことを書き込むべきだという説がございます。しかし、近代立憲主義の伝統的な憲法の立場、現在私は全国憲法研究会の憲法学者五百人の代表を務めておりますけれども、昔のように護憲か改憲かで対立したんじゃなくて、今日は余りにも立場の違う人間を呼び過ぎていますけれども、私の全国憲法研究会には私を批判するような若い憲法学者がいっぱいおりまして、それでも全員が一致して学問の選択の中で立憲主義の基本には立っています。ですから、先ほどのような立憲主義の立場を取らないで、五百人の憲法学者は基本的にそれぞれの研究をやっておりますから、研究の自由は、昔のようなやや、某教授の圧力とか、そういうのはもう存在しません、私がトップですから。その意味では、自由にしよう。そういう観点からすれば、憲法の理解も多様ですけれども、唯一、一点一致しているのは、国柄とか伝統とか歴史を過剰に憲法の中に書き込むことに対しては抑制的であるという点では、これはほぼ五百人一致をしております。
 なぜかというのは、これは是非資料を見ていただきたい。二枚目でございます。つまり、中華人民共和国憲法には、中国は世界で歴史の最も古い国家の一つであるとか、輝かしい伝統とか、そういうことが書いてある。あるいは韓国憲法にも、悠久なる歴史と伝統に基づく、こういう形の前文に入れている憲法は、韓国、北朝鮮、中国などそう多くなくて、英米独仏、一連のそういう近代立憲主義の正統的な西欧の憲法にはこういう文章はありません。
 つまり、国柄を入れろというのは、一見すると何か非常にいいように聞こえますけれども、実はあえて入れないことによって立憲主義の基本、つまり多様な意見がそれぞれ共生し合って、いわゆる比較不能な価値の共存関係と言う人もいますけれども、そういうものが立憲主義なんだから、そういう中身に踏み込むようなことについてはできる限り憲法は抑制的である、こういう立場がほぼ共通の理解になっているわけです。ですから、その意味で、伝統、国柄等を書き込む憲法の事例に見られるように、これは決して一般的ではなく、かなり特殊だとあえて言いたいと思います。
 それから三つ目、人権規定も、我が国の歴史、文化、伝統を踏まえるべきだという意見がありますが、これは別に東大の権威主義じゃありませんが、東大の宮沢俊義教授が述べているように、明治憲法が実は近代諸国の憲法をモデルにしながら手本にして作ったんだと。ところが、明治憲法の解説者の中には、安易な国粋主義や愛国心に動かされて、明治憲法に対するヨーロッパ諸国の憲法の影響をできるだけ無視しようとする声が出てきたと、こういうことを述べていらっしゃいまして、決して明治憲法も国柄や伝統ではなくて、近代立憲主義の西欧的なものをモデルにしながら作ってあります。臣民の権利その他にも限界がありますけれども、立憲主義を取る以上、それが立憲主義の基本であるということを申し上げたいと思うのであります。
 ですから、人権規定についても伝統を踏まえるべきだという主張に対しましては、つまり基本的には近代立憲主義の原点からすれば、これはそういうものではないということを申し上げたいと思います。
 それから、四のところで書きました、立憲主義は国民の義務規定を憲法に設けることは否定しないという議論でございます。
 これは基本的に、ごめんなさい、今の三番目で追加させてください。例えば、憲法九十七条と十一条があります、基本的人権です。これを九十七条は削除するという御主張が与党の中にあります。現に草案になっております。
 しかし、これは全く意味が違う。十一条は人権の総論でありますから、位置関係からすれば人権の総論として存在する。九十七条は人権の場所ではなく、最高法規の章にあって、九十七、九十八、九十九の三か条で憲法は最高法規としています。つまり、九十七条は目的。憲法の目的、すなわち九十八条が最高法規とする目的は九十七条の人権の保障にあるんだと、だから公務員は憲法を尊重し擁護する義務があるのだという、こういう立て付けになっておりまして、この憲法の立て付けは、確かにダブった表現が十一条と九十七条であるんですけれども、決して位置関係からすれば無意味なものであるどころか、日本国憲法の先ほどの言葉を借りればアイデンティティーの本質が九十七条の最高法規のトップ条項にある、そのことを強調しておきたいと思います。
 つまり、九十七条を削除する憲法草案というのは、人権を基本的に最高法規で確保しない憲法を考えているのかという悪口が出てきてしまうような内容であると思います。
 それから四のところで、立憲主義は、国民の義務規定を憲法に設けることを否定しないということにつきましては、これは資料を見ていただければ分かりますけれども、実は欧米の自由主義国家では義務規定はオンパレードではございません。義務規定がたくさん出てくるのは旧社会主義国の憲法と中国の憲法でございまして、今日、全部並べてございませんけれども、下の方にたくさん義務が出てまいります。
 つまり、憲法があえて権利と義務両方をバランスよく入れるんだというのは、これは極めて不正確でありまして、そもそも憲法は、バランスよく入れるんだったら要らないんです。法律はバランスが必要です。民法でもそうです。でも、憲法は最初からバランスは決まっています。なぜならば、個人と国家、権力担当者、国家の言わば統治機構では圧倒的に力の差がある。だから、憲法はあらかじめ個人が侵害されないように様々な自由を定めたり、その自由も権力の侵害の度合いに応じて厳しくしたり緩めたりしているわけであります。
 そこから見られるように、まさに義務を強調するという言い方、例えば国家学会の中にもあったとか、そういうのはあるんですが、昔のあの限界のある教科書をもってして証明にはなっておりません。
 つまり、端的に言いまして、憲法はあえて義務を書き込まないと言ってもよいくらいでありまして、二十七条の勤労の義務も、基本は勤労の権利に重点がありますし、もちろん納税とか教育の義務もそれぞれありますが、教育の義務の主体は子供ではありません。そういう意味からいっても、明治憲法下の教育の義務とは明らかに違う。
 そういう観点から、立憲主義の問題からすれば、近代立憲主義に立った日本国憲法は、あえて言えば、義務はゼロでもいいとは言いませんけれども、義務を限りなく抑制した現在の制度設計というのが最もそれに照応したものであると言いたいと思います。
 そして、更にございますけれども、次の憲法尊重擁護義務に行きたいんですが、憲法尊重擁護義務でいいますと、つまり、そこに国民が入っておりません。代わりに天皇と摂政が入っております。なぜ摂政まで入っているか。それは、摂政は皇太子が摂政宮になって何かを行うことも含めて、実は皇室が天皇という形で国事行為を行うときに憲法尊重擁護義務を課しています。
 憲法尊重擁護義務をあえて課したことによって、例えば即位後朝見の儀で現天皇は、皆さんとともに日本国憲法を守り、とはっきりと言いました。そのときの皆さんは国民を含んでおりません。その前にいた最高裁長官から始まる総理大臣竹下登さん、それから議会の長ですね、そういう人たちを含めたいわゆる国会議員、裁判官、その他の公務員を指していたはずと私は解しておりまして、当時それを高橋和之教授が雑誌「世界」で論じたことを今も記憶しております。皆さんの相手は誰か。あの天皇が述べた皆さんは、皆さんとともに私も日本国憲法を守るということであったのではないか。
 もちろん、天皇は政治的行為をできない、内閣の助言と承認ですから、内閣がそう言わせたとか、そういう議論はここでは立ち入りません。しかし、言葉だけを取って、歴史に残ったあの瞬間の言葉が皆さんとともにと言った意味は、九十九条を私は素直におっしゃったのではないかと考えております。
