憲法調査会基本的人権の保障に関する調査小委員会

2004-04-01 衆議院 全72発言

⚠️ 発言のコピー・転載時は出典元URL(kokkai.ndl.go.jpおよびkokkai-data.com)を必ず残してください。改変・出典削除は禁止です。 詳細は利用規約をご確認ください。

会議録情報#0
平成十六年四月一日(木曜日)
    午前九時開議
 出席小委員
   小委員長 山花 郁夫君
      小野 晋也君    倉田 雅年君
      棚橋 泰文君    平井 卓也君
      船田  元君    古屋 圭司君
      松野 博一君    園田 康博君
      辻   惠君    村越 祐民君
      笠  浩史君    太田 昭宏君
      山口 富男君    土井たか子君
    …………………………………
   憲法調査会会長      中山 太郎君
   憲法調査会会長代理    仙谷 由人君
   参考人
   (大阪大学大学院高等司法研究科教授)       松本 和彦君
   衆議院憲法調査会事務局長 内田 正文君
    —————————————
四月一日
 小委員棚橋泰文君三月十八日委員辞任につき、その補欠として棚橋泰文君が会長の指名で小委員に選任された。
同日
 小委員松野博一君、園田康博君及び笠浩史君三月二十三日委員辞任につき、その補欠として松野博一君、園田康博君及び笠浩史君が会長の指名で小委員に選任された。
同日
 小委員土井たか子君三月二十五日委員辞任につき、その補欠として土井たか子君が会長の指名で小委員に選任された。
    —————————————
本日の会議に付した案件
 基本的人権の保障に関する件(公共の福祉)
     ————◇—————
この発言だけを見る →
山花郁夫#1
○山花小委員長 これより会議を開きます。
 基本的人権の保障に関する件、特に公共の福祉について調査を進めます。
 本日は、参考人として大阪大学大学院高等司法研究科教授松本和彦君に御出席をいただいております。
 この際、参考人に一言ごあいさつを申し上げます。
 本日は、御多用中にもかかわらず御出席をいただきまして、まことにありがとうございます。参考人のお立場から忌憚のない御意見をお述べいただき、調査の参考にいたしたいと存じます。
 本日の議事の順序について申し上げます。
 まず、松本参考人から公共の福祉、特に、表現の自由や学問の自由との調整について御意見を四十分以内でお述べいただき、その後、小委員からの質疑にお答え願いたいと存じます。
 なお、発言する際はその都度小委員長の許可を得ることとなっております。また、参考人は小委員に対し質疑することはできないことになっておりますので、あらかじめ御承知おき願いたいと存じます。
 御発言は着席のままでお願いいたします。
 それでは、松本参考人、お願いいたします。
この発言だけを見る →
松本和彦#2
○松本参考人 大阪大学の松本でございます。よろしくお願いいたします。
 私に依頼されましたテーマは、公共の福祉、特に、表現の自由や学問の自由との調整というものでございます。
 初めに、問題の所在を指摘させていただきまして、公共の福祉という概念のもとで何が論じられているのか、あるいは何が論じられるべきかということについてお話しさせていただきたいと思います。
 公共の福祉という言葉は、憲法上四カ所で規定されておりまして、いずれも人権条項であります。ここに公共の福祉が人権との関係で論じられる源があると言ってよいかと思います。
 この人権と公共の福祉の関係をめぐる争いというものは、問いの立て方をめぐる争いだったというふうに私は考えております。いかなる問いを立てるべきか、これが最初の問題であります。
 通説的な理解によりますと、人権と公共の福祉というのは相対立する事項ととらえられまして、人権は公共の福祉によって制限できるのか、そして、この問いに答えた後に、では、人権を制限する公共の福祉とは何なのかというふうに問うていくということであります。人権は公共の福祉によって制限できるのかという問いを問い一、人権を制限する公共の福祉とは何かという問いを問い二といたしまして、問い一、問い二の順番でお話ししたいと思います。
 まず、問い一をめぐる議論、人権は公共の福祉によって制限できるのかという問いをめぐる議論であります。
 これについて、最高裁判所は、昭和三十二年のチャタレー事件判決という事件におきまして次のように回答しております。ちなみに、このチャタレー事件判決というのは、刑法百七十五条によりましてわいせつ文書の頒布というものが処罰されていることの合憲性を問うた事件であります。
 最高裁は、この事件におきましてこのように言っております。「憲法の保障する各種の基本的人権についてそれぞれに関する各条文に制限の可能性を明示していると否とにかかわりなく、憲法一二条、一三条の規定からしてその濫用が禁止せられ、公共の福祉の制限の下に立つものであり、絶対無制限のものでないことは、当裁判所がしばしば判示したところである。この原則を出版その他表現の自由に適用すれば、この種の自由は極めて重要なものではあるが、しかしやはり公共の福祉によつて制限されるものと認めなければならない。」
 最高裁は、つまり、問い一の問題を肯定したわけであります。学説もおおむねこの問いについては肯定するわけであります。が、若干の異論もございます。それは、表現の自由と公共の福祉というのを相対立させて論じる、その論じ方についてであります。
 例えば、刑法は二百二十二条によって脅迫行為というものを処罰しておりますし、あるいは二百四十六条で詐欺行為というのを処罰しておりますが、こういう脅迫や詐欺の処罰というのは、そもそも公共の福祉による表現の自由の制限というふうにとらえてよいのか。そもそも、脅迫の自由や詐欺の自由などというものが憲法によって保障されているというふうに言っていいのか。人権ならざる行為の規制を公共の福祉による人権制限というふうにとらえていいのか。こういう疑問があるからであります。
 最高裁判所は、昭和二十七年の初期の判決におきまして、犯罪の教唆の自由というような事柄を述べておりまして、そんな自由はそもそもないという言い方をしております。
