憲法調査会安全保障及び国際協力等に関する調査小委員会
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会
会議録情報#0
平成十五年七月三日(木曜日)
午後二時開議
出席小委員
小委員長 中川 昭一君
近藤 基彦君 下地 幹郎君
谷川 和穗君 中曽根康弘君
中山 正暉君 葉梨 信行君
桑原 豊君 今野 東君
首藤 信彦君 中野 寛成君
遠藤 和良君 藤井 裕久君
藤島 正之君 春名 直章君
植田 至紀君 井上 喜一君
…………………………………
憲法調査会会長 中山 太郎君
憲法調査会会長代理 仙谷 由人君
衆議院憲法調査会事務局長 内田 正文君
—————————————
六月十二日
小委員藤島正之君五月八日委員辞任につき、その補欠として藤島正之君が会長の指名で小委員に選任された。
同日
小委員井上喜一君同月五日委員辞任につき、その補欠として井上喜一君が会長の指名で小委員に選任された。
同日
小委員石川要三君同月十一日委員辞任につき、その補欠として河野太郎君が会長の指名で小委員に選任された。
七月三日
小委員近藤基彦君、藤島正之君及び金子哲夫君同日委員辞任につき、その補欠として近藤基彦君、藤井裕久君及び植田至紀君が会長の指名で小委員に選任された。
同日
小委員河野太郎君、谷本龍哉君、山口泰明君及び赤松正雄君同日小委員辞任につき、その補欠として葉梨信行君、谷川和穗君、中曽根康弘君及び遠藤和良君が会長の指名で小委員に選任された。
同日
小委員藤井裕久君及び植田至紀君同日委員辞任につき、その補欠として藤島正之君及び金子哲夫君が会長の指名で小委員に選任された。
同日
小委員谷川和穗君、中曽根康弘君、葉梨信行君及び遠藤和良君同日小委員辞任につき、その補欠として谷本龍哉君、山口泰明君、河野太郎君及び赤松正雄君が会長の指名で小委員に選任された。
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本日の会議に付した案件
安全保障及び国際協力等に関する件(憲法第九条)
————◇—————
この発言だけを見る →午後二時開議
出席小委員
小委員長 中川 昭一君
近藤 基彦君 下地 幹郎君
谷川 和穗君 中曽根康弘君
中山 正暉君 葉梨 信行君
桑原 豊君 今野 東君
首藤 信彦君 中野 寛成君
遠藤 和良君 藤井 裕久君
藤島 正之君 春名 直章君
植田 至紀君 井上 喜一君
…………………………………
憲法調査会会長 中山 太郎君
憲法調査会会長代理 仙谷 由人君
衆議院憲法調査会事務局長 内田 正文君
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六月十二日
小委員藤島正之君五月八日委員辞任につき、その補欠として藤島正之君が会長の指名で小委員に選任された。
同日
小委員井上喜一君同月五日委員辞任につき、その補欠として井上喜一君が会長の指名で小委員に選任された。
同日
小委員石川要三君同月十一日委員辞任につき、その補欠として河野太郎君が会長の指名で小委員に選任された。
七月三日
小委員近藤基彦君、藤島正之君及び金子哲夫君同日委員辞任につき、その補欠として近藤基彦君、藤井裕久君及び植田至紀君が会長の指名で小委員に選任された。
同日
小委員河野太郎君、谷本龍哉君、山口泰明君及び赤松正雄君同日小委員辞任につき、その補欠として葉梨信行君、谷川和穗君、中曽根康弘君及び遠藤和良君が会長の指名で小委員に選任された。
同日
小委員藤井裕久君及び植田至紀君同日委員辞任につき、その補欠として藤島正之君及び金子哲夫君が会長の指名で小委員に選任された。
同日
小委員谷川和穗君、中曽根康弘君、葉梨信行君及び遠藤和良君同日小委員辞任につき、その補欠として谷本龍哉君、山口泰明君、河野太郎君及び赤松正雄君が会長の指名で小委員に選任された。
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本日の会議に付した案件
安全保障及び国際協力等に関する件(憲法第九条)
————◇—————
中
中川昭一#1
○中川小委員長 これより会議を開きます。
安全保障及び国際協力等に関する件、特に憲法第九条、戦争放棄・戦力不保持・交戦権否認について調査を進めます。
本日の議事の進め方について申し上げます。
まず、近藤基彦君及び藤井裕久君から、憲法第九条、戦争放棄・戦力不保持・交戦権否認について、自衛隊の海外派遣をめぐる憲法的諸問題を含め、基調となる御意見を順次二十分以内で述べていただきます。
次に、各会派一名ずつ大会派順に十分以内で基調発言者に対する質疑または発言を行い、その後、小委員間の自由討議を行います。
それでは、まず、近藤基彦君。
この発言だけを見る →安全保障及び国際協力等に関する件、特に憲法第九条、戦争放棄・戦力不保持・交戦権否認について調査を進めます。
本日の議事の進め方について申し上げます。
まず、近藤基彦君及び藤井裕久君から、憲法第九条、戦争放棄・戦力不保持・交戦権否認について、自衛隊の海外派遣をめぐる憲法的諸問題を含め、基調となる御意見を順次二十分以内で述べていただきます。
次に、各会派一名ずつ大会派順に十分以内で基調発言者に対する質疑または発言を行い、その後、小委員間の自由討議を行います。
それでは、まず、近藤基彦君。
近
近藤基彦#2
○近藤(基)小委員 自由民主党の近藤基彦でございます。
本日は、自衛隊の海外派遣をめぐる憲法的諸問題、すなわち、現行憲法が制定されて以降、最大の論争を生じさせてきた憲法九条をテーマに意見を述べさせていただくとともに、若干の提案をさせていただきたいと思います。
最初に、九条を議論する際の前提となります、我が国をめぐる現状についての認識を述べさせていただきたいと思います。
現行憲法が制定されてから五十有余年の月日が経過し、その間、我が国をめぐる国内外の環境は大きく変化してきております。
まず、国内に目を向けますと、我が国は高度経済成長を経て、世界第二位と称される経済大国となりましたし、また国民の間に民主主義が定着し、その熟度は非常に高いものとなっております。
次に、国外に目を転じますと、憲法制定時において既に顕在化していた冷戦構造はソ連の崩壊とともに終えんし、現在では米国が唯一の超大国として存在しており、このため現在の国際秩序の安定にその存在が大きな貢献を果たしてきております。そして、我が国は、戦後半世紀以上にわたり、米国中心の国際秩序の最大の受益者でありました。
また、人、物、資本、情報等が国境を越えて移動するグローバル社会のもとにおいて、国際的な相互依存関係が一層深まってきている一方で、貧富の差の拡大、大量破壊兵器の拡散等、グローバル化のいわば負の側面が現出しつつあります。
さらに、九・一一米国同時多発テロ事件以降、イラク問題、北朝鮮問題等を初め、これまでの国際秩序を根本から揺るがすとともに、我が国の平和と安全に対する直接的な危機が現実のものとなるような問題が生じております。
このように、我が国をめぐる国内外の環境が大きく変化する中で、現行憲法は、その制定以降、ただの一度も改正されることなく今日に至っております。確かに、戦後我が国が紛争において一人の国民も死なすことなく、また一人の人も殺すことなく来たこと、経済成長に向けて邁進することができたことなど、現行憲法がこれまで我が国の平和と繁栄のために果たしてきた役割については一定の評価をし得るものと考えます。
しかしながら、現行憲法は、本調査会での議論でも明らかにされましたように、ハーグ陸戦法規で、占領地の法律の尊重が定められているにもかかわらず、占領下においてGHQに半ば押しつけられたもので、世界平和の脅威とならないよう戦力不保持及び交戦権否認を定めるとともに、精神的な武装解除のために国民の精神改造を図ったものであります。
このことは、日本国民以外はすべて平和を愛する諸国民であり、日本さえ悪事を働かなければ世界は平和であるという当時の世界認識を背景としており、日本が他国から侵略や攻撃を受けるということは全くの想定外でありました。五十有余年後の今日、我が国には北朝鮮からの脅威が突きつけられております。
このように、現行憲法によって今日の複雑かつ急激な国際情勢の変化に対応していくことは限界に来ていると考えざるを得ません。
他方で、九条二項において戦力の不保持が規定されているにもかかわらず、現実にはイージス艦四そうを初めとする装備を有する自衛隊が存在しており、多くの国民が支持しているところでもあります。
また、湾岸戦争以降、PKO協力法、周辺事態法、テロ対策特措法、武力攻撃事態法、そしてイラク復興支援法案という我が国の安全保障及び国際協力に関する一連の法律が制定されようとしております。
このような現状が意味するところは、自衛隊発足後、しばしば解釈改憲を積み重ねることによって国際情勢に対応してきた結果、憲法規定と解釈運用との乖離が顕著になってきているということであり、これは法治主義という近代法の原則に照らし不誠実な対応であると考えます。
そして、このような乖離に拍車をかけている理由の一つが、内閣法制局が憲法解釈権を独占し、政治がこれに服従しているかのような実態ではないかと考えます。
私は、憲法解釈というものは、内閣法制局の解釈に縛られるのではなく、政治家としての責任において示すものであり、また、憲法規定と現実との乖離が顕著となった場合には、憲法改正の是非を国民に問わなければならないという姿勢こそが政治の本来のあるべき姿であると考えます。
このように考えますと、何か事態が生じる都度に解釈改憲を積み重ねた上で法整備を図るというこれまでの方法には問題があるのであって、今日の国際情勢の変化に対応していくためには、やはり憲法改正を視野に入れた上で、第一に、万が一の事態に備え我が国の防衛体制を整備するとともに、第二に、国際の平和及び安全の維持にかかわる責任を果たすため、あらゆる分野における国際貢献を一層推進していく必要があると考えます。
それではまず、防衛体制の整備と憲法改正の問題について具体的に考えてみたいと思います。
近年、国際情勢は緊迫度を増してきております。北朝鮮によって拉致問題、ミサイル発射問題、核兵器開発問題等が引き起こされてきております。特に北朝鮮による核兵器保有は、日本に対する脅威を著しく増大させるものであり、NPTに違反しても制裁されないとの先例ができれば、世界的に核拡散が助長されることになりかねません。また、一昨年には、唯一の超大国である米国を標的とした九・一一事件が発生いたしました。
このような中で、多くの国民がミサイル攻撃やテロを現実の脅威として感じていることは事実であります。国の主権を守り、また国民の生命財産を守ることが政治の責務であることにかんがみれば、このような国民の不安を解消するためにも、万が一の事態が生じた場合であっても万全の対処を行うことができるよう防衛体制を整備することは当然のことと言えます。
そもそも国防とは、みずからが属している国家共同体を、みずからの生命を犠牲にしてでも守ることであります。国家が自分のために何をしてくれるかではなく、国家に対し自分は何ができるかという姿勢こそがその基本に置かれるべきものであります。また、国家とは、前の世代から受け継ぎ、みずからの世代を経て次の世代に受け渡していくという連続性のある歴史的所産であるということを指摘しておきたいと思います。
憲法九条をめぐっては、これまで、我が国は自衛権を保持しているのか否か、自衛権を保持しているとして、その発動に当たって一定の武力行使は認められるのか否かといった議論がなされてきました。
これらの点に関して政府は、九条によっても自衛権は放棄されるものではなく、またその発動に当たって自衛のための必要最小限の武力を行使することは認められると述べておりますが、依然としてこの種の議論が繰り返されてきているということは、安全保障という国家としての根本問題について、国民の間での完全なコンセンサスがないということでありまして、このことは、万が一の事態が生じた場合に、国家は国民を十分に保護することができるのか、また、防衛行動を行うに当たって国民全体からの信頼や協力を得ることができるのかという疑念にもつながるものであり、問題と言わざるを得ません。
したがいまして、国家として当然に保有している権利と、国家として国民を守るという姿勢とを明らかにするという観点から、我が国が自衛権を保持していること、防衛活動を担う主体として自衛隊が存在すること等を憲法上明確に位置づける必要があると考えます。
また、先般、多くの会派からの賛成を得て、有事関連三法がようやく成立いたしました。これら有事法が成立する以前には、仮に万が一の事態が発生した場合に、自衛隊は超法規的な行動に訴えざるを得なかったのではないかということを考えれば、有事法の整備はむしろ遅過ぎたのではないかとの思いもあります。今後は、残された課題であります国民保護法制及び米軍との関係に関する法制についても早急に整備を図る必要があると考えます。
ところで、これらの有事法は、統治機能の変更、一定の人権制約等国家の基本に関する事項を内容とするものであります。どのような有事においてどの程度の権限を首相に移譲するのか、また、どの程度の人権制約が認められるのかといった事項は、諸外国の憲法を見てもわかるとおり、本来、国家の基本法たる憲法にその基本を規定すべきものであります。
翻って我が国の憲法を見ますと、緊急事態に関しては、わずかに五十四条二項に参議院の緊急集会が定められているにすぎず、危機管理意識の欠如した憲法と言わざるを得ません。したがいまして、外部からの武力攻撃、大規模自然災害をも含めた非常事態の要件、対処行動の手続、非常事態においても侵害してはならない人権の種類等に関する基本的事項を定める条項を憲法上設ける必要があると考えます。
その際、国会等のコントロールを及ぼすことによって首相による権力の乱用を防止する必要はありますが、しかし、厳格な規定を設けることによって首相の裁量の余地を狭め、その結果かえって国民の利益が損なわれることのないよう、慎重な制度設計が必要であると考えます。
