赤嶺政賢の発言 (安全保障委員会)

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○赤嶺委員 私は主席がどういう意見書を出したかということを聞いたのであって、その後の防衛省、防衛大臣の一方的な主張は、実は私の忌まわしい思い出とつながってくるものであります。
 一九六九年十一月、佐藤・ニクソン会談が行われたときに沖縄の復帰が発表されました。大学に行ったときに本土の友人から、赤嶺、復帰できてよかったな、おめでとう、このように言われました。真心からの私へのお祝いのメッセージでしたが、私は強い違和感を感じました。その違和感をどうやって沖縄の現状を知らない本土の学生に、しかし友情を失わずに伝えるか、今でもあの日のことは覚えております。
 佐藤・ニクソン会談の共同声明というのは、米国が沖縄で軍事基地を日米安保条約に基づき保持することを確認するものであったわけです。即時無条件全面返還という県民の要求ははねのけられておりました。
 その後、一九七一年六月に沖縄返還協定が調印をされましたが、占領下で構築された基地をほとんどそのまま存続させたものでありました。屋良主席は調印式に招かれましたが、協定の内容には満足するものではないとして、調印式には出席いたしませんでした。
 その年の秋、いわゆる沖縄国会が開かれました。沖縄返還協定と関連法案が審議をされました。屋良主席は、県民の要求や考え方を伝えるために、復帰措置に関する建議書、これを携えて東京に向かいました。
 ところが、羽田空港におり立ったその三分前に、沖縄返還協定は衆議院の特別委員会で強行採決をされたのであります。なぜ沖縄返還が強行採決をされなければならなかったのか。翌日に予定されていたのは、沖縄県から選出された、それもその前の年です、一九七〇年、初めての国政に参加できる選挙として選ばれた、私の大先輩の瀬長亀次郎さんや当時の安里積千代両議員の質問の機会さえ奪って強行採決をしたのであります。
 これが沖縄返還協定の経過です。
 屋良さんが届けようとした建議書には、このように書かれております。
 県民が復帰を願った心情には、結局は国の平和憲法のもとで基本的人権の保障を要望していたからにほかなりません。基地あるがゆえに起こるさまざまな被害公害や、取り返しのつかない多くの悲劇などを経験している県民は、復帰に当たっては、やはり従来どおりの基地の島としてではなく、基地のない平和の島としてこの復帰を強く望んでいます。このように書かれております。
 まさに、県民置き去り、県民不在、そして、日米両政府の間だけで基地の存続を取り決めた合意、これが県民から見てどんな正当性があるのか、そういう怒りを禁じ得ません。
 防衛大臣は、この日米両政府が進めた沖縄返還が県民が望んだ復帰とはかけ離れたものだったという認識、これはありますか。

発言情報

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発言者: 赤嶺政賢

speaker_id: 6967

日付: 2019-10-24

院: 衆議院

会議名: 安全保障委員会