厚生委員会
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会
会議録情報#0
平成九年四月十五日(火曜日)
午前十時五分開議
出席委員
委員長 町村 信孝君
理事 佐藤 剛男君 理事 住 博司君
理事 津島 雄二君 理事 長勢 甚遠君
理事 岡田 克也君 理事 山本 孝史君
理事 五島 正規君 理事 児玉 健次君
伊吹 文明君 今村 雅弘君
江渡 聡徳君 大野 松茂君
奥山 茂彦君 嘉数 知賢君
岸田 文雄君 阪上 善秀君
桜井 郁三君 下地 幹郎君
下村 博文君 鈴木 俊一君
田村 憲久君 根本 匠君
桧田 仁君 松本 純君
保岡 興治君 山下 徳夫君
青山 二三君 井上 喜一君
池坊 保子君 漆原 良夫君
大口 善徳君 鴨下 一郎君
倉田 栄喜君 坂口 力君
武山百合子君 福島 豊君
桝屋 敬悟君 矢上 雅義君
山中 燁子君 吉田 幸弘君
米津 等史君 家西 悟君
石毛 鍈子君 枝野 幸男君
瀬古由起子君 秋葉 忠利君
中川 智子君 土屋 品子君
出席政府委員
厚生政務次官 鈴木 俊一君
委員外の出席者
議 員 中山 太郎君
議 員 自見庄三郎君
議 員 桧田 仁君
議 員 山口 俊一君
一 議 員 福島 豊君
議 員 矢上 雅義君
議 員 五島 正規君
議 員 金田 誠一君
議 員 山本 孝史君
議 員 枝野 幸男君
議 員 海江田万里君
議 員 北村 哲男君
議 員 秋葉 忠利君
議 員 遠藤 武彦君
厚生省保健医療
局疾病対策課臓
器移植対策室長
貝谷 伸君
厚生委員会調査
室長 市川 喬君
―――――――――――――
委員の異動
四月十五日
辞任 補欠選任
安倍 晋三君 阪上 善秀君
大村 秀章君 下地 幹郎君
嘉数 知賢君 大野 松茂君
根本 匠君 岸田 文雄君
能勢 和子君 保岡 興治君
山下 徳夫君 今村 雅弘君
坂口 力君 漆原 良夫君
福島 豊君 池坊 保子君
吉田 幸弘君 倉田 栄喜君
中川 智子君 秋葉 忠利君
同日
辞任 補欠選任
今村 雅弘君 山下 徳夫君
大野 松茂君 嘉数 知賢君
岸田 文雄君 根本 匠君
阪上 善秀君 安倍 晋三君
下地 幹郎君 大村 秀章君
保岡 興治君 下村 博文君
池坊 保子君 武山百合子君
漆原 良夫君 山中 燁子君
倉田 栄喜君 吉田 幸弘君
秋葉 忠利君 中川 智子君
同日
辞任 補欠選任
下村 博文君 能勢 和子君
武山百合子君 福島 豊君
山中 燁子君 坂口 力君
―――――――――――――
本日の会議に付した案件
参考人出頭要求に関する件
臓器の移植に関する法律案(中山太郎君外十三
名提出、第百三十九回国会衆法第一二号)
臓器の移植に関する法律案(金田誠一君外五名
提出、衆法第一七号)
――――◇―――――
この発言だけを見る →午前十時五分開議
出席委員
委員長 町村 信孝君
理事 佐藤 剛男君 理事 住 博司君
理事 津島 雄二君 理事 長勢 甚遠君
理事 岡田 克也君 理事 山本 孝史君
理事 五島 正規君 理事 児玉 健次君
伊吹 文明君 今村 雅弘君
江渡 聡徳君 大野 松茂君
奥山 茂彦君 嘉数 知賢君
岸田 文雄君 阪上 善秀君
桜井 郁三君 下地 幹郎君
下村 博文君 鈴木 俊一君
田村 憲久君 根本 匠君
桧田 仁君 松本 純君
保岡 興治君 山下 徳夫君
青山 二三君 井上 喜一君
池坊 保子君 漆原 良夫君
大口 善徳君 鴨下 一郎君
倉田 栄喜君 坂口 力君
武山百合子君 福島 豊君
桝屋 敬悟君 矢上 雅義君
山中 燁子君 吉田 幸弘君
米津 等史君 家西 悟君
石毛 鍈子君 枝野 幸男君
瀬古由起子君 秋葉 忠利君
中川 智子君 土屋 品子君
出席政府委員
厚生政務次官 鈴木 俊一君
委員外の出席者
議 員 中山 太郎君
議 員 自見庄三郎君
議 員 桧田 仁君
議 員 山口 俊一君
一 議 員 福島 豊君
議 員 矢上 雅義君
議 員 五島 正規君
議 員 金田 誠一君
議 員 山本 孝史君
議 員 枝野 幸男君
議 員 海江田万里君
議 員 北村 哲男君
議 員 秋葉 忠利君
議 員 遠藤 武彦君
厚生省保健医療
局疾病対策課臓
器移植対策室長
貝谷 伸君
厚生委員会調査
室長 市川 喬君
―――――――――――――
委員の異動
四月十五日
辞任 補欠選任
安倍 晋三君 阪上 善秀君
大村 秀章君 下地 幹郎君
嘉数 知賢君 大野 松茂君
根本 匠君 岸田 文雄君
能勢 和子君 保岡 興治君
山下 徳夫君 今村 雅弘君
坂口 力君 漆原 良夫君
福島 豊君 池坊 保子君
吉田 幸弘君 倉田 栄喜君
中川 智子君 秋葉 忠利君
同日
辞任 補欠選任
今村 雅弘君 山下 徳夫君
大野 松茂君 嘉数 知賢君
岸田 文雄君 根本 匠君
阪上 善秀君 安倍 晋三君
下地 幹郎君 大村 秀章君
保岡 興治君 下村 博文君
池坊 保子君 武山百合子君
漆原 良夫君 山中 燁子君
倉田 栄喜君 吉田 幸弘君
秋葉 忠利君 中川 智子君
同日
辞任 補欠選任
下村 博文君 能勢 和子君
武山百合子君 福島 豊君
山中 燁子君 坂口 力君
―――――――――――――
本日の会議に付した案件
参考人出頭要求に関する件
臓器の移植に関する法律案(中山太郎君外十三
名提出、第百三十九回国会衆法第一二号)
臓器の移植に関する法律案(金田誠一君外五名
提出、衆法第一七号)
――――◇―――――
町
町村信孝#1
○町村委員長 これより会議を開きます。
第百三十九回国会、中山太郎君外十三名提出、臓器の移植に関する法律案及び金田誠一君外五名提出、臓器の移植に関する法律案の両案を一括して議題といたします。
質疑の申し出がありますので、順次これを許します。保岡興治君。
この発言だけを見る →第百三十九回国会、中山太郎君外十三名提出、臓器の移植に関する法律案及び金田誠一君外五名提出、臓器の移植に関する法律案の両案を一括して議題といたします。
質疑の申し出がありますので、順次これを許します。保岡興治君。
保
保岡興治#2
○保岡委員 私は、選挙区の難病患者の皆さんから臓器の移植法の国会成立を陳情されて以来、中山先生に、一日も早く法案の成立を図りましようとお願いをし続けてきた一人でございます。しかし、臓器移植というのは考えれば考えるほど大変なことで、自分がドナーやレシピェントになった場合のことを思うと、まだまだ簡単に割り切れない部分が残るのも事実でございます。
しかし、人間は、宇宙の秩序や生命の神秘さ、これを支配する原理の偉大さ等、とてもこれに及ぶ存在ではないとは思いつつ、その存在に畏敬の念を持ちつつ、生命の神秘に迫る努力を続けてきたのだと思います。移植医療もまた、そういう生命の真理に迫る、人間としての、あるいは人類としての大切な努力の一つではないか、そう思っております。
また、せんだっての、米国で心臓の移植手術を受けられた参考人の木内さんの真摯な生きる姿勢や、作家の柳田邦男さんの御子息の腎臓の移植を受けられた男性の方が、病に冒されてゆがんでいた性格までよみがえって社会復帰されているようなお話を伺いますと、本当に、移植の持つ深い意味あるいは道のりから日本人や日本の国が取り残されていってはならないということをひしひしと感じています。
これまで移植問題にいろいろな立場から真剣に取り組まれてきた方々、中山先生や、また対案を出された金田先生を初め、臓器移植法の成立に全力を上げてこられた先生方にまず心から敬意を表して、質問を始めたいと思います。
まず、脳死を死とする臓器移植法と、脳死を死としない臓器移植法と、二本の法案が提出されているわけでございますけれども、いずれの法案も臓器移植を推進する立場でございます。今国会で、臓器移植を可能とする法律をぜひとも成立させなければならないと思いますが、両提案者にそれぞれお考えを伺いたいと思います。
この発言だけを見る →しかし、人間は、宇宙の秩序や生命の神秘さ、これを支配する原理の偉大さ等、とてもこれに及ぶ存在ではないとは思いつつ、その存在に畏敬の念を持ちつつ、生命の神秘に迫る努力を続けてきたのだと思います。移植医療もまた、そういう生命の真理に迫る、人間としての、あるいは人類としての大切な努力の一つではないか、そう思っております。
また、せんだっての、米国で心臓の移植手術を受けられた参考人の木内さんの真摯な生きる姿勢や、作家の柳田邦男さんの御子息の腎臓の移植を受けられた男性の方が、病に冒されてゆがんでいた性格までよみがえって社会復帰されているようなお話を伺いますと、本当に、移植の持つ深い意味あるいは道のりから日本人や日本の国が取り残されていってはならないということをひしひしと感じています。
これまで移植問題にいろいろな立場から真剣に取り組まれてきた方々、中山先生や、また対案を出された金田先生を初め、臓器移植法の成立に全力を上げてこられた先生方にまず心から敬意を表して、質問を始めたいと思います。
まず、脳死を死とする臓器移植法と、脳死を死としない臓器移植法と、二本の法案が提出されているわけでございますけれども、いずれの法案も臓器移植を推進する立場でございます。今国会で、臓器移植を可能とする法律をぜひとも成立させなければならないと思いますが、両提案者にそれぞれお考えを伺いたいと思います。
中
中山太郎#3
○中山(太)議員 この国会におきまして法案が二つ出されて、しかも、幾つかの部門で基本的なところに相違があるということを、私の立場から、提案者十三名を代表して申し上げておきたいと思います。
脳死が人の死であると社会的には容認されて、合意されているといったようなことは脳死臨調で
も明らかになっておりますし、また、日本のメディカルプロフェッショナルの日本医師会の、元東大総長の加藤一郎先生を座長とする生命倫理懇談会でも、脳死は人の死であるという考え方でおおむね答申が出され、日本医師会がこれを発表した。
死の診断権を持っているという者は、法治国家である日本では、医師に与えられた職業的な権限、こういうことでございますので、人間の死に関する診断というものは非常に慎重にしなければならない。従来、死の三徴候説で診断が行われておりましたが、脳死判定基準というものができまして、今日のような法案を提出する結果になってきたわけであります。
問題として私どもが考えておりますことは、あくまでも脳死判定が行われて、しかも一定の、六時間、最低の時間が経過して、再び診断が行われて、竹内基準をもって診断をし、さらに聴性脳幹反応というものがどういう形になっているかということを確認した上で死亡診断を行う、こういうのが一つの医学の専門領域での基本的な基準であろうと私は思います。
これに対して、あくまでも本人の生存中の御意思が明確に文書で残されている場合で、御遺族が反対をされない場合という場合に限定をしております。対案の中で、御家族が脳死状態からの摘出に同意された場合にはこれをすることができるという考え方について、この法案にも書かれておりますように、「遺族」という言葉と「家族」という言葉が使われております。私どもは、あくまでも亡くなられた方ということが最大の重要な条件であるというふうに認識をしております。そこが基本的な違いであろうと思います。
この発言だけを見る →脳死が人の死であると社会的には容認されて、合意されているといったようなことは脳死臨調で
も明らかになっておりますし、また、日本のメディカルプロフェッショナルの日本医師会の、元東大総長の加藤一郎先生を座長とする生命倫理懇談会でも、脳死は人の死であるという考え方でおおむね答申が出され、日本医師会がこれを発表した。
