決算委員会
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会
会議録情報#0
昭和三十年六月三十日(木曜日)
午後一時四十一分開会
—————————————
委員の異動
六月二十九日委員久保等君辞任につ
き、その補欠として亀田得治君を議長
において指名した。
—————————————
出席者は左の通り。
委員長 山田 節男君
理事
青柳 秀夫君
谷口彌三郎君
岡 三郎君
中川 幸平君
石川 清一君
委員
大谷 瑩潤君
西川彌平治君
白井 勇君
白波瀬米吉君
長島 銀藏君
飯島連次郎君
島村 軍次君
三浦 辰雄君
大倉 精一君
亀田 得治君
近藤 信一君
木島 虎藏君
市川 房枝君
政府委員
農林大臣官房会
計課長 武田 誠三君
事務局側
常任委員会専門
員 池田 修藏君
説明員
大蔵省主計局司
計課長 柳沢 英蔵君
農林省農地局建
設部長 桜井 志郎君
会計検査院事務
総局検査第三局
長 小峰 保栄君
参考人
和歌山県御坊市
長 菅原 清六君
和歌山県農地部
長 小川 文良君
和歌山県御坊市
農林課主事 芝 友三郎君
—————————————
本日の会議に付した案件
○昭和二十八年度一般会計歳入歳出決
算(内閣提出)
○昭和二十八年度特別会計歳入歳出決
算(内閣提出)
○昭和二十八年度政府関係機関決算報
告書(内閣提出)
(昭和二十八年度決算中公共事業に
対する国津補助金、国庫負担金の経
理に関する件)
—————————————
この発言だけを見る →午後一時四十一分開会
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委員の異動
六月二十九日委員久保等君辞任につ
き、その補欠として亀田得治君を議長
において指名した。
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出席者は左の通り。
委員長 山田 節男君
理事
青柳 秀夫君
谷口彌三郎君
岡 三郎君
中川 幸平君
石川 清一君
委員
大谷 瑩潤君
西川彌平治君
白井 勇君
白波瀬米吉君
長島 銀藏君
飯島連次郎君
島村 軍次君
三浦 辰雄君
大倉 精一君
亀田 得治君
近藤 信一君
木島 虎藏君
市川 房枝君
政府委員
農林大臣官房会
計課長 武田 誠三君
事務局側
常任委員会専門
員 池田 修藏君
説明員
大蔵省主計局司
計課長 柳沢 英蔵君
農林省農地局建
設部長 桜井 志郎君
会計検査院事務
総局検査第三局
長 小峰 保栄君
参考人
和歌山県御坊市
長 菅原 清六君
和歌山県農地部
長 小川 文良君
和歌山県御坊市
農林課主事 芝 友三郎君
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本日の会議に付した案件
○昭和二十八年度一般会計歳入歳出決
算(内閣提出)
○昭和二十八年度特別会計歳入歳出決
算(内閣提出)
○昭和二十八年度政府関係機関決算報
告書(内閣提出)
(昭和二十八年度決算中公共事業に
対する国津補助金、国庫負担金の経
理に関する件)
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山
山田節男#1
○委員長(山田節男君) ただいまから第二十三回決算委員会を開会いたします。
昭和二十八年度一般会計歳入歳出決算、
昭和二十八年度特別会計歳入歳出決算並びに昭和二十八年度政府関係機関決算報告書
を議題といたします。
本日は去る六月二十七日の委員会に引き続き公共事業に対する国庫補助金、国庫負担金の経理に関し参考人から説明を聴取いたします。本日参考人として御出席の方は、和歌山県農地部長小川文良君並びに同県御坊市長管原清六君であります。なお、農林省からは、武田会計課長、桜井建設部長、大塚災害復旧課長が見えております。なお、会計検査院側は小峰検査第三局長が間もなく出席することになっております。
本日は参考人として和歌山県の小川農地部長並びに御坊市長の管原君には遠路御出席を得まして、感謝にたえません。今回両君を参考人としてお呼びしましたのは、目下われわれが審議しておりまする昭和二十八年度の決算報告書の中におきまして、補助金関係の問題につきまして批難事項として指摘せられておりまする御坊市の昭和二十七年七月の大水害に基く災害復旧の問題に関しまして、会計検査院の早期検査において設計過大であったという批難を受けておるのであります。この件に関しまして当時の事情を現地の両君からお伺いし、なお、農林省並びに検査に当りました会計検査院側の意見等もあわせて聴取いたすためにおいで願ったのであります。そういうわけでありまするから、われわれ当決算委員会の参考となるべき事項を率直にお述べ願えれば幸甚に存ずるわけであります。なお、本日は別に時間を制限いたしませんけれども、要点を明確に御説明願いたいと存じます。
ちょっと参考人の方にお伺いしますが、小川農地部長の本籍地、それから現職におつきになった年月日並びに前職をお伺いしたいと思います。
この発言だけを見る →昭和二十八年度一般会計歳入歳出決算、
昭和二十八年度特別会計歳入歳出決算並びに昭和二十八年度政府関係機関決算報告書
を議題といたします。
本日は去る六月二十七日の委員会に引き続き公共事業に対する国庫補助金、国庫負担金の経理に関し参考人から説明を聴取いたします。本日参考人として御出席の方は、和歌山県農地部長小川文良君並びに同県御坊市長管原清六君であります。なお、農林省からは、武田会計課長、桜井建設部長、大塚災害復旧課長が見えております。なお、会計検査院側は小峰検査第三局長が間もなく出席することになっております。
