憲法調査会

2003-07-09 参議院 全94発言

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会議録情報#0
平成十五年七月九日(水曜日)
   午後一時開会
    ─────────────
  出席者は左のとおり。
    会 長         野沢 太三君
    幹 事
                市川 一朗君
                武見 敬三君
                谷川 秀善君
                若林 正俊君
                堀  利和君
                峰崎 直樹君
                山下 栄一君
                小泉 親司君
                平野 貞夫君
    委 員
                愛知 治郎君
                荒井 正吾君
                景山俊太郎君
                近藤  剛君
                桜井  新君
                椎名 一保君
                世耕 弘成君
                常田 享詳君
                中島 啓雄君
                中曽根弘文君
                服部三男雄君
                福島啓史郎君
                松田 岩夫君
                松山 政司君
                江田 五月君
                川橋 幸子君
                高橋 千秋君
            ツルネン マルテイ君
                松井 孝治君
                魚住裕一郎君
                高野 博師君
                山口那津男君
                宮本 岳志君
                吉岡 吉典君
                松岡滿壽男君
                大脇 雅子君
   事務局側
       憲法調査会事務
       局長       桐山 正敏君
   参考人
       流通経済大学法
       学部教授     植村 秀樹君
       帝京大学法学部
       教授       志方 俊之君
       財団法人平和・
       安全保障研究所
       理事長      渡辺 昭夫君
    ─────────────
  本日の会議に付した案件
○日本国憲法に関する調査
 (平和主義と安全保障
 ―憲法と自衛権、自衛隊)
    ─────────────
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野沢太三#1
○会長(野沢太三君) ただいまから憲法調査会を開会いたします。
 日本国憲法に関する調査を議題といたします。
 本日は、「平和主義と安全保障」のうち、「憲法と自衛権、自衛隊」について、流通経済大学法学部教授の植村秀樹参考人、帝京大学法学部教授の志方俊之参考人及び財団法人平和・安全保障研究所理事長の渡辺昭夫参考人から御意見をお伺いした後、質疑を行います。
 この際、参考人の方々に一言ごあいさつを申し上げます。
 本日は、御多忙中のところ本調査会に御出席をいただきまして、誠にありがとうございます。調査会を代表いたしまして厚く御礼を申し上げます。
 忌憚のない御意見を承り、今後の調査に生かしてまいりたいと存じますので、よろしくお願いいたします。
 議事の進め方でございますが、植村参考人、志方参考人、渡辺参考人の順にお一人二十分程度御意見をお述べいただきまして、その後、各委員からの質疑にお答えいただきたいと存じます。
 なお、参考人、委員ともに御発言は着席のままで結構でございます。
 それでは、まず植村参考人にお願いいたします。植村参考人。
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植村秀樹#2
○参考人(植村秀樹君) 本調査会で意見を述べる機会を与えていただきましたことに感謝申し上げます。
 私は、これまで、戦後の再軍備過程とその後の防衛政策及び日米安保体制の展開について実証的な研究を試みてまいりました。研究成果はいまだ乏しいものではありますが、それに基づいて私の意見を述べさせていただきます。
 まず初めに、憲法についての私の考えを簡単に述べておきたいと思います。
 ただし、前文と九条については既に本調査会で論じられておると聞いておりますので、私は法律の専門家ではありませんので、あくまで一政治学徒の考えであるということを御承知おきいただきたいと思います。
 お手元に私の著書の一部が資料として配付されているかと思いますが、そこに簡単に書きましたように、もはや私は文理解釈で九条を考えるということは限界に達しているのではないかというふうに思っております。最高裁判所もいわゆる統治行為論ということで判断を回避しておりますけれども、こうなりますと、結局はこの国の主権者である国民の判断にまつよりないと私は考えます。
 今日では、自衛隊は憲法違反ではないという声が多数派であることに議論の余地はないと思います。国家には自衛権があり、それを実行する手段として軍事的手段を完全に封じているわけではなく、それを実行する部隊として自衛隊を認めるという考え方です。
 ただ、こう考える場合に一つ問題が生じますのは、憲法が緊急事態に関する条項を何ら用意していないという点であります。そのために、自衛隊を合憲と考える場合には、それをどのような手続を経て用いるか、その限度をどこまでとするかといったような点が全く白紙になってしまうという問題を生じます。
 ただ、この点につきましては来週の本調査会で論議されると聞いておりますので、これは問題点の指摘だけにとどめておきたいと思います。
 次に、少し歴史をさかのぼって、戦後の防衛政策を簡単に振り返りながら主要な問題点について考えてみることにいたします。
 最近の研究になって明らかになってきたことの一つに、警察予備隊は、当初は軍ではなく、あくまで警察力を補完する部隊として創設されたということがあります。日本にはなじみのないものですけれども、アメリカはコンスタビュラリー、日本語では警察軍とかあるいは武装警察隊などと言えば言えるかと思いますが、そういうものとして創設をしました。それがやがて、情勢の変化などによってアメリカが政策を変更し、軍事的組織へと転換、発展していったわけです。
 つまり、私が言いたいのは、現在からさかのぼってここに至るべくいろいろなものが用意されていたというふうに過去を解釈したり、あるいはその当時の状況を理解しないままに批判するような姿勢は慎むべきであるというふうに、そういうことを申し上げたいわけであります。
 吉田茂の国会答弁などを見ますと、憲法九条の解釈や、あるいは再軍備問題につきまして相当に揺れておりました。旧軍関係者や保守派の政治家からは軍の復活を、平和主義者からは非武装政策をという圧力を受けての政権運営であったわけですけれども、一つ、吉田が断固として貫いたことは旧軍の復活にはならない再軍備という路線です。
 そのために、保安庁、後の防衛庁の官僚、いわゆる背広組に制服組を管理させるということを吉田は許してきました、あるいはそういうことを積極的に推進してきました。事実上、文官統制というふうな言い方をすることがありますが、これが戦後のシビリアンコントロールの中核を担っていたというのが事実であります。吉田がこのように旧軍の再現にならないように慎重に再軍備を進めたという点については、私は高く評価されるべきだというふうに考えております。
 戦後の論議を見ますと、再軍備をめぐって大きく三つの立場があったわけです。軍備を持つには憲法を改正しなければならないという改憲派、それから社会党左派に代表されるような非武装派、そして憲法に反しない範囲で小規模な軍備を持ち、それを徐々に増強していくという立場、吉田はこの三番目の立場になるわけですが、結局この三つの立場が解消しないままに、保守合同で自民党が生まれ、左右統一の社会党が生まれて、いわゆる五五年体制が誕生したわけです。
 自民党も社会党も経済成長とその分け前をめぐる争いが中心になっておりまして、結局、政党は二つ、再軍備問題では三つという状況が解消しないままに五五年体制は進んできたというふうに評価することができるかと思います。つまり、安全保障の面からいいますと、五五年体制というのは、ある種の膠着状態あるいは停滞の時代であったというふうに総括することができるのではないかと思います。
 吉田自身は後に憲法改正を考えていたんですが、結局それはできず、吉田の言わば弟子である池田勇人、佐藤栄作の政権においてもそれはできませんでした。その理由はいろいろあろうかと思いますけれども、やはり無視してならないのは、憲法の平和主義が国民の間にかなり根付いていたという点は十分に理解をするべきだと思います。にもかかわらず、そうした考え方が国民の多数派にまでならなかったという点、この点もまた同時に考えなければならないわけです。
 その非武装派が、結局はその現実を見据えた上で、その理想である非武装国家というものを実現する、そういう具体的で説得力のある道筋を示すことができなかったということが、結局、平和主義が国民の間に広まりつつも、政治の場ではそれが多数派にならなかった最大の理由だろうと思います。これは単に、例えば社会党だけの責任というわけではなく、平和主義を掲げ、非武装を主張した知識人の責任でもあろうかというふうに思います。