死の診断権を持っているという者は、法治国家である日本では、医師に与えられた職業的な権限、こういうことでございますので、人間の死に関する診断というものは非常に慎重にしなければならない。従来、死の三徴候説で診断が行われておりましたが、脳死判定基準というものができまして、今日のような法案を提出する結果になってきたわけであります。
問題として私どもが考えておりますことは、あくまでも脳死判定が行われて、しかも一定の、六時間、最低の時間が経過して、再び診断が行われて、竹内基準をもって診断をし、さらに聴性脳幹反応というものがどういう形になっているかということを確認した上で死亡診断を行う、こういうのが一つの医学の専門領域での基本的な基準であろうと私は思います。
これに対して、あくまでも本人の生存中の御意思が明確に文書で残されている場合で、御遺族が反対をされない場合という場合に限定をしております。対案の中で、御家族が脳死状態からの摘出に同意された場合にはこれをすることができるという考え方について、この法案にも書かれておりますように、「遺族」という言葉と「家族」という言葉が使われております。私どもは、あくまでも亡くなられた方ということが最大の重要な条件であるというふうに認識をしております。そこが基本的な違いであろうと思います。
保
金
金田誠一#5
○金田(誠)議員 私ども、脳死を人の死としない、脳死状態を死体と規定しないという立場から、ようやくこの三月三十一日に法律を提出することができたわけでございます。作業に取りかかりましたのは昨年十二月でございますけれども、その間、法制局と大変なやりとりをいたしました。そういう立法が可能であるかないのかというやりとりでございます。
実は、それ以前、各党協の段階から、あるいは中山先生の前の法案が提出された段階、この期間を通じて、法制局は恐らく、脳死状態を死あるいは死体という規定を設けなければ立法は不可能だという立場をとっておられたのではないかな、こう記憶をいたしてございます。その後、これに並行しながら、例えば日弁連の独自案が出されたり、社会の議論が進んだりという背景のもとに、ようやくこの三月の段階になって、脳死状態を死とするという規定を設けずに立法が可能だという意見も認めていただけることになったのかなと思うわけでございます。そういう状況になって初めて、私どもの法律が可能になったというふうに思ってございます。
したがって、もし、各党協の当初の段階から、選択肢は二つある、脳死状態を死体とする、脳死を人の死とするという規定を設けて立法する方法が一つ、もう一つは、そうではない、脳死状態は脳死状態、それを死と思う人もいれば思わない人もいるという状況のもとで立法する方法が一つ、最初から二つの選択肢があって、どちらを選ぶのですかという問いかけがあり、検討がなされていたとすれば、私は、もっと違う議論の経過をたどって今日に至っていたのではないのかなというふうに思うわけでございます。それは、だれがいいとか悪いとかという問題ではなくて、事実としてそういう経過であったと思うわけでございます。
その上で、今二つの法案が明確に存在するわけでございますけれども、これに対しては、社会の受けとめとしては、脳死を死と認識する方あるいはしない方、どちらともわからないという答えをされる方、さまざまでございます。そして、医学の世界でも、先般の参考人の御意見でも、明確に、脳死状態としか言い切れない、死ではないとおっしゃった方がお二方いらっしゃったと思うわけでございます。現状はまさにそういう状況でございます。
これについて立法の決意ということでございますけれども、本来であれば、法律がなくても、先般の参考人の御意見にもございましたが、メディカルプロフェッションという立場で、社会的合意、信頼が形成されていればそういう道もあったろうと思いますし、それが望ましかったと思うわけでございますが、今日の時点では、私どもは、やはり法律によるしかないかなという立場で法律を提出させていただいております。
したがって、できるなら私どもの法律が成立することを望んでございますが、しかし、この法律、本当に採決、表決で決めるべきものなのかなという思いも実はいたしてございます。何らかの方法がないものかなという思いも正直ございます。
この発言だけを見る →実は、それ以前、各党協の段階から、あるいは中山先生の前の法案が提出された段階、この期間を通じて、法制局は恐らく、脳死状態を死あるいは死体という規定を設けなければ立法は不可能だという立場をとっておられたのではないかな、こう記憶をいたしてございます。その後、これに並行しながら、例えば日弁連の独自案が出されたり、社会の議論が進んだりという背景のもとに、ようやくこの三月の段階になって、脳死状態を死とするという規定を設けずに立法が可能だという意見も認めていただけることになったのかなと思うわけでございます。そういう状況になって初めて、私どもの法律が可能になったというふうに思ってございます。
したがって、もし、各党協の当初の段階から、選択肢は二つある、脳死状態を死体とする、脳死を人の死とするという規定を設けて立法する方法が一つ、もう一つは、そうではない、脳死状態は脳死状態、それを死と思う人もいれば思わない人もいるという状況のもとで立法する方法が一つ、最初から二つの選択肢があって、どちらを選ぶのですかという問いかけがあり、検討がなされていたとすれば、私は、もっと違う議論の経過をたどって今日に至っていたのではないのかなというふうに思うわけでございます。それは、だれがいいとか悪いとかという問題ではなくて、事実としてそういう経過であったと思うわけでございます。
その上で、今二つの法案が明確に存在するわけでございますけれども、これに対しては、社会の受けとめとしては、脳死を死と認識する方あるいはしない方、どちらともわからないという答えをされる方、さまざまでございます。そして、医学の世界でも、先般の参考人の御意見でも、明確に、脳死状態としか言い切れない、死ではないとおっしゃった方がお二方いらっしゃったと思うわけでございます。現状はまさにそういう状況でございます。
これについて立法の決意ということでございますけれども、本来であれば、法律がなくても、先般の参考人の御意見にもございましたが、メディカルプロフェッションという立場で、社会的合意、信頼が形成されていればそういう道もあったろうと思いますし、それが望ましかったと思うわけでございますが、今日の時点では、私どもは、やはり法律によるしかないかなという立場で法律を提出させていただいております。
したがって、できるなら私どもの法律が成立することを望んでございますが、しかし、この法律、本当に採決、表決で決めるべきものなのかなという思いも実はいたしてございます。何らかの方法がないものかなという思いも正直ございます。
保
保岡興治#6
○保岡委員 両法案の提案者からお話がございましたが、しかし、いろいろ模索するにしても、臨調の答申を得てからもう五年もたっておりますし、また、この法案が国会で審議されるようになってからももう三年が過ぎている。私は、この国会でぜひ成立を期すべきがお互いの責任だと思います。
そこで、本会議に何か中間報告の形でかけて、そこでいきなり採決というようなことが検討されているかに聞くのですが、その場合に、修正案から、原案に遠い案から採決をしていくという原則だそうです。そういう場合に、修正案として少数であった場合、次に、次善の法案とされる次の法案に賛成する、こういう過程がないと、臓器移植法の法案が分立するために、かえって、移植の法案を成立させるべきだという議員が多いにもかかわらず、それが否定されてしまうという結果にもなりかねませんが、その点について、ごく簡単に、後また質問もありますので、結論を修正案の提案者に伺いたい。
この発言だけを見る →そこで、本会議に何か中間報告の形でかけて、そこでいきなり採決というようなことが検討されているかに聞くのですが、その場合に、修正案から、原案に遠い案から採決をしていくという原則だそうです。そういう場合に、修正案として少数であった場合、次に、次善の法案とされる次の法案に賛成する、こういう過程がないと、臓器移植法の法案が分立するために、かえって、移植の法案を成立させるべきだという議員が多いにもかかわらず、それが否定されてしまうという結果にもなりかねませんが、その点について、ごく簡単に、後また質問もありますので、結論を修正案の提案者に伺いたい。
金
金田誠一#7
○金田(誠)議員 私ども、修正案という形ではなくて、対案ということで提出させていただいているわけでございます。
議会運営の方法、定かには承知はいたしてございませんが、仄聞いたしますと、初めに中山先生の案が採決に付され、その後、私どもの案が採決に付されるやに伺っておりますが、そういうことかなと思っておるところでございます。
この発言だけを見る →議会運営の方法、定かには承知はいたしてございませんが、仄聞いたしますと、初めに中山先生の案が採決に付され、その後、私どもの案が採決に付されるやに伺っておりますが、そういうことかなと思っておるところでございます。
保
保岡興治#8
○保岡委員 そこはよく両提案者でお話しをいただいて、あるいは議運とも相談をされて、臓器移植法の賛成者の多数が法案を得ることができるようにぜひお願いをしたいと思います。
そこで、今度の審議を通じて、いろいろ伺っていますと、脳死という死の概念は臓器移植のために便宜的に方便としてつくられたものであるというような批判がなされました。私は、全くそういうことはないと思います。そもそも医学的に脳死が死であると定義されていった経緯からいっても、私は、脳死の死の定義と移植とはきちっと区別されてきたというふうに認識しておりますが、中山先生、いかがでございましょうか。
この発言だけを見る →そこで、今度の審議を通じて、いろいろ伺っていますと、脳死という死の概念は臓器移植のために便宜的に方便としてつくられたものであるというような批判がなされました。私は、全くそういうことはないと思います。そもそも医学的に脳死が死であると定義されていった経緯からいっても、私は、脳死の死の定義と移植とはきちっと区別されてきたというふうに認識しておりますが、中山先生、いかがでございましょうか。
中
中山太郎#9
○中山(太)議員 先生のお尋ねにつきましては、脳死の概念についての歴史がございます。
アメリカにおきましては、一九〇〇年初頭から、脳死状態があることがわかっておりましたが、その後、一九五〇年代に入りまして、人工呼吸器が普及されるようになり、脳死状態があることが明確にわかるようになり、一九六八年に、ハーバード大学において、これら脳死状態を明確に判定するため、世界初の脳死判定基準が作成されました。この基準は、脳死を正確に判定するものであり、脳死は人の死としたものではないと承知しております。その後、一九八一年に大統領委員会において死の判定に関する統一法案が作成され、このモデル法案の中で、脳死は人の死であると公に定義されたという経緯がございます。
以上が米国における今日までの経過でございます。
