内閣委員会

1975-02-20 衆議院 全302発言

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会議録情報#0
昭和五十年二月二十日(木曜日)
    午前十時三十分開議
 出席委員
   委員長 藤尾 正行君
   理事 越智 伊平君 理事 奥田 敬和君
   理事 加藤 陽三君 理事 木野 晴夫君
   理事 上原 康助君 理事 大出  俊君
   理事 中路 雅弘君
      赤城 宗徳君    有田 喜一君
      近藤 鉄雄君    竹中 修一君
      旗野 進一君    林  大幹君
      三塚  博君    吉永 治市君
      和田 貞夫君    渡辺 惣蔵君
      木下 元二君    山原健二郎君
      鬼木 勝利君    鈴切 康雄君
 出席国務大臣
        文 部 大 臣 永井 道雄君
 出席政府委員
        内閣法制局第二
        部長      味村  治君
        内閣総理大臣官
        房同和対策室長 山縣 習作君
        沖繩開発庁振興
        局長      井上 幸夫君
        文部政務次官  山崎平八郎君
        文部大臣官房長 清水 成之君
        文部省初等中等
        教育局長    安嶋  彌君
        文部省社会教育
        局長      安養寺重夫君
        文部省体育局長 諸沢 正道君
        文部省管理局長 今村 武俊君
        文化庁次長   内山  正君
 委員外の出席者
        警察庁刑事局保
        安部防犯少年課
        長       相川  孝君
        警察庁警備局参
        事官      半田  博君
        法務省刑事局公
        安課長     俵谷 利幸君
        厚生省環境衛生
        局指導課長   河内 莊治君
        食糧庁業務部長 志村 光雄君
        自治省財政局指
        導課長     関根 則之君
        内閣委員会調査
        室長      本田 敬信君
    —————————————
委員の異動
二月二十日
 辞任         補欠選任
  瀬長亀次郎君     山原健二郎君
同日
 辞任         補欠選任
  山原健二郎君     瀬長亀次郎君
    —————————————
本日の会議に付した案件
 文部省設置法の一部を改正する法律案(内閣提
 出第一八号)
     ————◇—————
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藤尾正行#1
○藤尾委員長 これより会議を開きます。
 文部省設置法の一部を改正する法律案を議題といたします。
 質疑の申し出がありますので、順次これを許します。旗野進一君。
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旗野進一#2
○旗野委員 学校の現場を長く経験された文部大臣が、所を変えて今度は教育行政の最高の地位にお立ちになられた。これにつきましては、国民ひとしく注目もし、関心を持っております。その国民も日教組等の諸君も、あなたに対して非常に御期待を申し上げておるように聞いておるのでありますが、卑近な例でありますけれども、私、実は昨年モスクワに参りまして、二、三の初等教育の学校内を視察したのであります。そういたしましたら、同僚の中から女の校長に、お国では学校の教師は労働者であるかということを尋ねたわけです。そうしましたら、労働者ではあるかもしれないけれども、子供の教育を預かっておるのですから、教育者を直ちに労働者とは言いかねるというような回答があったのです。
 そこで、そういうモスクワの学校の女校長とあなたを対比するわけじゃございませんけれども、あなたはあなたなりの、長い間現場におられた関係で、教師に対するあなたのいわゆる望ましい教師像と申しますか、そういうものをお持ちになっておられると思うのですが、もしお差し支えなかったらお考えをお聞きしたいと思うのです。
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永井道雄#3
○永井国務大臣 ただいま、モスクワの女の先生のお言葉との関連において私の考えをということでございますが、それについてこのように思います。
 モスクワの場合は社会主義国でございます。わが国の場合には、それとは違う現行憲法に基づく自由主義国でございます。そこで、おそらく社会主義国の場合にも、労働者ということに尽きないものがあると思いますが、わが国の場合には当然、労働者ということに尽きない非常に重要な先生としての役割りというものがあると思います。それは社会主義国と違いまして、現行憲法との関係において、つまり先生というものは、現行憲法が決めているそういう規定に基づいて、また教育基本法が決めている規定に基づきまして、やはり教育というものは政治的には中立でなければいけない、そういう基本的な原則に基づいて教師としての役割りを果たしていくのだと思います。その役割りというのは、これを専門職という言い方をする人もありますし、あるいは使命職と言ったり聖職と言う、表現はいろいろありますけれども、いずれも含蓄するところは単なる労働者に尽きないものだ。私は大学の教師をいたしてまいりましたが、大学も小中校もその点では変わりなく、やはり自分の持ち場におきまして、よく勉強いたしまして、そして教えている人を本当に伸ばしますように、自分で教育者としての責任を持って仕事をしていくものだと思います。
 ただそこで、それでは教師というのは全然労働者的な側面がないかというと、それはそうではないのであります。やはりこれも、憲法の二十八条に勤労者ということを言っておりますが、そういう意味合いで待遇の改善を望んだり、あるいは自分が受け取っている給与というものが適当であるかどうか、そういう問題については、たとえば労使の交渉というような言葉もございますように、やはり憲法のワク内において労働者的側面を持っていると思います。
 そこで私は、教師としてはどういうものか、いまの御質問との関連で申しますと、あれかこれか、つまり、そういう専門的な仕事をする者あるいは労働者どっちかというのでなくて、その両面を持っている、かように考えております。
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旗野進一#4
○旗野委員 御説明のことを伺えば、大体了承ができるわけでありますが、特にあなたは、私どもの伺っている範囲においては、教育者は政治の局外にあらしめたいということを申しておられたようでありますので、それらと関連いたしまして、今後の教育行政に対する、いわゆる精神的な糧の中核である教師像に対しては、ひとつ大いに勇気を持ってやっていただきたいことを、この機会に御要望、御期待を申し上げたいと思います。