さらに、日本の防衛は我が国一国だけでなし得るものではありません。したがいまして、引き続き我が国の安全保障政策の基軸として日米同盟を維持し発展させていく必要があり、このことは、将来的にアジアにおける地域的集団安全保障を構想する上でも重要になってくるものと考えます。
もっとも、我が国は、集団的自衛権について保持するが行使できないとされており、通常の同盟関係における共同防衛の責務を果たせない現状にあります。しかしながら、このような憲法解釈は非常にわかりづらいものであります。
国連憲章五十一条では集団的自衛権が固有の権利として国家に認められておりますし、また、サンフランシスコ平和条約五条(c)項では「連合国としては、日本国が主権国として国際連合憲章第五十一条に掲げる個別的又は集団的自衛の固有の権利を有すること及び日本国が集団的安全保障取極を自発的に締結することができることを承認する。」と定められておりますことから、このような解釈はむしろ誤りであるとも言えるのであって、これを正すべきであります。その上で、政治の責任において、主体的判断に基づき、国民の利益に沿う形で集団的自衛権を行使することを通じて、対等かつ双務的な日米関係を築いていく必要があると考えます。
以上のような防衛体制の整備及びこれに伴う憲法改正を行うに際しては、近隣諸国からの批判や懸念が当然に予想されるところであります。しかし、ヨーロッパにおいては、歴史上悲惨な紛争を繰り返してきたドイツとフランスとが相互の信頼醸成措置を通じて対立を解消し、統一ヨーロッパを目指す動きの原動力となっており、この動きは、現在、ヨーロッパ憲法を制定する段階にまで至ってきております。
このことを踏まえますと、我が国も、防衛体制の整備等を図ると同時に、近隣諸国との間で信頼醸成を図るための措置を講じ、アジアにおける地域協力の道を固めていく必要があると考えます。
次に、国際貢献の推進と憲法改正の問題について考えてみたいと思います。
冷戦構造が終えんした現在においても、世界各地で紛争が生じており、多くの民衆が犠牲となっております。これらの紛争は、グローバル化が進展する中で、我が国の平和と繁栄に直結する問題となっていることから、決して我が国と無縁のものではありません。
一国の安全は外敵の直接的な脅威に対処するだけで確保されるものではないのであって、地域や国際社会全体の秩序の安定をいかに確保していくかが重要となっております。また、我が国は、世界各地で生じている紛争を解決するための意思と能力を有しております。これらのことを踏まえれば、我が国が国連のPKOを初めとする国際の平和及び安全の維持に関する取り組みに対し相応の責務を果たすべきことは言うまでもありません。
冷戦構造のもとでの紛争は、国家対国家という形において生じるものでありました。しかし、今日生じている紛争の多くは、民族、宗教、貧困、環境破壊等に起因するものであって、主権国家という枠組みでとらえ切ることのできないものであります。これらの事態に対処するためには、人間一人一人の生存、生活、尊厳に対するさまざまな脅威への取り組みを主権国家の枠を超えて国際社会全体として強化していく上での新しい価値観が必要となるのであり、その意味で、人道上個々の人間の安全保障に着目した人間の安全保障、いわば人道上の安全保障という考え方が重要になってくるものと思われます。
ここで、現行憲法の平和主義について考えてみたいと思います。
戦後、国民は、平和と軍事を根本的に対立する概念としてとらえ、軍事力が平和を壊す道具として用いられることへの警戒心があったことは、戦争を体験した国民の感情として十分に理解できるものではありますが、国際社会の現実を見れば、平和や安全は最終的には武力により担保されることもあり得るものであります。
今後、我が国としては、平和と安全を最終的には武力により担保することもあり得るという立場に立った上で、人道上の人間の安全保障という考え方を未来志向のより強靱な平和主義の形として提示し、国際の平和及び安全の維持に向けた取り組みに積極的に関与していく姿勢を示す必要があると考えます。
人道上の人間の安全保障に基づく国際貢献とは、一人一人の人間の豊かな可能性を引き出し、意義ある生活が送れるよう、政府、NGO、国際機関等が連携して基本的支援を行うというヒューマンエンパワーメントの側面とともに、その支援が実施される地域での社会秩序の維持に関し、第一義的な責任を負う国家がその機能を発揮する十分な能力と意思を有しない場合において、その支援について正当性が担保されるときには、軍事力の提供をも含む支援を行うことによりヒューマンエンパワーメントを実現するというプロテクションの側面を有するものであります。このような考え方は、国際法上いまだ十分に確立されたものではありませんが、その必要性にかんがみれば、今後検討を進めていかなければならない問題であると考えます。
九条は、憲法制定当時の国際情勢を反映し、国家対国家という形での武力紛争を前提として規定されたものであります。また、現在の政府見解によれば、自衛権の行使以外の場合における軍事力の行使や支援を禁止するものであるとされます。これらにかんがみれば、人道上の人間の安全保障に基づく国際貢献を実践するに当たっては、やはり憲法改正が不可避のものとなると考えます。
以上のことを踏まえまして、私は、次のような憲法九条の改正に向けた若干の提言をしたいと思います。
まず、その前提として、九条一項に定められました侵略戦争放棄の理念、これは一九二八年に締結されました不戦条約において示されたものでありますが、我が国が原加盟国としてその締結に尽力したことを強調しておきたいと思います。
その上で、第一に、九条一項の侵略戦争放棄の理念は堅持した上で、我が国が国際社会の平和及び安全の維持に積極的に関与していくという立場から国際貢献を行うに当たっての理念として、人道上の人間の安全保障の考え方を具体化いたします。
第二に、いわゆる一国平和主義から脱却する意味でも、国際社会の現状に沿わない戦力の不保持及び交戦権の否認を定める同条二項を削除した上で、個別的であるか集団的であるかを問わず自衛の権利を保持するとともに、これを行使できることを明記し、また、我が国の防衛と国際貢献を担う主体として自衛隊の憲法上の位置づけを明確にいたします。
第三に、侵略、大規模自然災害等の非常事態における首相への権限集中、人権の保護や制約等に関する非常事態条項を新たに設けることといたします。
なお、九条は前文に掲げられたいわゆる平和主義を受けた規定であるとされていることから、九条の改正を検討するに当たっては、あわせて前文の見直しが必要であると考えます。
以上申し上げました九条の改正案は、私の試案でございますが、今後憲法調査会での調査を進める上での一助にしていただければ幸いであります。
今後は、二十一世紀という新しい時代の日本にふさわしい、世界に誇るべき国民のための憲法の制定に向けて、早急に議論を深め、合意形成を図っていく必要があると考えます。
また同時に、憲法改正手続について定める憲法九十六条の規定を具体的に実施するための法律が整備されていないことは、国民の半数以上が賛成しているとされる憲法改正に向けた意思を無視するものであって、いわば立法の不作為に当たるとも言えることから、憲法改正のための国民投票法等関連法律を直ちに整備させる必要があると考えます。
以上をもって私の基調発言とさせていただきます。ありがとうございました。
この発言だけを見る →本日は、自衛隊の海外派遣をめぐる憲法的諸問題、すなわち、現行憲法が制定されて以降、最大の論争を生じさせてきた憲法九条をテーマに意見を述べさせていただくとともに、若干の提案をさせていただきたいと思います。
最初に、九条を議論する際の前提となります、我が国をめぐる現状についての認識を述べさせていただきたいと思います。
現行憲法が制定されてから五十有余年の月日が経過し、その間、我が国をめぐる国内外の環境は大きく変化してきております。
まず、国内に目を向けますと、我が国は高度経済成長を経て、世界第二位と称される経済大国となりましたし、また国民の間に民主主義が定着し、その熟度は非常に高いものとなっております。
次に、国外に目を転じますと、憲法制定時において既に顕在化していた冷戦構造はソ連の崩壊とともに終えんし、現在では米国が唯一の超大国として存在しており、このため現在の国際秩序の安定にその存在が大きな貢献を果たしてきております。そして、我が国は、戦後半世紀以上にわたり、米国中心の国際秩序の最大の受益者でありました。
また、人、物、資本、情報等が国境を越えて移動するグローバル社会のもとにおいて、国際的な相互依存関係が一層深まってきている一方で、貧富の差の拡大、大量破壊兵器の拡散等、グローバル化のいわば負の側面が現出しつつあります。
さらに、九・一一米国同時多発テロ事件以降、イラク問題、北朝鮮問題等を初め、これまでの国際秩序を根本から揺るがすとともに、我が国の平和と安全に対する直接的な危機が現実のものとなるような問題が生じております。
このように、我が国をめぐる国内外の環境が大きく変化する中で、現行憲法は、その制定以降、ただの一度も改正されることなく今日に至っております。確かに、戦後我が国が紛争において一人の国民も死なすことなく、また一人の人も殺すことなく来たこと、経済成長に向けて邁進することができたことなど、現行憲法がこれまで我が国の平和と繁栄のために果たしてきた役割については一定の評価をし得るものと考えます。
しかしながら、現行憲法は、本調査会での議論でも明らかにされましたように、ハーグ陸戦法規で、占領地の法律の尊重が定められているにもかかわらず、占領下においてGHQに半ば押しつけられたもので、世界平和の脅威とならないよう戦力不保持及び交戦権否認を定めるとともに、精神的な武装解除のために国民の精神改造を図ったものであります。
このことは、日本国民以外はすべて平和を愛する諸国民であり、日本さえ悪事を働かなければ世界は平和であるという当時の世界認識を背景としており、日本が他国から侵略や攻撃を受けるということは全くの想定外でありました。五十有余年後の今日、我が国には北朝鮮からの脅威が突きつけられております。
このように、現行憲法によって今日の複雑かつ急激な国際情勢の変化に対応していくことは限界に来ていると考えざるを得ません。
他方で、九条二項において戦力の不保持が規定されているにもかかわらず、現実にはイージス艦四そうを初めとする装備を有する自衛隊が存在しており、多くの国民が支持しているところでもあります。
また、湾岸戦争以降、PKO協力法、周辺事態法、テロ対策特措法、武力攻撃事態法、そしてイラク復興支援法案という我が国の安全保障及び国際協力に関する一連の法律が制定されようとしております。
このような現状が意味するところは、自衛隊発足後、しばしば解釈改憲を積み重ねることによって国際情勢に対応してきた結果、憲法規定と解釈運用との乖離が顕著になってきているということであり、これは法治主義という近代法の原則に照らし不誠実な対応であると考えます。
そして、このような乖離に拍車をかけている理由の一つが、内閣法制局が憲法解釈権を独占し、政治がこれに服従しているかのような実態ではないかと考えます。
私は、憲法解釈というものは、内閣法制局の解釈に縛られるのではなく、政治家としての責任において示すものであり、また、憲法規定と現実との乖離が顕著となった場合には、憲法改正の是非を国民に問わなければならないという姿勢こそが政治の本来のあるべき姿であると考えます。
このように考えますと、何か事態が生じる都度に解釈改憲を積み重ねた上で法整備を図るというこれまでの方法には問題があるのであって、今日の国際情勢の変化に対応していくためには、やはり憲法改正を視野に入れた上で、第一に、万が一の事態に備え我が国の防衛体制を整備するとともに、第二に、国際の平和及び安全の維持にかかわる責任を果たすため、あらゆる分野における国際貢献を一層推進していく必要があると考えます。
それではまず、防衛体制の整備と憲法改正の問題について具体的に考えてみたいと思います。
近年、国際情勢は緊迫度を増してきております。北朝鮮によって拉致問題、ミサイル発射問題、核兵器開発問題等が引き起こされてきております。特に北朝鮮による核兵器保有は、日本に対する脅威を著しく増大させるものであり、NPTに違反しても制裁されないとの先例ができれば、世界的に核拡散が助長されることになりかねません。また、一昨年には、唯一の超大国である米国を標的とした九・一一事件が発生いたしました。
このような中で、多くの国民がミサイル攻撃やテロを現実の脅威として感じていることは事実であります。国の主権を守り、また国民の生命財産を守ることが政治の責務であることにかんがみれば、このような国民の不安を解消するためにも、万が一の事態が生じた場合であっても万全の対処を行うことができるよう防衛体制を整備することは当然のことと言えます。
そもそも国防とは、みずからが属している国家共同体を、みずからの生命を犠牲にしてでも守ることであります。国家が自分のために何をしてくれるかではなく、国家に対し自分は何ができるかという姿勢こそがその基本に置かれるべきものであります。また、国家とは、前の世代から受け継ぎ、みずからの世代を経て次の世代に受け渡していくという連続性のある歴史的所産であるということを指摘しておきたいと思います。
憲法九条をめぐっては、これまで、我が国は自衛権を保持しているのか否か、自衛権を保持しているとして、その発動に当たって一定の武力行使は認められるのか否かといった議論がなされてきました。
これらの点に関して政府は、九条によっても自衛権は放棄されるものではなく、またその発動に当たって自衛のための必要最小限の武力を行使することは認められると述べておりますが、依然としてこの種の議論が繰り返されてきているということは、安全保障という国家としての根本問題について、国民の間での完全なコンセンサスがないということでありまして、このことは、万が一の事態が生じた場合に、国家は国民を十分に保護することができるのか、また、防衛行動を行うに当たって国民全体からの信頼や協力を得ることができるのかという疑念にもつながるものであり、問題と言わざるを得ません。
したがいまして、国家として当然に保有している権利と、国家として国民を守るという姿勢とを明らかにするという観点から、我が国が自衛権を保持していること、防衛活動を担う主体として自衛隊が存在すること等を憲法上明確に位置づける必要があると考えます。
