憲法調査会
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会
会議録情報#0
平成十四年十一月十三日(水曜日)
午後一時一分開会
─────────────
委員の異動
十月三十日
辞任 補欠選任
榛葉賀津也君 ツルネン マルテイ君
─────────────
出席者は左のとおり。
会 長 野沢 太三君
幹 事
市川 一朗君
武見 敬三君
谷川 秀善君
若林 正俊君
堀 利和君
峰崎 直樹君
山下 栄一君
小泉 親司君
平野 貞夫君
委 員
愛知 治郎君
荒井 正吾君
亀井 郁夫君
近藤 剛君
桜井 新君
世耕 弘成君
常田 享詳君
中島 啓雄君
福島啓史郎君
舛添 要一君
松田 岩夫君
松山 政司君
伊藤 基隆君
江田 五月君
川橋 幸子君
木俣 佳丈君
高橋 千秋君
ツルネン マルテイ君
角田 義一君
松井 孝治君
若林 秀樹君
魚住裕一郎君
高野 博師君
続 訓弘君
山口那津男君
宮本 岳志君
吉岡 吉典君
吉川 春子君
松岡滿壽男君
大脇 雅子君
事務局側
憲法調査会事務
局長 桐山 正敏君
参考人
早稲田大学法学
部教授 戸波 江二君
大阪市立大学大
学院法学研究科
教授 西谷 敏君
─────────────
本日の会議に付した案件
○日本国憲法に関する調査
(基本的人権
—経済的自由)
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この発言だけを見る →午後一時一分開会
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委員の異動
十月三十日
辞任 補欠選任
榛葉賀津也君 ツルネン マルテイ君
─────────────
出席者は左のとおり。
会 長 野沢 太三君
幹 事
市川 一朗君
武見 敬三君
谷川 秀善君
若林 正俊君
堀 利和君
峰崎 直樹君
山下 栄一君
小泉 親司君
平野 貞夫君
委 員
愛知 治郎君
荒井 正吾君
亀井 郁夫君
近藤 剛君
桜井 新君
世耕 弘成君
常田 享詳君
中島 啓雄君
福島啓史郎君
舛添 要一君
松田 岩夫君
松山 政司君
伊藤 基隆君
江田 五月君
川橋 幸子君
木俣 佳丈君
高橋 千秋君
ツルネン マルテイ君
角田 義一君
松井 孝治君
若林 秀樹君
魚住裕一郎君
高野 博師君
続 訓弘君
山口那津男君
宮本 岳志君
吉岡 吉典君
吉川 春子君
松岡滿壽男君
大脇 雅子君
事務局側
憲法調査会事務
局長 桐山 正敏君
参考人
早稲田大学法学
部教授 戸波 江二君
大阪市立大学大
学院法学研究科
教授 西谷 敏君
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本日の会議に付した案件
○日本国憲法に関する調査
(基本的人権
—経済的自由)
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野
野沢太三#1
○会長(野沢太三君) ただいまから憲法調査会を開会いたします。
日本国憲法に関する調査を議題といたします。
本日は、「基本的人権」のうち、「経済的自由」について、早稲田大学法学部教授の戸波江二参考人及び大阪市立大学大学院法学研究科教授の西谷敏参考人から御意見をお伺いした後、質疑を行います。
この際、参考人の方々に一言ごあいさつを申し上げます。
本日は、御多忙のところ本調査会に御出席をいただきまして、誠にありがとうございました。調査会を代表いたしまして厚く御礼を申し上げます。
忌憚のない御意見を承り、今後の調査に生かしてまいりたいと存じますので、よろしくお願いいたします。
議事の進め方でございますが、戸波参考人、西谷参考人の順にお一人二十分程度御意見をお述べいただきまして、その後、各委員からの質疑にお答えいただきたいと存じます。
なお、参考人、委員ともに御発言は着席のままで結構でございます。
それでは、まず戸波参考人にお願いいたします。
この発言だけを見る →日本国憲法に関する調査を議題といたします。
本日は、「基本的人権」のうち、「経済的自由」について、早稲田大学法学部教授の戸波江二参考人及び大阪市立大学大学院法学研究科教授の西谷敏参考人から御意見をお伺いした後、質疑を行います。
この際、参考人の方々に一言ごあいさつを申し上げます。
本日は、御多忙のところ本調査会に御出席をいただきまして、誠にありがとうございました。調査会を代表いたしまして厚く御礼を申し上げます。
忌憚のない御意見を承り、今後の調査に生かしてまいりたいと存じますので、よろしくお願いいたします。
議事の進め方でございますが、戸波参考人、西谷参考人の順にお一人二十分程度御意見をお述べいただきまして、その後、各委員からの質疑にお答えいただきたいと存じます。
なお、参考人、委員ともに御発言は着席のままで結構でございます。
それでは、まず戸波参考人にお願いいたします。
戸
戸波江二#2
○参考人(戸波江二君) 御紹介にあずかりました戸波と申します。
経済的自由、レジュメに沿いまして簡単に意見を述べさせていただきます。
経済的自由、社会権に関する憲法学説というのは、基本的に学者の数が少ない、それから業績の数もそれほど多くない、憲法学説が余り中心的に取り上げてきたテーマではございません。この理由につきましては、またその当否につきましてはまた後ほど触れます。
それから、本日のテーマとしましては、経済的自由ということですが、社会権、特に私の場合には生存権の規定についても含めさせていただきたいと思います。これは、経済的自由、経済活動が国民の社会生活に広く関係しているという面でも、それから経済的自由に関する日本国憲法の態度は社会権の保障と密接に関係しておりますので、併せて議論をするということでございます。
それから、経済的自由の問題そのものは、申しましたように、憲法学説、大きな問題となっていないということもありますので、経済的自由を論ずる前に、私の日本国憲法に対する基本認識みたいなものを五、六分お話しさせていただきたいと思います。これは、経済的自由についてどう考えるのかという点と密接に関連しているということと、それから憲法に対する基本認識ということは憲法学者様々ですので、私の立場を述べた方がこれからの質疑の実質化に役に立つということでございます。
それで、日本国憲法に対する基本認識、1のところで、日本国憲法につきましては、私は近代憲法の流れの本流に位置するしっかりした構造に基づく憲法である、普遍的価値を保障した憲法典であるというふうに考えております。
欧米諸国の憲法と日本国憲法は基本的に同じ原理に立脚しておりまして、普遍的な価値原理に基づくということであり、自由、民主、平和の原理というのは、既に国際的な水準にもなっている普遍的な原理でございます。
ただ、特殊性の問題としての憲法九条の議論がありまして、これをめぐっては、学界でもあるいは政治の世界でもあるいは戦後の憲法政治の過程でも大きな対立を引き起こしてきましたが、差し当たりの対立は九条の二項の戦力の保持というところでありまして、基本的な平和主義という観点からすれば、ほかの国の憲法でも規定されており、第二次世界大戦の反省に立った徹底した平和主義に立っている日本国憲法の下ではそれが維持されると。
それともう一つ強調したいのは、余り九条の問題ばかりで日本国憲法の是非を議論すべきではないというのは、これは私の考えでありまして、憲法は人権を保障する、それから国の基本構造を定めるという重要な法で、九条だけではなく、ほかの基本原理がたくさんあるというところで、その点を見なくちゃいけないということです。
憲法改正には基本的に反対の立場に立って、憲法擁護の立場に立つと書きました。日本国憲法の基本価値、自由、民主、平和というのは国際的に普遍化しつつあって、そこへ例を書きましたが、ODA四原則というのが一九九一年のときにできましたが、人権保障だとか民主的な体制になっていない国、独裁だとか軍事が通用している国については援助をしないというルールができているところに見られるように、自由だとか民主主義だとかという日本国憲法の挙げている理念というのはもはや、今や世界的な国際水準になっているということであります。
そう考えますと、日本国憲法を改正するかというときには、基本的に改正の必要はないんじゃないかという立場に私は立ちますし、ちょっと後で述べますように、憲法改正問題が、それ自体が政治問題化しているという日本の状況というのが実は非常に大きな問題になっているわけで、むしろその根本的な対立のところを除去してから憲法の改正や何かに進むというのが先ではないかというふうに考えます。ただし、余りごちごちの護憲論というわけでもありませんで、憲法改正はあってもよいというふうに考えており、例えば環境権、知る権利、プライバシーの権利を入れると、あるいは憲法裁判所を設置する、国民投票制の導入を考えるということは考えられるのではないかというふうに考えております。
ただ、その前提としてやはり重要なのがレジュメの(3)に挙げたところでありまして、憲法改正論の側でも、なぜ憲法を改正するのか、なぜ変えるのかと、どこを変えるのかという議論というのが必ずしも九条を除いては煮詰まっていないのではないか。特に、やはり改正をするに当たって、日本国憲法が今まで戦後五十年の歴史の中で果たしてきた積極的な役割あるいはプラスの役割、それをもう少し改憲論の側でもきちんと認識するという作業が必要ではないか。
「憲法への基本的コンセンサスの意識のないところでは、憲法改正は難しい。」と書きましたが、これは、例えばドイツの場合ですと六十回ももう戦後憲法改正しているわけですが、それは日本と違いましてドイツ連邦共和国基本法という憲法に対する基本的な信頼があるから、それで政権交代があっても、その信頼の下に憲法自体に対する信頼は変わらないと。その下で憲法の部分的なところを改正していく、だから六十回にも及ぶということでありまして、憲法の基本的なところに対立があると、それこそ改正が政治問題化して改正かどうかというのが難しくなるということです。日本の場合も憲法価値の承認、日本国憲法の積極的にというのを先ほど申しました。
それから、護憲、改憲をめぐるねじれの問題という、これも実は今日の話と、テーマと関係しますからちょっと申しますが、日本国憲法は、特に経済に関しては自由、経済的自由を保障し、基本的に自由主義、自由市場経済を取っていると。いわゆる西欧型の資本主義型の憲法、立憲主義型の憲法であり、資本主義の憲法であるわけです。
そのような憲法が戦後一貫して政府・自民党に支持されなかったという、支持されなかった、支持されなかったというのはちょっと訂正します、ちょっと強過ぎます、冷淡な目で見られていたというのは、実はねじれがあるのではないかと。護憲を唱えた政党だとか主義というのはどっちかというと社会主義、当時の東西冷戦の下での社会主義にシンパシーを持っているグループが護憲を唱えたと。
これは、実は日本国憲法をよく見てみますと、九条をちょっと除きますと、基本的には日本国憲法というのはむしろ西欧、普通の、アメリカ、ドイツ、フランスというところの立憲的な憲法であると。そこのところがなぜねじれたのかというのが正に憲法学の一つの問題であります。
それと同時に、実は戦後の憲法政治の過程で、政治を批判する勢力、政府の政治を批判する勢力が憲法を言わば抵抗のシンボルとして持ち出したところがあるんです、憲法を守れと。憲法は守らなくちゃいけないですし、憲法は守られてこそ立憲的な政治になるわけですけれども、時として、憲法を守れというのが時の政治に対する政治的な批判の道具となったという面はないか。つまり、憲法が言わば対立のシンボルになって、護憲か改憲かというのが正に対立になったんですよね。
さっきから申しますように、憲法はやはり日本の政治の一番の基礎にあるもので、私は、日本国憲法の価値、ひいては日本国憲法の中に内在している世界に共通する普遍的価値が既にもう政治の基本となっているというふうに見るべきだと思いますので、むしろそれを確立するということが先ではないかというふうに考えます。
それで、本題といいますか、経済についての議論に入りますけれども、結局、経済の部分というのは、日本国憲法の中で価値が共有されているところといいますか、一番対立がないところなんですよね。対立がないと申しますのは、実は憲法の構造にありまして、レジュメの2の(1)のところで「経済的自由に関する憲法の規定」と書きましたように、職業の自由、財産権の保障というのはこれはいわゆる経済的自由の規定ですが、それに併せて社会権の規定が二十五条から二十八条まで入っております。
