厚生労働委員会
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会
会議録情報#0
平成二十一年七月七日(火曜日)
午前十時開会
─────────────
委員の異動
七月六日
辞任 補欠選任
家西 悟君 田中 康夫君
小林 正夫君 川上 義博君
姫井由美子君 下田 敦子君
森田 高君 亀井亜紀子君
丸川 珠代君 義家 弘介君
七月七日
辞任 補欠選任
川上 義博君 小林 正夫君
義家 弘介君 西田 昌司君
─────────────
出席者は左のとおり。
委員長 辻 泰弘君
理 事
川合 孝典君
中村 哲治君
柳田 稔君
衛藤 晟一君
山本 博司君
委 員
足立 信也君
梅村 聡君
亀井亜紀子君
川上 義博君
小林 正夫君
下田 敦子君
田中 康夫君
谷 博之君
森 ゆうこ君
石井 準一君
石井みどり君
岸 宏一君
島尻安伊子君
西島 英利君
西田 昌司君
南野知惠子君
古川 俊治君
義家 弘介君
渡辺 孝男君
小池 晃君
福島みずほ君
発議者 森 ゆうこ君
発議者 小池 晃君
委員以外の議員
発議者 千葉 景子君
発議者 岡崎トミ子君
発議者 近藤 正道君
議員 櫻井 充君
議員 川田 龍平君
衆議院議員
発議者 河野 太郎君
発議者 山内 康一君
発議者 冨岡 勉君
国務大臣
厚生労働大臣 舛添 要一君
事務局側
常任委員会専門
員 松田 茂敬君
政府参考人
文部科学大臣官
房審議官 寺西 達弥君
厚生労働省健康
局長 上田 博三君
参考人
日本移植支援協
会副理事長 高橋 和子君
大阪大学大学院
医学系研究科先
端移植基盤医療
学教授 高原 史郎君
大阪府立大学人
間社会学部教授 森岡 正博君
東京大学先端科
学技術研究セン
ター特任教授 米本 昌平君
─────────────
本日の会議に付した案件
○政府参考人の出席要求に関する件
○臓器の移植に関する法律の一部を改正する法律
案(衆議院提出)
○子どもに係る脳死及び臓器の移植に関する検討
等その他適正な移植医療の確保のための検討及
び検証等に関する法律案(千葉景子君外八名発
議)
─────────────
この発言だけを見る →午前十時開会
─────────────
委員の異動
七月六日
辞任 補欠選任
家西 悟君 田中 康夫君
小林 正夫君 川上 義博君
姫井由美子君 下田 敦子君
森田 高君 亀井亜紀子君
丸川 珠代君 義家 弘介君
七月七日
辞任 補欠選任
川上 義博君 小林 正夫君
義家 弘介君 西田 昌司君
─────────────
出席者は左のとおり。
委員長 辻 泰弘君
理 事
川合 孝典君
中村 哲治君
柳田 稔君
衛藤 晟一君
山本 博司君
委 員
足立 信也君
梅村 聡君
亀井亜紀子君
川上 義博君
小林 正夫君
下田 敦子君
田中 康夫君
谷 博之君
森 ゆうこ君
石井 準一君
石井みどり君
岸 宏一君
島尻安伊子君
西島 英利君
西田 昌司君
南野知惠子君
古川 俊治君
義家 弘介君
渡辺 孝男君
小池 晃君
福島みずほ君
発議者 森 ゆうこ君
発議者 小池 晃君
委員以外の議員
発議者 千葉 景子君
発議者 岡崎トミ子君
発議者 近藤 正道君
議員 櫻井 充君
議員 川田 龍平君
衆議院議員
発議者 河野 太郎君
発議者 山内 康一君
発議者 冨岡 勉君
国務大臣
厚生労働大臣 舛添 要一君
事務局側
常任委員会専門
員 松田 茂敬君
政府参考人
文部科学大臣官
房審議官 寺西 達弥君
厚生労働省健康
局長 上田 博三君
参考人
日本移植支援協
会副理事長 高橋 和子君
大阪大学大学院
医学系研究科先
端移植基盤医療
学教授 高原 史郎君
大阪府立大学人
間社会学部教授 森岡 正博君
東京大学先端科
学技術研究セン
ター特任教授 米本 昌平君
─────────────
本日の会議に付した案件
○政府参考人の出席要求に関する件
○臓器の移植に関する法律の一部を改正する法律
案(衆議院提出)
○子どもに係る脳死及び臓器の移植に関する検討
等その他適正な移植医療の確保のための検討及
び検証等に関する法律案(千葉景子君外八名発
議)
─────────────
辻
辻泰弘#1
○委員長(辻泰弘君) ただいまから厚生労働委員会を開会いたします。
委員の異動について御報告いたします。
昨日、丸川珠代君、姫井由美子君、森田高君、家西悟君及び小林正夫君が委員を辞任され、その補欠として義家弘介君、下田敦子君、亀井亜紀子君、田中康夫君及び川上義博君が選任されました。
─────────────
この発言だけを見る →委員の異動について御報告いたします。
昨日、丸川珠代君、姫井由美子君、森田高君、家西悟君及び小林正夫君が委員を辞任され、その補欠として義家弘介君、下田敦子君、亀井亜紀子君、田中康夫君及び川上義博君が選任されました。
─────────────
辻
辻泰弘#2
○委員長(辻泰弘君) 政府参考人の出席要求に関する件についてお諮りいたします。
臓器の移植に関する法律の一部を改正する法律案及び子どもに係る脳死及び臓器の移植に関する検討等その他適正な移植医療の確保のための検討及び検証等に関する法律案の審査のため、本日の委員会に、理事会協議のとおり、厚生労働省健康局長上田博三君外一名の政府参考人の出席を求め、その説明を聴取したいと存じますが、御異議ございませんか。
〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
この発言だけを見る →臓器の移植に関する法律の一部を改正する法律案及び子どもに係る脳死及び臓器の移植に関する検討等その他適正な移植医療の確保のための検討及び検証等に関する法律案の審査のため、本日の委員会に、理事会協議のとおり、厚生労働省健康局長上田博三君外一名の政府参考人の出席を求め、その説明を聴取したいと存じますが、御異議ございませんか。
〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
辻
辻
辻泰弘#4
○委員長(辻泰弘君) 臓器の移植に関する法律の一部を改正する法律案及び子どもに係る脳死及び臓器の移植に関する検討等その他適正な移植医療の確保のための検討及び検証等に関する法律案を議題とし、参考人の方々から御意見を聴取いたします。
本日御出席いただいております参考人の方々を御紹介申し上げます。
日本移植支援協会副理事長高橋和子参考人でございます。
次に、大阪大学大学院医学系研究科先端移植基盤医療学教授の高原史郎参考人でございます。
次に、大阪府立大学人間社会学部教授森岡正博参考人でございます。
次に、東京大学先端科学技術研究センター特任教授米本昌平参考人でございます。
以上の四名の方々に御出席いただいております。
この際、参考人の方々に一言ごあいさつを申し上げます。
皆様方には、御多忙中のところ御出席をいただきまして、誠にありがとうございます。
皆様方から忌憚のない御意見をお述べいただきまして、今後の両案審査の参考にさせていただきたいと存じます。何とぞよろしくお願い申し上げます。
次に、会議の進め方について申し上げます。
まず、参考人の方々からお一人十五分程度で順次御意見をお述べいただき、その後、委員の質疑にお答えをいただきたいと存じます。
なお、参考人、質疑者共に発言は着席のままで結構でございます。
それでは、まず高橋参考人にお願いをいたします。高橋参考人。
この発言だけを見る →本日御出席いただいております参考人の方々を御紹介申し上げます。
日本移植支援協会副理事長高橋和子参考人でございます。
次に、大阪大学大学院医学系研究科先端移植基盤医療学教授の高原史郎参考人でございます。
次に、大阪府立大学人間社会学部教授森岡正博参考人でございます。
次に、東京大学先端科学技術研究センター特任教授米本昌平参考人でございます。
以上の四名の方々に御出席いただいております。
この際、参考人の方々に一言ごあいさつを申し上げます。
皆様方には、御多忙中のところ御出席をいただきまして、誠にありがとうございます。
皆様方から忌憚のない御意見をお述べいただきまして、今後の両案審査の参考にさせていただきたいと存じます。何とぞよろしくお願い申し上げます。
次に、会議の進め方について申し上げます。
まず、参考人の方々からお一人十五分程度で順次御意見をお述べいただき、その後、委員の質疑にお答えをいただきたいと存じます。
なお、参考人、質疑者共に発言は着席のままで結構でございます。
それでは、まず高橋参考人にお願いをいたします。高橋参考人。
高
高橋和子#5
○参考人(高橋和子君) こんにちは。日本移植支援協会の高橋和子でございます。
このような立派なところで話すのが初めてなので少し緊張しておりますが、難しいことは先生たちにお願いして、私は支援の経験から家族や国民の声をお届けする役目かなと思っております。どうぞよろしくお願いいたします。
参考資料として、私どもの機関誌サポを添付しています。こちらには、藤田保健衛生大学医学部の脳神経外科主任教授であります佐野先生のメッセージも載っておりますが、昨年、全国大会におきまして、脳死は死だということを御講演賜りました。あと、活動などが出ておりますので、参考までによろしくお願いします。
それからもう一つ、小冊子なんですが、こちらは成育医療センター研究所移植・外科研究部の絵野沢先生のなんですが、私どものホームページを参考にしてデータベースを作りましたよということをお伺いしましたので、渡航移植の苦悩についての視点ということで、結構いい資料だと思いますので見ていただけたらと思います。よろしくお願いいたします。
十年一昔と言いますけれども、移植法ができてもう十年、昔なんですね。ちょうどそのころ私は、三歳のかわいい男の子を臓器移植で救わなければならないということにぶつかりました。日本ではできないということでアメリカに渡り、当時、目標金額六千万円ということで募金をいたしまして支援をいたしました。残念ながら、アメリカに着きましたら非常に重症で、ICUに三か月、治療代は一日百万、二百万となりまして、本当に家族は悲鳴でございました。私も国際電話掛かってきて、もうあきらめるとか言えないし、もうとにかく聞いてあげることしかできませんでした。
このびっくりの、どうして日本が助けられないのかということも含め、本当に大変な経験をいたしました。
結局亡くなりまして、一億五千以上の請求が来まして、これは大変と青ざめましたけれども、もうどうにもできなくて追加募金いたしましたが届きません。ドクターと相談してアメリカに飛んでいただき、向こうの病院に交渉をしていただくという、そして寛大なアメリカなんですが、ディスカウントオーケーになりまして、何とか残された家族の生活を守ることはできました。
あの経験は忘れられません。子供を持つ親でしたらだれでも、何としても助けたいという気持ちになるのが自然だと思います。何でもしますね。なぜ日本で助けられないのかということで、今もこの渡航は続いております。
あの悔しい思いをばねにNPOを立ち上げまして、啓発活動に入りました。私たちは、生きたいという一つの願いをかなえてあげたいという、その思いだけでございます。先進国の我が国が移植難民となって、これまでにたくさんの患者さんの命をつなげております。脳死は死であると分かっているのですから、一日も早い世界レベルになってほしいと思います。
衆議院で可決されましたA案に心からうれしく、希望の日差しが差しました。これで子供たちを救えるとうれしい涙を流した人もおりますが、これまでにたくさんの患者さんが亡くなっていったことを思い出して悔しい涙を流す方もおりました。協会は一〇〇%うれしく、万歳をしてしまうほどはしゃいでしまいましたが、国民は皆喜んでおります。全国からおめでとう、良かったですねという電話がりんりん鳴りまして、その日は大変でございました。
参議院の先生たちにもう一度申し上げます。国民はA案にみんな喜んでおります。国の宝、子供の命は自国の法律で救わなければなりません。昔は守りだったのかもしれませんが、情報の入る現在では、国民は理解しやすく、成長しまして、昔と違います。今に生きる子供たちは十歳でも賢く、よく分かります。まあ、二歳とか五歳の子供は意思表示はやはり無理ですね。しかし、そのために保護者というものがあるのではないでしょうか。理解をした保護者が家族の同意等々、命を救うために一歩進めて積極的になってよいと思います。A案は拒否権があるのですから反対派にも平等だと思います。NHKの世論調査も六〇%賛成です。国民の理解は、無知な昔と違って全く違ってきております。
世論が高まった今は啓発活動が非常にやりやすいです。チャリティーコンサートの会場は、慈愛に満ちて、善意の輪で大盛況でございます。学校からの講演や勉強会も依頼が来るようになりました。先日亡くなりましたプロレスリング・ノア、三沢さんなんですが、ジャンボ鶴田さんが肝臓移植で亡くなってからずっと啓発活動に御協力長くいただきました。お別れ会は二万五千人の行列になったそうで、全国の方が知らない方はいないほどでございます。先生方のお耳にも入っているかと思いますが、大きな啓発になっております。
また、移植患者が一人渡航して、助けるために地域を挙げて募金を行いますが、その際は県挙げて三万人の方が動きます。御協力いただきます。その都度多額が集まります。助けたいという国民の根付いた優しさがあるからだと思います。
臓器移植は日本の文化に合わないと言う方がいると聞きましたが、とんでもございません。日本には優しさというすばらしい文化があるのではないでしょうか。でなければ億のお金は集まりません。そして、移植に賛成だから御寄附くださる、反対であれば応援はくれません。今、理解は深まって、ドネーションという本当の優しさの医療が始められるのではないでしょうか。
