憲法調査会
⚠️ 発言のコピー・転載時は出典元URL(kokkai.ndl.go.jpおよびkokkai-data.com)を必ず残してください。改変・出典削除は禁止です。 詳細は利用規約をご確認ください。
会
会議録情報#0
平成十七年二月二十四日(木曜日)
午前九時一分開議
出席委員
会長 中山 太郎君
幹事 福田 康夫君 幹事 船田 元君
幹事 古屋 圭司君 幹事 保岡 興治君
幹事 枝野 幸男君 幹事 中川 正春君
幹事 山花 郁夫君 幹事 赤松 正雄君
伊藤 公介君 石崎 岳君
大村 秀章君 加藤 勝信君
河野 太郎君 坂本 剛二君
柴山 昌彦君 中谷 元君
永岡 洋治君 野田 毅君
葉梨 康弘君 早川 忠孝君
平井 卓也君 平沼 赳夫君
二田 孝治君 松野 博一君
松宮 勲君 三原 朝彦君
森山 眞弓君 渡辺 博道君
青木 愛君 市村浩一郎君
稲見 哲男君 内山 晃君
大出 彰君 鹿野 道彦君
鈴木 克昌君 園田 康博君
田島 一成君 田中眞紀子君
辻 惠君 中根 康浩君
計屋 圭宏君 古川 元久君
三日月大造君 笠 浩史君
和田 隆志君 渡部 恒三君
石田 祝稔君 太田 昭宏君
高木美智代君 高木 陽介君
福島 豊君 丸谷 佳織君
山口 富男君 土井たか子君
…………………………………
衆議院憲法調査会事務局長 内田 正文君
—————————————
委員の異動
二月二十四日
辞任 補欠選任
渡海紀三朗君 石崎 岳君
園田 康博君 田島 一成君
辻 惠君 内山 晃君
笠 浩史君 三日月大造君
太田 昭宏君 石田 祝稔君
高木 陽介君 丸谷 佳織君
福島 豊君 高木美智代君
同日
辞任 補欠選任
石崎 岳君 渡海紀三朗君
内山 晃君 辻 惠君
田島 一成君 園田 康博君
三日月大造君 市村浩一郎君
石田 祝稔君 太田 昭宏君
高木美智代君 福島 豊君
丸谷 佳織君 高木 陽介君
同日
辞任 補欠選任
市村浩一郎君 笠 浩史君
—————————————
本日の会議に付した案件
日本国憲法に関する件
————◇—————
この発言だけを見る →午前九時一分開議
出席委員
会長 中山 太郎君
幹事 福田 康夫君 幹事 船田 元君
幹事 古屋 圭司君 幹事 保岡 興治君
幹事 枝野 幸男君 幹事 中川 正春君
幹事 山花 郁夫君 幹事 赤松 正雄君
伊藤 公介君 石崎 岳君
大村 秀章君 加藤 勝信君
河野 太郎君 坂本 剛二君
柴山 昌彦君 中谷 元君
永岡 洋治君 野田 毅君
葉梨 康弘君 早川 忠孝君
平井 卓也君 平沼 赳夫君
二田 孝治君 松野 博一君
松宮 勲君 三原 朝彦君
森山 眞弓君 渡辺 博道君
青木 愛君 市村浩一郎君
稲見 哲男君 内山 晃君
大出 彰君 鹿野 道彦君
鈴木 克昌君 園田 康博君
田島 一成君 田中眞紀子君
辻 惠君 中根 康浩君
計屋 圭宏君 古川 元久君
三日月大造君 笠 浩史君
和田 隆志君 渡部 恒三君
石田 祝稔君 太田 昭宏君
高木美智代君 高木 陽介君
福島 豊君 丸谷 佳織君
山口 富男君 土井たか子君
…………………………………
衆議院憲法調査会事務局長 内田 正文君
—————————————
委員の異動
二月二十四日
辞任 補欠選任
渡海紀三朗君 石崎 岳君
園田 康博君 田島 一成君
辻 惠君 内山 晃君
笠 浩史君 三日月大造君
太田 昭宏君 石田 祝稔君
高木 陽介君 丸谷 佳織君
福島 豊君 高木美智代君
同日
辞任 補欠選任
石崎 岳君 渡海紀三朗君
内山 晃君 辻 惠君
田島 一成君 園田 康博君
三日月大造君 市村浩一郎君
石田 祝稔君 太田 昭宏君
高木美智代君 福島 豊君
丸谷 佳織君 高木 陽介君
同日
辞任 補欠選任
市村浩一郎君 笠 浩史君
—————————————
本日の会議に付した案件
日本国憲法に関する件
————◇—————
中
中山太郎#1
○中山会長 これより会議を開きます。
日本国憲法に関する件について調査を進めます。
本日の午前は、前文・その他について自由討議を行います。
議事の進め方でありますが、まず、各会派を代表して一名ずつ大会派順に十分以内で発言していただき、その後、順序を定めず自由討議を行いたいと存じます。
発言時間の経過については、終了時間一分前にブザーを、また終了時にもブザーを鳴らしてお知らせいたします。
それでは、まず、福田康夫君。
この発言だけを見る →日本国憲法に関する件について調査を進めます。
本日の午前は、前文・その他について自由討議を行います。
議事の進め方でありますが、まず、各会派を代表して一名ずつ大会派順に十分以内で発言していただき、その後、順序を定めず自由討議を行いたいと存じます。
発言時間の経過については、終了時間一分前にブザーを、また終了時にもブザーを鳴らしてお知らせいたします。
それでは、まず、福田康夫君。
福
福田康夫#2
○福田委員 自由民主党の福田でございます。
私は、この憲法調査会に昨年の秋から参加させていただいております。委員の皆様方の話などを伺い、大変熱心に委員の方々取り組んでこられていらっしゃることに、まずは敬意を表したいというふうに思っております。
本日、私は、この調査会の事務局でつくってくださった記録がございます、これは委員の発言が記されているものでございますけれども、それを拝見しながら、本日のテーマでございます前文に対する私見というものを述べたいというふうに思っています。
まず、前文の必要性、これにつきましては多くの委員が必要と認めているということでございます。私も必要であると考えますので、私は、そのことは当然であるということを前提に話を進めさせていただきたいと思います。
次に、前文の書き直しが必要かどうかということにつきましては、これは議論の分かれているところでありますけれども、全体的な意見としては書き直しが必要、そういう意見が多かったように見受けられると考えております。それで、私も改正必要の立場であります。
その理由は、もうこれも多くの委員の方々が述べていらっしゃるので、私からくどくどと説明することは避けるべきかもしれませんけれども、申し上げたいことは、要するに、現行憲法の前文の内容、これに不満があるということであります。すなわち、前文の構成に見られるように、全体が戦争を忌避し国際平和を目指す、一言で言ってしまえば、これは前文の全文が戦争の反省に尽きている、このように受けとめられるからであります。
この憲法が、占領軍の恣意でつくられたということなら我が国に対する痛烈な反省を求めているということになりますけれども、仮に我が国がみずから起草したということになりますと、これは自虐的であると言われてもやむを得ない内容と考えております。戦争直後のあの時期に起草されたという特異な状況下を考えますと、これはもうやむを得ないものがあったということは理解いたしましても、戦後六十年たっても相変わらず戦争の反省、これでは国民に夢も希望も与えず、その結果、国民の思想が退廃しても、それは国民の責任に帰すべきものではないというふうに考えております。そのような前文の特異性がありながらも、私は、政府も国民も前文の規定の考え方に基づいて誠実に行動してきたというふうに考えております。
そのうちで最も重点を置いた平和主義につきましても、国民の間に定着をし、ほとんど完全に遵守をしている、むしろ、その精神を積極的に推し進めてきたということ、このことは、我が国の国際平和に向けての現在の諸活動、これを見れば明らかなことであるというように考えております。しかしながら、完全を期すために、さらに改善するということによりまして国際社会からの期待にさらにこたえるべきであると思います。
しかし、その反面、最も重要であるべき自衛という概念、これが希薄になっているという一大欠陥を抱えたということも、これも事実というふうに思っております。
また、この前文に記載されていないその他の多くの重要な項目、これにつきまして、そういう分野の我が国の現状を見たときに、反省すべきこと、また、足りないところがいかに多くあるかということも思いをいたさなければいけないと思っております。国家目標は多様でありまして、前文において規定すべきこと、述べるべきことはさまざまなものがあると考えております。平和主義を求めること以外に意味するところの少ない現行の憲法前文に対して、本調査会の意見の中で多くの不満が述べられているということは、これは当然のことと考えております。
それでは、あるべき前文の内容はどのようなものであるべきかということでありますが、この調査会でさまざまな意見がありました。私としては、欠くべからざるものとして幾つかを挙げてみたいと思います。
まず、前文は国家国民の目指す方向を明確に示す必要があること、特に対外発信、これが重要でございまして、国際社会に対し、我が国のこれまでの平和主義の継続、これをさらに強く推進することを表明するということが求められるべきと考えます。
そしてまた、内に向かっては、よい社会、国家を目指すということ、これは多少抽象的でありますけれども、この中には、人権とか家庭のあり方、教育、社会規範といったようなものが含まれます。そういうことを明らかにする必要があると考えます。
そしてまた、以上のことにつきましては、高い倫理性に基づくものでなければならないと考えます。また、日本の独自性、固有性を重視するものでなければなりません。それらを記述することによりまして、総体的に日本人としての誇りを持てるものでありたいと思います。
次に、前文の内容として、日本の国家目標を設定する際に、我が国の状況及び我が国を取り巻く環境の条件を考慮する必要があるということを申し上げたいと思います。
三点ございますが、まず第一に、環境資源の制約が生ずること、第二に、国際化の進展は避けられないことであるということ、第三、我が国経済社会が人口減少の影響を受けるということ、その三点でございます。これらは、これからの日本及び国際社会を見通した際に避けて通ることのできない条件でございまして、日本及び日本人の安全、安心を考える際に極めて重要な課題であり、そのことを配慮しなければいけないということであります。
もちろん、環境につきましては、これは言をまたないことでありますけれども、我が国の取り組みはもとより、国際協調というものが求められます。資源エネルギーとの関係もございますが、経済のグローバル化、情報化、国内においては人口減少、少子化の影響などで、海外資源への依存度は、これは今後ますます拡大いたします。また、生産拠点の海外における拡大、海外での企業活動の増加というような多様化というものが、これがこれから生ずるわけでありますが、その中には、海外との取引金額の増加にとどまることもなく、日本の経済活動、これはすべての世界に拡大をしていくというように考えられます。
そういうような日本のこれからの状況及び国際環境を考えた上でこの前文というものを考えていく必要があるということを考えますと、私は、この前文の条項が余り窮屈なものになってはいけないというように思います。そして、そのことによって日本の安全保障が確保できないということは、これは非常に大きな問題だというふうに考えておりますので、そういうような配慮というものも必要ではなかろうかと思っております。
いずれにしましても、我が国は今転換期にあります。これは、我が国にとどまらず、世界全体というふうに考えてもよろしいんですけれども、そういう時期に、これからの日本を規定するような、そういうような前文については十分慎重な配慮をする必要があるし、そしてまた、世界に向かって日本のあり方というものを十分に説明し得るようなものであってほしい、そのように考えております。
以上であります。
この発言だけを見る →私は、この憲法調査会に昨年の秋から参加させていただいております。委員の皆様方の話などを伺い、大変熱心に委員の方々取り組んでこられていらっしゃることに、まずは敬意を表したいというふうに思っております。
本日、私は、この調査会の事務局でつくってくださった記録がございます、これは委員の発言が記されているものでございますけれども、それを拝見しながら、本日のテーマでございます前文に対する私見というものを述べたいというふうに思っています。
まず、前文の必要性、これにつきましては多くの委員が必要と認めているということでございます。私も必要であると考えますので、私は、そのことは当然であるということを前提に話を進めさせていただきたいと思います。
次に、前文の書き直しが必要かどうかということにつきましては、これは議論の分かれているところでありますけれども、全体的な意見としては書き直しが必要、そういう意見が多かったように見受けられると考えております。それで、私も改正必要の立場であります。
その理由は、もうこれも多くの委員の方々が述べていらっしゃるので、私からくどくどと説明することは避けるべきかもしれませんけれども、申し上げたいことは、要するに、現行憲法の前文の内容、これに不満があるということであります。すなわち、前文の構成に見られるように、全体が戦争を忌避し国際平和を目指す、一言で言ってしまえば、これは前文の全文が戦争の反省に尽きている、このように受けとめられるからであります。
この憲法が、占領軍の恣意でつくられたということなら我が国に対する痛烈な反省を求めているということになりますけれども、仮に我が国がみずから起草したということになりますと、これは自虐的であると言われてもやむを得ない内容と考えております。戦争直後のあの時期に起草されたという特異な状況下を考えますと、これはもうやむを得ないものがあったということは理解いたしましても、戦後六十年たっても相変わらず戦争の反省、これでは国民に夢も希望も与えず、その結果、国民の思想が退廃しても、それは国民の責任に帰すべきものではないというふうに考えております。そのような前文の特異性がありながらも、私は、政府も国民も前文の規定の考え方に基づいて誠実に行動してきたというふうに考えております。
そのうちで最も重点を置いた平和主義につきましても、国民の間に定着をし、ほとんど完全に遵守をしている、むしろ、その精神を積極的に推し進めてきたということ、このことは、我が国の国際平和に向けての現在の諸活動、これを見れば明らかなことであるというように考えております。しかしながら、完全を期すために、さらに改善するということによりまして国際社会からの期待にさらにこたえるべきであると思います。
しかし、その反面、最も重要であるべき自衛という概念、これが希薄になっているという一大欠陥を抱えたということも、これも事実というふうに思っております。
また、この前文に記載されていないその他の多くの重要な項目、これにつきまして、そういう分野の我が国の現状を見たときに、反省すべきこと、また、足りないところがいかに多くあるかということも思いをいたさなければいけないと思っております。国家目標は多様でありまして、前文において規定すべきこと、述べるべきことはさまざまなものがあると考えております。平和主義を求めること以外に意味するところの少ない現行の憲法前文に対して、本調査会の意見の中で多くの不満が述べられているということは、これは当然のことと考えております。
それでは、あるべき前文の内容はどのようなものであるべきかということでありますが、この調査会でさまざまな意見がありました。私としては、欠くべからざるものとして幾つかを挙げてみたいと思います。
まず、前文は国家国民の目指す方向を明確に示す必要があること、特に対外発信、これが重要でございまして、国際社会に対し、我が国のこれまでの平和主義の継続、これをさらに強く推進することを表明するということが求められるべきと考えます。
そしてまた、内に向かっては、よい社会、国家を目指すということ、これは多少抽象的でありますけれども、この中には、人権とか家庭のあり方、教育、社会規範といったようなものが含まれます。そういうことを明らかにする必要があると考えます。
そしてまた、以上のことにつきましては、高い倫理性に基づくものでなければならないと考えます。また、日本の独自性、固有性を重視するものでなければなりません。それらを記述することによりまして、総体的に日本人としての誇りを持てるものでありたいと思います。
次に、前文の内容として、日本の国家目標を設定する際に、我が国の状況及び我が国を取り巻く環境の条件を考慮する必要があるということを申し上げたいと思います。
三点ございますが、まず第一に、環境資源の制約が生ずること、第二に、国際化の進展は避けられないことであるということ、第三、我が国経済社会が人口減少の影響を受けるということ、その三点でございます。これらは、これからの日本及び国際社会を見通した際に避けて通ることのできない条件でございまして、日本及び日本人の安全、安心を考える際に極めて重要な課題であり、そのことを配慮しなければいけないということであります。
もちろん、環境につきましては、これは言をまたないことでありますけれども、我が国の取り組みはもとより、国際協調というものが求められます。資源エネルギーとの関係もございますが、経済のグローバル化、情報化、国内においては人口減少、少子化の影響などで、海外資源への依存度は、これは今後ますます拡大いたします。また、生産拠点の海外における拡大、海外での企業活動の増加というような多様化というものが、これがこれから生ずるわけでありますが、その中には、海外との取引金額の増加にとどまることもなく、日本の経済活動、これはすべての世界に拡大をしていくというように考えられます。
そういうような日本のこれからの状況及び国際環境を考えた上でこの前文というものを考えていく必要があるということを考えますと、私は、この前文の条項が余り窮屈なものになってはいけないというように思います。そして、そのことによって日本の安全保障が確保できないということは、これは非常に大きな問題だというふうに考えておりますので、そういうような配慮というものも必要ではなかろうかと思っております。
いずれにしましても、我が国は今転換期にあります。これは、我が国にとどまらず、世界全体というふうに考えてもよろしいんですけれども、そういう時期に、これからの日本を規定するような、そういうような前文については十分慎重な配慮をする必要があるし、そしてまた、世界に向かって日本のあり方というものを十分に説明し得るようなものであってほしい、そのように考えております。
以上であります。
中
鹿
鹿野道彦#4
○鹿野委員 前文をどうするかというふうな本日はテーマでございますけれども、基本的に、我が国の憲法におきましても、この前文に、いわゆる平和宣言、そして民主主義を宣言してきたというふうなことは大きな意味を持つものであったと思っております。そういう意味で、これからも、この国際社会において目指す方向というものと、どういう日本の国をつくっていくかということを示していくという意味では、前文があった方がいいのではないか、こういう考え方であります。
ただ、どういう前文にするかということを考えたときに、それぞれ他の国と比較したときに、例えば、アメリカとかイギリスとかドイツとかというふうな国においては前文を持たない。他の国でも、あったとしても非常にシンプルなものである。長い前文は、社会主義国家、イスラム教を中心とした宗教国家である。こういうふうなことを考えたときに、根本規範に沿ったところの、いわゆる余り長くない、むしろシンプルな方がいいのではないか、こういう考え方に立ちます。
そこで、いわゆる我が国の基本三原則、これは大きな評価をされているところでありますけれども、いわゆる国民主権と基本的人権と平和主義。ただ、この基本的な三原則が自主的に具現化されてきたのかどうかということをやはり検証する必要があると思います。そして、この三原則が具現化されるようにするには、どういう書き込みをしていくかということも検討していく大きなポイントではないかと思っております。
例えば、国民主権。果たして実態はそうなのか。国民主権であるならば、当然民主導でなければならない。しかし現実は、我が国は果たして官主導でなしに民主導なのかどうか。このことは本当にきちっと検証しなきゃならないことでもあります。また、違憲審査というものが果たしてどうであったのか。あるいは、主権在民、国民主権ということならば、直接住民の意思というものが反映されてきたのかどうかというこのような点を、やはり、具現化されてきたのかどうかということも含めて、具現化されるにはどうするかということを、もう一度申し上げますけれども、前文にどう書き込むかというふうなことに結びつけていく必要があると思います。
基本的人権にいたしましても、もう一国の問題ではなくなりました。もう国際スタンダードになってきたわけであります。国際社会と提携をして、そしてこの人権をどう守っていくかというふうなことも考えていかなきゃなりません。
平和主義。この平和主義といっても、もういわゆる一国平和主義というのはあり得ないわけでありまして、どうやってこの世界の安定を保っていくか、それには貧困と隷属というふうなものをなくすること、これが真の平和が訪れることだということを考えたときに、我が日本の国がどう国際社会に貢献をしていくか。日本の国は、言うまでもなく、ヨーロッパ各国と比較しても、人口、面積あるいはGDP、どの数字を取り上げても大きな国であるということを、それだけ国際社会において影響を持つ国であるということを、それだけ責任と使命を負っている国なんだというふうなことをもう一度やはり確認する必要があるんではないか、こういう認識であります。
それからもう一点は、現在の価値観だけではなしに、遠い将来の価値観というものも含めて、高い理想というものを持ってしかるべきだと思います。このことによって我が日本の国民も誇りを持つことができるものと思っております。
そのことを考えたときに、この地球の中におけるこの日本の国であります。地球をどう守っていくか、資源すなわちこの地球をどうやってみんなで分け合っていくか、大自然とどうやって共生していくか。億という年月をかけて悠久の循環が繰り返されてきた、このことを考えたときに、この営みというものは一瞬もとめられるということはないという考え方に立っていかなきゃなりません。
また、民族や宗教、イデオロギーの対立を超えて、お互いに平和を、生活を分かち合っていくというふうな道を探っていかなきゃならないわけであります。このためにも、すなわち貧困と隷属をなくすというこの土台をどうつくっていくかというふうなところにも意識をしながら、この前文にどう盛り込んでいくかというふうなことを検討していく必要があると思います。