 そこで実は、きょう私がお伺いしたいのは、学校給食法の問題であります。学校給食法は、すでに二十年を経過しておりますが、あの混乱の中から十年後に発足した当時は、一応アメリカの余剰農産物と申しますか、そうしたものによって国民生活が立ち直り、また小中学校の生徒に対する給食という施策も、その点から生まれてまいったということも、これまた事実なわけであります。しかもそれが、二十年後の今日、昨年十一月の調査によりますと、小学校が九九%、中学校が八三%という内容を私ども承知をいたしているわけでありますけれども、この成果を得たということは、まことに好ましい姿であり、かつまた今後も、学校教育の一環としてこれが実績を示されるであろうことを期待いたしますと同時に、文部当局といたしましても、この問題については、いろいろと検討なされておられるようであります。
 しかもこれも、昨年の一月の記事でありますけれども、完全給食を義務制にしたいという考え方をお持ちのようでありますが、この点について、現在この学校給食に対して義務づけるという考え方をお持ちになっているのかどうか、この点をひとつお伺いいたしたいと思います。
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永井道雄#5
○永井国務大臣 学校給食義務化の問題は、前から出ている問題でございますが、これを義務化すべきかどうかということについて、現在審議会で御検討願っている段階でございます。ですから、すぐに義務化という方向に踏み切るのではなく、審議会の御検討の答申を得て考えたい、そういう立場をとっております。
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旗野進一#6
○旗野委員 そこで、答申とおっしゃると、いろいろの方々がこの中に参加しておられるはずでありますが、昭和四十五年二月二十八日、保健体育審議会の会長から、当時の坂田文部大臣に対する答申が出ておるわけです。これは後でも申し上げるつもりでありますけれども、この内容を見ますと、片寄ったとは私は申しませんけれども、従来の学校給食がこのままの姿でよいのかどうかという問題です。これは、どういう意味でそういうことを申し上げるかといいますと、私は食糧の問題と関連があると思うのです。
 そこで、私が申し上げたいのは、学校給食に使われるところの米というものは、わずか二十万トン程度しかないわけです。したがって、その問題について、何も私が米産地帯である新潟であるから、新潟の米を食わしてくれなんというような、そんなみみっちい考え方ではない。しかし何かパン食というものが、歴史的な一つの姿になって、今日までの学校給食が行われてきておったのではないか。嗜好選択の自由は、国民が今日お互いに持っておるわけでありますから、パンを食おうがうどんを食おうが米を食おうが、これは御自由であります。自由でありますけれども、学校給食の審議会の答申を見ておりますと、どうも偏ったところの物の考え方に立っておるのじゃないか。そう申しますと、審議会の委員の方々を批判するようでありますけれども、何かしら歴史的な過程もありましょうし、二十年間という長い間の定着がそうさせたのではあるかもしれませんが、この際、学校給食の一環としてのいわゆるこの行政について、どうもそぐわないものがあるというように私は考えております。
 一昨昨年でありますか、米の問題が起きた際に、共産圏の不作というようなことから、急激にアメリカその他の国から買い付けたことによって非常に大きなショックを受けておる。そういう中にありまして、何か日本の生産する米は一〇〇%で自給が余るくらいにある、けれども小麦類は一千万トン近い——食糧庁の方から、細かい話は後で聞きますけれども、少なくともそうした観点から立った場合に、一体皆さんが今日までおとりになられたところのパン食の歴史、パン食に対するこれからの方向づけというものに対して、従来と変わらない方向でお考えになっておるかどうか、これをひとつお聞きしたいと思うのです。
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永井道雄#7
○永井国務大臣 パン食というもので学校給食をやってまいりましたのは、御指摘のとおりでございますが、これは一つは、栄養上の問題、それからもう一つは、米が不足していたころに発足しているという事情によると思います。しかしながら確かに、それから歴史的にいろいろ変化が起こってまいりまして、米の生産量は非常に多くなった、あるいは食生活が多様化した、それからまたさらに、最近は全般的な食糧事情の変化というものもあると思います。
 そこで、文部省の考え方は、従来のものをただ変えないというのではないと思います。そうではなくて、やはり学校給食に米飯を入れるということも工夫すべきであるという考え方だと思います。
 ただ、それを入れます場合に、いろいろな条件というものをやはり検討しなければならない。といいますのは、パンのときとお米のときとでは、おかずも変わってくるわけであります。これは栄養量のバランスの問題と関連いたしております。それから、そういうふうに変わってまいりますと、コストにもまた変化が生じてまいります。そういう問題が一方にあり、また教育的に考えまして、いわば米飯の正しい食べ方と申しましょうか、そういうふうなことも考えなければいけない。
 そこで、いままでのやり方はどういうことであるかといいますと、昭和四十五年から米食の利用実験ということを始めまして、現在に及んでおります。そして昭和四十六年に、学校給食の標準食品構成表というものを全面改正いたしまして、米食給食の場合のおかずとあわせて栄養基準量を示しました。それ以来、いまのような栄養との関連、また、おかずとの関連でいろいろ実験を続けてきているわけでございます。そして本年度も、それが続いておりまして、また明会計年度、つまり昭和五十会計年度におきましても、そういう実験を続けていく。そういう点で、実験校というものが相当ふえてきておりますが、ただ、そういういろいろな角度からの検討を進めて、まず一つの変化を起こさせるときには、相当しっかりした変化の根拠というものが明らかにならなければいけないという立場で進んできているわけでございます。
 必要でございましたならば、その実験校がどのくらいどういうことをやっているかということについて、事務当局から御説明いたすことにいたします。
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旗野進一#8
○旗野委員 お話を伺いますと、栄養の問題が問題になっておるようでありますが、私も、この栄養のパーセンテージを一応持っておりますけれども、その前に「学校給食要覧」の十三に学校給食における米利用実験結果についてということが出ている。これを見ますと二、三、四、五、六まで、一よりもまず——この点の問題を見ますと、ただ米の秤量であるとか洗米であるとか、あるいは炊き方とか分配とかいうようなものに三時間かかる、パンの場合には一時間である、あるいはまた後片づけが五時間で、パンの場合は三時間四十分でしかないということが明瞭に記されております。何かそういうふうな、私から見ますと  いま、ここで私、栄養の問題について議論しようとは思いません。米と麦でどれくらいの栄養の差があるかぐらいなことは、大体常識的にわかるわけです。したがって、栄養に対するパーセンテージやそれに伴う副食物というような問題については、私は議論の余地はないと思うのです、これは皆さん方と私の考え方の相違かどうか知りませんけれども。ただ時間がかかるとか、あるいはまた米をあれする場合には、洗うのにも時間がかかるとかいうようなことばかりが、このいわゆる実験結果に伴うところの発表でしかない。