 したがって、国民に憲法尊重擁護義務を殊更に課すという議論は、先ほどの資料を見ていただくと分かりますが、諸外国の憲法には尊重擁護義務、特に中国とかそういう国がありまして、ドイツはちょっと意味が違うので、また質問があれば答えますけれども、中国などの尊重擁護義務は非常にリジッドでございます。
 そして、現行憲法の占領下だったからという議論については今回は省略させていただきまして、あっ、省略の点で一点言いますと、例えば憲法二十四条、そこに女性の権利が書いてあります。女性の権利について、スターリン憲法やソ連憲法をまねしたからこれは共産主義の価値が入っているというようなことをおっしゃる議員の方もいらっしゃいますけれども、これは間違いでございまして、私、それを弁証するために、一番最後に私のホームページの直言というのを、ちょっと特定の議員の方に批判のように聞こえますが、これそのとき書いたものですからお許しください。
 それを書くことによって、実はその六十一ページから六十二ページにかけて、美智子皇后が指摘されたいわゆる五日市憲法や近代立憲主義の熱い思い、そして何よりもベアテ・シロタ・ゴードンさんへのメンションを誕生日のこの挨拶の中でされておりまして、この中にも見られるように、共産主義でも何でもなく、リベラルなアメリカの女性の考え方というのが日本国憲法の中にも入っているということがここで主張をされているわけでございます。
 そういう観点から、まさに、押し付けだ、全てはアメリカの価値のものだということは当たらない。つまり、伝統的な様々な日本の中にあった様々な価値、明治憲法以来、自由民権運動以来のものと、外から女性の権利に対する熱い思いを持った、占領軍にいたたまたまそういった女性たちのまさに合作が日本国憲法である。憲法は、シンプルに、簡単にこっちとこっちでできるものじゃなくて、複雑なプロセスを経たモザイクのような一つの芸術品です。だから、弱点だらけであるし、その解釈も多様であるし、様々な問題を持っています。どこにも憲法が一〇〇%いいなどとは言いません。全国憲法研究会の代表として、憲法を改正してはならないなどという憲法学者は一人もおりません、九十六条がありますから。
 ですから、憲法を改正する場合にはどういう議論の仕方が重要かというのが最後のポイントでございます。それが私の言葉で言う憲法改正の三つの作法でございます。
 作法などという、茶の湯やそういう世界のものをあえてここで持ち出したのは、誤解を承知で私が述べたのは、いわゆるルールであるとか法則であるとか原則というよりは、もっと私は強調したかった。つまり、あえて法律にも書いていない、そういう手続法にもないけれども、誰もが当然の条理として知っておくべきものが憲法改正には普通の法律と違って求められるんだと。なぜか。それは、先ほども議論があったように、憲法は基本的に国の基本的な構造を規定しているものです。ですから、その時々の政権の事情によって変えられてはならない。その意味では、政権が替わっても引き継がなきゃいけない継続性と一貫性と、何よりも安定性が必要です。
 そうしますと、それを変える場合、三つの考慮事由が必要である。一つは高い説明責任です。この説明責任というのは、基本的に変える側に高い説明責任が課せられていると私は考えております。それは、民事訴訟でいえば、原告、被告はフラットでございますから、バランス論や対等の議論が成立します。しかし、刑事訴訟では絶対にそれは成立しません。なぜならば、疑わしいだけでは有罪にはなりません。検察が有罪を立証できなければ無罪でございます。これが無罪推定です。
 したがって、憲法については法律と違ってバランス論ではなく、変える側が憲法改正をしなければどうしようもないんだということが証明できて初めて憲法改正の議論に入っていく。これは法律と違うところであります。法律は、それぞれ草案を出して、闘わせて、政権が取ればそれで変わることは我々目撃していきますけれども、憲法は違う。憲法の場合は、基本的にそういう意味でいえば長期的な国のそういう安定性や定着性、そういうものを定めますから、時々の政権では変えられないように作る。だから、変える側は高い説明責任が証明できなければ変えないという結果ができる。
 つまり、変えない側がなぜ変えないのかを説明する必要は私はないというふうに思っております。なぜならば、変える側が説明に失敗をすれば憲法は残るということでございまして、その意味では、九十六条を先行して変えようと一時期総理が、二〇一二年の総選挙後言いましたが、近年では先行改正論は影を潜めたのがそうであります。つまり、九十六条を早く変えることに説明に成功しなかった。国民が支持しなかっただけではなくて、恐らく皆さんの、委員の中でもこれはちょっと筋が良くないと思った方もいらしたはずであります。こういうことですから、九十六条は変わらなくて今もあるわけです。そういう意味からいっても、私は、そういう意味で高い説明責任はする側に高い説明責任がある。
 二つ目は、情報の公開と自由な討論です。
 どうして憲法を変えなきゃ駄目なのかということが十分に議論されないで、取りあえず環境権が合意を得やすいからというのは、これは全くもって憲法をなりわいとする者からすれば許せないことです。
 環境というものは、環境権と環境の責務という国の義務とは全く質が違います。権利というのは裁判所に訴求できる権利なのか、客観的な法秩序の中における責務条項なのか、この区別もしないで環境権を憲法に入れましょうという議論は極めて不誠実な議論の仕方であります。そういう方に限って、代替エネルギーの問題や福島の原発の復興の問題について必ずしも熱心ではないような方も見受けられるのは、私は偶然ではありませんと思います。
 そういう意味からいいましても、環境権を入れるよりもっと環境が、究極の環境破壊である福島を何とかしてほしいという被災者の人々の気持ちの方にむしろ、福島の人は環境権の改正には賛成するかどうかは疑問ですが、そういう点が言えます。
 三つ目、それは熟議の期間であります。
 情報の公開と、きちっとしたそういうものがなされた上で熟議の期間が必要だ。一体、憲法を変える権力の担当者の側から、参議院選後にまず第一回をやろうなどということがなぜ出てくるのか、私は理解できません。国民の側から憲法を変えようという声があります、したがって、そういう声が大きくなってきた、どうしても憲法改正をしなきゃならない、そういう段取りであるはずです。
 後でお読みいただきたいこの小林節教授とやったフジテレビの番組、是非この委員会で、フジテレビから提供すれば、二〇〇五年三月に放映したものです、一切再放送してくれませんけど、それを是非皆さんで御覧ください。普通の市民が見てみて、改憲、護憲、三対三が最後全員一致で、憲法はそういうものだから、権力担当者の問題だから、我々は一回下から憲法改正の議論が上がるまで保留しようと、あるいは憲法の本質を理解できる場にしようと、こういうことで保留にする結論をフジテレビの番組でしました。
 そういう観点からも、私はこの三つの作法というのをその番組の体験から持ってきたことを今も記憶しております。
 最後になりますけれども、このような、つまり憲法改正の仕方からすれば、この審査会がまず憲法とは何かというところから始めたということは、政権側のように期限を切ってやるせわしい議論とは違って、やはり根本的な議論をしたいということが与野党皆さん御一致したということで、参議院に対して非常に敬意を表したいという冒頭の言葉に戻るということを最後に申し上げて、私の意見を終わりたいと思います。
