内閣委員会公聴会

1999-07-08 衆議院 全226発言

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会議録情報#0
平成十一年七月八日(木曜日)
    午前九時三十分開議
 出席委員
   委員長 二田 孝治君
   理事 植竹 繁雄君 理事 小此木八郎君
   理事 小林 興起君 理事 萩野 浩基君
   理事 北村 哲男君 理事 佐々木秀典君
   理事 河合 正智君 理事 三沢  淳君
      小島 敏男君    佐藤 信二君
      谷川 和穗君    近岡理一郎君
      虎島 和夫君    桧田  仁君
      平沢 勝栄君    堀内 光雄君
      矢上 雅義君    河村たかし君
      藤村  修君    山元  勉君
      石垣 一夫君    倉田 栄喜君
      塩田  晋君    松浪健四郎君
      石井 郁子君    児玉 健次君
      濱田 健一君    笹木 竜三君
 出席公述人
        慶應義塾大学法
        学部教授
        弁  護  士 小林  節君
        関西大学文学部
        講師      上杉  聰君
        エッセイスト  林  四郎君
        日本大学法学部
        教授      百地  章君
        東京都立大学前
        総長・名誉教授 山住 正己君
        障害児を普通学
        校へ全国連絡会
        世話人
        元中学校教師  北村 小夜君
 委員外の出席者
        内閣委員会専門
        員       新倉 紀一君
    —————————————
委員の異動
七月二日
 辞任         補欠選任
  深田  肇君     辻元 清美君
同月七日
 辞任         補欠選任
  辻元 清美君     深田  肇君
同月八日
 辞任         補欠選任
  石田幸四郎君     石垣 一夫君
  鰐淵 俊之君     塩田  晋君
  深田  肇君     濱田 健一君
同日
 辞任         補欠選任
  石垣 一夫君     石田幸四郎君
  塩田  晋君     松浪健四郎君
  濱田 健一君     深田  肇君
同日
 辞任         補欠選任
  松浪健四郎君     鰐淵 俊之君
    —————————————
本日の公聴会で意見を聞いた案件
 国旗及び国歌に関する法律案(内閣提出第一一五号)
     ————◇—————
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二田孝治#1
○二田委員長 これより会議を開きます。
 内閣提出、国旗及び国歌に関する法律案について公聴会を開きます。
 この際、公述人各位に一言ごあいさつを申し上げます。
 本日は、御多用中のところ御出席をいただき、まことにありがとうございます。公述人各位におかれましては、それぞれのお立場から忌憚のない御意見をお述べいただき、審査の参考にいたしたいと存じますので、よろしくお願いいたします。
 次に、議事の順序について申し上げます。
 まず小林公述人、上杉公述人、林公述人の順に、お一人十五分程度御意見をお述べいただき、その後、委員の質疑に対しお答えをいただきたいと存じます。
 それでは、小林公述人にお願いをいたします。
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小林節#2
○小林公述人 まず、結論を先に申し上げますが、私は、今回の法案を歓迎するものでございます。
 前提としまして、世界の常識に照らしまして、すべての国はそれぞれに国旗と国歌が必要不可欠でございまして、それはもちろん、国家という、あるようでないような存在なものでありますけれども、それを象徴的に示す形が必要だということと、それから、たくさんの国民が一つの国家にまとまっていくための連帯のきずなとして歌が有用であるということであります。
 この君が代と日の丸につきましては、私は法律の専門家でございますが、もう既に慣習法として確立しているという認識をしております。ただ、この慣習法というのは、慣習なるがゆえに文章化されておりませんので、その点に関する無理解か、あるいは意図的な反発があるようで、さまざまなトラブルが現に生じております。こういうトラブルをなくすために、六法全書の中にきちんと入れてしまうということは、今の日本の社会状況において大変有効なことであると考えます。
 よく問題になりますのが入学式と卒業式、御案内のとおりでありますけれども、反対する人は法令上根拠がないといういわばうそを申すわけでありますが、それに対して、国旗・国歌が法典に載れば、それを受けて、文部大臣の学校教育法上の権限で、教育内容を決める権限に基づきまして、同法施行規則とか学習指導要領という、要するに法治主義の筋道を通して現場の責任者に国旗・国歌の使用をきちんと命令することができる。そうすると、現場で揺らがないで事が遂行するという大変大きな効果があると考えます。
 もちろん、これについては、日の丸・君が代が憲法違反であるという立場から抵抗もあるのですけれども、それは、これまた法治国家のルールでありまして、最高裁で違憲判決を受けていないものである以上、現時点では有効なものでありますから、それは自分の信条に合わないからといって暴力的に抵抗するというのはただの公務執行妨害でありまして、法治国家の国民のマナーではないと私は思うわけであります。
 もちろん、その内容についてこの際論及せざるを得ないのですけれども、慣習法として確立するという以上は、それが国民生活の中に確立した慣習であるということと、それから慣習たる内容が、現行法令、この場合憲法でありますが、に違反するものでないということであります。
 よく日の丸と君が代が憲法違反という主張があるのですが、日の丸、これは素直にあのデザインを見ていただければ太陽ないしは日の出でありまして、それ自体は我々が最も敬けんな気持ちで見詰める瞬間でありまして、それ自体に反民主制とか軍国主義とかいうものはそもそもないものであります、長い歴史の中でたまたまそういう間違った使われ方があったということは議論の余地ありだと思いますけれども。
 君が代につきましても、これは明治憲法下におきましては、確かに皇国日本であったわけです。それは当時の国体であるわけでありますから、天皇の治世の長きことをというのは当時としては極めて当たり前のことでありまして、それが国民主権国家に変わった今、政府が明確に見解を出して意味を確認、変更しようとしている以上、それはそれで、私の見解ではありませんが、一つの見識であると思っております。つまり、国民主権国家における主権者国民の総意に基づいてその位置にある象徴天皇をいただくこの国日本の永続を願う、これは極めてまともな一つの解釈であると思います。
 もちろん、明治憲法下との関連もあるのですけれども、ただ、君が代というのは、それ以前の、古来さまざまに歌い継がれてまいりました日本の文化の一つのような歌でございますから、その中で、長い歴史の中で一時期いわゆる誤用がなされた、ないしは、当時としては正当な用い方でありますが、そのことをとらえて、それがすべてのように否定するのは私は無理があると思います。
 そういう意味で、大事な点は、今回こうして成文化するに当たって、ここ、すなわち国会、すなわち国民主権国家日本における主権者国民の直接代表たる最高機関国会で有権解釈を定めてしまえばいいわけでありまして、すなわち、附帯決議という方法などもあると思いますけれども、簡単な話は、現にこうして議事録に残っていくことが重要なわけであります。
 つまり、この法案の趣旨説明を政府がなすって、それを国会各院が了承して可決したという事実が議事録に残る以上、この日の丸・君が代の意味はこういう意味なんですということが有権的に決まるわけです。これは最高裁で覆されない限りはそういうものになっていくわけです。そういう手続は、私は大変重要であると思っております。そういう意味でも、今回、改めて日の丸と君が代を国会で審議して形に残すということは、極めて重要であると考えます。