 これは全く、私から見ますと、皆さんのいわゆる方向づけというものが、明らかに米よりもパン、いわゆる小麦粉、あるいはまた米飯よりもそうした方向に今後も持っていこうとする姿にしか見られない、受け取られない。その点を皆さん方は、どういうふうにお考えになっておりますか、私の考えが誤っておれば私は正したい、反省したいと思いますけれども。
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永井道雄#9
○永井国務大臣 政府委員からお答えいたします。
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諸沢正道#10
○諸沢政府委員 若干、私どもの考え方を御説明申し上げまして、御理解をいただきたいと思います。
 最初に、先生は、四十五年の審議会の答申を見ると、米の方がパンよりもよろしいのだという考えで貫かれているのじゃないか、その考えはおかしいじゃないかと、こういう御指摘のように聞いたわけですけれども、確かに、これを読みますと、一つは栄養の摂取という点から、カロリーはともかくとして、各種の栄養源の摂取ということから言えばパンの方がよくないか、それから米というのは、どちらかと言えばおいしいものだから子供が食べ過ぎて、しかも、おかずは塩っ気の多い物などをとるということになると、どうも栄養の摂取上アンバランスになりやしないか、こういう点の指摘がありまして、さらっと読みますと、あるいはパンの方がいいのだというふうにとれないこともないわけでございますけれども、先ほど大臣がお話し申し上げましたように、この答申は四十五年のものでございまして、その後、わが国における米の生産事情等も考えて、四十五年から五カ年にわたって今日まで実験校を続けてまいったわけでございます。そして現在、またもう一度、審議会でこの問題も含めて検討していただく、こういうことになっておるわけでございますから、そこに時間の移り変わりがあるということを、ひとつ御了承いただきたいと思うのです。
 それから、次の米の問題について、実験校でいろいろやっているけれども、その内容が枝葉末節のことではないかというふうにもとれるわけでございますけれども、栄養の問題につきましては、確かにいろいろ見方があると思うのでございますけれども、私ども学校給食というものの使命を、いろいろございますけれども、やはり国民の食生活の改善、栄養の向上ということで考えますと、どうしてもこの問題を念頭から去るわけにはいかない。
 そこで、ごく簡単に申しますと、子供の学校給食においてとる栄養量というのは、一日のカロリーなりビタミン、脂肪、たん白といった栄養素の一日の総需要量のうち少なくとも三分の一以上のものは給食でとらせたい。特にカルシウムだとかビタミンAだとかいう家庭でわりにとりにくいものは、学校でどうしてもとるようにしたい。そのことを考えますと、パンがいいとか米が悪いとかいうことじゃなくて、そういうことを考えて食品構成を考えますと、やはりそれに合ったものを考えなければいけないという意味で、細かい話になりますと、あるいは煩瑣になりますからやめますけれども、栄養の問題は、パンから米にかわるという場合に、どうしても考えなければいけない問題だというふうに私ども思っておりますので、ひとつ御理解いただきたいと思うのでございます。
 それから、米にするといろいろ手間がかかるとか時間がかかるとかいう問題なんですけれども、これは現在、米の給食を実施しております学校数というものを大ざっぱに申しますと、研究指定校として週に二、三回米食を食わしている学校が二百五十六校であったかと思うわけでございます。それからそのほかに、月に一回程度あるいは週に一回程度まぜ御飯であるとかライスカレーであるとか、そういったようなものを給するような米飯提供学校というのが約一千校、合わせまして一千二百五十校ぐらいのものでございます。したがいまして、現在給食をやっております小中学校三万校に比べますと、約〇・五%ぐらいにしかならないわけでございます。
 そこで、この米をもっと拡大するということになりますと、現実の問題としては、財政上どれだけの負担増になるかということをやはり真剣に考えなければいけない。そうしますと、一つは現在、米飯提供の学校において抱えております職員並みのことを、これからも米飯をやろうとする学校に職員を置いたらどのくらいかかるか、あるいは米飯を提供するに必要な施設設備を、いまの米飯提供校並みにやったらどのくらいかかるかという財政の問題に還元してこれは考えなければいけない。そのことが具体的には手間がかかるとか時間がかかるとか物が要るとかいう問題になるわけですけれども、財源の問題にして考えました場合に、それではどのくらいかかるかといいますと、人の経費について言いましても、いまよりも二万人くらい人を、調理人をふやさなければいかぬ。そうしますと、人件費として二百五、六十億のものは要るだろう、あるいは施設設備を改善するとすれば、もう三百億ぐらいかかるだろうとか、三百五十億ぐらいかかるだろうという試算が出るわけでございまして、要するに細かいことのようでございますけれども、そういう財政負担をするとなれば、これは市町村がするわけでございますから、市町村がそういう負担をするについては、やはり米のいいところというものを十分認識していただいて、そのような米給食をするためには、これぐらいの財政負担はやむを得ないのだということを十分理解していただいた上で私どもはやりたい。そのためには実験というものをもう少し続けさしていただいて、その長所、内容というものを、十分関係の方々に御理解いただいた上でやりたい、こういう趣旨でございます。
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旗野進一#11
○旗野委員 先ほどから私、申し上げたとおり、嗜好選択の自由があるわけですからね。しかも義務づけられておらないから、町村でもそれぞれ米飯に依存するところもあれば、パン食を実施するところもあるでしょう。そういう点と、それから今度、栄養の面においては、米の方が栄養がまさると言う人もいる。また劣っておっても、それをカバーする方法は幾らでもあると思うんです。私どもの経験しております中には、学校のパンがおいしくなくて、おかずだけを食べて、パンはカバンの中に入れてしまって帰る途中に捨ててしまう、そしてどこかの店でおいしいアンパンを買って食べて、うちへ帰ってまた御飯を食べる、こういうふうな例をしばしば私どもは聞かせられ、散見をしておる。
