三木由希子の発言 (予算委員会公聴会)
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○三木公述人 皆様、おはようございます。
御紹介いただきました、NPO法人情報公開クリアリングハウスの理事長をしております三木と申します。きょうはよろしくお願いいたします。
本日はこのような機会をいただきまして、大変感謝を申し上げております。
私どもは、現在の法人となりましてから今年度で二十年、公的機関における情報公開、知る権利の問題に取り組んでまいりました。その前身から数えますと、今年度末で四十年、この問題に取り組んでございます。
財政、予算を専門にしているわけではございませんが、財政、予算といいますのは、政府、国会の責任においてやっていらっしゃるということでございまして、その前提となります説明責任の問題、それはすなわち記録、公文書の問題を通じて達成されるものであるという観点から、きょうは意見を述べさせていただきたいと思います。
初めに、お手元に資料を配らせていただきましたが、簡単なレジュメでございますが、私どもが最初に財政の問題について問題意識を強く、危機感を強く持たざるを得なくなったことをエピソードとしてお話をさせていただきたいと思います。
それは、財政史と公文書の問題でございました。
「昭和財政史」というのは、当時大蔵省、現在の財務省が公式な財政の歴史として編さんをして刊行しているものというものでございます。この財政史で、沖縄返還の章に不思議な引用文書があるという問題が以前から指摘をされてございました。
資料の方に、注として、少し小さい字でございますが、その部分を引用してまいりましたけれども、注は通常、どのような文書を引用したのかという文書名がわかる形で引用するのが常識的な扱いでございます。しかし、一部の文書がファイル名のみしか書かれていないという問題がありまして、何の文書を引用したのかがわからないという引用が財政史の中にあるということで、専門家も含めてさまざまに問題を指摘する声がございました。
それで、二〇〇六年に私どもの方で情報公開請求をしてみましたところ、廃棄済みで不存在という決定となりました。財政の歴史として財務省が公式に編さんをした文書の根拠となる行政文書が既にないということで、大変驚いたところでございます。
これは、私どもが情報公開訴訟もしまして、争った結果わかったことであったんですけれども、財政史編さんのためには、関係行政部局から関連する行政文書を集めて、一旦編さんをし、それを用いて財政史を書いた後に、編さん終了後、また関係部署に返却をしているということでございました。返却後に保存期間満了ということで廃棄をしたので、現在はないということでございました。
こうして、財政について重要な説明責任の機会でもある財政史の根拠がないということで、大変驚いたわけでございますし、それから、裁判所も、その点についてはやはり問題があるというふうに指摘をされたというところでございます。
ちなみに、財政史に使われた行政文書に関しては、二〇一一年に公文書管理法が施行されて以来、歴史文書としての移管ということは決まりましたけれども、それ以前のものについては、歴史文書として残すということそのものをしていなかったということがわかったわけでございます。
そうしますと、財政史のような公式な記録だけではなくて、一般的に、財政に関連するあるいは予算に関連する文書がどのように体系的に後世に残されていくのかということについても、やはり問題意識を持たなければいけないというふうに考えたところがございます。
それで、予算の前提として考えるべきことということで申しますと、それは、政府の信頼性の問題であるというふうに思うわけでございます。
昨今、公文書管理をめぐるさまざまな問題が問われておりまして、これは、公文書の問題ですとか政府の問題ということもあるんですが、基本的な部分での信頼性の問題だというふうに私どもは考えてございます。
今問題になっているのは桜を見る会の問題でございますが、その少し前にありましたのが、調査データ問題というものがございました。働き方改革ですとか入管法の改正をめぐりまして、データに問題があるということで、そもそも政策の前提となっているデータそのものがおかしいという問題が指摘をされ、それが国会で初めて政策議論になって明らかにされるという問題があったということでございます。
それから、毎月勤労統計がそうでございましたが、統計不正の問題があったということです。
その前にさかのぼりますと、森友学園問題での公文書の改ざん、廃棄、隠蔽問題というものもございましたし、自衛隊の日報の廃棄、隠蔽問題というものもございました。
こうした問題は、公文書管理の問題としても議論されてございますけれども、問われているのは、基本的には政府の信頼性の問題でございます。政府の活動を記録して根拠を持つということは、権限や立場に対する責任を明確にして仕事を行うということでございます。ここそのものが揺らいでいる、あるいはここそのものに問題があるということが、こうした問題を通じて実は問われていたということでございます。
行政文書の扱いに問題が生じる、あるいは内容に問題が生じるということを、多くの人は、責任の回避とか根拠の創作というふうにやはり理解をせざるを得ないというところで問われていたということがございます。個別の問題は、現象としては大変政治的な問題として議論されますけれども、本質的な部分は、信頼性の問題、それから権限や立場に対する責任の明確性の問題ということであったということでございます。
こうした議論の中で、やや行き違っていたというふうに思われますのが、手段と目的の問題であるというふうに考えてございます。