我が国におきましても、一九七四年、昭和四十九年に日本脳波学会において脳死判定基準を作成後、一九八五年、厚生省研究班において竹内基準が作成をされました。この研究班の報告書において、「本指針では脳死をもって人の死とは決して定めていない。」としているところであり、この竹内基準も、脳死を正確に判定するために作成された基準であると理解をいたしております。その後、昭和六十三年に日本医師会生命倫理懇談会が「脳死および臓器移植についての最終報告」を出し、「従来の心臓死のほかに、脳の死をもって人間の個体死と認めてよい。」という見解を発表したと聞いております。また、平成四年の脳死臨調答申においても、「脳死をもって「人の死」とすることについては概ね社会的に受容され合意されているといってよい」との答申が出されております。
このようなことで、脳死につきましては、純粋に医学的に脳死に対する研究が行われ、その結果、脳死判定基準が作成され、その後、脳死は人の死と社会的に受容された経緯をとっており、決して、臓器移植のために脳死判定基準を作成し、かつ、脳死を人の死と決定したわけではないと理解をいたしております。
この発言だけを見る →アメリカにおきましては、一九〇〇年初頭から、脳死状態があることがわかっておりましたが、その後、一九五〇年代に入りまして、人工呼吸器が普及されるようになり、脳死状態があることが明確にわかるようになり、一九六八年に、ハーバード大学において、これら脳死状態を明確に判定するため、世界初の脳死判定基準が作成されました。この基準は、脳死を正確に判定するものであり、脳死は人の死としたものではないと承知しております。その後、一九八一年に大統領委員会において死の判定に関する統一法案が作成され、このモデル法案の中で、脳死は人の死であると公に定義されたという経緯がございます。
以上が米国における今日までの経過でございます。
我が国におきましても、一九七四年、昭和四十九年に日本脳波学会において脳死判定基準を作成後、一九八五年、厚生省研究班において竹内基準が作成をされました。この研究班の報告書において、「本指針では脳死をもって人の死とは決して定めていない。」としているところであり、この竹内基準も、脳死を正確に判定するために作成された基準であると理解をいたしております。その後、昭和六十三年に日本医師会生命倫理懇談会が「脳死および臓器移植についての最終報告」を出し、「従来の心臓死のほかに、脳の死をもって人間の個体死と認めてよい。」という見解を発表したと聞いております。また、平成四年の脳死臨調答申においても、「脳死をもって「人の死」とすることについては概ね社会的に受容され合意されているといってよい」との答申が出されております。
このようなことで、脳死につきましては、純粋に医学的に脳死に対する研究が行われ、その結果、脳死判定基準が作成され、その後、脳死は人の死と社会的に受容された経緯をとっており、決して、臓器移植のために脳死判定基準を作成し、かつ、脳死を人の死と決定したわけではないと理解をいたしております。
保
保岡興治#10
○保岡委員 ありがとうございました。
それと、臨調の大多数の委員の先生方の慎重な検討がなされた旨、今お話もありましたけれども、臨調の答申でございますが、これは議員立法によって設置された、国会の意思でつくられたわけですね。そこで大多数の方が二年にわたって慎重に検討された結果は非常に重いものがある、私はそう思うのです。
そして、この中で、金田案でございますけれども、脳死を死としない考え方の法案は可能であるということが最近になって明確になってきたからというお話がございましたが、また、その後のいろいろな御意見があって提案に至ったというお話がございましたが、私は、この臨調の答申を、真っ向からこれを否定してしまう、ごく一番基本のところで否定してしまう法案になっているのではないだろうかということを非常に強く感じます。
私は、そういった意味で、多くの臨調の委員の先生、あるいは、長い間、脳死に携わって、それをめぐっていろいろ真摯な議論をされてきた方々が、単に移植を目的として、方便として脳死を考えてきたことでないことだけは明らかだというふうに思います。今のお答えは実は金田案の方にぜひお願いしたいのですが、時間もございますので、後で、進めながら、その中でお述べをいただければと思います。
それで、脳死を含む心臓死を死とする考え方と、心臓死のみを死とする考え方、これは世論調をやれば、大体六対四ないし七対三で脳死を死とする考え方が多い。これも私は重い事実だと思います。法律で死を位置づけなければならないということが両法案の宿命であれば、これは、そういうことで法案の提出をしている以上、私としては、この多数の考え方に沿うことが必要不可欠なのではないだろうか、臨調の答申、国民の多数の意思というものに従うことが正しいのではないかと。
九九%余の脳死以外の死は、従来の心臓死の概念で説明できて、この点については両方の考え方に差もないし、あるいは臨床の現場でも別にそう混乱も起こらないことでございます。問題なのは、残る一%弱の部分についてどう考えるか。これによって死の概念を変えるから反対だという意見もありますけれども、私は、ここに、まさにこの一%弱に、人間として、社会として、医療として対応が正確に求められているのが脳死をめぐる題だと思うのです。要は、心臓が動いている、人工呼吸器で呼吸はしている、体温もある、人間のこういった状態をいかに受けとめるかということに尽きるのではないかと思います。
そういった意味で、さきに行われた世論調査で、日本世論調査会の全国調査なんですが、「家族が脳死の状態になった場合、人工呼吸器を外すことについて、あなたはどう思いますか。」という問いに対して、「医師の判断で人工呼吸器を外してよい」とするのが一二・七%、「家族の承諾があれば、外してもよい」というのが六七・一%、「心臓が止まるまでは、人工呼吸器を着けておいてほしい」が一七・三%で、実は八割近くの人が脳死の状態の人から人工呼吸器を外すことを同意というか認めているわけなのです。
このことは極めて重要な意味を持っていて、やはり人間の蘇生の限界点を死とする基本という点では心臓死などと共通しているということが一番基礎にあって、そうして私どもは、人間が脳の機能を喪失して、人間の最も根幹の部分を失って、なお人工的に呼吸をさせたり、その結果、心臓を動かしていることは、むしろ人間の生の尊厳を邪魔するというか、逆らうような、そういう思いも実は一般の人の中にある、これが一つの判断の重要な基礎になっていると思うのです。また、そういう状況になったのに、いたずらに治療、処置を続けるということの問題も、死者に対するいたわりの気持ち、あるいはお医者さんに対する配慮などから人工呼吸器を外すことを容認したという基礎になっていると私は思うのです。
そういうもろもろの、人間の死というものの本来の意味をきちっと考えた上で国民の多数がこの一%の現象に対して正確に答えておる、正しく答えておって、移植のための方便などという認識ではないことは明らかだと私は思うのですね。そういった意味で、私は、これらの世論調査の結果、臨調の大多数の委員の先生方の長年の慎重な審議の結果、それを尊重すべき国会の立場、そして人工呼吸器が生まれてから長年にわたって脳死の定義をしてきた人類の歴史、そういったことを考えれば、これはやはり人類共通の課題であり、人間としての課題であり、日本人の文化とか日本の何か特殊な習慣に基づいて死、脳死の判断をすべき次元の問題ではないように私は思うのです。
そういった意味で、これらの、この一%をめぐる脳死の考え方の多数の考えをむしろ少数に置きかえて立法する姿勢というものが私はよく理解できないのですが、いかがでございましょう。
この発言だけを見る →それと、臨調の大多数の委員の先生方の慎重な検討がなされた旨、今お話もありましたけれども、臨調の答申でございますが、これは議員立法によって設置された、国会の意思でつくられたわけですね。そこで大多数の方が二年にわたって慎重に検討された結果は非常に重いものがある、私はそう思うのです。
そして、この中で、金田案でございますけれども、脳死を死としない考え方の法案は可能であるということが最近になって明確になってきたからというお話がございましたが、また、その後のいろいろな御意見があって提案に至ったというお話がございましたが、私は、この臨調の答申を、真っ向からこれを否定してしまう、ごく一番基本のところで否定してしまう法案になっているのではないだろうかということを非常に強く感じます。
私は、そういった意味で、多くの臨調の委員の先生、あるいは、長い間、脳死に携わって、それをめぐっていろいろ真摯な議論をされてきた方々が、単に移植を目的として、方便として脳死を考えてきたことでないことだけは明らかだというふうに思います。今のお答えは実は金田案の方にぜひお願いしたいのですが、時間もございますので、後で、進めながら、その中でお述べをいただければと思います。
それで、脳死を含む心臓死を死とする考え方と、心臓死のみを死とする考え方、これは世論調をやれば、大体六対四ないし七対三で脳死を死とする考え方が多い。これも私は重い事実だと思います。法律で死を位置づけなければならないということが両法案の宿命であれば、これは、そういうことで法案の提出をしている以上、私としては、この多数の考え方に沿うことが必要不可欠なのではないだろうか、臨調の答申、国民の多数の意思というものに従うことが正しいのではないかと。
九九%余の脳死以外の死は、従来の心臓死の概念で説明できて、この点については両方の考え方に差もないし、あるいは臨床の現場でも別にそう混乱も起こらないことでございます。問題なのは、残る一%弱の部分についてどう考えるか。これによって死の概念を変えるから反対だという意見もありますけれども、私は、ここに、まさにこの一%弱に、人間として、社会として、医療として対応が正確に求められているのが脳死をめぐる題だと思うのです。要は、心臓が動いている、人工呼吸器で呼吸はしている、体温もある、人間のこういった状態をいかに受けとめるかということに尽きるのではないかと思います。
そういった意味で、さきに行われた世論調査で、日本世論調査会の全国調査なんですが、「家族が脳死の状態になった場合、人工呼吸器を外すことについて、あなたはどう思いますか。」という問いに対して、「医師の判断で人工呼吸器を外してよい」とするのが一二・七%、「家族の承諾があれば、外してもよい」というのが六七・一%、「心臓が止まるまでは、人工呼吸器を着けておいてほしい」が一七・三%で、実は八割近くの人が脳死の状態の人から人工呼吸器を外すことを同意というか認めているわけなのです。
このことは極めて重要な意味を持っていて、やはり人間の蘇生の限界点を死とする基本という点では心臓死などと共通しているということが一番基礎にあって、そうして私どもは、人間が脳の機能を喪失して、人間の最も根幹の部分を失って、なお人工的に呼吸をさせたり、その結果、心臓を動かしていることは、むしろ人間の生の尊厳を邪魔するというか、逆らうような、そういう思いも実は一般の人の中にある、これが一つの判断の重要な基礎になっていると思うのです。また、そういう状況になったのに、いたずらに治療、処置を続けるということの問題も、死者に対するいたわりの気持ち、あるいはお医者さんに対する配慮などから人工呼吸器を外すことを容認したという基礎になっていると私は思うのです。