 そういうようなことを考えますと、学校給食の今日のあり方というものと、食糧庁あるいはまた農林省あたりが、米が余るから学校給食に回そうなんというものの考え方、そういうけちな考え方で私は申し上げようとしているのではない。あくまでも、いわゆる次の世代の子供に対する教育の一環としてのよい慣行を指導し、また食生活に対するいろいろ生活の中で体験したものを得て、そして学校給食本来の目的を達するということについて私どもも大いに賛成をしているわけでありますけれども、ただ遺憾ながら、よき慣行というものを行うにしては、やはり私は風土というものがあると思うのです。風土というものを考えれば、どうしてもアジア州一帯は米産、米食民族であるわけです。その米食をやめて、わずか五%ないし八%ぐらいの小麦の生産しかない日本の国が、何でそうしたパン食にのみ依存をしようとするものの考え方をお持ちになっておるのかということなんです。
 ここに私は一つの参考の資料を持っておる。米飯給食実験を三年間延長したい、実施校の希望にこたえて食糧庁とも折衝するという案が出ております。これは昨年の十二月十日の問題。しかも、この内容を拝見しますと、五カ年間すでに米飯給食について検討しておる。しかし五年間もかかって、日本人の食っている食糧に対して、それほど検討しなければならないのか。ところがまだ、なおさらに三年間延長したい、私にはどうしてもこれがわからない。わずか八%か五%程度の小麦の生産地帯で、米を考えないでパン食だけを考えようとするような方向づけは私は話にならないと思う。イギリスやあるいはまたドイツやフランスあたりの小麦地帯で、日本の米がたくさんあるから米を食わせようと言った場合にどうなりますか。これはごうごうたる国民の非難が沸くだろうと思う。日本はそうじゃない。米がこれほど余っておるにもかかわらず——何も米の消費を、政策として学校給食に強いようという物の考え方では私はない。基本的な考えとして、どうしても私はあなた方がパン給食というものに対して——私は、決してパンを否定するんじゃないですよ。安全保障という問題だけでもない。やはり国民生活の将来というものを考え、そういうことを考えた場合に、いまの学校給食の姿というものが、私にはどうしても納得がいかない。
 したがってもはや二十年もたって、パン食がせっかく定着をしたという中でありますけれども、この際、新しい文部大臣として、教師に対する指導と児童に対する、体育に対する糧としての米食というものに対して、もう少し真剣に考えられて取り組む必要があるのではないか。
 私は、この問題について、文部大臣のお答えをお聞きしたいと思いますが、その前に一体食糧庁は、ただいたずらに、文部省からそういう申し入れがあった場合に、はあ、そうならば差し上げましょうということでおやりになっておるのか、あるいはまた、大臣やそうした方々が答弁されたり話されたことによって、にわかに学校給食に米食を強いようというようなお考えでおやりになろうとするのか。こういう問題について、一体食糧庁は、文部省とよく話し合いをし、かつまたこの実験というものに対して参加をされておるのかどうか、これをひとつお聞きしたいと思います。
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志村光雄#12
○志村説明員 学校給食に米を取り入れる問題につきまして、いま先生からもお話がありましたが、私たちも食糧庁におりまして、その考え方と同じでございます。ただ、四十五年から実験授業で無償で米を交付しておりますけれども、その間に、やはり米に移り変わる際のいろいろな問題点等、非常に大きな問題があるわけです。先ほども時間の問題、施設の問題、職員増の問題、財政負担の問題等もあるような御説明がありましたが、私たちもそういう点、文部省から十分聞いておりまして、今後どう米飯給食にしていくかという問題については、ともどもに検討を重ねておる段階でございます。
 ただ、たまたま昨年、先生おっしゃいましたように、世界の食糧事情が構造的に急変をいたしてきておりますし、また米の生産調整もやっておる中でございますけれども、やはり各国の例を徴しましても、その国の風土に適したものが主食であり、それが中心になって食生活が構成されていることは間違いない事実でございまして、この際、米を見直していただく。私たちとしても、米を見直して、日本人の食生活についてのある程度の将来のイメージづくり、農林省といたしましても、今後の日本人の食生活の型の一つのイメージづくりということを、先般、農政審議会の需給部会でございますけれども、「六十年見通しの際の食糧政策の方向と展望」の中にもうたっておりますように、農林省としても、そういうような方向が打ち出されてきておりますし、私たち食糧庁といたしましても、この際、米の消費拡大、特に学校給食を中心にして真剣に取り組んでまいりたいということで、現在文部省とも、さらに五カ年の実験結果を踏まえながら、どういう対策を立てるかということで十分検討いたしたいという段階になっております。
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旗野進一#13
○旗野委員 文部大臣のお答えを伺う前に、いまの食糧庁のお話に対して一言。
 私は、消費拡大というような物の考え方でないのです、学校給食に対して。あくまでも米が最も民族の食糧としてふさわしいのだ、日本人の体質にはパンは向かないのだ、米こそが日本人の、いわゆる米食民族の本来の食糧であるということをもう少しあなた方が認識をされて、そうして学校給食という問題に大いに参画をされておやりになるのなら結構だと思う。五カ年も文部省が検討しておられて、また三年間これを延長したいと言っている。どういう研究結果が生まれてくるのか、こういう問題について、あなた方は真剣に考える必要があると思う。古米や古々米をどう処分するかという問題じゃないのです。私はこれに対しては、小中学校の生徒に対する給食がパン食に依存した過去の歴史的な過程から考えて、どうしてもこうあるべきでないかという結論を、むしろあなた方こそお持ちになるべきではないかと思うのです。
 そこで、そういう意味から、細かいことはたくさんございますが、時間がありませんから文部大臣から最後に御回答をお聞きしたいと思うのでありますが、この際、そうした問題について、基本の考え方を考え直す必要があるかどうか、この点についての御答弁をいただきたいと思います。
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永井道雄#14
○永井国務大臣 私は、この問題についてどう考えるかというと、そもそもパンを使うようになりましたのは、かなり戦後の事情が影響している、それはお米がとれなかった、不足していたというところから発足しているわけです。そこで、給食をめぐる問題というのは、実は米あるいはパンということ以外に、学校教育の中に給食をどうやって生かしていくかというような教育の基本的な問題にかかわることもあり、そういう角度から給食というものを、今日及び今後の日本の社会の発展を考えまして、本格的に検討していくという考えを実は私は持っております。