本日は参考人として和歌山県の小川農地部長並びに御坊市長の管原君には遠路御出席を得まして、感謝にたえません。今回両君を参考人としてお呼びしましたのは、目下われわれが審議しておりまする昭和二十八年度の決算報告書の中におきまして、補助金関係の問題につきまして批難事項として指摘せられておりまする御坊市の昭和二十七年七月の大水害に基く災害復旧の問題に関しまして、会計検査院の早期検査において設計過大であったという批難を受けておるのであります。この件に関しまして当時の事情を現地の両君からお伺いし、なお、農林省並びに検査に当りました会計検査院側の意見等もあわせて聴取いたすためにおいで願ったのであります。そういうわけでありまするから、われわれ当決算委員会の参考となるべき事項を率直にお述べ願えれば幸甚に存ずるわけであります。なお、本日は別に時間を制限いたしませんけれども、要点を明確に御説明願いたいと存じます。
ちょっと参考人の方にお伺いしますが、小川農地部長の本籍地、それから現職におつきになった年月日並びに前職をお伺いしたいと思います。
小
小川文良#2
○参考人(小川文良君) 私は、生れは鹿児島県でございますが、原籍は東京都新宿区内藤町一番地でございます。戦地に七年おりまして、終戦後当時の在職地の富山県庁に帰りまして、二十一年に長野県の耕地課長に赴任いたしまして、約三年間長野県にお世話になりまして、二十四年の春現在の和歌山県の農地部長になって参りまして、昨年農林部長を兼務いたしまして現在に至っております。
この発言だけを見る →山
山田節男#3
○委員長(山田節男君) 次に菅原御坊市長にお伺いしたいと存じますが、芦原君の市長に御就任の年月日並びにその前職、なおあわせて芦原君は以前地方公共団体の役員等、市町村会議員を含めて、そういうところにお務めになったことがありますかどうか、御説明を願いたいと思います。
この発言だけを見る →菅
菅原清六#4
○参考人(菅原清六君) 私の生れ故郷は宮城県でありますが、ただいま本籍を和歌山県の和歌山市に移しております。終戦後は食糧公団の支局長などをやりまして、また輸出組合連合会の会長などもやりまして、二十六年の十月に町長に就任し、二十八年の四月に町村合併等によりまして市長をいたしておるのであります。
この発言だけを見る →山
山田節男#5
○委員長(山田節男君) これから参考人の方にお伺いしまする件は、検査報告の百九十三ページの(3)に出ておりまする件でありまして、和歌山県日高郡御坊町が申請した二十八年度災の農地災害復旧工事、工事費査定額一億五千八百三十四万二千円、うち昭和二十八年度国庫補助金の一億四千二百五十万七千円についてであります。
まず和歌山県御坊市長菅原清六君からの御説明を求めます。
この発言だけを見る →まず和歌山県御坊市長菅原清六君からの御説明を求めます。
菅
菅原清六#6
○参考人(菅原清六君) 先ほど申し上げました二十八年の四月に市長と申しましたのは、二十九年の誤りでありますので、訂正さしていただきたいと思います。
ただいまの問題につきまして申し上げますのでありますが、当時の概況を申し上げますことの方が何がしかの参考になると存じますので、かいつまんで申し上げたいと思います。
二十七年の例の災害でありますが、私当時町長に就任いたしまして半年くらいのときでございまして、山では七百ミリくらいの雨だと申しておりましたが、非常に短時間に降ったために山が押し流された格好になりまして、立木あるいは古い木の株等が一挙に流れて参ったのであります。もちろん土砂等も一緒に、山ごし流されてきたといった感じでありました。従って、途中の橋という橋はそのような立木のために全部押し流されまして、一番下流にあります御坊町に入ったのであります。その前後の観察によりますと、大体堤防から一メーター以上、五尺くらいまでの温水をしておった、堤防を水が越えておったといわれております。またしばらくしてから見ても、堤防等の存在がわからないくらい水が入って参ったのであります。そうして私の附近の町を流れております川が二つありますが、一つは流程四十里と申しております日高川であります。これが私の地帯で三カ所、それから西川という別な川で三カ所、合計六カ所が一挙に決壊いたしまして、約三十分くらいの間に全町が埋没いたしたのでございます。で、当時の町といたしまして戸数約四千くらいでありますが、一番軽いところで床上一メーターくらいから最もひどいところになりますと、二階に届く程度の水でありました。従って大体軒下程度に及ぶ戸数がそのうちの七〇%を占めておったのであります。従いまして水が非常に早かったことと、そうして今申し上げましたようなことのために、一戸も御坊町の中で水害の被害を受けない戸数がないわけでございます。商品も当時の計算によりますと、十五、六億の被害を受けたであろうと申されております。人間の死亡いたしましたのが約百名近いのであります。それから家畜等もことごとくこの災害のために失われておりますし、そのようなことが一日続いて、翌日からまた四、五日の細雨がびしょびしょ降っておりました。これが当時の状況であります。従って私なとも市役所——ただいまの市役所でありますが、出て丁度上のポケットがぬれる程度のときに避難をしたのであります。そうして見ておりますうちに、避難いたしました大ていの書類が全部目の先で埋没いたして、流れてしまったのでありまして、最後に戸籍簿を一冊くらいずつ持って、ようやく命からがら逃げたのでありますが、自来四日間、私もただ一つの握り飯を食っただけで、そのぬれた姿でがんばっておったのであります。