 ありがとうございました。
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柳本卓治#5
○会長(柳本卓治君) ありがとうございました。
 以上で参考人からの意見の聴取は終わりました。
 これより参考人に対する質疑を行います。
 本日の質疑は、あらかじめ質疑者を定めずに行います。質疑を希望される方は、お手元に配付した資料のとおり、机上の氏名標を立てていただき、会長の指名を受けた後、御発言願います。
 一回の質疑時間は答弁及び追加質問を含め八分以内といたします。時間が限られておりますので、質疑、答弁とも簡潔に願います。質疑者におかれましては、参考人の方々の答弁時間を十分に考慮をいただき、時間配分に御留意ください。なお、質疑を終わった方は、氏名標を横にお戻しください。
 参考人の方々におかれましては、答弁の際、挙手の上、会長の指名を受けた後、御発言願います。
 それでは、質疑のある方は氏名標を立ててください。
 佐藤正久君。
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佐藤正久#6
○佐藤正久君 自由民主党の佐藤正久です。
 本日は、百地参考人、そして水島参考人、ありがとうございました。
 時間の関係で、百地参考人に質問をさせていただきたいと思います。
 参考人言われた、憲法は英語で言えばコンスティチューション、国の形や構造、国柄を表すものだという意見に同調する者の一人です。その意味で、憲法に書かれています国民の権利及び自由、あるいは義務、あるいは責任というものの関係について、この国柄をしっかり書き込むということも非常に大事だと私は思います。
 今の憲法では、特に第三章で国民の権利及び義務が書かれておりますが、権利が十五、義務がそれに対して三か所、自由が六か所で、責任はたった一か所と、余りにもバランスが悪い。権利や自由というものが前面に出過ぎていて、義務と責任は引っ込んでいるような感じにも見受けられます。
 東日本大震災のときに、人権で一番大事な生存権を守るために個人の権利や自由を抑えるということも必要だったわけですけれども、結果的に、この個人の権利を抑えるような政令が出たのは三週間以降ということで、非常に現場が苦労しました。
 私は、義務なき権利はないし、責任なき自由はないという国柄をやはりこの憲法の方にも明記すべきと考えますが、それについてのお考えをまずお聞かせ願いたいと、これが一つ目です。
 二つ目に、この国民の権利あるいは民意を表す手段の一つとして住民投票があろうと思います。その住民投票も、憲法制定当時とは違った今状況がいろいろ生まれているようにも思います。
 先月の二月の二十二日、与那国島で起きました自衛隊の配備の是非を問う住民投票、これは反対派の町議員の方から提案があり、それが採決されて行われたわけですが、その際には有権者として中学生以上あるいは永住外国人にも投票権を与えて行われました。さらに、その条例には、その結果を尊重するようにというくだりまで書かれていました。確かに民意を表す、確認するという住民投票は非常に大事だということを踏まえた上で、二点、御意見を聞かせていただきたいと思います。
 安全保障とか国家的な課題というものが本当に住民投票になじむのかという論点です。確かに憲法制定当時、あるいはそれに基づく地方自治法制定当時には、まさかこういう国家的な課題を住民投票というものでというのは想定していなかったと思います。
 二点目として、この住民投票の有権者に未成年とかあるいは永住外国人を認めることについての先生の評価をお願いしたいと思います。
 総務省の見解は、法的拘束力がなければ、今回の住民投票に未成年とか永住外国人を含めるということは、これは違法とは言えないというものですが、この論法によれば小学生もオーケーになってしまうと。本当に小学生にこういう国家的な課題について本当に判断できるのかと。憲法学者の中には、この参政権の中には住民投票権も入るという論調もありますが、本当にそういう意味において、今、拘束力があれば違法で拘束力がなければ何でもいいという考えは、私は非常に危険なような感じがいたします。
 これも、住民投票も国民の権利を、あるいは民意を表す一つですが、この辺の考え方について、参考人のお考えをお聞かせ願いたいと思います。
 以上です。
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百地章#7
○参考人(百地章君) 御質問ありがとうございます。それでは、二点の問題についてお答えさせていただきます。
 まず第一点の権利と義務の問題でございますけれども、確かに、明治憲法制定会議におきまして伊藤博文が、憲法において、権利を定め権力の行使を制限せざるして何で憲法を制定する必要があるのかという意味のことを述べております。したがいまして、立憲主義の立場からすれば、権利をまず保障するということが当然であります。
 しかし、一方で、例えばフランス革命で人権宣言が初めて発せられたわけですけれども、あそこで発せられた人権宣言が何をもたらしたかと。つまり、言わば無制限であるかのような人権宣言が発せられたために、あれが一つのああいった暴走を生み出したという見方もあるわけであります。そして、現にその人権宣言が出されて、その後の反省に立って、実はフランスでは、フランス国民の権利と義務の章典というのも作られているんですね。これは人権が、ちょっと正確な表現ではなかったかもしれませんが、そういうのがあります。そこでは権利と義務が同じように数限られているといったこともありまして、おのずから権利と義務についてはバランスとかそういったものが必要であろうというふうに私は考えております。
 また、常識で考えれば、権利と義務は当然セットであるというふうに考えておりまして、したがいまして、御質問のありましたように、権利と義務についてのバランスといいますか、そういった発想は私も賛成であります。
 ただ、義務については、当たり前のことは憲法に書かないということもありますから、したがって、先ほどの水島参考人のお話の中では、義務なんて掲げていない国も多いんだという話もありましたけれども、それは当たり前であって書かないという場合もありますから、必ずしも条文にこだわる必要はないと思います。
 それから、二番目の住民基本条例あるいは住民投票条例の問題ですけれども、これは私もやはり御意見に基本的に賛成でございまして、まず住民基本条例、その条例そのものが果たして憲法上どういうふうに位置付けられるのかと。つまり、地方自治というのは間接民主制を旨としているわけですね。ところが、議会が、与那国島であれば自衛隊の配備を、これを議決したにもかかわらず、仮に住民投票でこれが否決される結果が出たらどうなのかと。つまり、それに従ってその配備が否定されれば、これは言わば住民自治の否定、憲法の間接民主主義の否定につながります。したがって、憲法上の疑義が出てくるという問題。
 それから、そもそも防衛とか安全保障といった問題が地方自治の対象となり得るのかと。これはもう国政上の問題でありますから、そもそもそういったことを地方自治のレベルで論ずること自体が私は無理があると考えます。