 そこで、その一つとして米の問題も出てくるのだと思います。それは食糧事情の変化ということもございますけれども、それ以外に、日本人はどういうふうな食事の仕方をし、そして成長していくことが望ましいかということから教育の方で考えるべきものと思います。ただ、体育局長から申し上げましたように、切りかえていくときに考えなければいけないことは、やはり財政の問題もあると思います。特に地方財政に対する圧迫というものが余りありますと、現在でも相当の問題が生じておりますから、こういう点については、かなり慎重な考慮が必要であるということは、申し上げておく必要があると思いますが、しかし一般に、学校給食というものを本格的に検討いたしまして、そして教育の中で生かしていくことを主眼にして考えていく、そういう中に米、パンの問題も位置づけまして真剣に取り組んでいく、いわば前向きの姿勢をもって進むというのが私の考え方でございます。
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藤尾正行#15
○藤尾委員長 上原康助君。
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上原康助#16
○上原委員 まず最初に、提案されております法案について一、二点お伺いをしておきたいと思います。
 今回、少年自然の家を国の管轄下に置くということが出されているわけですが、そのねらいは一体どこに置いているのか、まず、そこいらからお聞かせをいただきたいと思います。
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永井道雄#17
○永井国務大臣 少年の家というのは、国立少年の家でございますが、従来も公立少年の家というものがたくさんございます。そういう公立少年の家も相当の成績を上げてきておりますが、しかしさらに、そういう少年の学校外における教育を強化していくということがまず第一の眼目でございます。そういう際に、公立少年の家に比べまして、もう少し広域のものをつくって、子供の間にも経験交流というものをやっていく、さらに国立少年の家でいろいろな実験というものも考えていく、それから指導者を養成する、そういう角度から国立少年の家というものができたわけでございます。
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上原康助#18
○上原委員 いまおっしゃるように、従来、公立の少年の家も各都道府県なりに相当あるようですが、それでは十分な実を上げ得なかった、さらに広域交流なり実験その他をもっと充実といいますか、強化をしていく上で国立少年自然の家を設置したいということですが、その場合に、特に青年の家の運用管理を見ても、せんだっても本委員会で若干議論がございましたが、私たちの側からいろいろ管理運営面をながめて感ずることは、ややもすると型にはまった、非常に中央統制的な管理運営というものがなされている節もなきにしもあらずなんですね。少年と青年となりますと、年代的にも幾分変わりますし、特に少年、小学校の児童、生徒を対象にした場合に、よほど運用管理の面において配慮をしなければいけない問題もあるのではないかという感じを持ちますが、そこいらについてはどのように御配慮をするつもりなのか。青年の家と関連させて考えてみても、この少年の家ができて、そこで研修あるいはいろいろ広域的な交流を少年たちが深める、その場合に、型にはまった、ある一つの恣意的な志向を持った方向での運営というのはあってしかるべきでないと思うのですが、そこいらについては、文部省としてはどういうお考えを持っておるのか、お聞かせいただきたいと思います。
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永井道雄#19
○永井国務大臣 いま公立少年の家というものがすでにあるのに、国立少年の家というものができるのは、公立少年の家が不満足であったからかということでございますが、そういうことではないように思います。公立少年の家は公立少年の家としてもちろん相当の成績を上げてきたのですけれども、さらにそれを強化していくといいましょうか、発展させていくという意味合いから国立の少年の家ができるというふうに考えております。
 そこで、その場合の考え方で、いわば型にはまったやり方をするのかということでございますが、それは学校以外の場における教育を強化していくという意味においては一つの方向がございますけれども、しかし型にはまった一つの考え方というよりも、むしろいろいろな実験というものを非常に重視していきたい。
 具体的に申し上げますと、どういうことであるかと言いますと、たとえばいままででは同学年の人、それが一緒に宿泊して勉強する、あるいは訓練を受けるというふうになっておりますが、異なった学年の人でもそういうことをやってみる、そうすると、上級学年の人が下級学年の人に対して指導の練習ができる、子供同士でできる、あるいは相当異なった地域の人が集まりますと、いわゆる経験交流と申しますか、そういうこともできる、そういう多様な実験というものをだんだんに考えていくということが一つのねらいだと思います。
 それからまた、この少年指導という問題、これは青年のときも同じでございますが、きわめて新しい分野ですから、その指導に当たる人たちというものも、だんだん質を高めていくということが非常に必要であるかと思います。それも、いままで指導していた人はだめなのかというふうに言ったら、それは必ずしもそうではなくて、これも熱意を持って当たってこられたのですが、さらにやはりそういうものを強化充実していくということが望ましいと考えまして、国立少年の家を充実していきたい、こういう考えでございます。
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上原康助#20
○上原委員 いま大臣が御説明なさる範囲のことなら、これは特に問題にする必要もないかと思うのですが、ただ私たちも、沖繩にも青年の家なんかありまして、時折、労働講座その他の研修なんかで行く機会もあるわけですが、青年の家の現在の運用面、管理面を見てみますと、必ずしも研修、学習の場でないわけですね。相当道徳といいますか、あるいは思想教育の場として変化していっているきらいがあるわけです。したがって、活用する、利用する方も非常に狭くなっていっておる傾向があります。
 たとえば一例を挙げますと、午前六時に起床して必ず国旗掲揚をして、そこに全部整列をしてやらなければいかぬとか、また午後五時になると国旗の降下をして一斉にやるというような、その他の運用面でもいろんな規則、規定が必ずしも自由といいますか——もちろん全然無制限な自由ということを私は言っているわけじゃありません。しかし、そういうことを好まない人が利用したくても、なかなか利用できないという問題が間々出てきているわけですね。これは議論のあるところでしょうが、少年の場合にも、そういうところまで規制をして運用をしていくのか。大臣がおっしゃる交流とか学習とか研究とか実験、そういうものなら大いに結構だと思うのです。しかし私が、いま申し上げたようなそういった一定のルール、一定の枠をはめたような運用の仕方であるとするならば、問題なきにしもあらずという議論も出てくるわけですが、そこいらについてはどうお考えですか。
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永井道雄#21