また、先般、多くの会派からの賛成を得て、有事関連三法がようやく成立いたしました。これら有事法が成立する以前には、仮に万が一の事態が発生した場合に、自衛隊は超法規的な行動に訴えざるを得なかったのではないかということを考えれば、有事法の整備はむしろ遅過ぎたのではないかとの思いもあります。今後は、残された課題であります国民保護法制及び米軍との関係に関する法制についても早急に整備を図る必要があると考えます。
ところで、これらの有事法は、統治機能の変更、一定の人権制約等国家の基本に関する事項を内容とするものであります。どのような有事においてどの程度の権限を首相に移譲するのか、また、どの程度の人権制約が認められるのかといった事項は、諸外国の憲法を見てもわかるとおり、本来、国家の基本法たる憲法にその基本を規定すべきものであります。
翻って我が国の憲法を見ますと、緊急事態に関しては、わずかに五十四条二項に参議院の緊急集会が定められているにすぎず、危機管理意識の欠如した憲法と言わざるを得ません。したがいまして、外部からの武力攻撃、大規模自然災害をも含めた非常事態の要件、対処行動の手続、非常事態においても侵害してはならない人権の種類等に関する基本的事項を定める条項を憲法上設ける必要があると考えます。
その際、国会等のコントロールを及ぼすことによって首相による権力の乱用を防止する必要はありますが、しかし、厳格な規定を設けることによって首相の裁量の余地を狭め、その結果かえって国民の利益が損なわれることのないよう、慎重な制度設計が必要であると考えます。
さらに、日本の防衛は我が国一国だけでなし得るものではありません。したがいまして、引き続き我が国の安全保障政策の基軸として日米同盟を維持し発展させていく必要があり、このことは、将来的にアジアにおける地域的集団安全保障を構想する上でも重要になってくるものと考えます。
もっとも、我が国は、集団的自衛権について保持するが行使できないとされており、通常の同盟関係における共同防衛の責務を果たせない現状にあります。しかしながら、このような憲法解釈は非常にわかりづらいものであります。
国連憲章五十一条では集団的自衛権が固有の権利として国家に認められておりますし、また、サンフランシスコ平和条約五条(c)項では「連合国としては、日本国が主権国として国際連合憲章第五十一条に掲げる個別的又は集団的自衛の固有の権利を有すること及び日本国が集団的安全保障取極を自発的に締結することができることを承認する。」と定められておりますことから、このような解釈はむしろ誤りであるとも言えるのであって、これを正すべきであります。その上で、政治の責任において、主体的判断に基づき、国民の利益に沿う形で集団的自衛権を行使することを通じて、対等かつ双務的な日米関係を築いていく必要があると考えます。
以上のような防衛体制の整備及びこれに伴う憲法改正を行うに際しては、近隣諸国からの批判や懸念が当然に予想されるところであります。しかし、ヨーロッパにおいては、歴史上悲惨な紛争を繰り返してきたドイツとフランスとが相互の信頼醸成措置を通じて対立を解消し、統一ヨーロッパを目指す動きの原動力となっており、この動きは、現在、ヨーロッパ憲法を制定する段階にまで至ってきております。
このことを踏まえますと、我が国も、防衛体制の整備等を図ると同時に、近隣諸国との間で信頼醸成を図るための措置を講じ、アジアにおける地域協力の道を固めていく必要があると考えます。
次に、国際貢献の推進と憲法改正の問題について考えてみたいと思います。
冷戦構造が終えんした現在においても、世界各地で紛争が生じており、多くの民衆が犠牲となっております。これらの紛争は、グローバル化が進展する中で、我が国の平和と繁栄に直結する問題となっていることから、決して我が国と無縁のものではありません。
一国の安全は外敵の直接的な脅威に対処するだけで確保されるものではないのであって、地域や国際社会全体の秩序の安定をいかに確保していくかが重要となっております。また、我が国は、世界各地で生じている紛争を解決するための意思と能力を有しております。これらのことを踏まえれば、我が国が国連のPKOを初めとする国際の平和及び安全の維持に関する取り組みに対し相応の責務を果たすべきことは言うまでもありません。
冷戦構造のもとでの紛争は、国家対国家という形において生じるものでありました。しかし、今日生じている紛争の多くは、民族、宗教、貧困、環境破壊等に起因するものであって、主権国家という枠組みでとらえ切ることのできないものであります。これらの事態に対処するためには、人間一人一人の生存、生活、尊厳に対するさまざまな脅威への取り組みを主権国家の枠を超えて国際社会全体として強化していく上での新しい価値観が必要となるのであり、その意味で、人道上個々の人間の安全保障に着目した人間の安全保障、いわば人道上の安全保障という考え方が重要になってくるものと思われます。
ここで、現行憲法の平和主義について考えてみたいと思います。
戦後、国民は、平和と軍事を根本的に対立する概念としてとらえ、軍事力が平和を壊す道具として用いられることへの警戒心があったことは、戦争を体験した国民の感情として十分に理解できるものではありますが、国際社会の現実を見れば、平和や安全は最終的には武力により担保されることもあり得るものであります。
今後、我が国としては、平和と安全を最終的には武力により担保することもあり得るという立場に立った上で、人道上の人間の安全保障という考え方を未来志向のより強靱な平和主義の形として提示し、国際の平和及び安全の維持に向けた取り組みに積極的に関与していく姿勢を示す必要があると考えます。
人道上の人間の安全保障に基づく国際貢献とは、一人一人の人間の豊かな可能性を引き出し、意義ある生活が送れるよう、政府、NGO、国際機関等が連携して基本的支援を行うというヒューマンエンパワーメントの側面とともに、その支援が実施される地域での社会秩序の維持に関し、第一義的な責任を負う国家がその機能を発揮する十分な能力と意思を有しない場合において、その支援について正当性が担保されるときには、軍事力の提供をも含む支援を行うことによりヒューマンエンパワーメントを実現するというプロテクションの側面を有するものであります。このような考え方は、国際法上いまだ十分に確立されたものではありませんが、その必要性にかんがみれば、今後検討を進めていかなければならない問題であると考えます。
九条は、憲法制定当時の国際情勢を反映し、国家対国家という形での武力紛争を前提として規定されたものであります。また、現在の政府見解によれば、自衛権の行使以外の場合における軍事力の行使や支援を禁止するものであるとされます。これらにかんがみれば、人道上の人間の安全保障に基づく国際貢献を実践するに当たっては、やはり憲法改正が不可避のものとなると考えます。
以上のことを踏まえまして、私は、次のような憲法九条の改正に向けた若干の提言をしたいと思います。
まず、その前提として、九条一項に定められました侵略戦争放棄の理念、これは一九二八年に締結されました不戦条約において示されたものでありますが、我が国が原加盟国としてその締結に尽力したことを強調しておきたいと思います。
その上で、第一に、九条一項の侵略戦争放棄の理念は堅持した上で、我が国が国際社会の平和及び安全の維持に積極的に関与していくという立場から国際貢献を行うに当たっての理念として、人道上の人間の安全保障の考え方を具体化いたします。
第二に、いわゆる一国平和主義から脱却する意味でも、国際社会の現状に沿わない戦力の不保持及び交戦権の否認を定める同条二項を削除した上で、個別的であるか集団的であるかを問わず自衛の権利を保持するとともに、これを行使できることを明記し、また、我が国の防衛と国際貢献を担う主体として自衛隊の憲法上の位置づけを明確にいたします。
第三に、侵略、大規模自然災害等の非常事態における首相への権限集中、人権の保護や制約等に関する非常事態条項を新たに設けることといたします。
なお、九条は前文に掲げられたいわゆる平和主義を受けた規定であるとされていることから、九条の改正を検討するに当たっては、あわせて前文の見直しが必要であると考えます。
以上申し上げました九条の改正案は、私の試案でございますが、今後憲法調査会での調査を進める上での一助にしていただければ幸いであります。
今後は、二十一世紀という新しい時代の日本にふさわしい、世界に誇るべき国民のための憲法の制定に向けて、早急に議論を深め、合意形成を図っていく必要があると考えます。
また同時に、憲法改正手続について定める憲法九十六条の規定を具体的に実施するための法律が整備されていないことは、国民の半数以上が賛成しているとされる憲法改正に向けた意思を無視するものであって、いわば立法の不作為に当たるとも言えることから、憲法改正のための国民投票法等関連法律を直ちに整備させる必要があると考えます。
以上をもって私の基調発言とさせていただきます。ありがとうございました。
中
藤
藤井裕久#4
○藤井(裕)小委員 本日は、私ども自由党の安全保障に対する考え方、ひいては憲法第九条に対する考え方を述べる機会を与えていただきまして、小委員長初め皆様に心から御礼申し上げます。
私どもは立党以来、将来を見据えた日本国家の国際社会でのあり方、国内体制などを世にお示ししてまいりました。例えば、立党の年に「日本再興へのシナリオ」をつくりましたし、本調査会の設置と軌を一にいたしまして「新しい憲法を創る基本方針」、当然新しい憲法をつくるという前提であります。そして、その十二項目のうち重要な一つである安全保障の基本方針につきましては、これを法制化して、平成十四年及び本年提出させていただいているのが安全保障基本法であります。
戦前の日本、特に昭和の時代は、事の起きるたびにその場の事態を繕うような形で対応に終始して、基本的な安全保障政策あるいは軍事戦略のないまま国家主権の究極の発動である軍隊の行動を決定し、結果として国家の基本的方向を誤ったと言わざるを得ません。昭和十九年のインド・インパール作戦の展開を経て、昭和二十年の終戦を迎えるに至ったのはその最後の局面であったと思っております。
戦後の日本においても国家安全保障の基本原則が確立していないのは、戦前の反省が生かされていないと言われてもいたし方ないと思います。あえて言えば、昭和三十二年閣議決定された国防の基本方針、四原則というのがあります。平成十一年、自自連立において、安全保障の基本原則を確立し、すなわち平成版安全保障の基本原則を策定しようということで合意をいたしました。結果として自由民主党の中に反対が出てこれが実らなかったのは、返す返すも残念と思っております。
しかし、翻って考えてみますと、これらの基本部分は新しい憲法に明記するか、少なくとも安全保障基本法において世間にお示しするべきものであると考えます。閣議決定の基本原則というもの以上にしなければならないという意味であります。それは、国の平和確立の基本を日本国民にお示しするとともに、国際社会、なかんずく近隣諸国の信頼を得るためにも必要であると考えております。
私どもは、安全保障に関する三つの基本的原則を提起しております。
一つは、自衛権は国家の基本的責務であることを明確にした上で、その行動は抑制的、限定的でなければならないということであります。
第二番目には、戦後の日本の中核である日米共同防衛体制を堅持しなければならないということであります。
第三は、二十世紀における二回の大戦によって築かれた国連中心の国際平和秩序に積極的に参加することであります。これが結果として日本、世界の平和を確保する上の大きなとりでになっていると考えられるからであります。
以下、この三項目につき述べさせていただきます。
第一の問題でございますが、一つには、他国の侵略に対し国の安全と国民の生命財産を守ることは国の根源的かつ崇高な使命であるにかかわらず、憲法上これを明確、積極的に規定していることがどこにもないのであります。
憲法の前文には、その顔であるにもかかわらず、みずからの国はみずからで守るたぐいの規定は全くありません。あるのは、「諸国民の公正と信義に信頼し」、「自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」、「国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。」という国際協調の理念を述べているのみであります。
また九条には、侵略戦争をしてはならないとの規定はあります。当時のアメリカのマスコミが、この憲法は日本の憲法ではなく日本に対するアメリカの憲法だと言っておりますし、また、これはユートピアだ、日本が悪いことをしなければ世界は平和になるのだとも言っております。それもむべなるかなであろうかと思っております。
このような、整合性もとれていない、また国家の根源的責務も規定していないのは、現行憲法がGHQにより策定されたことから来ていることは否定できません。
昭和二十一年二月、一週間で二十人余りで作成したことに加えて、その前提となったマッカーサー三原則、世に言うイエローペーパーでありますが、戦争放棄条項には、侵略戦争も自衛の戦争もともに放棄させると提示されております。
日本では必ずしも評判のよくない人ですが、民政局次長のケーディスが、これは余りに非現実的だと言って、勝手に九条は侵略戦争だけがだめだと書きかえちゃったというのがありますが、これは史実であります。
また、その九条の文言も、国際紛争を解決するための戦争を放棄するという難解な文章になっています。これもマッカーサー原案が、先ほども出ましたが、一九二八年の不戦条約の引き写しだからであります。その不戦条約は、ケロッグ・ブリアン条約と言うようにアメリカとフランスの主導で成立したものであり、肝心の母国では当時、これは自衛戦争も否定しているのではないかという批判をされております。侵略国は必ず名目をつけて攻めてくるわけでありまして、その例は枚挙にいとまがありません。この侵略に対する自衛のためであっても、国際紛争解決の手段と言われかねません。