 つまり、人権、非人権というものをまずきちっと区別しないと、何でも人権としてしまった上でそれを公共の福祉によって制限するという論じ方になってしまうわけでありまして、それが問題であるというふうに言っているわけであります。このような考え方にはそれなりに理由があるわけでありますけれども、しかし、人権、非人権というものをまず区別するという考え方にも問題があります。
 それは、人権を定義することによって、その定義によって人権を制限するという結果になってしまわないのかということであります。人権の定義の段階で表現の自由というものを余り狭くとらえ過ぎてしまいますと、これはもう公共の福祉による制限ということを言う前に、その行為自体が憲法上の保護を受けなくなってしまいますので、それでは都合の悪い場合が出てくるのではないかということであります。
 例えば、名誉毀損の理解をめぐる最高裁判所の見解にこの点の問題があらわれておりまして、初期のころ、ここでは昭和三十三年の判決を挙げさせていただきますが、昭和三十三年の判決におきましては、最高裁は、名誉毀損というのは、「言論の自由の乱用であつて、憲法の保障する言論の自由の範囲内に属するものと認めることができない。」というふうに判示しておりました。つまり、名誉毀損というのは、これはもう表現の自由じゃないんだ、それは表現の自由の範囲内に属しないんだ、こういう言い方をしたわけであります。
 しかし、その後、最高裁判所は態度を変更いたしまして、これは北方ジャーナル事件という有名な判決ですが、昭和六十一年の判決におきまして、名誉毀損という行為も言論の自由の範囲に一応属すると考えた上で、しかし、名誉権という、これも憲法の保護を受ける権利でありますが、名誉権と、そして表現の自由という憲法上の二つの権利が衝突している事例であるというふうにとらえました。そして、その衝突については「調整を要することとなる」とした上で、「いかなる場合に侵害行為としてその規制が許されるかについて憲法上慎重な考慮が必要である。」というふうに判示したわけであります。
 ここから考えまして、確かに、脅迫行為あるいは恐喝行為といったようなものを憲法上の権利の行使と見るのは難しいかもしれない。つまり、憲法上の権利の行使とは言えない表現行為というのはあり得るだろう。しかし、それは一見して明らかに憲法の保護を受けることのない表現行為だけに限定して考えるべきであって、疑わしきは憲法上の権利と推定した上で、そして表現の自由と公共の福祉との関係として論じていくべきではないかというふうに考える次第であります。
 以上が、問い一をめぐる議論であります。
 次に、問い二をめぐる議論であります。
 問い二というのは、人権が公共の福祉によって制限される、制限できるとした上で、では、人権を制限する公共の福祉とは何かという問題です。
 これについての最高裁の回答は、正面からの回答はございません。個別事例ごとにアドホックに回答していくというのが最高裁の態度でありまして、先ほどのわいせつ文書規制が問題となったチャタレー事件判決においては、「性的秩序を守り、最少限度の性道徳を維持することが公共の福祉の内容をなすことについて疑問の余地がない」とした上で、その規制を合憲であるというふうに判示しております。
 しかし、このような公共の福祉とは何かという正面からの問いという問いの立て方が適切かどうかについては疑問があるわけでありまして、近年ではこのような問い方自体がされなくなりつつあります。いわば問いの転換がなされているわけでありまして、公共の福祉とは何かという大上段の問いから、人権と公共の福祉の相互調整の方法というものがどのようなものかというふうな問いへと変わってきているというわけであります。
 これは、人権も大事だけれども公共の福祉も大事だという議論と、それから、公共の福祉も大事だけれども人権も大事だというこの二つの議論、これはどちらにも理由があるということで、そうすれば、結局両者の微妙な調整ということが問題とならざるを得ないのではないか。公共の福祉とは何かということだけを問うても、それでは済まない。人権と公共の福祉というのは相互制約の関係にあるのであって、人権を守るということは、それは公共の福祉もまた制約されるということを意味する。公共の福祉を守るということは人権が制約されるということを意味するんだけれども、逆にまた、人権を守るということは公共の福祉の方も制約される、そういう相互制約の関係にあると理解すべきなのではないか。だとすれば、両者の微妙な調整ということを真剣にとらえる必要があろうということであります。
 そこで、どう考えていくかですが、公共の福祉と人権というのを、単に対立させるだけではなくて、目的、手段図式というものによって再把握する。すなわち、公共の福祉による人権制限を正当な目的を達成するための正当な手段による規制と考えまして、目的、手段ともに正当な規制であれば公共の福祉に適合した人権制限とみなす。規制の目的、手段を多方面から考察することで細やかな検討をしていき、公共の福祉を重視しつつも人権を尊重するということを可能にするわけであります。
 そこで、規制目的の正当性、そして規制手段の正当性という二段階で問いを立てていくことになります。
 まず、規制目的への問いということでありますが、人権制約の目的が正当化できるかというふうに問題を立てます。ここで、人権制約の目的の正当化としてしばしば挙げられるのは、一つは、他者の人権の保護ということであります。そしてもう一つは、公共の利益の保護であります。
 最初の他者の人権の保護というのは、公共の福祉の中身として他者の人権というものを考える、そして人権を別の人権によって制限する。例えば、その例として、名誉毀損の事例におきます名誉権というものが挙げられます。名誉を保護するために表現の自由を規制するという場合がその例です。それから、ビラ張り規制等で挙げられております他者の財産権の保護ということもその例として挙げられます。
 それから、公共の利益の保護については、これもいろいろあるんですが、公共の利益とここで申しますのは、他者の人権に還元できないような、個人の権利に戻せないような公益の保護ということであります。かつては、こうした公益によって人権を制限するということは、それ自体が許されないのではないかという意見が強かったんですが、最近は、憲法学者の間でもそのように考える人は少なくなってきておりまして、最高裁判所はもうずっと以前から、こういう他者の人権に還元できない公益の保護というものを正当な人権制約の規制目的であると考えております。