○永井国務大臣 いまの一定の枠というお言葉の表現でございますけれども、どこでも、学校にいたしましても、あるいは少年の家のようなところでも、一定の秩序と申しますか、これが必要であるということについては御異存がないと思うのです。ただし、そういう教育の場、これは学校でないところでございますが、いわゆる社会教育ということになりますが、そういう社会教育におきましても、教育というものは、中立公正と申しますか、そういう原則というものを持っていくべきであるということは当然だと思います、私的な場所ではございませんから。その角度、そういう原則というものは維持して、そうしてまた秩序ある中で、なるべく多様な実験を行っていく、こういうことを眼目にしているわけでございます。
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上原康助#22
○上原委員 このことで余り議論してもと思うのですが、いま私が申し上げたようなことなども十分御配慮をしていただかないと、やはり設置された後にいろいろ問題が出てきて、かえって伸び伸びとした少年交流、少年教育の場になり得ないこともあると思うんですね。したがって運用面、管理面、規定面においては、そこいらも十分配慮をするということでなければ、そうやすやすとこの法案に賛成というわけにもまいらぬ面も、青年の家の管理運営を見て私たち感ずる面がありますので、その点は特に念を押しておきたいと思うのです。
 そこで、限られた時間ですので次に進みますが、いまのこととも関連をしてくるわけですが、よく近年というか最近といいますか、というよりもずっと議論のされてきていることですが、教育現場における平和教育の問題というのは一体どうあらねばいけないのか。もちろん教育学者であられる大臣に、私のような者がそういうお尋ねをするのもどうかと思うのですが、少なくとも最近の教育内容なり教育の反動化あるいは中央集権化ということがいろいろな面で議論をされている場合に、正しい平和教育というものについての認識というものが、やはり必要じゃないかと私は思うのです。
 これも、なかなか議論の分かれているところでありますが、大臣のお考えになっている平和教育というのは一体どういう御認識であられるのか。せんだって予算委員会でも、特に沖繩の教職員の皆さんが、終戦直後から今日まで教育の向上に果たしてきた役割りというもの、あるいはその背景には平和教育というものがあったというような趣旨の御発言、御答弁があったという報道もなされておるわけですが、そういう意味で一般論でもよろしいし、平和教育とはどうあらねばいけないかという大臣のお考えなり、また学校現場における平和教育の問題との関連においての御所見を賜りたいと思うのです。
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永井道雄#23
○永井国務大臣 平和教育というのは、これは日本どこでも——日本国憲法というものは平和主義の立場に立っております。この平和主義というものの理解を深める、そして国際協調の精神をつくり上げていく、また教科書というものも、そういう角度から書かれているものを採択しているわけでありますが、それを原則としなければいけないと思います。
 第二点といたしまして、平和というのは、平和主義の立場において是非実現しなければならないのでありますが、しかしわが国は、第二次大戦という経験もございまして、特に原爆による被爆という問題もありましたし、それから第二次大戦では、他国との間にいろいろ不幸な関係を生じたわけです。先般、沖繩について言及いたしましたが、特に沖繩という場所におきましては、現在も軍事基地が多いというだけではなくて、第二次大戦中から非常に御苦労が多かった。これは、わが国の中でもとりわけ際立った場所であると思います。
 そこで、平和について考えていきます場合には、そういう苦労というものの現実から完全に目をそらしてしまいまして、そして観念的にただ学習するというのではなくて、そういう苦労というものに基盤を置きまして、本当に平和はどうやったら実現できるかということを考えていかなければならないと思います。
 第三点といたしまして、ただ、そういうものを考えていきますときに、やはり子供に発達段階というものもあると思います。ですから、小学校の段階におきましては、一般的に申しますと、いわば基本的原則と申しましょうか、そういうふうなことを教えられることがまず適切である。そして中学、高校と進むにつれまして、平和主義の精神に基づいていろいろな過去の体験、それから今後の問題というものについて深く考えさせる。ただ学校教育というのは、やはり教育の場でございますから、そういうことを考えさせていく上に、少しでも政治的になったりするようなことがあってはいけないわけで、教育の場では、中学でも高校でもいろいろむずかしいものを考えていくときに落ちついて、静かに考える、そういう原則を貫くべきである、かように思っております。
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上原康助#24
○上原委員 いまの御答弁も、教育学者である永井さんの御説明としては十分理解できるわけですね。もちろん現在、文部大臣ですからそういう御方針でやっていかれることは結構だと思うのです。相当な面において、われわれとしても了解できる面があります。しかし反面、振り返って現在の教育行政なり教育内容というものをいろいろ考えてみた場合に、たとえば憲法九条の戦争放棄の問題にしましても、それを受けた教育基本法の十条なり、その他教育基本法に盛られた教育内容というものが、実際上は、それとは大きくかけ離れた方向に進んでいるというのが現状じゃないかという認識を私たちは持つのです。また、そう持たざるを得ない。
 その一例として、たとえば教育委員の公選制の問題にいたしましても、公選じゃなくして任命制に変わっていった、あるいは教公二法の問題とかいろんな面で、教育の平和主義、民主主義を含め、人権尊重を含めて、本来常識的に考えてあるべき方向でない教育の内容というものが今日どんどん進行してきている現状も、これは見方によって見解の違いだと片づけられない問題があると私は思うのですが、いま大臣が御答弁なさった三点の方向で日本の教育行政なり教育内容というもの、課程というものが実際に学校現場においても着実に進められておるとお考えなのか、その点もう少し明らかにしていただきたいと思うのです。
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永井道雄#25
○永井国務大臣 私は、教育というものは、決して教育学者として申し上げるとか教育行政者として申し上げるということでなく、きわめて常識的なことなんですが、どの国でもどの段階においても、理想的状態からなかなか遠いものだと思います。そこでみんな骨を折るのだと思います。
 ただし、そこでどういうふうにこの平和の教育をやっていくかということになりますと、いま御指摘がございました中に、たとえばわが国の憲法九条について違った考えがある、そういうことが教育の現場に反映されているかどうか、こういう御指摘と思いますが、これは沖繩の例で私が記憶しているところを申しますと、たとえば中学三年の地理の教科書がございますが、中学三年の地理の教科書ではどういうものが採択されているかと申しますと、わが国には憲法九条というものがあり、平和憲法を掲げているのだけれども、しかしながら九条について異なった見解もある、それから沖繩では米軍の基地があって、そして住民の間に不安な気持ちがある、ということを書いている教科書を採択いたしております。