社会権の保障というのは、御承知のように、憲法二十五条の生存権と、それから二十六条の教育と、二十七、二十八の労働というところが社会権、社会保障と教育と労働というところが社会権として盛り込まれております。この社会権の規定が入っている憲法というのは、ヨーロッパ、西欧の憲法では比較的少ない。特にドイツなどはわざわざこれは入れないという形で議論をしていたところですので、日本国憲法はこの社会権の規定を入れているというところがとても画期的なところで、憲法学では、十九世紀的な自由主義の、国家からの自由を中心とする自由主義の国家体制、国の政治体制から二十世紀の福祉国家への体制へと移り、その福祉国家については二種類あるんです。
ちょっとレジュメの2の(2)の上に「国の役割としての国家関与」と書きました。現代国家は、十九世紀、自由主義国家のように経済活動に何もしない、レッセフェールだというんじゃなくて、経済に関与して法律や何かで規制を行う、それが現代の国家に課せられている、経済活動に対して国がそれを法律でもって規制するということが大幅に認められている国家であります。それと同時に、社会的、経済的弱者のための福祉を実現する国家ということですから、国家観としては、現代国家というのは、十九世紀の国家と違ってむしろ国民の福祉だとか生活に面倒を見る国家だということが憲法上明らかにされております。
そのような日本国憲法を見ますと、正に憲法典が、現代国家として国が国民の面倒を見るという形で憲法が行われ、ちょっと話が、ちょっとレジュメでははっきり書かなかったかもしれませんけれども、3の(1)でちょっと書いたんですけれども、結果的に、日本の戦後の政治を見ますと、経済や社会生活の部分では、いろいろと細かな点では経済政策についての対立があり、あるいは社会福祉政策についての失敗などもないわけじゃないですけれども、全体として見ますと、国民の経済だとか社会に対して国が、立法なり行政なりがいろいろな形でもって配慮して、それなりにというとまた言葉が悪いですけれども、相応の成果を上げてきたのではないかと。
そのような経済社会についての活動をしてきた国会や内閣が、憲法を実現するのだという意識を持っていたかどうかは別なんですよね。私の見るところでは、結果的に憲法価値が経済社会分野では広く実現してきたというふうに私は理解しております。
実際に、現在、ちょっとレジュメに戻りますと2の(2)の「戦後の憲法政治の下での経済の展開」の後半のところで書きましたように、戦後の経済とか福祉の状況を見ますと、社会保障にしても経済にしても、いろいろ紆余曲折ありますけれども伸びてきた。九〇年代へ入りまして、新自由主義の規制緩和の問題、スリムな国家を目指すという政策が入ってくる。他方、バブルの崩壊から、金融、行政の不祥事、長期不況、財政赤字というような大きな問題が出てきて、それを克服すべく国会の方で努力していただきたいということですけれども、憲法につきましては、(3)の最初に述べましたように、基本的に社会経済政策は国会や政府の任務である。
憲法は、社会福祉について一生懸命やりなさいということが憲法二十五条二項に書いてあり、先ほどから申しましたように、国会、内閣は、これまでの政治は福祉について力を注いできたというふうに私は認識しておりまして、そう見ますと、憲法典は経済社会の分野については、いわゆる立法裁量といいますか、国会の政策的な判断に大幅にゆだねている。その結果どうなりますかというと、国の経済政策だとか社会政策について憲法違反だという判断というのがなかなか出にくいということであり、実際に裁判所も違憲審査権を行使してこの経済社会分野について違憲だと判断を控えるという基本的な消極的な態度を取ってきております。
ただ、判例で見ますと、数少ない違憲判決のうちの三件、最近出た郵便法の補償の制限も、損害賠償の制限の違憲判決も含めると三件、財産権の分野でもって違憲判決が出ている。これはどう分析するのかというのは面白い問題なんですけれども、差し当たり今日はその問題については触れません。
それから、2の(2)の最初のところで書きましたように、東西対立のときの時代の議論は若干あったんですね。財産権について、特に憲法改正を経ないで社会主義に移行できるかどうかというような問題が学説では基本問題として議論されたことがありました。しかし、それは九〇年に東西対立がなくなった後、学説でも余り関心を持たれない。
そうしますと、現在は基本的な枠組みとして社会経済、福祉について国会が憲法の理念を実現するように政策を展開してほしいと。裁判所は極端な場合にそれについて違憲判断をするけれども、基本的には政策問題は見守るという形であり、問題は、それじゃそのような憲法の規定に沿って現実が進んできたかどうかということにつきましては、基本的に日本は順調に経済成長を続け、経済の分野でも雇用の分野でも順調だったんですけれども、一九九〇年代に入ってから以降のやっぱり状況にどう対処してどうそれを克服していくのかということが今問われているわけです。ただ、憲法の視点からはその点が答えが出てこない。むしろ、やっぱり政治の問題として解決していただきたいということであります。
ただ、その際に、幾つか憲法から言えることと申しますと、2の(4)に書きましたように、新自由主義の経済政策、これについてはいろいろ批判もありますが、ただアメリカの規制緩和論やなんかもありますので、経済の自由化、スリム化あるいは民営化という観点というのは不可避かと思いますが、ただ福祉の問題というのはやはり基本問題としてありますので、これは新自由主義の下で福祉の切り捨てというふうに直ちに結び付くべきではないということは、これは憲法上の要請として一つある。
それから、社会保障の財政的基盤、これも大問題でありますが、最終的には社会保障政策の各論の問題で難問がありますが、何とかやはり国民の安定した健康だとか年金だとかというところを確保するということで、福祉についてもきめ細かな福祉政策を期待する。
それから、憲法の規定を踏まえた社会経済政策、国民の社会経済生活の援助ということは、先ほど申し上げたとおりでございます。
それから、福祉以外の社会権の分野、教育、労働、環境というところも、環境は条文にありませんけれども、やはり重要な問題ということでもって社会問題として挙げましたけれども、やはりこれらのものについても積極的に充実させるべきだということであります。
結論に入りまして、3の(1)で、そのように憲法規定と戦後の現実の政治過程を見ますと、結果として憲法規定に沿ったといいますか、結果として憲法の予定するような形で経済社会政策が運営されてきたのではないかと。言わば、政治が意図しない形で実際は憲法に基づく経済社会生活の実現というのはなされたのではないかと。
ただ、これからはやはり、今の改革をどう克服するのかというところで、行政・財政改革、公務員改革というものが目指されている。そこを考えるときの前提として、やはり国民の福祉だとか人権だとか経済生活の安定だとかということが密接に関係するので、人権問題がそういうところに、是非人権問題に配慮しながらお考えいただきたいということです。
今後の展望との関係で幾つか書いて、幾つか言いたいんですけれども。
結論的に言いますと、経済的自由、経済社会と人権というところでは、細かく見ますといろいろ問題がありますが、日本国憲法が、経済規制を前提とし、経済の放らつな自由を認めていないということ、それから福祉を取り立てて、国に対していろいろ国民生活の面倒を見るということを期待しているということ。それに対して、今までの政治は曲がりなりにもそれに対応した形でもってそれを実現してきたことといいますから、私は、この経済政策の分野というのが、正に日本国憲法の価値の共有が可能なところといいますか、一番の土台で、それは、国民の福祉だとか生活だとかを安定させるという観点からの人権の価値、経済的自由の人権としての価値から見た安定ないしは共通の土台ということでございます。
時間が来ましたので。
どうも御清聴ありがとうございました。拍手
この発言だけを見る →経済的自由、レジュメに沿いまして簡単に意見を述べさせていただきます。
経済的自由、社会権に関する憲法学説というのは、基本的に学者の数が少ない、それから業績の数もそれほど多くない、憲法学説が余り中心的に取り上げてきたテーマではございません。この理由につきましては、またその当否につきましてはまた後ほど触れます。
それから、本日のテーマとしましては、経済的自由ということですが、社会権、特に私の場合には生存権の規定についても含めさせていただきたいと思います。これは、経済的自由、経済活動が国民の社会生活に広く関係しているという面でも、それから経済的自由に関する日本国憲法の態度は社会権の保障と密接に関係しておりますので、併せて議論をするということでございます。
それから、経済的自由の問題そのものは、申しましたように、憲法学説、大きな問題となっていないということもありますので、経済的自由を論ずる前に、私の日本国憲法に対する基本認識みたいなものを五、六分お話しさせていただきたいと思います。これは、経済的自由についてどう考えるのかという点と密接に関連しているということと、それから憲法に対する基本認識ということは憲法学者様々ですので、私の立場を述べた方がこれからの質疑の実質化に役に立つということでございます。
それで、日本国憲法に対する基本認識、1のところで、日本国憲法につきましては、私は近代憲法の流れの本流に位置するしっかりした構造に基づく憲法である、普遍的価値を保障した憲法典であるというふうに考えております。
欧米諸国の憲法と日本国憲法は基本的に同じ原理に立脚しておりまして、普遍的な価値原理に基づくということであり、自由、民主、平和の原理というのは、既に国際的な水準にもなっている普遍的な原理でございます。
ただ、特殊性の問題としての憲法九条の議論がありまして、これをめぐっては、学界でもあるいは政治の世界でもあるいは戦後の憲法政治の過程でも大きな対立を引き起こしてきましたが、差し当たりの対立は九条の二項の戦力の保持というところでありまして、基本的な平和主義という観点からすれば、ほかの国の憲法でも規定されており、第二次世界大戦の反省に立った徹底した平和主義に立っている日本国憲法の下ではそれが維持されると。
それともう一つ強調したいのは、余り九条の問題ばかりで日本国憲法の是非を議論すべきではないというのは、これは私の考えでありまして、憲法は人権を保障する、それから国の基本構造を定めるという重要な法で、九条だけではなく、ほかの基本原理がたくさんあるというところで、その点を見なくちゃいけないということです。
憲法改正には基本的に反対の立場に立って、憲法擁護の立場に立つと書きました。日本国憲法の基本価値、自由、民主、平和というのは国際的に普遍化しつつあって、そこへ例を書きましたが、ODA四原則というのが一九九一年のときにできましたが、人権保障だとか民主的な体制になっていない国、独裁だとか軍事が通用している国については援助をしないというルールができているところに見られるように、自由だとか民主主義だとかという日本国憲法の挙げている理念というのはもはや、今や世界的な国際水準になっているということであります。
そう考えますと、日本国憲法を改正するかというときには、基本的に改正の必要はないんじゃないかという立場に私は立ちますし、ちょっと後で述べますように、憲法改正問題が、それ自体が政治問題化しているという日本の状況というのが実は非常に大きな問題になっているわけで、むしろその根本的な対立のところを除去してから憲法の改正や何かに進むというのが先ではないかというふうに考えます。ただし、余りごちごちの護憲論というわけでもありませんで、憲法改正はあってもよいというふうに考えており、例えば環境権、知る権利、プライバシーの権利を入れると、あるいは憲法裁判所を設置する、国民投票制の導入を考えるということは考えられるのではないかというふうに考えております。
ただ、その前提としてやはり重要なのがレジュメの(3)に挙げたところでありまして、憲法改正論の側でも、なぜ憲法を改正するのか、なぜ変えるのかと、どこを変えるのかという議論というのが必ずしも九条を除いては煮詰まっていないのではないか。特に、やはり改正をするに当たって、日本国憲法が今まで戦後五十年の歴史の中で果たしてきた積極的な役割あるいはプラスの役割、それをもう少し改憲論の側でもきちんと認識するという作業が必要ではないか。
「憲法への基本的コンセンサスの意識のないところでは、憲法改正は難しい。」と書きましたが、これは、例えばドイツの場合ですと六十回ももう戦後憲法改正しているわけですが、それは日本と違いましてドイツ連邦共和国基本法という憲法に対する基本的な信頼があるから、それで政権交代があっても、その信頼の下に憲法自体に対する信頼は変わらないと。その下で憲法の部分的なところを改正していく、だから六十回にも及ぶということでありまして、憲法の基本的なところに対立があると、それこそ改正が政治問題化して改正かどうかというのが難しくなるということです。日本の場合も憲法価値の承認、日本国憲法の積極的にというのを先ほど申しました。