確かにこの言葉は、現在国際法的には侵略戦争であるということが確立していますが、普通の中学生ぐらいが素直に読んで理解できるような文章にしなければいけないと思います。
国際紛争を解決するための戦争というのが侵略戦争であるということを十分御承知になっておられました芦田均さんが、そのための戦力は保持しないという、いわゆる芦田修正を出されましたが、当時の状況ではこれがもう限度だったと思います、よくおやりになったと思っておりますが、その後政府は、自衛のための軍隊すなわち自衛隊をも戦力でないとの見解を示して、せっかくの芦田修正ができたにかかわらず、いまだに戦力なき自衛隊ということを言い続けております。それも国民の普通の常識では考えられないことでありまして、新しい憲法をつくるときにはこのような誤解のないよう明記すべきであるということを申し上げたいと思います。
いずれにしても、GHQ憲法の翻訳であるから訳文は難解であり、日本語に必ずしもなじめないというのが事実だろうと思います。
戦後、参議院議員を務められました文豪山本有三先生が、なぜ政治家になったのかと問われたのに対して、日本語の憲法をつくりたいからだと言われたことは、我々は心すべきことだと思っております。
このように、自衛権を国家の崇高な権利として明確にした上で、その行使の限界を示すことも反面極めて重要だと思います。それは、戦前の無原則のまま、ただただ自衛の名において戦線を拡大したという歴史の反省でなければならないと思います。
あえて言えば、明治の山県有朋は、自衛とは生命線と利益線があるということを言っておられますが、この発想は、ロシア・ロマノフ王朝以来のツァーリズムの北方脅威への対応であったということは事実でありますが、結局、明治四十三年の日韓併合であるとか、昭和七年の満州国建設とか、引き続く熱河作戦を招来したことは否定できません。また、昭和十二年の廬溝橋事件以降の事態は、本来の自衛とは全く関係ない、オーストラリア攻撃だとかインド・インパール作戦なども展開されているのは、これは論外ではないかと私は思っております。
我が党は、この反省の上に立ちまして、具体的には、直接侵略があったとき、または、そのまま放置すればそのおそれのある場合に限って、他に方法がなく、必要最小限において自衛のための武力行使を行うということを明言しております。新しい憲法には、ぜひそのことを明記すべきであると思います。それが同時に、現行憲法九条の基本的精神の流れに沿ったものであると考えております。
なお、これに関係して、シビリアンコントロールの重要性について一言申し上げます。
シビリアンコントロールにつきましては、現行憲法では六十六条に、総理、国務大臣はシビリアンでなければならないとの規定のみがありますが、実は、本来、総理大臣の自衛隊に対する最高指揮監督権というものは、これは自衛隊法に置いておくものではなく、より具体的に憲法に規定すべきものであると考えております。
戦前、昭和六年、満州事変に際して、日本の朝鮮軍司令官が、中央の参謀総長にも、あるいは陸軍大臣を含めた内閣にも報告しないで鴨緑江を渡河し、汚名を残したのは、日本にある歴史であります。
反面において、昭和二十六年、朝鮮戦争では、連合軍最高司令官マッカーサーが、本国の意思に反し、中国本土爆撃を主張して、トルーマン大統領に罷免されたということも、逆に銘記すべきことだと私は思っております。
第二は、日米共同防衛体制の堅持であります。
日米関係は、ひとり安全保障のみならず、経済、文化など多方面にわたり、相互に密接に連携し合う間柄であると思います。明治以来、先進民主主義国と同盟関係にあるとき、我が国は平和であり、それが繁栄の基礎となってきたと思います。日英同盟は、大正デモクラシーの花を咲かせました。戦後の日米同盟は、平和のうちに戦後の復興を果たし、繁栄の道を開きました。
大正十年日英同盟解消後は、日本はひとり独自の道を歩み、昭和八年には国際連盟を脱退し、昭和十五年にはナチズム、ファシズムとの日独伊三国軍事同盟を締結して、結局、破局の道を歩んだと思っております。
今、世界は、国際平和秩序の中で、そのような同盟関係を結んでいるのが現状であります。
日米共同防衛体制の基礎をなすのは、日米安保条約であります。この条約の第一条には、それぞれの関係する国際紛争を国際連合憲章の定めるところに従って解決し、つまり、国連を表に立てております。武力による威嚇、武力行使は、国際連合の目的に両立しないもの、いかなる国の領土保全、政治的独立に対するものに使ってはならないということを言っておりまして、残念ながら、今の総理が、国連を中心とする国際協調体制と日米安保体制を対立するように世間にお問いかけになっているのは、やや事の本質が違うのではないかというふうに考えております。
なお、昭和三十五年の日米安保条約の改定に伴う安保国会においては、集団的自衛権論議というのが行われておりますが、自衛権は、本来、個別、集団というものを一体としてとらえるのが国際常識ではないかと考えております。国連憲章、平和条約、日米安保条約など、すべて一体的、包括的な取り扱いをいたしておりますし、国際司法裁判所でも、これは国際慣習として成熟していると判示をいたしております。
これに対して、日本政府は、昭和五十六年、あえて集団的自衛権を特別に取り出して分けて、そこは保有しているが行使しないとの見解を示しております。この考えは国際法秩序の流れにそぐわないものであると私は考えております。
なお、次に述べる国連主導のもとに行われる集団安全保障と、今申し上げた自衛権の一環としての集団的自衛権は、本質的に異なるものであり、前者は、ある程度国家主権の制約を伴うものだと考えておりますが、後者、つまり集団的自衛権は、主権の行使そのものであるというふうに考えておりますから、その政策判断によってその行使の限界を定めることは当然だというふうに思っております。
既に述べましたように、私どもは、自衛権は個別、集団に関係なく抑制的に考えるというふうに申しておりますが、日米安保条約がその地域を極東に限定しているのも、この考え方が基礎にあるんだと私は考えております。
第三が、国連主導で行われる国連平和活動についてであります。
これは、国際社会そして我が国の平和と安全が守られる基礎であり、国際社会の中の主要国である日本がこれに積極的に参加することは当然のことと考えております。
国連平和活動とは、集団安全保障とも言われておりますが、具体的には、国連軍、またその変形である多国籍軍、さらにPKOと称される国連平和維持活動であり、いずれも国連の決議により活動するものであります。この仕組みは、二十世紀の二度にわたる世界大戦を経て、何千万という犠牲者の上に成り立った貴重な財産だと私は思っております。
第一次世界大戦後に成立した国際連盟では、侵略的行為を行ったものに経済制裁を行うという仕組みはございましたが、一九三五年、昭和十年でありますが、ムソリーニのイタリアがエチオピアに侵入したときには、これを発動したにかかわらず、それを阻止することはできませんでした。経済制裁には限界があるという趣旨であります。
また、一九三八年、昭和十三年には、ヒトラー・ドイツが、オーストリーを併合した後、チェコ・ズデーテン地方に侵入をいたしたのに対して、ミュンヘン会談において、英国のチェンバレン、フランスのダラディエという両首相は、これらの侵略行為を平和的に阻止しようとしましたが、結局、できませんでした。
英仏の両首相は母国では平和の天使として迎えられましたが、結果としては、一時といえども、ヨーロッパはナチズム、ファシズムの席巻されるところとなったのは、これも歴史的事実であります。
この歴史的教訓の上に立って、一九四四年、戦勝四カ国、つまり米英中ソがダンバートン・オークスで会議を持ち、その骨組みをつくって、翌年、国連憲章としてまとめられたのが、戦後の国連を中心とする国際平和秩序であります。
それは、各国の自衛権発動のほかに、原則としては、武力行使、戦争は違法であるということを決めつつ、国連の決議があった場合には、国際社会の制裁として、侵略者に対し強制的武力行使を行い、その行動を阻止することができるという仕組みであります。
世間では、その仕組みが一九三一年と一九三九年にあれば、あのような悲惨な二次大戦にはならなかっただろうと言われております。一九三一年というのは、日本の満州事変であります。一九三九年とは、ドイツのポーランド侵入であります。
日本が国連加盟国でありながら、現在この仕組みに参加することに否定的であることは、国際社会の一員として残念であります。日本政府は、昭和五十五年、憲法九条のもとで自衛隊の海外派遣による武力行使はできないと表明しております。私どもは、日本が、昭和三十一年、無条件に加盟した以上、加盟国の一員として国連憲章を遵守し、国連の決議があれば国連の平和活動に参加するのが国際的義務であると考えております。
憲法九条は、国の自衛権の限界を定めるものであって、国連の平和活動を規制するものではないと考えております。憲法の規定でも、前文は国際協調主義を強く打ち出し、憲法九十八条では、一項で、この憲法に反する法律、政令などは無効であると述べた上で、二項では、国際条約、国連憲章などはこの一番の中心だろうと思いますが、これを遵守しなければならないということを言っております。加えて、憲法八十一条の最高裁判所の違憲立法審査権では、条約を除外しております、条約は対象としておりません。
新しい憲法をつくるときには、一層このことを明確にするためにも、国連の平和活動、いわゆる集団安全保障への参加を明記すべきであると思います。
次に、PKOと称せられる国連平和維持活動に触れさせていただきます。
この根拠規定は憲章上ありません。あえて言えば、憲章第一条の平和を維持すること、そのための脅威の防止、除去のため有効な措置をとることにあると言われております。また、第六章の平和的解決と第七章の強制措置の中間だから憲章六・五章だと言う人もいます。
この仕組みの源流は、第一次中東戦争後の、将校が一人一人参加して軍事監視をするということにあるのは事実でありますが、実際は、一九五六年、第二次中東戦争後の、スウェーデン人のハマーショルド事務総長、そしてピアソン・カナダ外相など、いずれもノーベル平和賞を受けた人を中心に、世界の英知の結集としてつくり上げたものであって、国連憲章上に明確な規定こそないけれども、世界平和のためには非常に重要な仕組みであると考えています。
特に、そのときの原則で、今言われているような停戦合意とか、強制的措置はいけないというふうに言われておりますが、大事なもう一つは、国際性ということが強調されております。それは、P5という国だけでなく、広く世界の国に参加してもらいたいということを訴えているのであり、多くの国が現在参加しているのもその結果だと思います。
現在、この伝統的PKOは任務を拡大して、さらに変質して、重武装、強制武力行使などを行うケースも出てまいりましたが、我が国は、この活動の意義を十分わきまえて、積極的に参加すると同時に、PKOの本来のあり方、強制的措置とかあるいは強制的武力行使というものの行き過ぎを是正するようなことで貢献していくべきだと思います。
最後に一言でございますが、国際的行動に参加する以上、武器使用も国際水準であるのは当たり前のことであるということを申し上げて、私の発言を終わらせていただきます。
この発言だけを見る →私どもは立党以来、将来を見据えた日本国家の国際社会でのあり方、国内体制などを世にお示ししてまいりました。例えば、立党の年に「日本再興へのシナリオ」をつくりましたし、本調査会の設置と軌を一にいたしまして「新しい憲法を創る基本方針」、当然新しい憲法をつくるという前提であります。そして、その十二項目のうち重要な一つである安全保障の基本方針につきましては、これを法制化して、平成十四年及び本年提出させていただいているのが安全保障基本法であります。
戦前の日本、特に昭和の時代は、事の起きるたびにその場の事態を繕うような形で対応に終始して、基本的な安全保障政策あるいは軍事戦略のないまま国家主権の究極の発動である軍隊の行動を決定し、結果として国家の基本的方向を誤ったと言わざるを得ません。昭和十九年のインド・インパール作戦の展開を経て、昭和二十年の終戦を迎えるに至ったのはその最後の局面であったと思っております。
戦後の日本においても国家安全保障の基本原則が確立していないのは、戦前の反省が生かされていないと言われてもいたし方ないと思います。あえて言えば、昭和三十二年閣議決定された国防の基本方針、四原則というのがあります。平成十一年、自自連立において、安全保障の基本原則を確立し、すなわち平成版安全保障の基本原則を策定しようということで合意をいたしました。結果として自由民主党の中に反対が出てこれが実らなかったのは、返す返すも残念と思っております。
しかし、翻って考えてみますと、これらの基本部分は新しい憲法に明記するか、少なくとも安全保障基本法において世間にお示しするべきものであると考えます。閣議決定の基本原則というもの以上にしなければならないという意味であります。それは、国の平和確立の基本を日本国民にお示しするとともに、国際社会、なかんずく近隣諸国の信頼を得るためにも必要であると考えております。
私どもは、安全保障に関する三つの基本的原則を提起しております。
一つは、自衛権は国家の基本的責務であることを明確にした上で、その行動は抑制的、限定的でなければならないということであります。
第二番目には、戦後の日本の中核である日米共同防衛体制を堅持しなければならないということであります。
第三は、二十世紀における二回の大戦によって築かれた国連中心の国際平和秩序に積極的に参加することであります。これが結果として日本、世界の平和を確保する上の大きなとりでになっていると考えられるからであります。
以下、この三項目につき述べさせていただきます。
第一の問題でございますが、一つには、他国の侵略に対し国の安全と国民の生命財産を守ることは国の根源的かつ崇高な使命であるにかかわらず、憲法上これを明確、積極的に規定していることがどこにもないのであります。