 例えば、その例としては、わいせつ文書規制における性的秩序、最少限度の性道徳の維持でありますとか、あるいは有害図書規制における青少年の健全な育成の保障、それから、屋外広告物規制におきます都市の美観風致の維持、最近では景観法というものが制定されることが見込まれているそうですが、そこでも美観風致というものが規制の理由として挙げられているわけです。あるいは、公務員の政治活動を禁止する理由として挙げられます行政の中立的運営の確保とこれに対する国民の信頼の維持でありますとか、あるいは選挙運動規制で挙げられています選挙の公正、公平の確保というものがあります。
 これらは、いずれも正当な規制目的であると言ってよいかと思いますが、目的が正当であるからということだけで直ちに人権制限が許されるというわけではありません。まず、その規制目的の審査をする場合には、とりわけ公益保護ということが問題となるときに言われることでありますが、その公益の中身というのをできるだけ明確化あるいは特定化する必要があるということです。これは、目的が抽象的なままでは、意味のある目的審査ができないということが理由であります。
 例えば、選挙運動の規制目的として挙げられています選挙の公正、公平の確保ということがありますが、これだけだと目的としては非常に抽象的であります。最高裁判所は、この点について、昭和四十三年の判決それから昭和五十六年の判決におきまして、この目的を明確化、特定化いたしました。
 具体的に、例えば買収、利害誘導の防止であるとか私生活の平穏の維持、候補者の煩瑣の回避、多額の出費の抑制、投票における情実支配の排除、こういうふうにできるだけ具体的な目的へと言いかえていくわけです。こうすることによって、意味のある目的審査が可能になるわけであります。もちろん、すべての公益についてこのような具体化が可能であるというわけではありませんが、これはできるだけその方向で目的審査というのを行うべきであるというふうに考えられます。
 それから、規制目的として、何らかの弊害が発生するので、その弊害を防止することが目的であると言われることもしばしばあります。特に、公益に対する弊害ということが挙げられることが多いわけですが、この場合、弊害発生の蓋然性というのを考えておく必要があります。幾ら正当な目的であっても、弊害が観念的であると、やはり意味のある目的審査にはならないと思われます。
 つまり、規制目的への問いの段階では正当な規制目的なのかどうかということをまず考え、そしてその目的の中身について明確化、特定化、そして弊害発生の蓋然性というものを具体的に考えるということが必要になるのではないかということであります。
 この規制目的の審査というものをクリアした後、規制目的が正当であると考えた後に、次は規制手段について問うわけです。人権制約の手段が正当化できるかということを問うわけであります。
 これについては、表現の自由についてでありますけれども、憲法二十一条二項におきまして検閲というのが特に禁止されているということがありますので、まず規制の手段としてそれが検閲に該当しているかどうかということを考える必要があります。これは表現の自由特有の問題でありますが。手段として検閲という方法をとっていた場合は、もうそれだけでその手段は正当化できないということです。
 しかし、表現の自由以外の自由については、このように禁止された手段というものが憲法上明文化されているということはほとんどありませんで、規制手段の正当性というものを、憲法から直接その基準を導き出すということは難しいわけであります。
 そこで、どうするかといいますと、目的との関係で手段の正当性を問うということです。
 まず第一に、手段の目的有用性を問う、言いかえますと、目的達成にとって役に立つ手段かどうかということを問うということであります。これは、逆に言いますと、幾ら正当な目的を追求する場合であっても、その目的達成にとって役に立たない手段であればそれは手段として不当であるということになります。したがって、そのような手段は正当化できないということになります。
 それから次に、手段の必要最小限度性を問うということであります。同じ目的を達成するために手段というものは通常複数考えられるわけでありますので、その中でも、より緩やかな手段がないかどうか、より緩やかな代替手段ということを考える。いわば、手段の間で比較を行って、人権に対する規制度が最も緩やかな手段でないと手段としては正当化できないというふうに考えるということであります。
 そして最後に、得られる利益と失われる利益というものを衡量するということです。それは、損失以上の利益を見込める手段かどうかを問うということであります。幾ら正当な目的を達成するための有用かつ必要最小限度の手段であっても、失われる利益が得られる利益よりも大きいと判断される場合については、それは手段としてやはり正当化できない、こう考えるわけです。
 このように、公共の福祉とは何かということを正面から問うのではなくて、規制目的の正当性、規制手段の正当性ということを個別に問うことによって人権制限の合憲性というものを判断すべきであるというのがここでの見解であります。
 ただ、このように問いを転換することに対しましては批判もございまして、やはり公共の福祉の実体を正面から問い直すべきだ、公共の福祉とは何かということをもっと真っ正面から考えるべきだという見解もございます。
 このような見解にも意味があると思うわけでありますが、ただ、こうした大きな議論というのは、道具性を欠いていることから非実践的な議論になりがちではないかというふうに私は考えております。それより、むしろ、先ほど申し上げましたような規制目的、規制手段というような小さな問いを積み上げていって一つずつ順番に答えていくというやり方をとる方が生産的な議論になるのではないかというふうに考えております。公共の福祉とは何かという大きな問いを立ててしまいますと、そこでの話というのは勢い抽象的な議論になりかねないわけでして、それは実践的議論にはほど遠いものになるというふうな気がするからであります。