 ちょっとついでに論及いたしますけれども、もちろん戦争責任の話は、これはもうわかりやすい話でありまして、さきの大東亜戦争に日本が入っていったこと、そして、負ける過程までにいろいろなことをしたということについてはいろいろ議論のあるところでありますが、あるとしても、それはむしろ世界史の大きな流れの中で我が民族がいかなる罪を犯したかどうかの問題でありまして、旗とか歌の責任ではそもそもないと私は思うのですね。それに、逆にそういう形で責任を転嫁してしまうことの危険性を私はむしろ感じます。
 それから、これで小中高校の入学式、卒業式で日の丸・君が代が使いやすくなると私どもが申しますと、それすなわち強制である、良心の自由という話が必ず出てまいります。
 ただ一つ、これは二つの強制があるわけで、一つは、現場の責任者である校長、これは公務員、それから、その校長の指揮下に入っている現場の教員にとって強制であるか。これは、公務員として禄をはんでいる以上、公務員は当然国法体系に忠誠を誓って採用されているわけでありまして、また、そうでなければ困るわけでありまして、そういう意味では、有効な法令に基づく指揮命令が上官から来るわけでありますから、それに背く権限はその公務員たる立場にはない。率直に言うと、嫌ならおやめになればいい、あるいは抵抗して処分を受ける、これしか選択肢はないわけであります。これは公務員である以上、強制とは言いません。
 もう一つは、一般市民に対する強制、つまり、きょうは旗日だ、旗を上げろとか、敬礼しろとか、そういうことがあるかないかが問題なわけでありまして、今回の法案はそういうことが全くございませんので、ただ歴史的慣行をここで確認的に、国旗はこれですよ、国歌はこれですよとしたものでありまして、そういう意味では、いかなる国民に対する強制もないですから、憲法上の良心の自由の問題にはそもそもならないわけであります。嫌な人は、そういう儀式に必要上参加するならば、そのとき国旗に向かって敬礼をしないとか、それから、国歌を人が歌っているときに歌わない、口を閉じている、これが本来憲法上の良心の自由。つまり、嫌なことは強制されない。
 ただ、日の丸があって、かつ国歌が歌われている場所に私がいることが嫌だというのは、だからそれを排除するというと、これは大変な問題が起きるわけであります。要するに、私のような国民はどうなるのか。つまり、当然にこういう場には国旗や国歌があってしかるべきと思って行く。そうすると、暴力的にそれが取り払われている。そのこと自体は、私にとって極めて不快で良心に反することでありまして、そういう場にいることを強制されている多数派の良心に対する侵害が起きているわけです。
 これをどう説明するかと申しますと、要するにこれは権利乱用の話でありまして、憲法十九条に良心の自由はあるけれども、同じく十二条に人権の乱用も禁じられているわけでありまして、そういう意味で、私が嫌だからあんたもやめろというような、法令上根拠があるものを排除する、そのたぐいの良心はない。これを良心というならば、それは単に過度な我の張り方でありまして、それすなわち良心の自由の誤用、乱用のたぐいであります。これまでそういう状態があったわけです。
 そういう意味で、これからは、別の言い方をしますと、私どものような静かな多数派が儀式に参加して異様な光景に我慢しないで済む、むしろ多数派国民の良心が解放されることになるわけです。そういう意味でも、私自身も子を持つ親としてそういうところへ出ることがあるわけでありまして、すごくそれは個人としてうれしくも思うわけであります。
 最後にもう一点だけ。
 本来でありましたら、先生方お気づきのとおり、国旗とか国歌というのは、諸国の先例に照らせば、むしろ憲法の中に規定されていてしかるべきことだと思うんですね。つまり、分類すれば、これは法律事項ではなくて憲法事項であると思うんです。
 そういう意味では、最近非常に政治で動くことが多いのですけれども、憲法調査会がとりあえず衆議院に、どうも参議院にもできるようです。まさに国権の最高機関で、憲法改正発議権をお持ちの国会で初めてまともに憲法論議ができる場ができるということは、その中の重要課題の一つとして国旗・国歌の問題もあるわけでありまして、まずは今回は一歩前進ということでございますが、その点にも、一人の国民として、あるいは憲法学者として、期待を表明させていただきます。
 以上でございます。ありがとうございました。拍手
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二田孝治#3
○二田委員長 ありがとうございました。
 次に、上杉公述人にお願いをいたします。
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上杉聰#4
○上杉公述人 お手元に資料が三種類あります。一つはカラーのものです。それから、あとはレジュメと資料がついておりますので、これにのっとって話をさせていただきたいと思います。
 私は戦後生まれでございます。昭和二十二年、一九四七年生まれです。そのような意味では、いわゆる日の丸・君が代に対する非常に強い反発もなければ、強い愛着心もないという世代でございます。
 そういう立場から、きょう、何をしゃべるのかということになりますけれども、実は、アジアの戦争の被害者の方たちを毎年お招きして、十四年間やってまいりました。話を伺って、二千万人を超すと言われるアジアの方たちの追悼を行ってまいりました。
 そういう中で、実は、この日の丸・君が代の問題について正面からお話を伺ったことはありません。というのは、余りにも当然のことで、聞くこともないだろうというふうな思いでおりました。それで、今回公述人に指名されまして、急遽、私の身辺にありますアジアの方たちの日の丸・君が代に対する思いを少しまとめてみました。それがきょうお持ちした資料です。
 アジアの人たちの思いを入れるということについては、これを決めるのは日本人であるからという意見が当然出てくると思います。それは私は全くそのとおりだろうと思います。また、日の丸・君が代であるかどうかは別として、国旗・国歌を制定するということについては、意味があることだろうとは思います。
 ただ、この国旗・国歌、特に国旗は国際的な友好ないし交流の場で使われるものです。そこでマイナスのイメージとか、これは嫌いだとかという反発をもし生むようなものであるならば、これはふさわしくないだろうというふうに思うわけですね。
 そういう意味で、一体これがアジアの方たちにどのように受け取られているのかというものを少し紹介させていただきたいと思います。
 資料の一枚目には、これは、元慰安婦の金学順さんという方が日本においでになったときのお話です。全部読む時間がありませんので、「日の丸を見て……」の第三段落目以降を読んでみたいと思います。
  そして私は機内で「日本の飛行機に乗って日本に行って、私は何をしようとしているのか」と自分自身に問いかけました。そして途中、機内の窓から外を見ますと、赤い日の丸に似たもの
いわゆる日本航空のマークですが、それが目に入り、これを日の丸と彼女は感じてしまったわけですね。
  それを見た瞬間、五〇年間の私の人生を目茶苦茶にした日本にたいする思いが一気にこみ上げてきて、胸をしめつけるような感じがしました。軍人たちがどこへ行っても日の丸を掲げて、「天皇陛下万歳」と言いました。日の丸という言葉を聞くだけでも、頭の中が腐ってしまうほど嫌な思いがする体験をしてきたのです。そのことがよみがえり、いまでも日の丸を見ると胸がドキドキするのです。
  皆さんは私の思いがどのような思いなのか、たぶん想像がつかないものだと思います。
  飛行機で日の丸を見て、過去の嫌なことが思い出されて、非常に胸が苦しかったのです。
  従軍慰安婦として犬よりもひどいような仕打ちをされて、あっちこっち引きずりまわされた私は、日の丸は好きになれません。これから何がおこっても、何があったとしても私のこの思いが解きほぐれることはないと思います。