 それから、あの与那国島の場合には外国人と未成年者にまで与えておりましたけれども、この外国人の問題につきましては参政権、広い意味での参政権、これが住民投票であると考えれば、参政権は国民固有の権利であるとした憲法の趣旨からしても、あるいは国民主権の原理からしても許されないと思われますし、また、未成年者については公職選挙法でも未成年者を投票活動等に、選挙運動に参加させることを禁止しておりまして、また、未成年者にそもそも判断能力が十分あるのかと。様々な点から見まして、やはり外国人、未成年者にまで住民投票を与えたのは非常に問題があるというふうに考えております。
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佐藤正久#8
○佐藤正久君 どうもありがとうございました。
 今の意見を参考にして、また議論を進めていきたいと思います。
 ありがとうございました。
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柳本卓治#9
○会長(柳本卓治君) 前川清成君。
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前川清成#10
○前川清成君 ありがとうございます。民主党の前川清成です。
 私は、二〇一三年の一月以降、大畠、枝野、そして現在の江田、三代の民主党憲法総合調査会の会長の下で事務局長をさせていただいています。
 私は、七十年たった憲法を一字一句触ってはならないという意味でのいわゆる護憲派ではありません。しかしながら、憲法に基づく政治、あるいは法の支配、あるいは立憲主義、これは文字どおり命懸けで守っていかなければならない人類の宝ではないかと、そんなふうに思っています。
 その点で、百地先生の資料を拝読させていただきますと、当然その国の来歴や国柄も憲法は表現しなければならないというふうにお書きになっていて、自民党の議員の皆さん方から憲法というのは国柄を表現するものだというふうに御発言になって、あるいは、そのときの総理から制限規範性については王様の時代の考え方だというふうな御発言がありましたので、実は百地先生のお説というのはもっとラジカルな考え方なのかなと、こういうふうに思っておったんですが、しかし、その百地先生も言わば当然のこととして、この御著書の中でも国家権力の行使に対して警戒的であることが立憲主義の核心であると、こういうふうにお述べいただいていますので、是非、これからもし憲法の議論を深めていくというのであれば、自民党の皆さん方も、百地先生のお説の都合のいいところだけ取るのではなくて、憲法の制限規範性も授権規範性も最高法規性も全て前提とした議論をお願いしたいと思います。
 その上で、百地先生にお尋ねをするのは、確かに社会国家になって、フリーダム・フロム・ステーツだけではなくて、先生のお話にもありましたスルー・ステーツ、国家によって例えば社会権を保障していくという場面はあると思います。したがいまして、その意味において、私は国家というのが常に敵対的であるという議論には立たないわけでありますけれども、しかし、社会権の保障とはいえ、自由や平等が保障されていることが当然の前提であって、その上で生存権やあるいはその他社会権が保障されると。
 こういう意味においては、やはり現在にあっても、憲法に授権規範性、最高法規性、様々な機能があることは前提としつつも、核心的な部分はやはり制限規範性ではないのかなと、こういうふうに考えておりますので、ちょっとその点お考えをお聞かせいただきたいのと、今、権利と義務はセットだと、こういうふうにおっしゃいました。しかし、立憲主義であるとか憲法の制限規範性に照らせば、義務というのはむしろ付随的に憲法に書かれるものであって、人権を保障すること、基本的人権条項こそ憲法の核心的な部分ではないのかと、こういうふうに考えております。その点についても御意見をお聞かせいただければと思います。
 また、水島先生は、大変お忙しい中、お疲れのところお越しいただきまして、ありがとうございました。
 百地参考人の方から、近代憲法、立憲主義的な憲法の核心としてフランス人権宣言十六条が引用されましたが、同時に、今から三十年ほど前ですが、私が法学部に入った頃、憲法の勉強を始めた頃は、教科書と同時に、それこそ一年生の一学期、ゴールデンウイークに入る前に憲法の意味という講義があって、芦部先生そのほかが「憲法の基礎知識」というのをお書きになっていて、それの冒頭に書かれてあることが、憲法というのは決して価値中立的な器のようなものではないんだと、基本的人権を保障するというために生まれたルールなんだと、こういうふうに書かれてあります。
 昨今、少年犯罪で痛ましいものがありました。少年犯罪をどうするかというのであれば少年法を議論する。労働者の立場をどうするのか、労働法を議論する。と同じように、憲法には憲法の役割があるのではないのか。そのことは、私は幾ら強調されてもいいのではないかと、こういうふうに思っておりますので、この点、水島先生のお考えをお聞かせいただければと思っております。
 以上です。
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百地章#11
○参考人(百地章君) 立憲主義についてのお尋ねだと思いますが、先生おっしゃいましたように、成立の事情ですよね。歴史的に見れば、これはいわゆる十七、八世紀、絶対的な王制下の下で、そういった絶対的な権力を持った国王のこの権力の濫用を抑える、あるいはその権力の行使を制限するために登場してきたのが立憲主義であることは間違いありません。それは事実です。それだけをもって今日それはもう必要ないんだという議論は私はもちろん取らないわけでありまして、権力というのは、そういう歴史的な問題だけじゃなくて、常にこれは濫用されがちである、権力は必ず腐敗する、絶対的権力は絶対的に腐敗するといったアクトン卿の言葉もありますけれども、私は決してそんなに否定的なものではありませんが、しかし、絶えず権力に対する警戒というのは、これはなくてはいけない。そういう意味で、現代においても、そういう制限規範としての憲法という点は非常に大事だと思います。
 しかし、私はそれ以上に、それ以上にといいますか、それと同時に、ただ権力を抑制すればいい、権力を制限すればいいとなると、社会国家の現実とか、あるいは国家権力そのものに対する否定的な立場から、実際、震災のときに何があったかと。権力の行使に対する警戒とか、あるいは流されてきた瓦れきを処理することまでこれは財産権の侵害であってできないんだと。これは解釈としておかしいんでありますけれども、現にそういった形でその国の権力の行使に対するいろんなそういう警戒とか批判が出てくる。そういう意味では、正当な権力の行使の根拠となっているのは憲法であるという点はやはり押さえなくちゃいけないと思います。
 それから、あとは自由権と社会権の関係ですが、これはやっぱり局面の問題だと思います。制限規範が基本ということじゃなくて、自由権ということを考える場合には当然制限規範ということがこれが重視されてきますし、社会権の場合には授権規範としての面が表に出てくる。したがって、局面局面ごとに解釈していけばいいんじゃないかなというふうに考えております。
 それから、なお、権利と義務は裏腹の関係にあるというのは言わば常識的なそういう考え方を申したわけでありまして、憲法で定めた義務というのは国民としての特に必要な義務を掲げたものでありまして、それは限定的でありますけれども、一般常識としては、権利を行使する場合にもそういう義務というか責任意識を持ってやるのは常識だろうと、そういう話を申し上げたわけでございます。
