林力 に関する国会発言
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○倉林明子君 日本共産党の倉林明子です。 今回、ハンセン病元患者家族に対して国会及び政府の責任を明記した法案が、原告団、そして政府の合意を踏まえて議員立法として提出される運びになったと、本当に大きな一歩だと思っております。 一方、原告団長の林力さんが、この合意の後に、百八十万であがないましたと合点する者は誰もいないと述べられているように、家族の受けてきた人生被害、これ踏まえれば、苦渋の決断があったということを立法府に身を置く者と
○林力君 私どもが、長い、半世紀以上にわたるこの憲法のもとで、生活の中で憲法をどうとらえるかという感覚が本当に鋭敏であったかということが一つ問われていると思うんです。どこかやはり、憲法というのは遠いものだ難しいものだというところから、なかなか我々が離れ得なかったという一つの課題を持っていると思う。生活の中でどう憲法をとらえ生かすか、これが大きな問題だと思う。 それからもう一つは、先ほどもちょっと申し上げましたけれども、国連の人権委員
○林力君 申しわけありませんが、ちゃんとお答えする考えが今まとまっておりません。お許しをいただきたいと思います。
○林力君 先ほども申し上げましたような私の経験とか生い立ちというものの中から申し上げますけれども、別に今の教育基本法を変更しなければならないという考え方には立っておりません。あの理念を国も国民ももっともっと大事にして、そこから新しい価値観を持った子供たちを生み出すことは十分可能だというふうに思っております。
○林力君 賛成でございます。
○林力君 私は憲法学者ではございませんので全くわかりませんけれども、プライバシー権とか環境権とか知る権利とかというものが浮上していることは存じておりますが、まさにこういうことこそ国民的な論議を投げかけていくということがまず前提ではないかというふうに思います。
○林力君 多くを語る時間もございませんので、簡単に私の考えを申し上げたい。 これは、熊本地裁の判決にもございますように、基本的にこの政策が始まりましたのが、病気を治すとか、患者の人権を守るとか、そういうことではなくて、まず、一九〇七年の国辱論でございました。外国人が多く日本に来るようになった。日清、日露の戦争を通じて世界の五大強国になった。そういう国の中に、汚れ、ただれた人間がうろうろしているということは、この国の不名誉であるという
○林力君 御質問と同意見でございます。
○林力君 私は、こういう点から主権というものを考えます。 くどいですけれども、私は同和問題にかかわり続けてまいりましたので、福岡が生みました解放の父松本治一郎という人が、侵さず侵されずということを言っております。これは、命の限りない尊厳と平等なるがゆえに、侵さず侵されずということだと思うんですけれども、これは個人の社会関係においても国際関係においても同じことだ、アジアの隣人に対してももちろん同じことだというふうに心得ております。
○林力君 安全保障が武力であるという時代は終わったのではないかという気持ちを持ちます。というのは、余りにも多くの課題を私たち地球は持っております。それは環境の問題、災害の問題、人口の問題、食糧の問題、貧困の問題、疫病の問題、資源の問題、科学技術の問題、挙げれば切りがないんですけれども、そういうものは国際連帯と協調の中でしか解決ができないことであって、そうであれば、平和憲法を今日まで維持してきた私たちが新しく国際的なリーダーになり得る可能
○林力君 私は、一九四六年以来今日まで、小学校、高等学校、大学の教壇に立ち続けてきました。そして、人権、同和教育運動のかかわりを続けてまいりました。その立場から陳述いたします。 私は、憲法第十四条の精神は、まだ十分に国及び国民のものとなっているとは言いがたいという認識を持っています。例えば、一九九六年、日本政府が国連人権委員会に報告したこの国の人権状況について、国連は、翌年、日本政府報告に対する国連人権委員会の総括所見なるものを送り