先週、アメリカで子供が一人亡くなりました。事務局に第三者から電話が入りまして、年配の方でした。大人の責任で申し訳ない、電話の向こうで泣いている声が聞こえました。そういう優しい方があります。
先生方、小さな命などどこにもないのです。大人の作った法律で子供を救えない、こういうような政治では少子化は進みます。一事が万事でございます。国民は、厚生労働省にもう我慢できないのではないでしょうか。これはこの国の殺人と言う方もいらっしゃいます。議論をしている間に本当にどれだけの患者を救えたのかと怒る方もいらっしゃいます。どうか先生方、A案で、国民の心をしっかり受け止め、WHOレベルに、一日も早い移植推進整備をお願い申し上げます。
ここから先は患者の声をお伝えいたします。私がここの参考人に呼ばれるということで、何か言いたいことありますかといただいた言葉です。
患者から。こんなに元気になりました。国内で早く移植ができるようにしてほしい。助けていただいて、毎日、一日一日大切に幸せに生きております。応援いただいた皆さんとドナーに感謝の日々で生きております。元気になって学校へ行っています。毎日お薬は飲んでいますが、あとは普通に暮らせております。ドナーへの恩返しは元気に生き続けることです。
家族からです。悲しみはもう、うちの子供で終わりにしてください。次の子からは国内で移植ができるようお願いいたします。結婚いたしました。こんなに元気になり、うそのようです。移植医療のことを伝えたい。本当にありがとうございました。元気に成長しております。この子は八歳で移植したんですが、今中学二年になったということです。参議院でA案が通ることを祈っております。一日も早い法案をお願いいたします。みんなを助けてあげてほしい。
全国移植団体、国民の声です。必ず通ると信じております。百万人の署名運動はいつまで続けるのか。先生たちはいつ分かってくれるのでしょうか。いつまでもほっておくのは、これは殺人と同じだ。変えてほしい。患者の生きる権利を尊重してください。移植でこんなに元気になるのかと驚く人はたくさん、多いですよ。本人の意思と家族の思いを酌み取る医療へやっと見直していただけるんですね。死の定義を避けてきた日本、時代に合った死の定義をしてほしいです。
以上でございます。
どうか先生方、御自分の家族を救う、国民を救うことを思って、A案で通していただけますよう、心からお願い申し上げます。私たちは、これからも国民のマインドを上げるよう啓発活動を行ってまいります。
ありがとうございました。
この発言だけを見る →このような立派なところで話すのが初めてなので少し緊張しておりますが、難しいことは先生たちにお願いして、私は支援の経験から家族や国民の声をお届けする役目かなと思っております。どうぞよろしくお願いいたします。
参考資料として、私どもの機関誌サポを添付しています。こちらには、藤田保健衛生大学医学部の脳神経外科主任教授であります佐野先生のメッセージも載っておりますが、昨年、全国大会におきまして、脳死は死だということを御講演賜りました。あと、活動などが出ておりますので、参考までによろしくお願いします。
それからもう一つ、小冊子なんですが、こちらは成育医療センター研究所移植・外科研究部の絵野沢先生のなんですが、私どものホームページを参考にしてデータベースを作りましたよということをお伺いしましたので、渡航移植の苦悩についての視点ということで、結構いい資料だと思いますので見ていただけたらと思います。よろしくお願いいたします。
十年一昔と言いますけれども、移植法ができてもう十年、昔なんですね。ちょうどそのころ私は、三歳のかわいい男の子を臓器移植で救わなければならないということにぶつかりました。日本ではできないということでアメリカに渡り、当時、目標金額六千万円ということで募金をいたしまして支援をいたしました。残念ながら、アメリカに着きましたら非常に重症で、ICUに三か月、治療代は一日百万、二百万となりまして、本当に家族は悲鳴でございました。私も国際電話掛かってきて、もうあきらめるとか言えないし、もうとにかく聞いてあげることしかできませんでした。
このびっくりの、どうして日本が助けられないのかということも含め、本当に大変な経験をいたしました。
結局亡くなりまして、一億五千以上の請求が来まして、これは大変と青ざめましたけれども、もうどうにもできなくて追加募金いたしましたが届きません。ドクターと相談してアメリカに飛んでいただき、向こうの病院に交渉をしていただくという、そして寛大なアメリカなんですが、ディスカウントオーケーになりまして、何とか残された家族の生活を守ることはできました。
あの経験は忘れられません。子供を持つ親でしたらだれでも、何としても助けたいという気持ちになるのが自然だと思います。何でもしますね。なぜ日本で助けられないのかということで、今もこの渡航は続いております。
あの悔しい思いをばねにNPOを立ち上げまして、啓発活動に入りました。私たちは、生きたいという一つの願いをかなえてあげたいという、その思いだけでございます。先進国の我が国が移植難民となって、これまでにたくさんの患者さんの命をつなげております。脳死は死であると分かっているのですから、一日も早い世界レベルになってほしいと思います。
衆議院で可決されましたA案に心からうれしく、希望の日差しが差しました。これで子供たちを救えるとうれしい涙を流した人もおりますが、これまでにたくさんの患者さんが亡くなっていったことを思い出して悔しい涙を流す方もおりました。協会は一〇〇%うれしく、万歳をしてしまうほどはしゃいでしまいましたが、国民は皆喜んでおります。全国からおめでとう、良かったですねという電話がりんりん鳴りまして、その日は大変でございました。
参議院の先生たちにもう一度申し上げます。国民はA案にみんな喜んでおります。国の宝、子供の命は自国の法律で救わなければなりません。昔は守りだったのかもしれませんが、情報の入る現在では、国民は理解しやすく、成長しまして、昔と違います。今に生きる子供たちは十歳でも賢く、よく分かります。まあ、二歳とか五歳の子供は意思表示はやはり無理ですね。しかし、そのために保護者というものがあるのではないでしょうか。理解をした保護者が家族の同意等々、命を救うために一歩進めて積極的になってよいと思います。A案は拒否権があるのですから反対派にも平等だと思います。NHKの世論調査も六〇%賛成です。国民の理解は、無知な昔と違って全く違ってきております。
世論が高まった今は啓発活動が非常にやりやすいです。チャリティーコンサートの会場は、慈愛に満ちて、善意の輪で大盛況でございます。学校からの講演や勉強会も依頼が来るようになりました。先日亡くなりましたプロレスリング・ノア、三沢さんなんですが、ジャンボ鶴田さんが肝臓移植で亡くなってからずっと啓発活動に御協力長くいただきました。お別れ会は二万五千人の行列になったそうで、全国の方が知らない方はいないほどでございます。先生方のお耳にも入っているかと思いますが、大きな啓発になっております。
また、移植患者が一人渡航して、助けるために地域を挙げて募金を行いますが、その際は県挙げて三万人の方が動きます。御協力いただきます。その都度多額が集まります。助けたいという国民の根付いた優しさがあるからだと思います。
臓器移植は日本の文化に合わないと言う方がいると聞きましたが、とんでもございません。日本には優しさというすばらしい文化があるのではないでしょうか。でなければ億のお金は集まりません。そして、移植に賛成だから御寄附くださる、反対であれば応援はくれません。今、理解は深まって、ドネーションという本当の優しさの医療が始められるのではないでしょうか。
先週、アメリカで子供が一人亡くなりました。事務局に第三者から電話が入りまして、年配の方でした。大人の責任で申し訳ない、電話の向こうで泣いている声が聞こえました。そういう優しい方があります。
先生方、小さな命などどこにもないのです。大人の作った法律で子供を救えない、こういうような政治では少子化は進みます。一事が万事でございます。国民は、厚生労働省にもう我慢できないのではないでしょうか。これはこの国の殺人と言う方もいらっしゃいます。議論をしている間に本当にどれだけの患者を救えたのかと怒る方もいらっしゃいます。どうか先生方、A案で、国民の心をしっかり受け止め、WHOレベルに、一日も早い移植推進整備をお願い申し上げます。
ここから先は患者の声をお伝えいたします。私がここの参考人に呼ばれるということで、何か言いたいことありますかといただいた言葉です。
患者から。こんなに元気になりました。国内で早く移植ができるようにしてほしい。助けていただいて、毎日、一日一日大切に幸せに生きております。応援いただいた皆さんとドナーに感謝の日々で生きております。元気になって学校へ行っています。毎日お薬は飲んでいますが、あとは普通に暮らせております。ドナーへの恩返しは元気に生き続けることです。
家族からです。悲しみはもう、うちの子供で終わりにしてください。次の子からは国内で移植ができるようお願いいたします。結婚いたしました。こんなに元気になり、うそのようです。移植医療のことを伝えたい。本当にありがとうございました。元気に成長しております。この子は八歳で移植したんですが、今中学二年になったということです。参議院でA案が通ることを祈っております。一日も早い法案をお願いいたします。みんなを助けてあげてほしい。
全国移植団体、国民の声です。必ず通ると信じております。百万人の署名運動はいつまで続けるのか。先生たちはいつ分かってくれるのでしょうか。いつまでもほっておくのは、これは殺人と同じだ。変えてほしい。患者の生きる権利を尊重してください。移植でこんなに元気になるのかと驚く人はたくさん、多いですよ。本人の意思と家族の思いを酌み取る医療へやっと見直していただけるんですね。死の定義を避けてきた日本、時代に合った死の定義をしてほしいです。
以上でございます。
どうか先生方、御自分の家族を救う、国民を救うことを思って、A案で通していただけますよう、心からお願い申し上げます。私たちは、これからも国民のマインドを上げるよう啓発活動を行ってまいります。
ありがとうございました。
辻
高
高原史郎#7
○参考人(高原史郎君) 一言お礼申し上げます。発表の機会を与えていただき、ありがとうございます。座ったままでお願いします。
なぜ私が今ここにいるかなんですけれども、私の所属する大学附属病院は、心臓移植、肝臓移植、肺移植、膵臓移植、腎臓移植、全部行っています。お世話するために移植医療部という臨床部がありまして、私は以前そこの世話役をしていました、今は違うんですけれども。そこでは、やっぱり私の専門とする腎臓移植や膵臓移植だけじゃなくて、肝臓移植、心臓移植、肺移植のいわゆるカンファランスですね、移植前の方、移植した方、それをドクターだけじゃなくて、技師の方々とかコーディネーターの方々と一緒に検討していました。そういうことで、いろんな経験があるということで私が選ばれたのかもしれません。
最初に私が申し上げたい点は、実際にどのくらいの数の患者さんが移植によって救うことができずに亡くなられているかです。七月二日の参考人意見陳述で、日本移植学会の寺岡理事長が説明しましたように、心臓移植によって救えたはずの患者さんの数は、少なく見積もって年間四百人から五百人です。肝臓移植で年間救えたはずの方が二千二百人から二千三百人。私の専門とします腎臓移植に至っては、血液透析、腹膜透析をされている今約二十八万人の患者さんの中の適用は約十五万人以上です。移植によって生命予後を延ばす効果を考えますと、数千人の効果があります。つまり、臓器移植を受けていれば助かっていた可能性の高い人の数は年間一万人以上であり、交通事故で毎年亡くなられている人の数よりも多いのです。
日本という国にとって、臓器移植という医療があった方がよいのか。あった方がよいのであれば、何をすべきか、どのような優先順位ですべきか、この点が重要だと考えます。
私がA案を推進するのも、A案が通ってすぐに増えるわけではありませんが、まずこのA案を通してドアを開けない限り、次に進まないことが明らかだからです。では、これから今後、日本における臓器移植を必要とされる患者さんの数は増えるのでしょうか、減るのでしょうか。
肝臓移植を例に取ります。今、C型肝炎の患者さんの数は約二百万人と言われています。今後数年、少なくとも十年以内に数万人の患者さんが肝臓移植を必要とします。これらの患者さんにおいて生体移植のドナーが見付かるとは限りません。実際に行われる数は年間四、五百例です。腎臓移植においては、四十万人程度にまで透析の数が増えると言われています。現在の年間の生体臓器移植の数は千人から千百人ですから、今後十年以内に三倍、四倍に増える見込みはほとんどありません。医療経済的にも、現在、血液透析で一兆数千億円のお金が掛かっております。実際に臓器移植のニーズは非常に高いと考えていいと思います。
海外渡航移植について述べます。
私自身が班員の一人でありました厚生労働科学研究の調査によれば、これは三年前の調査ですが、海外で移植されて日本の移植している施設、主に日本移植学会の施設ですが、に通院されている方は、肝臓移植でその当時約二百人、腎臓は数百人、これはちょっと実数が分かりません、移植学会以外の施設でも見ていますから。心臓移植でも百数十人の方でした。また、この方々の大多数が大人の方であり、今回大きく問題になっている子供だけではありません。つまり、これらの数は氷山の一角です。特に腎臓移植においては、特定の施設以外の医療機関で通っていらっしゃる方が多く、実際に本当に数は分かりません。
今後、もし、今回の法改正において、これから日本での臓器移植は増える見込みがない、現在の法律ですが、となった場合、どのようなことが起こるでしょうか。恐らく、やみに隠れ、海外での違法な移植、非倫理的な移植が増えるでしょう。