それから、護憲、改憲をめぐるねじれの問題という、これも実は今日の話と、テーマと関係しますからちょっと申しますが、日本国憲法は、特に経済に関しては自由、経済的自由を保障し、基本的に自由主義、自由市場経済を取っていると。いわゆる西欧型の資本主義型の憲法、立憲主義型の憲法であり、資本主義の憲法であるわけです。
そのような憲法が戦後一貫して政府・自民党に支持されなかったという、支持されなかった、支持されなかったというのはちょっと訂正します、ちょっと強過ぎます、冷淡な目で見られていたというのは、実はねじれがあるのではないかと。護憲を唱えた政党だとか主義というのはどっちかというと社会主義、当時の東西冷戦の下での社会主義にシンパシーを持っているグループが護憲を唱えたと。
これは、実は日本国憲法をよく見てみますと、九条をちょっと除きますと、基本的には日本国憲法というのはむしろ西欧、普通の、アメリカ、ドイツ、フランスというところの立憲的な憲法であると。そこのところがなぜねじれたのかというのが正に憲法学の一つの問題であります。
それと同時に、実は戦後の憲法政治の過程で、政治を批判する勢力、政府の政治を批判する勢力が憲法を言わば抵抗のシンボルとして持ち出したところがあるんです、憲法を守れと。憲法は守らなくちゃいけないですし、憲法は守られてこそ立憲的な政治になるわけですけれども、時として、憲法を守れというのが時の政治に対する政治的な批判の道具となったという面はないか。つまり、憲法が言わば対立のシンボルになって、護憲か改憲かというのが正に対立になったんですよね。
さっきから申しますように、憲法はやはり日本の政治の一番の基礎にあるもので、私は、日本国憲法の価値、ひいては日本国憲法の中に内在している世界に共通する普遍的価値が既にもう政治の基本となっているというふうに見るべきだと思いますので、むしろそれを確立するということが先ではないかというふうに考えます。
それで、本題といいますか、経済についての議論に入りますけれども、結局、経済の部分というのは、日本国憲法の中で価値が共有されているところといいますか、一番対立がないところなんですよね。対立がないと申しますのは、実は憲法の構造にありまして、レジュメの2の(1)のところで「経済的自由に関する憲法の規定」と書きましたように、職業の自由、財産権の保障というのはこれはいわゆる経済的自由の規定ですが、それに併せて社会権の規定が二十五条から二十八条まで入っております。
社会権の保障というのは、御承知のように、憲法二十五条の生存権と、それから二十六条の教育と、二十七、二十八の労働というところが社会権、社会保障と教育と労働というところが社会権として盛り込まれております。この社会権の規定が入っている憲法というのは、ヨーロッパ、西欧の憲法では比較的少ない。特にドイツなどはわざわざこれは入れないという形で議論をしていたところですので、日本国憲法はこの社会権の規定を入れているというところがとても画期的なところで、憲法学では、十九世紀的な自由主義の、国家からの自由を中心とする自由主義の国家体制、国の政治体制から二十世紀の福祉国家への体制へと移り、その福祉国家については二種類あるんです。
ちょっとレジュメの2の(2)の上に「国の役割としての国家関与」と書きました。現代国家は、十九世紀、自由主義国家のように経済活動に何もしない、レッセフェールだというんじゃなくて、経済に関与して法律や何かで規制を行う、それが現代の国家に課せられている、経済活動に対して国がそれを法律でもって規制するということが大幅に認められている国家であります。それと同時に、社会的、経済的弱者のための福祉を実現する国家ということですから、国家観としては、現代国家というのは、十九世紀の国家と違ってむしろ国民の福祉だとか生活に面倒を見る国家だということが憲法上明らかにされております。
そのような日本国憲法を見ますと、正に憲法典が、現代国家として国が国民の面倒を見るという形で憲法が行われ、ちょっと話が、ちょっとレジュメでははっきり書かなかったかもしれませんけれども、3の(1)でちょっと書いたんですけれども、結果的に、日本の戦後の政治を見ますと、経済や社会生活の部分では、いろいろと細かな点では経済政策についての対立があり、あるいは社会福祉政策についての失敗などもないわけじゃないですけれども、全体として見ますと、国民の経済だとか社会に対して国が、立法なり行政なりがいろいろな形でもって配慮して、それなりにというとまた言葉が悪いですけれども、相応の成果を上げてきたのではないかと。
そのような経済社会についての活動をしてきた国会や内閣が、憲法を実現するのだという意識を持っていたかどうかは別なんですよね。私の見るところでは、結果的に憲法価値が経済社会分野では広く実現してきたというふうに私は理解しております。
実際に、現在、ちょっとレジュメに戻りますと2の(2)の「戦後の憲法政治の下での経済の展開」の後半のところで書きましたように、戦後の経済とか福祉の状況を見ますと、社会保障にしても経済にしても、いろいろ紆余曲折ありますけれども伸びてきた。九〇年代へ入りまして、新自由主義の規制緩和の問題、スリムな国家を目指すという政策が入ってくる。他方、バブルの崩壊から、金融、行政の不祥事、長期不況、財政赤字というような大きな問題が出てきて、それを克服すべく国会の方で努力していただきたいということですけれども、憲法につきましては、(3)の最初に述べましたように、基本的に社会経済政策は国会や政府の任務である。
憲法は、社会福祉について一生懸命やりなさいということが憲法二十五条二項に書いてあり、先ほどから申しましたように、国会、内閣は、これまでの政治は福祉について力を注いできたというふうに私は認識しておりまして、そう見ますと、憲法典は経済社会の分野については、いわゆる立法裁量といいますか、国会の政策的な判断に大幅にゆだねている。その結果どうなりますかというと、国の経済政策だとか社会政策について憲法違反だという判断というのがなかなか出にくいということであり、実際に裁判所も違憲審査権を行使してこの経済社会分野について違憲だと判断を控えるという基本的な消極的な態度を取ってきております。
ただ、判例で見ますと、数少ない違憲判決のうちの三件、最近出た郵便法の補償の制限も、損害賠償の制限の違憲判決も含めると三件、財産権の分野でもって違憲判決が出ている。これはどう分析するのかというのは面白い問題なんですけれども、差し当たり今日はその問題については触れません。
それから、2の(2)の最初のところで書きましたように、東西対立のときの時代の議論は若干あったんですね。財産権について、特に憲法改正を経ないで社会主義に移行できるかどうかというような問題が学説では基本問題として議論されたことがありました。しかし、それは九〇年に東西対立がなくなった後、学説でも余り関心を持たれない。
そうしますと、現在は基本的な枠組みとして社会経済、福祉について国会が憲法の理念を実現するように政策を展開してほしいと。裁判所は極端な場合にそれについて違憲判断をするけれども、基本的には政策問題は見守るという形であり、問題は、それじゃそのような憲法の規定に沿って現実が進んできたかどうかということにつきましては、基本的に日本は順調に経済成長を続け、経済の分野でも雇用の分野でも順調だったんですけれども、一九九〇年代に入ってから以降のやっぱり状況にどう対処してどうそれを克服していくのかということが今問われているわけです。ただ、憲法の視点からはその点が答えが出てこない。むしろ、やっぱり政治の問題として解決していただきたいということであります。
ただ、その際に、幾つか憲法から言えることと申しますと、2の(4)に書きましたように、新自由主義の経済政策、これについてはいろいろ批判もありますが、ただアメリカの規制緩和論やなんかもありますので、経済の自由化、スリム化あるいは民営化という観点というのは不可避かと思いますが、ただ福祉の問題というのはやはり基本問題としてありますので、これは新自由主義の下で福祉の切り捨てというふうに直ちに結び付くべきではないということは、これは憲法上の要請として一つある。
それから、社会保障の財政的基盤、これも大問題でありますが、最終的には社会保障政策の各論の問題で難問がありますが、何とかやはり国民の安定した健康だとか年金だとかというところを確保するということで、福祉についてもきめ細かな福祉政策を期待する。
それから、憲法の規定を踏まえた社会経済政策、国民の社会経済生活の援助ということは、先ほど申し上げたとおりでございます。
それから、福祉以外の社会権の分野、教育、労働、環境というところも、環境は条文にありませんけれども、やはり重要な問題ということでもって社会問題として挙げましたけれども、やはりこれらのものについても積極的に充実させるべきだということであります。
結論に入りまして、3の(1)で、そのように憲法規定と戦後の現実の政治過程を見ますと、結果として憲法規定に沿ったといいますか、結果として憲法の予定するような形で経済社会政策が運営されてきたのではないかと。言わば、政治が意図しない形で実際は憲法に基づく経済社会生活の実現というのはなされたのではないかと。
ただ、これからはやはり、今の改革をどう克服するのかというところで、行政・財政改革、公務員改革というものが目指されている。そこを考えるときの前提として、やはり国民の福祉だとか人権だとか経済生活の安定だとかということが密接に関係するので、人権問題がそういうところに、是非人権問題に配慮しながらお考えいただきたいということです。
今後の展望との関係で幾つか書いて、幾つか言いたいんですけれども。
結論的に言いますと、経済的自由、経済社会と人権というところでは、細かく見ますといろいろ問題がありますが、日本国憲法が、経済規制を前提とし、経済の放らつな自由を認めていないということ、それから福祉を取り立てて、国に対していろいろ国民生活の面倒を見るということを期待しているということ。それに対して、今までの政治は曲がりなりにもそれに対応した形でもってそれを実現してきたことといいますから、私は、この経済政策の分野というのが、正に日本国憲法の価値の共有が可能なところといいますか、一番の土台で、それは、国民の福祉だとか生活だとかを安定させるという観点からの人権の価値、経済的自由の人権としての価値から見た安定ないしは共通の土台ということでございます。
時間が来ましたので。
どうも御清聴ありがとうございました。拍手
野
西
西谷敏#4
○参考人(西谷敏君) 御紹介いただきました西谷です。私は、専門が労働法ということですので、労働法の観点から、経済的自由と社会権、労働法の関係についてお話し申し上げたいと思います。
言うまでもなく、日本国憲法は、職業選択の自由とか所有権などの経済的自由と並びまして、一連の社会権を保障しております。
労働法の分野について重要でありますのは、まず勤労の権利を保障しました憲法二十七条の一項であります。これは、特に国の雇用保障政策や判例によります解雇制限法理の理念的な根拠となっております。
次に、憲法二十七条の二項ですが、ここでは、「賃金、就業時間、休息その他の勤労条件に関する基準は、法律でこれを定める。」と規定しております。労働基準法などのいわゆる労働者保護立法は、こうした憲法の負託を受けて制定された法律であります。憲法学者の中村睦男教授は、このような憲法との密接な関連が、諸外国の労働基準法と比較した場合に、我が国の労働基準法の特色となっているというふうに指摘しておられます。
そして、いわゆる団結権、団体交渉権、団体行動権を保障しました憲法二十八条も、経済的自由を制約する側面を持つわけであります。
労働法というのは、このような憲法の諸規定を基礎に形成されております。
労働法は、いずれの国でも存在するわけですけれども、労働法のキーワードはいわゆる労働の従属性であります。つまり、労働者と使用者の個人的な関係においては、やはり使用者が非常に強い力を持っていると。そこで、形式上は労働契約で対等の立場で労働条件を決定することになっているんだけれども、その力関係の隔絶のゆえに、事実上使用者が一方的に労働条件を決定しがちになる。もし労働法がなければ、そういうことになってしまう。そういう事態になりますと、労働条件は一方的に引き下げられるだけになる、あるいは労働者の人間的な生活が保障できない。そこで、労働法が様々な形で使用者の一方的な決定、単独決定を規制する、こういうことになっているわけであります。これは各国で共通しております。
したがいまして、労働法というものは、端的に言えば、使用者の一方的な決定、つまり経済的自由を規制するということ、ここに最も基本的な性格を持っております。
日本国憲法がこのような性格を持った労働法を根拠付けているということは、言い換えますと、これは当然に経済的自由の制約を前提にしているということになります。