 さて、最後に、残された問いについて考えてみたいと思います。それは、だれが問いに答えるのかということであります。すなわち、だれが正当な目的、正当な手段について考え、答えるのかということであります。
 ここでは、四つ挙げてみました。
 まず第一に、憲法制定者がこの問いに答えるということです。あるいは、もっと正確に言いますと、憲法改正権者がこの問いに答えるということです。つまり、現在、憲法に多くの人権条項がありますが、その人権条項に憲法改正権者が制限事由をつけ加える、つまり、憲法上明らかに制限されるべき理由というのを明文化しておくというやり方が一つのやり方であります。
 例えば、ドイツ連邦共和国の憲法、基本法には、表現の自由の制限理由として、名誉の保護や青少年保護といった事柄が規定されております。このように、憲法上、例えば正当な規制目的というものを明文化しておく。つまり、憲法制定権者あるいは憲法改正権者のところで人権と公共の福祉の調整を行うというのが一つのやり方です。
 ただ、このドイツのやり方というのは、正当な規制目的を明示しただけのことでありまして、規制手段についてでありますとか、そういった細かいところまで規定しているわけではありません。名誉の保護にいたしましても、青少年保護にいたしましても、それ自体正当な規制目的であるというのは憲法に規定されていなくとも明らかでありますので、このようなことだけであれば憲法に明文規定を置くことにそれほど大きな実益があるというわけではないと思います。
 仮に、このような正当な規制目的を憲法上明示したといたしましても、人権と公共の福祉の相互調整の必要性それ自体はやはりなくならないわけでありまして、憲法上微妙な調整というものをあらかじめすべて明示しておくということ、これは無理であります。というのは、やはり憲法というのはどうしても抽象的な規定にならざるを得ないというところがありまして、抽象的判断の限界と申しますか、具体的判断がどうしても必要になるからであります。
 そこで求められますのが、議会による調整あるいは行政による調整であります。議会は法律を制定して人権を制限いたします。そして、この議会の一般的判断を踏まえまして、行政が命令、処分を通じて人権を制限いたします。いわば、議会の一般的判断を踏まえて行政が個別的な判断をするということであります。
 そして、この議会やそれから行政の判断というものを、裁判所が、具体的事例においてでありますけれども再審査するというのが通常の行き方であろうと思われます。
 憲法学は、従来、裁判所の判断の仕方について主として論じてまいりました。例えば、二重の基準論という考え方が憲法学の通説としてございますが、これは、合憲性の審査においては、精神的自由権について厳格な審査基準を用い、経済的自由権について緩やかな審査基準を用いて裁判所が判断せよという考え方であります。つまり、人権と公共の福祉の相互調整の主体として、主として裁判所を念頭に置いて、その裁判所による相互調整の仕方ということを従来の憲法学は主に論じていたということであります。
 これはこれで非常に重要な議論であるわけでありますけれども、しかし、私はここで、その裁判所の議論の前に、とりわけ議会の役割ということを強調しておきたいと思います。憲法上の権利の制限、公共の福祉による制限については、まず議会がそれを行うということであります。議会が人権と公共の福祉の相互調整というのをまず行うということでありまして、これは非常に重要なことだろうというふうに考えております。
 そして、議会の判断を法律の形式で表現するということであります。法律に議会の判断をできるだけきちっと書き込むということが、人権と公共の福祉の相互調整を行うという点においては重要なのではないかというふうに考えているわけであります。
 言い方をかえますと、行政に判断を丸投げするような立法はしないということであります。あるいは、法律の規律密度を高めて行政裁量の領域を小さくするということであります。
 従来、法律は、一般的、抽象的であるということを心がける余りに、みずから人権制限について微妙な相互調整ということをやらずに行政に判断を丸投げしていたというようなところがなかっただろうかと考えるわけでありまして、むしろ、行政でやることはなくならないわけではありますけれども、しかし、できるだけ議会のところできちっと判断をして、そして相互調整を行う。そして、議会が行った相互調整を踏まえて行政が判断するというその行き方、仕方というものにもう少し敏感であるべきではないかというふうに考えているわけであります。
 このように、人権と公共の福祉の調整の場面における法律の意義ということをここで特に強調させていただきまして、私の話を締めくくりたいというふうに考える次第であります。
 どうも御清聴ありがとうございました。拍手
この発言だけを見る →
山花郁夫#3
○山花小委員長 以上で参考人の御意見の開陳は終わりました。
    —————————————
この発言だけを見る →
山花郁夫#4
○山花小委員長 これより参考人に対する質疑を行います。
 質疑の申し出がありますので、順次これを許します。平井卓也君。
この発言だけを見る →
平井卓也#5
○平井小委員 先生、どうもきょうはありがとうございました。私、自由民主党の平井であります。
 人権は公共の福祉によって制限できるかということに関しては、最近、我々の同僚議員の関係の問題でいろいろありましたりして世間でも注目されているんですが、表現であればすべて表現の自由という憲法上の保障が得られるということではないということはわかっているんですが、じゃ、どのような表現までが表現の自由で保障されるかということがまず一点。
 それと、私、もともと放送局で仕事をしていたこともあるんですけれども、放送に対する規制に比べて、新聞、特に雑誌ですね、出版物に対する規制が緩やかではないかなと前々から思っているんです。そのことに問題があるかどうか。新聞と放送の間に、電波の希少性や社会的影響力に現在顕著な差異は認められないと私は思っているんです。そう考えたときに、放送の方の規制を緩和していくという議論もあるのかな、そのときにどのようなことが検討課題になるのかということが二つ目の質問です。
