明石康の発言 (外交・安全保障に関する調査会)

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○参考人(明石康君) 猪口会長、ありがとうございます。
 本日は、北岡先生と吉川先生に挟まれて、学究ではないただ一人の私はちょっと緊張しております。
 しかし、本日、この我々の大きなテーマである国連改革、特に安保理改革というものは非常に重要な焦眉の関心事であることは、本日この御列席の参議院のお歴々の皆様方がここに参集しておられ、真剣な面持ちでおられることを見てもよく分かります。
 いただいた二十分で私の言いたいことが全部言えるかはちょっと心もとないところでありますけれども、できるだけ駆け足で私の申し上げたいことを申し上げた上で、御列席の皆様方から鋭い御指摘をたくさんいただければ非常にうれしいと思っております。
 ちょっと私は、年のせいもあると思いますけれども、国連の歴史というものを駆け足で振り返りたいと思います。
 そのうち、国連の長い歴史の中でも冷戦の時代というのはほぼそのうちの半分を占めておると言えると思うんですけれども、冷戦の時代というのは、国連にとっては余り比較的動きとか活動のない時代であったとも言えると思いますけれども、振り返ってみますと、結構その中にも重要な時点がいろいろ発見できるというのは御承知のとおりではないかと思います。
 米ソの対立というのは、第二次大戦が終わって、もう終わったその頃から、特にアメリカと当時のソ連との関係が悪かったということは明らかですけれども、国連は四五年にできたわけでありますけれども、かなり米ソ対立という火花はもう噴き出しておって、国連憲章の四十五条には、国連が国連軍といったようなものをつくった場合に、その場合に、どのようなサイズの兵力でもってどういう構成の国連軍をつくったらいいだろうかという交渉を、特にアメリカと当時のソ連で始めたわけですけれども、四七年には既にそういうものをつくることが極めて難しいということが明らかになりました。
 にもかかわらずですね、にもかかわらず、二つの地域、中東地域と、インドとパキスタンの間のカシミール地域というのが係争地としてもう浮かび上がっておりましたけれども、この二つの地域に関しては、結構プロ的な観点からは、私は二つのPKOが発足したと書きましたけど、正確にはPKOではないわけですけれども、プロである停戦監視員が中東でもカシミールでも配備され、このとき、四八年にできた二つの地域での国連のプレゼンスというものは現在まで続いておるんですね。
 だから、国連はその歴史においていろんな危機に当面して、いろんなものができたり、いろんなものがなくなったりしましたけれども、結構恒常的なプレゼンスと、また国連の持つ一つの中立性とか不偏性、インパーシャリティーという意味ですけれども、というものは当初から今まできちんと認識されてきているということは注目すべきであると思います。
 それから、一九五〇年に、西側諸国にとっては突発的なことでしたけれども、朝鮮戦争が起きて、北からの侵略が起きました。そのとき、ソ連の代表は安保理を欠席しておったんですね。憲章を読めばお分かりになるとおり、安保理というのは欠席してはいけない国連機構なんですけれども、当時のソ連は、中国代表権の問題で抗議をするために安保理をあえて欠席しておったんです。
 ですから、北からの三十八度線を南下するその北朝鮮軍に対する南側からの反応というのはアメリカ中心に行われたわけなんですけれども、アメリカは早速それに対する武力での抵抗を始めました。そのときの南側の軍は国連軍というふうになっているんですけれども、本当は国連軍ではないんですね。本当は多国籍軍であったわけですけれども、国連軍という名前と国連の旗の使用を許されたということで反応することが可能であった。
 そして、ソ連がしまった、しくじったということで慌てて安保理に戻ってきたときに、安保理は動かなくなったわけですね。ですから、アメリカも知恵者がおるんで、緊急特別総会というものを設けようということで、総会のイニシアティブでつくったそういう軍隊、そういうものが招集されて朝鮮半島に派遣されるということに早速なりました。
 そういうことで、この緊急特別総会の制度というのはそのときにできて、御承知のとおり、ウクライナとロシアとの戦争においても何度か緊急特別総会の形で招集され、そこでは拘束力のある決定はできませんけれども、そこでの決定が持つ道義的な、政治的な意味というものは決して過小評価することはできないものであるのは皆様御承知のとおりです。