このようなことを語っておられます。実は、彼女はこの後一日このショックで動けておりません。
 そして、このような目で見てみますと、ハルモニ、おばあさんたちがかいた絵があるんですね。それが絵はがきになっております。これは私の家にもあったものですが、それをぱらぱらとめくってみましたら、必ず日の丸が描かれているのです。
 例えば、一ページ目の左に、金順徳さんの「連行される船の中」。船に日の丸がついております、ここに本当についていたかどうかは別として。あるいは、右上の李さんの船にも日の丸がついております。
 船というのは、彼女たちがここに乗せられたならばもう引き返すことができない、強制の手段なんです。海を越えて移動するということが、彼女たちに対する大変強い強制力として作用しました。その船に日の丸がくっついているわけです。
 右下に、姜徳景さんの「憤り」。その憤りは、まさに日の丸に短刀を刺すという形で向けられております。その下には、恐らく軍人ないし天皇であろうと思いますけれども、そういう表現が行われているわけですね。
 それから、こういうことが行われます背景には、資料の1’のところを見ていただきたいと思いますが、これは、ソウルにあります景福宮の正面に、植民地支配に伴って日の丸が掲げられているわけです。
 つまり、日の丸というのは主権を剥奪しましたということの表明であったわけです。そのような意味で、日の丸というのは、韓国の方、朝鮮の方にとってみるならば、これは植民地支配の象徴であるわけです。
 これがまず韓国の典型的な例だろうと思います。
 それから、この絵では二枚目に行ってみたいと思います。
 これは中国の南京大虐殺を描いた絵です。左の上には、まさに首を切ろうとしている軍人の背後に日の丸が輝いております。これをかいた人は戦後世代であるということを覚えておいていただきたいと思います。
 それから、右上に、これは日本で南京大虐殺美術館を主宰しておられます郭さんという方の絵ですけれども、ここにも日の丸が描かれております。これも戦後世代です。
 その下に、傳さんという方がかいておられる、これは「同胞を忘れるな」という、この左の二枚はいずれもニューヨークにいる中国人の人たちがかいたものなんですけれども、中国の同胞を忘れないという警告として、日の丸、これは海軍旗だと思いますけれども、その上で燃えている中国の民家、そしてその上に首を切られた人の姿が描かれている。
 これが、中国の方たちの日の丸に対してのイメージの一端だろうと思います。
 そして、それが単に一部分でないということは、資料の2を見ていただきたいのですけれども、これは二年前に、一万五千人の中国の青年たちに対して、日の丸などに関するアンケートをとったものです。
 非常に大きなものですので縮小をしておりますが、ちょうど左から二行目の真ん中のところに、中国語で、太陽旗、いわゆる日の丸を見て、これを軍国主義の暴行の印と思いますかというふうな質問に対して、はいという人が七六・四%、大体そうだという人が二〇・二%、合わせて九六・六%の人が日の丸に対して侵略時代を思い出すというふうに答えているわけですね。この回答した平均の年齢が、左の下にチェックをしておりますが、二十五・二歳です。戦後世代がこのように感じているということです。
 なぜこのように若い世代まで感じるのかといいますと、その次を見ていただきたいと思います。これは当時の朝日新聞の記事ですが、南京に入っていったときの姿は、ページの右上では日の丸が三つ描かれております、下でも三つです。それから左には、国民政府の上に輝く日章旗という形で描かれております。これも、中国を侵略したシンボルとしてとらえられているということです。
 そしてもう一つ、マレーシアの現在の南洋商報と呼ばれる新聞をちょっと御紹介しておきたいと思います。これもカラーでしたが、残念ながらそれを持ってくることができませんでした。日の丸が法制化される、君が代が法制化されるのは、日本の軍国主義の亡霊が消えていないからだ、こういうふうな解説が書かれております。見出しが出されております。その後二枚について、これの訳が載っております。
 その次に3’を見ていただきますと、これはシンガポールの高校の歴史教科書の一部から持ってきましたけれども、日本が占領しますと日の丸が各地に掲げられたということを教科書できちんと教えているわけですね。そして、その下に教科書の記述があります。
 このように、現在にもわたって、アジアの方たちが、戦後世代も含めて、日の丸に対して非常に不快感を持っているわけです。これは日の丸の責任ではないという面もありますけれども、こういう負のイメージ、マイナスのイメージが日の丸にはくっついております。
 そして、若い世代は、このような日の丸を掲げる日本に拘束をされるわけですね。ということは、そのような負担を若い世代は背負い込むということになります。そういうことを国会で簡単に決めてよいのかどうなのかという問題があります。
 私たちは、あるいは若い世代は、アジアの人たちと仲よくする権利を持っております。それを持ち出せば不快感を覚える、それを持ち出せば嫌な思いがわき起こってくるようなものを、私たちが友好や交流の際使うということが得策であるかどうかということです。私たちは、そのような意味では、我々がアジアの人たちと仲よくする権利を、この日の丸を掲げることによって、法制化することによって奪わないでいただきたいということを訴えたいと思います。
 次に、君が代についてですが、政府の御努力がありまして、いわゆる君が代に関するさまざまな解釈が行われております。資料では4になりますけれども、これは、憲法の国民主権の原則との調整を行おうという御努力だろうと思います。
 それで、「代」というのは国であるという解釈まで出されておられますが、大漢和辞典、これは諸橋轍次さんの日本で一番権威のある漢和辞典のどこを見ても、「代」を国というふうに解釈するものはありません。ただ一つだけ、七番目に「國の名。」というのがあります。これは、戦国時代の趙にあった代国という固有名詞です。そうしますと、この代国の歌をつくるわけではないだろう、それが君が代ではないだろうと思います。
 あるいは、歌詞を見ますと、「君が代は 千代に八千代に」です。こういう流れから見ますと、国というふうにもしこの「代」を解釈するならば、歌詞さえ意味が不明になってまいります。これは大変なミスリードであろうというふうに思います。
 百歩譲って、このような憲法との調整が行われたとしても、そうするならば、この君が代の意味は、天皇を象徴とする国がいつまでも続くようにという意味の歌詞になります。ならば、憲法改正も同時に保障しているのが憲法であります。この九十六条違反ということにならないでしょうか。
 いずれの意味でも、君が代を国歌と制定することには憲法違反の疑いが濃厚です。
 結論を申し上げたいと思います。
 日の丸の評判について、特にアジアの方たちの気持ちをもっときちんとリサーチすべきではないかと思います。
 実は、きょうお持ちしたようなこのような資料というものは私の手元にあったものです。きちんとしたことはどこでも行われておりません。もし、ある企業が会社のシンボルマークを決めようとするならば、きちんとしたリサーチをされるだろうと思います。つまり、会社の社員がどのように感じるかということだけではなく、対外的にどのようなイメージをもたらすのかということを真剣になって考えるだろうと思います。そのようなリサーチが行われるべきだろうと思いますし、そういう努力をぜひお願いしたいと思います。国会でぜひそのようなイニシアチブをとっていただきたいと思いますし、我々市民の側もこれに協力をしたいというふうに思っております。
 次に、君が代については、憲法違反の疑義が濃厚です。これに対するきちんとした議論が行われる必要があるだろうと思います。そして、もしそうでないという解釈が行われるならば、また、時の政治によってころころと解釈が変えられていって、いずれ憲法違反になっていくという危険性をどのように排除するのかという歯どめの議論を行うべきではないかというふうに思います。
 そして、この議論のきっかけになりましたのは、何といっても広島の校長先生の自殺の件ですけれども、そういう問題から少し離れて、資料の八枚目を見ていただきたいと思います。