 それと、今回裁判所による出版物への仮処分の手続がありましたが、どのような基準によってそういうことがなされるべきなのかなということが三つ目の質問。
 それと、最初の命題一の方について、あともう一つは、インターネットによる表現の拡大は、はっきり言ってプライバシーの侵害などの人権に関する問題を物すごく引き起こしていると思うんです。こうした現状はもともと想定できなかったことだと思うんですけれども、憲法学の議論にどんな影響があるのかということ。そして、インターネット上の表現というものを審査する場合に、従来の表現の自由に対する規制とどのように仕分けをしたらいいのかということをまずお聞きしたいと思います。
この発言だけを見る →
松本和彦#6
○松本参考人 表現の自由といいましても、確かに限界があるわけでありますが、しかし、どのような表現行為までが表現の自由としての保護を受けるのかという点については、これは抽象的にお答えするのは非常に難しいわけであります。
 ただ、先ほど私が述べましたように、憲法上の権利の行使とは言えない表現行為はあり得るとは思うのですけれども、それはだれがどう考えても、これは憲法上の保護を考えるまでもなく許されないだろうと思われるような行為だけを表現の自由の保障領域から排除するべきでありまして、逆に言いますと、議論があるような行為については、これは表現行為ととらえた上で公共の福祉による制限を考えるべきであろうというふうに考えております。
 それから、インターネット等の新しい技術が普及することによって、さまざまな新しい表現の自由の問題というのは確かに出てきておりますが、原理的な問題については、実はそれほど昔から変わっていないのではないかというふうに考えております。それは、技術が新しくなったというだけのことでありまして、それぞれの新しい技術の特性に合わせて従来の原理をどう応用していくかという話になっていくだけだろうというふうに思います。
 それから、出版物に対する規制が、あるいは放送等に対する規制が緩やかではないかという点につきましては、これは表現の自由というものに対してどのくらいコミットするかという問題ともかかわると思いますが、表現の自由というのは、やはり傷つきやすい自由であるというふうに私は思います。どちらかというと、名誉保護とかあるいはプライバシー保護ということによって表現の自由というものを規制すべきであると言う方が何となく耳ざわりがいいわけでありますが、しかし、表現の自由というのは一たん傷つきますと取り返しがつかないことになりやすいわけでありまして、その意味で、表現の自由に対する感度と申しますか、その傷つきやすさに対する配慮というものは、幾ら強調しても強調し過ぎることはないのではないかというふうに考えております。
 仮処分の規制についての手続については、これもいろいろ議論があるわけでありますが、最高裁判所は、北方ジャーナル事件判決という昭和六十一年の判決において一応の基準を出しておりまして、やはり回復不可能な侵害があるような場合、しかも弊害が明白であるというような場合に限って、仮処分という緩やかな手続でもって事前に規制することが許されるというふうに言っております。
 この考え方が正しいかどうかについては異論もあるわけですけれども、しかし、仮処分というのは手続としては非常に緩やかな手続でありますので、先ほど申し上げた表現の自由の傷つきやすさということを考える際には、表現の自由を尊重するという観点を忘れることなく手続に臨むべきであろうというふうに考えております。
 以上です。
この発言だけを見る →
平井卓也#7
○平井小委員 人権を制限する公共の福祉とは何かという二番目の問いですが、きょうは先生余り、書物、文献の中で随分書かれていますが、法律の留保について、少しお聞きしたいと思います。
 人権制約原理の中で、法律の留保とはどのような意味合いを持つのか。それは一体何か。そしてまた、それは日本ではどのようなものとしてとらえて、現在それをめぐってどのような議論がなされているか。
 これは、我々議会に身を置く人間にとっては非常に大きな問題ですし、先生は議会制民主主義、やっぱり議会がもっと仕事をしろという御主張のように、参考文献を読ませていただいてそう考えたんですが、一方、議会制民主主義に対する不信感というものもあるし、多数決に関するやっぱりいろいろな異論もある。その辺のところを、先生に少しお話をお聞きしたいと思います。
この発言だけを見る →
松本和彦#8
○松本参考人 法律の留保原則というのは、これは日本の公法学においてはもう昔から議論になっている事柄でありますが、憲法学においては、かつて法律の留保原則というのが、法律さえ制定すればその法律によって憲法上の権利も制限して構わない、そういう趣旨で理解されたこともあって、非常に不人気な考え方なわけです。
 しかし、憲法上の権利が仮に制限できるとすれば、それは法律の根拠がなければならないということは、これはだれもが認めていることでありまして、言い方をかえますと、法律の根拠もなしに、行政の判断だけで憲法上の権利が制限できるわけではないという点についてはコンセンサスがあるわけです。
 そこで、日本の公法学においては、とりわけ行政法学においてこの法律の留保原則というのがずっと議論されてきたわけであります。ところが、肝心の憲法学の方では、先ほど言った不人気ということもありまして、余り論じられなくなってきている。しかし、そのせいでありましょうか、法律に人権制限の根拠というものを明確に書き込むということについて、少し配慮が足りなくなってきているのではないかということを私は考えるわけであります。
 議会というところは、多様な利害が代表されている場でありますし、また、公開の場であります。これは、行政の場合といろいろな点で違うわけでありまして、この議会の特性というのを十分に生かして、まず議会において、人権と公共の福祉の相互調整を行う、その上で、その調整を行った結果、つまり議会自身の判断を法律の上に表現する、これを私は憲法上の法律の留保原則というふうに考えておりまして、いわば議会の自己決定義務ということを著書の中でも強調しているわけであります。
 以上です。
この発言だけを見る →
平井卓也#9