そういうもろもろの、人間の死というものの本来の意味をきちっと考えた上で国民の多数がこの一%の現象に対して正確に答えておる、正しく答えておって、移植のための方便などという認識ではないことは明らかだと私は思うのですね。そういった意味で、私は、これらの世論調査の結果、臨調の大多数の委員の先生方の長年の慎重な審議の結果、それを尊重すべき国会の立場、そして人工呼吸器が生まれてから長年にわたって脳死の定義をしてきた人類の歴史、そういったことを考えれば、これはやはり人類共通の課題であり、人間としての課題であり、日本人の文化とか日本の何か特殊な習慣に基づいて死、脳死の判断をすべき次元の問題ではないように私は思うのです。
そういった意味で、これらの、この一%をめぐる脳死の考え方の多数の考えをむしろ少数に置きかえて立法する姿勢というものが私はよく理解できないのですが、いかがでございましょう。
秋
秋葉忠利#11
○秋葉議員 お答えいたします。
ただいまの御質問の中心点は、法律によって死を定義づける、あるいは法律的な位置づけを死に与えるかどうかというところが中心的なポイントになっております。
その点について申し上げますと、私たちの提出いたしました法案では、法律によって人の死を定義すべきではないということが言い過ぎでしたら、法律によって定義づけなくても、これまでの社会慣習、これまでの死の定義で日本社会においては十分機能する死の概念というものが存在し、機能しているというふうに考えております。
したがいまして、その立場から申し上げれば、さまざまな御指摘、人類全体の広がりやあるいは人類の歴史等を勘案されての非常に意義ある御指摘であり、分析だと思いますけれども、それに私たちは答える立場にありませんと申し上げてもいいのですが、せっかくの機会ですので、何点かについて申し上げたいと思います。
例えば、多数決によって決めるということ、私たちは国会の中でも採決によってこれを決めることにちゅうちょを感じるという趣旨の説明を同僚の金田議員の方からいたしましたけれども、それはやはり、人間の生と死という非常に重い問題を考えるに当たって、私たちがある意味での社会的なコンセンサスをあくまでも求める、十分な理解を求めるということが非常に大事であるという認識がその根底にはございます。
世論調査もいろいろありますけれども、六対四や七対三という世論調査が一方にあれば、そのもう一方には、逆の四対六という世論調査もございます。その一つ一つについて十分な吟味をすることも大切かもしれませんけれども、私は、現時点ではまだそういった国民的なコンセンサスができていないのだというふうに現状を把握する方が大切なのではないかと思います。
数字についてあえて申し上げますと、例えば六
〇%の賛成があるからといって、保岡議員もおっしゃいましたように、九九%の人間の死である心臓死をいわば無視して、脳死という概念をやたらに拡張するような方向ということもどうかと。数字ということで議論を始めれば、そういった議論もしなくてはならないと思います、この委員会はその場ではないと思いますけれども。
それから、最後にもう一つ申し上げたいのですけれども、一%の方々への対応が求められている、その点については、私たちの法案では、脳死を人の死とは認めないけれども、移植を望む人がい、そしてドナーとして提供したい人がいる以上、その意思を尊重しましょうということで、具体的な、実際的な対応は法律として規定しましょうというのが私たちの法案の立場でございます。
ただ、そこで私たちが申し上げているのは、あくまでもこれは移植という目的がある場合に限っておりまして、移植の可能性がない方々に対して、それではこの人は脳死状態であるから、もう人間ではない、だから治療をやめようというような形で、それ以外の方々にも脳死というかぎ括弧つきの死という概念を押し広げる考え方には賛成できないということでございます。
したがって、現状のまま、脳死は人の死とは認めないけれども、しかし、臓器移植に至る法律的な道は開きましようというのが私たちの考え方の結論でございます。
この発言だけを見る →ただいまの御質問の中心点は、法律によって死を定義づける、あるいは法律的な位置づけを死に与えるかどうかというところが中心的なポイントになっております。
その点について申し上げますと、私たちの提出いたしました法案では、法律によって人の死を定義すべきではないということが言い過ぎでしたら、法律によって定義づけなくても、これまでの社会慣習、これまでの死の定義で日本社会においては十分機能する死の概念というものが存在し、機能しているというふうに考えております。
したがいまして、その立場から申し上げれば、さまざまな御指摘、人類全体の広がりやあるいは人類の歴史等を勘案されての非常に意義ある御指摘であり、分析だと思いますけれども、それに私たちは答える立場にありませんと申し上げてもいいのですが、せっかくの機会ですので、何点かについて申し上げたいと思います。
例えば、多数決によって決めるということ、私たちは国会の中でも採決によってこれを決めることにちゅうちょを感じるという趣旨の説明を同僚の金田議員の方からいたしましたけれども、それはやはり、人間の生と死という非常に重い問題を考えるに当たって、私たちがある意味での社会的なコンセンサスをあくまでも求める、十分な理解を求めるということが非常に大事であるという認識がその根底にはございます。
世論調査もいろいろありますけれども、六対四や七対三という世論調査が一方にあれば、そのもう一方には、逆の四対六という世論調査もございます。その一つ一つについて十分な吟味をすることも大切かもしれませんけれども、私は、現時点ではまだそういった国民的なコンセンサスができていないのだというふうに現状を把握する方が大切なのではないかと思います。
数字についてあえて申し上げますと、例えば六
〇%の賛成があるからといって、保岡議員もおっしゃいましたように、九九%の人間の死である心臓死をいわば無視して、脳死という概念をやたらに拡張するような方向ということもどうかと。数字ということで議論を始めれば、そういった議論もしなくてはならないと思います、この委員会はその場ではないと思いますけれども。
それから、最後にもう一つ申し上げたいのですけれども、一%の方々への対応が求められている、その点については、私たちの法案では、脳死を人の死とは認めないけれども、移植を望む人がい、そしてドナーとして提供したい人がいる以上、その意思を尊重しましょうということで、具体的な、実際的な対応は法律として規定しましょうというのが私たちの法案の立場でございます。
ただ、そこで私たちが申し上げているのは、あくまでもこれは移植という目的がある場合に限っておりまして、移植の可能性がない方々に対して、それではこの人は脳死状態であるから、もう人間ではない、だから治療をやめようというような形で、それ以外の方々にも脳死というかぎ括弧つきの死という概念を押し広げる考え方には賛成できないということでございます。
したがって、現状のまま、脳死は人の死とは認めないけれども、しかし、臓器移植に至る法律的な道は開きましようというのが私たちの考え方の結論でございます。
保
保岡興治#12
○保岡委員 金田案にしても、「死体又は脳死状態にある者の身体から」というその条文がある以上は、死の法律的な位置づけをきちっとして解釈することになるので、法律上、脳死をどう位置づけるかということはこれはもう必然的なことだと思います。
そしてまた、私は、脳死状態の方へ見舞いに行くときには香典を持っていきますかという話がありますが、これは、死者の尊厳、死後直後の家族の深い悲しみを考慮した社会の慣行があると。私は、脳死が死かどうかとは別だと思っております。先ほど、国民の多数の者が人工呼吸器を外すことを容認した事実でそれは明快だと。それは、亡くなった直後に喪服を着ていきなり行くとか、亡くなった直後に飛んでいって香典を手渡すようなことが礼儀に反するというのと同じような次元の話だと思っております。
また、脳死からお産をする例がある、死体から生があるかという議論もあったようでございますが、これは心臓死から帝王切開で出産する例もあるから、これも必ずしも否定する本質的な議論にならない。
それから、心臓死でも脳死でも、そういった意味で蘇生限界点が動くわけですね。かつては心臓がとまればというのが、電気ショックで動き出すとか。したがって、蘇生限界点が動くことをもって、死の判定基準を論議するのは私はやはり間違いだと思います。
それから、そういったことは別として、私は、金田案の一番問題になるところは、多数の国民の一%に対する認識。これは、裁判官の中にもある、弁護士の中にもある、あるいはいろいろな方々の中にある多数の物の考え方というものがいろいろな法律の判断でも進んでいくと思います。こういった一%の、多数の意見でいろいろな既成事実や流れができていくのに、それに反する立法をした場合の混乱の方が私は重大だと思っております。
それから、時間がありませんので、最後に指摘をさせていただいて終わりたいと思いますが、金田案の最も問題な点は、脳死を人の死とする医療の現場の多数の考え方と反する形で立法することで、脳死状態にある者から臓器の摘出を行うことを殺人罪に該当するとして位置づけざるを得ないということです。
これは、死者の尊厳というのを守るという我々の立場から、そういう家族の深い悲しみを守るという意味で、法律がそこにあるのだという安心感はあるでしょうが、それは別次元の、死者の尊厳や遺族の深い悲しみに対する配慮をどうするかという問題に帰するものだと思います。むしろ、臓器移植行為を殺人罪に当たる、あとは違法性阻却事由かどうかということで、移植医に違法性阻却事由を行為規範として求めることこそ、私は、現状にも医師の認識にも即さない大変な問題点で、果たしてこれで移植医療がうまくいくかどうか、行き詰まるのではないかという危険すら感ずるものでございます。
私は、金田案が、一%の、多数の国民や世界の多数の認識あるいは流れ、臨調の長年の検討の結果に反する、それを拒否する形で出した点にこういう問題が起こってくる根本の原因があることを指摘して、本当はもう少し質疑したかったのですけれども、御意見も承ってやりとりをやりたかったのですが、時間もありませんので、これで質疑を終わりたいと思います。
〔委員長退席、住委員長代理着席〕
この発言だけを見る →そしてまた、私は、脳死状態の方へ見舞いに行くときには香典を持っていきますかという話がありますが、これは、死者の尊厳、死後直後の家族の深い悲しみを考慮した社会の慣行があると。私は、脳死が死かどうかとは別だと思っております。先ほど、国民の多数の者が人工呼吸器を外すことを容認した事実でそれは明快だと。それは、亡くなった直後に喪服を着ていきなり行くとか、亡くなった直後に飛んでいって香典を手渡すようなことが礼儀に反するというのと同じような次元の話だと思っております。
また、脳死からお産をする例がある、死体から生があるかという議論もあったようでございますが、これは心臓死から帝王切開で出産する例もあるから、これも必ずしも否定する本質的な議論にならない。
それから、心臓死でも脳死でも、そういった意味で蘇生限界点が動くわけですね。かつては心臓がとまればというのが、電気ショックで動き出すとか。したがって、蘇生限界点が動くことをもって、死の判定基準を論議するのは私はやはり間違いだと思います。