 そうした中で、防衛力に対する歯止めとして幾つかのものがありました。非核三原則、専守防衛といったものは、いずれも自衛権の行使ということについて抑制と慎重さを求めるものであり、言わば平和主義を掲げる国家としての方針といいますか、一つの哲学を表すという意味で評価することができるかと思います。ただし、防衛費一%枠、いわゆるGNP一%枠のように、合理的な根拠という点からするとやや乏しいと思われるようなものもありました。しかしながら、自衛隊は地道な努力によって次第に国民の支持を得てきたというふうに評価をすることはできるだろうと思います。
 次に、戦力として、つまり外敵と戦う力として自衛隊はいかなるものだったのかということについて、これを日米安保体制との関係で考えてみたいと思います。
 アメリカ政府やアメリカの軍部の公文書などを子細に検討してみますと、一九五〇年代の後半から日米安保条約が改定された六〇年にかけて、自衛隊への期待が失望に変わるという経緯がよく分かります。日本を太平洋地域における信頼できる同盟国にするというのが、当時のアイゼンハワー政権の対日政策の目標でした。しかし、その目標は達成できていないというのがアイゼンハワー政権の評価でありました。安保条約の改定によって、条文にも武力攻撃に抵抗する能力を維持し発展させるという文言が入りましたけれども、実際にはこのころにはアメリカ軍部はもはや自衛隊にはほとんど期待をしていないという状況でした。安保改定の直後に決定した国家安全保障会議の新しい対日政策文書がありますが、そこでもはっきりと日本は兵たん施設と軍事基地を提供するという点で軍事的な貢献が評価されているだけでありました。これは続くケネディ政権でも同じです。
 こうした状況に変化が現れるのは一九七〇年代の後半、いわゆる日米防衛協力が始まってからです。この辺りから日米安保体制は言わば軍事同盟という色彩が濃くなり、自衛隊も実際に戦う力として期待されるようになってきたと言えるわけです。この状態が冷戦の終結まで続いたということになります。そこで、冷戦が終わってどうするかということにつきまして、当然大きな転換が期待もされたわけですが、その結果どうなったかということにつきましては、やはりアメリカ主導の下で進められてきたというふうに言わざるを得ないと思います。
 その象徴とでも言うべきものが一九九六年四月の、当時の橋本首相とクリントン大統領の日米安全保障共同宣言です。これは実質上、一九六〇年の安保改定に匹敵する大きな転機であったというふうに考えられるかと思います。この共同宣言には、アジア太平洋という言葉が十二回出てきます。日米安保の意義はアジア太平洋の安定に寄与することにあるというふうに宣言したわけです。その半年前の九五年十一月に新しい防衛計画の大綱が決定されましたけれども、その大綱には日米安全保障体制という言葉が同じく十二回出てきます。
 私は、このともに十二回という数字は単なる偶然ではないのではないかというふうに思っております。実を言いますと、大綱ではもう一回日米安保に触れたくだりがございますが、そこは米国との安全保障体制という文言にしてあります。これは十三回になるのを避けたんだろうと私は思います。つまり、クリントン大統領は元々九五年の十一月に訪日する予定で、それはアメリカの国内事情で半年遅れたわけです。つまり、九五年の十一月に日米安保共同宣言も新しい防衛計画の大綱もともに発表する予定であったわけです。そこに同じく十二回ということで、アジア太平洋と日米安保体制が出てくる。そういう文言が出てくるということは、すなわちこれから日米安保というものはアジア太平洋の安定に寄与するものである、自衛隊はその日米安保のためにあるというメッセージを発しようとしたのだというふうに理解することができます。
 その後の日本の防衛政策は、この新しく定義された日米安保によるアメリカの要求に日本がこたえるという形で進んでまいりました。しかも、その内容を見てまいりますと、一昨年、九月十一日のテロ事件を契機に、再定義から更に再々定義と言うべき事態に進んでいるという感がいたします。といいますのは、海上自衛隊がアラビア海に現在も派遣されておりますが、それ自体既にアジア太平洋という地域さえ超えているからです。
 日米安保の再定義の後も、アジア太平洋地域の安定をどう作っていくのかということに関して、残念ながら日本が主体性を持って構想を示したことも、あるいは行動を起こしたこともなかったと言わざるを得ないと思います。今回のイラク戦争に対する事態、あるいはその前のアフガニスタンもそうですけれども、日本が主体性を持って行動したということは言えないかというふうに私は考えております。その一方で、アフガニスタンを始めイスラムや中東の人々の間で日本の評判が著しく落ちたという点は、国益という観点からいっても憂慮すべきことではないかというふうに思っております。
 こうした論議はさておきまして、平和主義と戦争放棄をうたった憲法の下で、それに合致する防衛力として専守防衛をその戦略として発展してきた自衛隊が、ここに来てアメリカの要求にこたえることを第一義に考える政府にやや振り回されているという感じを受けております。
 以上のように、冷戦後、防衛政策は大きく転換をしてきています。その実態は、理屈はどうであれ、元々日本国憲法が目指していた方向とは違うものであると言わざるを得ません。自国を防衛する組織を持つことは憲法に合致する、これはいいとしても、しかし、自衛権があり、それを実行する部隊を持つことが許されるからといって何でも許されるかというと、そうではないと思います。限りなく侵略戦争に近い武力行使が自衛の名で行われることもあります。
 日本国憲法の規定を一切の武力を持てないと解釈するのは非現実的で極端な解釈だと思いますが、その反対に、侵略戦争以外なら何でも許されるというのもまた、現実に存在する憲法を無視する極端な態度と言うべきではないでしょうか。日本国憲法は、少なくともぎりぎりまで非軍事的な努力をし、自衛権を行使する場合にも武力は最後の手段であり、それを行使する場合も最小限の行使に抑えるということを要求していると思われるからです。
 最後に、少し歴史を長く見てまいりますと、力と独善が支配する世界から相互理解に基づく世界に変えようというのが二十世紀の大きな流れであったと言えるかと思います。必ずしも成功しているとは言えませんが。
 しかし、ここへ来てまた、アメリカを中心として、まるで世界史の時計の針を逆に回そうとするかのような動きが見られます。圧倒的な軍事力によってその試みは一時的には成功しているように見えますが、長く続くことはないと私は考えております。こうした大きな時代の流れに逆行するアメリカの動きに乗ることは、一時的にワシントンから評価されることはあっても、長い目で見れば、日本国憲法の前文にある文言を用いますと、国際社会において名誉ある地位を得ることにはつながらないと思います。
 これまで、平和主義といいますと、とかく平和ぼけだとか、あるいは思考停止だとかというような批判がありました。確かにそういう面は否定できませんが、他方で、ならず者国家などという言葉も私には同じように聞こえます。米英を鬼畜と呼んだ戦前と同じように、そのようなレッテルを張った瞬間に思考停止をしてしまうのではないかというふうに思います。
 憲法は、言うまでもなく国民のものであります。国民がこの国をどういう国にするのかということを決めたものが憲法です。明治維新から明治体制が固まるまで三十年近くを要しております。戦後、いわゆる五五年体制ができるまで十年掛かっております。その五五年体制が崩壊して今年でちょうど十年になります。
 私は、この辺りで新しいこの国の方向というものをしっかりと定めるべきときであろうというふうに考えておりますが、その際には、目先の利益などにとらわれることなく、広い視野に立って長期的な展望を切り開くべきだと思います。過ぎ去った百年を振り返り、この先の百年を見通す、そういう議論の中で憲法に関する議論が深まることを期待しております。
 以上で私の意見陳述を終わります。
 ありがとうございました。
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野沢太三#3
○会長(野沢太三君) ありがとうございました。
 次に、志方参考人にお願いいたします。志方参考人。
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志方俊之#4
○参考人(志方俊之君) 本日、このような席で意見を述べさせていただきまして、大変ありがとうございます。
 私はどの政党にも属しておりません。三十五年間自衛隊におりましたので、どの政党に属するということもございませんでしたし、したがってどの立場で話しているわけでもございませんが、自衛官として現場にいた、そこから憲法というものを見た、そのときのことを述べさせていただきたいと思います。
 現役の自衛官がこのような席でしゃべる機会がほとんど日本の場合は少なくて、アメリカなどではもう現役の軍人がどんどんこういうところで公述しているわけでありますが、日本はなぜかそういうことがありませんので、本日は、そういう、私は現役ではございません、もう十年も前にリタイアしております、しかし、自衛隊にいましたときの感覚で述べさせていただきたいと思います。