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水島朝穂#12
○参考人(水島朝穂君) 御質問ありがとうございました。
 芦部教授を含めて、憲法の目的は人権の保障にあって統治機構はその手段であるという理解は司法試験のほぼ共通のものでしたし、これは、実は今年八十年を迎える天皇機関説事件のときの東大を始めとする全ての、早稲田も含めて、教科書の、高等文官試験を受ける、試験を受ける人たちのベースは天皇機関説でした。つまり、当たり前のことが書いてあった。ゲオルグ・イェリネックが、いわゆる国家に主権がある、天皇はその最高の機関なりと、これは当たり前の通説だった。この通説を当時の軍部や貴族院で、この貴族院などがああいう形になって、天皇機関説になって、今年、そういう歴史的なターニングポイントですね。つまり、大学の通説だったもの、天皇機関説が通説だったのは、あれは立憲主義的説明なんですよ、基本的な戦前における。公務員もみんなそうやって試験に受かって天皇の官吏になっていた。
 ところが、戦後は、まさに憲法の目的は人権にありということが価値、まさに前面に押し出された日本国憲法の下で、それが当たり前のように司法試験の教科書として公務員も受験してきたから、先生おっしゃるようなものが頭から生まれてくるのは私は当たり前のことであって、価値中立的でないといった意味は、まさに人権保障が目的だということ。だから、自民党草案がある九十七条は削除しちゃいけないのは、あの九十七、九十八、九十九がそういう関係で公務員も縛っているから、制限規範性を過度に強調して言わば授権規範性を無視するのは全くもって議論に成り立たないのでありまして、制限規範性と授権規範性は裏表の関係なんですね。
 つまり、その意味でいうと、これを説明するために教科書的にやったんであって、本質的の憲法の立て付けというのは、基本的人権の保障という目的に対して統治機構をどう組み立てるか、その際の近代立憲主義を今の憲法の下でどのように組み立てるかというときの説明として出てきている、そういうものが過去の説明も生きてくるわけでありまして、そこを抜きにした一般的な権利義務、裏表とか、そういう議論と同じではないと私は思っております。
 最後になりますけれども、憲法の役割でいいますと、四十四ページ開けていただきますと、私の資料ですけれども、これはゲオルグ・フォルケという人の書いた論文から簡単に引用したんですけれども、憲法の最も重要な働きは制限引き出し機能だ、つまり制限規範だということを言うと同時に、実はもう一つ、方向指示機能も持っていると。リヒトゥンクスバイゼンクスフンクツィオン、方向指示機能とは何か。それは国家の基本的な目標、環境保護であったり社会権だったりする。そういうものを方向指示する機能もあるんだよということを言っていまして、ドイツの場合、それを動物保護まで入れちゃったんですね、近年。それはいろいろ議論あります。
 日本国憲法は、実はそういう形で憲法の中に社会権を含めて、実は本来的な憲法の近代立憲主義の中にその後新たなそういうものが膨らんでいったのは、この憲法の二つ目の私の言う方向指示機能というのがあって、その国がどういう国を目指すのかということなんですけれども、それは決して国柄とか伝統とか文化とか、そういうものには解消されない。そのときの言わば人権を目的とした国を運営する中で出てくる、次々に現代的な課題が出ますよね。ですから、将来、日本国憲法を改正してこういうことを国家目標規定で入れようじゃないかという議論があれば、私も参加したいと思っています。
 でも、被害者の人権を入れようという議論には参加しません。なぜならば、被害者の人権は極めてミスリーディングであって、実は、そもそも端的に言えば、憲法は加害者の人権しか保障しないのが憲法なんですよ。なぜなら、個人は検察、警察に対して圧倒的に弱者ですから、その人間が拷問されないとか令状抜きに逮捕されないとかというのを立て付けてあるんであって、決して被害者となった個人と私人間におけるそういう対応において、そこに、それを人権とした場合、ここに人権の設計が非常に難しくなってくるわけです。
 これは同じことが環境権にも言えていまして、私は、環境権を権利と入れることについては実は賛成しておりません。つまり、権利としてしまった瞬間、環境は、私も環境を侵していますから、権利と権利の調整がすごく難しくなる。
 だから、この方向指示機能と四十四ページに書いたのは、それは専ら人権とかそういうところを膨らませるよりは、先ほど言った統治機構の国家目標規定のようなところを豊かにしていくと、今後日本も変化していく中で。そういう議論の中できちっと議論をすれば僕は十分にあり得るし、それを九十六条で改正しようという議論は私も十分あり得ると思っておりますので、決して制限規範性だけを言っているわけでもなければ、そういう改憲は全部反対だと私たちが言っているわけでもないことを是非、与党の先生方にも知っていただきたいと思いました。
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前川清成#13
○前川清成君 時間ですので、これで終わらせていただきます。ありがとうございました。
 ただ、改めて申し上げたいのは、選挙によって選ばれた民主的な政権であったとしても、ヒトラーのナチス・ドイツのように暴走してしまうと。だから、権力を制限するルールとしての憲法が重要だということは、是非、与党の皆さん方にも、自民党の皆さん方にも、憲法の議論の前提として御理解をいただけたらと思います。
 以上です。
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柳本卓治#14
○会長(柳本卓治君) 矢倉克夫君。
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矢倉克夫#15
○矢倉克夫君 公明党の矢倉克夫です。
 お二人の先生方、貴重なお時間頂戴いたしまして、本当にありがとうございます。様々な示唆を与えていただきました。
 時間の関係もありますので、早速質問を入らせていただきたいと思います。お伺いしたいのは、日本国憲法における人権の制約についてであります。
 御案内のとおり、公共の福祉による制約というのは明文化もされているわけですが、これについては、なぜそもそも公共の福祉とならないのかという点では、人権と人権の衝突の調整であるというところを宮沢先生もおっしゃっている部分が今まで基本であったかと思うんですが、他方で、例えば、町の美観の維持であったり、性道徳もまた維持するという、人権の衝突以外の場面についてまた制約も受けるというような考え方もあると思うんですが、この辺りについてはどのようにお考えなのか。公共の福祉というふうにどう捉えていらっしゃるのかという部分も含めて、まず百地先生から、その後、水島先生からいただければと思います。
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百地章#16
○参考人(百地章君) ありがとうございます。
 公共の福祉論ですが、実は学説の唱えるところ、通説、宮沢説を通説とするならば、宮沢説の主張するところと判例とは大きく異なっておりまして、宮沢説では公共の福祉というのは人権相互の矛盾、衝突を調整するものであると、実質的公平の原理であると言っていますね。確かに、そう書かないと司法試験にも通らないようでございますけれども。