しかし、他方、経済的自由につきましても様々な種類とか局面がありますけれども、大企業の経済的自由を含めまして一定の憲法的保障を受けることは言うまでもありません。言い換えますと、社会権や、それに基づく労働法も、経済的自由を完全には否定しない範囲で存在し得るにすぎないということであります。そこで、立法とか解釈におきましては、経済的自由と社会権、労働法の関係を、その両者を調和的にとらえる、つまり両者がいずれも犠牲にされることなく実現される、そういうことを憲法は求めているというふうに考えざるを得ないわけであります。
このような経済的自由と社会権、労働法との調和という観点から、最近の労働分野の規制緩和あるいは規制改革と言われますけれども、この動きを見ますと、私はそこに非常に重大な問題を感じるわけであります。そこでは、市場原理、すなわち経済的自由の価値が一面的に強調されまして、社会権を保障するという観点が非常に弱いということであります。
幾つかの例を挙げさせていただきます。時間の関係で詳しくは立ち入れませんが、幾つかの具体例としてお聞きください。
一つは、ホワイトカラーの労働時間問題であります。これにつきましては、現行労基法の裁量労働制の規定がありますが、特にその中でも、企画業務型の裁量労働制につきまして、手続が余りにも煩雑であると、そういう理由でそれの緩和が要求されております。
さらに、ホワイトカラーにつきまして八時間労働制の適用そのものを排除をしようとする、いわゆるホワイトカラーエグゼンプションの考え方も有力に主張されております。要するに、ホワイトカラーについては時間管理をしないで残業手当も支払わない、そういうことにしてはどうかという提案であります。
しかし、私の見ますところ、不況の中でも、ホワイトカラーの長時間労働は、依然として過労死問題とかその他様々な社会問題を生み出しております。ホワイトカラー労働者の労働時間をめぐる最近の議論は、企業経営上の効率だけを重視して、社会権保障の観点が欠落しているのではないかというふうに私は見ております。
次に、有期契約の期間延長の問題でありますけれども、これは、現行労基法の十四条が原則一年と定めております有期契約の期間を三年ないしは五年に延長しようというものでありますけれども、これによりましてどういう事態が生じるかといいますと、労働者の雇用は安定するのではなくてかえって不安定化する、あるいは若年労働者、若年女性については事実上の結婚退職制が復活するのではないかといった問題が指摘されております。
私は、この有期契約につきましては、ヨーロッパ諸国でそうされておりますように、そもそも合理性のない有期契約は認めないというところから出発をしてこの問題を考えていくべきだろうというふうに考えております。
労働者派遣の問題でありますけれども、労働者派遣という形態、特に登録型の派遣につきましては、派遣法が制定されました八五年当初から非常に大きな問題があると指摘されておりました。ところが、労働者派遣法の制定後十七年の間に、派遣が許容される範囲がどんどん拡大されまして、派遣労働者の勤務条件が非常に問題がある、あるいは派遣契約が中途で解約されて簡単に事実上解雇される、あるいは派遣先による事前面接という法律上許されていない行為が横行しているなどの様々な問題が指摘されております。ところが、現在、製造業への派遣の問題とか派遣期間の問題などについて一層の規制緩和が要求されているところであります。
次に、解雇制限でありますけれども、現在、法律の上では基本的に解雇理由、解雇の事由を制限する規定はございません。そこで、判例によりまして解雇権濫用法理が確立され、それが解雇を制限する役割を果たしているわけであります。
現在、この問題につきまして法律でどのように規定するのかということが論じられておりますけれども、一つの有力な考え方によれば、法律の規定を設けることによって解雇をもっと自由にできるようにするということが言われております。しかし、私の意見では、現在の判例法理は社会的に見て許容できない権利濫用的な解雇を排除しているだけでありまして、例えば経済的困難に陥った企業がやむを得ずなすような解雇は決して否定されておりません。したがいまして、結論的には、私は、これ以上解雇を簡単にするような法律の規定は必要ないし、さらに、これは労働者の雇用不安をあおるものであって、極めて有害ではなかろうかというふうに考えているところであります。
このように、現在の規制緩和論には様々な問題が存在すると考えております。
しかし、他方、先ほども申し上げましたように、経済的自由は制約はされても否定することはできません。これは現在の経済制度の基礎であり、その一定の保障は憲法的要請だからであります。また、労働者の福祉のためにも経済の安定的発展は不可欠でありまして、経済の安定的発展のためには一定の条件下での経済的自由あるいは競争は必要であります。
そこで、問題は、経済的自由と社会権、労働法との調和をいかに図るのかということになってきます。その問題を考えるに当たりまして、比較法的な視点が大変重要ではないかというのが私の意見であります。
労働法的な規制の程度という観点から見ますと、アメリカ、一方におけるアメリカ、それから他方におけるフランス、ドイツなどのヨーロッパ大陸の諸国は極めて対照的であります。アメリカは基本的に労働法的規制の極めて弱い国でありまして、これに対しましてヨーロッパ諸国は伝統的に労働法的規制を重視してきた国であります。現在はEU段階での規制の再編に取り組んでいるところであります。
日本の労働法はどうかといいますと、大ざっぱに言えば、言わばアメリカ型とヨーロッパ型の中間に位置するのではなかろうかというふうに考えます。現在、日本における労働法の規制緩和がどんどん進められようとしておりますけれども、このような規制緩和が進められてきますと、日本は言わばアメリカ型に接近していくということになるわけであります。
そこで、日本の労働法をアメリカ型に持っていくのか、あるいはヨーロッパ型に持っていくのか。これは下手をしますと水掛け論になりそうでありますけれども、私は、この問題を考えるに当たって、それぞれの国の憲法の基本構造を忘れてはならないというふうに考えております。
ヨーロッパ大陸の諸国は、第二次大戦後、例えばドイツの社会的市場経済論に典型的に見られますように、社会的公正とか労働者保護の観点からする国家介入を前提とした市場経済の制度を確立し、その下で労働法を発展させてきました。そうした経済構造と労働法の在り方は、実はそれぞれの国の憲法にその基礎を持っていたのではなかろうかと思うわけであります。すなわち、一九四六年のフランス第四共和国憲法は社会的共和国、フランスは社会的共和国であると規定しております。一九四七年のイタリア憲法は労働に基礎を置く民主的共和国だと規定しております。そして、一九四九年の西ドイツ基本法は社会的法治国家と規定しております。
このように、ヨーロッパ大陸の諸国は、いずれも自らを社会的政策を展開する国家と規定して、そういった憲法的基礎の上に具体的な政策を展開してきたわけであります。先ほどの戸波先生のお話にありましたように、社会権という形では規定されていないとしても、社会国家、国家目的の形においてこういった基本的な政策を宣言しているというふうに見ることができるわけであります。
フランスやドイツなどにおきましては、現在、グローバル化の中で新自由主義的な規制緩和論の攻勢をやはり受けておりますけれども、そしてその中で様々な政策的な動揺が見られますけれども、なお市場原理一辺倒に陥ることなく、社会的公正のための国家的介入の政策を維持してきたわけであります。こうした在り方は、憲法の基本的な構造抜きにして理解できないのではなかろうか。ドイツのある論者はこのように言っております。労働者保護の観点からする修正を伴わない完全な市場経済は憲法と矛盾すると。このような考え方が他のヨーロッパ大陸諸国にも共通するのではなかろうかということであります。
他方、アメリカ憲法は個人的自由のみに立脚しておりまして、憲法自体におきましては社会的公正の観点からする国家介入を根拠付ける規定はありません。もとより、アメリカにおきましても、経済、社会の各分野で様々な国家介入がなされておりますけれども、これらは憲法的基礎を持っておりませんがために、単なる政策としての色彩が強く、政権の交代とともに大きな転換がなされるということであります。また、労働法の分野におきまして一貫して法的規制が弱いというアメリカの特徴も、憲法のこのような在り方と決して無関係とは言えないのではなかろうかと考えております。
このようなヨーロッパ諸国憲法とアメリカ憲法との対比の中で見た場合、日本国憲法は一連の社会権規定を持っている点で明らかにヨーロッパ型に属すると言えるのではないでしょうか。特に憲法二十七条二項は労働立法の根拠となるものでありまして、重要な労働条件について法律で明確に最低基準を設定するという国家の任務は、憲法を尊重する限り決して放棄することのできないものであります。したがいまして、憲法を前提として日本の労働法の在り方を考える限り、アメリカに接近していくということは非常に問題がある。むしろ、ヨーロッパ型の労働法を参考にしつつ、今後の日本の労働法の在り方を考える必要があるのではなかろうかということであります。
しかし、市場原理を社会的観点によって修正しようとするヨーロッパの試みも、グローバル化の中でいつまでも保持されるという保障はありません。経済のグローバル化の進行によりまして、アメリカの考え方が国境を越えたスタンダードとして浸透していくならば、ヨーロッパ諸国もその影響を受けて、言わばヨーロッパのアメリカ化が進んでいく可能性もあります。それは、労働運動や関係者の長年の努力で形成されてきた労働条件や労働者権の水準を大幅に低下させ、時代を百年以上逆戻りさせることになりかねないと思います。
しかし、逆に、市場と社会的観点を結び付けようとするヨーロッパの努力が、ヨーロッパ共同体の範囲を超えた国際的基準の確立を通じてアメリカをも拘束する力を持っていくという可能性も否定はできません。現在、そうしたアメリカ型の考え方が世界を支配するのか、あるいはヨーロッパ型の考え方がアメリカをも拘束していくのかという点で鋭い緊張関係が見られると思います。そうした緊張関係の中で日本の労働法はどのような道を歩んでいくべきなのかが問われているのだろうと思います。
私は、日本の現行憲法がヨーロッパ型であるという単にそれだけの理由ではなくて、より積極的に労働運動の長年にわたる血のにじむような努力を無にしないで、労働者の人間らしい生活の保障を前提とした安定した日本社会あるいは国際社会の形成に貢献するという観点から、むしろヨーロッパに学ぶ労働法の確立を期待しているところであります。
御清聴ありがとうございました。拍手
この発言だけを見る →言うまでもなく、日本国憲法は、職業選択の自由とか所有権などの経済的自由と並びまして、一連の社会権を保障しております。
労働法の分野について重要でありますのは、まず勤労の権利を保障しました憲法二十七条の一項であります。これは、特に国の雇用保障政策や判例によります解雇制限法理の理念的な根拠となっております。
次に、憲法二十七条の二項ですが、ここでは、「賃金、就業時間、休息その他の勤労条件に関する基準は、法律でこれを定める。」と規定しております。労働基準法などのいわゆる労働者保護立法は、こうした憲法の負託を受けて制定された法律であります。憲法学者の中村睦男教授は、このような憲法との密接な関連が、諸外国の労働基準法と比較した場合に、我が国の労働基準法の特色となっているというふうに指摘しておられます。
そして、いわゆる団結権、団体交渉権、団体行動権を保障しました憲法二十八条も、経済的自由を制約する側面を持つわけであります。
労働法というのは、このような憲法の諸規定を基礎に形成されております。
労働法は、いずれの国でも存在するわけですけれども、労働法のキーワードはいわゆる労働の従属性であります。つまり、労働者と使用者の個人的な関係においては、やはり使用者が非常に強い力を持っていると。そこで、形式上は労働契約で対等の立場で労働条件を決定することになっているんだけれども、その力関係の隔絶のゆえに、事実上使用者が一方的に労働条件を決定しがちになる。もし労働法がなければ、そういうことになってしまう。そういう事態になりますと、労働条件は一方的に引き下げられるだけになる、あるいは労働者の人間的な生活が保障できない。そこで、労働法が様々な形で使用者の一方的な決定、単独決定を規制する、こういうことになっているわけであります。これは各国で共通しております。
したがいまして、労働法というものは、端的に言えば、使用者の一方的な決定、つまり経済的自由を規制するということ、ここに最も基本的な性格を持っております。
日本国憲法がこのような性格を持った労働法を根拠付けているということは、言い換えますと、これは当然に経済的自由の制約を前提にしているということになります。