 これは、昨日、全国の日本の公立学校に子供たちを送っている父母の方たちの在日コリアン保護者会が出された声明です。左のページの下から三行目を見ていただきたいと思いますが、「最近、京都市においても、日頃から「君が代」を歌いたくないと意思表示している在日コリアンの子どもに対して、小学校の校長先生が全校児童の前で、強圧的に「立ちなさい」と命令して、いやがる子どもに起立を強いる、という事件が起こっています。恫喝してまで子どもを屈服させようとするのは、いったい何故なのでしょう。」
 現在、学習指導要領によって、国旗の掲揚と国歌の斉唱を指導するものとするということが書かれております。ここに法的な裏づけが行われるならば、これは飛躍的な強制力として作用するだろうと思います。このような悲鳴を上げる子供たちが各地で出てくるというのは、恐らく明白なことだろうと思います。
 教育というのは、先生と子供の場で決め、進められることです。そこに教育行政が日の丸の問題で強権的に入っていくということがあるならば、これは先生と子供の関係を壊します。そのようなことが絶対にないように、国会の御努力をお願いしたいと思います。
 以上です。拍手
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二田孝治#5
○二田委員長 ありがとうございました。
 次に、林公述人にお願いをいたします。
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林四郎#6
○林公述人 私、こういうような席に出席したことが初めてでございまして、多分ふつつかなことがあるのではないかなと思いますが、お許しいただきたいと思います。
 初めに、私の現在の気持ちを率直に申し上げますと、今回の日の丸を国旗に、君が代を国歌に法制化という考え方に私は賛成いたします。いろいろ申し上げたいことがありますが、せっかくこのような機会ができたということで、私はあえて賛成をしたいと思っております。
 理由は、先ほど小林先生がるる御説明なさったことと私の考えていることは全く同じでございまして、ダブった御説明をしてもしようがないと思いますが、これによって、日の丸あるいは君が代に直接かかわっておられる皆さんは、これからは踏ん切りをつけて、自信を持ってかかわることができるのではないかなという点で、大変結構なことだというふうに思っております。
 昨年は、長野オリンピックとかワールドカップ、ワールドサッカーと、久しぶりに実は日の丸・君が代に接する機会がありました。この久しぶりにというところが実は問題なんですが、それで私も大変感激をいたしました。
 実は、お恥ずかしいことですが、私のうちには日の丸がありません。それから私の友人、知人に聞いても、だれ一人日の丸を自宅に持っておりません。自分のうちの玄関に掲げたこともございません。ましてや、一九四五年、戦争が終わってからこの方、君が代を自分の口で歌ったことなどは一度もありません。それから、直接歌っているのを聞いたこともありません。多分ここにおられる皆さんも御質問されると、おれもそうだという方がおられるかもしれませんが、事ほどさように日本の国旗・国歌には戦後どうして日常性というものがなくなってしまったのかなということが、実は私は残念でならないのです。
 実は、オリンピックとか、サッカーの中田君が表彰式で口を動かさなかったということで一部マスコミに書かれたことから、彼はちょっと痛めつけられたようでございますが、それを見ていて、その後三月に入って高校の卒業式で、また国歌と日の丸についての管理者側と先生あるいは生徒との間にトラブルがあったのを見まして、これは困ったことになったなと私は胸を痛めておりました。
 そこで、実は「サピオ」という月二回刊の雑誌があるのですが、この雑誌は現在大変売れ行きがよくて、私は総合論評誌と言っておりますが、特に北朝鮮関係なんかの記事は出色だというふうに思っております。その「サピオ」に対して、この際国旗と国歌について思い切って大特集を組まないか、そして日本の国旗・国歌はどうあるべきかということを皆さんで反対、賛成両論を入れて論じ合ってみないかということを申し上げましたところが、すぐに賛成が得られまして、ちょうど今、初夏のこの七月から取材を開始しまして八月二十日ころに発売になった号で、大特集をやりました。
 これは全体としては大変好評だったのですが、その特集の口火を切ったのは私でありまして、私の論旨は後で申し上げますが、高校生が本当に日の丸と君が代が嫌ならば、この際新しい国歌と新しい国旗をつくったらどうだろうかという提案を実はその雑誌の中ではしたのでございます。
 もう少し細かく申し上げますと、私は直接首都圏の十五歳から十七歳前後の高校生にお会いしました。そして、一つ一つ実は面接してお話を伺ったのです。
 そのときの状況をちょっと述べさせていただきたいのですが、まず第一に、あなたは日の丸をどこで見たことがありますかと質問しますと、これはすぐに答えが返ってこないのです。返ってくると、長野オリンピック、サッカー、それからそういえば学校の入学式にかかっていたな、卒業式の日にも校門にかかっていたなというくらいで、例えばニューヨークとかロンドンなんかのビジネス街のビルに星条旗とかユニオンジャックが翩翻と翻っているような、生活の中での日常性というのは、どうも日本の国旗にはないなという印象を受けたのです。
 ところで、あなた方の家には日の丸の旗がありますかと質問しますと、これはだれも答えません。そして変な顔をしているのです。そして、一人の子だけが、私のうちにはありますと、これは女の子でしたが。そして、それはどんな意味ですかと聞くと、日の丸の「丸」は、あれは太陽です、それから君が代の「君」は天皇ですと明快に答えました。どこで教わったのと聞きましたら、両親が教えてくれました、こういう返事がありました。それ以外の約八十名、私が面接した子供たちのだれ一人、私のうちには国旗はありません、手でさわったこともありません、こういう答えが返ってまいりました。まことに残念な気持ちが実はしたわけでございます。そして、こういう質問はこちらから誘導的に、意図的に質問しない限り、ほとんど黙っていて返事が出てこない。
 そして最後に、あなた方は国旗とか国歌というのに余り関心ないのと聞くと、関心はありません、興味もありません、こういう答えが返ってくるのです。これは、これが教育の問題だと一口で言ってしまうといろいろまた問題があろうかと思いますが、家庭のしつけの問題もあるのじゃないかというふうに私は実は思っております。
 特に、国旗についてはあの旗でいいんじゃないのという意見が多いのですが、君が代については、ダサいとか、あのメロディーが嫌だとか、低音で出る歌って歌いづらいんだよなとか、こういう言葉が返ってまいります。もっと元気の出るような、明るくて楽しい国歌はないんですかと。それは君たちがつくったらいいんじゃないかと私は実は言ったわけですが、いやあというような感じで、なかなか明快な返事は返ってまいりません。
 そのうちに、一人の子が手を挙げまして、国歌なんて必要なんですか、こういう質問がありました。え、国歌なんて必要ないと思うのと言ったら、私は国歌なんて必要ないと思うよ、こういう返事。そうか、そうすると、例えば堀江謙一さんがヨットに乗って一人でアメリカに行ったとき、日本の国旗をつけていないと実はサンフランシスコの港に入れないんだよ、世界的にはそういう規則になっているよという説明をすると、ええっと、びっくり仰天するわけです。つまり、あれ、そのような基礎的なことも学校で教えていないのかなというふうに実はその瞬間思いましたし、それから、全体として、今の高校生、私がお会いした高校生が特別なのかもしれませんが、国旗・国歌に対しては極めて無関心であったというのがまず第一印象でございます。