それから私たちはこの水害の問題に取っ組んで参ったのでありますが、先に申し上げましたように、埋没いたしました戸数が全戸数の七〇%程度でありまして、それから流失いたしました戸数が約一千戸に近いのであります。そうして私も五日くらいたったときには、まだしかばねの処理に困っておりました。もうだんだんに爛熟するといいますか、腐っていく、ぐじゃぐじゃになっていくしかばねの処理に実に困り果てたのであります。一週間くらいたちましたときに、ようやく隣りの町にしかばねを舟で運んで土葬いたしたというような状況でありました。そのあとの姿と申しますと、町の中には当時二、三日間は腰ぎりといいいますか、実にひどい泥でありましたし、一週間くらいたちましたときにも、全市、もとの御坊町の全部が名状することのできないような、そのような臭い泥で埋まったのであります。私たちもその前後いかにすべきかについて、現地で苦労して参ったのでありますが、持って参りました握り飯あるいは軸パンが——ようやく孤立無援から救われましたのが三日目でありますが、その食糧を町かどまで持って参りましたころには、略奪されて、町民の過半数にはほとんど一週間くらいの間食物をとれない、そういう惨状を呈しておったのであります。また何とかして幹線をぶち抜きたい、治安の関係から申しましても、また食糧の運搬等から申しましても支障がありましたので、幹線を町のまん中に一本だけ抜きたいというので、総動員してその幹線抜き工事をいたしたのでありますけれども、遂にその問題も三週間くらいかかってようやく一本の道路を開通することができた、こういう状況でありました。ことに当時こちらの方でも、ともすると内灘のような状態になるのじゃないかという御心配をいただいたようでありますが、私もその間にありまして、全く悪戦苦闘を続けて参りました。治安の確保に最も私たちそのときに苦慮いたしたのであります。そのようにして約一カ月間くらいは配給すべき食糧等も略奪しされる、そういう状況でありましたし、又配給台帳等も全部失っておりますので、私たちといたしましては、こういう書類の作成等につきましても、県下の随所の応援を得て、とりあえず、そのような書類を作った、そういう状況でありました。本日も私の随行に参っておりますが、当時の農務関係の係をいたしておりますものが、わずかに女の子あるいは若い青年を相手にして当時の配給等を片手にひっしょいながら、片方では農地の問題等につきまして、あるいは県庁から、あるいはその他の関係から、急速に書類の提出方をお話があったのでありますが、何分先に申し上げたような状況下にありまして、泥の中に立ってまさにぼう然自失するような、そういう格好であったのであります。歯ぎしりかみながら実は鞭撻し続けまして、その書類を提出さしていただいたのでありますが、そういう状況下にありましたので、あるいは皆様方に御迷惑をわずらわすような、そういう結果があったと存じますけれども、現状はかような状況下に作成させていただきましたので、御了承いただきたいと存ずるわけであります。
この発言だけを見る →ただいまの問題につきまして申し上げますのでありますが、当時の概況を申し上げますことの方が何がしかの参考になると存じますので、かいつまんで申し上げたいと思います。
二十七年の例の災害でありますが、私当時町長に就任いたしまして半年くらいのときでございまして、山では七百ミリくらいの雨だと申しておりましたが、非常に短時間に降ったために山が押し流された格好になりまして、立木あるいは古い木の株等が一挙に流れて参ったのであります。もちろん土砂等も一緒に、山ごし流されてきたといった感じでありました。従って、途中の橋という橋はそのような立木のために全部押し流されまして、一番下流にあります御坊町に入ったのであります。その前後の観察によりますと、大体堤防から一メーター以上、五尺くらいまでの温水をしておった、堤防を水が越えておったといわれております。またしばらくしてから見ても、堤防等の存在がわからないくらい水が入って参ったのであります。そうして私の附近の町を流れております川が二つありますが、一つは流程四十里と申しております日高川であります。これが私の地帯で三カ所、それから西川という別な川で三カ所、合計六カ所が一挙に決壊いたしまして、約三十分くらいの間に全町が埋没いたしたのでございます。で、当時の町といたしまして戸数約四千くらいでありますが、一番軽いところで床上一メーターくらいから最もひどいところになりますと、二階に届く程度の水でありました。従って大体軒下程度に及ぶ戸数がそのうちの七〇%を占めておったのであります。従いまして水が非常に早かったことと、そうして今申し上げましたようなことのために、一戸も御坊町の中で水害の被害を受けない戸数がないわけでございます。商品も当時の計算によりますと、十五、六億の被害を受けたであろうと申されております。人間の死亡いたしましたのが約百名近いのであります。それから家畜等もことごとくこの災害のために失われておりますし、そのようなことが一日続いて、翌日からまた四、五日の細雨がびしょびしょ降っておりました。これが当時の状況であります。従って私なとも市役所——ただいまの市役所でありますが、出て丁度上のポケットがぬれる程度のときに避難をしたのであります。そうして見ておりますうちに、避難いたしました大ていの書類が全部目の先で埋没いたして、流れてしまったのでありまして、最後に戸籍簿を一冊くらいずつ持って、ようやく命からがら逃げたのでありますが、自来四日間、私もただ一つの握り飯を食っただけで、そのぬれた姿でがんばっておったのであります。