また、国内におきましても、日本の持つ大事なものがあるわけであります。すぐれた価値観であります。例えば、聖徳太子、福沢諭吉のその訴えた基本的な考え方。聖徳太子は、御承知のとおりに、和というものを強く求められました。しかし、聖徳太子の言っている和というものは、ただ単になあなあで丸くおさめていくということではなしに、本当にこの社会に平和をつくっていこうという考え方であったわけであります。また、福沢諭吉は、個人の自立がなければ我が国の真の独立はないんだということを強調されました。依存心をなくしていこう、本当に独立した人間をつくっていく、そのことによって新しいこの日本がつくられていくということにもなるわけであります。
ともすれば依存の文化が生まれてきたこの戦後、これまで、追いつけ追い越せというこの中央集権体制ではなしに、新しい時代に対応する分権型の社会、いわゆる民主化につながるところのその分権型の社会というものをつくっていく、こういうふうなこともどう盛り込んでいくかというふうなことは大変重要なポイントであると思います。
すなわち、国際社会において、日本の国において、安定と安心をしっかりと確立をし平和をつくっていくんだ、この気概というふうなものがこの前文に書き込まれていいのではないか、こんな考え方に立ちます。その際に、やはりできるだけ、我が国の憲法のその前文ということになりますならば、わかりやすい表現であるべきだ、こう考えます。
この発言だけを見る →ただ、どういう前文にするかということを考えたときに、それぞれ他の国と比較したときに、例えば、アメリカとかイギリスとかドイツとかというふうな国においては前文を持たない。他の国でも、あったとしても非常にシンプルなものである。長い前文は、社会主義国家、イスラム教を中心とした宗教国家である。こういうふうなことを考えたときに、根本規範に沿ったところの、いわゆる余り長くない、むしろシンプルな方がいいのではないか、こういう考え方に立ちます。
そこで、いわゆる我が国の基本三原則、これは大きな評価をされているところでありますけれども、いわゆる国民主権と基本的人権と平和主義。ただ、この基本的な三原則が自主的に具現化されてきたのかどうかということをやはり検証する必要があると思います。そして、この三原則が具現化されるようにするには、どういう書き込みをしていくかということも検討していく大きなポイントではないかと思っております。
例えば、国民主権。果たして実態はそうなのか。国民主権であるならば、当然民主導でなければならない。しかし現実は、我が国は果たして官主導でなしに民主導なのかどうか。このことは本当にきちっと検証しなきゃならないことでもあります。また、違憲審査というものが果たしてどうであったのか。あるいは、主権在民、国民主権ということならば、直接住民の意思というものが反映されてきたのかどうかというこのような点を、やはり、具現化されてきたのかどうかということも含めて、具現化されるにはどうするかということを、もう一度申し上げますけれども、前文にどう書き込むかというふうなことに結びつけていく必要があると思います。
基本的人権にいたしましても、もう一国の問題ではなくなりました。もう国際スタンダードになってきたわけであります。国際社会と提携をして、そしてこの人権をどう守っていくかというふうなことも考えていかなきゃなりません。
平和主義。この平和主義といっても、もういわゆる一国平和主義というのはあり得ないわけでありまして、どうやってこの世界の安定を保っていくか、それには貧困と隷属というふうなものをなくすること、これが真の平和が訪れることだということを考えたときに、我が日本の国がどう国際社会に貢献をしていくか。日本の国は、言うまでもなく、ヨーロッパ各国と比較しても、人口、面積あるいはGDP、どの数字を取り上げても大きな国であるということを、それだけ国際社会において影響を持つ国であるということを、それだけ責任と使命を負っている国なんだというふうなことをもう一度やはり確認する必要があるんではないか、こういう認識であります。
それからもう一点は、現在の価値観だけではなしに、遠い将来の価値観というものも含めて、高い理想というものを持ってしかるべきだと思います。このことによって我が日本の国民も誇りを持つことができるものと思っております。
そのことを考えたときに、この地球の中におけるこの日本の国であります。地球をどう守っていくか、資源すなわちこの地球をどうやってみんなで分け合っていくか、大自然とどうやって共生していくか。億という年月をかけて悠久の循環が繰り返されてきた、このことを考えたときに、この営みというものは一瞬もとめられるということはないという考え方に立っていかなきゃなりません。
また、民族や宗教、イデオロギーの対立を超えて、お互いに平和を、生活を分かち合っていくというふうな道を探っていかなきゃならないわけであります。このためにも、すなわち貧困と隷属をなくすというこの土台をどうつくっていくかというふうなところにも意識をしながら、この前文にどう盛り込んでいくかというふうなことを検討していく必要があると思います。
また、国内におきましても、日本の持つ大事なものがあるわけであります。すぐれた価値観であります。例えば、聖徳太子、福沢諭吉のその訴えた基本的な考え方。聖徳太子は、御承知のとおりに、和というものを強く求められました。しかし、聖徳太子の言っている和というものは、ただ単になあなあで丸くおさめていくということではなしに、本当にこの社会に平和をつくっていこうという考え方であったわけであります。また、福沢諭吉は、個人の自立がなければ我が国の真の独立はないんだということを強調されました。依存心をなくしていこう、本当に独立した人間をつくっていく、そのことによって新しいこの日本がつくられていくということにもなるわけであります。
ともすれば依存の文化が生まれてきたこの戦後、これまで、追いつけ追い越せというこの中央集権体制ではなしに、新しい時代に対応する分権型の社会、いわゆる民主化につながるところのその分権型の社会というものをつくっていく、こういうふうなこともどう盛り込んでいくかというふうなことは大変重要なポイントであると思います。
すなわち、国際社会において、日本の国において、安定と安心をしっかりと確立をし平和をつくっていくんだ、この気概というふうなものがこの前文に書き込まれていいのではないか、こんな考え方に立ちます。その際に、やはりできるだけ、我が国の憲法のその前文ということになりますならば、わかりやすい表現であるべきだ、こう考えます。
中
赤
赤松正雄#6
○赤松(正)委員 公明党の赤松正雄でございます。
憲法の前文のことを思うにつけまして、私は十年前のことを思い出します。十年前というのは、言うまでもなく阪神・淡路の震災のあった年、一九九五年なんですが、村山総理、旧社会党の委員長だった村山さんが総理になられて半年たった時点、そのときに、かつて自衛隊を憲法違反だ、そういう位置づけをされてきた政党の党首が総理になられたということで、実は予算委員会、平成七年一月二十七日に村山総理に対して私どもの先輩議員が、何を根拠にして自衛隊をかつての違憲の立場から合憲に変えたのかという論争を挑んだわけでございます。かつて、私たちが若いころ、社会党といえば非武装中立の論争で大変有名な議論があったわけですけれども、それに比べれば極めて地味というか余り目立たない論争ではありましたけれども、憲法前文といったときに、このことを思い出すわけであります。
このエッセンスは、つまり、私ども公明党は、大変に苦労いたしまして、三年数カ月かけて昭和五十六年に、それまでのいわゆる違憲の疑いがあるという自衛隊の存在について、合憲であるという憲法解釈を営々たる努力の末に位置づけた、そういう経緯がありまして、それに比べて余りにもずさんというか余りにもいいかげんな、違憲も前文、合憲も前文、あえて九条に触れないという、総理になられてからの村山さんのそういう行き方というものに対して、私どもの先輩は激しくその辺を迫ったわけであります。
私はそれを聞いていまして、非常にある種、むしろ村山さんに対して同情を抱いたという感じがいたします。それは要するに、理屈で言えばそういう私の先輩が言ったようなことになるわけですけれども、同時に、憲法前文が持つあいまいさということと深く関係をしている。村山さんから見れば、あいまいさの効用を生かされたんじゃないか、そんなふうな感じもいたすわけであります。
翻って、先年、自衛隊をサマワに派遣するに当たっての憲法上の根拠を問われて小泉総理は、やはり憲法前文ということを挙げられましたけれども、この場合においても、そういう言ってみればある意味であいまいさの効用というものが発揮されているんではないか、そんなふうな感じを思い起こすわけであります。
いずれにしても、この憲法前文につきましては、先ほど両先輩からお話もございましたけれども、私どもは、この憲法前文、一九四六年の公布された憲法については一定の重大な役割を果たした、そういう観点からあえて変える必要はないという意見もありますけれども、よりすっきりとしたものにすべきだというのがやはり自然な考え方であろう、そんなふうに思います。よりすっきりしたものに変えるというふうな観点からすれば、やはり、これからの二十一世紀の時代状況というものをしっかり踏まえた上での時代認識の反映というものがなされてこなければいけないのではないかと思います。
現行憲法につきましては、しばしば、日本語としての表現の不備といった形態的側面だけではなくて、内容面でも、最大のポイントである三原則が十分に書き込まれていない、先ほども申し上げましたけれども、十分に書き込まれていないこと、さらには、日本の歴史や文化や伝統といった固有の色彩から縁が遠くて、余りに無色透明に過ぎるといった欠陥も指摘されてきました。そういった誕生の時代的背景からして当然といえば当然でしょうけれども、これからの国のあり方、形を提示する基本となる憲法の前文がこういったものを引きずり続けることには大いに議論があるだろう。そういう意味からも、新しい時代における認識というものが反映されなくちゃいけないだろう。
そういったときに俎上に上ってくるテーマというのは、先ほどもお話ありましたけれども、地球的規模におけるさまざまな問題。一つは、地球温暖化というふうな、現代世界がひとしく見舞われているこうした現象に対する自然環境の保全や人間社会との共生というものが非常に強く望まれている、そういう点。あるいはまた、内外における新しい脅威、国際テロや、エイズに代表される感染症の脅威や、また、翻って日本自体をとってみても、安全安心を誇ってきた日本社会のほころびといったふうなそういった問題。
つまり、国家や社会の安全保障だけではなくて、人間の安全保障ということの必要性というものが今ほど要求されていることはない。そして、二十一世紀を見渡したときに、そういった視点というものが大事だということも指摘できるんじゃないかと思います。あわせて、日本が先進民主主義国家の中の先頭を切って少子高齢社会入りをしようとしている状況というのは、社会の隅々に至るまで大幅な価値観の転換を求められている。
そういうことからしても、すっきりした、これからの憲法における前文というものをもし新たにつくるとすれば、今のような側面というものを織り込む必要があるんではないかと思います。
あわせて、今日まで、戦前戦後を通じて日本の憲法の背景として争われてきた一つのテーマとして、国家主義対いわゆる人間主義、あるいはナショナリズム対インターナショナリズム、あるいはまた、卑近な言い方をすると、滅私奉公対滅公奉私というか、そういうふうな対立的な価値観、こういったものが存在をしてきたわけですけれども、今、先ほど来申し上げていますような、これからの時代状況を踏まえた場合におけるところの新しい価値観、まあ国家観と言ってもいいかもしれませんけれども、そういったものを確立する必要がある、こんなふうにも思います。
私ども公明党は、かつて、文化の華薫る平和国家、こういうふうな国家観の原型のようなものを目指すべきものとして示したことがありますけれども、今もなおそれは生きていると私は思っております。
先日、この憲法調査会に元総理大臣中曽根康弘先生をお迎えして、いわゆる憲法をめぐるお話を公述人としてお招きして聞いたときに、私は、長く憲法の改革ということ、いわゆる改憲ということを主張されてこられた中曽根さんが、今、新しい平成憲法というものを主張されている。その背景をなす、骨格をなす国家観というものはどういうものですかということを聞きましたときに、概略、今まで経済至上主義、そういうものを目指してきた日本、目指してきたというかそういう経緯にあった日本が、これからは教育文化国家というものを目指すべきであろう、そんなふうなことを言われました。
中曽根元総理がおっしゃる文化、教育の中身と、私たちが言うところの文化の華薫る平和国家の文化と、中身には異論はあろうと思いますけれども、方向性というものは一致している、そんなふうな感じがいたすわけで、これから、そういった新しい日本の目指すべき国家像というものについても大いなる議論というものが必要になってくるのではないかと思います。
最後に、私が思いますことは、今、こういう憲法調査会の場におきましてさまざまな現行憲法をめぐる議論、そして、これからの、もし仮に現行憲法を補うあるいは変えるといったことをするならばどういう観点が必要かという議論を展開してきているわけですけれども、ここでやはり私たちが、非常に当たり前のことでありますけれども、私が強調したいと思うことは、要するに、政治家が極めて謙虚にならなければならないのではないかという点であります。今の政治家だけにこの大事な憲法の議論をすべて託していいと思っているのかどうか、その点、私は大いに謙虚にならなければならない。前文にしても、変える必要は認めても、おまえさんたちに任せては心配だという意見は残念ながら数多くあるのではないかと思われるわけであります。
その意味で、国民的な議論が必要であって、多くの国民の皆さんから御意見を積極的に賜っていく必要性がある、そんなふうに思う次第でございます。
かつて、この調査会に出席された参考人が憲法前文の書きかえ運動を提唱されたり、あるいは出版界でも、私の考える憲法前文といったものを集めて本にする動きがあるなど、まだまだ弱いとはいえ、そうした国民運動的胎動がかいま見られるということは注目に値すると言えると思います。
以上です。
この発言だけを見る →憲法の前文のことを思うにつけまして、私は十年前のことを思い出します。十年前というのは、言うまでもなく阪神・淡路の震災のあった年、一九九五年なんですが、村山総理、旧社会党の委員長だった村山さんが総理になられて半年たった時点、そのときに、かつて自衛隊を憲法違反だ、そういう位置づけをされてきた政党の党首が総理になられたということで、実は予算委員会、平成七年一月二十七日に村山総理に対して私どもの先輩議員が、何を根拠にして自衛隊をかつての違憲の立場から合憲に変えたのかという論争を挑んだわけでございます。かつて、私たちが若いころ、社会党といえば非武装中立の論争で大変有名な議論があったわけですけれども、それに比べれば極めて地味というか余り目立たない論争ではありましたけれども、憲法前文といったときに、このことを思い出すわけであります。
このエッセンスは、つまり、私ども公明党は、大変に苦労いたしまして、三年数カ月かけて昭和五十六年に、それまでのいわゆる違憲の疑いがあるという自衛隊の存在について、合憲であるという憲法解釈を営々たる努力の末に位置づけた、そういう経緯がありまして、それに比べて余りにもずさんというか余りにもいいかげんな、違憲も前文、合憲も前文、あえて九条に触れないという、総理になられてからの村山さんのそういう行き方というものに対して、私どもの先輩は激しくその辺を迫ったわけであります。
私はそれを聞いていまして、非常にある種、むしろ村山さんに対して同情を抱いたという感じがいたします。それは要するに、理屈で言えばそういう私の先輩が言ったようなことになるわけですけれども、同時に、憲法前文が持つあいまいさということと深く関係をしている。村山さんから見れば、あいまいさの効用を生かされたんじゃないか、そんなふうな感じもいたすわけであります。
翻って、先年、自衛隊をサマワに派遣するに当たっての憲法上の根拠を問われて小泉総理は、やはり憲法前文ということを挙げられましたけれども、この場合においても、そういう言ってみればある意味であいまいさの効用というものが発揮されているんではないか、そんなふうな感じを思い起こすわけであります。
いずれにしても、この憲法前文につきましては、先ほど両先輩からお話もございましたけれども、私どもは、この憲法前文、一九四六年の公布された憲法については一定の重大な役割を果たした、そういう観点からあえて変える必要はないという意見もありますけれども、よりすっきりとしたものにすべきだというのがやはり自然な考え方であろう、そんなふうに思います。よりすっきりしたものに変えるというふうな観点からすれば、やはり、これからの二十一世紀の時代状況というものをしっかり踏まえた上での時代認識の反映というものがなされてこなければいけないのではないかと思います。
現行憲法につきましては、しばしば、日本語としての表現の不備といった形態的側面だけではなくて、内容面でも、最大のポイントである三原則が十分に書き込まれていない、先ほども申し上げましたけれども、十分に書き込まれていないこと、さらには、日本の歴史や文化や伝統といった固有の色彩から縁が遠くて、余りに無色透明に過ぎるといった欠陥も指摘されてきました。そういった誕生の時代的背景からして当然といえば当然でしょうけれども、これからの国のあり方、形を提示する基本となる憲法の前文がこういったものを引きずり続けることには大いに議論があるだろう。そういう意味からも、新しい時代における認識というものが反映されなくちゃいけないだろう。
そういったときに俎上に上ってくるテーマというのは、先ほどもお話ありましたけれども、地球的規模におけるさまざまな問題。一つは、地球温暖化というふうな、現代世界がひとしく見舞われているこうした現象に対する自然環境の保全や人間社会との共生というものが非常に強く望まれている、そういう点。あるいはまた、内外における新しい脅威、国際テロや、エイズに代表される感染症の脅威や、また、翻って日本自体をとってみても、安全安心を誇ってきた日本社会のほころびといったふうなそういった問題。
つまり、国家や社会の安全保障だけではなくて、人間の安全保障ということの必要性というものが今ほど要求されていることはない。そして、二十一世紀を見渡したときに、そういった視点というものが大事だということも指摘できるんじゃないかと思います。あわせて、日本が先進民主主義国家の中の先頭を切って少子高齢社会入りをしようとしている状況というのは、社会の隅々に至るまで大幅な価値観の転換を求められている。
そういうことからしても、すっきりした、これからの憲法における前文というものをもし新たにつくるとすれば、今のような側面というものを織り込む必要があるんではないかと思います。
あわせて、今日まで、戦前戦後を通じて日本の憲法の背景として争われてきた一つのテーマとして、国家主義対いわゆる人間主義、あるいはナショナリズム対インターナショナリズム、あるいはまた、卑近な言い方をすると、滅私奉公対滅公奉私というか、そういうふうな対立的な価値観、こういったものが存在をしてきたわけですけれども、今、先ほど来申し上げていますような、これからの時代状況を踏まえた場合におけるところの新しい価値観、まあ国家観と言ってもいいかもしれませんけれども、そういったものを確立する必要がある、こんなふうにも思います。
私ども公明党は、かつて、文化の華薫る平和国家、こういうふうな国家観の原型のようなものを目指すべきものとして示したことがありますけれども、今もなおそれは生きていると私は思っております。
先日、この憲法調査会に元総理大臣中曽根康弘先生をお迎えして、いわゆる憲法をめぐるお話を公述人としてお招きして聞いたときに、私は、長く憲法の改革ということ、いわゆる改憲ということを主張されてこられた中曽根さんが、今、新しい平成憲法というものを主張されている。その背景をなす、骨格をなす国家観というものはどういうものですかということを聞きましたときに、概略、今まで経済至上主義、そういうものを目指してきた日本、目指してきたというかそういう経緯にあった日本が、これからは教育文化国家というものを目指すべきであろう、そんなふうなことを言われました。
中曽根元総理がおっしゃる文化、教育の中身と、私たちが言うところの文化の華薫る平和国家の文化と、中身には異論はあろうと思いますけれども、方向性というものは一致している、そんなふうな感じがいたすわけで、これから、そういった新しい日本の目指すべき国家像というものについても大いなる議論というものが必要になってくるのではないかと思います。
最後に、私が思いますことは、今、こういう憲法調査会の場におきましてさまざまな現行憲法をめぐる議論、そして、これからの、もし仮に現行憲法を補うあるいは変えるといったことをするならばどういう観点が必要かという議論を展開してきているわけですけれども、ここでやはり私たちが、非常に当たり前のことでありますけれども、私が強調したいと思うことは、要するに、政治家が極めて謙虚にならなければならないのではないかという点であります。今の政治家だけにこの大事な憲法の議論をすべて託していいと思っているのかどうか、その点、私は大いに謙虚にならなければならない。前文にしても、変える必要は認めても、おまえさんたちに任せては心配だという意見は残念ながら数多くあるのではないかと思われるわけであります。
その意味で、国民的な議論が必要であって、多くの国民の皆さんから御意見を積極的に賜っていく必要性がある、そんなふうに思う次第でございます。
かつて、この調査会に出席された参考人が憲法前文の書きかえ運動を提唱されたり、あるいは出版界でも、私の考える憲法前文といったものを集めて本にする動きがあるなど、まだまだ弱いとはいえ、そうした国民運動的胎動がかいま見られるということは注目に値すると言えると思います。