 自衛隊というのは我が国の平和と独立を守る集団でありまして、五十年間我が国が大変な冷戦の時代とその後の混乱の時代に平和を貫いてくることができたということは、自衛隊がしっかりとその任務の一部を遂行してきたということで、私は、自衛隊員には非常に平和を守ったという誇りがあると思います。そういう意味で、自衛隊は、戦闘する集団ではありますけれども、平和を守るという意味ではその一翼を担ってきた集団であるということが言えると思います。
 本日、レジュメが皆様のお手元にございますが、私の手違いで一つだけミスプリがありまして、皆様のレジュメの二ページ目のところの一番下のところに(3)国家改造の難しさとありますが、その中の②のところでございます。「規制の構造」という、この「規制」という字が間違っておりまして、既成の事実というあっちの方の既成でありまして、レギュレートする方の規制ではございません。直していただきたいと思います。不注意をおわびいたします。
 まず、レジュメの一ページ目に戻りまして、セクション1のところに「わが国の安全保障を考える場合の与件」、いわゆるギブンコンディションズというのがありますが、九つ指摘してあります。
 まず第一は、我が国の領土はこれ以上にはならないと。それから二番目は、その上に一億二千万の人口が、人間が住むと。そして、かつ資源の大部分、これを海外に依存している。エネルギーの場合は九〇%近く、食料は六〇%。最後に水は五〇%というのがございますが、これは今年、水フォーラムというのがございまして、そのときにバーチャルウオーターですか、そういうような概念が示されました。
 要するに、日本はトウモロコシとか大豆とか小麦を輸入しておりますけれども、あるいは牛肉もそうですが、その牛肉一キログラムを作るために牛にどのぐらいのトウモロコシを与えているか、そのトウモロコシを作るためにどのぐらいの水が消費されているかということを考えますと、日本は約一千億トンの食料を輸入しているだけで一千億トン年間水を輸入している、これをバーチャルウオーターと言っているわけです。
 実際、日本の上に降った雨は一千億トン、それを使っている。ですから、日本は五〇%ぐらいを海外から水を依存していると言っても過言ではないと、そういう意味で書いたものでございます。
 それから五番目は、我が国は戦略的な通常兵器を持たないということであります。──四番目が核兵器を持たないですね。これは我が国にあるコンセンサスであります。
 それから五番目は、通常兵器といえども戦略的なものを持たない。航空母艦とか弾道弾ミサイルだとか、それから戦略爆撃機等を持たない。そして、米国が矛、我が国が盾だと、こういう役割分担で成り立っております。
 それから六番目は、我が国は化学兵器、生物兵器、それから対人地雷を持たない。これについては、それを抑止する力、化学兵器は化学兵器で抑止する、あるいは対人地雷は対人地雷で抑止するという、そういう抑止力ではなくて、我が国は守る力だけで安全保障を全うしようという、そういうようなコンセプトでやっている。
 それから七番目、我が国の戦略情報収集能力には限界がある。戦略情報の多くをアメリカからもらっております。私は防衛駐在官としてワシントンに駐在しておりましたけれども、重要な情報のほとんどはアメリカからもらっておりました。
 それから八番目、我が国の軍事技術開発能力には限界がある。これは、軍事技術の基本的な部分はアメリカに依存している。日本でもライセンス国産はしておりますけれども、基本的な部分は対米依存であります。
 それから九番目、我が国のエネルギー輸送路の防護能力には限界がある。我が国の海上自衛隊が直接防護できるのはせいぜいフィリピンから日本までの間であって、それ以遠は米海軍に依存している。
 この九つの与件のうち、四、五、六、七、八、九というのはほとんどが、黒丸が付いておりますが、アメリカに依存していると。要するに今、日本が対米依存体質であると言われるゆえんであります。これは五十年掛けてできました体制でありますから、これをにわかに対米依存しないでいくということになりますと大変な努力が要るわけであります。
 したがいまして、小麦、トウモロコシ、大豆、日本でいうと、豆腐から、しょうゆから、納豆から、こういうものも全部アメリカから来ているということを考えますと、我が国が対米依存度を下げるということであれば、少しずつでも資源の輸入先を分散する。しかしながら、ほとんどそれが言うはやすくて実際にできないと。
 例えば、我が国の軍事技術開発能力を対米依存度を減らすとなると、我が国の防衛予算のうち、もっともっと多くを研究開発に入れなきゃならない。そういうことを考えますと、この四から九までのことはよほどの革命的な変化をしないとできないということであります。
 したがいまして、対米依存度が大き過ぎるということを言われる場合には、どうすれば下げれるかということをはっきりと政治の中で提言されないと、単なる遊びになる、言葉の遊びになってしまう。
 したがって、私は、我が国においては、各政党ともどうすれば対米依存度を下げることができるかという具体的な提案を出して国民に示すべきであろうと思います。それでなくて、やたらと対米依存の体質を非難することは政治ではありません。
 それから二番目、我が国が存立する上での四つの必須条件というのがあります。
 これは四つありまして、一番目は、資源保有国が我が国に喜んで資源を供給してくれること。これは年間八億トンであります。
 それから二番目は、資源保有国から我が国に至る長大なシーレーンに沿って紛争がないこと。これは、湾岸はホルムズ海峡、それからインド洋ですね、それから東南アジア、すべてが安定しているということが非常に重要であります。特に、尖閣列島とかスプラトリーアイランドとかバシー海峡とか、こういうところが平和であるということが重要であります。
 それから三番目は、我が国は八億トンの資源を持ってきて、それに付加価値を付けて約一億トンの工業製品としてそれをまた売り出しているということから考えますと、付加価値を付ける能力が我が国になければならないと。付加価値を付ける能力の基本は高い科学技術と勤勉な労働力でありますが、この二つが今、我が国では非常に危機に瀕しておる。
 それから四番目は、その製品をまた我が国から買ってくれるという、この四つがなければ生きていけないのであって、自衛力が大きいとか小さいということよりも、この四つのことを重要に考える必要がある。
 そこに、黒丸が三つあります。
 結論的に申しますと、我が国ほど世界じゅうが平和であることを必要とする国はないということであります。したがって、二番目、我が国だけが平和であっても、それだけでは十分ではない。もちろん、我が国が平和であることが基本でありますが。それから三番目、したがいまして、我が国は世界の平和のため、全力を挙げて責務を果たさなければならない。これは憲法の前文にちゃんと書いてありますので、我々が今やっていることは正しいんだと思うんですね。
 それで、じゃ、まず、我が国の平和というものを維持するときにはどうするかということでありますが、それはお手元の四ページの下の図ですね。図4というものを見ていただければ分かると思います。我が国の安全保障の、安保の基本四原則というのがございます。
 まず、一、非核三原則、これは非常にいいことであります。これは将棋でいうと飛車抜きということであります。それから専守防衛、これもコンセンサスでありまして、これは角抜きであります。非化学・非生物兵器・非対人地雷という、これもコンセンサスであると、これは金抜きであります。それから四番目、武器輸出をしないと。事実上ほとんどしておりませんが、これは銀抜きであります。
 ということは、我が国の防衛は飛車角金銀抜きで相手と対峙するということでありまして、将棋でいいますと、相当の指し手でなければできないということであります。相手が十手先まで読むならばこちらは二十手先まで読んで、そして相手を倒すという攻撃的なことではなくて、負けないようにするという、そういうようなことが我が国に課せられたことで、私は、三十五年間それをやってきたわけであります。
 こうなりますと、相手が十手、こちらが二十手先を読むとなると、我が国は情報依存大国であってはならないということであります。
 アメリカの倍ぐらいの情報収集能力があってこそ対米依存をせずに済むことでありますが、悲しいかな、我が国は、何年間も情報収集衛星を上げることをためらってまいりまして、やっと本年、二つ上げて、秋にはもう二つということでありますが、四つ上げ、しかも、その分解能を見ても、ぼやっとしか見えないというようでは、相手に情報を依存する以外に方法はないのであります。そういうことで、その辺に対する投資といいますか、そういうことをしっかりしないと、ただ依存度が高いと言われても自衛隊としては非常に困るということであります。
 それから、セクション3のところに入りますと、我が国が分担すべき責務、要するに、我が国だけが平和であってもならないのならば、世界の平和のために我が国は何ができるかということを考えますと、一、二、三とあります。
 これは、一はリスク分担、二、負担の分担、三、価値観の共有ということがございます。これは、五ページにある図を見ていただきますとはっきりいたします。
 我が国がなすべきことは、この図のように、まずバリューシェアリング、共通の価値観を持つ。これについてはほとんど問題はございません。我が国は国際社会の普遍的な価値観を共有していると思います。
 それから、バーデンシェアリングというのは、汗をかきお金も使うということで、我が国のODA、我が国のPKO活動、あるいはNGOの人たちの活動、こういうものはもう世界に誇れるぐらいのことをやっております。
 ただし、一番上の、リスクの分担になりますと、それはなかなか実施することが難しい。したがいまして、俗に言えば、総論賛成、各論賛成、実施はできない、これでは国際社会から孤立する以外に方法はありません。