 そこで、やはり教育と政治が違うと思いますのは、政治の場面ですと、これは、いろいろな政治的立場というものがあって、そこで、どういう立場をとって自分らは日本の国政を引っ張っていくか、そういうことであろうと思います。教育というのは、やはり政治と違いまして、これから社会を担っていく人を育成するわけでありますから、憲法九条というものについて異なった見解があります、そういうふうなことは書かれていますが、それについて子供たちによく考えさせるということ以上を出るべきものではなくて、その意味で、この教育基本法にございますこと、これはもう申し上げるまでもないのでありますが、私は、教育行政の立場にありますが、教育行政というものは、国民全体に対して直接に責任を負う、そして不当な支配に屈してはいけないという原則がございますが、私は、教育行政を進めていく場合に、国民全体というものを考え、そして不当な支配に屈するということはない、そういう形で学校教育の場というものが中立、公正に進んでいくようにできるだけの努力をしたい、かように考えているわけでございます。
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上原康助#26
○上原委員 たとえば沖繩の例をいま引用なさいましたが、中学三年の地理の本、まあ私は見ていませんので、後ほど勉強させていただきますが、そういう一例もあるでしょう。しかし、先ほど私が一、二点申し上げたように、教育委員の公選制から任命制に変わったこととか、あるいは教公二法の強行制定ですね、ほとんどこういう対立法案といいますか立法というものは、教育に関するものは、残念ながら国会でも全部と言っていいほど強行採決という経緯を今日まで経てきているわけですね。そこに、言われておるように教育の反動化、中央集権化あるいは日本教職員組合との対立関係、いろいろなのが出てきていると思いますが、これはもう一朝一夕にして、そのみぞなり隔たりというものを埋めることはむずかしいと思うのですが、しかし、いまこそ私は、もっと真剣に、わが国の方向づけあるいは最高法規である憲法というのが一体何を前文やその全体の流れの軸としてうたっているのかを考えなければいけないと思うのです。
 といいますのは、やはり第二次大戦において、あれだけの戦争をぶっぱなしたというのが教育だったということは、われわれの年代まではそれはまだわかります、大学は行かないでも。しかし、今日の青少年の立場とかあるいは教育課程内容においては、むしろそういうものは避けて通るというきらいがないかどうか、そこに非常に危惧の念を抱かざるを得ない。国のファッショ化というものが論じられているさなかにおいて、私は、教育現場におられる先生方を初め、教育行政に携わっている方々の真剣な態度というものが求められていると思うのです。
 そういう意味で若干この点申し上げたのですが、私の手元に「あたらしい憲法のはなし」という、これは恐らくかつて文部省が出したと思うのですが、小学生向けに書かれた内容で、今日のどの教育課程を見ても、こういうように本当に憲法についてわかりやすく素直に書かれた本というのは余りないので、若干引用してみますが、「戦争の放棄」というところで、
  みなさんの中には、こんどの戦争に、おとうさんやにいさんを送りだされた人も多いでしょう。ごぶじにおかえりになったでしょうか。それともとうとうおかえりにならなかったでしょうか。また、くうしゅうで、家やうちの人を、なくされた人も多いでしょう。いまやっと戦争はおわりました。二度とこんなおそろしい、かなしい思いをしたくないと思いませんか。こんな戦争をして、日本の国はどんな利益があったでしょうか。何もありません。ただ、おそろしい、かなしいことが、たくさんおこっただけではありませんか。戦争は人間をほろぼすことです。世の中のよいものをこわすことです。だから、こんどの戦争をしかけた国には、大きな責任があるといわなければなりません。このまえの世界戦争のあとでも、もう戦争は二度とやるまいと、多くの国々ではいろいろ考えましたが、またこんな大戦争をおこしてしまったのは、まことに残念なことではありませんか。
 そこでこんどの憲法では、日本の国が、けっして二度と戦争をしないように、二つのことをきめました。
 その一つは、兵隊も軍艦も飛行機も、およそ戦争をするためのものは、いっさいもたないということです。これからさき日本には、陸軍も海軍も空軍もないのです。これを戦力の放棄といいます。「放棄」とは「すててしまう」ということです。しかしみなさんは、けっして心ぼそく思うことはありません。日本は正しいことを、ほかの国よりさきに行ったのです。世の中に、正しいことぐらい強いものはありません。
 もう一つは、よその国と争いごとがおこったとき、けっして戦争によって、相手をまかして、じぶんのいいぶんをとおそうとしないということをきめたのです。おだやかにそうだんをして、きまりをつけようというのです。なぜならば、いくさをしかけることは、けっきょく、じぶんの国をほろぼすようなはめになるからです。また、戦争とまでゆかずとも、国の力で、相手をおどすようなことは、いっさいしないことにきめたのです。これを戦争の放棄というのです。そうしてよその国となかよくして、世界中の国が、よい友だちになってくれるようにすれば、日本の国はさかえてゆけるのです。みなさん、あのおそろしい戦争が、二度とおこらないように、また戦争を二度とおこさないようにいたしましょう。こう書いてあるんですね。かつては、こういうことを、憲法九条に対しても、あるいはそのほかにもいろいろありますが、非常に素直といいますか——憲法九条、ここでその議論をしようとは思いませんが、誠実といいますか、正確に子供たちにも教えようという方向があったのです。
 しかし今日、振り返って見て、確かに国際情勢の変化なり日本の社会情勢の変化、いろいろ変革はあったにしましても、大臣はいまも、こういう内容での戦争放棄に対しての教育、指導方針といいますか、それは正しいとお考えだと思うのですが、私は正しいと思うのですが、どうですか。
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永井道雄#27
○永井国務大臣 私の記憶に誤りがなければ、ただいまお読みになったのは、昭和二十二年のものでございますが、そこで、現在変わったかどうかというと、実はいまお読みになったようなことを学校で教えていると思います。ただ、いろいろ先生方あるいは教育をめぐる人々の間に断絶があって、そういう点でなかなかうまくいっていないという点は、御指摘のとおりだと思いますが、それじゃ、たとえば教科書は本当に変わってしまったかというと、そうではないのではないか。
 そこで、これは沖繩で現在使用中の小学校六年生用の社会科の教科書でございますが、ちょっと御参考のために、現在どういうことが教えられているかを申し上げますと、