以上です。
中
山
山口富男#8
○山口(富)委員 日本共産党の山口富男です。
初めに、日本国憲法前文の特徴について述べたいと思います。
憲法の前文は、おのずから各国ごとの特徴があるものですが、一般には、憲法制定の由来と目的、基本的な理念と憲法制定者の意思などを示すことによって憲法典の意義と精神を内外に表明するものと言われます。
日本国憲法の前文では、憲法制定の歴史的経緯だけでなく、全体にわたって平和への念願と達成の決意、いわば日本の進路が述べられています。そして、これらを通じて、国民主権と民主主義、平和主義と国際協調主義など、日本国憲法のよって立つ基本原則が詳しく明らかにされています。
具体的に見れば、第一段では、憲法制定の趣旨が、諸国民との協和による成果と、自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにするという平和の達成にあること、さらに、国政が国民の厳粛な信託に基づき、国民がその福利を享受するという人類普遍の原理、国民主権と平和主義を憲法の基本原則にすることを明らかにしています。
第二段は、恒久平和への念願を表明して、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、我らの安全と生存を保持しようと決意したこと、さらに、全世界の国民の権利としての平和のうちに生存する権利を確認しています。
続いて第三段は、国際協調主義を旨とすることは各国の責務であると述べ、第四段で、以上に挙げた理想と目的の達成を目指す国民の決意を示しています。
このように憲法前文は、憲法制定者としての国民の意思と憲法の基本原則を明確に表明することで法規範としての性格を持つものとなりました。日本国憲法前文の重要な特徴がここにあります。
次に、憲法前文のもう一つの特徴として、前文が表明した憲法原則の普遍的な意義を取り上げたいと思いますが、今回は、問題を日本と世界の歴史及び現状の中で考えたいと思います。
詳しく述べるまでもなく、日本国憲法は、日本と世界の歴史上、未曾有の惨禍となった二十世紀前半の侵略戦争と専制政治を再び許さないという強い決意に根差して制定されたものです。ここに日本国憲法が示す日本の歴史の一番のかなめがあり、文章表現上も前文で繰り返し力説されているところです。しかも、日本国憲法のこの立場は孤立したものではありません。平和の実現を求める世界的な流れの中で生まれ、今日に至ったものです。その点で、自虐的などという特徴づけはとてもできるものではありません。
日本軍国主義の侵略戦争と植民地支配、ナチスなどの戦争犯罪を含め、人類は二十世紀の二つの世界戦争の惨禍を決してあいまいにしませんでした。この歴史から、戦争を違法化し恒久平和を探求すること、そのためにも、各国における人権と民主主義の充実に不断に努めることを大きな教訓として学び取りました。この教訓は、国連憲章と国際人権諸条約、各国の憲法に組み込まれることになりました。そして、二十一世紀を迎えた今日も、探求し実現すべき課題として新鮮な意義を持っています。
こうした歴史の流れを踏まえた上で、日本国憲法の前文が表明した憲法原則の普遍的な意義について二つの点を取り上げておきたいと思います。
まず、人権と民主主義の問題ですが、憲法前文は、「日本国民は、」で始まり「日本国民は、」で終わるように、国民主権原理をはっきりと宣言しています。明治憲法下では、主権は天皇にあり、国民は天皇に仕える臣民として人権を厳しく制限されました。その結果、天皇制政府が起こした侵略戦争に駆り出され、国の内外で多くのとうとい人命が失われました。天皇主権から国民主権への主権原理の転換は、こうした歴史の反省の上に立って、国民主権という世界の民主主義の成果を積極的に取り入れたことによって実現したものです。そして、国民主権原理は、基本的人権の保障、恒久平和主義、統治に関する条項を初め、憲法諸条項の実行や解釈に当たっての指針となっています。
この点で、草案段階での「国民の総意が至高なものである」とのあいまいな表現が、憲法制定議会での審議と内外の批判の中で、第一条の修正とあわせ、「主権が国民に存すること」と明記されたことは極めて重要な歴史的出来事でした。
次に、恒久平和主義をめぐる問題です。
前文の第一段は、政府の行為による戦争の惨禍を二度と起こさせないと、国民が政府と国家機関に縛りをかけました。これを受けた第二段は、日本国民は、恒久平和を念願し、人類の崇高な理想を自覚することによって、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」と宣言しています。憲法九条では、この立場が戦争放棄、戦力不保持と交戦権の否認として示されています。
前文は、こうした徹底した平和主義を貫くことによって、「国際社会において、名誉ある地位を占めたい」としています。世界に対する平和の発信は極めて明瞭です。
私は、当調査会でも、イラク戦争反対の世界の世論と運動の広がりや、国連憲章の平和のルールを守るという国際政治での大きな主張、また、憲法九条への国際的な高い評価についてたびたび紹介してまいりました。これらは、日本国憲法の平和主義が二十一世紀の日本と世界の平和の指針たり得ることを今日的に示したものだと考えます。
続いて、前文第二段は、全世界の国民が「平和のうちに生存する権利を有する」としています。これは、平和の確立を国民の権利として、すなわち人権の問題としてとらえたものです。平和的生存権とも呼ばれるように、戦争が人命、自由に対する最大の脅威であり、平和の確立を人々の人権と生存が維持され保障されるための条件としたものです。憲法前文が定めた平和的生存権は、憲法九条に反する現実を変えるために国民の運動のよりどころともなってきたもので、長沼ナイキ訴訟の一審判決では、裁判規範として基本的人権であることが認められています。
平和のうちに生存する権利の規定の源泉が、一九四一年のルーズベルトの四つの自由宣言、それを踏まえた大西洋憲章であることはよく知られていますが、平和と人権の密接不可分性の認識は、国連憲章、世界人権宣言などにも受け継がれ、平和のうちに生存する権利の考え方は、国連総会の決議にも採用されるようになっています。例えば、一九七八年十二月十五日の平和に生きる社会の準備に関する宣言、一九八四年十一月十二日の人民の平和への権利についての宣言などでは、平和に生きる固有の権利を普遍的な性格を持つ権利として認めるようになっています。
このように、日本国憲法の平和的生存権保障は、現代世界の要請である平和による人権保障を憲法典レベルで初めて具体的に実現したものとして、二十一世紀に生きる普遍的な意義を持つものとなっています。
なお、イラクへの自衛隊派兵の理屈づけに、前文第三段の「自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」という言葉が使われたことがあります。しかし、この言葉は、戦前の日本軍国主義などに示された国家主義を排するということを意味しており、今日で言えば、国連憲章も国際法も無視して、単独行動主義に基づきイラク戦争を起こした米国への批判ともなり得るものです。憲法があいまいなのではなく、この規定を全く正反対に引用したのが小泉首相であって、みずからの憲法違反の行為をこの前文から正当化することはできません。
以上、二つの問題に絞って述べてきましたが、憲法前文の持つ普遍的な値打ちは私たちの誇るべき内容というべきものであり、日本がアジアの中で生きていく上でも、また世界との関係においても、二十一世紀の今日、実現すべき法規範としての大きな意義を持つものと考えます。
この発言だけを見る →初めに、日本国憲法前文の特徴について述べたいと思います。
憲法の前文は、おのずから各国ごとの特徴があるものですが、一般には、憲法制定の由来と目的、基本的な理念と憲法制定者の意思などを示すことによって憲法典の意義と精神を内外に表明するものと言われます。
日本国憲法の前文では、憲法制定の歴史的経緯だけでなく、全体にわたって平和への念願と達成の決意、いわば日本の進路が述べられています。そして、これらを通じて、国民主権と民主主義、平和主義と国際協調主義など、日本国憲法のよって立つ基本原則が詳しく明らかにされています。
具体的に見れば、第一段では、憲法制定の趣旨が、諸国民との協和による成果と、自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにするという平和の達成にあること、さらに、国政が国民の厳粛な信託に基づき、国民がその福利を享受するという人類普遍の原理、国民主権と平和主義を憲法の基本原則にすることを明らかにしています。
第二段は、恒久平和への念願を表明して、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、我らの安全と生存を保持しようと決意したこと、さらに、全世界の国民の権利としての平和のうちに生存する権利を確認しています。
続いて第三段は、国際協調主義を旨とすることは各国の責務であると述べ、第四段で、以上に挙げた理想と目的の達成を目指す国民の決意を示しています。
このように憲法前文は、憲法制定者としての国民の意思と憲法の基本原則を明確に表明することで法規範としての性格を持つものとなりました。日本国憲法前文の重要な特徴がここにあります。
次に、憲法前文のもう一つの特徴として、前文が表明した憲法原則の普遍的な意義を取り上げたいと思いますが、今回は、問題を日本と世界の歴史及び現状の中で考えたいと思います。
詳しく述べるまでもなく、日本国憲法は、日本と世界の歴史上、未曾有の惨禍となった二十世紀前半の侵略戦争と専制政治を再び許さないという強い決意に根差して制定されたものです。ここに日本国憲法が示す日本の歴史の一番のかなめがあり、文章表現上も前文で繰り返し力説されているところです。しかも、日本国憲法のこの立場は孤立したものではありません。平和の実現を求める世界的な流れの中で生まれ、今日に至ったものです。その点で、自虐的などという特徴づけはとてもできるものではありません。
日本軍国主義の侵略戦争と植民地支配、ナチスなどの戦争犯罪を含め、人類は二十世紀の二つの世界戦争の惨禍を決してあいまいにしませんでした。この歴史から、戦争を違法化し恒久平和を探求すること、そのためにも、各国における人権と民主主義の充実に不断に努めることを大きな教訓として学び取りました。この教訓は、国連憲章と国際人権諸条約、各国の憲法に組み込まれることになりました。そして、二十一世紀を迎えた今日も、探求し実現すべき課題として新鮮な意義を持っています。
こうした歴史の流れを踏まえた上で、日本国憲法の前文が表明した憲法原則の普遍的な意義について二つの点を取り上げておきたいと思います。
まず、人権と民主主義の問題ですが、憲法前文は、「日本国民は、」で始まり「日本国民は、」で終わるように、国民主権原理をはっきりと宣言しています。明治憲法下では、主権は天皇にあり、国民は天皇に仕える臣民として人権を厳しく制限されました。その結果、天皇制政府が起こした侵略戦争に駆り出され、国の内外で多くのとうとい人命が失われました。天皇主権から国民主権への主権原理の転換は、こうした歴史の反省の上に立って、国民主権という世界の民主主義の成果を積極的に取り入れたことによって実現したものです。そして、国民主権原理は、基本的人権の保障、恒久平和主義、統治に関する条項を初め、憲法諸条項の実行や解釈に当たっての指針となっています。
この点で、草案段階での「国民の総意が至高なものである」とのあいまいな表現が、憲法制定議会での審議と内外の批判の中で、第一条の修正とあわせ、「主権が国民に存すること」と明記されたことは極めて重要な歴史的出来事でした。
次に、恒久平和主義をめぐる問題です。
前文の第一段は、政府の行為による戦争の惨禍を二度と起こさせないと、国民が政府と国家機関に縛りをかけました。これを受けた第二段は、日本国民は、恒久平和を念願し、人類の崇高な理想を自覚することによって、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」と宣言しています。憲法九条では、この立場が戦争放棄、戦力不保持と交戦権の否認として示されています。
前文は、こうした徹底した平和主義を貫くことによって、「国際社会において、名誉ある地位を占めたい」としています。世界に対する平和の発信は極めて明瞭です。
私は、当調査会でも、イラク戦争反対の世界の世論と運動の広がりや、国連憲章の平和のルールを守るという国際政治での大きな主張、また、憲法九条への国際的な高い評価についてたびたび紹介してまいりました。これらは、日本国憲法の平和主義が二十一世紀の日本と世界の平和の指針たり得ることを今日的に示したものだと考えます。
続いて、前文第二段は、全世界の国民が「平和のうちに生存する権利を有する」としています。これは、平和の確立を国民の権利として、すなわち人権の問題としてとらえたものです。平和的生存権とも呼ばれるように、戦争が人命、自由に対する最大の脅威であり、平和の確立を人々の人権と生存が維持され保障されるための条件としたものです。憲法前文が定めた平和的生存権は、憲法九条に反する現実を変えるために国民の運動のよりどころともなってきたもので、長沼ナイキ訴訟の一審判決では、裁判規範として基本的人権であることが認められています。
平和のうちに生存する権利の規定の源泉が、一九四一年のルーズベルトの四つの自由宣言、それを踏まえた大西洋憲章であることはよく知られていますが、平和と人権の密接不可分性の認識は、国連憲章、世界人権宣言などにも受け継がれ、平和のうちに生存する権利の考え方は、国連総会の決議にも採用されるようになっています。例えば、一九七八年十二月十五日の平和に生きる社会の準備に関する宣言、一九八四年十一月十二日の人民の平和への権利についての宣言などでは、平和に生きる固有の権利を普遍的な性格を持つ権利として認めるようになっています。
このように、日本国憲法の平和的生存権保障は、現代世界の要請である平和による人権保障を憲法典レベルで初めて具体的に実現したものとして、二十一世紀に生きる普遍的な意義を持つものとなっています。
なお、イラクへの自衛隊派兵の理屈づけに、前文第三段の「自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」という言葉が使われたことがあります。しかし、この言葉は、戦前の日本軍国主義などに示された国家主義を排するということを意味しており、今日で言えば、国連憲章も国際法も無視して、単独行動主義に基づきイラク戦争を起こした米国への批判ともなり得るものです。憲法があいまいなのではなく、この規定を全く正反対に引用したのが小泉首相であって、みずからの憲法違反の行為をこの前文から正当化することはできません。
以上、二つの問題に絞って述べてきましたが、憲法前文の持つ普遍的な値打ちは私たちの誇るべき内容というべきものであり、日本がアジアの中で生きていく上でも、また世界との関係においても、二十一世紀の今日、実現すべき法規範としての大きな意義を持つものと考えます。
中
土
土井たか子#10
○土井委員 きょうは、午前中は前文について申し述べる機会でございますが、この日本国憲法の前文そのものは憲法の内容をなすものであることは言うまでもございません。しかも、前文の中に記述されております中身をしっかり把握することによって各条文に対しても正確な理解ができるというのが前文の内容であると思うのです。
以下私は、四点ばかり、この前文に関係する問題点を取り上げてここで申し述べてみたいと思います。
よく言われるのに、憲法前文は翻訳調だという声があるんですね。それからまた、したがって、正しい日本語で書き直すべきだという、それに対する提言があるんです。どうも聞いておりますと、なかなかこれは気持ちがこもった発言であるがゆえに、よい表現で言えば感情的だというふうに申し上げてもよいと思います。どうも多くの人たちは、憲法前文を見たときに、国民の間では読みやすい前文の文章は定着していますよ、少なくとも国民の間には定着していますよ、したがって変える必要はありませんとおっしゃる方々の声の方が実は多いんですね。本当に前文は翻訳調であって、日本語で書き直すべきかどうかということになりますと、これは、結論から言えば、私は変える必要はないと思っております。
翻訳調だとおっしゃっているその語調には、少なくとも、押しつけ憲法だ、押しつけられたのではないか、アメリカから一方的に押しつけられたといういきさつがあるというところを力説される向きがあるんですが、この問題については、一言私は、こういう実際問題にどのような理解をすればいいかという意味も込めて申し上げさせていただきたいと思うのです。
それは、余りこれは取りざたを最近されないんですけれども、一九四五年の十二月、戦後間もないときに連合諸国十一カ国で創設されたのが、御存じの方が多いと思いますが、極東委員会なんですね。極東委員会は、創設されてから後、憲法改正については最高の権限を持っていたというのがこの存在でございまして、この極東委員会の第三十回の会議の中で「新しい日本国憲法の再審査のための規定」というのが出されているんです。これは一九四六年の十月十七日、これを決定して出しているわけですが、その十月十七日の決定の中には、憲法について、施行されてから一年ないし二年以内に、必要とあらば国会でもう一度日本国憲法に対して、国民の自由な意思でもって支持されているかどうかということを再検討すべきであるという決定がこの中で出されているのです。
しかし、極東委員会のこの決定にもかかわらず、一九四六年の十月十七日付のこの決定後、憲法が施行されてから一年以上経過して、もう一度検討しようということにはなりませんでした。それは、つづめて言えば、その時期には国会も政府も言論界も、今の憲法で十分である、変える必要はないということが大勢で見送られたということが読み取れるのでございます。そして、極東委員会もこれを了承したという事実があります。
この点は、したがって、見れば、一概に押しつけられたというふうに言えないんじゃないかという実際問題があったわけで、もう一つ申し上げますと、マッカーサー草案と世に言われる草案が出る以前に、日本の民間では、例えば高野岩三郎私案とか憲法研究会の森戸私案とか、いろいろ民間では、ただいまの憲法と大体中身は似たり寄ったり、さらに、部分的に言うと、労働権や社会権については非常に親切な条文が用意されたような草案が発表されております。
したがって、民間の間では必ずしもこれを押しつけられたということは言えないわけで、むしろ、民間の中で用意された私案は非常に進んだものがあったということを考えますと、少なくとも国民の圧倒的多数は、この日本国憲法に対しては歓迎したということが言えるのではないかと思うわけでありまして、押しつけられたというのは、したがって適切な理解というわけにはいかないんじゃないか。むしろ、それでも押しつけられたと言うのは、当時の政府、官僚としては、そういうふうな感想を実態に触れて経験上お持ちの方々があるのかもしれません。
したがって、そういうことからいいますと、結論から言えば、憲法前文は憲法全体の目的や理念を簡潔明瞭に示しておりまして、その憲法の前文に対してこれを変えるという必要はただいま全くないということがまず言えると思うのです。
二つ目には、この憲法に対して一国平和主義であるという批判がよくございます。しかし、これは当たりません。この前文について言うと、国連憲章の理念を進めるものであって、その実現には、国際社会の平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去する努力が欠かせないということを明記いたしております。これはもう当然のことだと思うんですけれども、日本国憲法の目指すものはただ日本一国の平和ということではない、全世界の国民がひとしく恐怖と欠乏から免れて平和のうちに生存するということを目指しているんだ、そのために憲法のこの前文の箇所では、自国のことのみに専念し他国を無視してはならないということをはっきりここに決めているという点がもっともっと具体的に認識される必要があるというふうに思うのです。
三つ目には、昨今、我が国の歴史とか伝統とか文化に根差した国柄を盛り込むべきだというふうな主張が聞こえてまいります。しかし、考えてみますと、伝統や国民性といった中身からいったら、一定のものではなく多様性を持っている内容を、この一様でないものを改憲してまで憲法に書くということが果たして必要であるかどうかという問題と同時に、可能なのかどうかということすらこれは考えなければならない問題だと思うんですね。公共の精神、日本の歴史、伝統、文化の尊重、愛国心、家族、道徳心や倫理観、そういうのを強調するということが同時にこれは並行して進められているようでありますけれども、どうもそれは憲法や法律に書いて国民に強制できるものではない、本来。したがって、前文をそういう意味で書きかえるということは、不必要であると同時に、理にかなっていないというふうに私は思います。
最後に、これは、少なくとも憲法の基調をこの前文ははっきりと述べております。そして、九十六条の、憲法の改正に対して手続を用意している条文とも相呼応して、この憲法は、憲法を変えるということについても、この九十六条は憲法と一体をなすものであるということを前提にして考えているということを忘れちゃならないと思うんですね。それは、この前文の主権在民の原理、基本的人権の不可侵性、そして、不戦の絶対的平和主義、こういうことなどの憲法原則と矛盾したり、それを否定するような改憲というのは憲法の破壊であって、この憲法自身が認めないということをしっかりこの前文のところに疑いもなく明記されております。
そこは、よくお互いの間で討議をするときに、間々、ここのところを置き忘れて論議するという嫌いが昨今あるんです。「われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。」と前文では言っているわけですから、この日本国憲法の決めております憲法の原理自身に矛盾したり、逆行したり否定したりするその行為自体が憲法違反だということをこの日本国憲法の前文自身が明記している。この点は非常に大きな意味を持つというふうに私は思います。極めて重要な憲法原則が述べられているというふうに思っております。