それから私たちはこの水害の問題に取っ組んで参ったのでありますが、先に申し上げましたように、埋没いたしました戸数が全戸数の七〇%程度でありまして、それから流失いたしました戸数が約一千戸に近いのであります。そうして私も五日くらいたったときには、まだしかばねの処理に困っておりました。もうだんだんに爛熟するといいますか、腐っていく、ぐじゃぐじゃになっていくしかばねの処理に実に困り果てたのであります。一週間くらいたちましたときに、ようやく隣りの町にしかばねを舟で運んで土葬いたしたというような状況でありました。そのあとの姿と申しますと、町の中には当時二、三日間は腰ぎりといいいますか、実にひどい泥でありましたし、一週間くらいたちましたときにも、全市、もとの御坊町の全部が名状することのできないような、そのような臭い泥で埋まったのであります。私たちもその前後いかにすべきかについて、現地で苦労して参ったのでありますが、持って参りました握り飯あるいは軸パンが——ようやく孤立無援から救われましたのが三日目でありますが、その食糧を町かどまで持って参りましたころには、略奪されて、町民の過半数にはほとんど一週間くらいの間食物をとれない、そういう惨状を呈しておったのであります。また何とかして幹線をぶち抜きたい、治安の関係から申しましても、また食糧の運搬等から申しましても支障がありましたので、幹線を町のまん中に一本だけ抜きたいというので、総動員してその幹線抜き工事をいたしたのでありますけれども、遂にその問題も三週間くらいかかってようやく一本の道路を開通することができた、こういう状況でありました。ことに当時こちらの方でも、ともすると内灘のような状態になるのじゃないかという御心配をいただいたようでありますが、私もその間にありまして、全く悪戦苦闘を続けて参りました。治安の確保に最も私たちそのときに苦慮いたしたのであります。そのようにして約一カ月間くらいは配給すべき食糧等も略奪しされる、そういう状況でありましたし、又配給台帳等も全部失っておりますので、私たちといたしましては、こういう書類の作成等につきましても、県下の随所の応援を得て、とりあえず、そのような書類を作った、そういう状況でありました。本日も私の随行に参っておりますが、当時の農務関係の係をいたしておりますものが、わずかに女の子あるいは若い青年を相手にして当時の配給等を片手にひっしょいながら、片方では農地の問題等につきまして、あるいは県庁から、あるいはその他の関係から、急速に書類の提出方をお話があったのでありますが、何分先に申し上げたような状況下にありまして、泥の中に立ってまさにぼう然自失するような、そういう格好であったのであります。歯ぎしりかみながら実は鞭撻し続けまして、その書類を提出さしていただいたのでありますが、そういう状況下にありましたので、あるいは皆様方に御迷惑をわずらわすような、そういう結果があったと存じますけれども、現状はかような状況下に作成させていただきましたので、御了承いただきたいと存ずるわけであります。
山
小
小川文良#8
○参考人(小川文良君) 去る二十八年の七月十八日突如和歌山県に襲来いたしましたあの未曽有の大災害につきましては、その直後全国の皆様方、なお、海外の多数の方々から手厚い救助の手を差し伸べていただきました。ただいま御坊市長からお話のありましたように、あの混乱状態をよく切り抜けまして、人心の安定をはかることができましたことを厚くお礼を申し上げる次第でございます。
その後御坊町の農地復旧につきましての当面の責任者でございます不肖私がその指導監督が不十分なために、国事に非常にお忙しい皆様方のお手をわずらわしましたことを、私心からお詫びを申し上げる次第でございます。
なお、本日は国会議事堂におきまして、九千万国民の名におきまして、皆様方から和歌山県の将来の災害復旧につきましていろいろ御指導をいただき、今日これから皆様方から数々の災害についての将来のあり方についてお教えいただきます事柄は私の肝に深く銘じまして、これから県庁の関係職員はもちろんのこと、直接の災害復旧の責任者でございますところの市町村長の頭に徹底的にこれをたたき込みまして、将来立派な農地の復旧をいたしまして、私どもの技術的な良心に訴えまして、将来立派な災害復旧をいたすことによりまして、国民に対する無言の言葉といたしたい所存でございますので、その点何とぞよろしく御了承をお願いいたしたいと思います。
災害の状況につきましては、ただいま市長からこまごまと御説明があったのでありますが、私も県の立場におきまして補足的に一言申し述べさしていただきたいと思います。
当時の災害は、和歌山県でも体験したことのない未曽有の大災害でございまして、御坊町といたしましては、死者、行方不明合計いたしまして二十六名でございます。負傷者が九百九十一名、なお、日高川筋におきましては死者、行方不明合計二百三十三名、負傷者が一千八百七十五名と相なっております。罹災戸数はただいまのお話しの約四千戸でございまして、これは御坊町のほとんど全戸数でございます。罹災者が一万六千四百二十四名という県の調べに相なっております。こういう大災害でございましたので、もちろん交通は杜絶いたしますし、通信は杜絶いたしまして、県との連絡もほとんどつかなかったというほどでございまして、辛うじて海に面しておる和歌山県といたしましては、機帆船によりまして県との連絡を辛うじて保ったという状況であったわけでございます。このように多数の死亡者を出し、また罹災者を出しました関係で、衣類と食糧は不足を来たし、また悪疫が流行いたしまして、薬品も欠乏いたしたのでございまして、その間町の中全部に土砂が流入いたしまして、民心の安定ということにつきましては、町はもちろんのこと、県といたしましても非常にこの問題について腐心をいたしたわけでございます。そこで県の職員は、まず地方事務所の職員が、技術者も事務員も全員をあげて、御坊町のこの食糧とか衣類の配給、並びに薬品の配給、町の方々の面倒をみてあげました関係上、この復旧工事にはほとんど手が伸びなかったという状況でございまして、私も災害直後現地に参ったのでありますが、県の出先きの職員もほとんど災害を受けて、住むに家もないという状態であったのでございますが、私は当時職員を叱咤激励いたしまして、県の公僕として県民に尽すのはこの際であるということで、自分の家は犠牲にして、ほとんど全部地方事務所に立てこもって救済事業に当るということで、その方面の救済事業、被害の調査に当ったわけでございます。