それから、そういったことは別として、私は、金田案の一番問題になるところは、多数の国民の一%に対する認識。これは、裁判官の中にもある、弁護士の中にもある、あるいはいろいろな方々の中にある多数の物の考え方というものがいろいろな法律の判断でも進んでいくと思います。こういった一%の、多数の意見でいろいろな既成事実や流れができていくのに、それに反する立法をした場合の混乱の方が私は重大だと思っております。
それから、時間がありませんので、最後に指摘をさせていただいて終わりたいと思いますが、金田案の最も問題な点は、脳死を人の死とする医療の現場の多数の考え方と反する形で立法することで、脳死状態にある者から臓器の摘出を行うことを殺人罪に該当するとして位置づけざるを得ないということです。
これは、死者の尊厳というのを守るという我々の立場から、そういう家族の深い悲しみを守るという意味で、法律がそこにあるのだという安心感はあるでしょうが、それは別次元の、死者の尊厳や遺族の深い悲しみに対する配慮をどうするかという問題に帰するものだと思います。むしろ、臓器移植行為を殺人罪に当たる、あとは違法性阻却事由かどうかということで、移植医に違法性阻却事由を行為規範として求めることこそ、私は、現状にも医師の認識にも即さない大変な問題点で、果たしてこれで移植医療がうまくいくかどうか、行き詰まるのではないかという危険すら感ずるものでございます。
私は、金田案が、一%の、多数の国民や世界の多数の認識あるいは流れ、臨調の長年の検討の結果に反する、それを拒否する形で出した点にこういう問題が起こってくる根本の原因があることを指摘して、本当はもう少し質疑したかったのですけれども、御意見も承ってやりとりをやりたかったのですが、時間もありませんので、これで質疑を終わりたいと思います。
〔委員長退席、住委員長代理着席〕
住
佐
佐藤剛男#14
○佐藤(剛)委員 自由民主党の佐藤剛男でございます。
私は、もうこの委員会におきまして、私の立場を明快にいたしておりまして、私に与えられましたこの十五分間の効率的な活用のために、動議を提出させていただきます。
金田案に対する修正案でございまして、衆議院の法制局の手続が終わりましたので、ひとつ委員長、御配付の了解をいただきたいと思います。そして、その修正案を出す理由を説明させていただきたいと思います。
この発言だけを見る →私は、もうこの委員会におきまして、私の立場を明快にいたしておりまして、私に与えられましたこの十五分間の効率的な活用のために、動議を提出させていただきます。
金田案に対する修正案でございまして、衆議院の法制局の手続が終わりましたので、ひとつ委員長、御配付の了解をいただきたいと思います。そして、その修正案を出す理由を説明させていただきたいと思います。
住
佐
佐藤剛男#16
○佐藤(剛)委員 まず第一に、中山案と言わせていただきたいと思います、また、金田案と言わせていただきたいと思いますが、中山案が臓器の移植に一歩踏み出す形での御努力をされたことを多といたします。
そして、中山案があった、出たから金田案が出たのじゃないかと私は思います。これは、脳死を死とするという形が中山案の中に出るわけでございます。
私の立場は、ヨーロッパに起きましたいわゆる神学論争、イエスがどうだこうだというときの神学論争に巻き込まれないで、この移植に一歩進めないと、これは、この両案とも相打ちの形で否決される可能性なしとしない。そうなると、中山案が出ていない場合には、これは医学のガイドラインの中で、死というものを法律は規定していないわけですから、そのプロフェッショナルのアカデミーなりクリークでやられるのが一つの方法かと思いますが、情勢が全く変わってしまうと思いますね。両案とも否決となった場合には、私は、臓器移植の将来は真っ暗だと思います。そしてさらに、刑事的に告発などが出ますと、司法官憲がそれに対しまして動き出す可能性もあるわけでございます。
そういう意味において、この取り扱いというのは非常に難しいし、しかし相打ちを避けないでいく形、言うなれば、道路というのを例にとりますと、自動車が走っていないところに道路交通法というものをつくる、しかし、道が悪ければ衝突して谷に落ちるかもしれない、臓器移植というのもそういう形になってやみの中に葬られてはいけないというのが私の動議の背景にございます。つまり、両案が歩み寄っていただける橋渡しになれないか、英語で言いますとアコモデーションでありますが、そういう形のものとして提案をさせていただいたわけでございます。
そして、現在における臓器移植というのが過渡的な治療法として余儀なくされている、そういう状況にかんがみて臓器移植の道も開く。しかし、この場合、参考人からの意見もありましたが、日本の現状は二十五年もアメリカ等よりおくれておる。先進国の、より体験を積んだ外国人からの教えを請うたり、それから、ドナーがアメリカにおいて減っておる、この教訓を学んで減らないようにする。それから、医師への不信感というものが存在してしまったらこれは大変なことになるわけでありますから、これを生じないようにする、医師への不信感が生じないようにする。そして、心臓あるいはその他一定の臓器について、国際的に
も、日本のあそこに行けば大丈夫なんだ、あそこで治療を受けてもだめならばしようがないというような、日本が国際的医療国になるという道が今後の大きな課題であると私は思います。
そういう観点から見ますと、臓器といって定義いたしていますが、角膜、腎臓、これと心臓とは違うわけであります。その、心臓というものは違うというのは、心臓というのは生体移植ができない。生の体の移植ができないからどこかで死というものを認めようというのが中山案でありますが、そこについての一つの手続的な形で持っていけば、私は、死というものについて避ける、神学論争も避ける。
あるいは、脳死といっても脳神経の細胞までについて技術は進歩するといういろいろなものがあるわけでございますし、日本には古来から、もがりといって、天皇が亡くなられたときに、それについて、生き返ってこないかなというふうなこともあるわけですから、そういう文化というものを、伝統を前提にした上で、しかし、今の医療現場は、一日千秋の思いで待っている人が、もし手術をすれば逆に死んでしまうという現状があるということを参考人は言われたわけであります。
そういうことでありますから、仮に中山案を、脳死を死と認めても、その移植をする場というのは、ちょうど国立がんセンターのように国立心臓移植センター、あるいはせいぜい東に一つ、西に一つ、学閥を超えて、そこに総合スタッフを置いて臨む形に持っていかないと、失敗すれば日本は、第一号で失敗しますとこれからの日本の臓器移植の発展はないし、医療に対する将来への発展もないし、ドナーも減ってくる、レシピエントの期待も裏切る、こういうことになるということで私は提案をさせていただいたわけでございます。
したがいまして、私の観点を臓器の移植に関する法律案に対する修正案ということで、金田案の附則に入れてありますから、これをごらんいただいて検討していただきたいのですが、どうか金田案を提出された方々、動議でありますから真剣に御検討いただきまして、それを入れていただきたいと思いますが、まず、それについての金田先生からの御見解を伺いまして、次に、それを受けて、私は中山先生に御質問させていただきます。
この発言だけを見る →そして、中山案があった、出たから金田案が出たのじゃないかと私は思います。これは、脳死を死とするという形が中山案の中に出るわけでございます。
私の立場は、ヨーロッパに起きましたいわゆる神学論争、イエスがどうだこうだというときの神学論争に巻き込まれないで、この移植に一歩進めないと、これは、この両案とも相打ちの形で否決される可能性なしとしない。そうなると、中山案が出ていない場合には、これは医学のガイドラインの中で、死というものを法律は規定していないわけですから、そのプロフェッショナルのアカデミーなりクリークでやられるのが一つの方法かと思いますが、情勢が全く変わってしまうと思いますね。両案とも否決となった場合には、私は、臓器移植の将来は真っ暗だと思います。そしてさらに、刑事的に告発などが出ますと、司法官憲がそれに対しまして動き出す可能性もあるわけでございます。
そういう意味において、この取り扱いというのは非常に難しいし、しかし相打ちを避けないでいく形、言うなれば、道路というのを例にとりますと、自動車が走っていないところに道路交通法というものをつくる、しかし、道が悪ければ衝突して谷に落ちるかもしれない、臓器移植というのもそういう形になってやみの中に葬られてはいけないというのが私の動議の背景にございます。つまり、両案が歩み寄っていただける橋渡しになれないか、英語で言いますとアコモデーションでありますが、そういう形のものとして提案をさせていただいたわけでございます。
そして、現在における臓器移植というのが過渡的な治療法として余儀なくされている、そういう状況にかんがみて臓器移植の道も開く。しかし、この場合、参考人からの意見もありましたが、日本の現状は二十五年もアメリカ等よりおくれておる。先進国の、より体験を積んだ外国人からの教えを請うたり、それから、ドナーがアメリカにおいて減っておる、この教訓を学んで減らないようにする。それから、医師への不信感というものが存在してしまったらこれは大変なことになるわけでありますから、これを生じないようにする、医師への不信感が生じないようにする。そして、心臓あるいはその他一定の臓器について、国際的に
も、日本のあそこに行けば大丈夫なんだ、あそこで治療を受けてもだめならばしようがないというような、日本が国際的医療国になるという道が今後の大きな課題であると私は思います。
そういう観点から見ますと、臓器といって定義いたしていますが、角膜、腎臓、これと心臓とは違うわけであります。その、心臓というものは違うというのは、心臓というのは生体移植ができない。生の体の移植ができないからどこかで死というものを認めようというのが中山案でありますが、そこについての一つの手続的な形で持っていけば、私は、死というものについて避ける、神学論争も避ける。
あるいは、脳死といっても脳神経の細胞までについて技術は進歩するといういろいろなものがあるわけでございますし、日本には古来から、もがりといって、天皇が亡くなられたときに、それについて、生き返ってこないかなというふうなこともあるわけですから、そういう文化というものを、伝統を前提にした上で、しかし、今の医療現場は、一日千秋の思いで待っている人が、もし手術をすれば逆に死んでしまうという現状があるということを参考人は言われたわけであります。
そういうことでありますから、仮に中山案を、脳死を死と認めても、その移植をする場というのは、ちょうど国立がんセンターのように国立心臓移植センター、あるいはせいぜい東に一つ、西に一つ、学閥を超えて、そこに総合スタッフを置いて臨む形に持っていかないと、失敗すれば日本は、第一号で失敗しますとこれからの日本の臓器移植の発展はないし、医療に対する将来への発展もないし、ドナーも減ってくる、レシピエントの期待も裏切る、こういうことになるということで私は提案をさせていただいたわけでございます。
したがいまして、私の観点を臓器の移植に関する法律案に対する修正案ということで、金田案の附則に入れてありますから、これをごらんいただいて検討していただきたいのですが、どうか金田案を提出された方々、動議でありますから真剣に御検討いただきまして、それを入れていただきたいと思いますが、まず、それについての金田先生からの御見解を伺いまして、次に、それを受けて、私は中山先生に御質問させていただきます。