しかし、他方、経済的自由につきましても様々な種類とか局面がありますけれども、大企業の経済的自由を含めまして一定の憲法的保障を受けることは言うまでもありません。言い換えますと、社会権や、それに基づく労働法も、経済的自由を完全には否定しない範囲で存在し得るにすぎないということであります。そこで、立法とか解釈におきましては、経済的自由と社会権、労働法の関係を、その両者を調和的にとらえる、つまり両者がいずれも犠牲にされることなく実現される、そういうことを憲法は求めているというふうに考えざるを得ないわけであります。
このような経済的自由と社会権、労働法との調和という観点から、最近の労働分野の規制緩和あるいは規制改革と言われますけれども、この動きを見ますと、私はそこに非常に重大な問題を感じるわけであります。そこでは、市場原理、すなわち経済的自由の価値が一面的に強調されまして、社会権を保障するという観点が非常に弱いということであります。
幾つかの例を挙げさせていただきます。時間の関係で詳しくは立ち入れませんが、幾つかの具体例としてお聞きください。
一つは、ホワイトカラーの労働時間問題であります。これにつきましては、現行労基法の裁量労働制の規定がありますが、特にその中でも、企画業務型の裁量労働制につきまして、手続が余りにも煩雑であると、そういう理由でそれの緩和が要求されております。
さらに、ホワイトカラーにつきまして八時間労働制の適用そのものを排除をしようとする、いわゆるホワイトカラーエグゼンプションの考え方も有力に主張されております。要するに、ホワイトカラーについては時間管理をしないで残業手当も支払わない、そういうことにしてはどうかという提案であります。
しかし、私の見ますところ、不況の中でも、ホワイトカラーの長時間労働は、依然として過労死問題とかその他様々な社会問題を生み出しております。ホワイトカラー労働者の労働時間をめぐる最近の議論は、企業経営上の効率だけを重視して、社会権保障の観点が欠落しているのではないかというふうに私は見ております。
次に、有期契約の期間延長の問題でありますけれども、これは、現行労基法の十四条が原則一年と定めております有期契約の期間を三年ないしは五年に延長しようというものでありますけれども、これによりましてどういう事態が生じるかといいますと、労働者の雇用は安定するのではなくてかえって不安定化する、あるいは若年労働者、若年女性については事実上の結婚退職制が復活するのではないかといった問題が指摘されております。
私は、この有期契約につきましては、ヨーロッパ諸国でそうされておりますように、そもそも合理性のない有期契約は認めないというところから出発をしてこの問題を考えていくべきだろうというふうに考えております。
労働者派遣の問題でありますけれども、労働者派遣という形態、特に登録型の派遣につきましては、派遣法が制定されました八五年当初から非常に大きな問題があると指摘されておりました。ところが、労働者派遣法の制定後十七年の間に、派遣が許容される範囲がどんどん拡大されまして、派遣労働者の勤務条件が非常に問題がある、あるいは派遣契約が中途で解約されて簡単に事実上解雇される、あるいは派遣先による事前面接という法律上許されていない行為が横行しているなどの様々な問題が指摘されております。ところが、現在、製造業への派遣の問題とか派遣期間の問題などについて一層の規制緩和が要求されているところであります。
次に、解雇制限でありますけれども、現在、法律の上では基本的に解雇理由、解雇の事由を制限する規定はございません。そこで、判例によりまして解雇権濫用法理が確立され、それが解雇を制限する役割を果たしているわけであります。
現在、この問題につきまして法律でどのように規定するのかということが論じられておりますけれども、一つの有力な考え方によれば、法律の規定を設けることによって解雇をもっと自由にできるようにするということが言われております。しかし、私の意見では、現在の判例法理は社会的に見て許容できない権利濫用的な解雇を排除しているだけでありまして、例えば経済的困難に陥った企業がやむを得ずなすような解雇は決して否定されておりません。したがいまして、結論的には、私は、これ以上解雇を簡単にするような法律の規定は必要ないし、さらに、これは労働者の雇用不安をあおるものであって、極めて有害ではなかろうかというふうに考えているところであります。
このように、現在の規制緩和論には様々な問題が存在すると考えております。
しかし、他方、先ほども申し上げましたように、経済的自由は制約はされても否定することはできません。これは現在の経済制度の基礎であり、その一定の保障は憲法的要請だからであります。また、労働者の福祉のためにも経済の安定的発展は不可欠でありまして、経済の安定的発展のためには一定の条件下での経済的自由あるいは競争は必要であります。
そこで、問題は、経済的自由と社会権、労働法との調和をいかに図るのかということになってきます。その問題を考えるに当たりまして、比較法的な視点が大変重要ではないかというのが私の意見であります。
労働法的な規制の程度という観点から見ますと、アメリカ、一方におけるアメリカ、それから他方におけるフランス、ドイツなどのヨーロッパ大陸の諸国は極めて対照的であります。アメリカは基本的に労働法的規制の極めて弱い国でありまして、これに対しましてヨーロッパ諸国は伝統的に労働法的規制を重視してきた国であります。現在はEU段階での規制の再編に取り組んでいるところであります。
日本の労働法はどうかといいますと、大ざっぱに言えば、言わばアメリカ型とヨーロッパ型の中間に位置するのではなかろうかというふうに考えます。現在、日本における労働法の規制緩和がどんどん進められようとしておりますけれども、このような規制緩和が進められてきますと、日本は言わばアメリカ型に接近していくということになるわけであります。
そこで、日本の労働法をアメリカ型に持っていくのか、あるいはヨーロッパ型に持っていくのか。これは下手をしますと水掛け論になりそうでありますけれども、私は、この問題を考えるに当たって、それぞれの国の憲法の基本構造を忘れてはならないというふうに考えております。
ヨーロッパ大陸の諸国は、第二次大戦後、例えばドイツの社会的市場経済論に典型的に見られますように、社会的公正とか労働者保護の観点からする国家介入を前提とした市場経済の制度を確立し、その下で労働法を発展させてきました。そうした経済構造と労働法の在り方は、実はそれぞれの国の憲法にその基礎を持っていたのではなかろうかと思うわけであります。すなわち、一九四六年のフランス第四共和国憲法は社会的共和国、フランスは社会的共和国であると規定しております。一九四七年のイタリア憲法は労働に基礎を置く民主的共和国だと規定しております。そして、一九四九年の西ドイツ基本法は社会的法治国家と規定しております。
このように、ヨーロッパ大陸の諸国は、いずれも自らを社会的政策を展開する国家と規定して、そういった憲法的基礎の上に具体的な政策を展開してきたわけであります。先ほどの戸波先生のお話にありましたように、社会権という形では規定されていないとしても、社会国家、国家目的の形においてこういった基本的な政策を宣言しているというふうに見ることができるわけであります。
フランスやドイツなどにおきましては、現在、グローバル化の中で新自由主義的な規制緩和論の攻勢をやはり受けておりますけれども、そしてその中で様々な政策的な動揺が見られますけれども、なお市場原理一辺倒に陥ることなく、社会的公正のための国家的介入の政策を維持してきたわけであります。こうした在り方は、憲法の基本的な構造抜きにして理解できないのではなかろうか。ドイツのある論者はこのように言っております。労働者保護の観点からする修正を伴わない完全な市場経済は憲法と矛盾すると。このような考え方が他のヨーロッパ大陸諸国にも共通するのではなかろうかということであります。
他方、アメリカ憲法は個人的自由のみに立脚しておりまして、憲法自体におきましては社会的公正の観点からする国家介入を根拠付ける規定はありません。もとより、アメリカにおきましても、経済、社会の各分野で様々な国家介入がなされておりますけれども、これらは憲法的基礎を持っておりませんがために、単なる政策としての色彩が強く、政権の交代とともに大きな転換がなされるということであります。また、労働法の分野におきまして一貫して法的規制が弱いというアメリカの特徴も、憲法のこのような在り方と決して無関係とは言えないのではなかろうかと考えております。
このようなヨーロッパ諸国憲法とアメリカ憲法との対比の中で見た場合、日本国憲法は一連の社会権規定を持っている点で明らかにヨーロッパ型に属すると言えるのではないでしょうか。特に憲法二十七条二項は労働立法の根拠となるものでありまして、重要な労働条件について法律で明確に最低基準を設定するという国家の任務は、憲法を尊重する限り決して放棄することのできないものであります。したがいまして、憲法を前提として日本の労働法の在り方を考える限り、アメリカに接近していくということは非常に問題がある。むしろ、ヨーロッパ型の労働法を参考にしつつ、今後の日本の労働法の在り方を考える必要があるのではなかろうかということであります。
しかし、市場原理を社会的観点によって修正しようとするヨーロッパの試みも、グローバル化の中でいつまでも保持されるという保障はありません。経済のグローバル化の進行によりまして、アメリカの考え方が国境を越えたスタンダードとして浸透していくならば、ヨーロッパ諸国もその影響を受けて、言わばヨーロッパのアメリカ化が進んでいく可能性もあります。それは、労働運動や関係者の長年の努力で形成されてきた労働条件や労働者権の水準を大幅に低下させ、時代を百年以上逆戻りさせることになりかねないと思います。
しかし、逆に、市場と社会的観点を結び付けようとするヨーロッパの努力が、ヨーロッパ共同体の範囲を超えた国際的基準の確立を通じてアメリカをも拘束する力を持っていくという可能性も否定はできません。現在、そうしたアメリカ型の考え方が世界を支配するのか、あるいはヨーロッパ型の考え方がアメリカをも拘束していくのかという点で鋭い緊張関係が見られると思います。そうした緊張関係の中で日本の労働法はどのような道を歩んでいくべきなのかが問われているのだろうと思います。
私は、日本の現行憲法がヨーロッパ型であるという単にそれだけの理由ではなくて、より積極的に労働運動の長年にわたる血のにじむような努力を無にしないで、労働者の人間らしい生活の保障を前提とした安定した日本社会あるいは国際社会の形成に貢献するという観点から、むしろヨーロッパに学ぶ労働法の確立を期待しているところであります。
御清聴ありがとうございました。拍手
野
野沢太三#5
○会長(野沢太三君) ありがとうございました。
以上で参考人の意見陳述は終了いたしました。
これより参考人に対する質疑に入ります。
質疑のある方は順次御発言願います。
なお、時間が限られておりますので、質疑、答弁とも簡潔にお願いいたします。
着席のままで結構でございます。
愛知治郎君。
この発言だけを見る →以上で参考人の意見陳述は終了いたしました。
これより参考人に対する質疑に入ります。
質疑のある方は順次御発言願います。
なお、時間が限られておりますので、質疑、答弁とも簡潔にお願いいたします。
着席のままで結構でございます。
愛知治郎君。
愛
愛知治郎#6
○愛知治郎君 自由民主党の愛知治郎でございます。参考人の先生方におかれましては、御多忙中、大変貴重な御意見をいただきまして、ありがとうございます。
議論が抽象的で物すごく難しいなとは思ったんですが、一つ一つ、全般ですね、戸波先生ありましたけれども、憲法の全体的な視点の問題、抽象的になってしまいますけれども、質問させていただきたいと思います。
私自身、常日ごろ、先ほど戸波先生からもねじれ現象というお話がありましたけれども、この憲法対立、特に護憲、改憲という対立ですね、常日ごろ疑問に思っておりました。さっぱり分からないというのが正直なところだったんですけれども、これは確認をしたいんですが、日本国憲法におきまして、この憲法は、戸波先生おっしゃいましたけれども、欧米諸国の憲法と同じ原理に立脚すると。私自身もそう思いまして、これは資本主義を目指したというか、目標としているのは原則的にそのとおりであろうと思うんですが、確認の意味で先生の御意見をお聞かせください。
この発言だけを見る →議論が抽象的で物すごく難しいなとは思ったんですが、一つ一つ、全般ですね、戸波先生ありましたけれども、憲法の全体的な視点の問題、抽象的になってしまいますけれども、質問させていただきたいと思います。
私自身、常日ごろ、先ほど戸波先生からもねじれ現象というお話がありましたけれども、この憲法対立、特に護憲、改憲という対立ですね、常日ごろ疑問に思っておりました。さっぱり分からないというのが正直なところだったんですけれども、これは確認をしたいんですが、日本国憲法におきまして、この憲法は、戸波先生おっしゃいましたけれども、欧米諸国の憲法と同じ原理に立脚すると。私自身もそう思いまして、これは資本主義を目指したというか、目標としているのは原則的にそのとおりであろうと思うんですが、確認の意味で先生の御意見をお聞かせください。