その後、県の技術者だけはすぐこれが復旧計画を立てなければなりませんので、やっと一週間後の七月二十三日から災害の調査にかかったのでございます。国に対しましては八月の十日に県下の復旧計画書をまとめまして提出いたしました。農林省と大蔵省から係官が八月十一日、約一カ月目に査定に参りまして、県下の査定に着手したわけでございます。こういった状況で、異状な災害でございましたので、災害直後この復旧の計画に携わることができなかったという関係で、国に災害復旧の計画書を提出するまでには約十八日間しかなかった。その間にこの膨大な調査をし設計をしてまとめました関係もございまして、十分にこれの設計ができなかったということはまことに遺憾に存じておる次第でございます。御坊市の災害の復旧につきましては、県といたしましては、そういった状況で手が足りませんでしたので、農林省のごあっせんによりまして、七月二十六日から八月十五日まで近畿各府県から技術者の応援を求めまして、三十四名きていただきまして、その技術者の応援を得まして、さしあたりの災害復旧の計画をとりまとめたのでございます。農地の復旧につきましては、県から被害の状況を視察いたしまして、市の、当時の町に復旧の計画をしていただいた。それを県においてとりまとめて、国に提出したということに相なっておるわけでございます。
簡単に補足的に一応御説明を終らしていただきます。
この発言だけを見る →その後御坊町の農地復旧につきましての当面の責任者でございます不肖私がその指導監督が不十分なために、国事に非常にお忙しい皆様方のお手をわずらわしましたことを、私心からお詫びを申し上げる次第でございます。
なお、本日は国会議事堂におきまして、九千万国民の名におきまして、皆様方から和歌山県の将来の災害復旧につきましていろいろ御指導をいただき、今日これから皆様方から数々の災害についての将来のあり方についてお教えいただきます事柄は私の肝に深く銘じまして、これから県庁の関係職員はもちろんのこと、直接の災害復旧の責任者でございますところの市町村長の頭に徹底的にこれをたたき込みまして、将来立派な農地の復旧をいたしまして、私どもの技術的な良心に訴えまして、将来立派な災害復旧をいたすことによりまして、国民に対する無言の言葉といたしたい所存でございますので、その点何とぞよろしく御了承をお願いいたしたいと思います。
災害の状況につきましては、ただいま市長からこまごまと御説明があったのでありますが、私も県の立場におきまして補足的に一言申し述べさしていただきたいと思います。
当時の災害は、和歌山県でも体験したことのない未曽有の大災害でございまして、御坊町といたしましては、死者、行方不明合計いたしまして二十六名でございます。負傷者が九百九十一名、なお、日高川筋におきましては死者、行方不明合計二百三十三名、負傷者が一千八百七十五名と相なっております。罹災戸数はただいまのお話しの約四千戸でございまして、これは御坊町のほとんど全戸数でございます。罹災者が一万六千四百二十四名という県の調べに相なっております。こういう大災害でございましたので、もちろん交通は杜絶いたしますし、通信は杜絶いたしまして、県との連絡もほとんどつかなかったというほどでございまして、辛うじて海に面しておる和歌山県といたしましては、機帆船によりまして県との連絡を辛うじて保ったという状況であったわけでございます。このように多数の死亡者を出し、また罹災者を出しました関係で、衣類と食糧は不足を来たし、また悪疫が流行いたしまして、薬品も欠乏いたしたのでございまして、その間町の中全部に土砂が流入いたしまして、民心の安定ということにつきましては、町はもちろんのこと、県といたしましても非常にこの問題について腐心をいたしたわけでございます。そこで県の職員は、まず地方事務所の職員が、技術者も事務員も全員をあげて、御坊町のこの食糧とか衣類の配給、並びに薬品の配給、町の方々の面倒をみてあげました関係上、この復旧工事にはほとんど手が伸びなかったという状況でございまして、私も災害直後現地に参ったのでありますが、県の出先きの職員もほとんど災害を受けて、住むに家もないという状態であったのでございますが、私は当時職員を叱咤激励いたしまして、県の公僕として県民に尽すのはこの際であるということで、自分の家は犠牲にして、ほとんど全部地方事務所に立てこもって救済事業に当るということで、その方面の救済事業、被害の調査に当ったわけでございます。
その後、県の技術者だけはすぐこれが復旧計画を立てなければなりませんので、やっと一週間後の七月二十三日から災害の調査にかかったのでございます。国に対しましては八月の十日に県下の復旧計画書をまとめまして提出いたしました。農林省と大蔵省から係官が八月十一日、約一カ月目に査定に参りまして、県下の査定に着手したわけでございます。こういった状況で、異状な災害でございましたので、災害直後この復旧の計画に携わることができなかったという関係で、国に災害復旧の計画書を提出するまでには約十八日間しかなかった。その間にこの膨大な調査をし設計をしてまとめました関係もございまして、十分にこれの設計ができなかったということはまことに遺憾に存じておる次第でございます。御坊市の災害の復旧につきましては、県といたしましては、そういった状況で手が足りませんでしたので、農林省のごあっせんによりまして、七月二十六日から八月十五日まで近畿各府県から技術者の応援を求めまして、三十四名きていただきまして、その技術者の応援を得まして、さしあたりの災害復旧の計画をとりまとめたのでございます。農地の復旧につきましては、県から被害の状況を視察いたしまして、市の、当時の町に復旧の計画をしていただいた。それを県においてとりまとめて、国に提出したということに相なっておるわけでございます。