 しかし、実際の最高裁判決を見たら、例えばチャタレー事件であれば、あれはわいせつ文書の規制、表現の自由の規制ですよね。あのときに、人権相互の衝突の調整になっているかどうか。わいせつ文書の規制の法益ですよね。何のために規制を行うかというと、これは、性的秩序を保護し、最小限度の性道徳ですか、これを、済みません、ちょっと上がっておりまして、性的秩序を守り、最小限度の性的道徳を維持すると、だったと思いますけれども、そういった表現をしておりまして、ここには人権相互の衝突という発想はありません。
 そのように、最高裁は、例えばデモ行進にしても、公安条例にしましても、これ、例えば同じ道路を通過する歩行している人たちとの調整のために規制が許されるなんていう議論ではなくて、公共の安寧秩序を維持するためにデモ行進の規制は許されるというのが最高裁の判例であります。
 したがいまして、その辺、私は、学説の言うところは一つの説明としては分かりますが、やはり多くの国民、常識的な国民を納得させる説明にはなっていないと、最高裁の言っていることが私は妥当だと思っております。
 もう一つは、済みません、宮沢教授については、私に言わせると、国家論がないからこういう議論になっている。つまり、人権以上の価値は存在しない、国家といえども人権よりも下にあるんだという、そういった議論をされているわけですね。この国家というのが政府のことであるならば、つまり国民、その政府の下に国民があるというのはおかしいんじゃないかという議論になるかもしれません。しかし、国民共同体としての国家というものを考えるならば、その国民共同体の例えば存続、維持のために人権が一時的に制約されるということはあり得るわけでありまして、この国家論の不在が宮沢教授のこういった議論をもたらしているんじゃないかなというふうに私は考えているところであります。
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水島朝穂#17
○参考人(水島朝穂君) 国家論を前提にしながら憲法をという百地参考人のお立場というのは、憲法学界の中では常に存在してきた少数説でありますけれども、基本的に憲法学の観点から公共の福祉というものを考えたときに、初期の最高裁判例のように、むき出しの公共の福祉によって人権は当然制約されるという議論は卒業いたしまして、御承知のような宮沢教授の影響だけではなくて、最高裁の判例の中でも、先ほど公共の安寧秩序で最高裁も当然だというのはこれミスリーディングでありまして、新潟公安条例判決も東京都公安条例判決もそれぞれ論理違うんですけれども、明治憲法下のような、あるいは自民党改憲草案のような公共の秩序や安全というのをむき出しで、むき出しでデモ行進やわいせつやそういうものにするという時代はもうとっくに卒業しているはずでありまして、六〇年代以降の最高裁の判例を見ても、いろんな意味でもそれぞれの利益の調整についてはかなり工夫をされるようになっていますから、その意味で、公共の福祉による制限を絶対認めない的な議論で憲法学は近年やっておりません。
 分かりやすいあれを出せば、わいせつです。わいせつでチャタレー判決があったときのあの公共の福祉、かなり最高裁は大きく大上段に振りかぶってきたわけですけれども、近年、わいせつについては、例えばジェンダー論の観点なども含めて、女性に対するあれは差別なんだという観点からキャサリン・マッキノンの議論などが出てきたり、見たくもない子供に対して見せないという利益とか、これ正当な利益ですから、これも人権侵害だと言う憲法学者はおりませんので、近年、この詳しいことは省略いたしますけれども、このわいせつの合憲性、違憲性をめぐる議論におきましても、むき出しの公共の福祉論ではなくて、それぞれの権利の性質に応じた制約のありようというものを基本的に議論する方向と流れは学説、判例において出ておりまして、したがって、してはならないのは、公共の安寧秩序とか、自明の解釈不能な前提をつくることです。
 ですから、公共の安全、秩序と言っちゃった瞬間、安全というものの解釈権を持った政権側に自由になりますから、公共の福祉というこの曖昧な、今のあれでいえば、デモ行進等についてもいろんな利益の挙証の中で規制が必要かそうでないかを裁判所も工夫したり悩む。私に言わせますと、裁判所もみんな悩むことが、やる。悩まないようにすっきりと言葉を換えたらこれ守らなくなるし、裁判所もすぐ判決が出ちゃうんですよ。つまり、判決が時間が掛かり、こっちの裁判所とこっちが違うということに憲法というのは実は過剰でない、寡黙である。そこに実は社会が上手に生きていく意味があって、まさか私たちも児童ポルノ禁止法みたいな議論がなるとは、実は十年前、二十年前は、わいせつの議論で、授業では触れたことありませんでした。でも、近年ではこの議論必ず入れてきます。質が変わってきているんですよね。
 ですから、そういう意味でいうと、やっぱりもっと生産的な公共の福祉や人権制約も議論したいということで、やっぱりむき出しの公共の福祉論はもう卒業しなきゃいけないと思っております。
 よろしいでしょうか。
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矢倉克夫#18
○矢倉克夫君 済みません、時間が来ておりますので、じゃ、一点だけ。
 公明党も基本的人権の尊重というのは人類普遍の原理だと思っておりますので、その部分、今の先生方の御意見の中で、人権と人権の衝突以外の人権制約の場面が出てくる可能性という問題があるということ自体は理解をさせていただきました。その後の何をもって制約するかということはまた慎重に検討するべきことだということだけをお伝えして、終わりたいと思います。
 ありがとうございます。
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柳本卓治#19
○会長(柳本卓治君) 儀間光男君。
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儀間光男#20
○儀間光男君 維新の党の儀間でございます。
 本日のテーマである憲法とは何かについて百地先生、水島先生のお話を伺えたことは、誠にもって光栄に思っております。ありがとうございました。
 ただ、私、実は沖縄県出身でありまして、沖縄県は戦後二十七年間にわたって日本国憲法の下から外されておったんです。それで、昭和四十七年に復帰されて日本国憲法に入ったときは、既に私、小学校、中学校、高校、大学行って、三十は回っておりますから、一般社会人でした。そういうことで、私のこの七十年ちょっとの人生の中で憲法という、触れたことはそんなにないんです。だからといって、沖縄県民が憲法学者はいないかというと、私の後にそういう人たちはいっぱいおりますので、私だけ余り触れていなかったということを申し上げたいと思っております。
 さて、両先生の論旨にも、憲法は国の形をつくる、あるいは国家権力に制限を掛けるという立憲主義というところでは一致をしておるように思いました。ところが、この先に至っては、国民の関わり方についてなど、にわかに違いがあるような感じがいたしております。憲法に関しての認識は研究者間でも違いがあることは、その後の憲法のありよう、あるいは解釈にも違いが生ずるのは至極当然な結果だと思っております。その結果が、具体的に改憲派と護憲派にも分けられると思っております。