 数年前に、財団法人の日本青少年研究所というところがありまして、国旗・国歌に対する意識と態度調査という、皆さん御存じかもしれませんが、したことがあります。その中で日米の高校生の国旗と国歌に対する意識調査をしておりますが、自分の国の国旗・国歌に対して必ず起立すると答えた高校生の割合は、日本が二五・六%に対して、アメリカは九七・二%という数字が出ております。また、外国の国旗・国歌に対しても必ず起立する、この高校生の割合は、日本は一七・三%に対して、アメリカは九三・四%という高率を示しております。これはもちろん、皆さん御存じのように、アメリカの学校では、州によって違いますけれども、毎朝、自分の教室に入ると星条旗に向かって誓いを唱える時間、本当に一分くらいですが、忠誠心を示すセレモニーがあるのです。こういう形で子供のときから鍛えられた子供と、ほとんどいいかげんにほったらかされた日本の教育現場とでは、私はかくも大きな差が出るのではないかなというふうに思っております。
 それからもう一つは、私が会った高校生に、よその国の旗を侮辱する行為をした場合、日本では刑法第九十二条というのがあって、処罰されるんですよという話をすると、これは相当びっくりしていました。そんな法律があるんですかと言うのです。ただ、私は、今回もし国旗が法制化されるとすれば、日本の国旗に対してもきちんとした処罰規定なり取扱規定というのができないと、ちょっとまずいのではないかなという気がしております。
 実は、先ほど私のうちには日の丸の旗がない、あるいは国歌を歌ったこともないというふうに申し上げましたが、日常性がほとんどない。そうすると、日本の国旗とか国歌というのは一体どこで使われているのかということになりますと、非常にはっきりしているのは、この周辺にあります公官庁。
 実は私、きょうここに入ったときに、この中に日の丸は絶対あるだろうなと思っておりましたら、ありませんでした。衆議院の面会所の入り口あたりもじろじろ見たのですが、ここにも日の丸がありませんでした。なぜでしょうか。この上にはあると思いますが、なぜでしょうか。多分僕は、戦後、日本は変なアレルギーにひっかかってしまって、何となく国旗と国歌を避けて通りたいという気持ちがあるんじゃないかなという危惧感を持っております。
 私は仕事の関係で、実は、議員会館の議員さんのところには今まで何百回と足を運んだ経験がありますが、議員さんのあの執務室と言っていいのかお部屋の中に、日の丸の旗を掲げてある方はわずか数人程度で、ほとんどの方の部屋には国旗を掲げていない。これが外国へ行きますと、外国といいましてもアメリカへ行きますと、どの部屋にもきちんと国旗がかかっております。これは議員さんが、せめて国旗の前で国家と国民への忠誠を示すくらいの、つまりパフォーマンスをしているのだろうと思いますが、どうも日本の国会議員さんにはパフォーマンスが少な過ぎるのではないか。もっと堂々と国旗・国歌に対するパフォーマンスをされたら、もっと日常的なものに転化していくのではないかな。こう言うとまたいろいろ御批判があろうかと思いますが、私はそう思っております。
 そこで、長くなりますから最後にしますが、長いこと、この日本の国旗・国歌に対して真正面から批判し、反対されてきた方たちが大勢おられます。私はかねがね不思議に思っていたのですが、なぜその方々は反対されるだけで、具体的にかくあれという日本の国旗と国歌を御提示なさらないのかというのが、どうしても私は理解できないのです。このような重要なところにその方たちが、おれたちが考えている日本国旗はこれだ、おれたちが考えている国歌はこれだというのを提示されると、より一層議論は深まるのではないかなというふうに私は思っておりますが、残念ながら、今、マスコミ関係の情報を見ている限りにおいて、そういう準備がなされていないのではないかなと、非常に私は残念に思っております。
 以上でございます。拍手
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二田孝治#7
○二田委員長 ありがとうございました。
 以上で公述人からの御意見の開陳は終わりました。
    —————————————
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二田孝治#8
○二田委員長 これより公述人に対する質疑に入ります。
 質疑の申し出がありますので、順次これを許します。平沢勝栄君。
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平沢勝栄#9
○平沢委員 自由民主党の平沢勝栄でございます。
 三人の公述人の皆さん方には、大変お忙しい中御出席いただきまして、それぞれのお立場から貴重な御意見をお述べいただきまして、まことにありがとうございました。
 時間が限られていますので、早速質問に入らせていただきたいと思います。
 御案内のとおり、きのうまで地方の公聴会が開かれたわけでございまして、私も沖縄と広島の公聴会に出席させていただいたわけでございます。沖縄では、沖縄戦という悲しい悲惨な体験に基づいたいろいろな御発言もございました。また、広島では、部落解放同盟あるいは教職員組合が教育の現場にいろいろな形で介入し、事実上教育を左右しているというような話もございました。賛否両論いろいろあったわけでございますけれども、いずれにしましても、国旗と国歌、君が代・日の丸が国民の皆さん方の間にほぼ定着しているということは、私自身も毎日選挙区を駆けずり回って、そして地域の方々のいろいろな御意見を聞かせていただいて、これは間違いないなという感じがしております。
 しかし一方で、先ほど上杉公述人からございましたように、君が代・日の丸に強い拒否感といいますか、抵抗感といいますか、あるいは嫌悪感といいますか、こういったものを持っている方もこれは事実ございます。しかし、問題は、こうした反対の意見がとりわけ教育の現場で、実力で自分たちの主義主張を通そう、そして式典を妨害する、あるいは式典の変更を迫るというような形で行われているということは、大変残念なことでございます。
 小林公述人からございましたとおり、学習指導要領で決まっているわけで、これには法的拘束力があるということになっているわけでございます。また、学校の校長先生の言うことに教職員は従わなきゃならない、これは地方公務員法ではっきりと決められているわけでございます。本来なら、学校でこうした混乱、もちろん話し合いは行われるでしょう、しかし最後には、こうした混乱が起こるということはあり得ないはずでございますけれども、現実には広島で、あるいは東京の国立で、いろいろなところで一部の方々の妨害の実力行使が行われることによって、さまざまな対立、混乱が教育の現場で起こっているわけでございまして、そうしたことから今回の立法化ということになったわけでございます。
 そこで、小林公述人にお聞きしたいと思います。
 学習指導要領、法的拘束力のある慣習法で既に定着しているものを新たに立法化する、その意味というのは、先ほどもちょっとお述べくださいましたけれども、この辺についてもう一度、繰り返しで恐縮でございますけれども、お述べいただけませんでしょうか。
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小林節#10
○小林公述人 これは慣習法に関する理解の問題だと思うのですけれども、要するに、君が代や日の丸が嫌いな人は、法的根拠はないと言い張るんですね。
 これは法学概論になってしまいますけれども、慣習法というのは、御案内のとおり、法例という法律に根拠がありまして、要するに、確立された慣習であって現行法体系と矛盾しないということを条件に認められているのでありますが、ある意味では一般の人に見えにくいものですから、だれかが、日の丸・君が代、法的根拠はないじゃないかと言うと、何となく、ああそうだなという話になってしまう。情けないのは、そういうことを現場の校長先生などもよく御理解いただいていなかったようでありまして、何か、反対者と対等な話し合いに入って悩んでしまう。
 それが今度、はっきりここで法制化されますと、六法全書に明文で載りますから、そうすると、学習指導要領、もちろん最高裁判例で法的効力は先生おっしゃるとおりありますし、そうすると、指揮命令系統がはっきりしている中で、具体的な指揮命令の根拠が今度の法律でできますから、法的に何一つ不安がない。そういう意味では、現場の執行責任者が堂々と対応できる、そして変な反論に対して、ほら、これと言える、そういう効果があるということでございます。