簡単に補足的に一応御説明を終らしていただきます。
山
小
山
島
島村軍次#12
○島村軍次君 ただいまの、被害の程度の御説明をわれわれ委員会でお聞きしているのではないので、排土の問題について設計なりあるいはどういう方法でやって、そして設計とどういう点で食い違った、こういうことを聞きたかったのですが、今のは当時の被害状況だけです。それではわかりませんから、その点を一つ農地部長からはっきり御説明願いたいのです。
この発言だけを見る →山
山田節男#13
○委員長(山田節男君) 各委員から質問に入る前に、今島村委員の言われたような、御説明がほしいわけです。それに基いて各委員から質問が出るだろうと思います。地図は小さくてもかまいませんから、各委員に概略、排土の復旧、農地とか住宅地とか概略でようございますから、ちょっとさして御説明願いたいと思います。
この発言だけを見る →小
小川文良#14
○参考人(小川文良君) ちょっと図面が小さいのですが、図面によって。この色を塗ってありますところが御坊市付近の農地の災害地であります。これが日高川、これが西川。日高川と西川との間に大体御坊市が囲まれております。これは海になっております。日高川の川口の右岸が当時の御坊町です。この色を塗ってありますのは、地区を七地区に分けまして、色によって分けてございます。当初二十五万八千立米の土を排土して、事業費一億五千八百万円でございます。この排土の計画は、これは先ほど御説明申し上げましたように、農地の復旧につきましては、各市町村においてやっていただく、そこでこの復旧の当初の計画は御坊町でやっていただいたのであります。当時この地区に、査定の結果、二十五万八千立米ですが、この土砂を排土する計画といたしまして、排土量を研究いたしたわけでございますが、農地復旧は、普通は原則といたしまして原形復旧、これが農地災害復旧の原則に相なっておるのであります。しかしこれは原則でございまして、その特別な地区の事情によって、これが変ってくるわけでございますが、そういうことで当時は先ほど御説明申し上げましたように、非常に日数がないのと手が不足で十分は検討はできなかったということと、いろいろな計画が、この復旧に関連した計画も何も手につかなかったという実情でございまして、町といたしましては、この町内に入りました膨大な土量でございますが、これを復旧する計画でさえも立てずに、当時は山積みしてあった、いつまでも山積みしてあったという状況で、農地の復旧の、土量をどう排除するかということは、もちろん計画が立たなかったわけでございます。そこで原形復旧でもありますし、相当の土が入りましたのでこれをまず排除するという計画を町じゃ立てまして、これから大体距離が千七百メーターでございますが、この地区から九万五千九十七立米の土は、この川岸に排土した。それからこの災害の、こっちが上流でございますが、この上流の災害のひどかったところから、御坊からここに集めまして一万六千二百二十五立米の土を排除する、この二カ所が排土の地点であったわけであります。これは合計いたしまして、約二十五万八千立米の排土計画に相なっております。以上であります。
この発言だけを見る →山
島
島村軍次#16
○島村軍次君 私は当時、参議院の方からお見舞いに参りましたので、町長さんにもお目にかかっておるのであります。当時の惨状は私はよく存じております。そういう前提から考えまして、被害の当時の皆様のあの惨状に対しましては、今でもまことにお気の毒であり、かつ当局の非常なお骨折りであったことに対してはあらためて敬意を表する次第であります。そこでお伺いいたしたいと思いますのは、二十八年の七月の災害で、会計検査院の調べたのが翌年の五月二十五日です。この御回答によって見まするというと、その検査の建前に従って実地と詳細な検討の結果ということでありますが、それまで土の排除はされなかったはずはないと思うのですがね。その関係がちょっとはっきりわからんと思うのです。私から特に申し上げておきますが、別にわれわれは皆さんにお答えを願うことに対して検察的な考え方で申し上げておるのじゃないということを前提にし、当時の事情をここまでこういうふうな指摘のあった問題に対して、その後の情勢を、土地排除に関する情勢を経過的に御説明願えばおのずからわかってくるのじゃないかと思うのです。それが第一点です。
それからなかなか土の排除というような問題は一応設計としてもできますが、なかなか事実問題としますれば、たとえば泥というものが全く役に立たんというものもありましょうし、それからまた泥の捨て場所にも困るというのもありましょうし、それから田地によっては、その泥はかえってあったために、将来客土にもかわるような役割をなすものもある。従ってその適当な泥の入ったのは、その年の収穫が多かったものもあろう、しかし御坊町の災害は大きな木が流れてどこがどこだかわからなんだということも、私は実地を拝見しておりますが、この土砂の排除についていま少し詳しくといいますか、期間的にその情勢をお話し願う、こういうふうにお願いすればよくわかるのじゃないかと思います。
それから農地部長にあわせて伺っておきたいと思いますのは、この設計はむろん農地部の方でやられたのだろうと思います。町長さんはその設計に従ってあの非常な混乱のときですから、判を押してお出しになったというようなことであったのじゃなかったかと想像するわけです。そこでこの会計検査院の結果によって初めてその設計変更を考えられたのか、あるいはその中間において何か措置をとられましたのか、こういう点の経過を一つ聞かしていただきたいと思います。