イスタンブール宣言のことがよく話題に上がります。昨年の四月、私も日本からの出席者四人のうちの一人として参加しました。これくらいの部屋の中に世界中から二百数十人が集まって、二日間缶詰になりました。移植医療の方々、WHOのメンバーの方、医療倫理の方々、この二日間まるっきりその中でやったんですね、会議を。
予想どおり、日本は名指しで非難されました。特に発展途上国からの非難は非常に厳しいものでした。お金で臓器を買いに来る。その結果、自分たちの国の中で本来その臓器を必要とされている患者さんが死んでいる。日本だけが、先進国の中で日本だけがなぜほとんど臓器移植が増えないのか、極端に少ないのか。非常に厳しい質問、なぜなのか、問いかけを受けました、二日間。セルフサフィシエンシー、自分たちの国で必要な臓器移植のドナーは自分たちの国の中で賄う。その二日間の会議の中で、そんなことは当然だ、なぜわざわざそんなことを宣言し、WHOのガイドラインに入れようとするのか。要するに、名指しで非難された金で臓器を買いに来る日本のような国を防ぐためなんです。もうはっきり言われました。
これもよく新聞に載っていますが、WHOのガイドラインの変更は今年は見送られました。来年になる見込みです。しかし、昨年のイスタンブール宣言以降、実際に日本からヨーロッパ、アメリカ等の海外での肝臓移植、心臓移植で行われているのはほんのごくわずかの数です。
例えばアメリカだと、デポジットを三億円入れろと言ってきます。一〇%ルールというのはアメリカは変えませんから、三億円入れろということは要するに断っているんです、彼らの意思表示として。ドイツはもう断っています。実際に今、高橋先生もおっしゃったように、お金を集めても行けなくなっていますし、より強調したいことは、最初に私が申し上げたように、本当に必要としている数は年間四百人、心臓だけでいらっしゃるんです。この十数年間で移植ができなくて亡くなられた方は十万人を軽く超えるんです。
もう一度繰り返しますが、日本の国として、この国にとって臓器移植という医療があった方がいいのか。いいのであれば、どういう優先順位で何をすべきか。私は、やはりA案をまず通すことだと思います。
日本はまだ臓器移植のためのインフラが整っていないのではないかとよく御質問を受けます。私もその提供の現場にお手伝いに行くこともありますので、そういう質問をよく受けます。私がそのやっぱり現場においてつくづく感じますのは、インフラがしっかり整っているところから始め、少しずつ広げていくのが正しい方法じゃないかと思います。
例えば、日本臓器移植ネットワークにはコンサルテーション医師というのが登録されています。私もそうです。私は何かというと、ちょっとこの方は厳しい状態なので、非常に言葉はちょっと失礼な言い方になりますけれども、この腎臓使えるかどうか分からないから来てくれと言われたら行くんですよね。脳死の診断でも、やっぱり四類型の病院でもそんなにしょっちゅうあるわけではありませんから、特に臓器提供の法的の手順というのは結構複雑なところもありますので。そういういわゆるお助けマンですよね。今でもいらっしゃるんです。やはり今あるインフラを少しずつ広げていくというところが大事だと思います。
虐待についてもよく言われるんですけれども、私もISODP、インターナショナル・ソサエティー・オブ・オーガン・ドネイション・アンド・プロキュアメントといって、要するに政府機関と学会の人間が一緒にどうやって臓器移植をそれぞれの国で増やしましょうかというところの理事をやっているので、よくそういう話題を受けることあるんですけれども、まず虐待のことも含めてドメスティック・バイオレンスすべて共通して言えるんですけれども、何万人もやっているわけですから、アメリカ、ヨーロッパ。数がやればやるほどコーディネーターの方及びそのシステムが慣れてくるから、はっきり言えることは、慣れれば慣れるほど、数が増えれば増えるほどそういうドメスティック・バイオレンスとか虐待についての見極め、チェックは、より精度が高くなる。それははっきり言えると思います。
あと、もう一つ言われたいのは、やっぱりドナーファミリーのケアについてですよね。これはもう当然のことであって、崇高な精神で提供されたわけですから、後で何か悩んでいらっしゃるんじゃないかとか、あと後悔している人いるんじゃないかとか、こういういろんな意見を聞くんですけれども、私が間接的にですけれども経験したことを一言だけ述べさせていただくと、実際に今の法律下で脳死提供が行われました、あるところで。提供されたんですね。御家族の方ももちろんドナーカードもあって申出されたんですけれども。後から今の法律をよく読むと、あのとき自分が、その御家族の方ですね、あのとき自分がうんと言ってサインしたから脳死診断が行われて移植をされたわけですよね。ということは、自分があのときサインしていなければ死の診断は実際には遅れていると思うんですよね。ということは、自分がある程度死の判断に関与したと、それはやっぱり遺族と家庭としては非常につらいことだというふうに、間接的で、僕は聞きません、コーディネーターの方からお聞きしたんです。
そういうふうな経験ありますから、今の法律の方がむしろドナーファミリーの方にとってはおつらい要因が大きいということは私ははっきり言えると思います。私は移植サイドなので、直接提供された方には会うことはほとんどないんですけれども、コーディネーターの方はよくお会いすることがあるので。特にドナーファミリーのケアは大事です。
一つだけ例を申し上げますと、昨年、日本移植学会という学会を私が会長でやったんですけれども、いわゆる学術集会ですよね。でも、去年はもうさすがにそれだけじゃ済まないということで、ドナーファミリーの方にも集まってきてもらって、学会自体のテーマを「いのち・希望・感謝」というふうなテーマにして、一日掛けて、実際ドナーファミリーの方にちょっとでも光が当たるように、どうすれば、移植医療というと僕ら医療従事者は限られていますから、やれることが。どうやって光を当てていけばいいか、僕たちがお手伝いできることをやってみました。だから、今後はこのような学会だけじゃなくて、公的なやっぱり支援の枠組みというか、いろんなのが必要だと思います。
今の法律の中でも、これは行政の方も、そこそこと言うと非常に失礼ですけれども、よくやっていらっしゃる部分もあると思うんですよね。当たり前のことですけれども、移植医療者だけで提供が増えるわけではありません。今の枠組みで何とか増えないかということを我々も頑張っているんですけれども、例えば、去年、移植学会に合わせてWHOと厚労省と学会が共催で会議を開きました。これはやっぱり行政の方にも、日本からは上田局長がわざわざ来てくださって、どうやって少しでも増やしていこうかという会議をやったんですけれども、一日だけの会議なので限度がありまして、やはり残念ながらそこでも言われていたのは、日本は変な国と言われたんですよね。なぜこれだけ先進国で医療技術があって行政システムが発達しているのに提供が増えないのかと。もちろん、臓器提供にはいろんな問題あるだろうけれども、やっぱり社会として、日本の国としてあった方がいいのであれば、やること決まっているじゃないかというふうに言われました。
先ほどから私は同じことを繰り返していますけれども、私はA案推進なんです。なぜかというと、A案が通ってもそんなすぐ増えるわけじゃないんですけれども、本当にやっぱり医療従事者、さっき申し上げた移植医療部の部長として、移植の専門家として、それから実際に、昔コーディネーターがいらっしゃらないころ、私もコーディネーターみたいなことをやったことありますから、それの経験からいって、この案が通らないと前へ進まないんです。そこだけは御理解いただきたいと思いますね。
以上です。ありがとうございました。
この発言だけを見る →なぜ私が今ここにいるかなんですけれども、私の所属する大学附属病院は、心臓移植、肝臓移植、肺移植、膵臓移植、腎臓移植、全部行っています。お世話するために移植医療部という臨床部がありまして、私は以前そこの世話役をしていました、今は違うんですけれども。そこでは、やっぱり私の専門とする腎臓移植や膵臓移植だけじゃなくて、肝臓移植、心臓移植、肺移植のいわゆるカンファランスですね、移植前の方、移植した方、それをドクターだけじゃなくて、技師の方々とかコーディネーターの方々と一緒に検討していました。そういうことで、いろんな経験があるということで私が選ばれたのかもしれません。
最初に私が申し上げたい点は、実際にどのくらいの数の患者さんが移植によって救うことができずに亡くなられているかです。七月二日の参考人意見陳述で、日本移植学会の寺岡理事長が説明しましたように、心臓移植によって救えたはずの患者さんの数は、少なく見積もって年間四百人から五百人です。肝臓移植で年間救えたはずの方が二千二百人から二千三百人。私の専門とします腎臓移植に至っては、血液透析、腹膜透析をされている今約二十八万人の患者さんの中の適用は約十五万人以上です。移植によって生命予後を延ばす効果を考えますと、数千人の効果があります。つまり、臓器移植を受けていれば助かっていた可能性の高い人の数は年間一万人以上であり、交通事故で毎年亡くなられている人の数よりも多いのです。
日本という国にとって、臓器移植という医療があった方がよいのか。あった方がよいのであれば、何をすべきか、どのような優先順位ですべきか、この点が重要だと考えます。
私がA案を推進するのも、A案が通ってすぐに増えるわけではありませんが、まずこのA案を通してドアを開けない限り、次に進まないことが明らかだからです。では、これから今後、日本における臓器移植を必要とされる患者さんの数は増えるのでしょうか、減るのでしょうか。
肝臓移植を例に取ります。今、C型肝炎の患者さんの数は約二百万人と言われています。今後数年、少なくとも十年以内に数万人の患者さんが肝臓移植を必要とします。これらの患者さんにおいて生体移植のドナーが見付かるとは限りません。実際に行われる数は年間四、五百例です。腎臓移植においては、四十万人程度にまで透析の数が増えると言われています。現在の年間の生体臓器移植の数は千人から千百人ですから、今後十年以内に三倍、四倍に増える見込みはほとんどありません。医療経済的にも、現在、血液透析で一兆数千億円のお金が掛かっております。実際に臓器移植のニーズは非常に高いと考えていいと思います。
海外渡航移植について述べます。
私自身が班員の一人でありました厚生労働科学研究の調査によれば、これは三年前の調査ですが、海外で移植されて日本の移植している施設、主に日本移植学会の施設ですが、に通院されている方は、肝臓移植でその当時約二百人、腎臓は数百人、これはちょっと実数が分かりません、移植学会以外の施設でも見ていますから。心臓移植でも百数十人の方でした。また、この方々の大多数が大人の方であり、今回大きく問題になっている子供だけではありません。つまり、これらの数は氷山の一角です。特に腎臓移植においては、特定の施設以外の医療機関で通っていらっしゃる方が多く、実際に本当に数は分かりません。
今後、もし、今回の法改正において、これから日本での臓器移植は増える見込みがない、現在の法律ですが、となった場合、どのようなことが起こるでしょうか。恐らく、やみに隠れ、海外での違法な移植、非倫理的な移植が増えるでしょう。
イスタンブール宣言のことがよく話題に上がります。昨年の四月、私も日本からの出席者四人のうちの一人として参加しました。これくらいの部屋の中に世界中から二百数十人が集まって、二日間缶詰になりました。移植医療の方々、WHOのメンバーの方、医療倫理の方々、この二日間まるっきりその中でやったんですね、会議を。
予想どおり、日本は名指しで非難されました。特に発展途上国からの非難は非常に厳しいものでした。お金で臓器を買いに来る。その結果、自分たちの国の中で本来その臓器を必要とされている患者さんが死んでいる。日本だけが、先進国の中で日本だけがなぜほとんど臓器移植が増えないのか、極端に少ないのか。非常に厳しい質問、なぜなのか、問いかけを受けました、二日間。セルフサフィシエンシー、自分たちの国で必要な臓器移植のドナーは自分たちの国の中で賄う。その二日間の会議の中で、そんなことは当然だ、なぜわざわざそんなことを宣言し、WHOのガイドラインに入れようとするのか。要するに、名指しで非難された金で臓器を買いに来る日本のような国を防ぐためなんです。もうはっきり言われました。
これもよく新聞に載っていますが、WHOのガイドラインの変更は今年は見送られました。来年になる見込みです。しかし、昨年のイスタンブール宣言以降、実際に日本からヨーロッパ、アメリカ等の海外での肝臓移植、心臓移植で行われているのはほんのごくわずかの数です。
例えばアメリカだと、デポジットを三億円入れろと言ってきます。一〇%ルールというのはアメリカは変えませんから、三億円入れろということは要するに断っているんです、彼らの意思表示として。ドイツはもう断っています。実際に今、高橋先生もおっしゃったように、お金を集めても行けなくなっていますし、より強調したいことは、最初に私が申し上げたように、本当に必要としている数は年間四百人、心臓だけでいらっしゃるんです。この十数年間で移植ができなくて亡くなられた方は十万人を軽く超えるんです。
もう一度繰り返しますが、日本の国として、この国にとって臓器移植という医療があった方がいいのか。いいのであれば、どういう優先順位で何をすべきか。私は、やはりA案をまず通すことだと思います。
日本はまだ臓器移植のためのインフラが整っていないのではないかとよく御質問を受けます。私もその提供の現場にお手伝いに行くこともありますので、そういう質問をよく受けます。私がそのやっぱり現場においてつくづく感じますのは、インフラがしっかり整っているところから始め、少しずつ広げていくのが正しい方法じゃないかと思います。