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平沢勝栄#11
○平沢委員 これまで学校の現場では、とりわけ入学式、卒業式などで、君が代・日の丸の実施をめぐって大変な対立といいますか混乱が続いてきたわけでございまして、こうした不毛な対立、混乱を防ごうというのが今回の立法の大きなねらいでございますけれども、反対の方々は、法的拘束力のある学習指導要領を認めない、あるいは、地方公務員法三十二条で「職員は、」「上司の職務上の命令に忠実に従わなければならない。」こういうふうにはっきり規定しているわけでございまして、こうした規定にも従わない。先ほど小林公述人がおっしゃられましたけれども、もし嫌ならやめればいいわけで、あるいは抵抗して処分を受ければいいわけでございまして、石原知事がよく言われることですけれども、みんなで決めたことはたとえ嫌なことでも従う、これは民主主義の基本的なルールでございまして、このルールを守らなかったら社会なんか成り立ちませんし、秩序も保てないわけでございます。
 一部の反対の人たちは、法的拘束力のある学習指導要領に決まっていてもそんなものは認めませんよ、地方公務員法三十二条に決められていてもそんなものは従いませんよと。あたかも学校の中が、私からすれば、例えば国立市なんかもそうですけれども、国立市で、ほんの一部ですよ、一部の人たちが学校に行って、実力で式典の日の丸の掲揚を反対する、校長先生は混乱を恐れてやめる、これはもう本当の、一言で言えば反対派の暴力以外の何物でもないと思うのです。
 こういう混乱が今現実に起こっているわけですけれども、今度法律に定めることによってこういう混乱がますます拡大するという見方と、混乱がおさまる、恐らく鎮静化するという見方と、両方あるわけでございますけれども、小林公述人の御意見をお聞かせいただけますでしょうか。
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小林節#12
○小林公述人 反対の方たちはいわばおどしのように、別に強制でも何でもないのですけれども、こういう強制的なものを持ち込むと抵抗が高まって混乱が広がりますよとおっしゃるのですけれども、これはもう道筋は見えておりまして、まず、先ほど私が御説明申し上げたように、現場の校長先生が自信を持って対応できる、教育委員会のバックアップも強くなる、そして、こういう議論がありましたから、一種国民教育効果がありまして周りの人々が冷静になってくる。そういう中で本当に最後まで頑張ったら、それはその方のそれこそ法に反して罰を受ける自由になってしまうわけでありまして、そういうことが多少あるかもしれませんが、そういう中で落ちつくところに落ちついていくだろうし、また、そういう、混乱が起きるぞというおどしに屈すべきではないと私は思っております。
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平沢勝栄#13
○平沢委員 もう一つ小林公述人にお聞きしたいと思うのです。
 現実に各地で入学式、卒業式で君が代・日の丸の実施が、一部の人たちの、暴力的な行為も含まれるのですけれども、そういった形で式典が妨害され、そして君が代の斉唱、日の丸の掲揚が実力で阻止されているわけでございます。
 一部の人たちはそういう考えかもしれませんけれども、君が代・日の丸を使った式典をやってもらいたいという子供たちもいっぱいいるわけです。そして保護者もいっぱいいるわけです。そして、それは学習指導要領に決まっているのです。それを一部の人たちの暴力行為で式典の変更を余儀なくされているという今の学校教育の現状、これは多数の人たちの思想、良心の自由を妨害しているのではないでしょうか。ヤジ今こちらから、そんなことはないと言いますけれども、それは詳しいことを知らないからですよ。
 では、国立を見てください。例えば国立では、ことしの入学式、卒業式、一部の人たちが入り込んで、そして日の丸を校長室から実力で持っていっている、あるいは国旗を、学校に上げるものを、校長先生の行く手を妨害して国旗掲揚をさせないという実力の妨害が起こっているのです、現実に。それは、後でもしあれだったらいつでも差し上げます。ですから、その辺についてちょっとお答えいただけますでしょうか。
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小林節#14
○小林公述人 まず現象面からいきますと、立派に公務執行妨害であったり……ヤジ
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二田孝治#15
○二田委員長 私語は慎んでください。
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小林節#16
○小林公述人 あるいは器物損壊であったり、それから公務員同士であれば懲戒事犯であったりするのですけれども、申し上げますが、良心の自由というのは、要するに私たちは自分が理の問題として納得しない、あるいは情の問題として好まない行為を強制されないということであります。しかしそれは、民主主義国家でありますから、法治主義国家でありますから、議論の結果、とりあえず今回はこういこうと国会で決まった法律は守り合うというのがお互いの前提でありまして、違法行為を行う良心の自由はないわけであります。
 ですから、反対運動をすることはいいのです。合法な手段です。つまり言論戦です。でも、現場で腕力を使うというのは、法治国家の市民として、それは有効な法令に対するただの違法行為であります。これは別の言い方をしますと、こうですよね。自由な国家ですから、みんな意見が違って当たり前なんです。でも、一つの共同生活をするために、とりあえずは一定期間これでいこうと決める、決める作業に参加して、自分の方が勝ったら従ってもらうよ、あなたが勝ったら従うよという関係だったはずなんですね。それが、自分の方が納得がいかないときは嫌だといって机をひっくり返すようなのは、これはそもそも民主主義と法治主義の理解が違うと思うのです。
 ですからそういう意味で、これまで私などは黙っている多数派の父兄として、子供の学校のそういう行事などにおいて、そういうものがあって当たり前なところにない不快な環境にいたわけでありまして、むしろ多数派が良心を縛られている。これは民主主義ではなくて、暴力的少数決の世界に入っている。おかしいと思います。
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平沢勝栄#17
○平沢委員 時間がありませんので、上杉公述人に一、二、お聞きしたいと思います。
 先ほどこの写真の資料が配られましたけれども、いろいろな思いの方がアジアにおられることは事実だと思いますけれども、これは日の丸に対する反対というより、恐らくこの方々は日本の今の憲法の象徴天皇制にも反対しているだろうと思いますし、日本に対する抵抗、嫌悪感、結局それを象徴するものとして使っているわけでございます。これは例えば、イギリスがユニオンジャックで世界各地に進出していった、イギリスに反感を持っている人はいっぱいいます、それを象徴するものとして結局旗が使われているわけで、これは日の丸の責任というふうにストレートには言えないわけです。この方々に、では象徴天皇制についてどう思うかと聞いたら、恐らく反対するということを言うだろうと思いますし、日本についてどう思うかといったら、恐らく日本そのものを大嫌いだと言うに決まっているだろうと思いまして、これは旗の責任ということではないのではないかと思いますけれども、それについてはいかがですか。
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上杉聰#18