この発言だけを見る →それからなかなか土の排除というような問題は一応設計としてもできますが、なかなか事実問題としますれば、たとえば泥というものが全く役に立たんというものもありましょうし、それからまた泥の捨て場所にも困るというのもありましょうし、それから田地によっては、その泥はかえってあったために、将来客土にもかわるような役割をなすものもある。従ってその適当な泥の入ったのは、その年の収穫が多かったものもあろう、しかし御坊町の災害は大きな木が流れてどこがどこだかわからなんだということも、私は実地を拝見しておりますが、この土砂の排除についていま少し詳しくといいますか、期間的にその情勢をお話し願う、こういうふうにお願いすればよくわかるのじゃないかと思います。
それから農地部長にあわせて伺っておきたいと思いますのは、この設計はむろん農地部の方でやられたのだろうと思います。町長さんはその設計に従ってあの非常な混乱のときですから、判を押してお出しになったというようなことであったのじゃなかったかと想像するわけです。そこでこの会計検査院の結果によって初めてその設計変更を考えられたのか、あるいはその中間において何か措置をとられましたのか、こういう点の経過を一つ聞かしていただきたいと思います。
山
山田節男#17
○委員長(山田節男君) 島村委員の第一問に関して、先ほど管原市長から当時の状況をつぶさに御説明があったのですが、ああいうどさくさのときですから、もちろん混乱の極に達しておったが、今のこういう設計をするについても誰がやったのか、そうして今島村君の言われたような今日までの、会計検査院から指摘されるまでの経過を一つ御説明願いたいと思うのです。
この発言だけを見る →菅
菅原清六#18
○参考人(菅原清六君) 当時の状況につきましては、先ほど申し上げましたように全く混乱のさ中に当初のああいう設計等をいたしたのであります。一番最初に出しましたのが七月十八日に災害を受けまして、八月十日までに書類の提出を求められたのでありますことは、前段に申し上げた通りでございます。それから八月二十四日に査定を受けまして、そうしてその次にさらに一月二十二日に会計検査院の査定が参ったということであります。で、私の方は、一番最初に全く泥の中に入り込んでおります私たちの状況から御想像いただけると思いますが、町内の庭あるいは室内その他に入っております泥とべたべたにぬれ去ったたくさんのそういう商品その他の家財道具、畳一切そういうものを排除する場所に実は非常に難渋しておったのであります。従って農地の問題につきましては、大へん申しかねますけれども、一部の係にまかした形で見送らざるを得なかった、こういう現状であります。そうして今申し上げたように八月十日に書類を出して、そうして八月二十四日に一回の査定を受けて、一月二十二日に会計検査院のまた査定を大蔵省関係等と一緒に受けたということで、そういうことでありまして、一番最初には私たちも、その泥の掃き場に全く困り果てて河川敷なりあるいはその他に放り出す以外にないということで、あっちこっちやったのであります。その後査定を受け、査定を受けております間に、ずいぶん時日はたっておりますけれども、片方の自分の家の改修であるとか、住居の心配であるとか、一切のそのような、さいなまれた住民の立ち上りのために時間を取られて、そうした方面の仕事にはあまり手を伸ばし得なかった、こういう状況に記憶いたしておるのであります。
この発言だけを見る →山
小
小川文良#20
○参考人(小川文良君) お答えいたします。御坊町の農地復旧の設計につきましては先刻申し上げましたように、県の職員といたしましても、あまり災害が膨大でございまして、とても手が足らないということでございましたので、近畿から三十四名の応援の技術者も得たのでありますが、その後北海道東北からも三十数名の応援を得ております。また昨年は十カ月にわたりまして中国、四国から五十数名の農地関係の技術者の応援を求めまして、着々復旧を進めておるわけでございます。そういうことでございますので、農地の復旧につきましては、区画整理を伴うものは県で設計をいたしました。単なる農地原形復旧につきましては御坊町に設計していただいて、それを県に提出していただいたわけでございます。
それから会計検査院が検査に来るまで、県はこの計画に対してどういうふうな検討をしたかという御質問だったと存ずるのでございますが、この設計書の申請をいたしましたのが八月の十日でございます。農林省の査定を受けましたのが八月の十七日から八月の二十七日まで、その後県におきまして——その前に、一言申し上げたのですが、査定が終りますと、計画に移る前に県で実施設計を立てます。また町村にお願いして実施設計を立てていただいて、これを県で検討いたします。必ず実施設計を立てるわけでございます。この地区も十月に町において再検討をしていただいて、その設計書を県において申請いたしまして、結局一億三百二十七万三千円の実施設計書に相なっております。その後会計検査院がおいでになりまして、事前の調査をなされたわけでございます。
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島
島村軍次#21
○島村軍次君 そうしますと、最初の設計は町長はまあ非常に混乱の時代であったから、よく知らなかったが、係の農務課ですか、農務課の人が設計をして申請をした、こういうことですね。
この発言だけを見る →菅
島
島村軍次#23
○島村軍次君 これは農地の復旧ですから、建設庁の関係と農地復旧と両方あったと思う。なかなか限界がむずかしいところがあったと思いますが、そういう問題に関する調整というような問題は町長としてはどういうふうにお考えになっておるのですか。
この発言だけを見る →菅
菅原清六#24