 そういう意味で、我が国が国際社会から孤立すること自身が我が国にとっての最大の脅威であるとすれば、我が国は、総論も賛成、各論も賛成、リスクの分担もちゃんとやらなければ国際社会で発言力が非常に極小、局限されてしまうということであります。
 それから、五番、次のページに行っていただきまして、セクション5、我が国の防衛の構造改革であります。これは学生が、先生、どうですかと言って質問したので書いたものでありますが、なかなか、文章がちょっと違っているもの等もあるかもしれませんが。
 基本法というのは、国政に重要なウエートを占める分野について、国の制度、政策、対策に関する基本方針を明示した法律と定義されておりますが、我が国には一から十六まで基本法というものがございます。これも、どれも非常に大切な基本法でございます。
 教育基本法から始まって、障害者基本法、ものづくり基盤技術振興基本、少子化社会とかできましたけれども、なぜ安全保障の基本法がないのかと。安全保障というのは、国家に、国政に重要なウエートを占めることではないのかということであります。
 そして、じゃ、どうすればいいかといいますと、その(2)のところで、基本法と憲法との関係であります。これは、図の4を見ていただければ分かります。四ページの図の3ですね、一番上の図です。
 四階に陸海空自衛隊、防衛庁という実動集団がございまして、三階はその手続を決めた自衛隊法及び防衛庁設置法、二階部分が先般作っていただきました有事法制関連のものでございます。しかし、一階がないわけであります。なぜ一階がないかというと、憲法の中に我が国の安全を守るということが明示されていない、自衛隊という文言すらありません。
 そういうことで、やはり安全保障基本法というのをしっかりと作っていただく、これが大切なことかと思います。我が国は法治国家でありますから、法律によって自衛隊を動かすということが大事であります。したがって、安全保障基本法というのを作っていただくということが何よりも大切であります。
 これは、先ほど、我が国が防衛力を行使する場合はどういう場合か。何か国際紛争が起こった場合には、まず政治的な対話でやる。それも駄目なときには、更に外交的な交渉もする。それも駄目なときには、経済支援とか経済力で説得をする。それも、その三つのどれも通用しない相手の場合には、我が国は防衛力を行使せざるを得ないということを明示したものが、どういう場合に我が国は防衛力を使うかということが基本法に明示されることであります。
 そういう意味で、外国から我が国の自衛隊を見ますと、取扱説明書がない軍事力というように見えて、我が国が平和主義を唱えるこの平和憲法に反していると思いますね。我が国がそういう、自分のどういうときに使うかということをはっきりするということが平和につながっていくのではないかということであります。
 それで、二ページの最後に、(3)国家改造の改革の難しさということが書いてありますが、やはり今、我々は大きな軍事的動乱もなく我が国の構造改革をしようとしているわけでありますが、今まで、大化の改新に始まり、明治維新それから昭和の改革、こういうものの場合にやはり四つあると。
 一つは、国際的条件といいますか、外圧という言葉も適切かどうか分かりませんが、そういう外からの要件ですね、それも一つありましたし、それから、今まである構造の大きな破壊がありました。明治維新も大きな破壊がありましたし、それから昭和もそうでございました。
 それは、どういう国家にするかという目標があって、破壊しなければ意味が、単なる破壊でありまして、やはり既存のものを破壊するためには次の目標というものが要る。明治維新のときには近代的な西欧の国家というのもありましたし、昭和二十年のときには、アメリカのように、お金があって、そして民主主義の国になろうという目標がありました。今、我々がやろうとしている平成の国家改造というのは、国際的条件というのはほとんどありません。
 それから、既成の構造を破壊しようと思っても、どのような国にするかという目標を明示しているところが余りないと。
 そして四番目に、傑出した指導者の輩出ということであります。
 この四つの条件のどれかが欠けるとできません。特に、我が国は今、大きな破壊を伴わないで自分たちの構造を変えようとしているわけですから、これは、我が国は日本の歴史の中で最も難しいことに挑戦しているんだということで、ここに出ておられる先生方に是非これをお願いしたいと思います。
 大変失礼なこともお話ししたかと思いますが、お許しください。
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野沢太三#5
○会長(野沢太三君) ありがとうございました。
 次に、渡辺参考人にお願いいたします。渡辺参考人。
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渡辺昭夫#6
○参考人(渡辺昭夫君) 渡辺でございます。
 野沢会長以下、参議院の憲法調査会の皆さん方が大事な問題に取り組んでいらっしゃることに心から敬意を表します。そして、その御議論に多少ともお役に立てるお話ができれば大変幸いだと存じます。
 一枚物のレジュメを用意してございますので、それに沿ってお話をいたします。
 私のお話の角度といいましょうか、言わば国際関係的な文脈の中で自衛権と憲法の問題について考えるというやり方を取りたいと存じます。
 憲法九条というのが、どういう政治的な環境の中でどういう経緯でできたかということについてはよく知られていることだと存じます。憲法九条の文言というのは、ほとんど同じような文言が一九二八年のケロッグ・ブリアン協定、いわゆる不戦条約に書かれております。それが後で申し上げる国連憲章の中にも引き継がれるということになっているので、私の考えでは、そういう一九二八年の不戦条約に、もちろん先立ってそういう考え方がなかったわけじゃございませんが、かなりはっきりした形で出てくるのは一九二八年の不戦条約だと思います。それ以後の大きな流れの中にある問題として憲法九条というものを考えるべきだというふうに思います。
 そこで言われていることは、要するに国家の政策の手段として戦争というものはなくしていこうということで、これは言うまでもなく、第一次世界大戦の非常に大きな惨害を経験した人類がというか、その第一次大戦のそういう経験が背景になっていることでございますが、したがって、そのような国家の政策の手段としての戦争を放棄すると、そして一切の国際紛争の平和的な解決を原則とするという、そういう考え方がここではっきりと示されたわけでございます。
 ただし、自衛のための戦争はその限りにあらずということは、自衛のために行う戦争というものはこの中に含まれないと、そういう了解の下に各国がそれに調印したわけでございます。日本も原署名国の一つとしてそれに署名したわけでありますね。
 同じような考え方が、この不戦条約というのは実際には言わば精神規定であって、その実現を保障するような手段といいましょうか、制度というんでしょうか、そういうものがなかったということで現実には余り大きな役割を果たさなかったということになっております。確かにそうだろうと思いますが、しかし思想というのは生き残るわけでありまして、現に、第二次世界大戦で再び大きな戦争というものを経験した人類が戦後の秩序を作っていくときに、その柱にしようとした国際連合というものの憲章を作るときにその言葉が再び生きてくるわけでありまして、その前文に、国連憲章の前文には共通の利益を除くほかは武力を用いないということを原則とするというふうに書いてあります。
 それが何を意味しているかというと、第一章、国連憲章の第一章に、平和に対する脅威があった場合は有効な集団的な措置を取ると、こういうのが国連のメンバーのやるべきことであるということがあるわけですね。これが言わば原則になっているわけでありまして、第一章のその次の要素は、国際関係において武力の威嚇又は武力の行使を慎むということになっているわけです。これがセットになっているところが大変大事なところであるわけですね。武力の行使の、あるいは威嚇を慎むということを実効あらしめるためには、もしそれが破られた場合に、平和に対する脅威があった場合には集団的に有効な措置を取るということが伴わなければいけないということでありますね。それが言わば基本的な理念であって、そのための具体的な制度として、第六章に、国際紛争は平和的に解決するということがうたわれていて、それに関するいろいろな規定がございます。
 第二章は、さらばそのような平和的な今申し上げたような原則が破られて平和に対する脅威とか平和の破壊があった場合、あるいは侵略行為というものがあった場合にどうするかということが書かれているわけでありまして、それが憲章の前文にある共通の利益のためには武力を用いるという場合があるということになるわけでありますね。
 ここでも、ただし個別的、集団的自衛の固有の権利を各国が持っているということはこれによって損なわれないという有名な第五十一条の規定があるということになるわけであります。平たく言えば、要するに個々の国家が自分の自衛のために武力を行使するという機会をできるだけ少なくしていこうということですね。そのためには国際社会が協力してそのような事態に対処するという仕方が発達しなければいけないということですが、これは、表と裏の二つ組み合わさったセットになっているということがここで一番大事なことだと思います。
 それで、そこで、そういう文脈の中で、自衛権の行使の在り方についてさまざまな考え方が二十世紀を通じて発展してきたというふうに言えると思います。つまり、不当な攻撃が、不法な攻撃があった場合には、それに対する自衛の措置として武力が行使されるということがその第一のケースであります。