○上杉公述人 それについて、こう思うということではなくて、具体的に聞いてみられる必要があると思うのですよ。私も今おっしゃったような解釈も一部は可能だと思いますけれども、例えば、先ほどの中国のアンケートを見ますと、やはり日の丸と具体的に何がイメージとして結びつくのかというならば、侵略のときの暴行であるというふうになっているわけですね。ですから、そこには、やはり歴史的なものというのはぬぐい去ることができないだろうと思います。もちろん現在のものもあるかもしれませんけれども、それが一体どのような割合であるのかということについては、まさに国会の責任でもって調査をなさる必要があるだろうと思います。それは極めて高いだろうというふうに私は思います。
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平沢勝栄#19
○平沢委員 時間がありませんので、最後にもう一つ、上杉公述人にお聞きしたいと思います。
 先ほど配られた全国在日コリアン保護者会の資料の中で、京都市において、君が代を歌いたくないという在日コリアンの子供に対して、校長先生が全校児童の前で、強圧的に、立ちなさいと命令した云々という資料が配られました。
 やり方の問題はあると思いますけれども、例えば、私の子供はイギリスの小学校に行きましたけれども、イギリスの小学校でユニオンジャックが上がるときには、私の子供は歌いませんけれども、立つのは当然の儀礼として教えられたわけでございます。この子供が今後、日本はともかく、外国に行って、外国の旗の前で座ったままということになりますと、先ほどの林公述人のお話にもございましたけれども、かえってその子供が、何だろう、マナーも知らない、恥をかくことになるのではないか。ですから、やり方の問題はわかりませんけれども、しかし、無理やり口をあけて歌わせるというのならわかりますけれども、立つというのは、日本はともかく、少なくとも外国に行ったらどこでもやっていることでございまして、そういったマナーというか国際的なルールを学校で教えたのだとすれば、これは当然のことをやったのではないかなという気が私はしますけれども、それについてはいかがでしょうか。
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上杉聰#20
○上杉公述人 在日の方たちは、いわゆる侵略戦争のもとで日本に連れてこられたり、あるいは経済的な破壊を向こうで受けたために日本にやってきたという歴史を持っているわけです。向こうに帰りたくても帰れないという歴史を持っておられます。そういう方たちに対して、言うならば、座るか立つか、それが国際的な儀礼となるかどうかということは別として、これは教育の場です。校長先生が子供たちに対して国をどのように教えるのか、ということを教育しなければならない場です。そこにこのような強権的なやり方で臨むということは日本のイメージを、あるいは国を豊かな気持ちで愛していくということを生み出すかどうかということです。
 そういう意味で、今の議論の中で子供たちへの教育効果ということを考えても、これを強制力として発動されることがあってはならないというふうな材料として先ほどの資料をお持ちしました。
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平沢勝栄#21
○平沢委員 林公述人にもお聞きしたかったんですけれども、ちょうど時間が来ましたので終わります。ありがとうございました。
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二田孝治#22
○二田委員長 次に、北村哲男君。
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北村哲男#23
○北村(哲)委員 民主党の北村でございます。本日は、三人の公述人の方々、どうも御苦労さまでございます。
 早速でございますが、私は上杉公述人に対して若干の質問をまずしたいと思います。
 先ほどから日の丸についてのマイナスイメージのことについてよくお聞きしました。また、このような外国の人たちがかいた絵に日の丸が非常に強烈にかかれていることを見て改めて過去の戦争のことを思い出す次第でございますが、そういう立場から、特に日の丸については、好きじゃないなどの反感のないものを選ぶべきであるというふうなお話もされております。林公述人の方からは、では対案はどうだという話もありましたが、それは後ほどお聞きします。
 ところで、上杉公述人のレジュメの最後に、永六輔さんが「論座」という中で書いておられるものを言い残されたので、それについて私から質問したいと思います。
 すなわち、永六輔さんは、「日本の周りのアジア世界から「いやあ、いい旗になりましたね」「いい歌ですね」と言われるようなものを新しくつくるか、そうでなければ、今あるものをそう言わせるように日本が変わるしかない、と思っています」というふうに書いておられます。
 非常になるほどというふうに私も思うんですけれども、それでは上杉公述人はどのように、恐らく、日の丸については、今選択肢云々という問題ではなくて、日の丸がどうかというふうな形で問われたと思うわけですけれども、そうなると、そうでなければ、今あるものをそう言わせるように日本が変わるしかないということになってくると思うんですけれども、それについて、どのように変わればいいのか、あるいはその変わるための方策についてはどういうふうなことがあるのかということについて、お考えをお聞きしたいと思います。
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上杉聰#24
○上杉公述人 まず前半の問題なんですけれども、いい旗あるいはいい歌を公募する、あるいはそのような法律をつくる余裕さえなく、実際に、日の丸・君が代、これでどうだという議論になっているわけですね。そういう議論が今始まったばかりであって、これをもっと広めていく、そういうことになれば、国会の場でパフォーマンスをして、みんなで決められた国歌をあるいは国旗を守りましょうという雰囲気もつくられてくるだろうと思うんですね。それが強引に進んでいることを非常に恐れるということ。
 もう一つは、今御質問の中心でありますけれども、どのようにすれば日の丸・君が代のイメージを変えることができるか。特に君が代については、これはイメージの問題ではなくて純法律的な問題としてあると思いますけれども、日の丸については、日の丸の法制化の議論と並行して一体何をするかということが問題ではないかという気がするんです。
 つまり、あの侵略と並行して日の丸が使われたわけです。だとするならば、日の丸を法制化する議論と並行して、国会として一体何を行うのか。しかも、ダーティーなイメージが、マイナスのイメージが侵略戦争との関係であるならば、言うならばそれを回復するような措置を国会として検討する、あるいは、検討し始めるということがかわりでなければ、日の丸のイメージが変わっていくということはないだろうというふうに思うわけですね。
 具体的にはそこは国会の方で御検討いただきたいというふうに思いますけれども、例えば、アジアの被害をきちんと調査しようという動きが超党派の議員連盟で進められているというふうに伺っております。そういうことが並行して行われる。あるいは戦後補償。ずっと慰安婦の方たちに対する戦後補償の問題は国連の勧告としても出続けているわけですが、そういうことを御検討いただくとか、何かを抱き合わせにしなければ日の丸のイメージが恐らく変わっていくことはないのではないかというふうに思っております。
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北村哲男#25
○北村(哲)委員 ありがとうございました。
 私自身も、日本のアジアに対する戦後処理が今なお不十分であるというふうには考えております。また、被害を受けられた国の人々に対して、日本は変わったんだという納得を得られる処理が必要だと思っておりますし、しかし一面、将来に対しては、友好関係を新たにつくり出すということも必要であると思っております。