 そして、それぞれが議論を尽くしているという認識をしているところでありますが、そもそも本審査会の存立そのものが、制定七十年にも及ぼうとする現憲法について調査をし、研究を尽くして、場合によっては現憲法の見直し、つまり改憲するという前提の下での審査会であろうという認識を持っているところであります。憲法とは何かのテーマで改憲の話を持ち出すのはいささか的外れな感がしないでもないんですが、しかしながら、議論を重ねていくとき、結局は改憲か護憲かに行き着くのが容易に予想が付くところであります。
 そういうことから、さきに出ました、集団的自衛権の憲法解釈について閣議決定がなされておって、賛否両論いろいろありましたが、その反対のポジションを取っていても、最後には憲法の手続というかがなされ、法律の言う三分の二条項と、あるいは国民投票などの条件が満たされるのであれば、九条とて改憲があり得る、たとえ憲法九条であっても議論をタブー視してはいけないというふうに考えます。
 憲法には九条以外に時代にそぐわない多くの条項があります。あるいは、欠落している部分と多くの書換え、加筆が必要とする部分があると思います。例えば、予想し得ない大規模な自然災害が発生し、統治機能が失われたときに、憲法ではどのようにこれを保障していくのか。現憲法で欠落した部分を書き加えていかなければならないのではないか。
 あるいは、憲法九条、戦力を保持しないということはよく分かるのでありますが、また憲法は国民の生命、財産、領土、領海、領空を守らなければならないと解しておりまして、しかし守りについての具体的な条項はというと、必ずしも明確ではないというふうに見受けられます。
 つまり、改憲か護憲かというと、私は、これは欠落した部分を補完していく意味では改憲を前提に憲法論議をすべきであると思うのでありますが、両先生の御所見をいただければ有り難いと思います。シンプルに聞きたいと思います。
 以上です。
 百地先生に先にひとつ。
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百地章#21
○参考人(百地章君) ありがとうございます、御質問。
 私も、常識的に考えまして、GHQの占領下におきまして押し付けられた憲法、それを戦後七十年、ずっと憲法政治を行ってきたわけでありますけれども、常識的に考えて、当然いろんなところにゆがみ、ひずみが出てきているし、そもそも日本国憲法は、国家を国家たらしめないように、つまり、言わば国家の一番の存立の基盤であるところの防衛力ですね、これを否定したところに作られた、端的に言えば、日本を非武装化し、日本を弱体化するために作られたのは、これは紛れもない事実であると思っております。
 したがって、我が国が主権国家、独立国家として今日、国際社会において生き抜いていくためには、当然その防衛、安全保障の問題について憲法改正を行う。私は、九条一項のいわゆる平和主義、つまり侵略戦争を放棄した部分は、これは堅持すると。しかし、二項におきまして、もし我が国が侵略を受けた場合、あるいはその侵略を阻止するためにこそ自衛のための軍隊を持つ必要があるという立場に立っておりますので、そういった視点から考えましても、あるいは様々なもろもろのひずみが生じているということから考えましても、さらには緊急権の問題もありますけれども、国家の緊急事態に対処するための規定が憲法には存在しない、これは明らかに憲法の欠缺だと思っておりますけれども、様々な不備、欠陥がありますし、また成立過程から見ても極めて問題が多いと。
 したがって、日本が精神的な意味での独立を果たすためにももう一度憲法を根本的に見直す必要があるという立場を取っているわけでありまして、先生と基本的に同じ考えではなかろうかなと考えております。
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水島朝穂#22
○参考人(水島朝穂君) 私、九八年に「オキナワと憲法」という本も出しまして、編著でございまして、沖縄が七二年までまさに無権利状態であって日本国憲法のあれは受けていなかった、あるいは潜在主権論という説明もありましたけれども、実質的にはおっしゃる大変な沖縄の状態があった。したがって、沖縄における憲法記念日の感覚というのは微妙に違うということはいろいろ書いてきたつもりでございます。
 ただ、その沖縄の目から見た今の日本国憲法へのまなざしというのは、私の知る限り、委員の主張のような人よりは、むしろ憲法が沖縄にとってはむしろまだ初々しい感じがしておりました。というのはどういうことかといえば、本土よりも沖縄の方が日本国憲法の特に九条に対する思いというのは非常に強いというのを私は感じてきました、私は。
 そういう意味からしますと、今おっしゃったような軍隊を持ち九条を変えていくことをこの議論の前提にすべきだという議論を立てますと、例えば沖縄県が何度の選挙の中で名護の基地についてあのような選択を行った後も現政権は粛々と進めているわけですけれども、やはり沖縄の安全保障の位置関係、沖縄の基地の意味、これは今日は時間がありませんけれども、アメリカ側の資料を見ても、あそこに海兵隊の部隊を置いておく意味があるのかということは疑問の議論が既にありまして、その意味からいっても、安全保障の総合的な様々なファクターを構成をした議論が必要なんですけれども、そこに憲法九条改正を絡めた瞬間、議論は非常に一方的、一面的になってしまう。
 つまり、今中国の関係やいろんな問題の議論をする上で、基本的には憲法問題なのか、それとも安全保障の一般の問題なのかを区別すべきだろうと思います。その点で、私は、二〇一二年の、超党派でつくっている新憲法制定議員同盟、先生お入りかどうか分かりませんけれども、それが五月一日に発表した三・一一の災害からの復興についても現憲法は重大な欠陥を有しているという大会決議をしております。
 その災害復興がうまくいかないのは憲法に欠陥があるからだというふうに、産経新聞は五月二日付けで見出しを付けました。何でもかんでも憲法にする癖がどうもこの国にはありまして、どこの国も憲法のせいにはしないんですよ。でも、この国だけは憲法のせいにする。つまり、憲法が悪いんではなく憲法の理念を具体化できない政治の無策にこそ問題があると私は考えておりまして、その意味では、やはり政治家の皆様方、是非考えていただきたいのは、今日の憲法のこの議論は非常に大事だと私は思っていますけれども、九条の改正を前提に置くという議論ではなくて、やはり根本的に憲法の将来を見越した生産的な議論、建設的な議論をしていただきたいということで、委員とちょっと評価違いますけれども、私の意見を申し述べさせていただきました。
 ありがとうございました。
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儀間光男#23
○儀間光男君 ありがとうございました。
 ただ、誤解を受けてはいけませんから追加しますけれど、憲法九条を改憲するという前提じゃないんですね。憲法九条であっても議論することをタブー視してはいけないということを特に申し上げたかったわけです。
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水島朝穂#24
○参考人(水島朝穂君) 分かりました。
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柳本卓治#25
○会長(柳本卓治君) 吉良よし子さん。
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吉良よし子#26