憲法の前文には、その顔であるにもかかわらず、みずからの国はみずからで守るたぐいの規定は全くありません。あるのは、「諸国民の公正と信義に信頼し」、「自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」、「国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。」という国際協調の理念を述べているのみであります。
また九条には、侵略戦争をしてはならないとの規定はあります。当時のアメリカのマスコミが、この憲法は日本の憲法ではなく日本に対するアメリカの憲法だと言っておりますし、また、これはユートピアだ、日本が悪いことをしなければ世界は平和になるのだとも言っております。それもむべなるかなであろうかと思っております。
このような、整合性もとれていない、また国家の根源的責務も規定していないのは、現行憲法がGHQにより策定されたことから来ていることは否定できません。
昭和二十一年二月、一週間で二十人余りで作成したことに加えて、その前提となったマッカーサー三原則、世に言うイエローペーパーでありますが、戦争放棄条項には、侵略戦争も自衛の戦争もともに放棄させると提示されております。
日本では必ずしも評判のよくない人ですが、民政局次長のケーディスが、これは余りに非現実的だと言って、勝手に九条は侵略戦争だけがだめだと書きかえちゃったというのがありますが、これは史実であります。
また、その九条の文言も、国際紛争を解決するための戦争を放棄するという難解な文章になっています。これもマッカーサー原案が、先ほども出ましたが、一九二八年の不戦条約の引き写しだからであります。その不戦条約は、ケロッグ・ブリアン条約と言うようにアメリカとフランスの主導で成立したものであり、肝心の母国では当時、これは自衛戦争も否定しているのではないかという批判をされております。侵略国は必ず名目をつけて攻めてくるわけでありまして、その例は枚挙にいとまがありません。この侵略に対する自衛のためであっても、国際紛争解決の手段と言われかねません。
確かにこの言葉は、現在国際法的には侵略戦争であるということが確立していますが、普通の中学生ぐらいが素直に読んで理解できるような文章にしなければいけないと思います。
国際紛争を解決するための戦争というのが侵略戦争であるということを十分御承知になっておられました芦田均さんが、そのための戦力は保持しないという、いわゆる芦田修正を出されましたが、当時の状況ではこれがもう限度だったと思います、よくおやりになったと思っておりますが、その後政府は、自衛のための軍隊すなわち自衛隊をも戦力でないとの見解を示して、せっかくの芦田修正ができたにかかわらず、いまだに戦力なき自衛隊ということを言い続けております。それも国民の普通の常識では考えられないことでありまして、新しい憲法をつくるときにはこのような誤解のないよう明記すべきであるということを申し上げたいと思います。
いずれにしても、GHQ憲法の翻訳であるから訳文は難解であり、日本語に必ずしもなじめないというのが事実だろうと思います。
戦後、参議院議員を務められました文豪山本有三先生が、なぜ政治家になったのかと問われたのに対して、日本語の憲法をつくりたいからだと言われたことは、我々は心すべきことだと思っております。
このように、自衛権を国家の崇高な権利として明確にした上で、その行使の限界を示すことも反面極めて重要だと思います。それは、戦前の無原則のまま、ただただ自衛の名において戦線を拡大したという歴史の反省でなければならないと思います。
あえて言えば、明治の山県有朋は、自衛とは生命線と利益線があるということを言っておられますが、この発想は、ロシア・ロマノフ王朝以来のツァーリズムの北方脅威への対応であったということは事実でありますが、結局、明治四十三年の日韓併合であるとか、昭和七年の満州国建設とか、引き続く熱河作戦を招来したことは否定できません。また、昭和十二年の廬溝橋事件以降の事態は、本来の自衛とは全く関係ない、オーストラリア攻撃だとかインド・インパール作戦なども展開されているのは、これは論外ではないかと私は思っております。
我が党は、この反省の上に立ちまして、具体的には、直接侵略があったとき、または、そのまま放置すればそのおそれのある場合に限って、他に方法がなく、必要最小限において自衛のための武力行使を行うということを明言しております。新しい憲法には、ぜひそのことを明記すべきであると思います。それが同時に、現行憲法九条の基本的精神の流れに沿ったものであると考えております。
なお、これに関係して、シビリアンコントロールの重要性について一言申し上げます。
シビリアンコントロールにつきましては、現行憲法では六十六条に、総理、国務大臣はシビリアンでなければならないとの規定のみがありますが、実は、本来、総理大臣の自衛隊に対する最高指揮監督権というものは、これは自衛隊法に置いておくものではなく、より具体的に憲法に規定すべきものであると考えております。
戦前、昭和六年、満州事変に際して、日本の朝鮮軍司令官が、中央の参謀総長にも、あるいは陸軍大臣を含めた内閣にも報告しないで鴨緑江を渡河し、汚名を残したのは、日本にある歴史であります。
反面において、昭和二十六年、朝鮮戦争では、連合軍最高司令官マッカーサーが、本国の意思に反し、中国本土爆撃を主張して、トルーマン大統領に罷免されたということも、逆に銘記すべきことだと私は思っております。
第二は、日米共同防衛体制の堅持であります。
日米関係は、ひとり安全保障のみならず、経済、文化など多方面にわたり、相互に密接に連携し合う間柄であると思います。明治以来、先進民主主義国と同盟関係にあるとき、我が国は平和であり、それが繁栄の基礎となってきたと思います。日英同盟は、大正デモクラシーの花を咲かせました。戦後の日米同盟は、平和のうちに戦後の復興を果たし、繁栄の道を開きました。
大正十年日英同盟解消後は、日本はひとり独自の道を歩み、昭和八年には国際連盟を脱退し、昭和十五年にはナチズム、ファシズムとの日独伊三国軍事同盟を締結して、結局、破局の道を歩んだと思っております。
今、世界は、国際平和秩序の中で、そのような同盟関係を結んでいるのが現状であります。
日米共同防衛体制の基礎をなすのは、日米安保条約であります。この条約の第一条には、それぞれの関係する国際紛争を国際連合憲章の定めるところに従って解決し、つまり、国連を表に立てております。武力による威嚇、武力行使は、国際連合の目的に両立しないもの、いかなる国の領土保全、政治的独立に対するものに使ってはならないということを言っておりまして、残念ながら、今の総理が、国連を中心とする国際協調体制と日米安保体制を対立するように世間にお問いかけになっているのは、やや事の本質が違うのではないかというふうに考えております。
なお、昭和三十五年の日米安保条約の改定に伴う安保国会においては、集団的自衛権論議というのが行われておりますが、自衛権は、本来、個別、集団というものを一体としてとらえるのが国際常識ではないかと考えております。国連憲章、平和条約、日米安保条約など、すべて一体的、包括的な取り扱いをいたしておりますし、国際司法裁判所でも、これは国際慣習として成熟していると判示をいたしております。
これに対して、日本政府は、昭和五十六年、あえて集団的自衛権を特別に取り出して分けて、そこは保有しているが行使しないとの見解を示しております。この考えは国際法秩序の流れにそぐわないものであると私は考えております。
なお、次に述べる国連主導のもとに行われる集団安全保障と、今申し上げた自衛権の一環としての集団的自衛権は、本質的に異なるものであり、前者は、ある程度国家主権の制約を伴うものだと考えておりますが、後者、つまり集団的自衛権は、主権の行使そのものであるというふうに考えておりますから、その政策判断によってその行使の限界を定めることは当然だというふうに思っております。
既に述べましたように、私どもは、自衛権は個別、集団に関係なく抑制的に考えるというふうに申しておりますが、日米安保条約がその地域を極東に限定しているのも、この考え方が基礎にあるんだと私は考えております。
第三が、国連主導で行われる国連平和活動についてであります。
これは、国際社会そして我が国の平和と安全が守られる基礎であり、国際社会の中の主要国である日本がこれに積極的に参加することは当然のことと考えております。
国連平和活動とは、集団安全保障とも言われておりますが、具体的には、国連軍、またその変形である多国籍軍、さらにPKOと称される国連平和維持活動であり、いずれも国連の決議により活動するものであります。この仕組みは、二十世紀の二度にわたる世界大戦を経て、何千万という犠牲者の上に成り立った貴重な財産だと私は思っております。
第一次世界大戦後に成立した国際連盟では、侵略的行為を行ったものに経済制裁を行うという仕組みはございましたが、一九三五年、昭和十年でありますが、ムソリーニのイタリアがエチオピアに侵入したときには、これを発動したにかかわらず、それを阻止することはできませんでした。経済制裁には限界があるという趣旨であります。
また、一九三八年、昭和十三年には、ヒトラー・ドイツが、オーストリーを併合した後、チェコ・ズデーテン地方に侵入をいたしたのに対して、ミュンヘン会談において、英国のチェンバレン、フランスのダラディエという両首相は、これらの侵略行為を平和的に阻止しようとしましたが、結局、できませんでした。
英仏の両首相は母国では平和の天使として迎えられましたが、結果としては、一時といえども、ヨーロッパはナチズム、ファシズムの席巻されるところとなったのは、これも歴史的事実であります。
この歴史的教訓の上に立って、一九四四年、戦勝四カ国、つまり米英中ソがダンバートン・オークスで会議を持ち、その骨組みをつくって、翌年、国連憲章としてまとめられたのが、戦後の国連を中心とする国際平和秩序であります。
それは、各国の自衛権発動のほかに、原則としては、武力行使、戦争は違法であるということを決めつつ、国連の決議があった場合には、国際社会の制裁として、侵略者に対し強制的武力行使を行い、その行動を阻止することができるという仕組みであります。
世間では、その仕組みが一九三一年と一九三九年にあれば、あのような悲惨な二次大戦にはならなかっただろうと言われております。一九三一年というのは、日本の満州事変であります。一九三九年とは、ドイツのポーランド侵入であります。
日本が国連加盟国でありながら、現在この仕組みに参加することに否定的であることは、国際社会の一員として残念であります。日本政府は、昭和五十五年、憲法九条のもとで自衛隊の海外派遣による武力行使はできないと表明しております。私どもは、日本が、昭和三十一年、無条件に加盟した以上、加盟国の一員として国連憲章を遵守し、国連の決議があれば国連の平和活動に参加するのが国際的義務であると考えております。
憲法九条は、国の自衛権の限界を定めるものであって、国連の平和活動を規制するものではないと考えております。憲法の規定でも、前文は国際協調主義を強く打ち出し、憲法九十八条では、一項で、この憲法に反する法律、政令などは無効であると述べた上で、二項では、国際条約、国連憲章などはこの一番の中心だろうと思いますが、これを遵守しなければならないということを言っております。加えて、憲法八十一条の最高裁判所の違憲立法審査権では、条約を除外しております、条約は対象としておりません。
新しい憲法をつくるときには、一層このことを明確にするためにも、国連の平和活動、いわゆる集団安全保障への参加を明記すべきであると思います。
次に、PKOと称せられる国連平和維持活動に触れさせていただきます。
この根拠規定は憲章上ありません。あえて言えば、憲章第一条の平和を維持すること、そのための脅威の防止、除去のため有効な措置をとることにあると言われております。また、第六章の平和的解決と第七章の強制措置の中間だから憲章六・五章だと言う人もいます。
この仕組みの源流は、第一次中東戦争後の、将校が一人一人参加して軍事監視をするということにあるのは事実でありますが、実際は、一九五六年、第二次中東戦争後の、スウェーデン人のハマーショルド事務総長、そしてピアソン・カナダ外相など、いずれもノーベル平和賞を受けた人を中心に、世界の英知の結集としてつくり上げたものであって、国連憲章上に明確な規定こそないけれども、世界平和のためには非常に重要な仕組みであると考えています。
特に、そのときの原則で、今言われているような停戦合意とか、強制的措置はいけないというふうに言われておりますが、大事なもう一つは、国際性ということが強調されております。それは、P5という国だけでなく、広く世界の国に参加してもらいたいということを訴えているのであり、多くの国が現在参加しているのもその結果だと思います。
現在、この伝統的PKOは任務を拡大して、さらに変質して、重武装、強制武力行使などを行うケースも出てまいりましたが、我が国は、この活動の意義を十分わきまえて、積極的に参加すると同時に、PKOの本来のあり方、強制的措置とかあるいは強制的武力行使というものの行き過ぎを是正するようなことで貢献していくべきだと思います。
最後に一言でございますが、国際的行動に参加する以上、武器使用も国際水準であるのは当たり前のことであるということを申し上げて、私の発言を終わらせていただきます。
中
中
谷
谷川和穗#7
○谷川小委員 私は、二、三点、特に藤井先生に質問をさせていただきたいと思います。
今の国連の平和活動について最後のところでお触れになられましたが、そのときに、集団安全保障体制といいますか、この考え方にもお触れになられました。
まさに、自衛権の中に集団的とか固有的とかそれはないのであって、ただ、日本の国においては、自国が攻撃を受けていないにもかかわらず云々というのが入るわけですが、集団的自衛権の場合には、最も信頼する相手国に攻撃があった場合のことを言っているのであって、自国に攻撃があろうがなかろうがそれは全く関係ないにもかかわらず、この解釈が出ました。