 特に、例えばカンボジアとかバングラデシュにはためく日の丸は、恐らくカンボジアの戦後復興の象徴であり、そしてバングラデシュにはためくものは国際支援の象徴として、恐らくカンボジアやバングラデシュの人たちは日の丸をほとんど平和のシンボルあるいは支援のシンボルとして受け取っておることもまた事実であろうと思っておりますので、日本の外交関係がそのような形に発展するということを私は望んでおるわけでございます。
 ところで、君が代と日の丸の法制化の動機が世羅高校の校長先生の死であったことが官房長官によって明らかにされておりますけれども、先日沖縄での公聴会を行いました。そこで、私どもの推薦した福地曠昭さんという沖縄人権協会の理事長さんの公述人が、法制化の動機を校長先生の自殺とされていることは間違いである、死へ追い込んだのは指導要領による強制であるし、解決の方法は現行の指導要領から法的拘束力を取り除くことですというふうにはっきりと言っておられたということが印象的でありました。
 この論法でいきますと、法制化によって法的拘束力を与えることは、強制をさらに強めて同じような悲劇が逆にふえるんではないかというふうな考えも成り立つと思いますし、そのように言っておられる方も数々いらっしゃいます。上杉先生も、指導要領の緩和がない限り法制化は強制力につながるというふうな危惧を先ほど表明されました。
 私は、ちょっと極論なんですけれども、日の丸・君が代が教育現場に緊張をもたらして、子供たちや先生方がそのはざまで方向性を失って、またある種のレッテルを張られたりするということの方が被害が大きいような気がします。
 先生のおっしゃる指導要領の緩和とはどういう意味なのか。私は、はっきり言って、そんなものはもうなくしたらどうなんだろうかというふうな考えも持っておるわけですけれども、先生のお考えを聞きたいと思います。
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上杉聰#26
○上杉公述人 学習指導要領について、私は法的な拘束力をとにかく外すべきだろうというふうに思います。文部省がそういうものをつくってはいけないとかいうことまで言えるかどうかということについてはわかりませんが、少なくとも法的な拘束力は外すべきだろう。
 特に、いわゆる教育というものは、教育現場における先生と子供たちの対話の中で進められることです。そこに法的な措置が入っていけば、これは当然ぎくしゃくしてくるということが一つあります。
 それともう一つは、卒業式であれ入学式であれ、それは教育の場なんだということを考えていただきたいと思うんです。そこで日の丸や君が代が強制的に行われていくということは、教育の隅々にまでそういう強制が働いていくということになります。
 特に、内心の自由といいますか、良心の自由といいますか、我々は思想の自由ということを一応憲法によって保障されているわけですけれども、国歌に対して、国旗に対してどのような態度を示すべきなのかということについて、それは諸外国にはいろいろと作法があるだろうと思います。日本では、言うならばそういうものを我々がどのようにしてつくり出していくのかという過程にあるんだろうというふうに思うわけですね。それを、言うならば内心の自由を十分保障しながら、どのような合意を、コンセンサスを国内的につくり上げていくのかということが一番重要な問題だと私は思いますし、最も内心の自由が保障されるべき教育現場で強制力が、これを混乱と言われております、私はこれが結果として混乱になるかスムーズにいくかどうかは存じ上げませんけれども、そこで言うならば内心の自由が、良心の自由がどのように保障されるのかということを一番真剣に考えていただきたいなという希望を持っております。
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北村哲男#27
○北村(哲)委員 どうもありがとうございました。
 それでは、林公述人にお伺いしたいと思います。
 今私が御質問したいのは定着しているかどうかという問題でありますが、先ほどから先生は、御自身も国歌君が代を歌ったこともないし日の丸を掲げたこともない、普通の人もほとんどそうだ、学校へ行ってもほとんど知らないというふうな言い方をされました。事実、私自身もそうでありますが。
 そういう状態で、片っ方では日の丸・君が代は既に定着しているんだというふうなことが言われております。私は、それは一つの論法というかロジックにすぎないのかなという気もするんですが、先生のお考えとして、今のような状態、アメリカなら子供が九〇%起立する、しかし日本では一七%しかしない、君が代の歌詞を知っている人はほとんどいないというふうな状態を、これが日の丸・君が代が定着しているというふうに言っていいものかどうか、その点についてのお考えをお伺いしたいと思います。
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林四郎#28
○林公述人 私は定着しているというふうに考えておりますが、その定着の仕方というのは、まず公官庁には、地方どこへ行っても日の丸が掲げられております。それから、国際的なスポーツ競技とかイベントとか外国の公賓等が来られるときには必ず日の丸が出てまいります。そういう意味で定着しているというふうに考えておりますが、一般の家庭、昔のように、戦前、私たちが子供のころは日本じゅう多分どんな家にも日の丸はあったと思いますし、それからまた、学校に行きますと朝礼で必ず君が代を歌った経験がございますが、そういうような形で今日国旗・国歌が定着しているというのとはちょっと違うと思います。
 多分それは、マッカーサーの指令といいますかあれで、日本から一時国旗が姿を完全に消しました。皇居とか国会議事堂とか四カ所くらいは残されたわけですが、その後二年ぐらいたってから日本の各家庭でも国旗を使ってよろしいというおふれが出たんですけれども、その段階ではもう日本人は完全に去勢されたような状態になっていて、私も実は軍隊から帰ってきて日の丸を焼いてしまいました。その理由は、憲兵が来て、日の丸を持っているとしょっぴかれるよという流言飛語のようなものが流れまして、これはやばいというので、写真から軍服から軍刀まで全部焼却した経験がございます。その後遺症が僕は今なお日本の中に続いているのではないか。私は、これはマッカーサー・マインドコントロールとしばしば書いておりますけれども、依然として日本の中にはマッカーサー・マインドコントロールがあって、何となく日の丸・君が代を避けて通りたいという空気があることだけは事実ございます。
 しかし、現実に公官庁その他を見ますと、日の丸は定着しているというふうに考えてよろしいのじゃないかなというふうに思っております。
 以上でございます。
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北村哲男#29
○北村(哲)委員 私も何と言っていいかわからぬ、選択肢がないといいますか、日の丸しかないんですから、しかもいろいろな場面で日の丸が使われていることは事実ですので、そのような評価も結構だとは思います。
 ところで、もう時間がありませんので、小林公述人に一点だけ。
 慣習法の問題でございますが、成文法というのは、ない状態からあるものをつくり出すために立法事実あるいは法源とかそういうものでつくられるものですけれども、この問題は、いわば慣習法的にもう既に存在する。慣習法の方が成文法よりも法源は強い、あるいは立法事実は強いというのが普通の考えだと思うのですけれども。
 というのは、逆に言うと、成文法は、ないところからあるものをつくるわけですから、逆に、ある状態、または、それこそ政権がかわればころっと変えることも自由にできる。慣習法はそうはいかないわけですね。ですから、むしろ成文法にする方が弱いというか、では政権がかわったらころっと変えますよと。慣習法はそうはいかないです。政権の交代とは関係なく存在します。
 その点について、成文法にするとかえって弱くなるのではないか、政争の材料にされてしまうのではないかということの危惧というか考えも成り立つと思うのですが、先生はどのようにお考えでしょうか。
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