 その後も、我が国が国連に加盟したのは一九五六年の十二月、総会でそれが決まったのは十二月の十八日であったと思いますけれども、私はそこで重光外相の加盟の演説を聞きましたし、アジアの代表としてクリシュナ・メノン、インドの代表が、また、日本と戦後非常に親しい関係を、特別の関係を持ってきたアメリカのカボット・ロッジ代表が、二人とも非常に日本に親近感のもうあふれたすばらしい演説をしました。
 私はその翌年、ある契機で国連の安全保障理事会の専門職の人間として国連職員になって、そのときから日本の特に政治面での活動を見てきたんですけれども、一九五七年の初めから、非常に日本の国連における行動は事務局側におった私からも歴々と分かるような形で、日本はラオスに関する特別委員会の委員長に日本の外交官がなるし、レバノン危機に際しても、当時の事務総長のハマショルドと非常に密接な形でレバノン問題で行動できたのはまさに日本だったわけで、その行動は極めて鮮やかなものがあったと思います。
 そんなことで、その後の国連は、政治的な動きというよりも、一九六〇年代においては、アジア、アフリカ、カリブ海その他で新興国が次から次に国連のメンバーになりまして、国連の加盟国は本来の五十、当初の五十一からもう三倍近くになっていったんですね。また、その中での開発途上国の数も大変増えまして、七〇年代においては、まさに途上国と先進国との対立の場としての国連、火花を散らすような、そういう南北問題における対決というのが一九七五年をトップにして行われることになりました。
 そういうふうにして国連は変わっていったわけですけれども、ポスト冷戦期になりまして、一九九〇年を境にして、国連にはブトロス・ガリという、まさにちょっとがりがりの野心的な事務総長がエジプトから出てきまして、平和への課題という大変にアンビシャスな問題意識を表したし、ガリはその後はそれを多少修正するものを三年後に出しました。
 九二年の一月には、日本がたまたま安保理の非常任理事国であったわけですけども、九二年の一月における首脳レベルの安保理の会議に我が国から宮澤総理が出ておられて、時差で眠たそうな総理の表情を私は今でも覚えております。
 で、やっぱりポスト冷戦期になったときの日本の態度も、また国連全体の雰囲気も非常に行動的で、またオプティミスティックなものがあったと思います。
 ここで挙げているように、アジアの一角であるカンボジアにおいて、またアフリカの一角であるモザンビーク、それからラテンアメリカにおいてはエルサルバドル、それぞれのPKOがともかくも成功裏に終わった。特にその中でも大規模であったのはカンボジアのPKOであって、まさに、軍人と文民それからボランティアまで入れますと二万二千人に達する大規模なPKOが、見事にクメールルージュの反対運動を蹴散らして、カンボジアにおける民主国家の成立というものが、二十年間そういう投票というものがなかった国において民主主義の旗を立てることができたというのは画期的であったと思います。
 しかしながら、いいことは余り長く続かないので、九〇年代の中頃から難しい状況が生まれました。
 まず、アフリカの一角であるソマリアのPKOというのは、アメリカの海兵隊とかパキスタンの兵士にかなりの犠牲者が出てきまして、うまくいかなかったわけです。それから、ルワンダにおける二つの大きな民族といいますか、氏族といいますか、の対立と殺りく行為があって、ルワンダもうまくいかなかった。それからその次は、ヨーロッパの一角である旧ユーゴスラビアが、チトーが倒れた後ですね、三つの民族の間における血で血を洗う大変な状態になりまして、特にボスニア・ヘルツェゴビナでは、国連の保護軍というのがつくられて現地に派遣されたんですけども、やはり国連の手に負えないような状況が生まれることになりました。
 安保理にこの問題が出されたわけでありますけれども、私はそのときの安保理の行動を現地でも見ておりましたし、非常に残念だと思うことが多かったんですけれども、安保理は非常にある意味では活発であったわけですけれども、不幸にして、現地とそのニューヨークの安保理事会との協力というものが残念ながら見られないままに六つのいわゆる安全地域、セーフエリアズと称しておりましたけれども、そういうものが現地の状況を見ないままつくられていった。そのうちの一つであるスレブレニツァというところで、七千名以上のイスラム系の男子が無残な形で虐殺される事件がありました。
 その頃、安保理の決議とか議長声明は約二百も採択されていきましたけれども、安保理の生産性というものは決議の数では決して測ることができないんですね。それの持つその現実感覚といいますか、そういうものをきちんと持っていない場合、非常に事務総長とそういう安保理のメンバーとの関係もおかしくなっていきますし、安保理が非常に現実性を欠いた動きをすることになります。