これは内閣法制局の解釈であって、したがって、憲法に関係ない話かもしれませんが、藤井先生は、これから先、国連の平和活動に対して、国連は集団的自衛権の大変まとまった国際機関だと私は思っていますが、日本のこの解釈、自国に攻撃を受けないときでも集団的自衛権で出られるというふうに御判断なさっているのか、それともこの解釈を変えるべきなのか。変えるとすれば、内閣法制局の判断を変えるべきなのか、それとも思い切ってそこは憲法でしっかり書くべきなのか、どちらをお考えになっているか、それをちょっとお尋ねしたいと思います。
この発言だけを見る →今の国連の平和活動について最後のところでお触れになられましたが、そのときに、集団安全保障体制といいますか、この考え方にもお触れになられました。
まさに、自衛権の中に集団的とか固有的とかそれはないのであって、ただ、日本の国においては、自国が攻撃を受けていないにもかかわらず云々というのが入るわけですが、集団的自衛権の場合には、最も信頼する相手国に攻撃があった場合のことを言っているのであって、自国に攻撃があろうがなかろうがそれは全く関係ないにもかかわらず、この解釈が出ました。
これは内閣法制局の解釈であって、したがって、憲法に関係ない話かもしれませんが、藤井先生は、これから先、国連の平和活動に対して、国連は集団的自衛権の大変まとまった国際機関だと私は思っていますが、日本のこの解釈、自国に攻撃を受けないときでも集団的自衛権で出られるというふうに御判断なさっているのか、それともこの解釈を変えるべきなのか。変えるとすれば、内閣法制局の判断を変えるべきなのか、それとも思い切ってそこは憲法でしっかり書くべきなのか、どちらをお考えになっているか、それをちょっとお尋ねしたいと思います。
藤
藤井裕久#8
○藤井(裕)小委員 今おっしゃったとおり、日本の解釈は他国と違うんですよ。今おっしゃったように、自国が攻撃されていないにもかかわらずというのが、日本の法制局といっていいのか、日本の政府といいましょうか、解釈なんです。
NATO条約第五条にはそういうことは書いてないんです。他国が攻撃されたときは自国の攻撃とみなすんですね。そういう意味で、私はNATO条約的な考えの方が正しいと思っているのが一つ。
ただし、さっき申し上げましたように、集団であれ個別であれ、自衛権は抑制的でなければならない。だから、日米安保は、私はあれは集団的自衛権の発動だと思っておりますが、これも極東に限定していますね。ですから、そういうものも含めて、やはり地域的限界というものは厳格にして、一部の方が、集団的自衛権を認めるとアメリカまで行くんじゃないかという、ちょっとはっきり言えば非常識な議論も出ているようですが、そこがまさに、集団であれ個別であれ、限定的、抑制的でなければいけない、こういうことであります。
それからもう一つちょっと、国連の平和活動とおっしゃいましたが、これは全く次元の違うものだと考えております。国連の決議によって、日本は主権をある程度譲渡して、そして国連の指揮下で活動する活動であるというふうに考えております。
この発言だけを見る →NATO条約第五条にはそういうことは書いてないんです。他国が攻撃されたときは自国の攻撃とみなすんですね。そういう意味で、私はNATO条約的な考えの方が正しいと思っているのが一つ。
ただし、さっき申し上げましたように、集団であれ個別であれ、自衛権は抑制的でなければならない。だから、日米安保は、私はあれは集団的自衛権の発動だと思っておりますが、これも極東に限定していますね。ですから、そういうものも含めて、やはり地域的限界というものは厳格にして、一部の方が、集団的自衛権を認めるとアメリカまで行くんじゃないかという、ちょっとはっきり言えば非常識な議論も出ているようですが、そこがまさに、集団であれ個別であれ、限定的、抑制的でなければいけない、こういうことであります。
それからもう一つちょっと、国連の平和活動とおっしゃいましたが、これは全く次元の違うものだと考えております。国連の決議によって、日本は主権をある程度譲渡して、そして国連の指揮下で活動する活動であるというふうに考えております。
谷
谷川和穗#9
○谷川小委員 ありがとうございました。
もう一つ国連に関してお尋ねしたいんですが、国連の安全保障理事会の機能についてお尋ねをしたいんです。
実は私はテポドン騒ぎのことを今思い起こしているんですが、あのときに日本の国連大使は小和田さんであって、小和田さんは、日本の安全保障上これは非常に大きな問題だということで、安全保障理事会で北朝鮮に対する決議を取りつけようと思って大変努力をされましたが、ついにそれは成功しませんでした。中国が大変大きく反対をしたわけです。
現在、日本は非常任理事国じゃございませんけれども、北朝鮮の核の問題が浮上してきていますが、アジアから選ばれている非常任理事国はシリアとパキスタンですが、シリアは北朝鮮からミサイルを買っている国ですし、パキスタンはウラン濃縮技術を提供したのではないかと見られている国です。さらに、アフリカから選ばれている三国のうち、北朝鮮を承認している国もございます。
したがって、核の問題で議論をしているときにもいろいろ問題が起こるかもしれませんが、ましてや、拉致問題みたいなものと一緒になって、アジアの安全を守るときに安全保障理事会が本当に動けるのかどうか。
安全保障理事会の中には、ポケットビトーという有名な言葉がありますが、すべての国は、特にビトーを持っている五カ国は、自国の国益に従って行動しているのであって、したがって、安全保障理事会の組織とか今までの慣習だとか慣行、そういったものを改めない限り、すべて自国の安全を安全保障理事会の決議に任せるということは、国家としては話の通るべきものではない。堂々と主張はすべきであるけれども、国連中心外交と一口に言うけれども、十分考えて行動しなきゃならぬことだと私は思うんです。
したがって、さっき先生がお話しになられました、日本の国の安全保障の基本原則を憲法に規定することが大事だと言われたことは、必ずしも国連だけの問題じゃなくて、日米関係もそうだし、それから日本と近隣諸国の関係もそうなのであって、それにプラスしての国連ということであって、現在の日本の国の憲法の、特に九条のあの解釈というようなものは、これは何とかしないと、日本が近隣諸国から信頼を受けることもできないし、ましてや、信頼醸成機関をつくることも非常に難しいと思いますが、その点についていかがでございましょう。
この発言だけを見る →もう一つ国連に関してお尋ねしたいんですが、国連の安全保障理事会の機能についてお尋ねをしたいんです。
実は私はテポドン騒ぎのことを今思い起こしているんですが、あのときに日本の国連大使は小和田さんであって、小和田さんは、日本の安全保障上これは非常に大きな問題だということで、安全保障理事会で北朝鮮に対する決議を取りつけようと思って大変努力をされましたが、ついにそれは成功しませんでした。中国が大変大きく反対をしたわけです。
現在、日本は非常任理事国じゃございませんけれども、北朝鮮の核の問題が浮上してきていますが、アジアから選ばれている非常任理事国はシリアとパキスタンですが、シリアは北朝鮮からミサイルを買っている国ですし、パキスタンはウラン濃縮技術を提供したのではないかと見られている国です。さらに、アフリカから選ばれている三国のうち、北朝鮮を承認している国もございます。
したがって、核の問題で議論をしているときにもいろいろ問題が起こるかもしれませんが、ましてや、拉致問題みたいなものと一緒になって、アジアの安全を守るときに安全保障理事会が本当に動けるのかどうか。
安全保障理事会の中には、ポケットビトーという有名な言葉がありますが、すべての国は、特にビトーを持っている五カ国は、自国の国益に従って行動しているのであって、したがって、安全保障理事会の組織とか今までの慣習だとか慣行、そういったものを改めない限り、すべて自国の安全を安全保障理事会の決議に任せるということは、国家としては話の通るべきものではない。堂々と主張はすべきであるけれども、国連中心外交と一口に言うけれども、十分考えて行動しなきゃならぬことだと私は思うんです。
したがって、さっき先生がお話しになられました、日本の国の安全保障の基本原則を憲法に規定することが大事だと言われたことは、必ずしも国連だけの問題じゃなくて、日米関係もそうだし、それから日本と近隣諸国の関係もそうなのであって、それにプラスしての国連ということであって、現在の日本の国の憲法の、特に九条のあの解釈というようなものは、これは何とかしないと、日本が近隣諸国から信頼を受けることもできないし、ましてや、信頼醸成機関をつくることも非常に難しいと思いますが、その点についていかがでございましょう。
藤
藤井裕久#10
○藤井(裕)小委員 まず、今の国連の仕組みが、さっきダンバートン・オークスの話を申しましたが、要するに、アメリカのルーズベルトとイギリスのチャーチルと中国の蒋介石とソ連のスターリンでつくり上げたものなんですね。ですから、相変わらず日本は今敵国です。そういう仕組みの根幹は直さなきゃいけないということは、あらゆる場を通じて努力すべきだと思います。
だが同時に、理事国のあり方、これもお話ありましたが、拒否権というものが、特に一国ということになりますと、ただの一国だということになると、どうしても利益で動くことが多いと思いますね。本当に世界の良識として行動していただきたいんだけれども、一国の利益になることは間々あることだと思うのです。そういう意味において、私は、拒否権というものは今の仕組みを変える必要があるということと、常任理事国というのはまだ戦勝国の世界ですね、P5は。そういうことなども含めて、これから、私は、一部の人が国連の機能は低下したよと言うけれども、そうあってはならないし、そのときには、こういう問題もあわせて、関係諸国とよく協力してやっていかなければならないと思うのです。
特に、核だとかテロだとかいう問題は、こういう外敵が侵入してきたときの話とは全然違うんですね。それを、今そういう仕組みがないから、いや、テロのときはあれは後方支援だからいいとか、はっきり言えば、憲法のすき間と御自身がおっしゃったようなことになっているわけですが、そうじゃなくて、こういう問題は外敵が侵入してきたときとは全然違うんだという、やはり新しい仕組みをつくらなければいけないというふうにも思っております。
それから、憲法の中で安全保障のことをいろいろ書くときには、私は、やはり国連は非常に大事だから、これは明記しなければいけないと思うのです。国連の平和活動というものが非常に大事であるということは明記して、これに参加するんだ、憲法の今の九条の解釈はだめだと。だめだという書き方はありませんけれども、そういう前提に立って、国連の平和活動を明記する必要があると思います。いろいろな民間の方の中には、三項を入れて、国連の平和活動を三項で書けという御議論もありますが、そういう技術的な手法はともかくといたしまして、何らかの形で今お話の出たようなことを明記する必要があると思っております。
この発言だけを見る →だが同時に、理事国のあり方、これもお話ありましたが、拒否権というものが、特に一国ということになりますと、ただの一国だということになると、どうしても利益で動くことが多いと思いますね。本当に世界の良識として行動していただきたいんだけれども、一国の利益になることは間々あることだと思うのです。そういう意味において、私は、拒否権というものは今の仕組みを変える必要があるということと、常任理事国というのはまだ戦勝国の世界ですね、P5は。そういうことなども含めて、これから、私は、一部の人が国連の機能は低下したよと言うけれども、そうあってはならないし、そのときには、こういう問題もあわせて、関係諸国とよく協力してやっていかなければならないと思うのです。
特に、核だとかテロだとかいう問題は、こういう外敵が侵入してきたときの話とは全然違うんですね。それを、今そういう仕組みがないから、いや、テロのときはあれは後方支援だからいいとか、はっきり言えば、憲法のすき間と御自身がおっしゃったようなことになっているわけですが、そうじゃなくて、こういう問題は外敵が侵入してきたときとは全然違うんだという、やはり新しい仕組みをつくらなければいけないというふうにも思っております。
それから、憲法の中で安全保障のことをいろいろ書くときには、私は、やはり国連は非常に大事だから、これは明記しなければいけないと思うのです。国連の平和活動というものが非常に大事であるということは明記して、これに参加するんだ、憲法の今の九条の解釈はだめだと。だめだという書き方はありませんけれども、そういう前提に立って、国連の平和活動を明記する必要があると思います。いろいろな民間の方の中には、三項を入れて、国連の平和活動を三項で書けという御議論もありますが、そういう技術的な手法はともかくといたしまして、何らかの形で今お話の出たようなことを明記する必要があると思っております。
谷
谷川和穗#11
○谷川小委員 では、最後に一問。
レーニンはかつて半国家という言葉を使いましたが、ちょっとこれと間違えてはいかぬものだから、最近、半主権国家という言葉がある、半分しか主権がないという国家。これは宗主国に対して持っている主権に対して言われている言葉ですが、日本の国は、現行憲法で見ると、半主権国家じゃないのか。特に安全保障の問題を鋭く指摘する方はそういうことを言われますが、これについて何か御感想があれば、最後にお尋ねをいたして、私の質問を終わります。
この発言だけを見る →レーニンはかつて半国家という言葉を使いましたが、ちょっとこれと間違えてはいかぬものだから、最近、半主権国家という言葉がある、半分しか主権がないという国家。これは宗主国に対して持っている主権に対して言われている言葉ですが、日本の国は、現行憲法で見ると、半主権国家じゃないのか。特に安全保障の問題を鋭く指摘する方はそういうことを言われますが、これについて何か御感想があれば、最後にお尋ねをいたして、私の質問を終わります。
藤
藤井裕久#12
○藤井(裕)小委員 一番初めに申し上げたことに尽きているのでございますが、みずからの国はみずから守るという規定は憲法上何にもございません。侵略戦争はやってはいけないよということと、みんなと仲よくしなさいということは書いてあります。しかし、みずからの国はみずから守ることが崇高な使命であるということは一言も書いてありません。