○吉良よし子君 日本共産党の吉良よし子です。
 本日は、参考人の皆様、ありがとうございます。
 私の方からは、水島参考人の方に幾つか伺わせていただきたいと思っております。
 総理は、施政方針演説において憲法改正に言及しました。自民党においても、先月二十六日、党の憲法改正推進本部の会議を開き、改憲戦略について検討したとの報道がなされております。朝日新聞においては、その会合において、まずは各党の理解を得やすいと見る緊急事態条項や環境権などで改正の前例をつくり、その後、九条改正などを目指す二段階戦略が鮮明になったとあり、さらに、その二段階の理由として、一度改正することで世論が改憲慣れし、前文や九条の改正につながることを期待するものだとする記事がございました。
 そこで参考人に伺いたいのですが、私は、こういう二段階という戦略そのものの発想は、先ほどの参考人のお話にあった憲法改正の三つの作法に照らしてもやはり違うのではないかと思いますし、立憲主義とも相入れないのではないかと、改憲が進まないのは改憲に慣れていない国民のせいとでも言うような議論というのは違うのではないかというふうに思うのですが、参考人のこれに関する御感想はいかがでしょうか。お願いします。
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水島朝穂#27
○参考人(水島朝穂君) いろいろな改憲をめぐる政治の方の御議論は存じ上げていますし、私はホームページを持っておりまして、これ今年の十二月で千回目になる、ずっと十八年続けているんで、そこでかなり厳しい言葉で批判をして続けておりますので、お読みになっていただきたいと思うんですが、それぞれにはコメントをしてきているんですけれども、今回のこの二段階ということをマスコミがまとめたのか実際言われたのかがよく私自身は裏を取れていませんので、それににわかに乗れないんでありますけれども、ただ、聞こえてきますのは、変えやすいものから変えましょうという議論は、これは作法に反する以前の問題だと私は思います。
 と申しますのは、これは法律の議論でもそうだと思うんですけど、通りやすいものから通そうよと言っちゃった瞬間、これ、やっぱり九十六条のときに先生方自身もお考えになったと思うんですが、改憲派の小林節教授がこれは裏口入学をいうものだという言い方をして、すごく後味の悪いことを思った方もいらっしゃると思うんですね。
 つまり、本筋からすれば憲法改正は常に王道しかないんですよ。九十六条しかない。だから、本当に変えたいと思う方々が自分で自信を持って九条改正なり環境権の提案なりを堂々とやって、これによって福島を復興させるんだ、これによって沖縄を守るんだということならば憲法改正に合理的な理由があるし、憲法改正にそれなりの国民も聞く耳を持つだろう。でも、マスコミから聞こえてくるのは中身ないんですよね。
 だから、その意味でいうと、私は、二段階かどうかはよく分かりませんけれども、国民をやはり非常に、有権者というか国民投票有権者、先生方が決めた十八歳になりますけれども、決して十八歳は、私、「十八歳からはじめる憲法」という教科書も出しているんですが、これは二〇〇七年に、安倍政権があの法律出したときにすぐに十八歳になると思って作っちゃった本なんですけれども、やはり十八歳はばかにできません。ドイツへ留学しますと、ギムナジウムの何年生ですけれども、すごいひげ生やしていますから、十八歳は結構考えます。
 まあいろんな事件もあったと思うんですけれども、やはりまともに考える人に一票を与えるということは、法的な拘束力を与えるのと同時に、それを何らかの形で参加させるのは別になって、何らかの形で一般的な参政権とセットにするから取りあえず今はおきますけれども、やはり誰もがそういうことで議論していけば気付くだろうというのがこのフジテレビの、普通の六人の市民に私たちが、小林さんと八時間しゃべって物すごく理解してもらえた。時間を掛けて、しっかり論点を見せて、全部見せれば、どんな方でも議論します。だから、九条も環境権もしっかり王道でやっていただきたいと思います。
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吉良よし子#28
○吉良よし子君 ありがとうございます。
 王道でという話でしたけれども、自民党の中ではということで、報道ベースではありますけれども、環境権、財政規律条項、緊急事態条項などを比較的理解を得やすい項目として挙げているとされております。その中身についても参考人の御意見を伺いたいのですが、やはり環境権、財政規律条項についてまず伺います。
 私は、それらはやはり憲法改正が必要なものとは思えないわけです。参考人も先ほど環境権についてはおっしゃられていましたが、例えば福島第一原発の事故で環境中に大量の放射能がまき散らされたというのも、政府と電力会社、原子力大企業の安全神話が原因とするものであり、憲法を変えるまでもなく政府の対応が求められるものだと思うわけです。また、財政についていえば、憲法の財政民主主義原則の下、財政法があり、厳しく規律されているわけで、こうしたことを考えれば、そもそもこれらのことが改憲の理由になるとは思えないのですが、参考人の御意見はいかがでしょうか。
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水島朝穂#29
○参考人(水島朝穂君) 財政は、八十九条で私立学校への補助をやっているじゃないか、これは違憲じゃないかと、こういう議論なんですね。ですから、憲法を変えてそういうものができるようにしようというんですが、憲法学の通説はこの八十九条も二十六条の教育権などと解釈して、いわゆる博愛や教育は駄目なんだということよりは、むしろ私立学校法の援助はこれは合憲なんだということはかなり初期の段階で確定していまして、殊更憲法を変えないと私学助成ができないというのはためにする議論だと私は思っていますし、三点目、メンションされませんでしたが、緊急事態法については、実は日本公法学会で私、二年前に学会報告やっておりまして、緊急事態法と福島の問題を議論しました。そのとき、もうこれは論文、有斐閣から出ていますけれども、日本国憲法は緊急事態の不在ではない、日本国憲法は緊急事態に何も言っていない、実は参議院の緊急集会条項があるじゃないか。それを利用して全体のいわゆる非常事態法を導く議論が先生も含めてあります。
 私は、そのときの学会で、その五十四条ができたときの国会の議論などを見ていくと、みんな言っているのが、伊勢湾台風とか、ごめんなさい、あれは南海台風とか、すごい大きな災害があったんですね。ですから、日本は地震国で台風国で水害国だ、だからそういうときに国会が何かしなきゃいけないからで五十四条の緊急集会入れているんですよね。ですから、緊急事態一般がないという議論ではなくて、この災害国における緊急災害事態について、自然災害等については日本国憲法は不在ではないという意見を持っておりまして、それを具体的に制度設計したのが災害対策基本法であります。
 ですから、憲法を変えなくても災害対策基本法を充実させていくことによって将来への対応もできていくし、いろんな特別法の立て付けがどうもうまくいっていないのは、そこの報告もしましたけれども、そういう議論としてやるべきだと私は思っています。
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