 ただし、この場合も、ちょうど刑法で言うところの正当防衛というのに非常に近い考え方だと思うんですね。つまり、急迫不正の侵害があった場合に、自己又は他人の権利を守る、防衛するためにやむを得ない場合にはその実力を行使するということがあって、これは罰せられないというのが刑法の考え方だと思いますが、それとほぼ、そのアナロジーで考えることができると思います。
 したがって、これはどんな場合でも正当防衛になるわけではないということは言うまでもないわけであって、したがって、ここに国際法学者の議論をかりると、緊急性と均衡性と必要性と違法性という四つの要件によって自衛権の行使が制約されるという言い方をよくしております。
 その不法性、違法性というのは、自分の方が違法性じゃなくて、相手側に違法の行為があった場合ということでありますね。それから、ほかに方法がないというのが必要性でありまして、緊急の場合、急迫不正の場合という、急迫した事態というのが緊急性ということになる。均衡性というのは、今日はここでは余り入りませんが、いわゆる過剰防衛になってはいけないということでありますが。
 ところで、一番難しいのが緊急性だと思います。現在の国際関係の中で考えるときには、緊急性という問題がかなり難しくなってきていると思います。
 つまり、武力攻撃が現に発生した場合に自衛権の発動の事由が生じるというのは、これは余り議論がないところでありますが、発生した場合に初めてそのような自衛権の発動の事由が生じるのかということでありますね。そうすると、切迫した脅威がある場合というのはどうなるだろうかということになるわけで、これは刑法のアナロジーでいけば緊急避難ということに相当するような事態であります。これについては、現在、最近のイラク戦争なんかの関連でアメリカが議論している仕方の中では予防的な自衛権というふうな考え方が使われたりするわけで、非常に大きな議論を呼んでいるところでございます。
 ちなみに、その集団的自衛というのは、他国の自衛に対する支援だというふうに言っていいと思うのでありますが、これはしばしば言葉が似ているのでよく混同されるわけですが、後に申し上げる集団的な措置、国際社会が集団的な措置を取るというのとは概念的には区別しなきゃいけない問題だろうと思います。つまり、他国への脅威を自国への脅威とみなすということであって、非が間違い、攻撃されたという被害の被でありますが、被攻撃国のこの場合に、要請があった場合にだけそれが当てはまるかどうかというのはかなり議論が専門家の間でもあるようでありますが、いずれにしろ、他国への加えられた脅威と自国に加えられた脅威とが密接不可分の関係にあるという状況判断がその背景にあると思います。
 そこで、先ほども申し上げましたように、このような自衛権の行使ということが、非常に古く歴史をたどれば、言わば国家主権の当然のものとして、国際法学者が使う言葉で言うと自然法的なものとして考えられていた。それがいわゆる固有の権利というときの固有ということですね。これは、国際法学者の議論なんかを見ますと、固有というのは何だというときに、別の言語、フランス語なんかで言うと自然の権利というふうな言い方をしているようでありまして、言わば自然法的な考え方になっているわけですね。ところが、それについて具体的にそれが明確な形になったのは、先ほども申しました二八年、一九二八年の不戦条約における例外規定として意識されるようになってくると。
 そういう経緯を見ますと、自衛権ということが一つの概念として定着していく過程というのは、正にそのような自衛権を、できるだけ自衛権の名前で何でもできるというような状態はまずいという考え方があって、したがって自衛権の行使について、自制ないし相互抑制というふうにしていかなきゃいけないという考え方の中で自衛権という言葉が定着していくんだろうと思うんですね。
 ということは、先ほども申しましたように、そういうふうな、つまり自衛権というものが最後の手段として訴えなきゃならないわけでありますが、その最後の手段を取り上げては非常に危ないんですが、しかしそれをあくまで最後の手段としてとどめておくためには、その最後の手段、伝家の宝刀を抜かなくてもいいようなふうに国際社会というものを変えていかなきゃいけないということがあるわけであります。
 それが、その第四の項目でありまして、つまり平和に対する脅威があった場合、それに対して有効な集団的な措置というものを取るような仕組みがなければならないということでありまして、その仕組みが効果的でなければないほど自衛権に訴えなきゃならないという場面が増えると、こういう関係にあるというように考えていいんだろうと思います。
 そこで、問題は、憲法九条というのはこれも禁止しているのかと。武力の行使がいけないという場合、国際関係における武力行使がいけないという場合には、今言ったような平和に対する脅威があった場合の有効な集団的な措置に日本が参加するという場合も、これもいけないというふうに言っているのかどうかということが大きな議論になっているわけであります。私、国際法の専門家の中にも意見が分かれているように思いますが、私はこれは禁じているわけではないと思っております。
 つまり、国際社会のあるメンバーがその反社会的な行為をした場合に、それに対して社会的な制裁を加えると、これを集団的な制裁措置と呼んでいるわけでありますね。もちろん、現在までの国連の制度的な状況から言えば、いわゆる国連軍というのがそういう場合に直ちに有効な形で行動するという条件がないわけでありますから、実際にその集団的な制裁措置を取るのは、言わば有志国家であるということになると思います。最近よくはやりの言葉で言うと、英語で言うと、ア・コアリション・オブ・ジ・ウイリング、アンド・エーブルという言葉が付くのが必要だと思うんですが、そのような意思があり、かつ能力があるという国家が集まってそれを実行するということになると思うんですね。
 ただし、その場合、名目は国際社会というものがその主体であるということになる。したがって、最近よく英語でも日本語でも出てくるのは、国際社会がどうこうする、あるいは国際社会にとってだれだれが悪いことをしたという、そういうふうな表現がよく出てくるわけですね。あたかも国際社会という主体がそこにあるかのごとく言っている。実際にあるのかということは大きな議論になるわけでありまして、実際問題としては、私はそこに書きましたように、国際社会の名において志を同じくし、能力を出せる国家が集まってそれをやっているということになると思うんですね。これが国際社会が反社会的な行為を行った行為を処罰する集団的な措置ということになると思います。
 そこで、最後に残る問題は、今までのような議論は、つまり、およそ半世紀ほど前にこのような考え方が国連という制度の中で議論された場合は、そのような不法な攻撃をする主体もそれから反社会的な行動をする主体も一人前の主権国家だと、あるいは領域を持った領土国家だという前提であったわけでありますが、最近の、九・一一後よく言われるようになったのは、こういう現象が九・一一後突然現れたとは思いませんけれども、非常に明確な形で現れたのは、そういう不法攻撃や反社会的行為の主体が国家ではなくて非国家的な場合どうするのかと。これは非常にややこしい、面倒くさいわけですね。
 つまり、領域国家というのは、いかに括弧付き、ならず者国家であっても、領域を持っているわけですから、言わばそれが人質になるわけですね。そこを攻撃されれば自分もつぶれちゃうということがあるわけですが、この非国家主体というのはどこにも移動できるわけでありますから、どこをたたけばそれが参ったということになるのかということが分からない。大変厄介なものだと思うんですね。そういう種類の非国家的な主体が、非常に大きな平和を乱す行為を行うことができるような条件が次第にできてきているというのが現状だと思うんですね。
 そうしますと、これに対してどういうふうに行動すべきかということが問題になるわけで、そうしますと、これは今までに申しましたような考え方ですんなりと対処できるのかどうかと。うまく対処できないというのが現実だろうと思うんですね。そこで、この問題をめぐっていろいろ今議論がなされているというふうに私は思います。
 アメリカで非常に強い考え方は、これは個別国家、つまりアメリカが自衛のために戦うという議論の仕方だと思います。これはアメリカの立場にあえて立ってみれば、いや、国際社会があるいは国連がどうこうするといったって一向にうまくいかないじゃないかということになると、それはもう自分のために自分が守るという、言わば伝家の宝刀を抜く以外ないじゃないかという、こういう議論になっていくんだろうと思うんですけれども。
 ということで、先ほど申しましたように、この問題でも国際社会が果たして有効にこういう問題に対処できるのかどうかという、そういう制度の完成・未完成度というものと自衛権行使ということとが私はセットになって出てくるように思います。
 私自身は、アルカイダのような反社会的な集団を処罰するのは、国際社会が言わば社会的な制裁として行うべき問題ではないかと、将来の方向としてはそちらの方に議論を発展させていくべきではないかというふうに考えているわけでありますが、いずれにしろ、今まで我々が議論に慣れていたような文脈での自衛権の行使とか、あるいは国連その他の制度を通じての社会的な制裁、あるいは集団的な措置というのと少し違った角度から問題を考えなければならなくなってきているのが現状ではないかというふうに考えます。
 以上で私の陳述を終わらせていただきます。