○平井小委員 時間がなくなってしまって残念なんですが、これから後の質問者の中から出てくると思うんですけれども、先生が指定文献の中に書かれている本質性の原理についても、ぜひ今後の質疑の中でまた御意見を聞かせていただければと思います。
 どうも、きょうはありがとうございました。
この発言だけを見る →
山花郁夫#10
○山花小委員長 次に、笠浩史君。
この発言だけを見る →
笠浩史#11
○笠小委員 松本先生、きょうはどうもありがとうございます。民主党の笠浩史でございます。
 今も質問ありましたけれども、昨日、やはりこの週刊文春の事前差しとめで、高裁の判決が一転して地裁の判決を否定したということで、非常に久しぶりに表現の自由にかかわる問題が大変クローズアップされていると思うんですが、先ほど先生のお話で、表現の自由というものは非常に傷つきやすい自由だと。私も、議員になる前、放送局におったもので、大変そのお言葉を聞いて心強くしているところなんです。
 ただ、一方で、この手の裁判が、昔は多分、国家と例えば表現の自由の闘い、そういったことは非常にわかりやすかったし、むしろ、やはり国民的にも、国家権力がマスメディアに対して表現の自由を侵害してはいけないという論理があったわけです。しかし、今一番難しくなっているのは、週刊誌あるいはインターネット、そうしたところで、ともすると、個人のプライバシーの問題とこの表現の自由の対立というものが、いろんな角度で、いろんなところで今争われてきている中で、今回の裁判でも、例えば公共性、公益性、そして被害の重大さと回復の困難さ、この三点をめぐって判断がなされているわけです。これで本当に十分なのか、視点が。その点についてどのようにお考えか、お聞かせいただければと思います。
この発言だけを見る →
松本和彦#12
○松本参考人 表現の自由と国家権力の関係ということ、これは相変わらず重要な議論でありますが、今おっしゃられましたように、個人の人権をめぐる状況というのは、私人対私人の間でもやはり問題となるだろうと思います。その場合、国家がどういう位置にあるかということを考える必要があるかと思っています。私は、私人対私人の関係についても、国家を含めた三者関係で考えるべきだというふうに考えております。
 その場合、国家は、一方において、表現の自由によって被害を受けた私人を保護すべき立場にあるだろうというふうに考えています。これは、最近憲法学においても有力になりつつある議論でありますが、基本権保護義務という考え方がございまして、国家が私人間における被害を防止する義務というのを負うという考え方であります。つまり、ある私人の表現によって別の私人が損害をこうむる場合、この別の私人の損害を国家が防止して、その個人の人権を保護しないといけないという考え方です。ここで、憲法上、基本権保護義務というのが国家に課せられる。
 しかし、他方で、国家がその保護義務を履行しようとすれば、表現を行った私人の表現の自由に介入せざるを得ないわけでありまして、ここに個人対国家の表現の自由の問題というのは残らざるを得ない。それで、表現の自由をその表現した私人が持っている以上、ここには、その私人から国家に対して表現の自由の主張というのが常になされるわけでありまして、これを国家の側から見ると、私人の表現の自由を侵害してはならない義務、人権侵害防止義務というものが課せられることになる。
 つまり、国家には、基本権保護義務と基本権侵害防止義務の二つの義務が同時に課される、そしてこの二つの義務の間で調整を行わないといけないということになる、こういうふうに考えていくべきだろうと考えております。
この発言だけを見る →
笠浩史#13
○笠小委員 今回の週刊文春のこの問題において、先ほど北方ジャーナルの事件の点が先生の方からも御披露あったわけでございますけれども、北方ジャーナルに関しては、やはり名誉毀損、名誉権というものをめぐる争いであったように私は理解をしているんです。
 ちょっとあえてこだわりたいんですが、やっぱりプライバシー権というものが憲法の十三条によるという解釈は確かにできると思いますけれども、今、さらに一歩進めて明文化しておかなければ、この判断というものが非常に難しくなっていくんではないかという危惧を私は持っているわけでございます。その点についてはいかがでしょうか。
この発言だけを見る →
松本和彦#14
○松本参考人 プライバシー権を明文化するというのは、憲法上明文化するという意味と、それから法律でもってプライバシー権というのを保護するという意味と、恐らく二つあるのではないかと思いますが、これは、明文化することによってその中身がより明確になるということであれば、明文化する意味があると思います。
 しかし、ただ単にプライバシーという言葉を法律に書き込む、あるいは憲法に書き込むというだけであれば、その明文化による実益というものはそれほどないのではないかというふうに考えます。これは立法技術の問題もございますので、プライバシーの保護そのものは、これは重要でありますし、否定されるべきではありませんので、明文化することによってよりプライバシーと表現の自由との調整がうまくいくということであれば、これはそうされるべきであると思いますが、ただ単にプライバシーという言葉を盛り込むというだけであれば、実益はないであろうというふうに考えております。
この発言だけを見る →
笠浩史#15
○笠小委員 先ほど先生の御説明で、議会の役割、公共の福祉の制限について、まず議会がその役割を一義的に担うべきだというようなお話があったわけです。
 私、その考え方はいいとは思うんですけれども、ただ、私自身は、今の憲法のもとで議会にそれを担わせたとしても、やはり公共の福祉の制限にかかわる、例えば先ほど申し上げましたプライバシーの権利であるとか、あるいは知る権利であるとか、そこらあたりについて、一つ踏み込んだ具体的な条項というものを憲法の中に盛り込んだ上で議会にその役割を担わせなければ、なかなかこれは判断ができないのではないか。あるいは、恣意的に、この国会の場で本当にそういうことが、そのときどきの都合で判断をされることになる危険性がないのか。そうした疑問を非常に持っているわけでございますけれども、それについてちょっとお伺いできればと。
この発言だけを見る →
松本和彦#16