例えば、日本臓器移植ネットワークにはコンサルテーション医師というのが登録されています。私もそうです。私は何かというと、ちょっとこの方は厳しい状態なので、非常に言葉はちょっと失礼な言い方になりますけれども、この腎臓使えるかどうか分からないから来てくれと言われたら行くんですよね。脳死の診断でも、やっぱり四類型の病院でもそんなにしょっちゅうあるわけではありませんから、特に臓器提供の法的の手順というのは結構複雑なところもありますので。そういういわゆるお助けマンですよね。今でもいらっしゃるんです。やはり今あるインフラを少しずつ広げていくというところが大事だと思います。
虐待についてもよく言われるんですけれども、私もISODP、インターナショナル・ソサエティー・オブ・オーガン・ドネイション・アンド・プロキュアメントといって、要するに政府機関と学会の人間が一緒にどうやって臓器移植をそれぞれの国で増やしましょうかというところの理事をやっているので、よくそういう話題を受けることあるんですけれども、まず虐待のことも含めてドメスティック・バイオレンスすべて共通して言えるんですけれども、何万人もやっているわけですから、アメリカ、ヨーロッパ。数がやればやるほどコーディネーターの方及びそのシステムが慣れてくるから、はっきり言えることは、慣れれば慣れるほど、数が増えれば増えるほどそういうドメスティック・バイオレンスとか虐待についての見極め、チェックは、より精度が高くなる。それははっきり言えると思います。
あと、もう一つ言われたいのは、やっぱりドナーファミリーのケアについてですよね。これはもう当然のことであって、崇高な精神で提供されたわけですから、後で何か悩んでいらっしゃるんじゃないかとか、あと後悔している人いるんじゃないかとか、こういういろんな意見を聞くんですけれども、私が間接的にですけれども経験したことを一言だけ述べさせていただくと、実際に今の法律下で脳死提供が行われました、あるところで。提供されたんですね。御家族の方ももちろんドナーカードもあって申出されたんですけれども。後から今の法律をよく読むと、あのとき自分が、その御家族の方ですね、あのとき自分がうんと言ってサインしたから脳死診断が行われて移植をされたわけですよね。ということは、自分があのときサインしていなければ死の診断は実際には遅れていると思うんですよね。ということは、自分がある程度死の判断に関与したと、それはやっぱり遺族と家庭としては非常につらいことだというふうに、間接的で、僕は聞きません、コーディネーターの方からお聞きしたんです。
そういうふうな経験ありますから、今の法律の方がむしろドナーファミリーの方にとってはおつらい要因が大きいということは私ははっきり言えると思います。私は移植サイドなので、直接提供された方には会うことはほとんどないんですけれども、コーディネーターの方はよくお会いすることがあるので。特にドナーファミリーのケアは大事です。
一つだけ例を申し上げますと、昨年、日本移植学会という学会を私が会長でやったんですけれども、いわゆる学術集会ですよね。でも、去年はもうさすがにそれだけじゃ済まないということで、ドナーファミリーの方にも集まってきてもらって、学会自体のテーマを「いのち・希望・感謝」というふうなテーマにして、一日掛けて、実際ドナーファミリーの方にちょっとでも光が当たるように、どうすれば、移植医療というと僕ら医療従事者は限られていますから、やれることが。どうやって光を当てていけばいいか、僕たちがお手伝いできることをやってみました。だから、今後はこのような学会だけじゃなくて、公的なやっぱり支援の枠組みというか、いろんなのが必要だと思います。
今の法律の中でも、これは行政の方も、そこそこと言うと非常に失礼ですけれども、よくやっていらっしゃる部分もあると思うんですよね。当たり前のことですけれども、移植医療者だけで提供が増えるわけではありません。今の枠組みで何とか増えないかということを我々も頑張っているんですけれども、例えば、去年、移植学会に合わせてWHOと厚労省と学会が共催で会議を開きました。これはやっぱり行政の方にも、日本からは上田局長がわざわざ来てくださって、どうやって少しでも増やしていこうかという会議をやったんですけれども、一日だけの会議なので限度がありまして、やはり残念ながらそこでも言われていたのは、日本は変な国と言われたんですよね。なぜこれだけ先進国で医療技術があって行政システムが発達しているのに提供が増えないのかと。もちろん、臓器提供にはいろんな問題あるだろうけれども、やっぱり社会として、日本の国としてあった方がいいのであれば、やること決まっているじゃないかというふうに言われました。
先ほどから私は同じことを繰り返していますけれども、私はA案推進なんです。なぜかというと、A案が通ってもそんなすぐ増えるわけじゃないんですけれども、本当にやっぱり医療従事者、さっき申し上げた移植医療部の部長として、移植の専門家として、それから実際に、昔コーディネーターがいらっしゃらないころ、私もコーディネーターみたいなことをやったことありますから、それの経験からいって、この案が通らないと前へ進まないんです。そこだけは御理解いただきたいと思いますね。
以上です。ありがとうございました。
辻
森
森岡正博#9
○参考人(森岡正博君) 森岡と申します。よろしくお願いします。
私は、二十年間、生命倫理の研究をしてまいりました。今日は一研究者として意見を述べたいと思います。恐らくマイノリティーの考え方になるかと思いますが、よろしくお願いいたします。
私は、衆議院提出B案の原案となったいわゆる森岡・杉本案の提唱者の一人でございます。内容としましては、大人については現行法のまま、子供については子供にも意見表明の機会を与えるという案であります。参議院におきましては、個人的には、E案というのでしょうか、に親近感を抱いております。
今日は、主にA案に対して疑問点を述べさせていただきます。
まず、最初の第一点でありますが、これは親族優先提供であります。
A案の親族優先提供の条項は削除すべきであると思います。例えば、英国では提供先の指定というのはガイドラインで禁止されております。昨日もそうでしたが、ぬで島さん、あるいは私のかねてからの論敵であります町野先生も削除ということをおっしゃっておりました。私も削除です。ですので、この点に関してはもう議論の余地なく削除ではないかと私は思っております。
二番目は、本人の意思表示についてであります。
A案は本人の書面による意思表示がなくても脳死判定、移植ができるとしていますが、これは国民のコンセンサスにはなっていないと私は思っています。二〇〇四年の内閣府調査、そして二〇〇八年内閣府調査共に本人の意思表示に賛成する案が五〇%を超えております。本人の意思表示が必要ということについては過半数の国民が現行法を支持していると私は考えております。新聞調査によっては、社によって意見が違います。読売新聞は一九・二%ですが、毎日新聞は五二%。ですので、やはりこれに関しては、政府の調査を見る限り、本人の意思表示の前提を外すことに関しては国民のコンセンサスはないと言わざるを得ないと私は思っております。この点に関しては後ほどもう一度戻ってきたいと思います。
三番目でございます。長期脳死についてでございます。
子供は長期脳死になりやすいとされています。長期脳死とは脳死状態で三十日以上心臓が動き続けるケースでございます。その間に脳死の子供は成長し、身長が伸び、歯が生え替わり、顔つきが変わると言われています。A案はこのような子供を死体と断じるものであります。
日本移植学会理事長の寺岡氏は七月二日の厚生労働委員会において次のような発言をされておりました。ネット中継から文字を起こしてみたのですが、以下にちょっと引用します。寺岡さんはこうおっしゃいます。最近繰り返し報道されているいわゆる長期脳死につきましては、法的脳死判定の基準あるいは小児脳死判定基準を完全に満たしている事例は存在せず、脳死とは言えません。すなわち、無呼吸テストが実施されておらず、またその他の判定基準も一部しか満たしていないのが事実です。引用終わりです。
これをお聞きになった皆さんは、長期脳死は無呼吸テストを行っていないし、法的脳死判定をしていないので厳密には脳死ではないと思われたのではないでしょうか。ところが、昨日の谷澤先生、島崎先生の御発言では無呼吸テストをした長期脳死があると言われておりました。事実はどうなのでしょうか。昨日も丸川議員からその点について最後に御質問があったと存じます。それについて私が代わってお答えしたいと思います。
二〇〇〇年に日本医師会雑誌に発表された旧厚生省研究班の論文、「小児における脳死判定基準」という論文があります。これでありますけれども、これは日本の小児脳死判定基準を定めた決定版の論文でございます。寺岡さんが発言で引用されていたものであります。論文には次のように明記されています。まず、脳死とされる六歳未満の子供について厳密に無呼吸テストを二回以上実施して無呼吸が確認されたケースが二十例あったと述べられています。これは小児脳死判定基準を厳密に満たしております。そして、その二十例のうちの七例が長期脳死になっています。すなわち、無呼吸テストを行った六歳未満の脳死の子供のうち、何と三五%が長期脳死になっています。さらに、驚くべきことに、そのうちの四例、すなわち二〇%が百日以上心臓が動き続けております。これが論文で発表されている事実です。
無呼吸テストを厳密に実施した脳死判定で、脳死の子供の三割以上が長期脳死になっており、二割は百日以上心臓が動いている、我々はまずこの厳粛たる事実を胸に刻まなくてはなりません。どうしてこのような重大な事実が国民に広く知らされてこなかったのでしょうか。この論文は、日本で最も権威のある脳外科の医師である竹内一夫先生のグループによって執筆されたものでございます。
この論文の注に引用されている論文の一つが皆様の今お手元に資料として配られております。これを御覧になりながらお聞きいただきたいと思うのですが、この論文は日本救急医学会雑誌二〇〇〇年のもので、「三百日以上脳死状態が持続した幼児の一例」というものであります。これは兵庫医科大学のケースであります。
このケースでは、生後十一か月の男児が脳死になった後、厚生省研究班の小児脳死判定基準を二回の無呼吸テストを含め厳密に満たしております。その状態で三百二十六日間、約一年弱心臓が動き続けております。論文には、二回の無呼吸テストを含む神経学的評価を行い、基準案を満たしていることを確認したと明記されておりますし、また、医学的には本例は早期から脳死状態にあったことは間違いないと明記されています。小児脳死判定基準を厳密に満たし、二回の無呼吸テストを行い脳死と判定された上で三百二十六日間心臓が動き続けた長期脳死の例がはっきりとあるのです。
また、それだけではありません。この間、身長が七十四センチから八十二センチまで伸びています。成長しているのです。また、九十日ごろから手足を動かし始め、著しいときにはあたかも踊るように見えた、いわゆるラザロ兆候というものですが、と書かれております。手足の動きは心停止まで続いております。再度確認しますが、この兵庫医科大学のケースでは、無呼吸テストは二十四時間空けて二回行われています。
ここにもマスメディアの皆さんがおられると思いますが、脳死についての正しい情報を是非とも国民に知らせてください。心臓が百日以上動き続け、成長し、身長も伸びる脳死の子供が死体であるとする国民のコンセンサスはありません。また、長期脳死になるかならないかを見分ける医学的な基準も発見されていません。たとえ親の同意があったとしても、長期脳死の可能性のある脳死の子供を死体と断じ、その身体から心臓や臓器を取り出すことは危険過ぎます。これらの点について子ども脳死臨調で専門的な調査を行って、その結論が出るまでは脳死状態の子供からの臓器摘出を許可してはならないと私は考えます。この点において改正は拙速に過ぎます。
再度繰り返しますが、お手元の資料にあるように、無呼吸テストを二回行って長期脳死になった例がはっきりとあると、複数あるということでございます。
さて、再び、残りの時間をまた本人の意思表示の問題に戻りたいと思います。
私は、本人の意思表示の原則は外してはならないと思います。その理由をこれから述べます。
現在、ドナーカードの所持率は八・四%でございます、実際にイエスと記載している人はもっと減るのでありますけれども。私個人は、B案の原案の提唱者でありますが、ドナーカードを持っております。ここにありますとおり、私はドナーカードに記載しております。ですので、私が脳死になって、家族が反対しなければ、私の臓器は使ってください、私はそのことに何の後悔もありません。ただ、ドナーカードを持っていない大多数の人々にはやはりその理由があると思うんですね。ドナーカードを持っていない人というのは、持たないことによって何かの意思表示をしていると思うのです。そのうちの多くの人々は迷っているのです。この迷っていることを尊重すべきだと私は思います。
我々には脳死が人の死かどうか、臓器を摘出すべきかどうかについて迷う自由があります。この迷う自由を人々から奪ってはなりません。迷う自由を保障するもの、それこそが本人の意思表示の原則であります。すなわち、迷っている間はいつまでも待っていてあげる、もし決心が付いたら申し出てください、これが本人の意思表示の原則なのです。これが現行法の基本的な精神となっております。
A案、すなわち拒否する人が拒否の意思表示をすればよいというA案では、この迷う自由、悩む自由というものが守られません。なぜなら、あれこれ迷っていたら、迷っているうちに脳死になってしまい、家族がもし承諾してしまえば臓器は取られてしまうからです。迷っていたら臓器は取られてしまいます。これが私がA案に反対する大きな理由の一つです。
