尾上浩二の発言 (国民生活・経済及び地方に関する調査会)

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○参考人(尾上浩二君) 質問ありがとうございます。
 皆様に今日、参考資料というか配付資料ということで、これは共同通信のインタビュー記事を印刷して持ってきたんですけれども、そちらの方に詳しく書いておるんですが、私は、子供のときは養護学校、今でいう特別支援学校ですね、そこにいまして、そこからさらに、障害児入所施設で過ごすことになりました、もう今から半世紀前のことでありますが。
 是非思い出していただきたいのは、一九七〇年というのはまだ優生保護法が堂々と存在した時代でございます。障害を治す名目ならば何をしても許される、あるいは障害者はどんな痛みにも、どんな苦しみも耐えて当然だ、そういうふうな時代の雰囲気が正直ございました。
 私はその施設に入所している間、八か所手術をしましたが、手術をすればするほど歩けなくなっていきました。はっきり言えば、医療の実験台だったんだな、そういう思いを禁じることができません。実体験を通して、医学モデルというものの罪深さ、問題を感じているわけなんですが。
 また、当時は施設からの外泊というのも年に数回ぐらいしか認められていなくて、二十四時間施設から一歩も出ないわけです。まさに隔離された生活で。
 ちょっとエピソードを紹介いたしますと、週に一回、買物の日というのがあったんですね。町中に出る買物の日ではなくて、施設のプレールームに置いてあるワゴンからスナック菓子を買う時間なんですね。何かままごとみたいだなと思ったんですが、そうしないと、町に出ることがないのでお金を使うことがないんですね。お金を使うという意味が分からなくなる、それだけ社会から隔絶した状況にあったということを示すエピソードだと思っています。
 ただ、私のいた施設では、障害のある子供だけが集められているということに疑問を感じるスタッフも一部いまして、彼らの応援があって私は中学校から地域の学校へ行くことになって、それで施設から出ることもできたんですね。もしその小学校六年のときの担当のスタッフが違ったら、そのまま私は施設にいて、その後の私の人生は大きく違ったものになっただろうな。先ほど、地域移行コーディネーターがどこでもあるように、たまたまの出会いではなくて、そういう人に出会えるという、やっぱりその思いの原点でございます。
 何とかそれで地域の中学校に行ったんですが、大阪でもまだ共に学び共に育つ教育が始められる前だったんですね。入学に当たって、親と私とで何度か話合いを持って、結果、念書というのにサインを求められました。階段の手すりなど設備は求めません、先生の手は借りません、周りの生徒の手は借りません、これを約束するならば入れてあげましょう、今でいえば、合理的配慮を求めないならば入れてやろう、そういうように言われて何とか入ったわけなんですね。
 私、その当時松葉づえを使っていたんですが、音楽教室、離れた校舎の四階とかにあって、その移動が大変で、いつも十分の休憩時間では間に合わなくて遅刻をしていたら、それに気付いた友人が、おい、次の授業おぶったるわと言うんで、いや、私は母親が念書を書いていたのを見ていましたから、いいよいいよと言っていたら、友達じゃないか、水くさいこと言うなというふうにその彼は言ってもらって、あっ、じゃ頼むみたいな感じで、それからやっぱり気にしてくれていた何人かの友達が手助けしてくれるようになったわけですね。
 さらに、その地域の学校へ行って私はすごく新鮮な驚きだったのは、家の周りに同じ学年の子がいたということなんですね。特別支援学校っていろんなところから集まるから、学校から帰ったら家の近くには友達はいない。ところが、地域の学校へ行くと、あっ、家の近くに同じ学年の子がいてるんだというのはすごく新鮮な驚きでした。
 音楽が好きな友達同士でレコードを買いに行くのに誘ってもらったことがありました。初めて親の付添いなしで地下鉄に乗ったんですが、同年代の、しかも趣味が同じ友達と出歩くというのはとても大きな解放感、あっという間に時間が過ぎていきました。週末になると町に繰り出すというふうな障害者になって今に至るわけですが、自らの世界が大きく広がる体験でした。その障害の有無で分けられることなく同年代の友達と過ごすことの重要性を実感をします。そういうふうに友達には恵まれたんですが、学校は今でいう合理的配慮は本当に何もしてくれなかったです。
 中学校三年のときに修学旅行がありましたが、松葉づえで歩いていて何かあったらいけないから、連れていってもらえませんでした。しかも、それだけではなくて、修学旅行は学業の一環だから三日間誰もいない教室で一人自習をしろと命じられて、本当にぽつんと自習をしていました。修学旅行が終わってから友達がやってきて、一緒に行けなかったから小遣い出し合って土産物買ってきたと渡されたときに、ああ、彼らと一生に一度の修学旅行に僕は行けなかったんだ、そのときに気付いてすごく悲しかったのを思い出します。
 こうした自らの体験があるからこそ、脱施設やインクルーシブ教育をよく国連は言ってくれた。尾上の時代はそういう、大変だっただろう、昔話だったらまあいいというか、もう今は違いますよというふうに言い切れればいいんですが、今でも、やっぱりこういう話をしますと、実は地域の学校で学ぼうとすると大変苦労したお話を聞くことがあります。昔話に終わらないのが今の日本の現状の問題ではないでしょうか。
 四十五年間障害者運動に関わってきて、先ほどのお話のあったバリアフリーであったり、障害者差別解消法ができたり、基本法改正をしていただいたり、大きな変化が生まれてきたと本当に感謝をしています。でも、一方で、やっぱりその入所施設や病院からの地域移行、インクルーシブ教育、これらは四十年掛かってもなかなか進まない、大きな変化が生まれていない。私、残された本丸という言い方をしていますけれども、その課題に是非今こそこの国連からの総括所見を受けて取り組むべきときではないかと思います。
 誰も取り残さず地域生活に移行できる仕組み、脱施設、そして子供のときからのインクルーシブな子供支援、インクルーシブ教育を是非とも実現できるよう、国会での御議論をよろしくお願いいたします。

発言情報

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発言者: 尾上浩二

speaker_id: 11206

日付: 2023-02-08

院: 参議院

会議名: 国民生活・経済及び地方に関する調査会