○松本参考人 憲法上、例えば制限理由を盛り込むというような場合については、そういう方法がないわけではない、あるいはそういう方法も有効な場合もあるかもしれないとは思うわけですが、ただ、憲法上の決定というのは、これは非常に長期的な考慮を要することでありますし、また国民的な賛同を要することだろうと思います。したがって、だれがどう考えてもそのような制限が必要であるというような場合に限ってなされるべきことではないかというふうに思います。
 とりわけ人権につきましては、その制限というのは、これはやはり原則として許されないことでありますので、その許されないことを憲法において実現するという以上は、国民的な賛同が得られるような事柄でないとならないのではないかと思います。そうだとすると、それほど多くの事柄を憲法に期待することはできないのではないかというふうに考えております。
この発言だけを見る →
笠浩史#17
○笠小委員 いや、私も、それはおっしゃるとおりなんですけれども、ただ、制限することを加えるということではなくて、今の人権というものが、グローバルスタンダードにおいて、果たして今のままで十分なのかなと、その基本法の憲法の中における位置づけというものが。その部分をむしろきちんと検討して、もちろん十分な時間もかけなければいけないけれども、一つ踏み込んだ形でやはり盛り込まなければ、何が、例えば議会で議論をするにしても、制限が逆にできるのか、してはいけないのか、その部分というものが、やはり明確な基準化という意味でも必要になってくるのではないかと思っているわけでございますけれども。
この発言だけを見る →
松本和彦#18
○松本参考人 人権というものを憲法上どのくらい列挙するかという点については、これは国によってさまざまでありますけれども、日本国憲法の人権のカタログというのは私は割と豊富な方であるというふうに考えておりまして、例えばアメリカ合衆国の憲法なんかに比べますと非常に人権の数も多いですし、基準として、特にグローバルスタンダードに照らしてみても劣るところはないというふうに考えております。
 しかし、そのことを踏まえた上でさらに人権条項を充実させていくということ、それ自体は私も否定するつもりはございませんが、現在の日本国憲法の人権条項がグローバルスタンダードから見て特に劣っているというふうには考えておりません。
この発言だけを見る →
笠浩史#19
○笠小委員 どうもありがとうございました。
この発言だけを見る →
山花郁夫#20
○山花小委員長 次に、太田昭宏君。
この発言だけを見る →
太田昭宏#21
○太田小委員 公明党の太田昭宏です。
 時代の変遷とともに、今、笠さんがおっしゃったように、新しい人権ということも含めて提起をされていますが、調整対立項目であるというそれぞれの人権ということにつきましても、私はこうした、よりプライバシーが保護されるという時代であるべきである。人格ということについても幅広くやらなくてはいけない。同時に、表現の自由というのが非常に大事である。それらをもう少し、昭和二十一、二年当時よりも、現在の状況、あるいは未来のそうした情報通信社会、あるいは人々がより言葉をもって表現するという時代にあって、もう少し鮮明に、あるいはもう少しバランスよくたくさん書き上げるという、豊富であると今おっしゃったわけですが、私はそういうことが大事だというふうに思うんです。まず、このことについて一つお伺いをしたいと思います。
 そのときに問題となってくるのは、議会という、立法措置ということを言いましたが、私も、そういう場合非常に大事だと思うんですが、現在の、司法に任せるという場合に、どうしてもそれは事後処理的になる。そして、現在、環境権ということが司法の場で認められ、プライバシー権の中での肖像権、これが認められ、そして、名誉毀損、この名誉権というものが、司法の場ではそのくらいでしょう。
 そうしたことで結論が出るといった場合、私は、立法措置での処理ということを考えても、立法措置がたくさん、環境なら環境でいろいろ立法措置が行われます。その根拠が、憲法の上で表現するということは、立法措置をする場合でも一つ必要になるのではないのかというふうに思うわけです。司法だと事後になるから、事前という意味での立法と憲法的な措置。そして、立法措置という場合の、法律をさまざまつくるということであるならば、その根拠となる憲法の条項というものを表現するという意味で、新しい人権とか現在の憲法論議というものは進めていった方がいいという整理を私はするわけなんです。
 憲法十三条の幸福追求権、そして公共の福祉との関連性、こういうものですべてのものが読み切れるという、これはこれでバランスでしょう。しかし、一歩進んでそういう時代になったんだ、私はそう思うわけですが、いかがでしょうか。
この発言だけを見る →
松本和彦#22
○松本参考人 人権と人権の調整というのは、これは非常に微妙な考慮を要するわけでありまして、これは、先ほど申し上げましたように、憲法上でそれを行うということには限界があるだろうと考えております。その意味で、立法の役割というのは非常に重要でありますし、それから行政の役割、そして裁判所の役割、とりわけ私人間における人権と人権の衝突の調整において裁判所の果たす役割というのは、これは永遠になくならないだろうというふうに考えております。
 そのことを踏まえました上で、立法の前に何らかの調整、特に憲法上の調整というのが要るのかどうか、とりわけ今環境権のお話をされましたので、それについてお答えしたいと思うわけです。
 私自身は、環境権というものを憲法に取り込むという点については、環境というものが、個人の権利というより、これは公共の利益である、そういう側面の方が強いのではないかというふうに考えますことから、環境権という形での規定については必ずしも積極的ではございません。
 もし環境について憲法上何らかの基準が必要であるというのであれば、私は、国家の環境保全義務というものを規定するというような方向で考えるべきではないかと考えております。つまり、国が環境を保護する義務を負っているのだというふうに考え、そして、その国家の環境保全義務を基礎に、国はさまざまな環境保護立法を行っていくというようなやり方といいますか方向性で考えるべきではないかというふうに考えております。