最後に、脳死の議論で忘れ去られがちになるのは、忘れ去られるのは、脳死になった小さな子供たちです。脳死になった小さな子供たち、彼らは、生まれてきて、事故や病気で脳死になり、そしてひょっとしたら何も分からぬまま臓器まで取られてしまうのです。余りにもふびんではないでしょうか。
ここから私の個人的な見解といいましょうか、思想、哲学になるのですが、子供たちには自分の身体の全体性を保ったまま、外部からの臓器摘出などの侵襲を受けないまま、丸ごと成長し、そして丸ごと死んでいく自然の権利というものがあるのではないでしょうか。そして、その自然の権利がキャンセルされるのは、その本人がその権利を放棄することを意思表示したときだけではないでしょうか。私はこのように思います。そして、現行法の本人の意思表示の原則というものは、このような考え方が具現化されたものなのではないかというのが私の解釈、考え方であります。
外国では脳死の子供からの移植が可能だというふうに、すぐに外国のことを我々は気にします。しかし、日本は実は世界で最も脳死について国民的な議論をした国です。その結果成立したのが本人の意思表示の原則という日本ルールなのです。我々はこの日本ルールにもっと誇りを持とうではありませんか。もちろん、移植法全体としては、昨日ぬで島さんが指摘したような改善点は当然あります。しかしながら、本人の意思表示の原則というものは世界に誇れるものであるというのが私の考え方であります。
私からは以上です。御清聴ありがとうございました。
この発言だけを見る →私は、二十年間、生命倫理の研究をしてまいりました。今日は一研究者として意見を述べたいと思います。恐らくマイノリティーの考え方になるかと思いますが、よろしくお願いいたします。
私は、衆議院提出B案の原案となったいわゆる森岡・杉本案の提唱者の一人でございます。内容としましては、大人については現行法のまま、子供については子供にも意見表明の機会を与えるという案であります。参議院におきましては、個人的には、E案というのでしょうか、に親近感を抱いております。
今日は、主にA案に対して疑問点を述べさせていただきます。
まず、最初の第一点でありますが、これは親族優先提供であります。
A案の親族優先提供の条項は削除すべきであると思います。例えば、英国では提供先の指定というのはガイドラインで禁止されております。昨日もそうでしたが、ぬで島さん、あるいは私のかねてからの論敵であります町野先生も削除ということをおっしゃっておりました。私も削除です。ですので、この点に関してはもう議論の余地なく削除ではないかと私は思っております。
二番目は、本人の意思表示についてであります。
A案は本人の書面による意思表示がなくても脳死判定、移植ができるとしていますが、これは国民のコンセンサスにはなっていないと私は思っています。二〇〇四年の内閣府調査、そして二〇〇八年内閣府調査共に本人の意思表示に賛成する案が五〇%を超えております。本人の意思表示が必要ということについては過半数の国民が現行法を支持していると私は考えております。新聞調査によっては、社によって意見が違います。読売新聞は一九・二%ですが、毎日新聞は五二%。ですので、やはりこれに関しては、政府の調査を見る限り、本人の意思表示の前提を外すことに関しては国民のコンセンサスはないと言わざるを得ないと私は思っております。この点に関しては後ほどもう一度戻ってきたいと思います。
三番目でございます。長期脳死についてでございます。
子供は長期脳死になりやすいとされています。長期脳死とは脳死状態で三十日以上心臓が動き続けるケースでございます。その間に脳死の子供は成長し、身長が伸び、歯が生え替わり、顔つきが変わると言われています。A案はこのような子供を死体と断じるものであります。
日本移植学会理事長の寺岡氏は七月二日の厚生労働委員会において次のような発言をされておりました。ネット中継から文字を起こしてみたのですが、以下にちょっと引用します。寺岡さんはこうおっしゃいます。最近繰り返し報道されているいわゆる長期脳死につきましては、法的脳死判定の基準あるいは小児脳死判定基準を完全に満たしている事例は存在せず、脳死とは言えません。すなわち、無呼吸テストが実施されておらず、またその他の判定基準も一部しか満たしていないのが事実です。引用終わりです。
これをお聞きになった皆さんは、長期脳死は無呼吸テストを行っていないし、法的脳死判定をしていないので厳密には脳死ではないと思われたのではないでしょうか。ところが、昨日の谷澤先生、島崎先生の御発言では無呼吸テストをした長期脳死があると言われておりました。事実はどうなのでしょうか。昨日も丸川議員からその点について最後に御質問があったと存じます。それについて私が代わってお答えしたいと思います。
二〇〇〇年に日本医師会雑誌に発表された旧厚生省研究班の論文、「小児における脳死判定基準」という論文があります。これでありますけれども、これは日本の小児脳死判定基準を定めた決定版の論文でございます。寺岡さんが発言で引用されていたものであります。論文には次のように明記されています。まず、脳死とされる六歳未満の子供について厳密に無呼吸テストを二回以上実施して無呼吸が確認されたケースが二十例あったと述べられています。これは小児脳死判定基準を厳密に満たしております。そして、その二十例のうちの七例が長期脳死になっています。すなわち、無呼吸テストを行った六歳未満の脳死の子供のうち、何と三五%が長期脳死になっています。さらに、驚くべきことに、そのうちの四例、すなわち二〇%が百日以上心臓が動き続けております。これが論文で発表されている事実です。
無呼吸テストを厳密に実施した脳死判定で、脳死の子供の三割以上が長期脳死になっており、二割は百日以上心臓が動いている、我々はまずこの厳粛たる事実を胸に刻まなくてはなりません。どうしてこのような重大な事実が国民に広く知らされてこなかったのでしょうか。この論文は、日本で最も権威のある脳外科の医師である竹内一夫先生のグループによって執筆されたものでございます。
この論文の注に引用されている論文の一つが皆様の今お手元に資料として配られております。これを御覧になりながらお聞きいただきたいと思うのですが、この論文は日本救急医学会雑誌二〇〇〇年のもので、「三百日以上脳死状態が持続した幼児の一例」というものであります。これは兵庫医科大学のケースであります。
このケースでは、生後十一か月の男児が脳死になった後、厚生省研究班の小児脳死判定基準を二回の無呼吸テストを含め厳密に満たしております。その状態で三百二十六日間、約一年弱心臓が動き続けております。論文には、二回の無呼吸テストを含む神経学的評価を行い、基準案を満たしていることを確認したと明記されておりますし、また、医学的には本例は早期から脳死状態にあったことは間違いないと明記されています。小児脳死判定基準を厳密に満たし、二回の無呼吸テストを行い脳死と判定された上で三百二十六日間心臓が動き続けた長期脳死の例がはっきりとあるのです。
また、それだけではありません。この間、身長が七十四センチから八十二センチまで伸びています。成長しているのです。また、九十日ごろから手足を動かし始め、著しいときにはあたかも踊るように見えた、いわゆるラザロ兆候というものですが、と書かれております。手足の動きは心停止まで続いております。再度確認しますが、この兵庫医科大学のケースでは、無呼吸テストは二十四時間空けて二回行われています。
ここにもマスメディアの皆さんがおられると思いますが、脳死についての正しい情報を是非とも国民に知らせてください。心臓が百日以上動き続け、成長し、身長も伸びる脳死の子供が死体であるとする国民のコンセンサスはありません。また、長期脳死になるかならないかを見分ける医学的な基準も発見されていません。たとえ親の同意があったとしても、長期脳死の可能性のある脳死の子供を死体と断じ、その身体から心臓や臓器を取り出すことは危険過ぎます。これらの点について子ども脳死臨調で専門的な調査を行って、その結論が出るまでは脳死状態の子供からの臓器摘出を許可してはならないと私は考えます。この点において改正は拙速に過ぎます。
再度繰り返しますが、お手元の資料にあるように、無呼吸テストを二回行って長期脳死になった例がはっきりとあると、複数あるということでございます。
さて、再び、残りの時間をまた本人の意思表示の問題に戻りたいと思います。
私は、本人の意思表示の原則は外してはならないと思います。その理由をこれから述べます。
現在、ドナーカードの所持率は八・四%でございます、実際にイエスと記載している人はもっと減るのでありますけれども。私個人は、B案の原案の提唱者でありますが、ドナーカードを持っております。ここにありますとおり、私はドナーカードに記載しております。ですので、私が脳死になって、家族が反対しなければ、私の臓器は使ってください、私はそのことに何の後悔もありません。ただ、ドナーカードを持っていない大多数の人々にはやはりその理由があると思うんですね。ドナーカードを持っていない人というのは、持たないことによって何かの意思表示をしていると思うのです。そのうちの多くの人々は迷っているのです。この迷っていることを尊重すべきだと私は思います。
我々には脳死が人の死かどうか、臓器を摘出すべきかどうかについて迷う自由があります。この迷う自由を人々から奪ってはなりません。迷う自由を保障するもの、それこそが本人の意思表示の原則であります。すなわち、迷っている間はいつまでも待っていてあげる、もし決心が付いたら申し出てください、これが本人の意思表示の原則なのです。これが現行法の基本的な精神となっております。
A案、すなわち拒否する人が拒否の意思表示をすればよいというA案では、この迷う自由、悩む自由というものが守られません。なぜなら、あれこれ迷っていたら、迷っているうちに脳死になってしまい、家族がもし承諾してしまえば臓器は取られてしまうからです。迷っていたら臓器は取られてしまいます。これが私がA案に反対する大きな理由の一つです。
最後に、脳死の議論で忘れ去られがちになるのは、忘れ去られるのは、脳死になった小さな子供たちです。脳死になった小さな子供たち、彼らは、生まれてきて、事故や病気で脳死になり、そしてひょっとしたら何も分からぬまま臓器まで取られてしまうのです。余りにもふびんではないでしょうか。
ここから私の個人的な見解といいましょうか、思想、哲学になるのですが、子供たちには自分の身体の全体性を保ったまま、外部からの臓器摘出などの侵襲を受けないまま、丸ごと成長し、そして丸ごと死んでいく自然の権利というものがあるのではないでしょうか。そして、その自然の権利がキャンセルされるのは、その本人がその権利を放棄することを意思表示したときだけではないでしょうか。私はこのように思います。そして、現行法の本人の意思表示の原則というものは、このような考え方が具現化されたものなのではないかというのが私の解釈、考え方であります。
外国では脳死の子供からの移植が可能だというふうに、すぐに外国のことを我々は気にします。しかし、日本は実は世界で最も脳死について国民的な議論をした国です。その結果成立したのが本人の意思表示の原則という日本ルールなのです。我々はこの日本ルールにもっと誇りを持とうではありませんか。もちろん、移植法全体としては、昨日ぬで島さんが指摘したような改善点は当然あります。しかしながら、本人の意思表示の原則というものは世界に誇れるものであるというのが私の考え方であります。
私からは以上です。御清聴ありがとうございました。
辻
米
米本昌平#11
○参考人(米本昌平君) 米本でございます。
私は三十数年間、生命倫理の政策の比較をやってまいりました。私はよく生命倫理の専門家というふうに、一応研究対象は生命倫理なんですけれども、生命倫理というのは本人若しくは関係者が思い悩んで決断することであって、社会が考えないといけないのは、その技術の使用の現場若しくは研究の現場にどの程度の技術規制を掛けるかという技術使用の合理的な政策立案の問題と読み替えまして、世界中の生命倫理に対応する法律を横に比較してまいりました。
私は今から十七年前の脳死臨調の参与だったんですけれども、その場でもこういう決め方はおかしいというので、例外の少数派でございました。それ以来、私の意見は全然変わっていないんですけれども、特にこの場を、機会を与えていただきましたので、私の考え方が正確にお伝えすることができるようにサマリーを作ってまいりましたので、これに合わせて御説明してみたいと思います。
先進国の脳死にかかわる移植法を比較しておりますと、まず欧米では物事を考える場合に、事実、ファクト、価値という二項対立から入りまして、世界を、だから人が生きているか死んでいるかというふうに価値付けるのは哲学や宗教の役割でありまして、それを扱う科学は自然対象でありますので、これはバリューフリーであります。
死を確定する手順というのは、社会が人の死と信じる状態に対する生理学的な指標を医療職能集団、メディカルプロフェッション、これは法的に定義された明確な身分団体でございますけれども、これが選定し、臨床現場でこれを測定し、専権的に死亡判定を行ってまいりました。三徴候説というのがその典型でございます。
一番最初のハーバード脳死基準でございますけれども、一九六八年の脳死に関する重要論文であるこのハーバード基準のタイトルは不可逆的・深昏睡の一定義でありまして、著者はハーバード大学医学部脳死定義検討委員会特別委員会であります。この原著論文の冒頭を後ろから二枚目に出しておきました。これ、文字どおり、ですから、論文のタイトルとしては科学的事実である深昏睡でありまして、この自然現象のうち脳の機能不全が不可逆的に停止したことが確認できたものに対して人の死という意味付与を試みたのがハーバード大学脳死委員会でございます。