戸
戸波江二#7
○参考人(戸波江二君) 私、そんなに専門ではないので適切に答えられるかどうか分かりませんが、一つは、社会主義憲法というのが、例えばソビエト憲法ないしは東欧諸国憲法がありまして、その典型、社会主義憲法の典型は、やはり労働者の権利というものを保障する、それから平等の関係、観点を強く認める、それからひいてはプロレタリアートの独裁というような言葉を入れてみる、社会主義の体制のために憲法国家があるんだという規定を設けてみるという形で、むしろ資本主義、西洋、ヨーロッパ型の憲法が資本主義の憲法だというところの強い規定というのは必ずしもあるわけじゃないんですけれども、典型的な社会主義憲法と比較しますと、日本国憲法というのはやはりヨーロッパの西欧立憲主義憲法であり、経済的にはやはり市場経済を前提とした資本主義憲法にくみするということです。
この発言だけを見る →愛
愛知治郎#8
○愛知治郎君 ありがとうございました。
確認なんですが、というのも、先ほどの疑問点なんですけれども、やはり社会主義、共産主義を目指すということであれば、原則的に日本国憲法、これは改正の方向に行くんじゃないかなというのが素朴な疑問だったんですが、その点について先生の御意見を改めてお聞かせください。
この発言だけを見る →確認なんですが、というのも、先ほどの疑問点なんですけれども、やはり社会主義、共産主義を目指すということであれば、原則的に日本国憲法、これは改正の方向に行くんじゃないかなというのが素朴な疑問だったんですが、その点について先生の御意見を改めてお聞かせください。
戸
戸波江二#9
○参考人(戸波江二君) もう三十年前の話ですから余り適切な答えになるかどうか分かりませんけれども、理論的にはそうですが、ただ、日本のそれでは改憲論の方がどういう方向で改憲したいかという問題があったと思うんですよね。つまり、護憲、改憲の軸が資本主義、社会主義と正にねじれてはいたんですけれども、護憲、改憲の軸自体が体制選択という形でもって問題が顕在化していたわけではない。
もう少し分かりやすく言うと、改憲論の側に改憲イデオロギーが多様化していたわけですよね。いろんな理由から改憲にしなくちゃいけない。その中の少なくとも一九五〇年代の最も有力なのが、やっぱり自主憲法制定論であり押し付け憲法論であり、場合によっては復古的な考え方という、非常に、恐らく当時は有力だったけれども今では余り支持されないような考え方であった。そういう中で、それに対抗する形での護憲論というのは、必ずしも社会主義と結び付く形で護憲という形で提起されたのではないということだと思うんですよね。
ですから、ねじれの問題と護憲、改憲の問題が実はちょっと離れていた。ただ、よく見てみると、憲法典というのが正に西洋型の憲法で、その下で自民党の下での政権があって、国民の支持を得て政権を維持していたという中で、なぜ憲法に対してこれだけ良くないから改憲しようという声が出てきたのかという問題ということです。
この発言だけを見る →もう少し分かりやすく言うと、改憲論の側に改憲イデオロギーが多様化していたわけですよね。いろんな理由から改憲にしなくちゃいけない。その中の少なくとも一九五〇年代の最も有力なのが、やっぱり自主憲法制定論であり押し付け憲法論であり、場合によっては復古的な考え方という、非常に、恐らく当時は有力だったけれども今では余り支持されないような考え方であった。そういう中で、それに対抗する形での護憲論というのは、必ずしも社会主義と結び付く形で護憲という形で提起されたのではないということだと思うんですよね。
ですから、ねじれの問題と護憲、改憲の問題が実はちょっと離れていた。ただ、よく見てみると、憲法典というのが正に西洋型の憲法で、その下で自民党の下での政権があって、国民の支持を得て政権を維持していたという中で、なぜ憲法に対してこれだけ良くないから改憲しようという声が出てきたのかという問題ということです。
愛
愛知治郎#10
○愛知治郎君 ありがとうございました。
憲法論議は、自分自身も個別具体的に一つ一つの規定をしっかりと議論をしていくべきだと、政治的対立で表面上ポイントポイントだけを議論されたところがあると思うんですが、そうではなくて、一つ一つ正確にしっかりと原則を踏まえて、歴史を踏まえて議論するべきだと考えております。その点で私自身も、戸波先生と同様に、この原則ですよね、原則、この憲法の体系というか原則はもう堅持していくべきだろうというふうには感じておりますが、あとは個別の具体的な議論をしなければならないとも考えております。
それで、経済的自由に関してなんですが、やはり原則は、憲法の原則がそもそもそうなんですけれども、国家に対する規制というか、国家に対する法律というんですか、自由を守るため、国民の自由に資するためのものであることが大原則だと思うんですが、その一方で、社会権、国に対するある程度の積極主義を取らざるを得ないというか、取るべく定めたものであるように感じられるんですが、この社会権に関して、どのような規定であるか、これも確認なんですが、先生のお考えを教えていただけますか。
この発言だけを見る →憲法論議は、自分自身も個別具体的に一つ一つの規定をしっかりと議論をしていくべきだと、政治的対立で表面上ポイントポイントだけを議論されたところがあると思うんですが、そうではなくて、一つ一つ正確にしっかりと原則を踏まえて、歴史を踏まえて議論するべきだと考えております。その点で私自身も、戸波先生と同様に、この原則ですよね、原則、この憲法の体系というか原則はもう堅持していくべきだろうというふうには感じておりますが、あとは個別の具体的な議論をしなければならないとも考えております。
それで、経済的自由に関してなんですが、やはり原則は、憲法の原則がそもそもそうなんですけれども、国家に対する規制というか、国家に対する法律というんですか、自由を守るため、国民の自由に資するためのものであることが大原則だと思うんですが、その一方で、社会権、国に対するある程度の積極主義を取らざるを得ないというか、取るべく定めたものであるように感じられるんですが、この社会権に関して、どのような規定であるか、これも確認なんですが、先生のお考えを教えていただけますか。
戸
戸波江二#11
○参考人(戸波江二君) 先ほど申しましたように、社会権は十九世紀の自由主義経済のもたらした社会問題、貧富の差だとか富の偏在だとか、いろいろそういう社会問題が出てきて、それを克服するために社会権の考え方が出てきた。第二世代の人権というふうに言われていますけれども、その元では、国家が何もしない、市民社会の自由に任せるんだというだけではやはり社会の中の矛盾が解決できないという思想があり、やっぱり社会的、経済的弱者を保護すると。そうしないと社会が安定しないという観点から出てきた規定ですから、その意味では、十九世紀の何もしない国家、国家を悪として、国家の権力をなるべく抑えるという国家からの自由を中心とする自由主義的な憲法観とある意味では矛盾する面があって、やはり国家が積極的に国民の福祉の面倒を見ろということですから、構造的には矛盾する要素は含んでいるというふうに思います。
ちなみに、レジュメの下から三行目の国の人権保護義務という考え方が実はドイツで出てきていまして、基本権を国家が保護していくんだと。特に、環境問題のように住民の健康のために企業活動を規制するというような形の保護義務論というのがドイツでは有力なんですよね。
私は、これは社会権にもつながる考え方で、国によって人権が保障されるという考え方を、この保護義務のように、ドイツのように、保護義務のように人権一般に広めてよいかどうかというところは、実は今の憲法学説ではかなり議論がありまして、昨日こちらでも議論があった人権擁護法案のところでもこの保護義務論的な考え方が出てくるんですが、それに対して、やはり憲法学説を始めとして、経済活動は国の関与があっていいだろうけれども、精神的自由については、やはり国が自由を守るという考え方というのは危険ではないかという考えが憲法学説では有力であります。私は、個人的には保護義務論、場合によっては取ってもいいんじゃないかというふうには考えていますけれども、私の説は少数説です。ごめんなさい、ちょっと余計なことを言いました。
この発言だけを見る →ちなみに、レジュメの下から三行目の国の人権保護義務という考え方が実はドイツで出てきていまして、基本権を国家が保護していくんだと。特に、環境問題のように住民の健康のために企業活動を規制するというような形の保護義務論というのがドイツでは有力なんですよね。
私は、これは社会権にもつながる考え方で、国によって人権が保障されるという考え方を、この保護義務のように、ドイツのように、保護義務のように人権一般に広めてよいかどうかというところは、実は今の憲法学説ではかなり議論がありまして、昨日こちらでも議論があった人権擁護法案のところでもこの保護義務論的な考え方が出てくるんですが、それに対して、やはり憲法学説を始めとして、経済活動は国の関与があっていいだろうけれども、精神的自由については、やはり国が自由を守るという考え方というのは危険ではないかという考えが憲法学説では有力であります。私は、個人的には保護義務論、場合によっては取ってもいいんじゃないかというふうには考えていますけれども、私の説は少数説です。ごめんなさい、ちょっと余計なことを言いました。
愛
愛知治郎#12
○愛知治郎君 ちょっと最後の部分、分からなかった部分で確認なんですけれども、二十五条の、日本国憲法上の二十五条の性質ですよね、義務規定なのか、プログラム規定という話もありますけれども、どういった位置付けであるのか、先生の御意見をお聞かせください。
この発言だけを見る →戸
戸波江二#13
○参考人(戸波江二君) 学説、判例の通説はプログラム規定というふうに解釈して、これは国に対して政治的、道義的な義務を課した規定であって、国民が、たとえ貧困な国民がいても、その二十五条に基づいて直接給付、生活費をよこせというような給付はできないとするのが通説、判例であります。それは、社会福祉の政策いろいろあり、それから財源の問題もあり、それから資本主義という体制の下では、自分の生活は自分で面倒を見るというのが原則であるということから、そういうような個人の請求権は認めないという解釈、学説があるわけで、僕は、原則としてはそれでもやむを得ないかもしれないけれども、一つには、最低限度の生活さえ営めないような人が出てきたときに、権利じゃないんだという形でもってそれを退けちゃうような二十五条解釈でいいのかという点について、個人的には疑問に思っています。
それと、二十五条を具体化するための国の社会保障の充実義務、福祉義務というものは、これはやっぱり法的義務ですから、それが充実してないということになると二十五条違反という憲法違反の問題が起こるだろうと。個人の権利が侵害されているとまでは言えなくても、二十五条の福祉は国に対してその福祉政策を充実しろということを言っているわけですから、それをしないと憲法違反の問題が起こるんじゃないかというふうに、判例でも明白に違憲の場合には違憲となるというふうに言っていますから、判例の場合でも全く法的拘束力がないというわけではないということです。
この発言だけを見る →それと、二十五条を具体化するための国の社会保障の充実義務、福祉義務というものは、これはやっぱり法的義務ですから、それが充実してないということになると二十五条違反という憲法違反の問題が起こるだろうと。個人の権利が侵害されているとまでは言えなくても、二十五条の福祉は国に対してその福祉政策を充実しろということを言っているわけですから、それをしないと憲法違反の問題が起こるんじゃないかというふうに、判例でも明白に違憲の場合には違憲となるというふうに言っていますから、判例の場合でも全く法的拘束力がないというわけではないということです。
愛
愛知治郎#14
○愛知治郎君 ありがとうございます。
とても難しい議論なんで、なかなか具体的に質問することも難しいんですが、国がしっかりと立法、これは条文だけではなくて立法を通じてこの義務を果たしていくべきだろうということであるとは考えております。
ちょっと視点を変えたいんですが、今、時代の変化で、先ほど戸波先生おっしゃったとおりだと思うんですが、九〇年代に入って特に規制緩和ということでだんだん国の役割を見直していこうと、もう少し民間に任せよう。小泉内閣においても小泉総理が声高に叫んでおります民間でできることは民間で、その方向性だと思います、私自身も。時代の要請としては、やはりもう少し民間の活力を利用しよう、有効にその活力を生かそうという流れになって、国家の役割も変容してきていると思います。そうあるべきだとも考えております。
