久波孝典の発言 (文部科学委員会)
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○久波参考人 おはようございます。
大変に緊張しておりまして、私の話は、客観的なデータ等ではなく、給付型奨学金を受けている一人として、その有効性といいますか、裏打ちの部分をお話しさせていただきたいと思いますので、ぜひ、資料を余り気にせず、お話を聞いていただければなというふうに思います。
私ですけれども、東洋大学の夜間学部に通っている四年生になります。小学校五年生から高校三年生までを児童養護施設の方で過ごしました。現在は、民間の給付型奨学金のみで学費を納めておりまして、生活費の方は、昼のNPOでのインターンをしながら生活をしているというふうな実態になります。
大学進学に対してなんですけれども、私は、高校が進学校だったことから、周りのみんなが進学するというのが当たり前という環境におりましたので、何となく大学進学を自分もするだろうというふうに考えていました。しかし、高校二年生以降、周りがオープンキャンパスですとかそういった機会にだんだんと身を投じていく中で、周りの友達の会話でだんだん経済的な話が出てくるんですね。入学金が幾らで、初年度に幾らかかって、そういった話が飛び交う中で、これはどうも自分には無理そうだぞというところをだんだんと認識してまいります。
高校生、アルバイトができる年齢ではあると思うんですけれども、幾ら何でも、初年度百万円みたいな話をされたら、なかなかそれが実感として持てない、アルバイトでどうにかなるようなものではないというようなことを何となく思ってしまう人の方が圧倒的に多いのではないかと思います。
高卒と大卒で生涯年収が大きく違うということはわかっていたんですけれども、それでも、私は、余り卒業後の歩みが想像できないことですとか、高校に通い続ける意味がわからなくなった。それはやはり、将来がイメージできないからというところですね。そこが理由となって、高校に通い続ける意味を見出せなくなってしまったりして、三年生は欠席がちだったり、卒業時の成績表は本当に真っ赤っかというような状態でもありました。
先ほどお話ししたように、高卒と大卒で大きく立場が異なるということはすごくわかってはいるんですけれども、それが、経済的な壁によって、具体的な行動を起こすためのモチベーションに余りつながらなかったというところが、経済的な壁として物すごく子供たちが実感するところだと思います。
学校に行くということは、夢や目標を持って、学校をある種一つの手段として考える、夢や目標達成のための手段として実行していく、そのために経済的なものがかかる、そういった構図があるかと思うんですけれども、僕の場合は、その行動を起こすまでの気になれなかった。それは、経済的なものが高過ぎて、イメージがつかなくて、そういったところで僕は挫折をしてしまいました。
貸与型の奨学金があるじゃないかというふうにお話をされる方が何人かいらっしゃるんですけれども、これは、いずれ返さなければならないというもので、自分の借金、デメリットの部分をどんどんふやしていくという作業になってしまいますので、余り選びたくない、選ばざるを得ないような状態というのは正直フェアじゃないというふうに高校生ながらにも思っていた部分がありました。
自分の場合は、いざというときの身寄りがない。養護施設に行っていた過去がありますので、親とも疎遠な環境ということで、身寄りがないというときに、自分が返せなくなった場合どうしたらいいのか、そこがはっきりしていないのに借りることに対して、ある意味無責任ではないかというようなことも考えたりはしました。
そういうことを思ってしまうような制度状態にあるということだけ意識していただければと思います。
貸与型の奨学金は厳しくて、借りてでも進学したいというふうに思っている気持ちを、拍車をかけて進学の後押しにならないというふうに僕は考えています。
そんな僕が進学に至るまでなんですけれども、高校三年生のときに、養護施設の退所者向けに民間の給付型奨学金がありまして、そちらの方に応募していたんですね。
ただ、そちらの方は、それぞれ審査があったり、額も、一括で、これさえ受かればというような状態ではなく、幾つかの支援をかき合わせてというような金額状況にありまして、数字的には月額で二万円から三万円程度のものが多くありまして、それを幾つも集めないと、進学という一つの目標を達成することは難しいというような状態にあります。目標の金額に届かなければ、それら幾つか受かった奨学金、そちらの方もある意味無駄になってしまう、進学を諦めざるを得ないというような、そういう構図も発生しております。
これは、僕はもう一つフェアじゃないというふうに思っているのが、給付型奨学金の申請ですね。こちらの方に手間がかかる都合上、多くの受験生たちは受験勉強にだけ集中すればいいというような環境があるかと思いますが、そうではない学生たちにとっては、申請の手間もある、作文ですとか申請書、そういった課題もあるというような状態ができてしまっています。
結局、自分は、高校三年生のときには、大学進学への意識は持ちながらも、進路未定のまま、自立援助ホームという新たな社会的養護の環境下に入りました。
高校卒業後も進路を決めかねておりまして、進学には経済的な壁があることから、自分にはできないということを卒業後もずっと考えておりましたが、あるとき、社会起業家の方たちの、夢を語るイベントに出会いました。
そこで、自分はできないという発想が頭にしみついていたんですね。制約が多い状況下にありますので、その制約ばかりを気にして、自分の現時点で選べる選択肢は何なんだろうという発想で、自分の将来設計ですとかそういった進路選択を決めていたんですけれども、それを一旦フラットにして、自分でやりたい目標を設定し、そこから起こる壁というものを一つの障害と考えて、障害が生まれた際にはそれに対する有効な手段をとっていこうというふうに発想を転換することができたために、進学できているという状況にあります。
当たり前の話かもしれないんですけれども、競争に勝つというようなところは、信念というところはもちろんなんですけれども、経済状況ですとか文化資本とか社会階層とか、そういったところの差異から、生まれやすかったり、生まれにくかったりというようなところが存在しています。これが経済的なものであるならば、社会的なコンセンサスがとれてきてはおりますけれども、なかなかそこの理解を得られないというようなところがありますので、何とかしていただきたいというふうに思っています。
ここから先の話は、別の添付の資料があると思いますけれども、法政大学の湯浅教授の方から、一度私を記事として取り上げていただいたことがありまして、そちらの方にも載っている話になるんですけれども、自分には努力するエンジンが備わっていないというふうに考えていました。
人は、努力の対価として勝利ですとか何か努力が報われた経験というのがあって初めて、努力のサイクルというものに入っていけるんだと思うんですけれども、苦しい環境で生活する子供は、そういった困難な状況の中で、初めから、努力が報われるということを知らない、あるいは疲れ切ってしまっていてなかなかそこを踏み出せないというような人も中にはいます。そういった子供たちは、努力することを思いつきすらしない、そういった発想を持っています。
頑張っている子のスタートラインをそろえるという意味でのコンセンサスは、先ほども言わせていただいたように、とれているかと思うんですけれども、進学したい、何かになりたい、あれをやりたいとか、そういう純粋な気持ち、意欲をそのまま子供たちが、障害を感じることなく、そのまま夢をかなえられるような社会になればいいなというふうに私は考えています。
給付型奨学金等は、進学の経済的な壁というところだけでなく、意欲の壁というところも大きく取り払ってもらえるような措置だと思います。
私の話は以上になります。ありがとうございました。(拍手)