金
金田誠一#17
○金田(誠)議員 佐藤先生が、いずれの案が通っても実際の手術の現場で十分な対応ができるのかというお立場から真摯に御検討されたことについては、敬意を表するものでございます。
ただ、この際申し上げておきたいことは、一つは、私どもは神学論争をしているつもりは全くございません。そのことだけはぜひ御理解を賜りたいと思うわけでございます。
私どもの立場は、先般の保岡委員の御質問、御指摘にもあわせてお答えすることになるわけでございますけれども、この脳死臨調の最後のまとめの立場でございます。
脳死臨調の「おわりに」ということのさらに末尾にこのように述べてございます。
本答申の趣旨を一言にして尽くすならば、それは、脳死をもって「人の死」とすることについて大多数の委員は賛意を示したものの、一部の委員は反対であった。一方、脳死体からの臓器移植に関しては、前意見の如何に拘らず、委員全員がその意義を認め、行うことに積極的であった。したがって、本調査会の結論としては、「人の死」についてはいろいろな考えが世の中に存在していることに十分な配慮を示しつつ、良識に裏打ちされた臓器移植が推進され、それによって一人でも多くの患者が救われることを希望するものである。
脳死臨調の最後にこのように述べられておりますけれども、私どもはまさにこの立場を法律の条文として示した、こう思ってございますので、ぜひひとつ御理解を賜りたいということが一つでございます。
それともう一つ、具体的にこの修正案についての見解でございますけれども、ポイントは附則第二条三項にあろうかと思います。
政府は、心臓その他の第一項の規定により読み替えられた第七条第一項の政令で定める臓器に係る移植医療が早期に、かつ、適正に実施できるよう、これらの臓器の移植について高度の医療を提供する能力を有する施設の設置その他のこれらの臓器に係る移植医療の適正な実施のための体制の整備に必要な措置を講ずるものとする。
先般、山口参考人が御心配をされていた、そのことを政府に義務を課すというお立場だと思います。
この趣旨そのものについては、私どもも同感するところ十分にございます。ただし、その前の第二条二項などは、「あらかじめ、国会の承認」というところなどは、検討いたしましたが、この辺については疑義もございました。しかし、確かに施設の整備、スタッフの充実が必要であるという趣旨は理解をいたします。
ただ、ここで、実は私ども、誤解を恐れるわけでございます。私どもの対案は、臓器移植に反対をするという趣旨の対案ではございません。脳死状態を人の死である、死体であると新たな概念規定を法律に設けることについて異議を申し立てているわけでございます。そのことが、この先生の修正をもし受け入れたとすれば、実際の臓器移植の実施が先に延びるということに伴って、実際的にはこれは臓器移植に反対をする法案になるということに誤解を受けるのではなかろうかということを懸念いたします。
したがって、どちらが通っても、必要だとすれば、ぜひひとつ双方の修正ということでお出しいただければ検討の余地は十分にある、こう思ってございます。
この発言だけを見る →ただ、この際申し上げておきたいことは、一つは、私どもは神学論争をしているつもりは全くございません。そのことだけはぜひ御理解を賜りたいと思うわけでございます。
私どもの立場は、先般の保岡委員の御質問、御指摘にもあわせてお答えすることになるわけでございますけれども、この脳死臨調の最後のまとめの立場でございます。
脳死臨調の「おわりに」ということのさらに末尾にこのように述べてございます。
本答申の趣旨を一言にして尽くすならば、それは、脳死をもって「人の死」とすることについて大多数の委員は賛意を示したものの、一部の委員は反対であった。一方、脳死体からの臓器移植に関しては、前意見の如何に拘らず、委員全員がその意義を認め、行うことに積極的であった。したがって、本調査会の結論としては、「人の死」についてはいろいろな考えが世の中に存在していることに十分な配慮を示しつつ、良識に裏打ちされた臓器移植が推進され、それによって一人でも多くの患者が救われることを希望するものである。
脳死臨調の最後にこのように述べられておりますけれども、私どもはまさにこの立場を法律の条文として示した、こう思ってございますので、ぜひひとつ御理解を賜りたいということが一つでございます。
それともう一つ、具体的にこの修正案についての見解でございますけれども、ポイントは附則第二条三項にあろうかと思います。
政府は、心臓その他の第一項の規定により読み替えられた第七条第一項の政令で定める臓器に係る移植医療が早期に、かつ、適正に実施できるよう、これらの臓器の移植について高度の医療を提供する能力を有する施設の設置その他のこれらの臓器に係る移植医療の適正な実施のための体制の整備に必要な措置を講ずるものとする。
先般、山口参考人が御心配をされていた、そのことを政府に義務を課すというお立場だと思います。
この趣旨そのものについては、私どもも同感するところ十分にございます。ただし、その前の第二条二項などは、「あらかじめ、国会の承認」というところなどは、検討いたしましたが、この辺については疑義もございました。しかし、確かに施設の整備、スタッフの充実が必要であるという趣旨は理解をいたします。
ただ、ここで、実は私ども、誤解を恐れるわけでございます。私どもの対案は、臓器移植に反対をするという趣旨の対案ではございません。脳死状態を人の死である、死体であると新たな概念規定を法律に設けることについて異議を申し立てているわけでございます。そのことが、この先生の修正をもし受け入れたとすれば、実際の臓器移植の実施が先に延びるということに伴って、実際的にはこれは臓器移植に反対をする法案になるということに誤解を受けるのではなかろうかということを懸念いたします。
したがって、どちらが通っても、必要だとすれば、ぜひひとつ双方の修正ということでお出しいただければ検討の余地は十分にある、こう思ってございます。
佐
佐藤剛男#18
○佐藤(剛)委員 ありがとうございました。
ただいまの金田先生の、つまり、両方の案に入れてください、そうでないとニュアンスが変わってきてしまうという思想は十分わかるわけでございます。
それで、ついては中山先生にお伺いいたします。
今、金田先生のおっしゃられた点というのは、私はよくわかるわけです。ですから、同じ土台ですね。中山案の中にこの修正案というものを入れ込んだ形で、そしてその金田案と中山案というのがあって、そうしましたら私は修正案も必要なくなりますから、そういう意味におきましての御検討というものをしていただけないでしょうか。
この発言だけを見る →ただいまの金田先生の、つまり、両方の案に入れてください、そうでないとニュアンスが変わってきてしまうという思想は十分わかるわけでございます。
それで、ついては中山先生にお伺いいたします。
今、金田先生のおっしゃられた点というのは、私はよくわかるわけです。ですから、同じ土台ですね。中山案の中にこの修正案というものを入れ込んだ形で、そしてその金田案と中山案というのがあって、そうしましたら私は修正案も必要なくなりますから、そういう意味におきましての御検討というものをしていただけないでしょうか。
中
中山太郎#19
○中山(太)議員 先生の動議につきましては、私は前向きに検討することが必要であろうと思いますが、特に、移植をする法律ができたとしても、その場所をある程度、国立移植センターといったようなものにするということについては、私は、現実的に少し無理が生じてくる可能性がある。
と申しますのは、御案内のように、心臓の場合でございましたら、摘出後、血流を始めるまでに四時間というタイムリミットがございますから、この日本列島の中で受けられる方と受け得られない方の不公平性というものが出てくるであろう、だから、この国の中に住む人たちが安心して受けられるような施設というものはどこに置くべきか、どの程度のものでなければならないかということについては十分検討をしていかなければならない、このように存じております。
この発言だけを見る →と申しますのは、御案内のように、心臓の場合でございましたら、摘出後、血流を始めるまでに四時間というタイムリミットがございますから、この日本列島の中で受けられる方と受け得られない方の不公平性というものが出てくるであろう、だから、この国の中に住む人たちが安心して受けられるような施設というものはどこに置くべきか、どの程度のものでなければならないかということについては十分検討をしていかなければならない、このように存じております。
佐
佐藤剛男#20
○佐藤(剛)委員 ありがとうございます。
ぜひ中山先生の中山案で御検討をお願いし、両方同じ土台で、そして採決に臨んでいただくことをお願いします。
そして、つけ加えておきますが、中山先生がおっしゃられるいろいろな、地域的な問題、四時間の問題を考えて、別に優勝者だけ一個ということでは固執しておりません。優勝、決勝戦に臨む東の横綱、西の横綱、そういうことで、それが成功すれば今度は準決勝にふやし、あるいは準々決勝にふやしていく、こういう形だろうと思っておるわけでございまして、そういう点について、私は、東一、西一というふうな観点を前提にして、ぜひ中山先生、この案を御検討いただいて、そして政府が、また各界が中心になって立派な施設をつくる、こういうことでお願いしたいと思いま
す。
それで、委員長、これは修正の動議でございますので、ひとつこの取り扱いについては何とぞよろしくお願い申し上げる次第でございます。
この発言だけを見る →ぜひ中山先生の中山案で御検討をお願いし、両方同じ土台で、そして採決に臨んでいただくことをお願いします。
そして、つけ加えておきますが、中山先生がおっしゃられるいろいろな、地域的な問題、四時間の問題を考えて、別に優勝者だけ一個ということでは固執しておりません。優勝、決勝戦に臨む東の横綱、西の横綱、そういうことで、それが成功すれば今度は準決勝にふやし、あるいは準々決勝にふやしていく、こういう形だろうと思っておるわけでございまして、そういう点について、私は、東一、西一というふうな観点を前提にして、ぜひ中山先生、この案を御検討いただいて、そして政府が、また各界が中心になって立派な施設をつくる、こういうことでお願いしたいと思いま
す。
それで、委員長、これは修正の動議でございますので、ひとつこの取り扱いについては何とぞよろしくお願い申し上げる次第でございます。
住
根
根本匠#22
○根本委員 自由民主党の根本匠です。
この法案は人の死と向き合う法案ですから、私も、政治家にとってこれほど重い法案はないと思います。その意味で、私も、政治家の責任と良識にかけて、この問題は真剣に考えました。私は、前回は、中山案に御質問をいたしましたので、今回、金田案、対案が出てまいりましたので、金田案について質疑をしたいと思います。
私は、金田案にせよ中山案にせよ、本法の一番の懸念は、臓器移植先にありきではないのか、あるいは移植のために死を早めるのではないのか、これが一番懸念される点で、これは参考人質疑でもありました。一方で、心臓移植経験者からは、脳低体温療法などあらゆる治療を試みた後で、それでも脳死になる人があるなら移植をどうか認めてほしい、こういう意見もありました。