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野沢太三#7
○会長(野沢太三君) ありがとうございました。
 以上で参考人の意見陳述は終了いたしました。
 これより参考人に対する質疑に入ります。
 質疑のある方は順次御発言願います。
 なお、質疑の際は、最初にどなたに対する質問かお述べください。また、時間が限られておりますので、質疑、答弁とも簡潔に願います。
 椎名一保君。
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椎名一保#8
○椎名一保君 お許しをいただきまして、発言をさせていただきます。
 ただいまは、参考人の先生方、大変貴重な御意見を聞かせていただきましてありがとうございます。私からは、憲法九条と自衛権、自衛隊全般について三人の参考人の皆様方にお伺いをしたいと思います。
 近年の国際情勢におきまして、我が国国民が安全保障に現実的脅威を感じるようになっていることは新聞の世論調査でも明らかでございます。国の主権を守り、同時に国民の生命、自由、財産を守ることは国家としての当然の責務であることをかんがみれば、主権国家が自衛のための戦力を持つことは当然の権利だと考えられます。
 ところが、これまで我が国では、憲法九条をめぐり、我が国が自衛権を保持しているのか、保持しているとしてもその発動に当たってどの範囲まで認められるのかというような議論が繰り返されてまいりました。もちろん、政府は、九条によっても自衛権が放棄されるものではなく、またその発動に当たって、自衛のための必要最小限の武力を行使することは認められると述べております。しかし、この国家の根本問題につき国民の間での完全なコンセンサスはいまだありません。個人的には異常な状況だと思います。
 この最大の原因は、憲法九条、特に第二項にあることは明らかであります。一項の方は、一九二八年の不戦条約、これは我が国も原加盟国でありますが、その後の国連憲章等により国際法上も定着した侵略戦争放棄の理念を明らかにしたものであって、この理念は当然我が国も堅持すべきものであります。しかしながら、二項を文面どおり素直に読むならば、中学生の国語力でも、自衛権もなく、自衛隊もあり得ないとしか受け取れません。憲法規定とその解釈運用がこれほど隔たっている法規を私はほかに知りません。
 そこで、三参考人にそれぞれお伺いしたいと思いますが、二項の規定文言と現実の解釈運用との隔たりをどのように考えておられますか。
 続きまして、特にそれに関連して加えたいのが、内閣法制局の解釈権の問題です。
 憲法解釈というものは、内閣、政府、すなわち内閣総理大臣及び国務大臣がその責任において示すべきものと考えているのですが、現状は、内閣法制局が解釈権を独占し、政治はそれに服従しているかのようです。
 内閣法制局が解釈の整合性を保つため無理に無理を重ね、木に竹を接ぐような解釈実態になっていることにつきましてどのように考えているか、この点についても三参考人にお伺いしたいと思います。
 さらに、私は、無理な解釈による不誠実な対応が国民の法に対する信頼を失わせている一つの原因ではないかとさえ思っております。解釈には現実の法規の文言による限界が当然あるはずですが、それが無視されているのではないでしょうか。したがって、国家として当然保有している自衛権、そしてその防衛活動を担う主体の自衛隊を憲法上明確に位置付ける必要性を強調したいと存じます。
 その上で参考になるのが、ドイツが戦後再軍備されたときの議論であります。ナチス時代の真摯な反省を踏まえながら、勇気を持って民主主義国家における安全保障、軍事体制の在り方を議論し、それを基本法改正に結実させたことを高く評価するものであります。この点につきましても三参考人の御意見をお伺いしたいと思います。
 よろしくお願いいたします。
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野沢太三#9
○会長(野沢太三君) それでは、植村参考人からお願いいたしますか。よろしくお願いします。
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植村秀樹#10
○参考人(植村秀樹君) 国民のコンセンサスがないのは異常な事態であるという委員の御指摘については、私もそのとおりであるというふうに思っております。
 それから、憲法九条の二項に問題があるのではないかという御趣旨でございましたが、これはやはり憲法制定のときの問題があります。元々こういう条文ではなかったものを帝国議会で審議をしているうちに修正が加えられてこのような形になったわけですが、それをどのように解釈するかというのは非常に難しい問題で、私は、この文言からどのような結論が得られるかということを断定的に述べることは大変難しいというふうに考えております。
 そこで、先ほども私申しましたように、文理解釈でこれをどうこうである、この文言がこうだからこうだというのはもう既に不可能であると、それで国民の合意が得られるかというのは恐らくあり得ないだろうと思います。
 したがいまして、さっき防衛の主体を明確に位置付けるというお話もございましたけれども、それと併せて私の考えを述べますと、やはりそうしたお考えに立って明確に位置付ける、その権限と限度も同時に明確にするという形で憲法にきちっと規定をするということは今必要になっているのではないかというふうに思います。ただ、それが、ではこういうふうにしようということが簡単に国民の合意が得られるかどうかということについては甚だ難しいという印象を持っております。
 簡単ですが、以上で終わります。
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椎名一保#11
○椎名一保君 内閣法制局の解釈の問題は。
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植村秀樹#12
○参考人(植村秀樹君) これについては、私はどう考えたらいいか分かりません。申し訳ございませんが、お答えできません。お許しください。
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椎名一保#13
○椎名一保君 ドイツの例につきましての御感想を。
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植村秀樹#14
○参考人(植村秀樹君) ドイツの場合も、再軍備に関しましては非常に大きな議論がありました。その中で相当な議論をし、そしていわゆる政軍関係といいますか、それをきちんとするということを踏まえて再軍備を認めたという経緯があります。
 それを踏まえるということになりますと、先ほども言いましたけれども、どのようなものにするのか、それをどういう言わば制限を付けるのか、限度をどこまでとするのか、それをどのようにシビリアンコントロールの下に、国民の管理の下に置くのかということについてのかなりの議論をしなければならないと思いますが、そうした上で憲法に位置付けるということは、私は望ましい方法の一つであるというふうに考えています。
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椎名一保#15
○椎名一保君 ありがとうございました。
 志方参考人、三点につきましてよろしゅうございましょうか。
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志方俊之#16
○参考人(志方俊之君) まず、第一項でございますが、この九条の第二項を入れたいきさつというのは、芦田修正とかケーディス大佐発言とか、もう今までに万巻の書がありまして、議論されております。
 私が現場にいたことから考えますと、自衛隊という文言が憲法の中にないということ自身に非常に学生、私が今教えている学生なんかも質問してくるんですが、憲法ができた後といいますかね、憲法の方が自衛隊より先にできているわけですから、その憲法の中に自衛隊という文言がないのは当たり前であって、やはり後から入れればいいと思うんですね。それを入れていなかったというのが怠慢であるというだけのことであります。
 それと、もう一つは、この憲法九条に関して本当にもう万巻の書が出ているということは、哲学者が論じ、学者が論じ、政治家が論じ、国民が論じてもこの九条の意味が分からないということ自身が、国語的に私はこの憲法というのは考え直す必要があるのではないか。憲法に保障する義務教育ですか、この義務教育を終わった者ならば、それを読んだら、そのほとんどの者が同じ結論に達するような文言にすべきだと思います。
 したがって、もし将来修正するようなことがございますれば、立派な学者だけではなくて、中学校の国語の先生などを草案の委員に入れていただきたいということであります。
 それと、もう一つは、憲法の中に自衛隊という言葉がなくてもいいんでありますが、やはり自衛隊という武力集団をだれが指揮し、だれがコントロールするかという、このやっぱり文民統制というのは一番重要なことでありますが、その文民統制のメカニズムすら入っていません。やはり、我が国が防衛力を持つ以上、文民統制というのは一番大切なことでありますから、じゃ、どうやって文民統制をするかといえば、我が国は法治国家でありますから、その最高法規の中にそういうことをちゃんと明示していただくのが一番いいのではないかと思います。