 それから、国連はユーゴスラビアの現地においてNATOと密接に協力したわけで、NATOの空軍力を必要としたわけでありますけれども、NATOと現地における国連PKOとの意思の疎通を欠かないためにも、二つの機構にはデュアルキーシステムと、NATOが一つのキーを持ち、国連が一つのキーを持つ、そのことで空爆の発動というものをスムーズにしようということがあったんで、NATOの南部方面軍の総司令官だったアメリカ人のボーダ提督という人と、国連側のキーを持たされたのは私だったわけですけども、この二人の関係は非常に密接で、無駄な武力行使は絶対にしないというボーダ提督の態度に私は一〇〇%賛成しておりまして、彼がNATOの鍵を持っている間は国連とNATOとの関係はスムーズだったんですけど、その後、ボーダがいなくなって問題が発生することになりました。そんなことで、国連は難しい状況に入ってきたと。
 で、二〇〇〇年の八月には、ブラヒミさん、この人は国連の事務総長特別代表としては出色の元アルジェリアの外務大臣だった人なんですけれども、国連にはできることとできないことがあると、できることに一生懸命力を入れて、できないことには手を出すべきではないということを言って、いろんな意味でPKOが拡大していく国連に、彼は厳しい見地からその過ちを正して、国連らしいリアリズムに立つことを告げたわけですね。
 私はちょっとその後のところをはしょることにしまして、一番最後のところだけ。
 安保理改革と日本はこれからどういう道を歩むべきかということ、これに関しては非常に明晰な分析を先ほど北岡先生からなされたので、私から同じことは申しませんけれども、残念ながら、日本の相対的な力、主として経済力でありますけれども、これが落ちてきているということは紛れもない事実でありまして、日本が追求すべきなのは、安保理における常任理事国ではもはやなく、非常任理事国の現在の状態を維持することでもなく、準常任理事国ともいうべき、まあ拒否権なしのですね、そこに存在し役割を果たすという役割であると、私はそれしかないのだと思います。
 拒否権はあるにこしたことはないかもしれませんけれども、日本とアメリカとの関係からいいますと、アメリカが必要だったら使ってくれるであろうことが極めて多いでありましょうし、私は、日本は安保理にできるだけ長く参加しておれると、そこの審議に参加し、また必要があれば交渉の方を担って参加するということが可能でもあり、重要でもあるのではないかと思います。
 安保理事会は、皆さんテレビとかニュースで常時見ておられる理事会場が立派に存在します。しかし、安保理事会場の隣にちっちゃな薄暗い部屋があることはメディアでも知られておりません。しかし、そこで行われる審議というのは極めて重要です。公式の発言ではないにしろ、非常に、常任理事国であっても非常任理事国であっても事務側の責任者であっても本当に親密な、真剣な交渉を行い得ると。
 また、私はPKOの担当者として、カンボジアの問題ないしはユーゴスラビアの問題でこの薄暗い小さな部屋での審議に参加できましたけれども、そこではいろんな障壁を越えて国連の問題、安保理の問題を話し得る。そこにできるだけ日本からの優秀な外交官が行って、審議に自ら参加し、必要ならばイニシアティブをも取るということは可能でもあり、必要なことは往々にあるのだと思います。
 安保理の常任理事国の数を増やすというのは非常に問題をかえって大きくしますし、実は二〇〇五年の安保理改革案について、北岡先生から説明がありましたけれども、私はいろんな国に行って、アメリカと中国の外交官がいかにその日本の参加しておる四か国提案を覆すために反対運動を、それらの国々で参加するのを自ら見ました。
 私は、日本の外務省に頼まれて、エチオピアにおいてメレスという大統領に会って、彼とみっちり一時間半、通訳なしで話すことができたわけですけれども、メレスも非常にそのことを喜んでおりました。アメリカと中国の反対がいかにエチオピアにおいても実行されているかということをメレス自身の口から聞くことができたわけでありますけれども、そういう、必要とあるときは、それらの国々における、そういう外交問題での最高の力のある人と会って日本の立場とか考え方を説明してあげるということが極めて重要だと思います。

発言情報

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発言者: 明石康

speaker_id: 32147

日付: 2023-04-12

院: 参議院

会議名: 外交・安全保障に関する調査会