 個人の権利としての環境権というものを規定するという方向よりは、国家の環境保全義務を規定するという方向の方がベターではないかというふうに考える次第です。
この発言だけを見る →
太田昭宏#23
○太田小委員 プライバシー権ということを加えていくということも私は大事だというふうに思うわけですが、そのプライバシー権ということをつけ加えた場合に、当然そこには、表現の自由ももう少し強化する書き方というものがあってしかるべきである。
 その辺の、例えばスペイン憲法などでは、名誉、プライバシー、肖像権、住居の不可侵、通信の秘密ということでずっと書いたり、あるいは表現の自由、知る権利、事前検閲の禁止というようなことをかなり書き込んでいるわけですね。あるいは、オランダ憲法においてもプライバシーの権利ということを書き込んだり、韓国の憲法でも、プライバシーということについて言うならば、すべての国民は私生活の秘密及び自由を侵害されない、これは簡単でありますが、そういうふうに書いてある。
 バランスが当然必要であるというように思うんですが、私が先ほど申し上げたように、それぞれについてもう一歩書き込んでいくという作業が、その後の法律をつくる場合でもさまざまに必要である。
 今の環境権ということについての先生の考えは、環境権というものを個人の権利ととらえるからです。私は、人権という項目の中には、法体系にはなかなかない、権利と義務しかないんですが、責任という項目の中で、国民の責任や国家の責任、責任という一つの媒介指数というものをとるという時代になってきたんではないかというふうに思っているわけなんです。そのことはいいんですが、前半の私の話はいかがでしょうか。
この発言だけを見る →
松本和彦#24
○松本参考人 プライバシー権を憲法上に規定すべきかどうかということでありますが、これも、先ほど述べましたように、プライバシー権自体が憲法上の権利としての保護を受けるべきだという点については、これは憲法学界もそうでありますし、私も肯定しております。したがって、現在、日本国憲法にはプライバシー権という権利は明文規定にはありませんが、それが憲法上の保護を受けるということについては異論がないわけであります。
 ですから、その異論のない権利を新たに明文で規定するということについて、それ自体は特に反対すべき理由はないわけですが、ただ、逆に言いますと、もう既にプライバシー権が憲法上の権利であるということを、これは学界だけではなくて裁判所を含めて多くの人が認めている中で、新たに規定することの実益がどのぐらいあるかということについては、私自身は、余りないのではないかというふうに考えているということであります。
 それから、国民の責任について考えるべきだという御指摘につきましては……(太田小委員「国家と国民」と呼ぶ)国家の責任について、私自身は、憲法というものは、国家権力というものを創出し、かつそれを統制するというところに意味があるというふうに考えておりますので、例えば、国民の権利が規定されているのも、これは国家権力を統制するためにあるわけです。
 あるいは、国会に立法権、行政に行政権、それから裁判所に司法権が規定されているのは、憲法が、国家権力というものを規定することによって、権力の行使を授権している、認めている。しかし、国家に権力行使を認めた以上、その権力が乱用されたり、あるいは暴走したりしないように、さまざまに統制する仕組みを同時に設けなければならないということで、国民の権利、人権というものが規定されているというふうに理解しておりますから、憲法上の権利というのはすべて、これは国家権力の統制という点から考えていくべきである。
 その意味で、環境権というような権利が、権利として憲法にふさわしいかどうかというふうに考えたので、先ほどのような発言になったわけでございます。
この発言だけを見る →
太田昭宏#25
○太田小委員 時間がもうオーバーしてしまいましたが、例えばプライバシー権を明示した場合、先ほど申し上げましたように、それに対する権利ということ自体も書き込むという作業が私は必要だというように思うわけですが、それはどうなんですか。
この発言だけを見る →
松本和彦#26
○松本参考人 人権と人権の衝突の調整というのは、私自身は非常に微妙な作業であると考えておりますので、これは最終的には具体的なレベルでしか行えないだろうと考えております。
 ですから、憲法上で行えることには限界があるというのが私の見解であります。憲法上でやるよりはむしろ立法上で行う、そしてそれを最終的には裁判所で行うというふうに、ある程度具体的なレベルで行わないと、こういう微妙な調整というのはできないのではないかというふうに考えております。
この発言だけを見る →
太田昭宏#27
○太田小委員 ありがとうございました。
この発言だけを見る →
山花郁夫#28
○山花小委員長 次に、山口富男君。
この発言だけを見る →
山口富男#29
○山口(富)小委員 日本共産党の山口富男です。
 きょうは、大きく二つのテーマでお聞きしたいんですけれども、基本的人権論と公共の福祉論に分けてお尋ねしたいんです。
 初めに基本的人権論なんですけれども、きょう、日本国憲法の人権規定が大変カタログが豊富だという話があったんですが、これにかかわって、一点は、やはりこれは明治憲法下の基本的人権を認めなかった時期の教訓や反省に根差しているのかどうかという点の参考人の評価。
 それからもう一点は、先ほど、環境権やプライバシー権をめぐって、判例法理や憲法学界の中でも、これが憲法上根拠を持つという考えになってきているんだという話がありました。例えば、環境権ですと、六〇年代から七〇年代にかけて公害問題が起きて、いろいろな運動や、それから憲法学界の中から、十三条、二十五条に基づいてこれがあるんだという考えになり、それが国連の一連の環境会議なんかでも認められるという意味では、日本初の一つの権利の豊富化だったというふうに思うんです。そういうふうに考えますと、日本国憲法で定められた人権という問題が、それぞれの社会の発展の中で、いろいろな運動などによって豊富になってきているという認識をお持ちなのか。
 その二点、まず初めにお尋ねしたいと思います。
この発言だけを見る →
← 戻る