同時に、医療の側は、社会の側が脳死状態を人の死と解釈し得る道筋を示してまいりました。例えば、イギリス王立医学部会議名誉会長は、脳死概念を何らかの形で魂が肉体から離れるという諸宗教の概念と同一視することは、困難なことでも非倫理的なことでもないというふうに、脳死状態と判定されたものを人が死と受け入れられるような解釈を示唆してまいりました。
一般に、社会に向かって脳死は人の死かと問われますと、大半の人間は実はイエスと答えるんですけれども、大体どの社会でも二割前後はノーと答える微妙な問題でございまして、この比率は時間や場所を変えても余り変化は見られません。
これは最後の、一九八五年時点のアメリカの電話調査でございますけれども、この時点ではアメリカでは実は脳死問題は法的には決着した後でございますが、今申し上げた程度、脳死を法的な死と定義として使ってよいが、最後でございますけれども、五五%で、使うべきではないというのが大体二六%でございます。そもそも、脳死は死かということについて世論調査をするということを諸外国はやってきておりません。
脳死を前提した移植は、新たな死の判定方法を設け、死亡宣告時点を繰り上げる要素を含むため、欧米社会では、脳死は死かという問いが過度に社会に流出して制御不能とならないよう、慎重に扱ってまいりました。医師は、脳死と判定された最末期の身体を限りなく死体同然と扱う既成事実を積み上げ、社会の側はこれに特には異論を差し挟まない光景が実現してまいりました。脳死移植は、医療職能集団の権威とこれに対する社会的信頼の下で辛くも行い得る限界医療という認識がありまして今日の状況が達成されてまいりました。
先ほど、森岡参考人もおっしゃいましたけれども、その意味で、脳死は死かということをこの二ポツに書いておきましたけれども、大掛かりな社会的な議論にさせた国は非常にわずかでございます。一般的に、キリスト教教義と脳死は人の死とする見解をすり合わせることは比較的、論理的には簡単でありまして、他方、キリスト教会は人工妊娠中絶を認めませんので、どこから人間が始まるか、どこから人間として認めるかという人間の発生に関する価値論というのは欧米では激論が続いておりまして、これは大統領選のアメリカでは必ず論拠になっております。ただし、脳死問題ではアメリカとヨーロッパでは立法プロセスでは別の経緯をたどってきております。
一九六〇年代末に初めて心臓移植が行われますと、脳死状態で臓器を取り出した医師が殺人罪で告発されるという例が出てまいりました。これに対して、カンザス州大学の医学部の解剖学の教授でありましたハーディン教授がカンザス州の州議員と共同で脳死法というのを制定いたしまして、世界で初めてカンザス州脳死法を制定させました。その後、アメリカでは医療関係立法が州の立法権限にありますので、臓器移植は州をまたがって行われますので、アメリカ中共通の州法にした方がよろしいということで統一脳死法が提案されまして、これが全州で可決、採択されております。これがアメリカでは脳死が法的に死と認められているという事実なんですけれども、逆に言いますと、世論調査をして大議論をやってアメリカ中が立法が終えているということではございません。
具体的に言いますと、この統一脳死法の法律の構造でございますけれども、この法律は、血液循環か呼吸機能の不可逆的な停止若しくは脳の全機能の不可逆的停止のどちらかが確認されれば死んだものとする非常に単純な立法、法律でございます。
アメリカでは、各州でできた法律が合衆国憲法の人権条項に違反しているんではないかというので、いったんもう既に州議会を通った法律を阻止することができますけれども、その後、統一脳死法が全州で可決、採択されて以降は一件もこの違憲申立てがありません。これは、脳死問題についてはアメリカ社会ではそれ以上の関心を引かなかった。そういう意味では、一九八〇年代の初頭に、主として大統領委員会が死の定義というものをまとめまして、これでアメリカ国内はほとんど決着したということであります。この時点で在米のキリスト教各派は脳死を死と認めましたけれども、それ以外では正統ユダヤ、オーソドックス・ユダヤはいまだに心停止を人の死としておりまして、そういう意味で、このアメリカの統一脳死法は両方の死の定義を選択できるという意味で宗教的価値の多様性を担保されている、そのためにアメリカでは異議申立てがないということだと推測されます。
ヨーロッパでございますけれども、八〇年にサイクロスポリンAが商品化されまして、欧州では八〇年代を通して臓器移植法が成立いたしました。その形態は死体からの臓器の取り出しを定めたものでありまして、ヨーロッパは強制参加の身分組織としての医師集団がその自律性が強く、実際にはここが定める脳死判定基準を法律が後追い的に認めるということで現状が達成されてきております。近年、臓器の不足や臓器売買が明らかになりました。それから、それ以外の、ソリッドな臓器以外の医学的利用が可能性が出てまいりましたので、人体組織全体の法律に作り替えるという立法の作り替えがありまして、臓器移植法の見直しや包括的な人体組織法が制定されまして、その中で既に八〇年代を通して定番化した脳死判定を法律が後追い的になぞるということで法は脳死を死としている国がございます。
次のページがそのサマリーでございまして、この三ページを見ていただきますと、ヨーロッパ主要国、左側の細かいカラムがすべてこれは脳死判定基準でございますが、この国は全部一応外からは法的に脳死が死と認められていると表記されている国でございますけれども、実際には脳死判定はメディカルプロフェッション、医療職能集団の判定基準の採用とそれの臨床的適用であります。
右側を見ていただきますと、臓器移植法に死の表現がどうなっているかという表が書いてありますが、一応、八〇年代を通して成立したヨーロッパの移植法は死者の臓器、死者からの臓器摘出という表現になっておりまして、最近になって、脳機能がすべて停止した者、若しくはそういう表現を後追い的に追認している。
例えば、ドイツですと、脳死という概念は明確に法では定義しておりませんが、脳死前の摘出は禁止という、そういうネガティブな、間接的な表現で脳死を採用しているということでございます。
例えば、一番下を見ていただきますと、イギリスは全脳死ではなくて脳幹が完全に停止したらこれは脳死ということで、イギリスのメディカルプロフェッション及び実際の医療現場の運用はそれでほとんど定着しておりますので、ほかの国、特に日本の脳死判定の現場でよく言われる確定診断、脳波とか血流検査については、イギリスの場合は積極的に考慮外ということで、ですからこれは、医療職能集団が決めた脳死が、死に対する脳死判定の基準とヨーロッパにおける脳死の法律の方の表現の仕方というのはこれほど違うということでございます。
ですから、それで最後に申し上げておきますけれども、ちょっと二ページ目のポツ三に戻りますが、日本もこれを見ると八〇年代中期に脳死問題に手を付けるべきであったけれども、日本は強制参加の身分組織としての医師制度、日本医師会とは独立の強制参加の身分組織としての医師制度がありません。間接的にいろんなことがあって、脳死は死かという問いを過度に社会の中に流出させたままにあります。八〇年代の末に学術会議、医師会生命倫理懇談会、脳死臨調が脳死を死とする報告をまとめましたけれども、これらには、脳死は人の死かという問い立てを迂回するような制度設計とすることが脳死移植を社会的に包み込む道であるとする政策論的な視点が欠けております。
脳死は医学的に死であるというふうにお医者さんはおっしゃる方いますけれども、臨床的には死かも分かりませんけれども、いやしくも医学というのは科学であれば科学的な価値判断を込めてはいけないんだろうと思います。そういう意味では、あの衆議院採択の改正案を前提にするとすれば、法的に脳死を認めるのは移植の場合に限るという現行法の表現に戻すべき。要するに、国が、社会がすべて脳死を認めないと脳死移植ができないというアジェンダセッティング、そういう認識そのものが諸外国のプロセスと違っていると。ですから、日本が文化的、宗教的理由で脳死が行われているのではないというのが比較政策論の研究者の見解でございます。
どうもありがとうございました。
この発言だけを見る →私は三十数年間、生命倫理の政策の比較をやってまいりました。私はよく生命倫理の専門家というふうに、一応研究対象は生命倫理なんですけれども、生命倫理というのは本人若しくは関係者が思い悩んで決断することであって、社会が考えないといけないのは、その技術の使用の現場若しくは研究の現場にどの程度の技術規制を掛けるかという技術使用の合理的な政策立案の問題と読み替えまして、世界中の生命倫理に対応する法律を横に比較してまいりました。
私は今から十七年前の脳死臨調の参与だったんですけれども、その場でもこういう決め方はおかしいというので、例外の少数派でございました。それ以来、私の意見は全然変わっていないんですけれども、特にこの場を、機会を与えていただきましたので、私の考え方が正確にお伝えすることができるようにサマリーを作ってまいりましたので、これに合わせて御説明してみたいと思います。
先進国の脳死にかかわる移植法を比較しておりますと、まず欧米では物事を考える場合に、事実、ファクト、価値という二項対立から入りまして、世界を、だから人が生きているか死んでいるかというふうに価値付けるのは哲学や宗教の役割でありまして、それを扱う科学は自然対象でありますので、これはバリューフリーであります。
死を確定する手順というのは、社会が人の死と信じる状態に対する生理学的な指標を医療職能集団、メディカルプロフェッション、これは法的に定義された明確な身分団体でございますけれども、これが選定し、臨床現場でこれを測定し、専権的に死亡判定を行ってまいりました。三徴候説というのがその典型でございます。
一番最初のハーバード脳死基準でございますけれども、一九六八年の脳死に関する重要論文であるこのハーバード基準のタイトルは不可逆的・深昏睡の一定義でありまして、著者はハーバード大学医学部脳死定義検討委員会特別委員会であります。この原著論文の冒頭を後ろから二枚目に出しておきました。これ、文字どおり、ですから、論文のタイトルとしては科学的事実である深昏睡でありまして、この自然現象のうち脳の機能不全が不可逆的に停止したことが確認できたものに対して人の死という意味付与を試みたのがハーバード大学脳死委員会でございます。
同時に、医療の側は、社会の側が脳死状態を人の死と解釈し得る道筋を示してまいりました。例えば、イギリス王立医学部会議名誉会長は、脳死概念を何らかの形で魂が肉体から離れるという諸宗教の概念と同一視することは、困難なことでも非倫理的なことでもないというふうに、脳死状態と判定されたものを人が死と受け入れられるような解釈を示唆してまいりました。
一般に、社会に向かって脳死は人の死かと問われますと、大半の人間は実はイエスと答えるんですけれども、大体どの社会でも二割前後はノーと答える微妙な問題でございまして、この比率は時間や場所を変えても余り変化は見られません。
これは最後の、一九八五年時点のアメリカの電話調査でございますけれども、この時点ではアメリカでは実は脳死問題は法的には決着した後でございますが、今申し上げた程度、脳死を法的な死と定義として使ってよいが、最後でございますけれども、五五%で、使うべきではないというのが大体二六%でございます。そもそも、脳死は死かということについて世論調査をするということを諸外国はやってきておりません。
脳死を前提した移植は、新たな死の判定方法を設け、死亡宣告時点を繰り上げる要素を含むため、欧米社会では、脳死は死かという問いが過度に社会に流出して制御不能とならないよう、慎重に扱ってまいりました。医師は、脳死と判定された最末期の身体を限りなく死体同然と扱う既成事実を積み上げ、社会の側はこれに特には異論を差し挟まない光景が実現してまいりました。脳死移植は、医療職能集団の権威とこれに対する社会的信頼の下で辛くも行い得る限界医療という認識がありまして今日の状況が達成されてまいりました。
先ほど、森岡参考人もおっしゃいましたけれども、その意味で、脳死は死かということをこの二ポツに書いておきましたけれども、大掛かりな社会的な議論にさせた国は非常にわずかでございます。一般的に、キリスト教教義と脳死は人の死とする見解をすり合わせることは比較的、論理的には簡単でありまして、他方、キリスト教会は人工妊娠中絶を認めませんので、どこから人間が始まるか、どこから人間として認めるかという人間の発生に関する価値論というのは欧米では激論が続いておりまして、これは大統領選のアメリカでは必ず論拠になっております。ただし、脳死問題ではアメリカとヨーロッパでは立法プロセスでは別の経緯をたどってきております。
一九六〇年代末に初めて心臓移植が行われますと、脳死状態で臓器を取り出した医師が殺人罪で告発されるという例が出てまいりました。これに対して、カンザス州大学の医学部の解剖学の教授でありましたハーディン教授がカンザス州の州議員と共同で脳死法というのを制定いたしまして、世界で初めてカンザス州脳死法を制定させました。その後、アメリカでは医療関係立法が州の立法権限にありますので、臓器移植は州をまたがって行われますので、アメリカ中共通の州法にした方がよろしいということで統一脳死法が提案されまして、これが全州で可決、採択されております。これがアメリカでは脳死が法的に死と認められているという事実なんですけれども、逆に言いますと、世論調査をして大議論をやってアメリカ中が立法が終えているということではございません。
具体的に言いますと、この統一脳死法の法律の構造でございますけれども、この法律は、血液循環か呼吸機能の不可逆的な停止若しくは脳の全機能の不可逆的停止のどちらかが確認されれば死んだものとする非常に単純な立法、法律でございます。