その小さな政府という役割にますます移っていくとは思うんですが、この点、先生方お二人にお伺いしたいんですが、特にこの経済的自由と経済と社会権において、条文はもう本当に限られて限定的な条文になっておりますが、この先、このような限定的な、限定的というか抽象的な短い条文、少ない条文で規定するのか、それともより細かく、きめ細かく細分された条文を時代に合わせて必要とされるのかどうか、先生方のお考えをお聞かせください。
この発言だけを見る →とても難しい議論なんで、なかなか具体的に質問することも難しいんですが、国がしっかりと立法、これは条文だけではなくて立法を通じてこの義務を果たしていくべきだろうということであるとは考えております。
ちょっと視点を変えたいんですが、今、時代の変化で、先ほど戸波先生おっしゃったとおりだと思うんですが、九〇年代に入って特に規制緩和ということでだんだん国の役割を見直していこうと、もう少し民間に任せよう。小泉内閣においても小泉総理が声高に叫んでおります民間でできることは民間で、その方向性だと思います、私自身も。時代の要請としては、やはりもう少し民間の活力を利用しよう、有効にその活力を生かそうという流れになって、国家の役割も変容してきていると思います。そうあるべきだとも考えております。
その小さな政府という役割にますます移っていくとは思うんですが、この点、先生方お二人にお伺いしたいんですが、特にこの経済的自由と経済と社会権において、条文はもう本当に限られて限定的な条文になっておりますが、この先、このような限定的な、限定的というか抽象的な短い条文、少ない条文で規定するのか、それともより細かく、きめ細かく細分された条文を時代に合わせて必要とされるのかどうか、先生方のお考えをお聞かせください。
戸
戸波江二#15
○参考人(戸波江二君) 結論的には必要ないだろうと。これは、経済政策が掛かりますから、細かな条文で憲法で決めてそのとおりやるという問題ではありませんから、やはり経済の流れだとか景気だとか国際関係だとかといういろいろな要素を判断しながら議論すべきで、憲法をやっぱり基本価値があってそれを守れというのであって、経済政策については少ない条文で十分であると考えます。
この発言だけを見る →西
西谷敏#16
○参考人(西谷敏君) 私どもは、結論的には同じ意見であります。
私は、規制緩和論につきましては、特に労働法の立場からいいますと、およそ規制というのは緩和されるべきであるという、そこから出発するというのは私は反対でありまして、これまで存在した規制が時代の要請に合わなくなっているものがあるかもしれない、それは廃止すればいい。しかし、新たな規制が必要になっている分野もあるかもしれない、これは規制しなきゃならない。あるいは規制のやり方を変えなきゃならないかもしれない、これは変えなきゃならない。このように規制の問題というのは問題ごとに具体的に考えていくべきものであって、頭から規制は緩和されるべきであるという、そういう考え方をすることについては反対しております。
そういうこともありまして、憲法の規定におきましては、特にこの問題について何か規定しなきゃならないというふうには考えておりません。
この発言だけを見る →私は、規制緩和論につきましては、特に労働法の立場からいいますと、およそ規制というのは緩和されるべきであるという、そこから出発するというのは私は反対でありまして、これまで存在した規制が時代の要請に合わなくなっているものがあるかもしれない、それは廃止すればいい。しかし、新たな規制が必要になっている分野もあるかもしれない、これは規制しなきゃならない。あるいは規制のやり方を変えなきゃならないかもしれない、これは変えなきゃならない。このように規制の問題というのは問題ごとに具体的に考えていくべきものであって、頭から規制は緩和されるべきであるという、そういう考え方をすることについては反対しております。
そういうこともありまして、憲法の規定におきましては、特にこの問題について何か規定しなきゃならないというふうには考えておりません。
愛
愛知治郎#17
○愛知治郎君 ありがとうございます。
西谷先生と私も同じような同様な意見で、全体的な大きな方向性として見れば今までの規制は随分見直して緩和していくべきだろうというふうには考えておるんですが、それ以外に新たな問題というのが時代の流れとともに発生してきておりますので、それはきめ細かに法律が対応をして規制をまた作っていかなければならないであろうとも考えておりますので、一方向に限定することはできなくて、一つ一つしっかりと検討していかなくちゃいけないと感じております。
先生方の御意見、お二人とも基本的には抽象的なというか、ベーシックな、ベースの部分の規定だけで十分という理解でよろしいと思うんですが。
次に、経済的自由に関してなんですが、これは違憲審査権について、戸波先生、ちょっと触れないということをおっしゃられたんですが、どうしてもお聞きしたいので簡単にお伺いしたいと思います。
まず、二重の基準ですね、その論理。もう一つは、積極目的、消極目的という理論があるんですが、この点について、ちょっと総論的で恐縮なんですが、大分不備もあるというか問題点もあるんじゃないかと私自身も考えるんですが、先生の御意見を簡単にお伺いしたいんですが。
この発言だけを見る →西谷先生と私も同じような同様な意見で、全体的な大きな方向性として見れば今までの規制は随分見直して緩和していくべきだろうというふうには考えておるんですが、それ以外に新たな問題というのが時代の流れとともに発生してきておりますので、それはきめ細かに法律が対応をして規制をまた作っていかなければならないであろうとも考えておりますので、一方向に限定することはできなくて、一つ一つしっかりと検討していかなくちゃいけないと感じております。
先生方の御意見、お二人とも基本的には抽象的なというか、ベーシックな、ベースの部分の規定だけで十分という理解でよろしいと思うんですが。
次に、経済的自由に関してなんですが、これは違憲審査権について、戸波先生、ちょっと触れないということをおっしゃられたんですが、どうしてもお聞きしたいので簡単にお伺いしたいと思います。
まず、二重の基準ですね、その論理。もう一つは、積極目的、消極目的という理論があるんですが、この点について、ちょっと総論的で恐縮なんですが、大分不備もあるというか問題点もあるんじゃないかと私自身も考えるんですが、先生の御意見を簡単にお伺いしたいんですが。
戸
戸波江二#18
○参考人(戸波江二君) ちょっと難しいですけれども、簡単にお話しさせていただきます。
二重の基準論と申しますのは、これは基本的にはアメリカの憲法判例で展開してきた議論で、修正一条の権利、つまり表現の自由だとか、集会の自由だとか、信教の自由だとかという精神活動にかかわる人権を保障した修正一条というアメリカの人権規定を重視するという考え方で、したがってそれを制限するような法律については厳格な違憲審査基準を適用して違憲とするという論理が二重の基準論の根幹であります。その反面として、その修正一条以外の権利については緩やかな審査基準だということになって、日本の場合には経済的自由と精神的自由を二つに分けて、経済的自由については緩やかな審査基準を使うんだという議論として展開しております。
これについては、学説は広く支持しておりまして、それから判例でも精神的自由について厳格な審査基準を使ったという例がないですから、判例が採用しているかどうかというのはちょっと問題もあるんですけれども、判例の言い方でも支持されているところであります。
この二重の基準論の考え方は、これも人間生きていくためにはお金の方が大切じゃないか、食べるものだとか住むところがなきゃしようがないじゃないかという形で、経済的自由の方が価値があるんじゃないかという考え方だとか、そもそも価値の優劣などは学問的に決められないじゃないかと、いろいろな議論はありますが、やっぱり西洋型の憲法の考え方ですと、やはり民主主義を支える言論の自由をより保護していこうと。逆に、経済活動については、やはり社会的ないろいろな関連性があり相互の調整も必要となると、そのために法律による規制が必要だとするのが現代の経済的自由ですので。
だから、その二重の基準論というのは原則としてやはり維持して、経済活動を維持するということは、つまり違憲審査の場で裁判所が経済活動の規制の仕事は議会の仕事だと、国会の仕事だと。だから、その国会の判断を尊重して、違憲審査権を緩やかに、違憲審査権を消極的に行使するんだ、なるべく憲法違反とはしないという考え方につながるわけで、その考え方というのは日本国憲法でも取られていますし、今日のお話でもしましたように、基本的には経済活動についてやっぱり維持すべきである、それから精神活動についてはやはり国民の表現の自由、それから精神活動ということですからなるべく保護していこうということになるかと思います。
この発言だけを見る →二重の基準論と申しますのは、これは基本的にはアメリカの憲法判例で展開してきた議論で、修正一条の権利、つまり表現の自由だとか、集会の自由だとか、信教の自由だとかという精神活動にかかわる人権を保障した修正一条というアメリカの人権規定を重視するという考え方で、したがってそれを制限するような法律については厳格な違憲審査基準を適用して違憲とするという論理が二重の基準論の根幹であります。その反面として、その修正一条以外の権利については緩やかな審査基準だということになって、日本の場合には経済的自由と精神的自由を二つに分けて、経済的自由については緩やかな審査基準を使うんだという議論として展開しております。
これについては、学説は広く支持しておりまして、それから判例でも精神的自由について厳格な審査基準を使ったという例がないですから、判例が採用しているかどうかというのはちょっと問題もあるんですけれども、判例の言い方でも支持されているところであります。
この二重の基準論の考え方は、これも人間生きていくためにはお金の方が大切じゃないか、食べるものだとか住むところがなきゃしようがないじゃないかという形で、経済的自由の方が価値があるんじゃないかという考え方だとか、そもそも価値の優劣などは学問的に決められないじゃないかと、いろいろな議論はありますが、やっぱり西洋型の憲法の考え方ですと、やはり民主主義を支える言論の自由をより保護していこうと。逆に、経済活動については、やはり社会的ないろいろな関連性があり相互の調整も必要となると、そのために法律による規制が必要だとするのが現代の経済的自由ですので。
だから、その二重の基準論というのは原則としてやはり維持して、経済活動を維持するということは、つまり違憲審査の場で裁判所が経済活動の規制の仕事は議会の仕事だと、国会の仕事だと。だから、その国会の判断を尊重して、違憲審査権を緩やかに、違憲審査権を消極的に行使するんだ、なるべく憲法違反とはしないという考え方につながるわけで、その考え方というのは日本国憲法でも取られていますし、今日のお話でもしましたように、基本的には経済活動についてやっぱり維持すべきである、それから精神活動についてはやはり国民の表現の自由、それから精神活動ということですからなるべく保護していこうということになるかと思います。
愛
愛知治郎#19
○愛知治郎君 大変質問が下手で申し訳なかったんですが、意図したところは、理論的にある程度の構成というのはすごくいいと思うというか、ある一定のその理論構成は必要だと思いますし、私自身も勉強させていただいて、これは優れているな、優れている考え方だとは思うんですが、ただ個別具体的な事例で見ますと、違憲判決に見られるように、そのケースによって随分違ってくるし、一概にこの体系の中ですべて論ずることはできないんだなということを感じております。
それで、違憲審査ということだったので、最近また議論されているんですが、憲法裁判所という話があります。今日の質問は物すごい難しいというか、やり取りが難しいと思ったんですが、やはり抽象論になってしまう。その場合に、抽象的な議論だけでこの憲法を考えていいのかなというふうに私自身考えておるんですが、それを補完する意味でもやはり付随的に具体的争訟を通じての憲法論議の方がよりきめ細かな議論ができるんじゃないかと私自身は考えております。
この点では、両先生に違憲審査制の、憲法裁判所を含め、その制度についての私見を伺いたいのですが。
この発言だけを見る →それで、違憲審査ということだったので、最近また議論されているんですが、憲法裁判所という話があります。今日の質問は物すごい難しいというか、やり取りが難しいと思ったんですが、やはり抽象論になってしまう。その場合に、抽象的な議論だけでこの憲法を考えていいのかなというふうに私自身考えておるんですが、それを補完する意味でもやはり付随的に具体的争訟を通じての憲法論議の方がよりきめ細かな議論ができるんじゃないかと私自身は考えております。
