2023-05-19
参議院
脇紀美夫
政府開発援助等及び沖縄・北方問題に関する特別委員会
脇紀美夫の発言 (政府開発援助等及び沖縄・北方問題に関する特別委員会)
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○参考人(脇紀美夫君) ありがとうございます。
今お話ありましたように、私は、一九四一年に太平洋戦争が始まったわけですけれども、十二月ですね、私が生まれたのは一月でした。一月に生まれて、十二月に戦争が始まって、その後、一九四五年に戦争が終わった。私がちょうど四歳、四歳ですね。その後三年間は、強制的、強制的というよりも、自分で引き揚げ、脱出する能力がなかったものですから、島にとどまっておりました。
したがって、三年間ロシアと混住しました。子供たちとも一緒に遊びました。我々は子供でしたから断片的にしか覚えていないんですが、いつ戦争が始まっていつ戦争が終わったか、それすらも分からないまま過ごしておりました。今のような情報化の時代ではありませんでしたから、なかなか、島でしたから、そういう情報も入ってこないという中で、もちろん大人の人たちは知っていたんだと思いますけど、私はなかなかその辺を知る由もなくて、過ごしてしまいました。
ただ、ロシア、ロシアというか、戦争が終わってから、我が家に機関銃を持った兵隊、兵隊さんというか、大きな人、大人の人たちが入ってきて、うちの中を物色していたということだけは覚えています。恐ろしい思いをしたということだけは覚えています。それが後から、ロシア人だったということは後から分かったことです。外国人って見たことなかったわけですから、日本人以外は。したがって、それが大人の人たちはアメリカ人だと思っていたらしいんですけれども、ロシア人だったと後から分かりました。
したがって、そういう意味では、我々子供としてはそんなに険悪な状況でない中で島では生活しておりました。ただ、大人はまたそれとは違った経験もしたと思います。私は国後だったんですけど、ほかの歯舞、色丹、あるいは択捉はそれぞれまた別な経験もしておるんだと思います。私はそんな記憶しかございません。ただ、たまたま結果として、知人、知人というか私の親戚を頼ってたどり着いたのが羅臼、現在住んでいる羅臼でした。したがって、毎日その島を見ながら生活、ここまでしておりました。
したがって、今この立場にはありますけれども、若い頃は余り北方領土返還運動に一生懸命やっていたという記憶はなかったんですが、やはり行政をやる中にあって、この理不尽な状況を何とかしたいという思いの中で今はこういう活動をしているということでございます。