ありがとうございました。
この発言だけを見る →以下私は、四点ばかり、この前文に関係する問題点を取り上げてここで申し述べてみたいと思います。
よく言われるのに、憲法前文は翻訳調だという声があるんですね。それからまた、したがって、正しい日本語で書き直すべきだという、それに対する提言があるんです。どうも聞いておりますと、なかなかこれは気持ちがこもった発言であるがゆえに、よい表現で言えば感情的だというふうに申し上げてもよいと思います。どうも多くの人たちは、憲法前文を見たときに、国民の間では読みやすい前文の文章は定着していますよ、少なくとも国民の間には定着していますよ、したがって変える必要はありませんとおっしゃる方々の声の方が実は多いんですね。本当に前文は翻訳調であって、日本語で書き直すべきかどうかということになりますと、これは、結論から言えば、私は変える必要はないと思っております。
翻訳調だとおっしゃっているその語調には、少なくとも、押しつけ憲法だ、押しつけられたのではないか、アメリカから一方的に押しつけられたといういきさつがあるというところを力説される向きがあるんですが、この問題については、一言私は、こういう実際問題にどのような理解をすればいいかという意味も込めて申し上げさせていただきたいと思うのです。
それは、余りこれは取りざたを最近されないんですけれども、一九四五年の十二月、戦後間もないときに連合諸国十一カ国で創設されたのが、御存じの方が多いと思いますが、極東委員会なんですね。極東委員会は、創設されてから後、憲法改正については最高の権限を持っていたというのがこの存在でございまして、この極東委員会の第三十回の会議の中で「新しい日本国憲法の再審査のための規定」というのが出されているんです。これは一九四六年の十月十七日、これを決定して出しているわけですが、その十月十七日の決定の中には、憲法について、施行されてから一年ないし二年以内に、必要とあらば国会でもう一度日本国憲法に対して、国民の自由な意思でもって支持されているかどうかということを再検討すべきであるという決定がこの中で出されているのです。
しかし、極東委員会のこの決定にもかかわらず、一九四六年の十月十七日付のこの決定後、憲法が施行されてから一年以上経過して、もう一度検討しようということにはなりませんでした。それは、つづめて言えば、その時期には国会も政府も言論界も、今の憲法で十分である、変える必要はないということが大勢で見送られたということが読み取れるのでございます。そして、極東委員会もこれを了承したという事実があります。
この点は、したがって、見れば、一概に押しつけられたというふうに言えないんじゃないかという実際問題があったわけで、もう一つ申し上げますと、マッカーサー草案と世に言われる草案が出る以前に、日本の民間では、例えば高野岩三郎私案とか憲法研究会の森戸私案とか、いろいろ民間では、ただいまの憲法と大体中身は似たり寄ったり、さらに、部分的に言うと、労働権や社会権については非常に親切な条文が用意されたような草案が発表されております。
したがって、民間の間では必ずしもこれを押しつけられたということは言えないわけで、むしろ、民間の中で用意された私案は非常に進んだものがあったということを考えますと、少なくとも国民の圧倒的多数は、この日本国憲法に対しては歓迎したということが言えるのではないかと思うわけでありまして、押しつけられたというのは、したがって適切な理解というわけにはいかないんじゃないか。むしろ、それでも押しつけられたと言うのは、当時の政府、官僚としては、そういうふうな感想を実態に触れて経験上お持ちの方々があるのかもしれません。
したがって、そういうことからいいますと、結論から言えば、憲法前文は憲法全体の目的や理念を簡潔明瞭に示しておりまして、その憲法の前文に対してこれを変えるという必要はただいま全くないということがまず言えると思うのです。
二つ目には、この憲法に対して一国平和主義であるという批判がよくございます。しかし、これは当たりません。この前文について言うと、国連憲章の理念を進めるものであって、その実現には、国際社会の平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去する努力が欠かせないということを明記いたしております。これはもう当然のことだと思うんですけれども、日本国憲法の目指すものはただ日本一国の平和ということではない、全世界の国民がひとしく恐怖と欠乏から免れて平和のうちに生存するということを目指しているんだ、そのために憲法のこの前文の箇所では、自国のことのみに専念し他国を無視してはならないということをはっきりここに決めているという点がもっともっと具体的に認識される必要があるというふうに思うのです。
三つ目には、昨今、我が国の歴史とか伝統とか文化に根差した国柄を盛り込むべきだというふうな主張が聞こえてまいります。しかし、考えてみますと、伝統や国民性といった中身からいったら、一定のものではなく多様性を持っている内容を、この一様でないものを改憲してまで憲法に書くということが果たして必要であるかどうかという問題と同時に、可能なのかどうかということすらこれは考えなければならない問題だと思うんですね。公共の精神、日本の歴史、伝統、文化の尊重、愛国心、家族、道徳心や倫理観、そういうのを強調するということが同時にこれは並行して進められているようでありますけれども、どうもそれは憲法や法律に書いて国民に強制できるものではない、本来。したがって、前文をそういう意味で書きかえるということは、不必要であると同時に、理にかなっていないというふうに私は思います。
最後に、これは、少なくとも憲法の基調をこの前文ははっきりと述べております。そして、九十六条の、憲法の改正に対して手続を用意している条文とも相呼応して、この憲法は、憲法を変えるということについても、この九十六条は憲法と一体をなすものであるということを前提にして考えているということを忘れちゃならないと思うんですね。それは、この前文の主権在民の原理、基本的人権の不可侵性、そして、不戦の絶対的平和主義、こういうことなどの憲法原則と矛盾したり、それを否定するような改憲というのは憲法の破壊であって、この憲法自身が認めないということをしっかりこの前文のところに疑いもなく明記されております。
そこは、よくお互いの間で討議をするときに、間々、ここのところを置き忘れて論議するという嫌いが昨今あるんです。「われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。」と前文では言っているわけですから、この日本国憲法の決めております憲法の原理自身に矛盾したり、逆行したり否定したりするその行為自体が憲法違反だということをこの日本国憲法の前文自身が明記している。この点は非常に大きな意味を持つというふうに私は思います。極めて重要な憲法原則が述べられているというふうに思っております。
ありがとうございました。
中
中
中山太郎#12
○中山会長 次に、委員各位からの発言に入ります。
一回の御発言は、五分以内におまとめいただくこととし、会長の指名に基づいて、所属会派及び氏名をあらかじめお述べいただいてからお願いいたします。
御発言を希望される方は、お手元のネームプレートをお立てください。御発言が終わりましたら、戻していただくようお願いいたします。
それでは、ただいまから御発言をお願いしたいと存じます。御発言を希望される方は、お手元のネームプレートをお立てください。
この発言だけを見る →一回の御発言は、五分以内におまとめいただくこととし、会長の指名に基づいて、所属会派及び氏名をあらかじめお述べいただいてからお願いいたします。
御発言を希望される方は、お手元のネームプレートをお立てください。御発言が終わりましたら、戻していただくようお願いいたします。
それでは、ただいまから御発言をお願いしたいと存じます。御発言を希望される方は、お手元のネームプレートをお立てください。
早
早川忠孝#13
○早川委員 自由民主党の早川忠孝でございます。
まず、憲法は一体だれのものかというあたりから話をしたいと思います。
昭和二十一年当時、恐らく七千万台の国民が憲法の策定作業に全員参加したかというと、必ずしもそうではない。当時、公職追放に遭い、しかも、言論の自由というのが完全には認められていなかった状況の中での現在の憲法の制定がなされている、こういったことを考えますと、当然、戦後六十年を経た現時点においては、憲法について、その問題点あるいはそのあるべき姿を検討するのは極めて当然であると思います。この前文というのは、今回、憲法改正の議論がこれから進行する中で、結果的にはどういう改正を必要とするか、それによって結果的にはその前文の中身が決まってくると思います。
憲法改正を私はしなければならないと思っております。そのためには、まず第一に重要なことは、国民全体の憲法改正の改革の情熱がどの程度高まっているか、あるいは憲法の起草者の改革への情熱がいかに高いか、これが問われるわけであります。これまでは、いわば与えられた憲法あるいは押しつけられた憲法、私の表現でいえば借り物の憲法の存在でありましたけれども、これからは、現在の国民が将来の日本の国民のためにも新しく自分の手でつくる憲法である、憲法づくりに参加をするという観点から考えなければならないと思います。そういう意味からしますと、現在の憲法には国民自身の参加の意識というのが極めて欠落をしているのではないかと思います。
現在、憲法改正が必要とされる事情であります。これは、私は、家庭崩壊、地域崩壊あるいは国家崩壊の危機に瀕しているという認識を持たなければならないのではないかと考えております。そういう点から、現在の憲法の見直しを必要とする条項が、例えば九条であり八十九条であり、あるいは場合によっては二十条三項等になるかもわかりません。場合によっては国会の一院制、二院制の議論になるかもしれませんし、地方分権の問題になるかもしれません。新しい環境権を入れるとかいった基本的人権条項の追加あるいは改定、あるいは、基本的人権といわゆる公共の利益とのこの相克関係をどのように調整するか、その原理の導入であるかもわかりません。こういったことをすべて解決していくための新しい憲法を私たちはつくっていかなければならないと思っております。
そういう点からしますと、持続可能な地球あるいは持続可能な日本の国家制度、こういったものを十分認識しなければならないと思っております。地球環境の破壊というものが大きく世界的に問われている時代を迎えております。そういった意味で、何としても環境あるいは国際社会との共生を目指さなければならない、宗教対立やイデオロギーの対立を克服する、そういった新しい社会の中での名誉ある地位を占めるということが目標でなければならないと思います。高い倫理性に基づいた道義国家の構築というのが求められているのではないかと思います。日本の歴史、伝統、文化、これを当然反映するものでなければ、これは日本国の憲法とは到底言えないと思います。
こういった配慮のもとで、新しく国民が復唱できるような、暗唱できるような、そういう憲法の前文をつくっていかなければならないと思います。
以上であります。
この発言だけを見る →まず、憲法は一体だれのものかというあたりから話をしたいと思います。
昭和二十一年当時、恐らく七千万台の国民が憲法の策定作業に全員参加したかというと、必ずしもそうではない。当時、公職追放に遭い、しかも、言論の自由というのが完全には認められていなかった状況の中での現在の憲法の制定がなされている、こういったことを考えますと、当然、戦後六十年を経た現時点においては、憲法について、その問題点あるいはそのあるべき姿を検討するのは極めて当然であると思います。この前文というのは、今回、憲法改正の議論がこれから進行する中で、結果的にはどういう改正を必要とするか、それによって結果的にはその前文の中身が決まってくると思います。
憲法改正を私はしなければならないと思っております。そのためには、まず第一に重要なことは、国民全体の憲法改正の改革の情熱がどの程度高まっているか、あるいは憲法の起草者の改革への情熱がいかに高いか、これが問われるわけであります。これまでは、いわば与えられた憲法あるいは押しつけられた憲法、私の表現でいえば借り物の憲法の存在でありましたけれども、これからは、現在の国民が将来の日本の国民のためにも新しく自分の手でつくる憲法である、憲法づくりに参加をするという観点から考えなければならないと思います。そういう意味からしますと、現在の憲法には国民自身の参加の意識というのが極めて欠落をしているのではないかと思います。
現在、憲法改正が必要とされる事情であります。これは、私は、家庭崩壊、地域崩壊あるいは国家崩壊の危機に瀕しているという認識を持たなければならないのではないかと考えております。そういう点から、現在の憲法の見直しを必要とする条項が、例えば九条であり八十九条であり、あるいは場合によっては二十条三項等になるかもわかりません。場合によっては国会の一院制、二院制の議論になるかもしれませんし、地方分権の問題になるかもしれません。新しい環境権を入れるとかいった基本的人権条項の追加あるいは改定、あるいは、基本的人権といわゆる公共の利益とのこの相克関係をどのように調整するか、その原理の導入であるかもわかりません。こういったことをすべて解決していくための新しい憲法を私たちはつくっていかなければならないと思っております。
そういう点からしますと、持続可能な地球あるいは持続可能な日本の国家制度、こういったものを十分認識しなければならないと思っております。地球環境の破壊というものが大きく世界的に問われている時代を迎えております。そういった意味で、何としても環境あるいは国際社会との共生を目指さなければならない、宗教対立やイデオロギーの対立を克服する、そういった新しい社会の中での名誉ある地位を占めるということが目標でなければならないと思います。高い倫理性に基づいた道義国家の構築というのが求められているのではないかと思います。日本の歴史、伝統、文化、これを当然反映するものでなければ、これは日本国の憲法とは到底言えないと思います。
こういった配慮のもとで、新しく国民が復唱できるような、暗唱できるような、そういう憲法の前文をつくっていかなければならないと思います。
以上であります。
石
石田祝稔#14
○石田(祝)委員 公明党の石田祝稔です。
発言の機会を与えていただきまして、感謝を申し上げます。
私は、この場は初めての発言をさせていただくわけでありますけれども、今までそれぞれ各党の代表の方が御発言をされているのをお聞きいたしまして、何だか、きょうからこういう議論が始まったんじゃないかというふうな率直な印象を持ちました。それはなぜかというと、五年間でそろそろ結論を出さなきゃいけないというときに、やはりまだ、全然それぞれの立場の随分前からの御意見が余り変わっていないような感じが正直いたしました。これはそれぞれのお考えですから何とも言えませんけれども、率直にそういう印象を持ちました。
私は、この憲法の前文につきましては、ある意味でいえば、憲法の憲法、いわゆるどういう憲法をつくっていくのかというその大前提となる考え方が当然示されなければならないところだというふうに思っております。ですから、今、憲法改正、また、新しくつけ加えていくべきだ、いろいろな御意見もあるわけでありますけれども、そうなると、当然この憲法の前文についてもこれを私は書きかえていかなきゃならないんじゃないか、こういうふうに思っております。
それは、中身の問題もそうでありますけれども、今までのいろいろな御意見の中で、やはり、翻訳されたというその制約、そういうものももちろんございますし、それと、先ほど申し上げたような、改正をするのであれば、その憲法の憲法たる前文についてもこれは当然書き改めていかなければ整合性がとれない、こういうふうに私は個人的には思っております。
特にそれは、この前文の中で「これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。」こういう書き方をされておりますので、憲法の中で、この前文に反するものについて認めない、こういう書き方になっておりますので、当然、憲法を変える、また、つけ加える、そういうものとこの前文の文章の改定というものは一体のものだ、こういうふうに私は思っております。
六十年間、現憲法で来たわけでありますけれども、これはいろいろな御意見があることは当然であります。しかし、六十年間これで来たということは、これは間違いございませんが、さらに、六十年たってなお、将来に向かってそのことが今のままでいいということにはつながらない、こういうふうに私は思っております。
ですから、具体的には環境権だとかプライバシー権だとか、条項そのものでつけ加えるべきだ、こういうところもあろうと思いますけれども、それとともに、憲法の憲法たる前文についても、先ほど申し上げたような幾つかの理由で、私はこれは書きかえていくのがいいのではないか、こういうふうな思いがいたしております。
特に、一条から百三条までの条項間の関係と比べて、前文と憲法の百三の条項についての関係性は余り強くないというふうな御意見もあろうかと思いますけれども、私は、決してそうではなくて、やはり大前提となる考えがここに述べられている、こういうふうに思いますので、今まで開陳したような思いを今持っていることを最後に申し述べまして、意見とさせていただきたいと思います。
ありがとうございました。
この発言だけを見る →発言の機会を与えていただきまして、感謝を申し上げます。
私は、この場は初めての発言をさせていただくわけでありますけれども、今までそれぞれ各党の代表の方が御発言をされているのをお聞きいたしまして、何だか、きょうからこういう議論が始まったんじゃないかというふうな率直な印象を持ちました。それはなぜかというと、五年間でそろそろ結論を出さなきゃいけないというときに、やはりまだ、全然それぞれの立場の随分前からの御意見が余り変わっていないような感じが正直いたしました。これはそれぞれのお考えですから何とも言えませんけれども、率直にそういう印象を持ちました。
私は、この憲法の前文につきましては、ある意味でいえば、憲法の憲法、いわゆるどういう憲法をつくっていくのかというその大前提となる考え方が当然示されなければならないところだというふうに思っております。ですから、今、憲法改正、また、新しくつけ加えていくべきだ、いろいろな御意見もあるわけでありますけれども、そうなると、当然この憲法の前文についてもこれを私は書きかえていかなきゃならないんじゃないか、こういうふうに思っております。
それは、中身の問題もそうでありますけれども、今までのいろいろな御意見の中で、やはり、翻訳されたというその制約、そういうものももちろんございますし、それと、先ほど申し上げたような、改正をするのであれば、その憲法の憲法たる前文についてもこれは当然書き改めていかなければ整合性がとれない、こういうふうに私は個人的には思っております。
特にそれは、この前文の中で「これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。」こういう書き方をされておりますので、憲法の中で、この前文に反するものについて認めない、こういう書き方になっておりますので、当然、憲法を変える、また、つけ加える、そういうものとこの前文の文章の改定というものは一体のものだ、こういうふうに私は思っております。
六十年間、現憲法で来たわけでありますけれども、これはいろいろな御意見があることは当然であります。しかし、六十年間これで来たということは、これは間違いございませんが、さらに、六十年たってなお、将来に向かってそのことが今のままでいいということにはつながらない、こういうふうに私は思っております。
ですから、具体的には環境権だとかプライバシー権だとか、条項そのものでつけ加えるべきだ、こういうところもあろうと思いますけれども、それとともに、憲法の憲法たる前文についても、先ほど申し上げたような幾つかの理由で、私はこれは書きかえていくのがいいのではないか、こういうふうな思いがいたしております。
特に、一条から百三条までの条項間の関係と比べて、前文と憲法の百三の条項についての関係性は余り強くないというふうな御意見もあろうかと思いますけれども、私は、決してそうではなくて、やはり大前提となる考えがここに述べられている、こういうふうに思いますので、今まで開陳したような思いを今持っていることを最後に申し述べまして、意見とさせていただきたいと思います。
ありがとうございました。
丸
丸谷佳織#15
○丸谷委員 公明党の丸谷佳織でございます。
本委員会で意見を述べさせていただく機会をいただき、ありがとうございます。今まで議論を重ねてこられた上でまとめられた論点を踏まえまして、本日は、特に前文の内容について発言をさせていただきたいと思います。
基本的には現憲法の崇高な前文の精神を継承しながら、幾つかの点において時代に対応した前文に改めるべきと考えております。
さて、その内容でございますけれども、この国の、あるいは国民のあるべき姿、理想像を前文に示すことは当然ですが、そのあるべき姿がどのようなものなのか、これを考えるとき、今このような形で議論をしている私たち政治家を初めとしまして、国民のそれぞれが持つ家族観であったり、世界観、歴史観等のいわゆる価値観をどこまで、どのような形で反映させるべきであるのか、このことについて深く掘り下げて考えてみる必要があると思います。
愛国心ですとかあるいは家族の重要性を明示するべきだといったような議論もございますけれども、時代とともにますます多様化する価値観というものを比較検討し、ある一つの言葉あるいはある一つの表現としてまとめ、それを前文に示すということは、より多くの人の共感を得て国民一人一人にひとしく訴える力を持つべき憲法の性格から考えますと、少々無理があるように考えます。
国民的価値観を一切前文に示すべきではないという意見ではございません。歴史の経験から得た日本人の究極的な価値観である、あるいはコンセンサスと言ってもよいと思いますが、平和への願いと、そして国民主権の内容、これはそのままに、憲法の原則の一つであります人権の尊重についても新たに明記するべきと考えております。中でも、平和を願う日本は何をもって平和を希求しているのか、このことについて示すことも必要なのではないかと考えます。