今谷川委員のおっしゃったこととイコールかどうかは別といたしまして、冒頭申し上げたように、自衛のためには崇高な使命である日本人の責務を果たさなければいけないということを新しい憲法には書くべきだというのが私どもの考えであります。
この発言だけを見る →今谷川委員のおっしゃったこととイコールかどうかは別といたしまして、冒頭申し上げたように、自衛のためには崇高な使命である日本人の責務を果たさなければいけないということを新しい憲法には書くべきだというのが私どもの考えであります。
谷
中
今
今野東#15
○今野小委員 民主党の今野東でございます。
初めに、私に与えていただいている時間、十分でございますから、近藤先生、藤井先生にちょっと考え方をお尋ねして、その後は私の発言とさせていただこうと思っております。
まず、近藤、藤井両先生にお尋ねしたい点でありますが、この延長国会ではイラク特措法を議論しておりまして、まさに本日採決されようとしているわけでありますが、その法案の柱は、自衛隊をイラク復興支援のために海外派遣することにあります。政府の説明では、自衛隊が米英部隊の後方支援に徹して、活動は非戦闘地域に限るために、海外における武力行使を禁じた憲法の規定には抵触しないというふうになっております。
しかし、イラク現地の情勢は、果たして非戦闘地域が存在するのかどうか非常に疑わしいものであります。小規模の戦闘が多発する状況で、アメリカ軍兵士の死者数は、三月二十日の開戦から七月一日までに二百人を数えております。特に、五月一日の大規模戦闘の終結を宣言してからの死者は、私の確認しているところですが、六十三人と、連日死者を出しているわけです。事実上、戦闘は終結していないわけですね。
このような状況下では、非戦闘地域に限って自衛隊を派遣するから憲法違反ではないという理論はどう考えても成り立たない。小泉政権がこのような憲法九条の解釈を続けていくことは立憲主義国家としてゆゆしき事態ではないかと思っているわけであります。
特に憂慮すべきなのは、このつじつま合わせとも言える原因がアメリカの圧力にあることです。国際協調を軽視して、軍事力により自国の利益を実現しようとする現アメリカ政権の要求に引きずられるように日本の外交、安全保障政策が決定され、そしてまた、平和憲法が示している日本の平和国家としての外交、安全保障政策がアメリカ政権の要求によってゆがめられているということは、日本の将来に大きな問題を残しかねないと考えております。
この憲法九条の解釈と、そしてつじつま合わせとアメリカの圧力について、両先生はどのようにお考えなのか。時間がありませんので、申しわけありませんが、できるだけ短いところでお話をいただければと思います。
この発言だけを見る →初めに、私に与えていただいている時間、十分でございますから、近藤先生、藤井先生にちょっと考え方をお尋ねして、その後は私の発言とさせていただこうと思っております。
まず、近藤、藤井両先生にお尋ねしたい点でありますが、この延長国会ではイラク特措法を議論しておりまして、まさに本日採決されようとしているわけでありますが、その法案の柱は、自衛隊をイラク復興支援のために海外派遣することにあります。政府の説明では、自衛隊が米英部隊の後方支援に徹して、活動は非戦闘地域に限るために、海外における武力行使を禁じた憲法の規定には抵触しないというふうになっております。
しかし、イラク現地の情勢は、果たして非戦闘地域が存在するのかどうか非常に疑わしいものであります。小規模の戦闘が多発する状況で、アメリカ軍兵士の死者数は、三月二十日の開戦から七月一日までに二百人を数えております。特に、五月一日の大規模戦闘の終結を宣言してからの死者は、私の確認しているところですが、六十三人と、連日死者を出しているわけです。事実上、戦闘は終結していないわけですね。
このような状況下では、非戦闘地域に限って自衛隊を派遣するから憲法違反ではないという理論はどう考えても成り立たない。小泉政権がこのような憲法九条の解釈を続けていくことは立憲主義国家としてゆゆしき事態ではないかと思っているわけであります。
特に憂慮すべきなのは、このつじつま合わせとも言える原因がアメリカの圧力にあることです。国際協調を軽視して、軍事力により自国の利益を実現しようとする現アメリカ政権の要求に引きずられるように日本の外交、安全保障政策が決定され、そしてまた、平和憲法が示している日本の平和国家としての外交、安全保障政策がアメリカ政権の要求によってゆがめられているということは、日本の将来に大きな問題を残しかねないと考えております。
この憲法九条の解釈と、そしてつじつま合わせとアメリカの圧力について、両先生はどのようにお考えなのか。時間がありませんので、申しわけありませんが、できるだけ短いところでお話をいただければと思います。
近
近藤基彦#16
○近藤(基)小委員 現在審議中でありますので、この憲法調査会で中身に立ち入っていいのかどうかというのはちょっと私も判断に迷うところでありますが。
九条との絡みで言えば、私自身の試案としては、そういったことに適切に対処するために変えましょうと申し上げておったのですが、現段階でのイラクの復興支援、アメリカに引きずられるとおっしゃいましたけれども、前段はどうかわかりません、戦争のきっかけ、当初というのはわかりませんが、現在の復興支援という形で申し上げれば、アメリカ、イギリスだけではなく、いろいろな国で今、復興支援に赴いているわけであります。ですから、そういうことを考えれば、国際的な復興支援ということだけに関して言えば、国際的な合意のもとで今支援を行っている、そこに日本が当然参加をすべきであるだろう。
果たして自衛隊にそれだけのニーズがあるかどうかというのは、相手国と言われている国が今あるのかないのかという議論もまた一つあるのですけれども、国際的な協調で支援をしている各国からのニーズが恐らくあるだろう。例えば、水だとか物資の輸送だとかあるいは医療だとか、いろいろなことがまだまだ、ああいう国ですから当然足りないわけでありますので、そういった足りないところを補うべく、しかも、完結できる自衛隊が行くのが一番いいんだろうと思っております。
戦闘地域かどうかというのは、私自身が行ってみて調査したわけではありませんが、与党の調査団の話では、非戦闘地域というものは存在すると話を聞いておりますので、そういったところでの復興活動に尽力すべきだろうと私は思っております。
この発言だけを見る →九条との絡みで言えば、私自身の試案としては、そういったことに適切に対処するために変えましょうと申し上げておったのですが、現段階でのイラクの復興支援、アメリカに引きずられるとおっしゃいましたけれども、前段はどうかわかりません、戦争のきっかけ、当初というのはわかりませんが、現在の復興支援という形で申し上げれば、アメリカ、イギリスだけではなく、いろいろな国で今、復興支援に赴いているわけであります。ですから、そういうことを考えれば、国際的な復興支援ということだけに関して言えば、国際的な合意のもとで今支援を行っている、そこに日本が当然参加をすべきであるだろう。
果たして自衛隊にそれだけのニーズがあるかどうかというのは、相手国と言われている国が今あるのかないのかという議論もまた一つあるのですけれども、国際的な協調で支援をしている各国からのニーズが恐らくあるだろう。例えば、水だとか物資の輸送だとかあるいは医療だとか、いろいろなことがまだまだ、ああいう国ですから当然足りないわけでありますので、そういった足りないところを補うべく、しかも、完結できる自衛隊が行くのが一番いいんだろうと思っております。
戦闘地域かどうかというのは、私自身が行ってみて調査したわけではありませんが、与党の調査団の話では、非戦闘地域というものは存在すると話を聞いておりますので、そういったところでの復興活動に尽力すべきだろうと私は思っております。
藤
藤井裕久#17
○藤井(裕)小委員 今の点に限定して申し上げた方がいいのかもしれませんが、一つ申しますが、私どもは、国連の決議があって、特にさっきから話が出ていますPKOですね、PKOは、ハマーショルドの時代から、治安維持ということは非常に大きな仕事なんだと。ですから、国連の決議があるならば、そういうものに参加するということは、自衛隊であっても、本当に自衛隊が必要ならば、何の問題もないと私は思っております。
それからもう一つ、アメリカの圧力云々ですが、これは、現実にないと言ったらうそだと思いますよ。ただ、やはり、さっき申し上げましたように、日米安保の話をしました。日米安保は極めて重要な一つの仕組みだと思いますが、それと余り連動させるということがまずいんだと私は思います。日米安保は日米安保でがっちり守っていかなければいけない。しかし、日米安保があるから国際法ルールからやや逸脱してもいいんだというのは論理的におかしいと思います。
あえて加えさせていただきます。アメリカという国は本当は懐の深い国です、非常に懐の深い国なんですね。それはもう少し、二百何十年の歴史から見なければいけないと思います。そういうアメリカというものを長い目で信頼するということは、同盟国として大事なことだと思っております。
この発言だけを見る →それからもう一つ、アメリカの圧力云々ですが、これは、現実にないと言ったらうそだと思いますよ。ただ、やはり、さっき申し上げましたように、日米安保の話をしました。日米安保は極めて重要な一つの仕組みだと思いますが、それと余り連動させるということがまずいんだと私は思います。日米安保は日米安保でがっちり守っていかなければいけない。しかし、日米安保があるから国際法ルールからやや逸脱してもいいんだというのは論理的におかしいと思います。
あえて加えさせていただきます。アメリカという国は本当は懐の深い国です、非常に懐の深い国なんですね。それはもう少し、二百何十年の歴史から見なければいけないと思います。そういうアメリカというものを長い目で信頼するということは、同盟国として大事なことだと思っております。
今
今野東#18
○今野小委員 今の藤井先生の、PKOというのは非常に大事なので、国連のPKOのもとでならば出してもいいのだという発言、これには私も同調するところであります。
以下は私の意見とさせていただきますが、もともと、日本の憲法の根底に流れる思想とアメリカの現政権の思想というのは相入れないものでありまして、アメリカの現政権の思想は力による先制を正当化したホッブズの理論を実践しているものと説明されることがあるわけですね。一方、日本の憲法の流れには、恒久平和のための国際協調主義にそのもとになるところを置いているわけでありまして、これはむしろ、現アメリカ政権がしばしば対立している国連やEUにより近いものではないでしょうか。こういう違いを根本にはらんだままアメリカの政策的な圧力に取り込まれていくということは、決して日本のプラスにはならないと考えます。
今回のイラク特別措置法による自衛隊派遣はその典型であります。大量破壊兵器がいまだ見つかっておりません。アメリカ、イギリス両政府部内において、イラク攻撃前に大量破壊兵器について情報操作が行われた可能性さえも指摘された両国会で調査が行われているときに、なぜ、それらの国が占領していると言える危険な地域に日本の自衛官たちを派遣する必然性、必要があるんでしょうか。
アメリカという国と協調しなければならないということはもちろんであります。アメリカとの協調という点で最も焦点となってくるのは、集団的自衛権の行使の問題です。
集団的自衛権は自然権であるが行使できないという政府解釈は妥当ではないという理由から、集団的自衛権の行使を認めるべきだという議論がありますね。この意見の根底には、日本もアメリカの軍事行動に対して戦力を提供すれば、国際協調の点で評価されるし、より対等な関係をアメリカと持つことができるという考え方があるんでしょう。
しかし、日本は、アメリカ軍に対して、基地の駐留経費として毎年六千億円もの国民の税金を予算として拠出しているわけです。さらに、日米安全保障条約の六条では、「極東における国際の平和及び安全の維持に寄与するため、アメリカ合衆国は、その陸軍、空軍及び海軍が日本国において施設及び区域を使用することを許される。」と、米軍の行動のために、在日駐留軍の使用を認めてもいるわけです。第五条では、日本の領域下への攻撃はアメリカの利益にも反することと明記されておりまして、安全保障条約がアメリカの権益にかなうものであることが認識されているわけです。
したがって、現在の安全保障条約が片務的だと卑屈になる必要は全くないわけであります。そういう中で、これ以上日本がアメリカの国益のために貢献する必要はないとは言いませんが、しかし、そこでは日本という国のより主体的な判断があるべきではないかと考えます。
小泉政権は、立憲主義国家の政権担当者として、日本国憲法の理念と憲法九条をもう一度しっかり胸に刻むべきだと思います。現行憲法が第二次世界大戦での日本の侵略行為と悲惨な結末の深い反省の上に書かれたものであることを決して忘れてはなりませんし、日本の歴史的歩みとしてその経験をしっかり受けとめてこそ、日本の外交、安全保障政策のあり方が見えてくるのだと思います。
憲法九条改正の議論の中には、もちろん安全保障条約を通じたアメリカとの協調を念頭に置いた意見もありますけれども、それとは全く逆に、アメリカの現憲法への影響を断ち切るために改正すべきだという意見もあります。しかし、時の幣原喜重郎首相が非常に強い平和主義的……
この発言だけを見る →以下は私の意見とさせていただきますが、もともと、日本の憲法の根底に流れる思想とアメリカの現政権の思想というのは相入れないものでありまして、アメリカの現政権の思想は力による先制を正当化したホッブズの理論を実践しているものと説明されることがあるわけですね。一方、日本の憲法の流れには、恒久平和のための国際協調主義にそのもとになるところを置いているわけでありまして、これはむしろ、現アメリカ政権がしばしば対立している国連やEUにより近いものではないでしょうか。こういう違いを根本にはらんだままアメリカの政策的な圧力に取り込まれていくということは、決して日本のプラスにはならないと考えます。