○林力君 失礼します。私は七十八歳であります。 私の人生の支柱、背景となった四つの事柄がありますので、そのことにかかわりながら、憲法について陳述をいたします。 私は、戦前戦中の天皇制絶対主義の教育を受けました。旧制中学校の校門には「学窓は戦争に通ず」と大書され、職員室には教員の思想統制と軍事教練のための制服の将校が配置されていました。次いで、義務としての兵役が待っていました。一年有余、大西巨人の小説「神聖喜劇」の世界でした。すべ
○中山座長 ありがとうございました。 次に、林力君にお願いいたします。
○中山座長 これより会議を開きます。 私は、衆議院憲法調査会会長の中山太郎でございます。 私がこの会議の座長を務めさせていただきますので、どうぞよろしくお願いいたします。 本調査会は、平成十二年一月二十日に設置されて以降、日本国憲法についての広範かつ総合的な調査を進めてまいりましたが、憲法は国民のものであるとの認識のもとに、広く国民各層の皆様方から日本国憲法についての御意見を拝聴し、本調査会における議論の参考にさせていただく
○仙谷委員 団長にかわり、派遣委員を代表いたしまして、その概要を御報告申し上げます。 派遣委員は、中山太郎会長を団長といたしまして、幹事葉梨信行君、幹事保岡興治君、幹事大出彰君、委員江田康幸君、委員武山百合子君、委員春名直章君、委員金子哲夫君、それに私、仙谷由人を加えた九名であります。 なお、現地におきまして、小沢和秋議員が参加されました。 地方公聴会は、十二月九日午後、福岡市のホテルニューオータニ博多の会議室におきまして、
○川俣委員 いずれこの予算委員会が終わればすぐ法案審議に入るとは思いますが、さっきお話ししたように、もう十七の閉山あるいは合理化案が出ているわけだが、つぶしちゃったら終わりよ、鉱山なんというのは物の本に書いてない技術だから。だから海外でも日本の鉱山技術を欲しがるわけでしょう。深海だって、あれは技術があればこそ二千メーターも下の熱水鉱床が発見されているわけですからね。だからその辺も、政治家なんですから、その時期が来たらということじゃなくて
○参考人(田村武君) 非常にむずかしいお尋ねだと思うのですけれども、私ども世界の林業の実態というのもそんなに詳しく見たわけでもありません。ただ、いろいろな自分で見た目とか、あるいは人の話を聞いたり本を見たり、いろいろなもので見る限り、やっぱり日本の戦後——昭和三十二年ごろからのこの林力増強計画に入っていったあたりですね、この辺からのいろいろ仕事のやり方とか、それから後の手入れの手抜きとかというようなものは、ちょっと世界に類がないのじゃな
○参考人(田村武君) いま、国有林野事業の改善特別措置法が五十三年に成立をしまして、五十三年から十カ年間、六十二年を一つの区切りにしてこの改善計画を進めていく、六十二年を過ぎれば国有林野の特別会計、これは収支均衡を保って、あとは順調に発展をしていくんだというような内容のことが言われておるのでありますけれども、私ども、やはりずっと客観的にながめて、六十二年以降になって、この計画がこのとおり進められたならば、果たして収支均衡ということになる
○政府委員(藍原義邦君) 三十年の国有林の歴史を見ておりますと、いま先生御指摘のように、現時点で昭和三十年代のことを見ますと、非常によけい切ったなあという感じをわれわれも受けます。しかし、やはりその時点において新聞紙上で国有林が木を切らないから物価が上がるのだという大きな批判を受けて、その時代にやはり国民の需要にこたえるために、当時の国有林の林力でどれだけ切れるのか、そのためにはやはり奥地の天然林をいい山に切りかえることによりまして伐採
○藍原政府委員 国有林が財政的に厳しくなりましたのは四十年代の後半からでございまして、たまたまいま先生がおっしゃいましたように四十八年、九年あたりは材価の高騰という事態がございまして黒字というような財政結果になっておりますが、傾向としては四十年の後半から赤字傾向になってきたというのが実態でございまして、この赤字傾向が今後相当長い期間続くであろうというふうに現時点では見込まれておるわけでございます。 その原因になりますのは、損益の面で