一つ例を例えて言わせていただければ、国連憲章の前文には「われら連合国の人民は、われらの一生のうちに二度まで言語に絶する悲哀を人類に与えた戦争の惨害から将来の世代を救い、」という文章から始まりますが、国連憲章の成立の経緯、そして、国際社会の歴史的経験をはかり知ることができる内容であると考えております。
では、我が国はなぜ平和を希求する国民なのかという問いに戻れば、それは、過去に二度の大きな戦争を経験し、また、戦争による唯一の被爆国として戦争の悲惨さ、核の恐ろしさを身をもって知っているからであり、その痛ましい経験から平和を希求しているからにほかなりません。これらの経験に基づいた平和の願いであること、また、平和を願う国民であることを前文に明確に示すことが日本という国のあり方の一つの象徴になると考えております。
また、これらの経験から、日本外交では核軍縮の推進に説得力を持ってきたと承知しておりますし、前文には核兵器廃絶の日本の見解も示されるべきと考えております。その上で、国際社会における貧困あるいは紛争等の諸問題を他人事とせず、責任ある一国として、国際社会の平和とそして安定に寄与する意思を明示し、人間の安全保障を基礎にした平和構築の積極的関与を示すことも大事であると考えております。
なお、文章あるいは表現のあり方については、より平易なものに改め、より多くの人、特に、小学生にでもわかるような内容に改めるべきというふうに考えております。
以上でございます。
この発言だけを見る →本委員会で意見を述べさせていただく機会をいただき、ありがとうございます。今まで議論を重ねてこられた上でまとめられた論点を踏まえまして、本日は、特に前文の内容について発言をさせていただきたいと思います。
基本的には現憲法の崇高な前文の精神を継承しながら、幾つかの点において時代に対応した前文に改めるべきと考えております。
さて、その内容でございますけれども、この国の、あるいは国民のあるべき姿、理想像を前文に示すことは当然ですが、そのあるべき姿がどのようなものなのか、これを考えるとき、今このような形で議論をしている私たち政治家を初めとしまして、国民のそれぞれが持つ家族観であったり、世界観、歴史観等のいわゆる価値観をどこまで、どのような形で反映させるべきであるのか、このことについて深く掘り下げて考えてみる必要があると思います。
愛国心ですとかあるいは家族の重要性を明示するべきだといったような議論もございますけれども、時代とともにますます多様化する価値観というものを比較検討し、ある一つの言葉あるいはある一つの表現としてまとめ、それを前文に示すということは、より多くの人の共感を得て国民一人一人にひとしく訴える力を持つべき憲法の性格から考えますと、少々無理があるように考えます。
国民的価値観を一切前文に示すべきではないという意見ではございません。歴史の経験から得た日本人の究極的な価値観である、あるいはコンセンサスと言ってもよいと思いますが、平和への願いと、そして国民主権の内容、これはそのままに、憲法の原則の一つであります人権の尊重についても新たに明記するべきと考えております。中でも、平和を願う日本は何をもって平和を希求しているのか、このことについて示すことも必要なのではないかと考えます。
一つ例を例えて言わせていただければ、国連憲章の前文には「われら連合国の人民は、われらの一生のうちに二度まで言語に絶する悲哀を人類に与えた戦争の惨害から将来の世代を救い、」という文章から始まりますが、国連憲章の成立の経緯、そして、国際社会の歴史的経験をはかり知ることができる内容であると考えております。
では、我が国はなぜ平和を希求する国民なのかという問いに戻れば、それは、過去に二度の大きな戦争を経験し、また、戦争による唯一の被爆国として戦争の悲惨さ、核の恐ろしさを身をもって知っているからであり、その痛ましい経験から平和を希求しているからにほかなりません。これらの経験に基づいた平和の願いであること、また、平和を願う国民であることを前文に明確に示すことが日本という国のあり方の一つの象徴になると考えております。
また、これらの経験から、日本外交では核軍縮の推進に説得力を持ってきたと承知しておりますし、前文には核兵器廃絶の日本の見解も示されるべきと考えております。その上で、国際社会における貧困あるいは紛争等の諸問題を他人事とせず、責任ある一国として、国際社会の平和とそして安定に寄与する意思を明示し、人間の安全保障を基礎にした平和構築の積極的関与を示すことも大事であると考えております。
なお、文章あるいは表現のあり方については、より平易なものに改め、より多くの人、特に、小学生にでもわかるような内容に改めるべきというふうに考えております。
以上でございます。
中
中根康浩#16
○中根委員 民主党の中根康浩です。
若干お聞き苦しくて申しわけありませんけれども、ただいま丸谷委員からもその前半の方で、人権についても明記をすべきだというような御発言もありましたけれども、第十三条で「すべて国民は、個人として尊重される。」ということになっておりますけれども、しかし、そういう規定がありながら、依然として一人一人大切にされていない実態も存在をしているということで、人権侵害が依然として続いている。そういった谷間の部分をこの前文などを活用して埋めていくことも必要かというふうに考えています。競争社会から共生社会へ、あるいは、一人一人違ってみんないいんだというような、多様性をお互いに尊重できる日本であってほしいと願っています。
自分で責任を負わなくてもいい理由によって例えば障害を有することになった人たち、あるいは、子供や高齢者や男女を問わずすべての差別が禁止をされる、そして、虐待はどんな理由があっても、教育であろうとしつけであろうと、あるいは訓練であろうと、どんな名目がついても許されるものではないというふうに、憲法がそれを守っていただければありがたいというふうに思っています。例えば、視力、聴力、知力が弱くても、手足が十分に動かなくても、この日本に住む限り、譲り合い、補い合い、助け合う、そしてお互いにもっと豊かで安心して暮らすことができる、そういう国になってほしいと願っています。
例えば障害は、個人の側ではなくて、社会の無理解あるいは差別や偏見からもたらされるのであって、この憲法で規定されているように、みんな憲法の前で平等であるということをこの前文においても高らかに宣言して、出し抜きとかあるいはだまし合い、そういう人間関係から、もっと成熟した日本社会をうたい上げていってほしいと思っています。差別というものは、一定の価値観を押しつけて人間を序列化する、あるいは人間を産業や経済への貢献度によって推しはかる、差別の行き着くところは対象者の絶滅であるというところも歴史が証明しているところであります。
人々に競争を強いて落後者を侮べつする社会は未熟であります。一度や二度失敗してもやり直しのきく社会を私ども民主党はつくっていきたいというふうに思っています。それが具現化したものとして、統合教育の実現、あるいは差別禁止法、さまざまな虐待の防止法、障害者を取り巻く司法のあり方、障害者の逸失利益というものに対する考え方、さらには無年金障害者対策や難病対策、こういったものに結びついていってほしいというふうに思っています。
多少情緒的になりましたけれども、発言とさせていただきます。ありがとうございました。
この発言だけを見る →若干お聞き苦しくて申しわけありませんけれども、ただいま丸谷委員からもその前半の方で、人権についても明記をすべきだというような御発言もありましたけれども、第十三条で「すべて国民は、個人として尊重される。」ということになっておりますけれども、しかし、そういう規定がありながら、依然として一人一人大切にされていない実態も存在をしているということで、人権侵害が依然として続いている。そういった谷間の部分をこの前文などを活用して埋めていくことも必要かというふうに考えています。競争社会から共生社会へ、あるいは、一人一人違ってみんないいんだというような、多様性をお互いに尊重できる日本であってほしいと願っています。
自分で責任を負わなくてもいい理由によって例えば障害を有することになった人たち、あるいは、子供や高齢者や男女を問わずすべての差別が禁止をされる、そして、虐待はどんな理由があっても、教育であろうとしつけであろうと、あるいは訓練であろうと、どんな名目がついても許されるものではないというふうに、憲法がそれを守っていただければありがたいというふうに思っています。例えば、視力、聴力、知力が弱くても、手足が十分に動かなくても、この日本に住む限り、譲り合い、補い合い、助け合う、そしてお互いにもっと豊かで安心して暮らすことができる、そういう国になってほしいと願っています。
例えば障害は、個人の側ではなくて、社会の無理解あるいは差別や偏見からもたらされるのであって、この憲法で規定されているように、みんな憲法の前で平等であるということをこの前文においても高らかに宣言して、出し抜きとかあるいはだまし合い、そういう人間関係から、もっと成熟した日本社会をうたい上げていってほしいと思っています。差別というものは、一定の価値観を押しつけて人間を序列化する、あるいは人間を産業や経済への貢献度によって推しはかる、差別の行き着くところは対象者の絶滅であるというところも歴史が証明しているところであります。
人々に競争を強いて落後者を侮べつする社会は未熟であります。一度や二度失敗してもやり直しのきく社会を私ども民主党はつくっていきたいというふうに思っています。それが具現化したものとして、統合教育の実現、あるいは差別禁止法、さまざまな虐待の防止法、障害者を取り巻く司法のあり方、障害者の逸失利益というものに対する考え方、さらには無年金障害者対策や難病対策、こういったものに結びついていってほしいというふうに思っています。
多少情緒的になりましたけれども、発言とさせていただきます。ありがとうございました。
船
船田元#17
○船田委員 船田元でございます。
憲法の前文は、憲法の顔であり表紙であると同時に、各条文、憲法全体の内容を代表するものというふうに考えております。したがって、これまでの我々憲法調査会での各分野ごとの議論の集大成ということでもあり、これは後ほど決められていくものだなというふうには思っております。
しかしながら、現時点において、私は、これから申し上げる四つの点については、ぜひ前文に入れるべきであると考えております。
一つが、生命とか人間の尊厳、価値というものをやはりうたうべきであるということであります。
我々は、人間という存在をすべてにまさる最高の価値と考えるべきであって、特に、我が国は自然資源が乏しい国ですから、人材あるいは知的財産、こういうものを大切にし、また、そういう人材を育成する教育を大切にすべきであるということ、また一方で、生命の尊厳を脅かすおそれのある科学技術の企てには、断固としてこれは拒否をしていかなければいけないという意思表示もすべきだと思います。
第二が、権利と義務の関係についての規定であると思います。
現行憲法が保障する基本的人権の諸規定は、もちろん、当然ながら堅持すべきですけれども、同時に、権利には必ず義務が伴う、自由には必ず責任が伴うということを我々は自覚しなければいけないこと、また、公共の福祉、公共の利益と言いかえてもいいかと思いますが、それを守るためには、我々が持っている権利や自由の一部が調整されることもあるということを自覚することを書くべきであります。
三番目は、積極的平和主義であります。
世界、我が国の平和、いずれも、ただ黙っていれば、祈っていれば実現されるというものではないことは自明であります。我々は、世界の貧困や紛争をなくすために、国際社会の中で積極的にその役割を分担すべきであるということです。このような積極的平和主義を実践することによってのみ、我々は国際社会の中で名誉ある地位を占めることができるのだということも書き加えるべきであると思います。
最後に、共生の理念や環境ということにも触れるべきではないかと思います。
我々は、古来から豊かで美しい自然とともに生き、みずからの家庭や地域社会を温かな人間のきずなによって維持してきたわけであります。我々はこのような共生の心を将来にわたって堅持すべきであること、また、広く地球環境を保全することや、我が国固有の歴史、伝統、文化を継承するということを将来世代に対する我々の責務と考える、このような規定を盛り込んでいくべきであると考えております。
以上でございます。
この発言だけを見る →憲法の前文は、憲法の顔であり表紙であると同時に、各条文、憲法全体の内容を代表するものというふうに考えております。したがって、これまでの我々憲法調査会での各分野ごとの議論の集大成ということでもあり、これは後ほど決められていくものだなというふうには思っております。
しかしながら、現時点において、私は、これから申し上げる四つの点については、ぜひ前文に入れるべきであると考えております。
一つが、生命とか人間の尊厳、価値というものをやはりうたうべきであるということであります。
我々は、人間という存在をすべてにまさる最高の価値と考えるべきであって、特に、我が国は自然資源が乏しい国ですから、人材あるいは知的財産、こういうものを大切にし、また、そういう人材を育成する教育を大切にすべきであるということ、また一方で、生命の尊厳を脅かすおそれのある科学技術の企てには、断固としてこれは拒否をしていかなければいけないという意思表示もすべきだと思います。
第二が、権利と義務の関係についての規定であると思います。
現行憲法が保障する基本的人権の諸規定は、もちろん、当然ながら堅持すべきですけれども、同時に、権利には必ず義務が伴う、自由には必ず責任が伴うということを我々は自覚しなければいけないこと、また、公共の福祉、公共の利益と言いかえてもいいかと思いますが、それを守るためには、我々が持っている権利や自由の一部が調整されることもあるということを自覚することを書くべきであります。
三番目は、積極的平和主義であります。
世界、我が国の平和、いずれも、ただ黙っていれば、祈っていれば実現されるというものではないことは自明であります。我々は、世界の貧困や紛争をなくすために、国際社会の中で積極的にその役割を分担すべきであるということです。このような積極的平和主義を実践することによってのみ、我々は国際社会の中で名誉ある地位を占めることができるのだということも書き加えるべきであると思います。
最後に、共生の理念や環境ということにも触れるべきではないかと思います。
我々は、古来から豊かで美しい自然とともに生き、みずからの家庭や地域社会を温かな人間のきずなによって維持してきたわけであります。我々はこのような共生の心を将来にわたって堅持すべきであること、また、広く地球環境を保全することや、我が国固有の歴史、伝統、文化を継承するということを将来世代に対する我々の責務と考える、このような規定を盛り込んでいくべきであると考えております。
以上でございます。
高
高木美智代#18
○高木(美)委員 公明党の高木美智代でございます。
初めに、こうした委員会の場で発言の機会を与えていただきましたことに感謝申し上げます。
私は、先ほどの皆様の御発言を伺いながら、この前文につきまして書きかえるというお話でございますけれども、私の立場としましては、むしろこのままでよいのではないかという立場で考えております。
これは、平和憲法という通称が示しておりますように、第九条に盛り込まれた平和主義、そしてまた前文に掲げた国際協調主義、この理念は、あくまでもやはりこの日本国憲法におきまして根幹的な意味合いを持つものと認識をしております。特に、この前文につきましては、憲法に書かれた理念、また基本的な考え方を明らかにしたもの、このようにとらえる考え方に私も賛成でございます。
憲法制定当時の時代状況でございますけれども、国連憲章に「われらの一生のうちに二度まで言語に絶する悲哀を人類に与えた戦争の惨害から将来の世代を救い、」とありますように、やはり、世界が二度にわたって戦渦に巻き込まれ、二千万人を超える犠牲者を出したという悲惨な経験をしております。そうした中で、今こそ世界諸国が協力をしながら平和維持の体制を構築していこう、そのために国連をつくり、国連を中心としながら法による平和を目指そうという、こうした時代状況を大きく反映していると認識しております。
ちょうどこのころ、憲政の神様、尾崎咢堂先生が、骨の髄まで平和主義に徹するよりほかに日本の生きる道はない、このように述べていらっしゃるとおりでございます。
こうした世界の潮流の中にありまして、日本が戦争放棄を宣言して、そして、こうした世界平和に貢献することによりまして平和を構築していこう、達成していこうと高らかにその理念を宣言されたものと思います。
ところが、日本のこうした戦争体験また悲惨さ、これがどのように受け継がれているかと考えますと、よく、日本にはこうした正しい歴史教育がない、このように指摘されておりますとおり、戦争は愚であるというこうした認識、また、この前文に盛り込まれた熱き思い、これを私はこのまま残す形で、その当時、二度とこういうことを繰り返してはいけない、日本国民の新たな出発点として受けとめていくことができるのではないか、このように考えております。
第二段のところに、「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。」この「名誉ある地位」、これはすばらしい文言であると私は思っております。平和を希求する世界において、日本こそ、この痛みをだれよりも味わったからこそリードする立場になろうではないか、そこにまた日本国民の誇りを打ち立てていこうではないか、こうした方向性であると思います。
あの四年前の二〇〇一年、九・一一テロの脅威に直面をしまして、改めて、グローバル化の背後に貧困や格差が進行している、それを解決せずして真の平和はないということを認識いたしました。今、こうした平和軍縮問題に限らず、環境破壊、貧困の問題など、それぞれの根深さを考えますと、こうした総合的に絡み合った課題に立ち向かい、行動してかち取っていく、こうした積極的な平和主義、これこそ大事であると思っております。
そこで、先般、京都議定書発効の記念式典に参加をいたしました。日本が呼びかけ、百四十一カ国が参加をし、そして今、新たにこの二月十六日に発効したという京都議定書の条約でございますけれども、こういう形でむしろやっと日本が環境破壊等につきましても世界にまさにリードして貢献をするそうした時代が来た、戦後六十年、この前文にうたわれています内容を実現できる力、またその環境、それが整ってきた、こういうふうに思えると私は思います。この後、さらにこの国際的な市民の連帯を国連を中心にしながらどのようにつくっていけるか、これを考えてまいりたいと思います。
その上で、本文の中に新しい人権、環境権であるとかプライバシー権であるとか、これを具体的に盛り込むことがふさわしいのではないかと考えております。
以上でございます。
この発言だけを見る →初めに、こうした委員会の場で発言の機会を与えていただきましたことに感謝申し上げます。
私は、先ほどの皆様の御発言を伺いながら、この前文につきまして書きかえるというお話でございますけれども、私の立場としましては、むしろこのままでよいのではないかという立場で考えております。
これは、平和憲法という通称が示しておりますように、第九条に盛り込まれた平和主義、そしてまた前文に掲げた国際協調主義、この理念は、あくまでもやはりこの日本国憲法におきまして根幹的な意味合いを持つものと認識をしております。特に、この前文につきましては、憲法に書かれた理念、また基本的な考え方を明らかにしたもの、このようにとらえる考え方に私も賛成でございます。
憲法制定当時の時代状況でございますけれども、国連憲章に「われらの一生のうちに二度まで言語に絶する悲哀を人類に与えた戦争の惨害から将来の世代を救い、」とありますように、やはり、世界が二度にわたって戦渦に巻き込まれ、二千万人を超える犠牲者を出したという悲惨な経験をしております。そうした中で、今こそ世界諸国が協力をしながら平和維持の体制を構築していこう、そのために国連をつくり、国連を中心としながら法による平和を目指そうという、こうした時代状況を大きく反映していると認識しております。
ちょうどこのころ、憲政の神様、尾崎咢堂先生が、骨の髄まで平和主義に徹するよりほかに日本の生きる道はない、このように述べていらっしゃるとおりでございます。
こうした世界の潮流の中にありまして、日本が戦争放棄を宣言して、そして、こうした世界平和に貢献することによりまして平和を構築していこう、達成していこうと高らかにその理念を宣言されたものと思います。
ところが、日本のこうした戦争体験また悲惨さ、これがどのように受け継がれているかと考えますと、よく、日本にはこうした正しい歴史教育がない、このように指摘されておりますとおり、戦争は愚であるというこうした認識、また、この前文に盛り込まれた熱き思い、これを私はこのまま残す形で、その当時、二度とこういうことを繰り返してはいけない、日本国民の新たな出発点として受けとめていくことができるのではないか、このように考えております。
第二段のところに、「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。」この「名誉ある地位」、これはすばらしい文言であると私は思っております。平和を希求する世界において、日本こそ、この痛みをだれよりも味わったからこそリードする立場になろうではないか、そこにまた日本国民の誇りを打ち立てていこうではないか、こうした方向性であると思います。
あの四年前の二〇〇一年、九・一一テロの脅威に直面をしまして、改めて、グローバル化の背後に貧困や格差が進行している、それを解決せずして真の平和はないということを認識いたしました。今、こうした平和軍縮問題に限らず、環境破壊、貧困の問題など、それぞれの根深さを考えますと、こうした総合的に絡み合った課題に立ち向かい、行動してかち取っていく、こうした積極的な平和主義、これこそ大事であると思っております。