公文書管理法や情報公開法というものがございます。これは、一般法として、行政文書を適切に管理し、その管理されている行政文書に対して広く何人にも請求権を認めて情報公開を進めるという法律でございます。これは政府が説明責任を全うするための手段として設けられているということで、この手段をどう機能させるかということが大変重要であるということでございます。
手段が機能するために不可欠なものとして、やはり行政文書が適切に作成、保有されているということが重要である。この行政文書というものは、どのようなものが作成、保存されているかということは、実は政策立案や事業実施の質の問題であるというふうに思っております。単に行政文書がつくられていればいいということではなくて、行政が適切な政策立案や事務事業を行っていれば、おのずと文書の質もよくなるはずだという前提で実は考えるべきだろうというふうに考えています。
この政策立案や業務プロセスの質というのは、権限のある者の責任が明確で、評価、検証が可能であるということが確保されているということが大前提だろうというふうに思うわけであります。
先ほど個別の問題に触れましたけれども、例えば入管法の改正をめぐって、調査データに問題がある、アンケートの集計に問題があるということで、さまざまな問題が指摘されましたけれども、こうした問題というのは、そもそもの政策判断の質が問われているということであります。
どのような根拠に基づいて政策判断をしているのか、政策立案をしているのか、その示した調査についてはどのような調査項目をもとに行ったものかという情報公開を基本的に行うとか、そういうことを、基本的な部分を欠いたまま政策を決めていく、あるいは、政策を体現していくために必要な予算を編成していくということ自体が大変問題があるということではないかというふうに考えてございます。
それで、私どもは情報公開の問題に長く取り組んでございますけれども、次のところを見ていただきますと、私たちの実感としては、情報公開と公文書管理については、大変なジレンマを抱えながら、外から、私たちに必要な情報、政府に説明責任を全うしてほしいことを明らかにするための努力ということをしてまいりました。
そのジレンマと申しますのは、市民というか私どもが情報公開を求める、あるいは情報を知りたいと思うときは、大体、行政機関への不信とか疑問とか問題意識とか、あるいは関心というものに基づいて情報を求めるという行為をいたします。一方で、その情報を求める先といいますのは、行政機関が行政文書を保有しており、その行政文書の作成や管理、それから情報公開請求をした場合に文書を特定するということや公開、非公開の判断というものは行政機関がみずから行うということになります。つまり、私たちにとってみると、関心や問題意識の対象に多くのことを委ねないと必要な情報が入手できない、あるいは自分たちが必要と思う情報があるかないかがわからないという状況でやってございます。
ただし、情報公開、公文書管理は、政府の説明責任を全うするというだけではなくて、そういうことを通じて政府の信頼性を確保していくという一つのプロセスでもあります。ですので、実は、このジレンマを抱えながら、何とか前向きに、政府が信頼をされるように努力をする、私どもも、入手した情報をもとに政府によりよい政策判断や事業実施をしていただくということを、双方で努力をしないと実はうまく回らないというところがあるという仕組みであると思っています。
今、このジレンマが負の方向に回ってしまっているということが大きな問題ではないかというふうに考えています。それを象徴する問題として、今の国会でずっと問題になっているのが桜を見る会問題ということでございます。
これが、総理の主催の行事をどう記録するかという問題でも実はあるというところをもう少し議論をいただいた方がいいのかなと思っています。
現在、招待者名簿があるかないかということは、行政文書との関係では大変問題になってございますけれども、少し考えてみますと、総理大臣が主催をした行事について、誰が参加をしたのかとか基本的なことが体系的に記録されていないということ自体が実は大変な問題であるということが言えるわけでございます。
例えばということで申し上げますと、比較的資料を入手しやすいアメリカの情報自由法の利用のされ方とか記録管理のことをよく拝見するんですが、大統領の日程表というのがかなり詳細に残されていまして、それをずっと見ていきますと、一日、少ない日で数ページ、多いときは数十ページの記録が残されてございます。それを拝見しますと、夜に会合に参加しますと、出席者リストというのが一緒についてまいります。これが恐らく当然のこととして記録として残っているんだろうと思います。
ですので、実際には、名簿を何年保存するかという問題ではなくて、本来は、総理大臣の主催した記録がどういうふうに体系的に残されて政治の記録としていくかということが問題なんだろうと思っております。
それが、招待者名簿が一年未満で廃棄をされたということで、そもそも記録としての価値判断とか政府の責任とか政治の責任というものが今強く問われているということでございますし、それから、文書がない、廃棄をしたということによって説明責任を回避しているかのようなことが繰り広げられていることに対して、多くの人が不満を思うし、不信も思うということであります。こうした記録がないということが、実は政治的責任が実務レベルや現場レベルの責任に転嫁をされていくということになっていくわけでございます。
本来政治が責任を果たす、説明責任を果たすべきことが、文書があるかないかとか廃棄したかということに関して言うと、政治レベルがみずから文書をつくって廃棄をするわけではないということでございますので、それを行った実務レベルの問題に転嫁をされてしまうということをこの間繰り返しているということが大変残念に思っておりますし、そこの問題をしっかり議論した上で、政治主導なり、それから政治がリーダーシップを持って予算なり財政なり政策を決めるという体制をつくっていただきたいというのが正直なところでございます。