私は、この立法の前提は、大前提は二つあると思うのですね。一つは、医の倫理、信頼性、これが絶対的に確立されていなければならない。法的にこの医の信頼性、倫理性が確実に担保されること、これが絶対条件であります。
具体的には、脳死判定基準、この基準によれば、蘇生限界点を確実に超えていると判断される、これが必要ですし、脳死判定については、臓器移植医療と完全に隔離された中で客観的公正になされなければなりません。それから救命救急医療、これは脳低体温療法初めあらゆる救命救急医療をやってもらう。もう一つは、移植医療の水準が確立されていなければならない。
私は、この四点において、医の倫理、信頼性、これが絶対的に確立されていなければならないし、法的にもこれを担保しなければならない、こう思っております。
それからもう一点は、金田案と私は見解が異なりますが、脳死は人の死だ、これを認めて、臓器を提供したいとする本人の意思、自己決定の尊重、これが大事だと思います。この点では、諸外国の立法例と比べて、我が国は、家族による意思のそんたくを削りましたから、自己決定の尊重、厳しい条件をこの法案でつけたということだと思うのですね。
一番論点になっている、脳死は人の死か、これは随分議論が出ました。議論が出た中で、科学的、医学的に見ると脳死は人の死である、この点はほとんど異論がないのだろうと思うのですね。もう一点は、脳死は人の死である、これは社会的な合意が必要だと私も思っております。
ただ、脳死臨調など、これまでさまざまな角度から議論がありましたし、世論調査もありました。私は、脳死は人の死であるということを、社会的な合意を一〇〇%とる、これは非常に難しいと思うのですね。やはりこの法案で本来求めるべき、つまり法案としての社会的合意、これは、脳死が人の死か、これは個々人の宗教観なり死生観で意見は分かれますが、脳死を人の死と認めて、しかも臓器提供の意思を有する人の意思、自己決定、これを、脳死を人の死でないと、認めない人もこの自己決定を受容できるか、こういうことだろうと私は思っております。
その意味で、金田案が出ましたので、私も、かつては脳死状態を人の死とせずに法律が構成できるのが、脳死が人の死かということで分かれているから、私はこれがベターなのかなと思っていたのですが、脳死状態から臓器を取り出すということについては立法上いろいろな問題があると思ったものですから、私はやはり、死というのは客観的に決めるべきだ、こういう考えでおります。
その意味で、死体と脳死状態、今回書き分けてありますが、その趣旨、理由を簡潔に御答弁いただきたいと思います。
この発言だけを見る →この法案は人の死と向き合う法案ですから、私も、政治家にとってこれほど重い法案はないと思います。その意味で、私も、政治家の責任と良識にかけて、この問題は真剣に考えました。私は、前回は、中山案に御質問をいたしましたので、今回、金田案、対案が出てまいりましたので、金田案について質疑をしたいと思います。
私は、金田案にせよ中山案にせよ、本法の一番の懸念は、臓器移植先にありきではないのか、あるいは移植のために死を早めるのではないのか、これが一番懸念される点で、これは参考人質疑でもありました。一方で、心臓移植経験者からは、脳低体温療法などあらゆる治療を試みた後で、それでも脳死になる人があるなら移植をどうか認めてほしい、こういう意見もありました。
私は、この立法の前提は、大前提は二つあると思うのですね。一つは、医の倫理、信頼性、これが絶対的に確立されていなければならない。法的にこの医の信頼性、倫理性が確実に担保されること、これが絶対条件であります。
具体的には、脳死判定基準、この基準によれば、蘇生限界点を確実に超えていると判断される、これが必要ですし、脳死判定については、臓器移植医療と完全に隔離された中で客観的公正になされなければなりません。それから救命救急医療、これは脳低体温療法初めあらゆる救命救急医療をやってもらう。もう一つは、移植医療の水準が確立されていなければならない。
私は、この四点において、医の倫理、信頼性、これが絶対的に確立されていなければならないし、法的にもこれを担保しなければならない、こう思っております。
それからもう一点は、金田案と私は見解が異なりますが、脳死は人の死だ、これを認めて、臓器を提供したいとする本人の意思、自己決定の尊重、これが大事だと思います。この点では、諸外国の立法例と比べて、我が国は、家族による意思のそんたくを削りましたから、自己決定の尊重、厳しい条件をこの法案でつけたということだと思うのですね。
一番論点になっている、脳死は人の死か、これは随分議論が出ました。議論が出た中で、科学的、医学的に見ると脳死は人の死である、この点はほとんど異論がないのだろうと思うのですね。もう一点は、脳死は人の死である、これは社会的な合意が必要だと私も思っております。
ただ、脳死臨調など、これまでさまざまな角度から議論がありましたし、世論調査もありました。私は、脳死は人の死であるということを、社会的な合意を一〇〇%とる、これは非常に難しいと思うのですね。やはりこの法案で本来求めるべき、つまり法案としての社会的合意、これは、脳死が人の死か、これは個々人の宗教観なり死生観で意見は分かれますが、脳死を人の死と認めて、しかも臓器提供の意思を有する人の意思、自己決定、これを、脳死を人の死でないと、認めない人もこの自己決定を受容できるか、こういうことだろうと私は思っております。
その意味で、金田案が出ましたので、私も、かつては脳死状態を人の死とせずに法律が構成できるのが、脳死が人の死かということで分かれているから、私はこれがベターなのかなと思っていたのですが、脳死状態から臓器を取り出すということについては立法上いろいろな問題があると思ったものですから、私はやはり、死というのは客観的に決めるべきだ、こういう考えでおります。
その意味で、死体と脳死状態、今回書き分けてありますが、その趣旨、理由を簡潔に御答弁いただきたいと思います。
北
北村哲男#23
○北村(哲)議員 お答えいたしたいと思いますが、まず、死体を脳死状態と書き分けた趣旨あるいは理由でございます。
もちろんこの法案が、先生言われたように、医の信頼性が前提になっているということは当然のことでありますけれども、私どもがなぜ死体と脳死状態を分けたかということは、当然のことながら、脳死は人の死ではないという考え方を前提としておるわけでございます。死体と脳死状態とは人の生死という点から全く異なるものと理解しておりまして、その上で、臓器移植は認めるという以上、この二つの概念が法律上分けて規定されるのは当然のことだと思います。
また、臓器の摘出についても、脳死状態の者の体からの摘出については、私どもの法案の七条において、特に死体と区別して、脳死状態にある者について、その者の生命に重大な影響を及ぼすものであることにかんがみて、本人の書面、特に署名及び作成年月日の記載を要求しておって、本人の意思についても十分な調査と慎重な確認を関係者に求めることによって、万が一にも本人の意思に反した臓器摘出が行われないように配慮しておる、これが私どもの趣旨、理由でございます。
この発言だけを見る →もちろんこの法案が、先生言われたように、医の信頼性が前提になっているということは当然のことでありますけれども、私どもがなぜ死体と脳死状態を分けたかということは、当然のことながら、脳死は人の死ではないという考え方を前提としておるわけでございます。死体と脳死状態とは人の生死という点から全く異なるものと理解しておりまして、その上で、臓器移植は認めるという以上、この二つの概念が法律上分けて規定されるのは当然のことだと思います。
また、臓器の摘出についても、脳死状態の者の体からの摘出については、私どもの法案の七条において、特に死体と区別して、脳死状態にある者について、その者の生命に重大な影響を及ぼすものであることにかんがみて、本人の書面、特に署名及び作成年月日の記載を要求しておって、本人の意思についても十分な調査と慎重な確認を関係者に求めることによって、万が一にも本人の意思に反した臓器摘出が行われないように配慮しておる、これが私どもの趣旨、理由でございます。
根
根本匠#24
○根本委員 私も時間が短いものですから、最後に私の意見を申し上げたいと思います。
第二点目は、今おっしゃられましたように、第七条二項は、摘出する場合においては、「その者の生命に重大な影響を及ぼすものであることにかんがみ、同項の書面により表示された意思は、十分な調査を行い、慎重に確かめられなければならない。」こうなっていますね。
これは、法律上、脳死状態というのは生きているという状態であるときちっと規定するということなんですね。となりますと、これは法律的には生きているという前提の条文になっていますから、これは、この法律で初めて安楽死を認めることになるのではないのかと私は思います。これは非常に大きな問題だと思います。
それからもう一点は、事前に書面で自分の意思を示していた方が、遺書で、私は近親者にこの臓器を提供したいという遺言が出てきたらどう対応されるのか。この二点をお伺いします。
この発言だけを見る →第二点目は、今おっしゃられましたように、第七条二項は、摘出する場合においては、「その者の生命に重大な影響を及ぼすものであることにかんがみ、同項の書面により表示された意思は、十分な調査を行い、慎重に確かめられなければならない。」こうなっていますね。
これは、法律上、脳死状態というのは生きているという状態であるときちっと規定するということなんですね。となりますと、これは法律的には生きているという前提の条文になっていますから、これは、この法律で初めて安楽死を認めることになるのではないのかと私は思います。これは非常に大きな問題だと思います。
それからもう一点は、事前に書面で自分の意思を示していた方が、遺書で、私は近親者にこの臓器を提供したいという遺言が出てきたらどう対応されるのか。この二点をお伺いします。
北
北村哲男#25
○北村(哲)議員 お答えいたします。
今、二点でございますが、一つは、安楽死を認めることになるのではないかということ、二番目は、遺言で特定の人を指名した場合どうなるかという点でございます。
もちろん、脳死状態の人はまだ死んでいないということは、私どもはもうはっきり申し上げている点でございますが、まず、安楽死という点については、共通点と、全く違う点があります。
まず共通点は、蘇生限界点を超えているという点では同じでありまして、その超えた段階での問題点、超えた人をどうするかという問題では共通でございます。それで、現在生きている人を医者の手で死期を早めるという点では共通しているけれども、はっきり違う点は目的なんです。
目的は、まず安楽死は、患者さんというか自己の生命の苦痛を除去するという目的があります。それが一つの目的。そしてもう一つの、本案については、これは他人の生命を救うための制度である、そういう目的の違いがあるわけです。その点がはっきり違うので、安楽死とは明快に違うというふうに申し上げたいと思います。
それから二番目の、遺言で近親者に提供したいとした場合はどうだろうかという点についてですけれども、これは、いわば公平性という原則があります。私どもの法律にもありますけれども、この点の考え方に全く反することでありまして、仮にそういうふうな場合があれば、これは本人に提供意思がないというふうにみなさざるを得ないと私どもは考えております。