 それからもう一つは、二番目、内閣法制局の答申といいますか、解釈、解釈権の問題でありますが、これは内閣法制局が諮問をされて、どのような解釈をするかというのはそれは法制局のとおりでいいと思うんですが、それをどう取り上げるかということに、それをずっと認めてきたということは、相手が悪いんではなくて認めてきたものに問題があると思うんですね。ですから、ちゃんと政治が内閣法制局の意見を採用しないならば、採用しないだけの理論武装と勇気を持って対応すればいいことであって、内閣法制局が悪いのではないと思います。
 それから三番目、ドイツの問題でありますが、これは恐らくドイツの基本法の百十五条のことを申しておるのと思いますが、ドイツも簡単に基本法を改正したんではなくて、いろいろな、今、日本がやっているような有事法制ですね、こういう場合には土地の借り上げはどうするんだとか避難誘導はどうするんだ、水はどうやって統制するんだと、そういうことをずっと一つ一つ小さな法制をやっていったわけですね。そして、その結果、幾つもの非常時立法というものができまして、しかし、よくそれを連ねてみると、どうもドイツの基本法の中にその根拠がないということで、非常に理論的なドイツ人は、これはどっちが悪いんだと。必要に応じて作った法律が悪いのか、あるいはその法律が支えていない基本法の中にボイドがあるんではないか、空白があるんではないかということでやった結果、この基本法の改正に踏み切ったわけであります。
 したがって、基本法から改正したというよりも、その前に幾つもの緊急時立法というのがありまして、それを最後にくし刺しにした。しかし最後に、それでもなお国民の基本的な人権とかそういうことを担保するというのが添えられてあの十五条というのは挿入されたわけであります。
 したがって、我が国も少し時間を失したようでありますけれども、今からでも遅くないので、しっかりとした文言を憲法の中に入れていただくのがいいのではないかと思います。
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渡辺昭夫#17
○参考人(渡辺昭夫君) 第一の第九条の第二項については、私は今正直言って付け加えるべきことは余りございませんが、世の中に言うところの芦田修正という問題で、芦田さんが本当にそう考えたかどうかというのは歴史学者の間でも実は議論があるようでありまして、ですが、半ばは後知恵なのかもしれませんが、第二項の前項の目的のためには云々というのは、入れたのは、それによって初めてその自衛のためには一定の軍事力を持つということは当然であるということがその背景にある、込められた意味だと。
 そういうことがあったりしたわけですから、そうすると、非常にどう言っていいんでしょうか、皮肉な結果でありますが、言うまでもなく表向きは一切の武力を持たないということでスタートしたのが、それは何ぼ何でも不自然であるということで、何とか言わば潜り込ませるためにああいう規定になったし、それから憲法の第何条でしたか、文民の統制というようなことになるわけですね。文民が統制するという以上は、やっぱり文民でない軍隊というものがあると、軍事力というものがあるということが前提になると、そういうふうな議論がございましたね、当初からあるわけで。つまり、そういう非常に中途半端な形で、ぬえのようなことで入ったんだけれども、なぜ入ったかというのは当時の事情だと思います。ですから、今になってみると、いかにも無理であるというのは、そう考える方がかなりいても不思議ではないと思います。
 ですから、解釈、これは第三点ともかかわるわけですけれども、そういうふうな無理な解釈を続けていると、国民の間に憲法に対する不信とかあるいは政治に対する不信ということにつながるんじゃないかという危惧をおっしゃったわけですが、そういう議論が十分私も成り立つと思います。
 第二点ですが、これは、参考文献で私が付けさせていただいた文章は、実は一九九四年の細川内閣から羽田内閣、そして村山内閣と、あの大変な政治的に激動の時期に防衛問題懇談会という、通称樋口レポートというものの作業がなされたわけですが、それに私、参加した者として文章を書いているんですけれども、そこでは、例えば集団的自衛権というような話を出すとこれはなかなか議論が難しいだろうということで、それは直接には議論しないということで、具体的に問題にしたのは、つまり、今の憲法の文章を変えなくてもその中に十分に入るだろうという問題として、先ほど私が申し上げた、国際社会が集団的に平和を破ったものに対して行動するという、それに参加すると、当時のコンテクストでいうとPKO的なものですけれども。そういうものであってさえも日本が武力を持って参加するというのはいけないというふうになっているのは、これはおかしいんではないかという論点だったわけですね。
 そのときに、もう今申し上げてもいいんだろうと思うんですけれども、最初の草案はかなりはっきりとそこが書いてあったんですけれども、これは内閣法制局の方から待ったが掛かったわけですね。そこで、大いに議論いたしまして、それは内閣法制局として今までそのように解釈してきたというのはそれは分かると。それは内閣法制局は法制局の立場としておっしゃるのは分かる。しかし、それを一歩も出ないというのであれば、何もわざわざこんな諮問委員会を作る必要があるかと。今までの政府の解釈を一歩も出ないものを書けというのだったら、そもそも諮問委員会を作る意味がないわけでありますね。
 ということで頑張りまして、その樋口レポートが主張する立場を取るのかどうかということは、それはそれを受け取る内閣の総理大臣の判断であって、それを事前に、法制局の意見と違うからそれを引っ込めろというのは、それは法制局の権限ではないというふうに私は頑張りました。私たちは頑張りました。多少文言の上で柔らかくはしてありますが、その精神は貫いたというふうに私は思っております。それが内閣法制局の役割、それと政治的なリーダーシップとの役割との関係というふうに私は考えております。
 最後の点は、これはどういうふうに考えて、ドイツのように非常に合理的というのか何というのか、非常にきっちり制度を作っていくというやり方と比べると、日本は良く言えばイギリス風ですね。イギリスは別に憲法なんかなくても実際に運用でやっていくということですから、日本の解釈運用は若干それに近いんですけれども、中途半端ですよね。ドイツ的であるかイギリス的であるかということなんですが、半分ドイツ的で半分イギリス的であるもので、一応書かれた文面には何とか忠実にしようとしながら、しかし解釈するという、そういうところが非常にあいまいになる例であるので、憲法はなくていいというふうに言うとこれは極端になるわけでありますが、何というんですか、少なくとも書かれた憲法を我々としては持っていることは否定できないわけでありますから、それは私も、いろいろなこれだけ議論を重ねてきて、かついろいろな経験を重ねてきた現在の時点に立ってこれは無理だということで、もう少し率直にその事実を認めて、このような無理な文言は多分なくした方がいいんだろうと私も思います。
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野沢太三#18
○会長(野沢太三君) 椎名一保君、時間が参っておりますので、簡潔にお願いします。
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椎名一保#19
○椎名一保君 三参考人にはありがとうございました。
 あと一点、シビリアンコントロールのことにつきまして志方参考人にお伺いいたそうと思ったんですけれども、先ほど、これは極めて重要なことであるというお話をちょうだいいたしましたので、これで終わりにさせていただきます。
 ありがとうございました。
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野沢太三#20
○会長(野沢太三君) 堀利和君。
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堀利和#21
○堀利和君 民主党・新緑風会の堀利和でございます。よろしくお願いします。
 三人の参考人の先生方、大変貴重な御意見、ありがとうございます。時間の制約もありますので、早速質問に入らせていただきます。
 まず、三人の参考人に伺いたいと思います。
 米ソ対立の冷戦時代、これが終えんして冷戦後という時代に入るわけですけれども、ベルリンの壁も崩れた八〇年代から九〇年代初頭にかけて日本の防衛政策、自衛隊がどうなるかということと、またどうあるべきかということを当時どのようにお考えになったか、お聞かせ願いたいと思います。
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植村秀樹#22
○参考人(植村秀樹君) ベルリンの壁が崩壊し、冷戦が終わったとき、多くの人と同じように、私も世界はもっと安全なものになるだろうというふうに考えました。そうなりますと、自衛隊もそれまでほどの大きな部隊は必要なくなるだろうというふうにまず一つは思った記憶があります。
 それと、世界がどう変わるか、冷戦が終わったからといって直ちに平和で安定した世界になるとは限らなかったわけですから、その情勢を見ながらでありますけれども、冷戦下とは全く違う発想で自衛隊を利用する道も開けるのではないかというふうにも考えました。
 そしてもし、そう近い将来ではないと思いましたけれども、可能であるならば、憲法の文言にあるような方向で自衛隊を縮小していく、そういう道も開けることを多少は期待をしました。すぐに打ち砕かれたわけでありますけれども、そんなことを記憶しております。
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野沢太三#23