この点では、両先生に違憲審査制の、憲法裁判所を含め、その制度についての私見を伺いたいのですが。
野
西
西谷敏#21
○参考人(西谷敏君) 私は専門、労働法でして、余りその問題、真剣に考えたことはないんですが、印象だけ申し上げますと、制度としてどうこうするよりも、私の印象では、現在の最高裁判所は憲法判断に余りにも消極的過ぎるような印象を持っておりまして、もう少し様々な問題につきまして違憲判断をしていいのではないかというふうに考えております。
この発言だけを見る →戸
戸波江二#22
○参考人(戸波江二君) これはちょっと難しいといいますか、憲法学説はやはり憲法裁判所の創設に反対で、今、愛知議員が御意見をおっしゃったように、やっぱり具体的な事件との関連で違憲審査権を行使した方がよいと、これは有力な意見ですし、それから個人の権利義務とかかわらないような訴えになると政治的な問題が裁判所にどんどんくるから、それを避ける意味もあるから付随的審査制がいいという意見が非常に有力なんですが、ただ私は、どっちかというとドイツ派ということもありまして、憲法裁判所の方がいいんじゃないかと。
特に、日本の最高裁の今の現状というのが憲法裁判所になっていないんですよね。確かに民・刑事の上告審としては機能はしていますけれども、憲法に関する専門家というのは十五人の裁判官のうち一人もいないんですよね。そういう中でもっていい憲法判断が出るかというと、やっぱり出ないんではないか。
やっぱり最終的には人の問題だと思うんですけれども、憲法問題に通じてその判断ができるような人を今の最高裁の裁判官として期待できるかというと、そういうシステムになっていないことを考えますと、憲法裁判権というのを分けて憲法の専門家に憲法を担当させるという方が合理的じゃないかというふうに個人的には考えていますけれども、これはいろいろと対立があるところです。
この発言だけを見る →特に、日本の最高裁の今の現状というのが憲法裁判所になっていないんですよね。確かに民・刑事の上告審としては機能はしていますけれども、憲法に関する専門家というのは十五人の裁判官のうち一人もいないんですよね。そういう中でもっていい憲法判断が出るかというと、やっぱり出ないんではないか。
やっぱり最終的には人の問題だと思うんですけれども、憲法問題に通じてその判断ができるような人を今の最高裁の裁判官として期待できるかというと、そういうシステムになっていないことを考えますと、憲法裁判権というのを分けて憲法の専門家に憲法を担当させるという方が合理的じゃないかというふうに個人的には考えていますけれども、これはいろいろと対立があるところです。
愛
愛知治郎#23
○愛知治郎君 ありがとうございました。
本日も参議院において、これは法曹の在り方ということで一つ法律があったんですが、これから議論をしっかりとしていかなくちゃいけない。裁判所の在り方もこれからしっかりと議論していかなくちゃいけないと考えておりますので、これは政治の役割かと考えております。
どうも貴重な意見ありがとうございました。
この発言だけを見る →本日も参議院において、これは法曹の在り方ということで一つ法律があったんですが、これから議論をしっかりとしていかなくちゃいけない。裁判所の在り方もこれからしっかりと議論していかなくちゃいけないと考えておりますので、これは政治の役割かと考えております。
どうも貴重な意見ありがとうございました。
野
若
若林秀樹#25
○若林秀樹君 ありがとうございます。民主党・新緑風会の若林でございます。
私も質問を考えるに際して、非常に難しいな、聞き方が難しいなと。余り経済的自由ということを意識してこなかったというんでしょうか、改めてその財産権の所有あるいは職業の自由というところは敷衍して経済的な自由の枠組みをとらえるのかなというふうに感じはしますけれども。
最初ちょっと、愛知先生が質問された件なんですけれども、我が国の憲法というのは基本的にはやっぱり資本主義を前提としているというようなお話をされていましたけれども、それは資本主義の規定にもよると思うんですが、これはやっぱり、財産権の保障、それから職業の自由からやっぱり資本主義を前提としているということを見るというのが今までの見方だったということでおっしゃられたのか、あるいは社会主義をもし仮に取るんであれば、それは違憲に逆になるんではないか、そんなようなニュアンスでおっしゃられたのか、その辺だけちょっと最初お伺いしたいと思います。戸波先生にお願いします。
この発言だけを見る →私も質問を考えるに際して、非常に難しいな、聞き方が難しいなと。余り経済的自由ということを意識してこなかったというんでしょうか、改めてその財産権の所有あるいは職業の自由というところは敷衍して経済的な自由の枠組みをとらえるのかなというふうに感じはしますけれども。
最初ちょっと、愛知先生が質問された件なんですけれども、我が国の憲法というのは基本的にはやっぱり資本主義を前提としているというようなお話をされていましたけれども、それは資本主義の規定にもよると思うんですが、これはやっぱり、財産権の保障、それから職業の自由からやっぱり資本主義を前提としているということを見るというのが今までの見方だったということでおっしゃられたのか、あるいは社会主義をもし仮に取るんであれば、それは違憲に逆になるんではないか、そんなようなニュアンスでおっしゃられたのか、その辺だけちょっと最初お伺いしたいと思います。戸波先生にお願いします。
戸
戸波江二#26
○参考人(戸波江二君) 余り、説明しづらい問題といいますか、資本主義、社会主義の対立というのは一九五〇年代、六〇年代ありましたから、憲法学説としてはその辺余り深く立ち入らなかったというのが実情ですが、ただ、正統憲法解釈、伝統的な、通説的な憲法解釈は、憲法二十九条三項の財産権の補償のところで、個人の持っている財産権の保障というほかに、私有財産制をやっぱり制度として保障しているんだと、だから資本主義、私有財産制という言葉でしか書いていないですから資本主義なんだと思うんですけれども、資本主義を日本国憲法は前提としているというのが通説的な見解でありました。
ただ、その中で、北大の今村先生という、これも有名な憲法・行政法学者ですが、そこで言う財産権の補償でもって保障している制度の中身というのは、人間が生きていく上でもって必要な物的手段の享有ということであって、必ずしも生産手段の私有化というものではないから、法律改正によっても社会主義への移行ができるんじゃないかという論文、これも有名な論文がありました。
でも、全体的にはやはり資本主義に立脚しているというふうに考えていたと言っていいと思います。
この発言だけを見る →ただ、その中で、北大の今村先生という、これも有名な憲法・行政法学者ですが、そこで言う財産権の補償でもって保障している制度の中身というのは、人間が生きていく上でもって必要な物的手段の享有ということであって、必ずしも生産手段の私有化というものではないから、法律改正によっても社会主義への移行ができるんじゃないかという論文、これも有名な論文がありました。
でも、全体的にはやはり資本主義に立脚しているというふうに考えていたと言っていいと思います。
若
若林秀樹#27
○若林秀樹君 その関連でもう一回戸波先生にお伺いしたいんですけれども、一方、政府の介入というんでしょうか、さっきから規制緩和というお話がありましたけれども、官から民へのシフトが言われている中で、まだまだそうなっていない、かなり関与的な部分がやっぱりあると。グレーゾーンが多いということなんですけれども、やっぱりこの経済的な自由、権利をやはり干渉するような状況があるとすれば、もう少しこの憲法の中でそういうものを自治体自ら営業の自由、経済の自由を干渉する規制を、条文を定める必要があるのかどうか。その辺、ちょっとお伺いしたいんですが。
この発言だけを見る →戸
戸波江二#28
○参考人(戸波江二君) 一九八〇年代までの経済政策というのはやはり保護政策でして、いろんな形でもって業者を保護する立法というのができてきています。しかし、反面、業者保護立法というのは他方で消費者の視点が抜け落ちてしまうということだとか、それから八〇年代の後半からアメリカの方から規制緩和論が出てきて、日本の流通がおかしい、おかしいじゃない、行政が口出しし過ぎているんじゃないかというような議論があって、その規制を撤廃しております。例えば、百貨店法だとかスーパー規制だとかというような大型店舗の規制については、どんどん今法律が廃止されている、廃止されたというのが実情であります。
そういう流れの中でやっぱり自由主義の流れが出てきたんですが、それがいいかどうかの問題というのは、憲法学者としますと、一つは、政策問題だということもありますし、一つは、もうさっきから申していますように、憲法自体はやはり国民の生活を安定させる、それから福祉を増進させるために国の関与を認めるという構造になっていますから、直ちに新自由主義的な規制緩和論がいいかというと、そうも言えないんじゃないかという気は私は個人的にはしております。
ただ、政策問題ですから、その規制緩和をしなくちゃいけないという点と、それからもう一つの日本の経済政策上の特徴というのは、これは御承知のように、例の、レジュメにも書きましたように、護送船団方式と言われるような、国が日本の経済全体を、国といいますか行政が日本の経済全体を守って、対外的な貿易等々の圧力から経済を守るという保護的な姿勢を取ってきたわけですね。
それがアメリカの一つの批判の的で、しかも九〇年代にいろんな形で行政の失態があり、そのような中から規制緩和論が出てきたとすると、日本の経済の問題は、国の関与がいけないということよりも、日本の行政のやり方に幾つか反省すべき点があったんじゃないかという点がありますので、そうしますと、経済政策についても憲法上は一定の関与を認めるという仕組みになっても、実際の日本の行政主導の保護的な、しかもそれが縦割り行政という形でもって、通産省だとかいろんなところでもって、いろんな形でもって保護されているような経済保護の在り方が、国家関与、憲法の言っている国家関与と同じ意味なのかどうなのかということが問われる。そう考えますと、新自由主義的な規制緩和論にも十分根拠はあるということになるかと思います。
この発言だけを見る →そういう流れの中でやっぱり自由主義の流れが出てきたんですが、それがいいかどうかの問題というのは、憲法学者としますと、一つは、政策問題だということもありますし、一つは、もうさっきから申していますように、憲法自体はやはり国民の生活を安定させる、それから福祉を増進させるために国の関与を認めるという構造になっていますから、直ちに新自由主義的な規制緩和論がいいかというと、そうも言えないんじゃないかという気は私は個人的にはしております。
ただ、政策問題ですから、その規制緩和をしなくちゃいけないという点と、それからもう一つの日本の経済政策上の特徴というのは、これは御承知のように、例の、レジュメにも書きましたように、護送船団方式と言われるような、国が日本の経済全体を、国といいますか行政が日本の経済全体を守って、対外的な貿易等々の圧力から経済を守るという保護的な姿勢を取ってきたわけですね。
それがアメリカの一つの批判の的で、しかも九〇年代にいろんな形で行政の失態があり、そのような中から規制緩和論が出てきたとすると、日本の経済の問題は、国の関与がいけないということよりも、日本の行政のやり方に幾つか反省すべき点があったんじゃないかという点がありますので、そうしますと、経済政策についても憲法上は一定の関与を認めるという仕組みになっても、実際の日本の行政主導の保護的な、しかもそれが縦割り行政という形でもって、通産省だとかいろんなところでもって、いろんな形でもって保護されているような経済保護の在り方が、国家関与、憲法の言っている国家関与と同じ意味なのかどうなのかということが問われる。そう考えますと、新自由主義的な規制緩和論にも十分根拠はあるということになるかと思います。
若
若林秀樹#29
○若林秀樹君 それでは、西谷先生にちょっとお伺いしたいんですが、今の関連で、先ほど、ヨーロッパとアメリカを見た場合に、社会権とやっぱり経済的自由の引っ張り合いというところで、今は緊張状態であると。やっぱりこの綱引きが今後出てくるんだろうと思いますけれども、私から見ると、やっぱりこれからの経済がどういう状況に行くのか、ヨーロッパが継続的に長く行くのか、アメリカがまた更に強くなるのかということによって引っ張り合いがあると思うんですけれども、西谷先生から見た場合に、これがどこで、ブレークする可能性が今後どういう形で出てくるか。そのときに日本に対する影響もいろいろあると思うんですが、日本として踏まえていかなきゃいけない点があれば教えていただければと思います。
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