○参考人(菅原清六君) ほとんど当時町の排土というものに専念しておりましたのですが、その町の方の排土の問題はとにかく町の中のあき地というあき地には全部とにかく出そう、それからそのごく近くのそうしたあき地というものをことごとく、今後はともかくとして、さしあたりは入れよう。それから川に近いところのそういう地域などにつきましては河川敷なんかに排除したというようなことで、当時つじつまを合してやったわけであります。従って先般の農地などに関連してこの排土をどうということじゃなしに、町の中のあちこちのあき地というものをことごとく動員したというのが当時の状況でありました。
この発言だけを見る →三
三浦辰雄#25
○三浦辰雄君 今関連してお尋ねするのですが、私はさっきから疑問に思っておるのは、これは一体農地の改良でやられたのですが、この程度の堆積、堆土であれば、これは特別措置法の施行令昭和二十八年十一月三十日政令第三百六十八号、この第四条によって私は全額国庫負担すべき性質のものであったのじゃなかろうか、こういうふうに根本的に私は疑問を持つのですが、これについてはどうですか。これはむしろ第四条のところには、堆積土砂の程度としてその程度をうたってあるのです。そうして現に一反歩当りこれを修正されて、そうしてできた五千五百万円というようなこの数字を百十三町歩七反からかりに三町何ぼを引いて割ってみても、一反歩当り五万円の結果を得ておる。このことはあの早々の間で当時の町長さん今の市長さんが、その当時の空気をよく映してお話になったが、早々の間では非常に困難の中であるとは言いながら、私は監督官庁としては、この設計というものはいわゆる見積り過大であったという部分はこれは問題の外でありますが、その適正にと申しますか、会計検査院の御注意によって再調査をされた結果の査定においても、これは私は全額国庫負担すべき性質のものであったのだ、こういうふうに私は思う。この点については今関連して根本の問題があるように思うので聞きたいのです。
この発言だけを見る →山
桜
桜井志郎#27
○説明員(桜井志郎君) 御質問に多少余分なことを申し上げて恐縮でございますが、八月の十七日から二十七日まで農林省の出先機関の京都農地事務局が査定に出ております。和歌山県のこの七月十七日の災害に関する申請の総件数が七千八百八件、その申請件数に対して農林省の机上査定と現地査定を合せまして、一応査定を通したものが六千九百五十四の件数になっております。そのうち実地否定をやりましたものが九百三十六件、この程度しか遺憾ながら実査ができなかったのでございますが、木地区は実査ができませんで、机上査定をやった地区になっております。
それから今三浦委員の御指摘の点でございますが、結果的に見ましてただいまの査定額五千五百万円余り、こういうことと、面積その他から考え合せますと、堆土法に該当する前後に相なっておるような状態でございますが、当時の状態といたしましては、もっとひどい状態のものが熊本を中心として多数ございました関係等もあり、特別に堆土のひどかったところは、県によっては県営事業として取り上げてやっております。そういうひどいところにこの政令を適用してやっておりますけれど、本件については適用いたしません。
この発言だけを見る →それから今三浦委員の御指摘の点でございますが、結果的に見ましてただいまの査定額五千五百万円余り、こういうことと、面積その他から考え合せますと、堆土法に該当する前後に相なっておるような状態でございますが、当時の状態といたしましては、もっとひどい状態のものが熊本を中心として多数ございました関係等もあり、特別に堆土のひどかったところは、県によっては県営事業として取り上げてやっております。そういうひどいところにこの政令を適用してやっておりますけれど、本件については適用いたしません。
三
三浦辰雄#28
○三浦辰雄君 それはこの政令というものを早く出せ、早く出せというのに、あの当時出なくて、やっさもっさを盛んに続けた結果、この堆土に関する政令というのは、今申し上げたように十一月の三十日の号外で出ている。十一月の三十日、十一月の末ですよ。あなたの方の最初の査定というものは、ここに書いてあるように四月十八日、その後も何とか机上ながらも関係の事務当局としては他の振り合い等との関係があって、いろいろお調べになったろうが、要するに机上査定、あの当時万やむを得ない、それを問題にしなくても、会計検査院がお調べになって、そうしていよいよといってきて照会があったのが、二月の二十四日です。そうしてあなたの方で回答したのが五月の二十五日です。となれば、すでにこれはもうれっきとしたこれに関する政令があるのですね。しかもましてや一億五千万ですか、当初の規模から言ったって、相当にこれは大きいのでありますから、この際三町何がしというものは経費であるということで、かりに抜いても、これは堂々これに五万円というものに結果からいっても当るし、その前の第四条第二項の初めの前段、こういうものからいってもこれは当っておるのです。それを県営でやる場合はこうであり、いわゆる県営直営でやらない場合はこうである、こういうことによって区別をなさったということは、これは行政の運用じゃないのですか。ちょっとその点をお聞きしたい。
この発言だけを見る →桜
桜井志郎#29
○説明員(桜井志郎君) 私の言葉が多少足らなかった点もございますが、県営であるから排土の政令を適用したという意味ではございませんでしたので、特別に堆土等の激甚なところを県がおおむね県営で、つまり比較的に県営でやったものがより激甚であるというところに通ずるわけでございます。それからそれじゃあこの地区をなぜ十分の十の補助の適用をしなかったかということに相なるわけでありますが、丁度すれすれの限界に近いということが一つと、排土に関する予算がなかなか大蔵省との交渉で十分獲得できなかったという現実とにらみ合せまして、十分の九、通常の高率補助を適用したということでございます。
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