今回のイラク特別措置法による自衛隊派遣はその典型であります。大量破壊兵器がいまだ見つかっておりません。アメリカ、イギリス両政府部内において、イラク攻撃前に大量破壊兵器について情報操作が行われた可能性さえも指摘された両国会で調査が行われているときに、なぜ、それらの国が占領していると言える危険な地域に日本の自衛官たちを派遣する必然性、必要があるんでしょうか。
アメリカという国と協調しなければならないということはもちろんであります。アメリカとの協調という点で最も焦点となってくるのは、集団的自衛権の行使の問題です。
集団的自衛権は自然権であるが行使できないという政府解釈は妥当ではないという理由から、集団的自衛権の行使を認めるべきだという議論がありますね。この意見の根底には、日本もアメリカの軍事行動に対して戦力を提供すれば、国際協調の点で評価されるし、より対等な関係をアメリカと持つことができるという考え方があるんでしょう。
しかし、日本は、アメリカ軍に対して、基地の駐留経費として毎年六千億円もの国民の税金を予算として拠出しているわけです。さらに、日米安全保障条約の六条では、「極東における国際の平和及び安全の維持に寄与するため、アメリカ合衆国は、その陸軍、空軍及び海軍が日本国において施設及び区域を使用することを許される。」と、米軍の行動のために、在日駐留軍の使用を認めてもいるわけです。第五条では、日本の領域下への攻撃はアメリカの利益にも反することと明記されておりまして、安全保障条約がアメリカの権益にかなうものであることが認識されているわけです。
したがって、現在の安全保障条約が片務的だと卑屈になる必要は全くないわけであります。そういう中で、これ以上日本がアメリカの国益のために貢献する必要はないとは言いませんが、しかし、そこでは日本という国のより主体的な判断があるべきではないかと考えます。
小泉政権は、立憲主義国家の政権担当者として、日本国憲法の理念と憲法九条をもう一度しっかり胸に刻むべきだと思います。現行憲法が第二次世界大戦での日本の侵略行為と悲惨な結末の深い反省の上に書かれたものであることを決して忘れてはなりませんし、日本の歴史的歩みとしてその経験をしっかり受けとめてこそ、日本の外交、安全保障政策のあり方が見えてくるのだと思います。
憲法九条改正の議論の中には、もちろん安全保障条約を通じたアメリカとの協調を念頭に置いた意見もありますけれども、それとは全く逆に、アメリカの現憲法への影響を断ち切るために改正すべきだという意見もあります。しかし、時の幣原喜重郎首相が非常に強い平和主義的……
中
今
今野東#20
○今野小委員 はい、済みません。
思想を持って憲法作成に当たっていたという事実を考慮すれば、この憲法が日米の合作であるという憲法学者たちの評価は妥当だとは思われます。
現在のように、立憲主義国家の政権につきながら、ぎりぎりまで憲法九条の解釈を曲げ、都合のいい解釈をすることの限界が来ていると私は思います。国民が、日本の安全保障政策は九条を踏まえた平和主義をとるべきなのか、戦争のできる国への変貌を遂げるべきなのか、決断する時期に来ていると思います。小泉政権及び自民党が民主主義と立憲主義を守るというのならば、憲法九条について、またその存廃について発議すべきではないでしょうか。戦争のできる国になるのか、憲法九条を変えるのか、我々は、国民の重大な選択を求めるべきときに来ているのではないかと思います。
時間をオーバーいたしました。失礼いたしました。
この発言だけを見る →思想を持って憲法作成に当たっていたという事実を考慮すれば、この憲法が日米の合作であるという憲法学者たちの評価は妥当だとは思われます。
現在のように、立憲主義国家の政権につきながら、ぎりぎりまで憲法九条の解釈を曲げ、都合のいい解釈をすることの限界が来ていると私は思います。国民が、日本の安全保障政策は九条を踏まえた平和主義をとるべきなのか、戦争のできる国への変貌を遂げるべきなのか、決断する時期に来ていると思います。小泉政権及び自民党が民主主義と立憲主義を守るというのならば、憲法九条について、またその存廃について発議すべきではないでしょうか。戦争のできる国になるのか、憲法九条を変えるのか、我々は、国民の重大な選択を求めるべきときに来ているのではないかと思います。
時間をオーバーいたしました。失礼いたしました。
中
遠
遠藤和良#22
○遠藤(和)小委員 最初に、藤井先生にお伺いしたいんですけれども、大変論理的でわかりやすいお話だったと私は理解いたしました。
ところで、現行憲法の九条に即してお伺いをしたいわけですけれども、九条には、いわゆる戦争の放棄だとかあるいは戦力の不保持だとかあるいは交戦権の否認を明文化しているわけですけれども、この条文をどう考えるかという問題です。
先ほど、お話の中で、国連との関係の問題がありまして、第三項を追加したらどうかというふうな学者の御意見の開陳があったんですけれども、ということは、一項と二項は今のままでも、政府が、例えば集団的自衛権の行使について政治判断をはっきりして、そして安全保障基本法のようなものできちっと担保していけば、憲法の改正は必要ないのではないか。あるいは、一項、二項はそのままに置いておいて三項を追加すれば、国連との関係は明確になる、そういうふうなお話と理解できなくもないんですけれども、憲法第九条について具体的にこのように考えているというお話がありましたら、教えていただきたいと思います。
この発言だけを見る →ところで、現行憲法の九条に即してお伺いをしたいわけですけれども、九条には、いわゆる戦争の放棄だとかあるいは戦力の不保持だとかあるいは交戦権の否認を明文化しているわけですけれども、この条文をどう考えるかという問題です。
先ほど、お話の中で、国連との関係の問題がありまして、第三項を追加したらどうかというふうな学者の御意見の開陳があったんですけれども、ということは、一項と二項は今のままでも、政府が、例えば集団的自衛権の行使について政治判断をはっきりして、そして安全保障基本法のようなものできちっと担保していけば、憲法の改正は必要ないのではないか。あるいは、一項、二項はそのままに置いておいて三項を追加すれば、国連との関係は明確になる、そういうふうなお話と理解できなくもないんですけれども、憲法第九条について具体的にこのように考えているというお話がありましたら、教えていただきたいと思います。
藤
藤井裕久#23
○藤井(裕)小委員 まず、基本的な話、さっきちょっと触れましたけれども、これは日本語じゃないんですね。小説でいえば、日本語の小説ではなく翻訳小説なんですね。これはやはり、そういうことは大したことでないと言う人もいますが、違うと思いますね。
というのは、そういう精神論がもちろんありますが、わかりにくいんですよ。私は、中学生でわかる文章とさっき申し上げましたが、普通の中学生ならだれも間違いなく読めるような文章にしなければならない。それには、翻訳には限界があるということでございます。九条の中に至るところにそういう規定がございますが、一つ一つ言いません。
それから、今の九条は国家の個別の自衛の話なんです。もちろん、個別の中には集団的自衛権は入っております。集団的自衛権というのは、一国家の問題でございます。問題は、今、遠藤さんお話しのように、国連の平和活動をどうするかという話なんですね。これは、本当は別条だと思うんです、本当に憲法を新しくつくるなら。考え方の基本が違うわけですね。
個別の問題というのは、国家主権の問題なんですね。集団安全保障というのは、国家主権の制約なんですね。国連に入ることによって、ある種の国家主権は制約をされているんですね。集団的自衛権は、さっきお話出ましたけれども、どこまでやるかというのは自分の国が決めればいいことなんですね。どこまで出るかというのは自分の国が決めればいい。
これは質的に全然違いますので、どうせ憲法をつくり直すならば、主権の制限である集団安全保障という国連の概念の方と、一国の自衛権であるところの、これは集団も個別も入りますが、一国の自衛の問題というのは本当は違うのじゃないかという感じは持っております。
この発言だけを見る →というのは、そういう精神論がもちろんありますが、わかりにくいんですよ。私は、中学生でわかる文章とさっき申し上げましたが、普通の中学生ならだれも間違いなく読めるような文章にしなければならない。それには、翻訳には限界があるということでございます。九条の中に至るところにそういう規定がございますが、一つ一つ言いません。
それから、今の九条は国家の個別の自衛の話なんです。もちろん、個別の中には集団的自衛権は入っております。集団的自衛権というのは、一国家の問題でございます。問題は、今、遠藤さんお話しのように、国連の平和活動をどうするかという話なんですね。これは、本当は別条だと思うんです、本当に憲法を新しくつくるなら。考え方の基本が違うわけですね。
個別の問題というのは、国家主権の問題なんですね。集団安全保障というのは、国家主権の制約なんですね。国連に入ることによって、ある種の国家主権は制約をされているんですね。集団的自衛権は、さっきお話出ましたけれども、どこまでやるかというのは自分の国が決めればいいことなんですね。どこまで出るかというのは自分の国が決めればいい。
これは質的に全然違いますので、どうせ憲法をつくり直すならば、主権の制限である集団安全保障という国連の概念の方と、一国の自衛権であるところの、これは集団も個別も入りますが、一国の自衛の問題というのは本当は違うのじゃないかという感じは持っております。
遠
遠藤和良#24
○遠藤(和)小委員 集団的安全保障措置の概念、哲学と集団的自衛権は全く違う概念だと私も思うんですね。そして、九条は集団的安全保障の概念については全く触れていないわけですから、憲法が全く触れていないことですから、何ら憲法違反にはならないし、むしろ憲法の前文が期待している話ですよね。ですから、これは憲法の改正をしなくても、当然、国連の集団安全保障措置に対して日本が積極的に参加するというのは、憲法が期待している行為ではないかな、このように私は思うわけですけれども、それでも改正が必要なんでしょうか。
この発言だけを見る →藤
藤井裕久#25
○藤井(裕)小委員 前文は、非常に次元の高い国際協調主義が書いてあると思います。この欠陥は、はっきり言えば、日本は日本人が守るということが一言もないという点でありまして、今、遠藤さんのお話は、そっちではない、こっちの方の話でございますから、その点はどうかということですが、極めて抽象的なんですね。もう少しやはり具体性がないと、基本理念は大事だと思います、基本理念と同時に、だから、国連の平和活動に参加するんだというあたりまで書かないと、やはりそれこそ中学生はなかなか理解しないのではないかと思います。
この発言だけを見る →遠
藤
藤井裕久#27
○藤井(裕)小委員 さっき申し上げたように、本質が二つは全然違いますから、できれば別の条がいいんだと思います。今申したように、憲法は国家主権の発動の話でございます。そして、それが制約的であるということは、私はぜひやらなきゃいけないと思います。国連の平和活動というのはある種の国家主権の制約でございますから、これは全然別の次元ではないかというふうに考えております。
この発言だけを見る →遠
遠藤和良#28
○遠藤(和)小委員 ありがとうございました。
では、近藤さんにお伺いしたいんですけれども、近藤さんのお話の中で、九条について、それぞれどういうふうに考えていったらいいかという具体的な提案があったわけですけれども、国連との関連についてのお話がなかったように思うんですね。
例えば、お話があった、人間の安全保障であるとか、あるいは人道上の安全保障というのが若干国連との関係があるのかなとは思うんですけれども、これは条文上、国連との関係というものは意識的に明文化すべきであるという考え方は持っていらっしゃるんでしょうか。
この発言だけを見る →では、近藤さんにお伺いしたいんですけれども、近藤さんのお話の中で、九条について、それぞれどういうふうに考えていったらいいかという具体的な提案があったわけですけれども、国連との関連についてのお話がなかったように思うんですね。
例えば、お話があった、人間の安全保障であるとか、あるいは人道上の安全保障というのが若干国連との関係があるのかなとは思うんですけれども、これは条文上、国連との関係というものは意識的に明文化すべきであるという考え方は持っていらっしゃるんでしょうか。
近
近藤基彦#29
○近藤(基)小委員 私個人としては、人間の安全保障という部分で、これは国連の正式な機関ではないんですが、人間の安全保障委員会という緒方貞子さんたちがお始めになった有識者の集まりという、大変国連に深いかかわりのある人たちばかりの集まりであります。
そこの中でも、政治力あるいは武力、そういうものを包括的に、戦略的に行わなければいけない、それをグローバルな形で、国境を越えた形でという、ある種の国連軍を一つ進めたような形のものを提唱していらっしゃるということで、私自身は、未来志向の、より強靱な平和主義を形として提示をしていくならば、この部分を強調して国際貢献をしていくという意味で、あえて条項としてうたうというよりも、そういった国際貢献を行うに当たっての理念としてこの部分を、私自身、今はっきりと国連に関してどういうふうな条項をうたっていけばいいのか、文言としてちょっとわかりませんが、理念をきちんと見据えた上で、これから検討しながら具体的な文言を入れていきたいという意味での御提言であります。
この発言だけを見る →そこの中でも、政治力あるいは武力、そういうものを包括的に、戦略的に行わなければいけない、それをグローバルな形で、国境を越えた形でという、ある種の国連軍を一つ進めたような形のものを提唱していらっしゃるということで、私自身は、未来志向の、より強靱な平和主義を形として提示をしていくならば、この部分を強調して国際貢献をしていくという意味で、あえて条項としてうたうというよりも、そういった国際貢献を行うに当たっての理念としてこの部分を、私自身、今はっきりと国連に関してどういうふうな条項をうたっていけばいいのか、文言としてちょっとわかりませんが、理念をきちんと見据えた上で、これから検討しながら具体的な文言を入れていきたいという意味での御提言であります。