赤池誠章の発言 (文教科学委員会)
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○赤池誠章君 自由民主党の赤池誠章です。
我が国が抱える課題の根幹は何か。私は、国家意識の欠如だと、本委員会でも質問に立つたびにその点を指摘してまいりました。その思いは今も変わりませんが、昨今の国内外における厳しい情勢を見るにつけ、さらに、そもそもなぜ国家意識が欠如するのかを考えるようになりました。
私は、国づくり、地域づくりは人づくりからを自身の信条としております。国や地域の課題解決を考えるのであれば、同時に人づくりにおける課題の解決も必要だと思っています。ただ、人づくりという過程は、元々、国家百年の計とも言われるように、その成果や課題が見えてくるのに時間が掛かります。それゆえ、試行錯誤を重ねれば何とかなるものではなく、根本的、本質的なところから深い議論が求められます。
そもそも、人づくり、すなわち教育の成果は、課題はどこで判断するか。教育は一人一人の生き方や幸せに直結することはもちろんですが、国家、社会の継承や繁栄、発展の基礎でもあります。教育の評価は決して試験結果や学歴で終わる話ではなく、今の国家、社会の状況いかんから判断されるものではなければならないと思います。この視点で考えたとき、果たして今の教育はどうなのか。現在、我が国の社会における、起こっている様々な事象を見たとき、私には気になる傾向があります。それは、コロナ禍の影響もあったとはいえ、行き過ぎた部分最適化や個別最適化です。
この後の質問でお伺いしますが、学習指導要領には、主体的・対話的で深い学びという、いわゆるアクティブラーニングが取り入れられています。この概念には複数の要素が含まれていますが、本来、それをバランスよく一体で行うことによる相互作用から、結果、成果を出していくことだと思っています。
特に主体的という言葉はなかなか難しく、辞書の記述、様々な定義、はたまた英語訳等々、かなり曖昧な側面を持ちます。人によってその意味の捉え方も一様でないのかもしれません。その主体的な部分だけ切り取って強調したり、そこに偏ったりすると、ともすると主体的が主観的要素の強い概念ともなりかねません。それゆえ主体的と対話的という言葉を中点で一つの言葉としてつなげているのだろうと私は理解しておりますが、残念ながら、今の社会の傾向を見ると、主観的なもののぶつかり合いや主観的動機による問題行動、つまり行き過ぎた部分最適化や個別最適化が多いように感じざるを得ません。
物事というのは立体的で、かつ複層的で、様々な力学が存在するものであり、主観だけではなく、国家、社会の継承、発展にはつながりようもなく、冒頭で取り上げた国家意識の醸成にはおよそ到達しようもないものですから、主体的・対話的な、必ず一体として、かつ主体的だけに偏らないよう、バランスを重視しながら推進してほしいと思っております。ちなみに、私は、言葉の捉え方にそごが出ないよう、主体的ではなく、能動的や自発的という表現を用いるようにしています。
以上の問題意識をベースに、本日は質問をさせていただきたいと思います。
様々な課題と向き合うとき、それらの解決策は本来多元的、複層的であることが理想だと思っています。昨今は、この解決策も部分最適化、個別最適化が行き過ぎている感があり、細分化して狙い撃ちするようなやり方が多いような気がいたします。もちろんその方法が有効な場合もありますが、それが有効に機能するには、それだけではなく、多元的、複層的になっている中の一つとして取られる方法でなければならないと思います。道徳や常識、倫理観等の人としての基礎があって、法というルールがあって、様々な制度があって、違反した際の罰則があって、罰則があることによる抑止力があることなど、多元的、複層的であればこそ有機的かつ有効に機能するものだと思います。
そして、その多元的、複層的な仕組みをつくる際、なくてはならないのは基礎の部分であります。どれだけ優れた制度や仕組み、技術や環境であっても、それらが悪用されれば結果は言わずもがなであります。
昨今、デジタル技術の進歩にも目はみはるものがありますが、その技術を用いた便利なツールを使いこなすことでの社会問題や犯罪行為が増加してきています。そういったことに巻き込まれないようにする教育が推進されてきたことは、本委員会で以前質問した際に御答弁をいただきました。そのときも、そもそも論として、デジタル技術を悪用してはならないという教育について問いましたが、私としてはまだやるべきことはあるのではないかと問題意識が残りました。
その後、さらに、生成AIという技術が出てきて、デジタル技術の進歩は、およそ専門家をもってしても人知を超えるペースで加速しています。便利なツールがどんどん出てくるのみならず、プログラミング教育も始まり、これからは早い段階からつくることができるようになります。
職業としてデジタル技術を持つ人たちは職業倫理や社会人としての常識等を悪用しないという基礎を備えておられるのでしょうが、今後は高度な技能を習得した社会に出る前の子供もそのような形で出てくることが予想されます。その際に、悪用してはならないというそもそもの倫理観や規範は、意識はどこで教えているのか、また道徳教育との関係においてどうなっているのか、それぞれ進捗状況及びその成果について見解を伺います。