そこで、先般、京都議定書発効の記念式典に参加をいたしました。日本が呼びかけ、百四十一カ国が参加をし、そして今、新たにこの二月十六日に発効したという京都議定書の条約でございますけれども、こういう形でむしろやっと日本が環境破壊等につきましても世界にまさにリードして貢献をするそうした時代が来た、戦後六十年、この前文にうたわれています内容を実現できる力、またその環境、それが整ってきた、こういうふうに思えると私は思います。この後、さらにこの国際的な市民の連帯を国連を中心にしながらどのようにつくっていけるか、これを考えてまいりたいと思います。
その上で、本文の中に新しい人権、環境権であるとかプライバシー権であるとか、これを具体的に盛り込むことがふさわしいのではないかと考えております。
以上でございます。
坂
坂本剛二#19
○坂本(剛)委員 いろいろお話ありましたから、かいつまんで申し上げますと、まず、今の日本国憲法のこの前文が国民のものになっていないんですね。その言い回しの難解さ、内容の難解さ、これでは、日本人がこの前文を読んでいて何も感じない、仮に読んだ人でも、ぴんときていない、これが果たして日本国憲法なのかという。私は、これはあくまでも、日本を占領するためにポツダム宣言を受諾させたあの原文が、これは日本占領政策なんですね。ですから、日本の占領にふさわしくない文言は全部カットされている、そういう中でつくられたのがこの前文であろうと。したがって、ここにはやはり日本人の血が流れない、こういうことが言えると思います。
日本には四季がありまして、夏が来て、短い秋を過ぎて冬を迎える、急いで冬支度をしなくちゃならない。日本人の生活というのはめり張りがあるんですね、一年を通して。このめり張りがあるところから日本の文化が生まれてきているし、そこに歴史の深みもあるわけですね。そういうことを今の若い人たち、これからの二十一世紀、二十二世紀を生きる日本人がわかっていなくては、この国を一体どういう形で運営していくんだということになるわけでございます。
今の若者に日本人としての自覚がないと私、前にも言いましたけれども、柳田国男さんの言葉に、人はただの荒野に生まれたのではない、人はその地域、文化、歴史、民族の力の中に生まれたのだ、こういう言葉がありますけれども、その感覚が今の教育にもないし、今の若い人たちの自覚にもない。私は、こういったようなことを通して、国際社会にやはりもっともっと格調高い日本人を打ち出していくべきだろうと思っているんです。
アインシュタインは、大正時代、日本に来て、一神教でない多神教の日本が将来世界のリーダーになるのではないか、こういうことを言っているといいますけれども、あらゆることを考えたときに、私は、もっと日本人というものを前面に出した、日本人の理解できる、わかりやすい、そして誇りの持てる憲法を、特に前文をつくり直すべきだ、こう思っております。
以上です。
この発言だけを見る →日本には四季がありまして、夏が来て、短い秋を過ぎて冬を迎える、急いで冬支度をしなくちゃならない。日本人の生活というのはめり張りがあるんですね、一年を通して。このめり張りがあるところから日本の文化が生まれてきているし、そこに歴史の深みもあるわけですね。そういうことを今の若い人たち、これからの二十一世紀、二十二世紀を生きる日本人がわかっていなくては、この国を一体どういう形で運営していくんだということになるわけでございます。
今の若者に日本人としての自覚がないと私、前にも言いましたけれども、柳田国男さんの言葉に、人はただの荒野に生まれたのではない、人はその地域、文化、歴史、民族の力の中に生まれたのだ、こういう言葉がありますけれども、その感覚が今の教育にもないし、今の若い人たちの自覚にもない。私は、こういったようなことを通して、国際社会にやはりもっともっと格調高い日本人を打ち出していくべきだろうと思っているんです。
アインシュタインは、大正時代、日本に来て、一神教でない多神教の日本が将来世界のリーダーになるのではないか、こういうことを言っているといいますけれども、あらゆることを考えたときに、私は、もっと日本人というものを前面に出した、日本人の理解できる、わかりやすい、そして誇りの持てる憲法を、特に前文をつくり直すべきだ、こう思っております。
以上です。
葉
葉梨康弘#20
○葉梨委員 自民党の葉梨康弘です。
前文について意見を申し述べます。
まず、現行憲法前文についての評価です。
現行憲法前文は、確かに翻訳調でわかりづらい悪文です。具体的には、英語の決議文に特有の留意点等を多用しており、例えば、正当に選挙された代表者を通じて行動しという文言がこの憲法の確定に係るのに、これを時に代議制民主主義をあらわしたものと誤解されるなど、法律の中の法律としては極めてよい文章と言うことはできません。しかも、主権在民、民主主義、平和主義、国際協調といった人類普遍の原理や普遍的政治道徳をうたうのみで、諸外国の憲法にあるような固有の民族的価値への言及がなく、どこの国の憲法だかわからないという批判もあります。ただ、私は、現行憲法は現行憲法なりに我が国の固有の価値と人類普遍の原理の融合を図っていると考えます。
私は、現行憲法における上諭の存在にもっと注目すべきと思います。一般的に、上諭は単なる公布文で、規範性は持たないものとされており、憲法の制定過程を示す意味を持っていると解されます。そして、戦後であっても、日本国憲法施行前は上諭が付されている法律案は幾つかあります。ただ、そのいずれも、形式的に、朕は○○法を裁可し公布せしめるという内容です。
ところが、日本国憲法は、「朕は、日本国民の総意に基いて、新日本建設の礎が、定まるに至つたことを、深くよろこび、」という天皇の意思を示す、極めて特異な上諭と言うことができます。このような上諭を持つことは、この憲法の枢密院審議で、当時の入江法制局長官が、前文は国民の中核としての天皇が発案され、こういう趣旨で改正することを明らかにしたものと答弁していることと符合します。
私は、押しつけの経緯は経緯として、前文は、法形式的には憲法の制定過程を示す上諭とセットで、天皇御自身の主体的意思により、いわゆる八月革命の精神を受容したことを示していると考えます。その意味において、現行憲法の前文は、日本民族の象徴、日本国に固有の存在であり、伝統文化の代表者である天皇が普遍的原理を受容した歴史的文書と言うことができます。
私は、新しい時代においては、我が国が長い歴史の経験の中で培ってきた国家や民族に固有の価値と、民主主義、平和主義、人権といった人類普遍の原理を融合し、ともに発展していく姿勢が、グローバリゼーションの時代に対応しつつ、日本国民のすべてが国民であることを誇りに思える国づくりのため必須と考えています。
もしも憲法が改正された場合、天皇がこれを公布することとなりますが、立法技術的には、現行憲法に置かれているような上諭は削除されることとなります。この場合、私は、前文それ自体に我が国が固有の価値と普遍の原理をともに発展していく国柄を持つことを明らかにしなければ、それこそどこの国の憲法だかわからなくなってしまうのではというおそれを持っています。そして、私たちが未来に向かって進もうという意思を持つのであれば、より積極的で前向きな意義を前文の中にうたっていくべきでしょう。
すなわち、第一に、今まで述べたような、天皇に代表される我が国の伝統文化、共同社会の尊重と主権在民、民主主義、平和主義、人権、自由等の普遍の原理を融合させ、すべての日本人が日本国民であることを誇りに思うことができる国をつくる決意を明確にすることが必要です。
第二に、このような日本国は、国際協調主義のもと、国際社会に対して積極的な貢献を行う決意を明確にすることも大切です。
第三に、現行憲法にもある普遍的政治道徳を発展させる決意を確認することも大事と思います。その上で、我が国が進むべき方向として、文化国家、環境国家、共生国家等の目標、理想を提示していくべきではないでしょうか。
このような作業を行うことにより、私は、これからの我が国の生きざまに、より積極的な意味を付与することが可能と考えます。
以上でございます。ありがとうございました。
この発言だけを見る →前文について意見を申し述べます。
まず、現行憲法前文についての評価です。
現行憲法前文は、確かに翻訳調でわかりづらい悪文です。具体的には、英語の決議文に特有の留意点等を多用しており、例えば、正当に選挙された代表者を通じて行動しという文言がこの憲法の確定に係るのに、これを時に代議制民主主義をあらわしたものと誤解されるなど、法律の中の法律としては極めてよい文章と言うことはできません。しかも、主権在民、民主主義、平和主義、国際協調といった人類普遍の原理や普遍的政治道徳をうたうのみで、諸外国の憲法にあるような固有の民族的価値への言及がなく、どこの国の憲法だかわからないという批判もあります。ただ、私は、現行憲法は現行憲法なりに我が国の固有の価値と人類普遍の原理の融合を図っていると考えます。
私は、現行憲法における上諭の存在にもっと注目すべきと思います。一般的に、上諭は単なる公布文で、規範性は持たないものとされており、憲法の制定過程を示す意味を持っていると解されます。そして、戦後であっても、日本国憲法施行前は上諭が付されている法律案は幾つかあります。ただ、そのいずれも、形式的に、朕は○○法を裁可し公布せしめるという内容です。
ところが、日本国憲法は、「朕は、日本国民の総意に基いて、新日本建設の礎が、定まるに至つたことを、深くよろこび、」という天皇の意思を示す、極めて特異な上諭と言うことができます。このような上諭を持つことは、この憲法の枢密院審議で、当時の入江法制局長官が、前文は国民の中核としての天皇が発案され、こういう趣旨で改正することを明らかにしたものと答弁していることと符合します。
私は、押しつけの経緯は経緯として、前文は、法形式的には憲法の制定過程を示す上諭とセットで、天皇御自身の主体的意思により、いわゆる八月革命の精神を受容したことを示していると考えます。その意味において、現行憲法の前文は、日本民族の象徴、日本国に固有の存在であり、伝統文化の代表者である天皇が普遍的原理を受容した歴史的文書と言うことができます。
私は、新しい時代においては、我が国が長い歴史の経験の中で培ってきた国家や民族に固有の価値と、民主主義、平和主義、人権といった人類普遍の原理を融合し、ともに発展していく姿勢が、グローバリゼーションの時代に対応しつつ、日本国民のすべてが国民であることを誇りに思える国づくりのため必須と考えています。
もしも憲法が改正された場合、天皇がこれを公布することとなりますが、立法技術的には、現行憲法に置かれているような上諭は削除されることとなります。この場合、私は、前文それ自体に我が国が固有の価値と普遍の原理をともに発展していく国柄を持つことを明らかにしなければ、それこそどこの国の憲法だかわからなくなってしまうのではというおそれを持っています。そして、私たちが未来に向かって進もうという意思を持つのであれば、より積極的で前向きな意義を前文の中にうたっていくべきでしょう。
すなわち、第一に、今まで述べたような、天皇に代表される我が国の伝統文化、共同社会の尊重と主権在民、民主主義、平和主義、人権、自由等の普遍の原理を融合させ、すべての日本人が日本国民であることを誇りに思うことができる国をつくる決意を明確にすることが必要です。
第二に、このような日本国は、国際協調主義のもと、国際社会に対して積極的な貢献を行う決意を明確にすることも大切です。
第三に、現行憲法にもある普遍的政治道徳を発展させる決意を確認することも大事と思います。その上で、我が国が進むべき方向として、文化国家、環境国家、共生国家等の目標、理想を提示していくべきではないでしょうか。
このような作業を行うことにより、私は、これからの我が国の生きざまに、より積極的な意味を付与することが可能と考えます。
以上でございます。ありがとうございました。
永
永岡洋治#21
○永岡委員 自由民主党の永岡洋治でございます。
私は、前文に関しまして、特に、前文のあり方を通じた国の形というものについて意見を述べさせていただきたいと思います。
私は、憲法調査会の委員といたしまして本調査会で多くの委員の発言を拝聴し、私自身も国の形について真剣に考え、委員の皆様とともに議論を深めてまいりました。そして、これまでの調査会の議論を通じ、私が憲法について改めて認識したことを申し上げるとすれば、憲法というものはまさに国家を形づくる土台であることは当然でありますが、その前文というものが、国家が進むべき道を明確に示す道しるべとしての役割を果たすものであるということであります。
このような視点から現行憲法を眺めたとき、我が国の前文は、その進むべき方向を明確に示しているとは言えない状況にあるのではないでしょうか。例えば、「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、」という文言がございますが、振り返ってみますと、我が国はこの六十年間、戦争を起こしたという事実は一度もなく、このような前文の文言は既に時代錯誤に陥ってきております。
また、前文には、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」あるいは、「専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会」という高邁な思想も書かれておりますが、現実の国際社会に目を向けてみると、北朝鮮による拉致問題、イスラエル・パレスチナ問題、アフガニスタン、イラク問題など余りにもかけ離れた状態にあることに気がつきます。
このように前文は、内容的にも既に現実に合わなくなってきておりますが、そのほかにも大きな欠陥がございます。それは、日本国民自身による国の形を考えるという視点であります。先ほども申し上げましたが、憲法は国家を形づくる土台であり、その前文は国家の進むべき道を明確に示す道しるべとしての役割を果たすものであります。私は、我が国が明るく、活力ある社会となるためには、物心両面における豊かな国づくりを目指す必要があると考えます。
戦後六十年を経て我が国は、高度経済成長のもと、物質的には国際社会の中でも大変豊かな国へと発展してまいりました。しかし、その結果、西洋における経済合理主義が日本の社会経済を覆い、我が国は大切なものを数多く失ってきたようにも思います。我々は、我々の祖先が長い歴史の中でどのように生きてきたかを今こそ振り返り、それを踏まえた国家像、国家の進むべき道を考える必要があるように思います。
古来、我々日本人は山川草木に畏敬の念を抱き、生きとし生けるものに慈しみの気持ちを持ちながら自然との調和の中で生きてきたという、すぐれた伝統を有しております。また、我が国は、家族、家庭を通じ、または地域社会において相互扶助、助け合いの精神を培ってきたという、世界に誇るべき生活の歴史も有しております。このような我が国固有の伝統や歴史が、ややもすると軽んじられてきているところに今日の社会秩序の乱れの一因があるのではないかと考えます。
私は、我が国の長い歴史の中ではぐくまれてきた環境主義の理念、そして家族の重要性というナショナルアイデンティティーを前文に明確に示し、国民一人一人が自然との共生の中で相互扶助の精神を培ってきたという日本人の姿を改めて認識することにより、我が国が精神文化においても豊かな国へと発展していくものと考えます。また、このような自然との共生の中で相互扶助の精神を培ってきたという日本人の姿は、今日の国際社会の中においても求められているものと考えます。
確かに、現在の前文にも既に国際貢献の理念がうたわれております。しかし、このようなナショナルアイデンティティーを生かした国際貢献、例えば、地球環境への積極的な関与を明らかにしていく、環境安全保障への我が国の責任というようなものを前文に明記していくことも検討に値するのではないかと考えます。このような具体的、平和的な視点を持つことにより、国際社会の中において日本は他の国々から尊敬される国になるものと信じます。
以上、私からの前文に関する意見表明とさせていただきます。ありがとうございました。
この発言だけを見る →私は、前文に関しまして、特に、前文のあり方を通じた国の形というものについて意見を述べさせていただきたいと思います。
私は、憲法調査会の委員といたしまして本調査会で多くの委員の発言を拝聴し、私自身も国の形について真剣に考え、委員の皆様とともに議論を深めてまいりました。そして、これまでの調査会の議論を通じ、私が憲法について改めて認識したことを申し上げるとすれば、憲法というものはまさに国家を形づくる土台であることは当然でありますが、その前文というものが、国家が進むべき道を明確に示す道しるべとしての役割を果たすものであるということであります。
このような視点から現行憲法を眺めたとき、我が国の前文は、その進むべき方向を明確に示しているとは言えない状況にあるのではないでしょうか。例えば、「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、」という文言がございますが、振り返ってみますと、我が国はこの六十年間、戦争を起こしたという事実は一度もなく、このような前文の文言は既に時代錯誤に陥ってきております。
また、前文には、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」あるいは、「専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会」という高邁な思想も書かれておりますが、現実の国際社会に目を向けてみると、北朝鮮による拉致問題、イスラエル・パレスチナ問題、アフガニスタン、イラク問題など余りにもかけ離れた状態にあることに気がつきます。
このように前文は、内容的にも既に現実に合わなくなってきておりますが、そのほかにも大きな欠陥がございます。それは、日本国民自身による国の形を考えるという視点であります。先ほども申し上げましたが、憲法は国家を形づくる土台であり、その前文は国家の進むべき道を明確に示す道しるべとしての役割を果たすものであります。私は、我が国が明るく、活力ある社会となるためには、物心両面における豊かな国づくりを目指す必要があると考えます。
戦後六十年を経て我が国は、高度経済成長のもと、物質的には国際社会の中でも大変豊かな国へと発展してまいりました。しかし、その結果、西洋における経済合理主義が日本の社会経済を覆い、我が国は大切なものを数多く失ってきたようにも思います。我々は、我々の祖先が長い歴史の中でどのように生きてきたかを今こそ振り返り、それを踏まえた国家像、国家の進むべき道を考える必要があるように思います。
古来、我々日本人は山川草木に畏敬の念を抱き、生きとし生けるものに慈しみの気持ちを持ちながら自然との調和の中で生きてきたという、すぐれた伝統を有しております。また、我が国は、家族、家庭を通じ、または地域社会において相互扶助、助け合いの精神を培ってきたという、世界に誇るべき生活の歴史も有しております。このような我が国固有の伝統や歴史が、ややもすると軽んじられてきているところに今日の社会秩序の乱れの一因があるのではないかと考えます。
私は、我が国の長い歴史の中ではぐくまれてきた環境主義の理念、そして家族の重要性というナショナルアイデンティティーを前文に明確に示し、国民一人一人が自然との共生の中で相互扶助の精神を培ってきたという日本人の姿を改めて認識することにより、我が国が精神文化においても豊かな国へと発展していくものと考えます。また、このような自然との共生の中で相互扶助の精神を培ってきたという日本人の姿は、今日の国際社会の中においても求められているものと考えます。
確かに、現在の前文にも既に国際貢献の理念がうたわれております。しかし、このようなナショナルアイデンティティーを生かした国際貢献、例えば、地球環境への積極的な関与を明らかにしていく、環境安全保障への我が国の責任というようなものを前文に明記していくことも検討に値するのではないかと考えます。このような具体的、平和的な視点を持つことにより、国際社会の中において日本は他の国々から尊敬される国になるものと信じます。
以上、私からの前文に関する意見表明とさせていただきます。ありがとうございました。
柴
柴山昌彦#22
○柴山委員 先ほど鹿野委員から、現在、主権在民の理念というものが本当に機能しているのかという大変貴重な視点を御提示いただきました。官から民への号令は、必ずしも十分その理念が実現されているとは言えない状況にあると私も考えております。これは、現代の膨大な行政需要の拡大あるいは中央集権的な体制ということにももちろん一つの原因があると思いますけれども、国民の側にもやはり原因があると考えております。我々は余りにも、政治、また、自分の地域ですとか国を支えていこう、そういうことに関して無関心であったのではないかと思っております。
また、先ほど永岡委員そのほかからいろいろ御指摘があったとおり、これ以外の場面でも、やはり国民がただ自分のことだけに関心を持つのではなくて、もっと家族とか地域とかそういった事柄に関心を持ち、それを支えていく、そういった気概がなければ日本の社会というものは変わっていかないんじゃないかな、そのように考えております。昨今のさまざまな報道で提示されている事件を見るにつけ、私も全く同感であります。
ここで、憲法の前文を見た場合、前文というのは、国の形をつくる憲法のさらに基本理念をうたうエッセンスであります。そうしたエッセンスの中に私は個人的人権の尊重主義というものは確かにはっきり書くべきであると思っておりますが、いわばそれとセットにした形での、こうした、地域やあるいは国を大切にするという理念や公共性の理念、そして、自己の権利、自由に対する責任の概念をセットにした形で書いていくことが必要であると私は考えております。
こうした考え方に対しては、憲法というものは国家権力に対する制限規範である、そういった責任や義務は法律で定めればよいではないか、こういう批判がよくなされます。確かに、近代憲法はそういった理念のもとに制定されたものでありますけれども、憲法は、一方で根本法たる性質もあると考えております。法は、やはりバランスをとって制定されるものですから、こうしたバランスのとれた価値観をうたっていくことが私は必要であると考えております。