まとめますと、問題は政治レベルの問題であるということが言えるというふうに考えてございます。
政治レベルと実務レベルというのは大変分けにくい概念ではございますけれども、かなり雑にまとめますと、政治レベルとしては、政務三役ですとか総理大臣、官房長官ですとか、これらを補佐する役割の者、あるいは各行政機関の幹部のような人たちは、これはかなり高いレベルで政策判断、意思判断をしているわけでございます。こういう人たちの日常が、あるいは活動が記録をされていくということがなければ、これは実務レベルが動かない、あるいは実務レベルが責任を持って記録を残すという体制になっていかない、結果的に責任の所在が曖昧になるということになります。今の問題だけではなくて、将来に向けてもやはり、今政策判断をする者が責任を負うという姿勢を明確にするということが大変重要ではないかというふうに思っております。
参考までに申し上げますと、記録されない政治レベルということでこの間わかっていることを少し御紹介を申し上げます。
私どもが大臣の日程表というものを情報公開請求しましたところ、即日廃棄か数日で廃棄ということで、日程そのものは廃棄をされて、なくなるというのが今の状況でございます。
これは、私どもが毎日実は情報公開請求していまして、五月以降は廃棄ができていない状態で、各行政機関が持っているかと思います。ただし、日程表に関しては具体的な記録が欠落しておりまして、誰とお会いになったかとか、何のレクを受けたのかとか、そういうことが全く記録にないということでございますので、残されているからいいという話でもないということがわかってございます。
それから、試しに大臣の執務記録のようなものがないかということで確認をしましたところ、未作成で不存在ということで、ないということでございました。
それから、官邸訪問予約届というものがございますけれども、これも即日廃棄ということでございます。これも、私どもが毎日情報公開請求しておりまして、四月以降は廃棄ができていないかと思います。
それから、総理や官房長官と省庁幹部との面談記録や資料が短期間で廃棄か記録がないということで、後ろをめくっていただきますと、これは毎日新聞の記事でございますけれども、実際に情報公開請求をして確認をしたところ、総理それから官房長官に内閣官房の幹部が面談をしたことについて記録が一件もないということでございますので、どのような報告をいつお知りになったのかということそのものが記録されないという仕組みに今なっているということでございます。
結果的に、高い政治レベルになるほど記録がないという状態が今ございまして、それは言いかえると、権限や立場に応じた責任の明確化がなされていないということではないかというふうに思っております。
最後に、私どもが日本の調査を担当しております財政透明性指数というものを御紹介して終わらせていただきたいと思います。
これは世界百カ国以上が参加をして調査を行っているものでございます。アメリカに本部がありますNGOが中心になって行っておりまして、一方、お配りしました資料の方で、二〇一七年調査のサマリーをお配りいたしましたので、関心のある方はぜひごらんいただければと思います。これはOECDやIMFなどのつくった財政透明性に関する基準などをもとに調査項目をつくりまして、基本的には証拠があるものをもとに評価をするということで、文書ベースでの調査を行っているものでございます。
この財政透明性の調査というのは大変おもしろい調査だというふうに私自身は参加して思ったところでございます。
ちょっと見にくくて申しわけないんですが、一番最後を見ていただきますと、どういうプロセスについて評価をしているのかということを簡単なフローにまとめてございます。
まず、事前予算説明書という予算の前提となるものをつくって、それを国会で審議をするかとか、市民が参加をして、それに対して何か言えるかどうかということがまずポイントになります。
それから、予算案について、作成をするだけではなくて、国会の審議とか、あるいは国会において予算案についてどのような評価、検討を行ったのかという報告書をつくっているのかとか、そういうことが質問項目として入っているということでございます。
それから、予算についても、年度内に予算の執行状況にどのような報告をしているかとか、あるいは年央見直しを行っているかとか。
そして、決算、監査ということで、決算の国会での審議、監査、これは会計検査院ということになるかと思いますけれども、会計検査院についても独立的な点検が行われているのかということについて、それぞれ文書がつくられているかと同時に、文書をもってどのようにそれを検討、審議し、評価をしているのかということ、更に申し上げますと、それをどのようなタイミングで行っているのかということを一つ一つ確認をしてスコアにしていくというのがこの調査でございます。
日本は二〇一七年調査から初めて参加をしまして、私どもで調査を担当して評価をしましたところ、最終的に、G7国の中では、透明性調査でいいますと一番スコアが低かったという結果になったということであります。
この財政透明性の調査は、単に透明性があるかということだけではなくて、権限のある者たちが、適切に文書を持ち、文書を作成し、それに対して検討を行っているということを評価していくというプロセスでございまして、文書の公開が単なる公開ではなくて、それを生かす、生かして適切に責任を負うということを目的としているものでございます。
最終的には、こういうプロセスを整理することによって、文書が作成をされ、その文書をもとに評価、検討することによって、更にそれが記録をされるという循環を財政においてもつくっていただくということが重要ではないか、これは政治の責任であるというふうに思っているところでございます。
以上でございます。ありがとうございました。(拍手)