  平和への願い 戦争は、武力で相手の国をしたがわせるために行われます。ですから、いったん戦争になると、人間は戦いの道具となり、ただ国のために働き、国のために死ななくてはならなくなります。このような戦争によって、すべてを失った日本国民が、新しく手に入れたものは、人間らしい生活としあわせをきずくために、どうしても平和を守らなければならないというかたい信念でした。
  そこで、日本は、どこの国とのあいだに争いがおこっても、戦争によって、その争いを解決することはしない、したがって、戦争のための武力はもたないということを、憲法にはっきりときめています。
  世界平和と人類の幸福 毎日を平和のうちに生きていくことは、わたしたちのもっともたいせつな願いです。日本人だけでなく、世界のどの国民も同じように願っています。したがって、どの国の人々も、他の国の人々を、同じこの願いをもつものとして信頼し、協力したいものです。
  現在、もし自分の国の利益だけを求めて、弱い国を力で支配しようとする国があらわれたとすると、世界はふたたび戦争にまきこまれ、かぎりない不幸におちいります。日本が憲法で戦争を放棄したのは、人類を愛し、戦争をにくんでいるからです。以下省略いたしますが、これは現在用いられている教科書でございまして、やはりこういう教科書で、戦後昭和二十二年に書かれた同じように原則的な精神というものは、今日も学校教育の中で脈々と続いている。これを大人もお互いに理解して、教育の場において、この精神というものをどう理解させ、考えさせるかというふうに進めていくべきであると思っております。
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上原康助#28
○上原委員 その基本原理といいますか、方向は、いまも学校現場で取り入れられているというお話ですが、ぜひそうあってほしいわけです。私がいま引用しましたことも、御否定はなさらなかったので前に進みますが、最初に、先ほども少し申し上げましたように、なかなか現実の問題としてそういっていないという感じを多くの国民が持っておられる。また一方においては、そういう教科書内容とか、教育課程というものを否定とまではいかないにしても、かなり批判的な動きもある。したがって、それをどう調和していくかということが、大臣や文部省の御苦労なさる点だと思うのですが、少なくとも、今日のいろいろな政治的、社会的、国際情勢を考えてみた場合に、もう一度私は、教育行政としての平和というもの、あるいは戦争放棄というものについてのかつての原点に返って、新しい認識の上で日本の今後の方向づけというものをやらないと、先ほど言いましたような危険な方向に行かないとも限らない。そのバックボーンになるのは、戦前のことを考えても、何といったって教育なんですね。それだけにぜひ、いま申し上げたようなことなども十分御勘案の上で、今後の教育行政に携わっていただきたいと思うのです。
 ついでに申し上げますが、沖繩の小学校の六年の社会科の本にそういうところもあるという御引用でしたが、おそらく全国的にはそうでない面もあるのじゃないかと思うのです。戦争はかっこいいということで、これは日本教職員組合の研修報告でも、ほとんどがもう先生方から戦争の話、憲法の話を聞くよりも、親から聞いたという方が多いというアンケートも、実際問題としては出ているわけですね。ですから私は、一方的に政治的な主観とか、そういうイデオロギーを入れて教育しなさいとは言ってないわけです。歴史の正しいあり方というものを教えるのが教育だと思うのです。かつて歴史的に有名な人物でも、いまはそうでなくなってみたり、時代の変化によってどんどん変わっていっては困るんですね。
 ですから、そういう面からすると、現在の学校現場で行われている平和教育というものがどのくらい浸透しているのか、あるいは正しく受け入れられているかということについては、この種のアンケートを見ても、非常に疑問を持たざるを得ません。確かに沖繩の場合は別でしょう。かもしれませんが、しかし沖繩だけがどんなに平和教育をしたと言ってみたって、それは限られた局地であって、日本全体の、影響はあるでしょうが、大勢を占めるわけにはまいらぬですね。
 そういう面で、ぜひひとつ、こういう平和教育の問題についても、正しい認識と理解と歴史の経緯というものを十分認識した上での教科書課程というものをいまこそ再検討する、あるいは考える段階だと私は思うのですが、改めてこの点について御所見を伺っておきたいと思うのです。
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永井道雄#29
○永井国務大臣 ただいまの問題につきまして、私がまず申し上げたいのは、先ほど読みましたのは、確かに沖繩で用いられている教科書でございますが、しかしこれは、日本全国で使われている教科書でもあります。したがいまして、別に沖繩だけでそういう教科書が用いられているというのではございません。ただ全国の何%が、この教科書を使っているかという数字は手元にございませんが、沖繩だけではないということを申し上げておきたいと思います。
 そこで、これを文部省も検定しておりますということは、先ほどの新憲法の話、昭和二十二年の原則というものは、やはり指導要領においても今日十分守られているということだと思います。
 そこで、この段階においてもう一つ覚悟を新たにしなければいけないのじゃないかというおことばでございますが、この点は、私も同感でございます。しかし覚悟を新たにするということを、具体的に申し上げますとどういうことであるかというと、かようなことだと思っております。
 つまり、わが国は敗戦という非常につらい経験をいたしました。そして今日に至ったわけでございますが、次第にやはり自主的な国として自分の足で立つということでなければならないと思います。そういたしますと、国の中に、たとえば政治をめぐりまして相当違う立場というものがある。特に平和の実現の方法についても違う立場というものがございましょう。しかしながら、その立場があるからといって、今度は本当に子供を教えていく具体的な問題について話し合わないというようなことであってはならないと思います。
 私は、たまたま党籍のない人間としてこの教育行政の責任を負うことになりましたが、その私が考えておりますことは、教育の問題に関連しては、その中に当然平和も含まれるのでありますが、こういうことに関連いたしましては、いろいろ立場の異なる人たちも、いままでコミュニケーションの断絶と申しましょうか、そういうことがあったのですが、そうでなく、共通の問題は共通に議論し、そして日本の国民の間に相当の合意ができ上がっていく、これを自主的な国家として当然持つべきだと思います。しかし、そうなりましたからといって政治的な意見の違い、これが全然なくなってしまうということではない。これは、もちろんありましょうし、また、それがあるということが民主国家において当然のことと思います。
 しかしいま、覚悟を新たにしてすべきことと申しますと、やはりそういうふうに事教育に関しましてはいろいろな考えを持っている人も、やはり子供の立場に立ってお互いに話し合って、共通の地盤をつくり上げていくということを具体的にすることが覚悟のあらわれではないか、かように思っている次第です。
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