私は、歴史、文化、家族、そういったものはやはり憲法に書かざるを得ないと思っております。土井委員からは先ほど、そういった概念は内容として一定のものではないのではないか、また、丸谷委員からは、そうしたものを書いていくとより多くの人の共感を得られないのではないか、そういうような御懸念も提示されました。
しかし私は、そのような確かに一定性を持つ概念ではないということをあえて認めながら、それぞれの家族、そしてそれぞれの地域、そういったものに関する寛容性というものを前提とした上で、そういったものを大切にしていくということは大切なことではないかというように感じております。私は、ビジネス等あらゆる場面で今グローバル化が進展する中で、これを進めていかなければいけないという立場に立っておりますけれども、だからこそ、そうしたアイデンティティーというものはこれからますます大切になるのではないかというように考えている次第であります。
さて、平和主義について一言申し上げたいと思います。
私も、平和主義というものは非常に大切であると思っております。山口委員から先ほどありましたとおり、平和的生存権も、まあ、裁判規範性はその抽象性からないのではないかという疑問はありますけれども、やはり大切である。しかし、武器を捨てて戦争をやめることによって本当に平和というものは実現するのでしょうか。冷戦の崩壊によって地域紛争がふえてしまっている、また、最近ではテロが多発をしている。そのような中で、不作為によって平和というものが本当に守られるのでしょうか。やはり我々は、一定の平和に対する貢献をしていくことが必要だと考えております。
もちろん、その内容につきましては、日本が軍事的な部門で貢献をするのが果たして世界の安全のためにプラスなのかどうなのかということは考えていかなければいけません。ただ、そうした問題意識はしっかりと持たなければいけないと思っております。
時間がほとんどありません。あと一言だけ申し上げます。
生命の尊重、そして、これからはやはり環境の重視ということを訴えていかなければいけないと思っております。憲法前文、内容をより豊かに、わかりやすく、今申し上げたような諸理念をつけ加えていっていただけたらというように思っております。
以上です。
この発言だけを見る →また、先ほど永岡委員そのほかからいろいろ御指摘があったとおり、これ以外の場面でも、やはり国民がただ自分のことだけに関心を持つのではなくて、もっと家族とか地域とかそういった事柄に関心を持ち、それを支えていく、そういった気概がなければ日本の社会というものは変わっていかないんじゃないかな、そのように考えております。昨今のさまざまな報道で提示されている事件を見るにつけ、私も全く同感であります。
ここで、憲法の前文を見た場合、前文というのは、国の形をつくる憲法のさらに基本理念をうたうエッセンスであります。そうしたエッセンスの中に私は個人的人権の尊重主義というものは確かにはっきり書くべきであると思っておりますが、いわばそれとセットにした形での、こうした、地域やあるいは国を大切にするという理念や公共性の理念、そして、自己の権利、自由に対する責任の概念をセットにした形で書いていくことが必要であると私は考えております。
こうした考え方に対しては、憲法というものは国家権力に対する制限規範である、そういった責任や義務は法律で定めればよいではないか、こういう批判がよくなされます。確かに、近代憲法はそういった理念のもとに制定されたものでありますけれども、憲法は、一方で根本法たる性質もあると考えております。法は、やはりバランスをとって制定されるものですから、こうしたバランスのとれた価値観をうたっていくことが私は必要であると考えております。
私は、歴史、文化、家族、そういったものはやはり憲法に書かざるを得ないと思っております。土井委員からは先ほど、そういった概念は内容として一定のものではないのではないか、また、丸谷委員からは、そうしたものを書いていくとより多くの人の共感を得られないのではないか、そういうような御懸念も提示されました。
しかし私は、そのような確かに一定性を持つ概念ではないということをあえて認めながら、それぞれの家族、そしてそれぞれの地域、そういったものに関する寛容性というものを前提とした上で、そういったものを大切にしていくということは大切なことではないかというように感じております。私は、ビジネス等あらゆる場面で今グローバル化が進展する中で、これを進めていかなければいけないという立場に立っておりますけれども、だからこそ、そうしたアイデンティティーというものはこれからますます大切になるのではないかというように考えている次第であります。
さて、平和主義について一言申し上げたいと思います。
私も、平和主義というものは非常に大切であると思っております。山口委員から先ほどありましたとおり、平和的生存権も、まあ、裁判規範性はその抽象性からないのではないかという疑問はありますけれども、やはり大切である。しかし、武器を捨てて戦争をやめることによって本当に平和というものは実現するのでしょうか。冷戦の崩壊によって地域紛争がふえてしまっている、また、最近ではテロが多発をしている。そのような中で、不作為によって平和というものが本当に守られるのでしょうか。やはり我々は、一定の平和に対する貢献をしていくことが必要だと考えております。
もちろん、その内容につきましては、日本が軍事的な部門で貢献をするのが果たして世界の安全のためにプラスなのかどうなのかということは考えていかなければいけません。ただ、そうした問題意識はしっかりと持たなければいけないと思っております。
時間がほとんどありません。あと一言だけ申し上げます。
生命の尊重、そして、これからはやはり環境の重視ということを訴えていかなければいけないと思っております。憲法前文、内容をより豊かに、わかりやすく、今申し上げたような諸理念をつけ加えていっていただけたらというように思っております。
以上です。
加
加藤勝信#23
○加藤(勝)委員 自由民主党の加藤勝信でございます。
これまでもいろいろこの憲法調査会での議論を聞かせていただきながら、また、本日は前文の議論ということになるわけでありますけれども、一方で、平和主義、主権在民等の普遍的な原理というものを結果的には我が国の社会がどう消化をして、そしてそれをさらに進めていくか、私は、そういうことになっていく。そういう意味では、先ほどからも御議論がありますように、今までの憲法の中で述べられておるさまざまな普遍的な原理というものは一方でしっかりと堅持をしながら、しかし同時に、やはり我が国の歴史、伝統というものを、そしてそれをこれからどうさらに進めていくのかということを、やはり私は、この憲法の前文の中にしっかりと明記をしていかなければいけないというふうに思います。
先ほど、家族、家庭を明記するという議論もありました。確かに、個人と国家という一つの対立した観点ということもありますけれども、一方で、個人、家族、家庭、さらには地域コミュニティー、あるいはその段階にある地方の公共団体、そして国というそれぞれの層がなし合って一つの今の日本の社会が構成をされている、そして、そうした仕組みの中で、またそれぞれのレベルにおいて努力をしてきたその結果が今日の発展を支えてきた、私は、そういう部分ということを非常に大事にしていかなければいけない。
また、それぞれの先人の皆さんが、そうした家族、地域、またその延長としての国を一生懸命守ってくる、そして、その守るという中では、個々を大事にする、生命を大事にする、あるいは自然といかに協調を図る、そういう努力によって今日の今の繁栄、状況が来ているんだ、そして、それを我々は、これからの新しいさまざまな状況とうまく絡ませながらどうやって次代につないでいくのか、そこに非常に大きな責務がある、義務があるという流れを私はしっかりと認識しておかなければならないというふうに思っております。
そういう意味では、最初に申し上げたように、一つの普遍的な原理というものと我が国の歴史、伝統というものを一方でしっかりと認識しながら、そこをどう消化し、これからの時代の中で、今求められている人との共生、さらには自然との共生、そういったものを実現していくのか、そのことをしっかりと明記していく。
そして、特に憲法の今の前文の中で気にかかるのは、翻訳ということによることだとは思いますけれども、非常に記載の仕方が、主体的にこうしますというような言い方が少ないんではないか。「信頼して」云々、あるいは「占めたいと思ふ」とかそういうような表現になっていて、私は、もっとストレートな表現といったものが日本国民としての意思をあらわすものとして非常に重要ではないか、そして、先ほどからも御議論があるように、わかりやすい、そういうことにも資することになるのではないか、かように思っております。
ありがとうございました。
この発言だけを見る →これまでもいろいろこの憲法調査会での議論を聞かせていただきながら、また、本日は前文の議論ということになるわけでありますけれども、一方で、平和主義、主権在民等の普遍的な原理というものを結果的には我が国の社会がどう消化をして、そしてそれをさらに進めていくか、私は、そういうことになっていく。そういう意味では、先ほどからも御議論がありますように、今までの憲法の中で述べられておるさまざまな普遍的な原理というものは一方でしっかりと堅持をしながら、しかし同時に、やはり我が国の歴史、伝統というものを、そしてそれをこれからどうさらに進めていくのかということを、やはり私は、この憲法の前文の中にしっかりと明記をしていかなければいけないというふうに思います。
先ほど、家族、家庭を明記するという議論もありました。確かに、個人と国家という一つの対立した観点ということもありますけれども、一方で、個人、家族、家庭、さらには地域コミュニティー、あるいはその段階にある地方の公共団体、そして国というそれぞれの層がなし合って一つの今の日本の社会が構成をされている、そして、そうした仕組みの中で、またそれぞれのレベルにおいて努力をしてきたその結果が今日の発展を支えてきた、私は、そういう部分ということを非常に大事にしていかなければいけない。
また、それぞれの先人の皆さんが、そうした家族、地域、またその延長としての国を一生懸命守ってくる、そして、その守るという中では、個々を大事にする、生命を大事にする、あるいは自然といかに協調を図る、そういう努力によって今日の今の繁栄、状況が来ているんだ、そして、それを我々は、これからの新しいさまざまな状況とうまく絡ませながらどうやって次代につないでいくのか、そこに非常に大きな責務がある、義務があるという流れを私はしっかりと認識しておかなければならないというふうに思っております。
そういう意味では、最初に申し上げたように、一つの普遍的な原理というものと我が国の歴史、伝統というものを一方でしっかりと認識しながら、そこをどう消化し、これからの時代の中で、今求められている人との共生、さらには自然との共生、そういったものを実現していくのか、そのことをしっかりと明記していく。
そして、特に憲法の今の前文の中で気にかかるのは、翻訳ということによることだとは思いますけれども、非常に記載の仕方が、主体的にこうしますというような言い方が少ないんではないか。「信頼して」云々、あるいは「占めたいと思ふ」とかそういうような表現になっていて、私は、もっとストレートな表現といったものが日本国民としての意思をあらわすものとして非常に重要ではないか、そして、先ほどからも御議論があるように、わかりやすい、そういうことにも資することになるのではないか、かように思っております。
ありがとうございました。
松
松宮勲#24
○松宮委員 自由民主党の松宮勲でございます。
私も、この平成の時代において新しい憲法を制定する、自主憲法を制定するという大前提のもとで、憲法前文は憲法のいわば顔でございますから、全面的に書きかえらるべきだと思います。
その際、一番注意すべきは、簡潔に、平易に、そして明瞭な前文にすべきであると。今の憲法前文についての問題点、いろいろな委員の先生方が御指摘のとおりでございまして、ボリューム的に言いますと、私は、現行の前文のほぼ半分程度の前文でよろしいのではないかという感じがいたしております。
その中で、現行憲法がうたっております平和主義あるいは主権在民、そして前文でうたわれていない基本的人権、この三大原則については新しい憲法の前文で明確にうたわれるべきである、これが私の第一点目の主張でございます。
と同時に、二点目といたしましては、多くの我が自民党の委員の方が御指摘のように、長きにわたりましてこの我が国の国土空間で培われてきました伝統、歴史、文化を踏まえていかなる国家を目指すべきであるかということについての方向性というのも、前文でうたわれるならばうたうべきであるという気がいたしております。なかなか適当な短い文章での集約というのは容易でないとは存じますけれども、自然との共生、あるいは、他者を敬い、慈しみ、いたわり合う、こういう精神のもとで私たちの歴史、伝統、文化というのは継承されてきたはずでございます。
そうしたものを墨守するのではなしに、しっかりと踏まえて、セミがあたかも成長する過程で多くの脱皮をいたしますが、漢籍では蝉脱という言葉でうたわれているようでございますが、まさしく私どものこの国家においても私たちは、過去のよき伝統、文化、歴史を継承しつつ、これを蝉脱して育成していく、そういうことで日本の独自性というのをより固め、そしてそれが国際社会に対して日本のレーゾンデートルとして発信していくゆえんでもある。こういう意味でのいわば共生の文化、あるいは、国家として世界に冠たる文化国家を目指す、なかなか適当な言葉が見つかりませんが、そういう方向性というのを横軸でぜひ強調すべきではないかというふうに思っているところでございます。
三点目は、能動的、積極的な国際貢献であります。
現在のグローバリゼーションの進展のもとで、我が国の生存は国際社会との平和、安全なくして存続し得ないということはもう一目瞭然でございます。とりわけ、相対的に恵まれた立場にあります我が国といたしまして、我が国の国民の安全保障のためにも国際社会に能動的に貢献し、先ほど申しました平和と安全と世界の繁栄のために我が国がポジティブに貢献していくということを、私は高らかに前文でうたうべきだと思います。
四点目といたしましては、こうした前文の精神を実現していく主体は国民であります。国民の強い決意と責務というのをぜひ最後に前文でうたって、我が国の国家としての道しるべ、その最高規範たる憲法の前文としてまとめるべきではないか。
以上、考えている次第でございます。ありがとうございました。
この発言だけを見る →私も、この平成の時代において新しい憲法を制定する、自主憲法を制定するという大前提のもとで、憲法前文は憲法のいわば顔でございますから、全面的に書きかえらるべきだと思います。
その際、一番注意すべきは、簡潔に、平易に、そして明瞭な前文にすべきであると。今の憲法前文についての問題点、いろいろな委員の先生方が御指摘のとおりでございまして、ボリューム的に言いますと、私は、現行の前文のほぼ半分程度の前文でよろしいのではないかという感じがいたしております。
その中で、現行憲法がうたっております平和主義あるいは主権在民、そして前文でうたわれていない基本的人権、この三大原則については新しい憲法の前文で明確にうたわれるべきである、これが私の第一点目の主張でございます。
と同時に、二点目といたしましては、多くの我が自民党の委員の方が御指摘のように、長きにわたりましてこの我が国の国土空間で培われてきました伝統、歴史、文化を踏まえていかなる国家を目指すべきであるかということについての方向性というのも、前文でうたわれるならばうたうべきであるという気がいたしております。なかなか適当な短い文章での集約というのは容易でないとは存じますけれども、自然との共生、あるいは、他者を敬い、慈しみ、いたわり合う、こういう精神のもとで私たちの歴史、伝統、文化というのは継承されてきたはずでございます。
そうしたものを墨守するのではなしに、しっかりと踏まえて、セミがあたかも成長する過程で多くの脱皮をいたしますが、漢籍では蝉脱という言葉でうたわれているようでございますが、まさしく私どものこの国家においても私たちは、過去のよき伝統、文化、歴史を継承しつつ、これを蝉脱して育成していく、そういうことで日本の独自性というのをより固め、そしてそれが国際社会に対して日本のレーゾンデートルとして発信していくゆえんでもある。こういう意味でのいわば共生の文化、あるいは、国家として世界に冠たる文化国家を目指す、なかなか適当な言葉が見つかりませんが、そういう方向性というのを横軸でぜひ強調すべきではないかというふうに思っているところでございます。
三点目は、能動的、積極的な国際貢献であります。
現在のグローバリゼーションの進展のもとで、我が国の生存は国際社会との平和、安全なくして存続し得ないということはもう一目瞭然でございます。とりわけ、相対的に恵まれた立場にあります我が国といたしまして、我が国の国民の安全保障のためにも国際社会に能動的に貢献し、先ほど申しました平和と安全と世界の繁栄のために我が国がポジティブに貢献していくということを、私は高らかに前文でうたうべきだと思います。
四点目といたしましては、こうした前文の精神を実現していく主体は国民であります。国民の強い決意と責務というのをぜひ最後に前文でうたって、我が国の国家としての道しるべ、その最高規範たる憲法の前文としてまとめるべきではないか。
以上、考えている次第でございます。ありがとうございました。
平
平井卓也#25
○平井委員 自由民主党の平井卓也です。
前文に関して発言をさせていただきます。
前文はいわば憲法の顔であり、これを読めば憲法の方向性がわかる、伝わるものでなければならないと考えます。
まず、現前文の問題といいますか、どこの国にも当てはまる内容であり、日本固有の伝統、文化、その他が伝わってこないと思います。民主主義の理念である国民主権、平和主義、代表制民主主義が記されていますが、一文一文が長過ぎることで意味が非常にわかりにくくなっていると思います。現憲法前文は、英語を翻訳された苦心の跡はうかがわれますが、日本語としてはあいまいな表現が多くて、最初から日本語で書けばこうはならないと思います。
この憲法が押しつけであったかどうかということではなく、現憲法が、我が国が置かれていた特殊な状況で制定され、その特殊な状況を前提につくられたものであるということはやはり忘れてはならないというふうに思います。
第二次世界大戦後の国際社会の平和と安全の維持を担う機関として、昭和二十年十月に国際連合が発足しました。この調査会でも何度か触れたことがありますように、これは、我が国が無条件降伏する前に連合国による戦後の国際的な枠組みに関する協議がなされ、その構想のもとに戦後設置されたものであります。当時は、米ソの対立はまだ表面化しておらず、理想主義的な期待が国連に込められて、憲法はそのような時代背景のもとに制定されたものであります。このような時代背景を反映しているのが憲法前文であると考えます。
現行憲法の前文には、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」とあります。これは、日本以外はすべて平和を愛する諸国民であり、日本さえ悪事を働かなければ世界は平和であるというような世界観が根底にあるようにも思うわけであります。しかし、現実には、当時も現在も国際社会というのは国益と国益のぶつかり合う場であります。憲法制定時の国際社会の現実に照らしても事実認識とは違ったものと考えますが、この文言が当時の国連中心主義の考え方を反映していたものであると理解しても、果たして今の厳しい国際状況の中で、このような当時の事情を前提に制定された前文あるいは九条を基本にして安全保障にかかわる制度を構築していいかどうかということは問われてしかるべきであります。
我が国を取り巻く国際環境が急激に変化し、大量破壊兵器の拡散、テロの脅威、北朝鮮による拉致、核開発の問題等々、我が国の安全にとっても差し迫った脅威が顕在化してきました。国のかじ取りをしていくためには、憲法といえども、私たちが常識的に疑問に思う部分があれば、それを改めていく必要があると考えます。
また、私自身が新たに前文に入れなければならないと考えていることは、国民主権、基本的人権、そして平和主義の三原則にプラスして、まず、アジアに生きる私たちが営んできた日本の伝統的な共同体の考え方、これは多くの先生方もおっしゃっておりますが、これは日本のよさであり、日本固有の文化と伝統であり、それを尊重して継承するということをうたうべきだと思います。また、善隣と友好、理解と尊敬を理念とする積極的な外交の姿勢を明記すべきだと考えます。
また、これも多くの方々がおっしゃっていますが、国民一人一人に主権があるということを国民が感じられるようにしなければならないこと、それと、やはり他者に対する配慮、共生の精神といいますか、それは権利と義務がセットになって社会規範をつくっていくことで実現できると私は考えます。
以上です。
この発言だけを見る →前文に関して発言をさせていただきます。
前文はいわば憲法の顔であり、これを読めば憲法の方向性がわかる、伝わるものでなければならないと考えます。
まず、現前文の問題といいますか、どこの国にも当てはまる内容であり、日本固有の伝統、文化、その他が伝わってこないと思います。民主主義の理念である国民主権、平和主義、代表制民主主義が記されていますが、一文一文が長過ぎることで意味が非常にわかりにくくなっていると思います。現憲法前文は、英語を翻訳された苦心の跡はうかがわれますが、日本語としてはあいまいな表現が多くて、最初から日本語で書けばこうはならないと思います。
この憲法が押しつけであったかどうかということではなく、現憲法が、我が国が置かれていた特殊な状況で制定され、その特殊な状況を前提につくられたものであるということはやはり忘れてはならないというふうに思います。