○会長(野沢太三君) 次に、志方参考人お願いします。
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志方俊之#24
○参考人(志方俊之君) ちょうどこの冷戦が終わるとき、私は自衛隊の北部方面総監として北海道の防衛の任に就いておりました。
 冷戦が終わる直前にリタイアしたわけでありますが、当時は、やはり冷戦が終わって平和の配当という言葉が出たように、みんなが平和になるだろうと思っておりました。私も、自衛隊というのは平和を維持するということですから、任務を達成したと、自分たちが持っている防衛力を使わないで済んだということで、一つの任務の達成感を感じました。私は、今でもそれを誇りに思っております。自衛官が培った力を使わないで済むということが国家の一番平和になるということであれば、これほどいいことはないということであります。
 しかしながら、それと同時に、この先、必ず世界というのはこの平和の配当というようなのにはならない、むしろ非常に脅威が多様化するということを感じておりましたので、やはり当時の自衛隊の編成、装備、兵力、こういうものは見直す必要があろうというように感じました。恐らく、この脅威の多様化に準じて自衛隊もそれぞれトランスフォーメーションをしていった、変革していったのだろうと思います。私は、その方向は間違っていないのではないかと思います。
 以上です。
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野沢太三#25
○会長(野沢太三君) それでは、渡辺参考人お願いします。
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渡辺昭夫#26
○参考人(渡辺昭夫君) 度々同じことに言及して申し訳ございませんが、先ほどの機会に申し上げた一九九四年に私が参画したいわゆる樋口レポートというのは、正に冷戦後の状況をどうとらえるか、その中で日米安保をどう再定義するか、その中で日本の防衛力の在り方をどう考えるかという宿題が、当時の細川総理大臣から与えられた課題だというふうに考えて私などは作業に当たったわけであります。
 この問題は非常に大きな話なので、また申し上げ残したことは後で補足させていただくかもしれませんが、ごくごく要点だけを申しますと、冷戦時代は言うまでもなくソ連というものの脅威に対してどう対処するかということであり、当然その対処するこちら側にいるのはアメリカであるということで、こういう言わば大きなもの同士がぶつかっているという感じですね。そういうものがなくなった後どうするのかということで、それが、ソ連の脅威がなくなればすべて世は事もなしになるんだと。ここからいわゆる平和の配当論ということになってきて、そして、日本の防衛力というものももう少し切り下げてほかに国家の予算を向けたらいいんじゃないかというのが平和の配当論だったと思うんですが、その樋口レポートは少なくともそうは考えなかったですね。
 なぜかというと、二つ理由があって、一つは、むしろソ連というような明確な形での脅威がなくなった後の国際安全保障というのは、もっと非常に読みにくく、また難しいし、いろんなことを考えなきゃいけないよと。そして、それに伴って、そういう新しいタイプの脅威に対しては、ここはちょっと皮肉なことですけれども、むしろ冷戦時代よりも日本がやるべきことが増える、あるいは日本の自衛隊がやらなきゃいけないことが増えるというふうに考えたわけで、再び先ほどの私の発言に戻れば、国際社会が全体として協力していろんなことに対処していくという場面が増えてくるだろうと。
 それは、国連という枠の中なのか、あるいは日米が二国でやるのか、あるいは地域的には何らかの仕組みという中でやるのか、それはいろんな形があるけれども、いずれにしろ、今までと違って、そういうより広い観点の中での安全保障上の役割に対して日本はもっと積極的にやっていかなきゃいけないだろうということで、先ほどもお話が出たように、例えば橋本・クリントン共同宣言辺りにはアジア太平洋という言葉が何度も出てくるというふうに、より広い文脈の中で日本の安全保障上の役割は増えるだろうというのが第一の理由でありますね。
 それから、第二の理由は、これは全く私の個人的な言い方になってしまうかもしれませんが、皮肉、まあ皮肉という言葉は良くないですね、結果的に見れば、冷戦時代に日本は、当時、三木内閣のころでしょうか、久保さんという方が防衛庁にいらっしゃって、平和時における何でしたか、平和時における防衛でしたか、という形でいわゆる基盤的防衛力というような考え方が出てくるわけですが、言わばその冷戦時代のコンテクストで言うとちょっと不思議だなと思われた考え方が実は冷戦後にむしろぴったりするような考え方になってくるということになって、言わば先取りしていたような形になっているわけですね。
 それをもう一遍裏返して言うと、そんなに大層な防衛力を実は持っていたわけではないのであって、基本的にはこの程度の防衛力でもって新しく日本が求められる役割をやっていくということの少なくとも基礎にはなるだろうと、いろんな部分的な修正はしなきゃいかぬ、そういうふうに我々は考えました。
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堀利和#27
○堀利和君 それでは、植村参考人にお伺いしたいと思います。
 冷戦後、自衛隊はむしろ海外派遣が頻繁に行われるようになりました。しかし、自衛隊法第八章の雑則の百条では、五項までは土木工事や教育訓練の受託あるいは南極観測への協力と、こういうことが規定されておりまして、六項から国際協力などの規定が加わって今日に至っているわけですけれども、そもそも自衛隊法は、自衛権としての自衛隊、最小限の武力を持った部隊の我が国の防衛ということが目的であるわけですけれども、こういうことをかんがみたとき、そこに問題がないのか、矛盾を受けないのかと思うんですが、いかがにお考えでしょうか。
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植村秀樹#28
○参考人(植村秀樹君) 確かに、自衛のための最小限度の実力ということで自衛隊があるわけでありまして、今日のように頻繁に海外に派遣をするということは非常に現場を見ても大きな問題を生じているというふうに思います。
 例えば、海上自衛隊がテロ特措法に基づいて今アラビア海に派遣をされております。元々、専守防衛ということで整備され運用されてきた海上自衛隊は、そのような長期間にわたる、遠いところに派遣をする、そういう仕組みになってはいないわけですね。そういうことからくる問題がもう既に幾つか生じております。
 先日も、許可された時間外での飲酒というような事件が発覚いたしましたけれども、これも私は、規律が緩んでいるとか、そういうことではなくて、かなり規律の高い自衛隊であるにもかかわらずそれを踏み外す、そういうほどの強いストレスを自衛官に与えているということだろうというふうに思います。
 それから、もっと大きな問題といたしまして、この派遣される護衛艦の中には護衛隊群の旗艦が三隻含まれております。それから、昨年の夏には、たしか四人いる護衛艦隊の司令のうち、一人しか日本にいないというような状態が生まれたりしております。つまり、四個隊群があって、それをローテーションで回して国土を守るというのが海上自衛隊の仕組みになっておりますので、あのような過大な負担を与えることによって、むしろ本務の方が、おろそかにとは言いませんけれども相当に無理が来ている、本務に支障を来しかねない状態を生んでいるというふうに思います。
 その辺りも、憲法があり、それに基づいて専守防衛といった戦略、政策を持ち、そういう形で組織され運用されている自衛隊に、このような頻繁な、しかも難しい、大規模な派遣ということがもたらす問題といいますか、矛盾というのは非常に大きいものがあると思います。
 さらに、これは例えば航空自衛隊では既に時々新聞にも出ておりますけれども、海外のいわゆる敵の基地を攻撃する能力ということですが、爆撃装置を付けた戦闘機、それから空中管制警戒機、空中給油機も取得しております。もう少しで言わば少なくとも能力を身に付けるまでに至ろうとしております。そういう点も含めて、現在の政策というものがこれまでの枠を踏み出しつつあるということは一つ憂慮すべき問題ではないかというふうに考えております。
 本務に支障を来しかねないような事態を招いても対米関係、対米配慮を優先するのかという問題が一つ生じますし、あるいは、逆に、専守防衛をかなぐり捨てて海外派兵海軍に変身を図るのかといった問題も、論議としてではなく事実として提起されているのではないかと。つまり、事実が先行して、政策論議がそれに後れて、憲法が一番後れているという本末転倒した事態を生み出しかねない危険があるように私は思っております。
 以上です。
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堀利和#29
○堀利和君 続けて、植村参考人にもう一問お伺いしたいんですけれども、自衛権、自衛隊、防衛政策に対して我が国固有の政策、歯止めといいますか、専守防衛、海外派兵禁止、防衛費GDP一%枠、非核三原則なり武器輸出禁止、こういう歯止め策についてどういう評価をなさっているか改めてもう一度お伺いしたいし、今後新たに何らかな歯止め政策が必要かどうか、この辺についてもお伺いしたいと思います。
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