アメリカでは、各州でできた法律が合衆国憲法の人権条項に違反しているんではないかというので、いったんもう既に州議会を通った法律を阻止することができますけれども、その後、統一脳死法が全州で可決、採択されて以降は一件もこの違憲申立てがありません。これは、脳死問題についてはアメリカ社会ではそれ以上の関心を引かなかった。そういう意味では、一九八〇年代の初頭に、主として大統領委員会が死の定義というものをまとめまして、これでアメリカ国内はほとんど決着したということであります。この時点で在米のキリスト教各派は脳死を死と認めましたけれども、それ以外では正統ユダヤ、オーソドックス・ユダヤはいまだに心停止を人の死としておりまして、そういう意味で、このアメリカの統一脳死法は両方の死の定義を選択できるという意味で宗教的価値の多様性を担保されている、そのためにアメリカでは異議申立てがないということだと推測されます。
ヨーロッパでございますけれども、八〇年にサイクロスポリンAが商品化されまして、欧州では八〇年代を通して臓器移植法が成立いたしました。その形態は死体からの臓器の取り出しを定めたものでありまして、ヨーロッパは強制参加の身分組織としての医師集団がその自律性が強く、実際にはここが定める脳死判定基準を法律が後追い的に認めるということで現状が達成されてきております。近年、臓器の不足や臓器売買が明らかになりました。それから、それ以外の、ソリッドな臓器以外の医学的利用が可能性が出てまいりましたので、人体組織全体の法律に作り替えるという立法の作り替えがありまして、臓器移植法の見直しや包括的な人体組織法が制定されまして、その中で既に八〇年代を通して定番化した脳死判定を法律が後追い的になぞるということで法は脳死を死としている国がございます。
次のページがそのサマリーでございまして、この三ページを見ていただきますと、ヨーロッパ主要国、左側の細かいカラムがすべてこれは脳死判定基準でございますが、この国は全部一応外からは法的に脳死が死と認められていると表記されている国でございますけれども、実際には脳死判定はメディカルプロフェッション、医療職能集団の判定基準の採用とそれの臨床的適用であります。
右側を見ていただきますと、臓器移植法に死の表現がどうなっているかという表が書いてありますが、一応、八〇年代を通して成立したヨーロッパの移植法は死者の臓器、死者からの臓器摘出という表現になっておりまして、最近になって、脳機能がすべて停止した者、若しくはそういう表現を後追い的に追認している。
例えば、ドイツですと、脳死という概念は明確に法では定義しておりませんが、脳死前の摘出は禁止という、そういうネガティブな、間接的な表現で脳死を採用しているということでございます。
例えば、一番下を見ていただきますと、イギリスは全脳死ではなくて脳幹が完全に停止したらこれは脳死ということで、イギリスのメディカルプロフェッション及び実際の医療現場の運用はそれでほとんど定着しておりますので、ほかの国、特に日本の脳死判定の現場でよく言われる確定診断、脳波とか血流検査については、イギリスの場合は積極的に考慮外ということで、ですからこれは、医療職能集団が決めた脳死が、死に対する脳死判定の基準とヨーロッパにおける脳死の法律の方の表現の仕方というのはこれほど違うということでございます。
ですから、それで最後に申し上げておきますけれども、ちょっと二ページ目のポツ三に戻りますが、日本もこれを見ると八〇年代中期に脳死問題に手を付けるべきであったけれども、日本は強制参加の身分組織としての医師制度、日本医師会とは独立の強制参加の身分組織としての医師制度がありません。間接的にいろんなことがあって、脳死は死かという問いを過度に社会の中に流出させたままにあります。八〇年代の末に学術会議、医師会生命倫理懇談会、脳死臨調が脳死を死とする報告をまとめましたけれども、これらには、脳死は人の死かという問い立てを迂回するような制度設計とすることが脳死移植を社会的に包み込む道であるとする政策論的な視点が欠けております。
脳死は医学的に死であるというふうにお医者さんはおっしゃる方いますけれども、臨床的には死かも分かりませんけれども、いやしくも医学というのは科学であれば科学的な価値判断を込めてはいけないんだろうと思います。そういう意味では、あの衆議院採択の改正案を前提にするとすれば、法的に脳死を認めるのは移植の場合に限るという現行法の表現に戻すべき。要するに、国が、社会がすべて脳死を認めないと脳死移植ができないというアジェンダセッティング、そういう認識そのものが諸外国のプロセスと違っていると。ですから、日本が文化的、宗教的理由で脳死が行われているのではないというのが比較政策論の研究者の見解でございます。
どうもありがとうございました。
辻
辻泰弘#12
○委員長(辻泰弘君) ありがとうございました。
以上で参考人からの意見の聴取は終わりました。
これより参考人に対する質疑に入ります。
なお、参考人の方々におかれましては、委員長の指名を受けてから御発言いただきますようお願い申し上げます。
それでは、質疑のある方は、順次挙手の上、委員長の指名を待って御発言願います。
この発言だけを見る →以上で参考人からの意見の聴取は終わりました。
これより参考人に対する質疑に入ります。
なお、参考人の方々におかれましては、委員長の指名を受けてから御発言いただきますようお願い申し上げます。
それでは、質疑のある方は、順次挙手の上、委員長の指名を待って御発言願います。
石
石井準一#13
○石井準一君 参考人の皆さん、今日は本当に御苦労さまでございます。
まず、この改正法案は人の生死の問題にかかわるものであり、特に脳死は臓器移植を行うために導入された便法としての死の定義であるのか、また、脳死臓器移植は暫定的な医療であるのに、法律で脳死は人の死と定めることに対する疑問も私は持っておるわけでありますけれども、現行法の六条二項の一文、臓器を提供する場合に限って脳死は人の死と、また、A案は臓器移植とは関係なく脳死は人の死となっているが、実際に臓器移植にかかわる家族にとって両者がどのような違いがあるのかということについて高橋参考人、高原参考人、米本参考人にお伺いをしてみたいと思います。
この発言だけを見る →まず、この改正法案は人の生死の問題にかかわるものであり、特に脳死は臓器移植を行うために導入された便法としての死の定義であるのか、また、脳死臓器移植は暫定的な医療であるのに、法律で脳死は人の死と定めることに対する疑問も私は持っておるわけでありますけれども、現行法の六条二項の一文、臓器を提供する場合に限って脳死は人の死と、また、A案は臓器移植とは関係なく脳死は人の死となっているが、実際に臓器移植にかかわる家族にとって両者がどのような違いがあるのかということについて高橋参考人、高原参考人、米本参考人にお伺いをしてみたいと思います。
辻
高
高橋和子#15
○参考人(高橋和子君) この微妙なところの脳死判定ですが、今の現行法でいきますと、やはり家族が、脳死状態です、いかがいたしますかの状態になるかと思って、みんな苦しいですね、外すことはできないと思います。心臓死でも、御臨終ですと言われたら、しっかりとあきらめも決断もできるんですよね。脳死判定を先生から言われたら、先生が脳死でございますと、御臨終ですと言ってから何時間後にどうするかという、臓器を与えるか与えないかですよね、そのことがあれば何の苦痛もないと思いますし、現行法では、さも臓器を取られるような、ドナーカードを持っていると、誤解を生じると思います。
この発言だけを見る →高
高原史郎#16
○参考人(高原史郎君) 今、高橋先生のおっしゃったことと同じことの繰り返しになります。
それと、先ほど私申し上げたように、六条二項を残すとすれば今と同じなんですよね。そうすると、先ほど私紹介しましたように後で悩まれる方がいらっしゃるんですね。
もう一つ、これはもう一般論なんですけれども、私はいろんなヨーロッパとかアメリカなんかの移植医療関係者にお会いすることが多いので、いろんな宗教の方もいらっしゃるんですけれども、皆さん同じことをおっしゃって、コーディネーターの方もそうなんですけど、まず、やっぱり家族が救急なりICUなり一生懸命治療されて、もうこれは、まあちょっと語弊がありますけど、もう無理だと、もう亡くなられたと、この人は死んでいるんだという認識がはっきりしないと次のステップに進めない。次のステップというのは、必ずしも臓器移植とは限りません。アメリカ人だって日本人だってそうですけど、ぽんとデス・オン・アライバルで救急に入ってきて、亡くなられています、すぐ移植しますなんか、そんなの答えられる人なんかほとんどいないんですよね。やっぱり、いわゆる通常の臨床業務における脳死診断というのがあって、どういう言い方するかはちょっと救急の先生、ICUの先生によりますけれども、もうこの人は亡くなられているんだという認識、まあほとんど脳死ですけど、脳死という言葉使う場合が多いんですけれども、それがあって、それからまた二十四時間ぐらいとか何時間か置いて、臓器提供のこともありますけどコーディネーターの人の話聞きますかという話になるんですよね。それを考えると、今、六条二項を残すと今のままと一緒で、単に数が増えないだけで、より悩まれる方は今後も増えると私は思います。
以上です。
この発言だけを見る →それと、先ほど私申し上げたように、六条二項を残すとすれば今と同じなんですよね。そうすると、先ほど私紹介しましたように後で悩まれる方がいらっしゃるんですね。
もう一つ、これはもう一般論なんですけれども、私はいろんなヨーロッパとかアメリカなんかの移植医療関係者にお会いすることが多いので、いろんな宗教の方もいらっしゃるんですけれども、皆さん同じことをおっしゃって、コーディネーターの方もそうなんですけど、まず、やっぱり家族が救急なりICUなり一生懸命治療されて、もうこれは、まあちょっと語弊がありますけど、もう無理だと、もう亡くなられたと、この人は死んでいるんだという認識がはっきりしないと次のステップに進めない。次のステップというのは、必ずしも臓器移植とは限りません。アメリカ人だって日本人だってそうですけど、ぽんとデス・オン・アライバルで救急に入ってきて、亡くなられています、すぐ移植しますなんか、そんなの答えられる人なんかほとんどいないんですよね。やっぱり、いわゆる通常の臨床業務における脳死診断というのがあって、どういう言い方するかはちょっと救急の先生、ICUの先生によりますけれども、もうこの人は亡くなられているんだという認識、まあほとんど脳死ですけど、脳死という言葉使う場合が多いんですけれども、それがあって、それからまた二十四時間ぐらいとか何時間か置いて、臓器提供のこともありますけどコーディネーターの人の話聞きますかという話になるんですよね。それを考えると、今、六条二項を残すと今のままと一緒で、単に数が増えないだけで、より悩まれる方は今後も増えると私は思います。
以上です。
米
米本昌平#17
○参考人(米本昌平君) 私は、既にこの場で多分議論が何度もあると思いますけれども、脳死を実質上移植のためだけに認めるんだという提案側の御説明であればちゃんと法律に書き込むべきであって、幾ら審議でそういう御説明があってもやはり法は独立に動くと思いますので、脳死は臓器移植のためだけにこの法律の中では認めるということに戻すべきだろうと思います。
法的に後ろから支えられて移植医療が進むという国はちょっとありませんので、むしろ関係者がこれどの道激しく思い悩む問題でございますので、それは法の支えがあった方がいいという指摘よりは、むしろ社会的な全体のバランスを、統治構造の全体のバランスを、位置付けを考えると、明確に移植の際に脳死判定をするというこの形容詞句は外されない方がよろしいと思います。
この発言だけを見る →法的に後ろから支えられて移植医療が進むという国はちょっとありませんので、むしろ関係者がこれどの道激しく思い悩む問題でございますので、それは法の支えがあった方がいいという指摘よりは、むしろ社会的な全体のバランスを、統治構造の全体のバランスを、位置付けを考えると、明確に移植の際に脳死判定をするというこの形容詞句は外されない方がよろしいと思います。
古
古川俊治#18
○古川俊治君 今の点、引き続き質問を行わせていただきたいと思うんですが、私は高原参考人とそれから米本先生にお聞きします。
高原先生、ありがとうございました。
先生今ドナーの家族のことをおっしゃいまして、抽象論としては理解できるんですが、実を申し上げますと、六条二項を戻すことになっても、これは移植に限定されている場合だけですということを明確にするだけになるんですね。ですから、御家族が何かを選ぶというよりは、まさに移植の場合には人が死んでいるという前提で入るものですから、もう人は亡くなっていると。それは、御家族が確認の手段を選ぶか選ばないかを選択されるということになる。実際そうなるんですけれども、それを逆に言うと、今の臓器移植法で言っているのも、臓器移植という場面、本来は臓器移植法ですから臓器移植を超えた議論というのはできないはずなんですよね。ですから、あくまでも臓器移植の場合だけというのは六条二項で、私自身は、正確に申し上げますと、六条二項の文言というのはあってもなくても同じというのが実際なんですね。現場で、逆に言うと、インフォームド・コンセントで説明の仕方あるいはドナーの感じ方が違うとすれば、それは法の誤った適用が実務で行われてしまっているということなんです。それで、その点から、先生がなぜやはり変わるとおっしゃるのかをもう一度明確にしていただきたい。
それから、米本先生、ありがとうございました。前から先生の、私も医者でございますので、やはり御著書をたくさん拝見しております。
先生の御結論としてよく分かるんですけれども、同じことを申し上げさせていただきまして、現在、臓器移植法で問題としているのは臓器移植という中のスコープなんです。六条二項を私がなぜ削ったかというふうに理解しているのは、あの中の法律であそこを削って臓器移植の中だけの一応定義をつくると、その方が法文上整ったものに見えるからだろうという理解なんですが、それは今までのA案の中の答弁でもそういう点は繰り返されているんですけれども。