第二次世界大戦後の国際社会の平和と安全の維持を担う機関として、昭和二十年十月に国際連合が発足しました。この調査会でも何度か触れたことがありますように、これは、我が国が無条件降伏する前に連合国による戦後の国際的な枠組みに関する協議がなされ、その構想のもとに戦後設置されたものであります。当時は、米ソの対立はまだ表面化しておらず、理想主義的な期待が国連に込められて、憲法はそのような時代背景のもとに制定されたものであります。このような時代背景を反映しているのが憲法前文であると考えます。
現行憲法の前文には、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」とあります。これは、日本以外はすべて平和を愛する諸国民であり、日本さえ悪事を働かなければ世界は平和であるというような世界観が根底にあるようにも思うわけであります。しかし、現実には、当時も現在も国際社会というのは国益と国益のぶつかり合う場であります。憲法制定時の国際社会の現実に照らしても事実認識とは違ったものと考えますが、この文言が当時の国連中心主義の考え方を反映していたものであると理解しても、果たして今の厳しい国際状況の中で、このような当時の事情を前提に制定された前文あるいは九条を基本にして安全保障にかかわる制度を構築していいかどうかということは問われてしかるべきであります。
我が国を取り巻く国際環境が急激に変化し、大量破壊兵器の拡散、テロの脅威、北朝鮮による拉致、核開発の問題等々、我が国の安全にとっても差し迫った脅威が顕在化してきました。国のかじ取りをしていくためには、憲法といえども、私たちが常識的に疑問に思う部分があれば、それを改めていく必要があると考えます。
また、私自身が新たに前文に入れなければならないと考えていることは、国民主権、基本的人権、そして平和主義の三原則にプラスして、まず、アジアに生きる私たちが営んできた日本の伝統的な共同体の考え方、これは多くの先生方もおっしゃっておりますが、これは日本のよさであり、日本固有の文化と伝統であり、それを尊重して継承するということをうたうべきだと思います。また、善隣と友好、理解と尊敬を理念とする積極的な外交の姿勢を明記すべきだと考えます。
また、これも多くの方々がおっしゃっていますが、国民一人一人に主権があるということを国民が感じられるようにしなければならないこと、それと、やはり他者に対する配慮、共生の精神といいますか、それは権利と義務がセットになって社会規範をつくっていくことで実現できると私は考えます。
以上です。
鈴
鈴木克昌#26
○鈴木(克)委員 民主党の鈴木克昌でございます。
前文ということでありまして、一言発言をさせていただきたいと思います。
当然のことながら、私は、前文は必要であり、あるべきであるという考え方に立っております。そして、それを前提として、先ほど来いろいろ御議論はあるわけでありますが、まず一つは、私は、やはりわかりやすい表現にする必要がある。そして、松宮委員もおっしゃったわけでありますが、やはり短い文章であるべきだ。理想を言えば、俗に言う、国民がさらっと暗記をできるようなそういうようなものであってもいいのではないのかなというふうに思います。
私も幾つかの団体に属しておりますが、その会の精神を綱領とかそういういろいろなものでうたうわけでありますが、そうすると、やはりその一つの会の貫く精神というのがお互いに確認できるということであります。もちろん、憲法とそれを一緒にするというのは問題があるかもしれませんけれども、やはり私は、簡明で、しかもできるだけ短い文章にすべきではないかなというふうに思っています。
基調となっておる平和主義は、これはもう当然のことながら不変であるべきだ、このように思っています。
では、どういうところを補足すべきかということでありますけれども、やはり日本古来の精神、文化といいますか、そして国を愛する気持ち、愛国心と言うとまた非常に誤解がありますけれども、私は、国を愛するというのは国民として最も自然な形だというふうに思いまして、やはりそういう見地からのものが不足をしておるのではないのかなというふうに思っております。
もう一つあえてつけ加えるならば、やはり、人権尊重というこの精神をどうしてもきちっと位置づけるべきだというふうに思っています。昨今の悲惨な出来事、事件をあえて言うわけではありません、それが憲法と関係をするということでももちろんないことは承知でありますが、やはり、そういった昨今の乱れを見ておる中で、人権というものをもう一度国全体として、国民として考えていく必要があるのではないかなというふうに思っています。
二つ目は、やはり環境ということであります。日本の世界に対する、地球に対する責任というのはやはり環境にあるというふうに思っております。
したがって、人権の問題、そして環境の問題、そういうものをきちっと明記すべきではないかなというふうに思っています。
先ほど、わかりやすい文章ということを申し上げたんですが、例えば、「名誉ある地位を占めたいと思ふ。」というような記載、それから、「主権が国民に存する」「その権威は国民に由来し、」というような文章というのはやはり非常にわかりにくいし、もう少し平易な形にした方がいいのではないかなと私は思います。
最後に、やはり、歴史、伝統、文化という日本のよき面といいますか、そういうものも強調をすべきではないかな、このように思っておるところであります。
以上であります。
〔会長退席、船田会長代理着席〕
この発言だけを見る →前文ということでありまして、一言発言をさせていただきたいと思います。
当然のことながら、私は、前文は必要であり、あるべきであるという考え方に立っております。そして、それを前提として、先ほど来いろいろ御議論はあるわけでありますが、まず一つは、私は、やはりわかりやすい表現にする必要がある。そして、松宮委員もおっしゃったわけでありますが、やはり短い文章であるべきだ。理想を言えば、俗に言う、国民がさらっと暗記をできるようなそういうようなものであってもいいのではないのかなというふうに思います。
私も幾つかの団体に属しておりますが、その会の精神を綱領とかそういういろいろなものでうたうわけでありますが、そうすると、やはりその一つの会の貫く精神というのがお互いに確認できるということであります。もちろん、憲法とそれを一緒にするというのは問題があるかもしれませんけれども、やはり私は、簡明で、しかもできるだけ短い文章にすべきではないかなというふうに思っています。
基調となっておる平和主義は、これはもう当然のことながら不変であるべきだ、このように思っています。
では、どういうところを補足すべきかということでありますけれども、やはり日本古来の精神、文化といいますか、そして国を愛する気持ち、愛国心と言うとまた非常に誤解がありますけれども、私は、国を愛するというのは国民として最も自然な形だというふうに思いまして、やはりそういう見地からのものが不足をしておるのではないのかなというふうに思っております。
もう一つあえてつけ加えるならば、やはり、人権尊重というこの精神をどうしてもきちっと位置づけるべきだというふうに思っています。昨今の悲惨な出来事、事件をあえて言うわけではありません、それが憲法と関係をするということでももちろんないことは承知でありますが、やはり、そういった昨今の乱れを見ておる中で、人権というものをもう一度国全体として、国民として考えていく必要があるのではないかなというふうに思っています。
二つ目は、やはり環境ということであります。日本の世界に対する、地球に対する責任というのはやはり環境にあるというふうに思っております。
したがって、人権の問題、そして環境の問題、そういうものをきちっと明記すべきではないかなというふうに思っています。
先ほど、わかりやすい文章ということを申し上げたんですが、例えば、「名誉ある地位を占めたいと思ふ。」というような記載、それから、「主権が国民に存する」「その権威は国民に由来し、」というような文章というのはやはり非常にわかりにくいし、もう少し平易な形にした方がいいのではないかなと私は思います。
最後に、やはり、歴史、伝統、文化という日本のよき面といいますか、そういうものも強調をすべきではないかな、このように思っておるところであります。
以上であります。
〔会長退席、船田会長代理着席〕
河
河野太郎#27
○河野(太)委員 自由民主党の河野太郎でございます。
現在の憲法の前文は翻訳調で日本語として読みにくい、そうおっしゃる方もいらっしゃいますし、そう聞くとそうかなとも思いますが、宮澤元総理のように、最初はそう思っていたが、もうなれてしまったと言われると、そうかなという気もいたします。今の憲法の前文をもう少し簡単にわかりやすく書き直すことができるというならば、今の前文をもう少しわかりやすく簡単に書き直してもよろしいのかと思います。
そのときに、国民主権あるいは平和の追求、そして基本的人権の尊重、こうした普遍的な価値観は当然にその前文の文章の中に盛り込まなければならないと思いますが、そうではない、普遍的な価値観でないものをこの前文の中に盛り込むことは厳に慎まなければならないと思います。例えば、歴史や伝統や文化といったものは個人によって当然にとりようが違います。あるいは、道徳のようなある価値観を押しつけるようなものを入れる、こういうことは憲法の前文としてはふさわしくないと思います。
普遍的な価値観をしっかりと明記した、わかりやすい美しい文章が憲法の前文としてふさわしいものであって、普遍的な価値観でないものを無理やり押し込んで、それを押しつけるがごとくのような前文は厳に排除したいと思います。
以上です。
この発言だけを見る →現在の憲法の前文は翻訳調で日本語として読みにくい、そうおっしゃる方もいらっしゃいますし、そう聞くとそうかなとも思いますが、宮澤元総理のように、最初はそう思っていたが、もうなれてしまったと言われると、そうかなという気もいたします。今の憲法の前文をもう少し簡単にわかりやすく書き直すことができるというならば、今の前文をもう少しわかりやすく簡単に書き直してもよろしいのかと思います。
そのときに、国民主権あるいは平和の追求、そして基本的人権の尊重、こうした普遍的な価値観は当然にその前文の文章の中に盛り込まなければならないと思いますが、そうではない、普遍的な価値観でないものをこの前文の中に盛り込むことは厳に慎まなければならないと思います。例えば、歴史や伝統や文化といったものは個人によって当然にとりようが違います。あるいは、道徳のようなある価値観を押しつけるようなものを入れる、こういうことは憲法の前文としてはふさわしくないと思います。
普遍的な価値観をしっかりと明記した、わかりやすい美しい文章が憲法の前文としてふさわしいものであって、普遍的な価値観でないものを無理やり押し込んで、それを押しつけるがごとくのような前文は厳に排除したいと思います。
以上です。
中
中川正春#28
○中川(正)委員 民主党の中川正春です。
表現の仕方についてはさっきの河野さんのお話のとおりだと思うんですが、それこそ、工夫の余地も含めてあるんだというふうに思います。
もう一つ、歴史的な背景の中で、前文だけじゃなくて憲法そのものを考えていったときに、私は二つの意味合いを持って考えていくべきだと思っています。
一つは、普遍的な価値観、主権在民あるいは平和主義、あるいはまた、前文にはそう強調されていませんが、人権ということについて、この憲法で日本国民はこれを普遍的な人類の原理であるということを受け入れたというか、それを普遍的な価値観として日本国民としてもしっかりと実現をしていこう、そういう価値観として定義をしたということが一つあるんだろうというふうに思うんです。
その後の歴史のプロセスの中でそれを実現していくというのは、日本人の気持ちの中には、いわゆるキャッチアップというか、戦前の日本の歴史の反省ということもあって、日本はおくれているんだ、だから、このユニバーサルな普遍的な価値に向かって日本の国をつくっていくんだという、キャッチアップ的な、追いつけ追い越せという、そういう形の中で国づくりをしてきたんじゃないかというふうに思います。
それが、今回、この日本国憲法をもう一度原点に戻って見直していくというプロセスの中で、特に私たち戦後世代が、新しく心に秘めたというか、これではだめだというところから出発するのは、やはりキャッチアップだけということじゃなくて、私たち自身が世界に向かって発信をしていく、あるいはつくり上げていく価値観を、もう一回歴史を見直す中で何かこの憲法の中に表現をしていきたい、そういう基本的なものを日本の国民として持っていきたい、そんなものが出てきているんじゃないか。それが何なのかということをしっかりと議論していくということが、私たちのこの調査会あるいは国民全体としてのこれからの生きざまにしっかりかかわってくるんだと思うんです。
一言で言えば、発展途上国型からしっかりとした成熟型の社会になって、それで、その成熟した我々の生きざまというのをこの憲法の中に表現していくということ、このプロセスが今私たちにあるんだろうというふうに思います。
そんな中で、さまざまにこれから議論をしていきたいというふうに思うんですが、さっきから出ていたように、では、日本の価値観というか、私たちの中にあるほうふつとしたものというのは何なのかというのを漠然と今例えば指摘をするとすれば、自然との調和、これを重んじていく、あるいは生命の尊重、慈愛というようなもの、あるいは多神教的な包容性というのを全体の中に持っていく、あるいは勤労というものを善とする価値観であるとか、あるいは社会や家族による共生、その温かさ、そんなもので包み込んでいく社会のあり方とかいうようなことを、法的にあるいは法的規範として憲法の中で表現していくのがいいのか、それとも、それは憲法という形を使わずに、もっと違った社会的規範の中で私たちが価値観を高めていかなければならないのか。
この議論は一つあるんだと思うんですが、そんな中でも、やはり成熟した私たちの日本人としての気持ちというのをどこかで表現していきたいということ、これを憲法の中にも、ぜひこの前文の中に入れていきたいということでございます。
以上です。
この発言だけを見る →表現の仕方についてはさっきの河野さんのお話のとおりだと思うんですが、それこそ、工夫の余地も含めてあるんだというふうに思います。
もう一つ、歴史的な背景の中で、前文だけじゃなくて憲法そのものを考えていったときに、私は二つの意味合いを持って考えていくべきだと思っています。
一つは、普遍的な価値観、主権在民あるいは平和主義、あるいはまた、前文にはそう強調されていませんが、人権ということについて、この憲法で日本国民はこれを普遍的な人類の原理であるということを受け入れたというか、それを普遍的な価値観として日本国民としてもしっかりと実現をしていこう、そういう価値観として定義をしたということが一つあるんだろうというふうに思うんです。
その後の歴史のプロセスの中でそれを実現していくというのは、日本人の気持ちの中には、いわゆるキャッチアップというか、戦前の日本の歴史の反省ということもあって、日本はおくれているんだ、だから、このユニバーサルな普遍的な価値に向かって日本の国をつくっていくんだという、キャッチアップ的な、追いつけ追い越せという、そういう形の中で国づくりをしてきたんじゃないかというふうに思います。
それが、今回、この日本国憲法をもう一度原点に戻って見直していくというプロセスの中で、特に私たち戦後世代が、新しく心に秘めたというか、これではだめだというところから出発するのは、やはりキャッチアップだけということじゃなくて、私たち自身が世界に向かって発信をしていく、あるいはつくり上げていく価値観を、もう一回歴史を見直す中で何かこの憲法の中に表現をしていきたい、そういう基本的なものを日本の国民として持っていきたい、そんなものが出てきているんじゃないか。それが何なのかということをしっかりと議論していくということが、私たちのこの調査会あるいは国民全体としてのこれからの生きざまにしっかりかかわってくるんだと思うんです。
一言で言えば、発展途上国型からしっかりとした成熟型の社会になって、それで、その成熟した我々の生きざまというのをこの憲法の中に表現していくということ、このプロセスが今私たちにあるんだろうというふうに思います。
そんな中で、さまざまにこれから議論をしていきたいというふうに思うんですが、さっきから出ていたように、では、日本の価値観というか、私たちの中にあるほうふつとしたものというのは何なのかというのを漠然と今例えば指摘をするとすれば、自然との調和、これを重んじていく、あるいは生命の尊重、慈愛というようなもの、あるいは多神教的な包容性というのを全体の中に持っていく、あるいは勤労というものを善とする価値観であるとか、あるいは社会や家族による共生、その温かさ、そんなもので包み込んでいく社会のあり方とかいうようなことを、法的にあるいは法的規範として憲法の中で表現していくのがいいのか、それとも、それは憲法という形を使わずに、もっと違った社会的規範の中で私たちが価値観を高めていかなければならないのか。
この議論は一つあるんだと思うんですが、そんな中でも、やはり成熟した私たちの日本人としての気持ちというのをどこかで表現していきたいということ、これを憲法の中にも、ぜひこの前文の中に入れていきたいということでございます。
以上です。
辻
辻惠#29
○辻委員 民主党・無所属クラブの辻惠でございます。
河野委員がおっしゃったように、普遍的な原理を前文でうたうべきであるというふうに私も思います。そういう意味において、今の日本国憲法の前文は、まさに人類の知恵の集積である普遍的原理をうたっているものであるということにおいて、変更する必要は全くないというふうに私は考えます。
確かに、日本の歴史、伝統、文化ということが重要であり、私も日々、自分がやはり日本人だなということを感じることがあるし、この国を何とかしたいという思いが非常に強くあります。そのときに、では、日本の歴史、伝統、文化のいいものが今存在するのか、どういうふうに今後つくっていくのか、このことが問われるべきであって、かけ声だけ日本の歴史、伝統、文化というふうに言ったってそれは意味がない。復古調のものしか出てこないわけです。戦前の日本の歴史、伝統、文化はよい面もあったけれども、では、現在的にどうするのか。親を敬ったり、人に本当に思いやりをやる、そういうような文化が今の各世代に息づいていない、まさにそこの方がより問題なわけであります。
ですから、現在的にどう日本の歴史、伝統、文化を見直していいものをつくっていくのかこそが問われているわけであって、憲法の前文にうたえば何かが変わる、そういう問題では全くないと私は思います。
例えば、今、産業再生機構やRCCということで日本の企業の再生が問題になっております。では、日本の歴史、伝統、文化というふうにおっしゃるのならば、今のRCCなり産業再生機構が、株主資本主義、原理原則で今の企業を非常にグローバルスタンダード、営利主義で解体的にしている。今の日本の企業を本当に日本の歴史、伝統、文化に基づいて再生していくということが問われているわけであります。
従業員や債権者や、そして、そこまで育ててきた創業者の立場なりを考えるということが日本の歴史、伝統、文化に根差した企業再生文化であろう、それをどうつくっていくのかということが問題であるときに、一方的にそれを解体するということにもろ手を挙げている自民党・竹中路線ということについてどうして批判しないんですか。日本の歴史、伝統、文化と言うのであれば、まさに企業再生文化において日本の歴史、伝統、文化を生み直すべきなのではないでしょうか。私はそう思います。
そういう意味において、かけ声ではなくて、日本の歴史、伝統、文化、本当に従来のいいものを今つくり直すこと、そこに全力を傾注すべきであって、そこが忘れられて、単に空理空論で前文にうたえばいいということで事足れりとするのはやはり間違った考え方であろう、このように思っております。
以上です。
この発言だけを見る →河野委員がおっしゃったように、普遍的な原理を前文でうたうべきであるというふうに私も思います。そういう意味において、今の日本国憲法の前文は、まさに人類の知恵の集積である普遍的原理をうたっているものであるということにおいて、変更する必要は全くないというふうに私は考えます。
確かに、日本の歴史、伝統、文化ということが重要であり、私も日々、自分がやはり日本人だなということを感じることがあるし、この国を何とかしたいという思いが非常に強くあります。そのときに、では、日本の歴史、伝統、文化のいいものが今存在するのか、どういうふうに今後つくっていくのか、このことが問われるべきであって、かけ声だけ日本の歴史、伝統、文化というふうに言ったってそれは意味がない。復古調のものしか出てこないわけです。戦前の日本の歴史、伝統、文化はよい面もあったけれども、では、現在的にどうするのか。親を敬ったり、人に本当に思いやりをやる、そういうような文化が今の各世代に息づいていない、まさにそこの方がより問題なわけであります。
ですから、現在的にどう日本の歴史、伝統、文化を見直していいものをつくっていくのかこそが問われているわけであって、憲法の前文にうたえば何かが変わる、そういう問題では全くないと私は思います。
例えば、今、産業再生機構やRCCということで日本の企業の再生が問題になっております。では、日本の歴史、伝統、文化というふうにおっしゃるのならば、今のRCCなり産業再生機構が、株主資本主義、原理原則で今の企業を非常にグローバルスタンダード、営利主義で解体的にしている。今の日本の企業を本当に日本の歴史、伝統、文化に基づいて再生していくということが問われているわけであります。
従業員や債権者や、そして、そこまで育ててきた創業者の立場なりを考えるということが日本の歴史、伝統、文化に根差した企業再生文化であろう、それをどうつくっていくのかということが問題であるときに、一方的にそれを解体するということにもろ手を挙げている自民党・竹中路線ということについてどうして批判しないんですか。日本の歴史、伝統、文化と言うのであれば、まさに企業再生文化において日本の歴史、伝統、文化を生み直すべきなのではないでしょうか。私はそう思います。
そういう意味において、かけ声ではなくて、日本の歴史、伝統、文化、本当に従来のいいものを今つくり直すこと、そこに全力を傾注すべきであって、そこが忘れられて、単に空理空論で前文にうたえばいいということで事足れりとするのはやはり間違った考え方であろう、このように思っております。
以上です。