その中で先生が、例えば臓器移植法の中でこの点は削除しない方がいいと、一つの御提案は御提案として承って、かつ、今度は、じゃ臓器移植以外の場面で恐らくこの脳死というものをどう扱うかという、またその死の定義をしないという前提でいろいろな議論が出てくると。そうすると、言ってみれば死の相対性というのがすごく制度内で広がっていくということになりますね。
それから、強いて、別の観点から申し上げますと、先生、先ほどこの比較表を示されましたけれども、私の理解では、スイスでは二〇〇八年に改正法ができまして、ようやく統一の法律ができたという話を聞いたことがあります。それで、何か州がばらばらだったのが、いろんな州でいろんな考え方を共有していたというんですね。それを統一していくような考え方ができてきたというふうに伺っております。
それから、一方では、先生おっしゃったように、ほかの国で、例えばアメリカですけれども、まさに宗教的な死の多様性というのをずっと残したまま来ているということですよね。そうすると、やはり日本においても、制度内、各制度の中のあるいは外の死の多様性、あるいは倫理的な死の多様性というのは、ずっとそれを法的に位置付けないということですね。それは永遠にやっていった方がいいのかと、どこかでやはりある程度の区切りをつくって合理的な範囲をつくっていくべきなのか、この点について政策論的にお話を伺いたいと思っています。
この発言だけを見る →高原先生、ありがとうございました。
先生今ドナーの家族のことをおっしゃいまして、抽象論としては理解できるんですが、実を申し上げますと、六条二項を戻すことになっても、これは移植に限定されている場合だけですということを明確にするだけになるんですね。ですから、御家族が何かを選ぶというよりは、まさに移植の場合には人が死んでいるという前提で入るものですから、もう人は亡くなっていると。それは、御家族が確認の手段を選ぶか選ばないかを選択されるということになる。実際そうなるんですけれども、それを逆に言うと、今の臓器移植法で言っているのも、臓器移植という場面、本来は臓器移植法ですから臓器移植を超えた議論というのはできないはずなんですよね。ですから、あくまでも臓器移植の場合だけというのは六条二項で、私自身は、正確に申し上げますと、六条二項の文言というのはあってもなくても同じというのが実際なんですね。現場で、逆に言うと、インフォームド・コンセントで説明の仕方あるいはドナーの感じ方が違うとすれば、それは法の誤った適用が実務で行われてしまっているということなんです。それで、その点から、先生がなぜやはり変わるとおっしゃるのかをもう一度明確にしていただきたい。
それから、米本先生、ありがとうございました。前から先生の、私も医者でございますので、やはり御著書をたくさん拝見しております。
先生の御結論としてよく分かるんですけれども、同じことを申し上げさせていただきまして、現在、臓器移植法で問題としているのは臓器移植という中のスコープなんです。六条二項を私がなぜ削ったかというふうに理解しているのは、あの中の法律であそこを削って臓器移植の中だけの一応定義をつくると、その方が法文上整ったものに見えるからだろうという理解なんですが、それは今までのA案の中の答弁でもそういう点は繰り返されているんですけれども。
その中で先生が、例えば臓器移植法の中でこの点は削除しない方がいいと、一つの御提案は御提案として承って、かつ、今度は、じゃ臓器移植以外の場面で恐らくこの脳死というものをどう扱うかという、またその死の定義をしないという前提でいろいろな議論が出てくると。そうすると、言ってみれば死の相対性というのがすごく制度内で広がっていくということになりますね。
それから、強いて、別の観点から申し上げますと、先生、先ほどこの比較表を示されましたけれども、私の理解では、スイスでは二〇〇八年に改正法ができまして、ようやく統一の法律ができたという話を聞いたことがあります。それで、何か州がばらばらだったのが、いろんな州でいろんな考え方を共有していたというんですね。それを統一していくような考え方ができてきたというふうに伺っております。
それから、一方では、先生おっしゃったように、ほかの国で、例えばアメリカですけれども、まさに宗教的な死の多様性というのをずっと残したまま来ているということですよね。そうすると、やはり日本においても、制度内、各制度の中のあるいは外の死の多様性、あるいは倫理的な死の多様性というのは、ずっとそれを法的に位置付けないということですね。それは永遠にやっていった方がいいのかと、どこかでやはりある程度の区切りをつくって合理的な範囲をつくっていくべきなのか、この点について政策論的にお話を伺いたいと思っています。
辻
高
高原史郎#20
○参考人(高原史郎君) 法制的な文言の件と残すか残さないの件は、実際の詳しいところはやっぱりA案提案の先生方と議論していただきたいんですけれども。ただ、私が今日ここにお伺いしているのは、やはり臨床の現場、提供の現場にも立ち会うことがある人間として僕なりに読みました、新しいのと。やっぱりあの文言はない方が、やはり僕は、現場の人間が一生懸命読んで理解するとして理解しやすいと思います。だから、十分にお答えにはなっていないと思うんですけれども、現場の人間からすればあの文言はない方がすっきりすると私は思っております。
以上です。
この発言だけを見る →以上です。
米
米本昌平#21
○参考人(米本昌平君) 死一般の法的定義を一体おまえはどう考えるのがいいのかというような御質問だと思いますけれども、やはり基本は、死という言葉以外に法は決めるというのはなじまない。ですから、この三ページ目のヨーロッパの比較でございますけれども、それで直近になればなるほどルーチン化した医療現場の死の判定を手続として法に書き込むことが、ですから、もっと言いますと、それまでメディカルプロフェッションのスタンダードでありプラクティスのコードであった職業集団の倫理であったものを次々と立法府のルールにするということが実はヨーロッパでどんどん進んでおりまして、メディカルプロフェッションの独立性と立法府の権限というのは何度も揺り戻しがあります。
そのためには、やはり現在の日本の中では、少しこれは移植法から外れますけれども、生命倫理の非常に大きな問題を包括的に解決するためには、日本の場合もメディカルプロフェッションの身分団体としての法的な独立性、ですから、ちょうど日本でいいますと、弁護士法に弁護士会規定が明確にあるように、日本の医療現場にも医者集団の自治、それは医療のプラクティスを医者専門家集団として、社会の価値観のありどころを見ながら医療の現場のプラクティスを、実施手順を医者集団として責任を持って社会として調節していくということが現実だと思います。
どこまで法に繰り込むのかというのはこれは社会がお決めになることで、まさしくこういうところで法に書き込むか書き込まないかという議論だと、まさしくそういうことだと思いますけれども、私が申し上げたいのは、こういった政策の基盤になる比較研究が余りにも少なくて、私は脳死臨調以来ずっと同じことを申し上げているんですけれども、医学的に死と決まっているものを米本は何かごちょごちょ言うということで、ずっと少数派で来ております。私は、慎重派というよりは、脳死を前提とした移植医療というものが統治構造の全体の中でどういう問題の形として組み込むべき問題かということの全体像を分かる形で研究し、立法の基盤になるような情報提供するようなセクターが絶対に必要だろうというふうに思います。
ちょっと要求された、求められたお答えになっているかどうか分かりませんけれども、御勘弁いただきたいと思います。
この発言だけを見る →そのためには、やはり現在の日本の中では、少しこれは移植法から外れますけれども、生命倫理の非常に大きな問題を包括的に解決するためには、日本の場合もメディカルプロフェッションの身分団体としての法的な独立性、ですから、ちょうど日本でいいますと、弁護士法に弁護士会規定が明確にあるように、日本の医療現場にも医者集団の自治、それは医療のプラクティスを医者専門家集団として、社会の価値観のありどころを見ながら医療の現場のプラクティスを、実施手順を医者集団として責任を持って社会として調節していくということが現実だと思います。
どこまで法に繰り込むのかというのはこれは社会がお決めになることで、まさしくこういうところで法に書き込むか書き込まないかという議論だと、まさしくそういうことだと思いますけれども、私が申し上げたいのは、こういった政策の基盤になる比較研究が余りにも少なくて、私は脳死臨調以来ずっと同じことを申し上げているんですけれども、医学的に死と決まっているものを米本は何かごちょごちょ言うということで、ずっと少数派で来ております。私は、慎重派というよりは、脳死を前提とした移植医療というものが統治構造の全体の中でどういう問題の形として組み込むべき問題かということの全体像を分かる形で研究し、立法の基盤になるような情報提供するようなセクターが絶対に必要だろうというふうに思います。
ちょっと要求された、求められたお答えになっているかどうか分かりませんけれども、御勘弁いただきたいと思います。
田
田中康夫#22
○田中康夫君 田中康夫でございます。
二点ございますが、まず、高橋さんと高原さんは恐らく脳死イコール死というお考えになられようかと思います。森岡参考人、米本参考人にもお聞きをしたいと思いますが、であるとするならば、では脳の死が人の死であるならば、人の生、人の誕生というものはどの段階をもって誕生となるのかという点を四名の方にまずお聞きしたいと思います。
この発言だけを見る →二点ございますが、まず、高橋さんと高原さんは恐らく脳死イコール死というお考えになられようかと思います。森岡参考人、米本参考人にもお聞きをしたいと思いますが、であるとするならば、では脳の死が人の死であるならば、人の生、人の誕生というものはどの段階をもって誕生となるのかという点を四名の方にまずお聞きしたいと思います。
高
田
田中康夫#24
○田中康夫君 脳の死の段階をもってイコール死というお考えがとりわけ高橋参考人、高原参考人のお考えだと思います。とするならば、いかなる段階をもって人間の生というものの段階になるのかということを簡潔にお答えください。
この発言だけを見る →高
高橋和子#25
○参考人(高橋和子君) 私個人の見解になってくると思いますけれども、臨床的に心臓死で御臨終と言われる病院の中でのことですから、脳死は幹脳を含む大脳、全脳ですね、が止まった時点で死というふうになりますね。ですから、生ということであれば、やはり自律呼吸、臨床的に自律呼吸が判断されると私は思っております。
先ほどの毛、髪が伸びるとか、つめが伸びるとか、これはDNAに含まれているいろんな情報が、やはり酸素と栄養を与えていれば伸びると思います。しかし、必ず戻らないですよね、百日掛けて。一応私どものボランティアの中には、余りにもメディカル、科学が、機械が発達して、死んだ人間に蘇生させていると、そしてたくさんの税金を使って延命していると、そのような声も上がっておりまして、本当は取られるんじゃなくて、医師判断ができますから、生きているということは私は自呼吸、幹脳、全脳、そこだと思っております。精神的にはとても分かりますけれども。
この発言だけを見る →先ほどの毛、髪が伸びるとか、つめが伸びるとか、これはDNAに含まれているいろんな情報が、やはり酸素と栄養を与えていれば伸びると思います。しかし、必ず戻らないですよね、百日掛けて。一応私どものボランティアの中には、余りにもメディカル、科学が、機械が発達して、死んだ人間に蘇生させていると、そしてたくさんの税金を使って延命していると、そのような声も上がっておりまして、本当は取られるんじゃなくて、医師判断ができますから、生きているということは私は自呼吸、幹脳、全脳、そこだと思っております。精神的にはとても分かりますけれども。
辻
田
田中康夫#27
○田中康夫君 じゃ、確認をさせて。
ということは、高橋参考人は死は脳死であると。同時に今、自呼吸とおっしゃいましたので、生は心臓動から始まるというふうにお考えいただいて、あるいは肺が機能する、心臓が機能するがイコールだと思いますので。ということでよろしゅうございますね。
じゃ、高原参考人に続いて。
この発言だけを見る →ということは、高橋参考人は死は脳死であると。同時に今、自呼吸とおっしゃいましたので、生は心臓動から始まるというふうにお考えいただいて、あるいは肺が機能する、心臓が機能するがイコールだと思いますので。ということでよろしゅうございますね。
じゃ、高原参考人に続いて。
高
高橋和子#28
○参考人(高橋和子君) 臨床では、解剖生理学的にはそのように思います。ただ、先ほど先生のにあったんですけれども、迷う自由があると言いましたですね。肉体的に蘇生をさせて生きている、延びているという考え方、それぞれ違うと思うんですけれども、その迷うところを取るということはしないわけですから、それは生きていると思っている方は生きていると思うことだと思います。私は、そこで社会的なことを考えると、自律呼吸というところの判断で臨床的に死と思いますし、生きていると思います。
この発言だけを見る →高
高原史郎#29
○参考人(高原史郎君) 生とは何かという御質問だと思うんですけれども、私の理解、まあ一医師としての考えですけれども、いわゆる人格として、個人として成り立っているというのは、やはり私は脳が正常に働いている状態だと思います。
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