この発言だけを見る →今、二点でございますが、一つは、安楽死を認めることになるのではないかということ、二番目は、遺言で特定の人を指名した場合どうなるかという点でございます。
もちろん、脳死状態の人はまだ死んでいないということは、私どもはもうはっきり申し上げている点でございますが、まず、安楽死という点については、共通点と、全く違う点があります。
まず共通点は、蘇生限界点を超えているという点では同じでありまして、その超えた段階での問題点、超えた人をどうするかという問題では共通でございます。それで、現在生きている人を医者の手で死期を早めるという点では共通しているけれども、はっきり違う点は目的なんです。
目的は、まず安楽死は、患者さんというか自己の生命の苦痛を除去するという目的があります。それが一つの目的。そしてもう一つの、本案については、これは他人の生命を救うための制度である、そういう目的の違いがあるわけです。その点がはっきり違うので、安楽死とは明快に違うというふうに申し上げたいと思います。
それから二番目の、遺言で近親者に提供したいとした場合はどうだろうかという点についてですけれども、これは、いわば公平性という原則があります。私どもの法律にもありますけれども、この点の考え方に全く反することでありまして、仮にそういうふうな場合があれば、これは本人に提供意思がないというふうにみなさざるを得ないと私どもは考えております。
根
根本匠#26
○根本委員 私も時間が限られておりますから、今聞いた意見について、私の意見を申し上げたいと思います。
私は、遺言でなった場合には、確かにそれは撤回と理解すべきだと思うのですね。それをやらないと、七条二項で「書面により表示された意思は、十分な調査を行い、慎重に確かめられなけれ
ばならない。」となっていますから、これは撤回とみなすべきだと思います。
それから、今、安楽死のお答えがありましたけれども、最後に、私の意見を申し上げたいと思います。
私は、脳死状態から摘出する問題点、これは幾つかあると思うのですね。今お話にありましたように、なぜ死体と脳死状態を書き分けたか。そのお答えは、脳死が人の死かで意見が分かれるから、脳死を人の死と思っていない人もいるのだから、要は、国会で人の死を決めないとして、脳死状態からの摘出を規定したということだと思うのですね。
脳死状態からの臓器を取り出す問題点、私は四点あると思うのです。
一つは、脳死状態は生きているということになりますから、これは安楽死を法律で初めて認めるということになります。これは、安楽死をめぐる大論争、大議論、法律の詰めが必要だと思うのです。
特に法律的な詰めが必要だと思ったのは、他人の生命を救うから、脳死の限界点より超えているという点では共通だが、目的が違う、こうおっしゃられましたけれども、立法論からいって、いかなる状態であっても、生きている人の生命を奪うということ、これを違法でないと認めるのは、刑法学者の平野東大名誉教授もおっしゃっていましたけれども、難しいし、できないと私は思うのですね。目的が違うから認めることができるということにはならないと思うのです。これは、殺人罪で告発されて違法性を阻却できるかというところに嘱託殺人のような話も出てきますから、私は、これは相当な法律の大議論が必要だと思うのです。
それからもう一つ、脳死を人の死でないという法案が出ました。これが非常にある意味で誤解されがちなのは、脳死を人の死でないという方の意見は二つあって、一つは、脳死をもって人の死とすべきではない、要は、まだ死んではいないという宗教観なり死生観、死の概念論でもって、体が温かいというのはまだ死とは言わないのだ、これは死の概念論ですから私もわかります。もう一つは、脳死状態というのは人の死ではないから、臓器移植のために脳死状態を死と規定して、これは死と規定しなくても同じだと思いますが、臓器を取り出すことは認められないのだという本質論があると思うのですよ。
私は、死体と脳死状態というのを書き分けたからといって、死の概念論に対してのお答えにはなりますが、本当に脳死状態から臓器を取り出すべきではないということで反対している方々の本質論には対応することにならなくて、やはり便宜的に書き分けたのではないかということになると思います。
それからもう一点、これは七条二項にも書いてありますが、脳死状態にある者は法律上は生きているわけですから、レシピエントの方が、脳死が人の死ではなくて、生きている状態の人からの摘出なら受けることができない、こうおっしゃっています。これは私は重い意見だと思います。したがって、外国の立法例でも、脳死を人の死と認めずに臓器を提供する立法例がないのだと私は思います。
それからもう一点、脳死を人の死と規定する意味ですが、その意味では、この臓器移植法においては、やはり死は客観的なものとして、この法律の適用範囲の死を規定せざるを得ないと私は思います。脳死は法律では人の死に含めざるを得ない、これは何も私が冷たいからではないのです、気持ちは温かいのですから、これは真剣に考えていますから。
脳死臨調や、臓器移植法案の法案審議の過程で明らかになったのは、脳死は医学的には人の死である、これは明らかになったと思うのですね。もう一つは、医学の進歩によって、死はプロセスであって、脳死は蘇生限界点を超えたところにある、これも明らかになったと思います。
ここで、脳死の死の定義の問題と移植の問題とは区別して考えるべきだと私は思いますが、法律でなぜ脳死体という概念を規定しているか。これは、医学の進歩によって死の概念が広がった、死のプロセスの中で臓器提供の意思を有する者に限ってこの法律の適用範囲を規定したのがこの法案の考え方だと思うのですね。他の既存の法律で死体と書いてある法律に影響するかどうかという議論はありますが、これはそれぞれの法律の有権解釈だと私は思いますが、この法案で初めて、死の概念が広がって、「(脳死体を含む。)」こう書いてありますから、「脳死体を含む」と書いていない既存の法律では脳死体は含まないのだろうと私は思います、有権解釈ですけれども。だから、既存の他の法律にはこれは影響しないと私は思っております。
最後に、私の結論の意見を述べたいと思います。
私は、その意味でいうと、臓器移植法の賛否、これは中山案に対しての賛否を問うべきだと思うのですね。大事なのは、脳死を人の死と認め、臓器移植を行うこと、これを一律にするのではなくて、提供する人と受ける人の自由意思の選択に限定する、これが大事だと思います、この点は共通しますけれども。
要は、中山案で大事なのは、脳死は医学的には死であって、これを人の死と認めて、臓器を提供しようとする人の自己決定の意思と、これを受ける人の意思、人間の自由意思による選択を社会的に受容できるか、この点が社会的に合意が得られるか、これが私はこの法律の賛否の基本だと思います。私は、臓器を提供しようとする方の意思、これは個々人の哲学や宗教によるものですから、この内面意思の自己決定は社会的に受容、尊重されるべきものだと思います。
ただ、最後に強調しておきたいのは、臓器移植の大前提、これは、自己決定の意思の尊重と医の倫理の確立、法律上のこの担保、これは、医学界は大きな責任を有するし、この点でこの法案で不足する部分があれば、それは私は書き加えた方がいいと思います。この医の倫理の確立、これを担保する措置は、もしここで不十分な点があれば私はもっと規制を強化してもいいと思います。
私は、人の死を定義するのは非常に政治家にとって重過ぎる課題でありますが、この法案の賛否に当たっては、私は、ナイーブな感覚も必要だし、人の意見に耳を傾ける、これは本当に大事だと思います。ただやはり、私は、これは本当に重い法案ですから、この法案で大事なのはウオームハートとクールヘッドとリーガルマインドだと思います。ということを申し上げまして、私の質問を終わります。
ありがとうございました。
この発言だけを見る →私は、遺言でなった場合には、確かにそれは撤回と理解すべきだと思うのですね。それをやらないと、七条二項で「書面により表示された意思は、十分な調査を行い、慎重に確かめられなけれ
ばならない。」となっていますから、これは撤回とみなすべきだと思います。
それから、今、安楽死のお答えがありましたけれども、最後に、私の意見を申し上げたいと思います。
私は、脳死状態から摘出する問題点、これは幾つかあると思うのですね。今お話にありましたように、なぜ死体と脳死状態を書き分けたか。そのお答えは、脳死が人の死かで意見が分かれるから、脳死を人の死と思っていない人もいるのだから、要は、国会で人の死を決めないとして、脳死状態からの摘出を規定したということだと思うのですね。
脳死状態からの臓器を取り出す問題点、私は四点あると思うのです。
一つは、脳死状態は生きているということになりますから、これは安楽死を法律で初めて認めるということになります。これは、安楽死をめぐる大論争、大議論、法律の詰めが必要だと思うのです。
特に法律的な詰めが必要だと思ったのは、他人の生命を救うから、脳死の限界点より超えているという点では共通だが、目的が違う、こうおっしゃられましたけれども、立法論からいって、いかなる状態であっても、生きている人の生命を奪うということ、これを違法でないと認めるのは、刑法学者の平野東大名誉教授もおっしゃっていましたけれども、難しいし、できないと私は思うのですね。目的が違うから認めることができるということにはならないと思うのです。これは、殺人罪で告発されて違法性を阻却できるかというところに嘱託殺人のような話も出てきますから、私は、これは相当な法律の大議論が必要だと思うのです。
それからもう一つ、脳死を人の死でないという法案が出ました。これが非常にある意味で誤解されがちなのは、脳死を人の死でないという方の意見は二つあって、一つは、脳死をもって人の死とすべきではない、要は、まだ死んではいないという宗教観なり死生観、死の概念論でもって、体が温かいというのはまだ死とは言わないのだ、これは死の概念論ですから私もわかります。もう一つは、脳死状態というのは人の死ではないから、臓器移植のために脳死状態を死と規定して、これは死と規定しなくても同じだと思いますが、臓器を取り出すことは認められないのだという本質論があると思うのですよ。
私は、死体と脳死状態というのを書き分けたからといって、死の概念論に対してのお答えにはなりますが、本当に脳死状態から臓器を取り出すべきではないということで反対している方々の本質論には対応することにならなくて、やはり便宜的に書き分けたのではないかということになると思います。
それからもう一点、これは七条二項にも書いてありますが、脳死状態にある者は法律上は生きているわけですから、レシピエントの方が、脳死が人の死ではなくて、生きている状態の人からの摘出なら受けることができない、こうおっしゃっています。これは私は重い意見だと思います。したがって、外国の立法例でも、脳死を人の死と認めずに臓器を提供する立法例がないのだと私は思います。
それからもう一点、脳死を人の死と規定する意味ですが、その意味では、この臓器移植法においては、やはり死は客観的なものとして、この法律の適用範囲の死を規定せざるを得ないと私は思います。脳死は法律では人の死に含めざるを得ない、これは何も私が冷たいからではないのです、気持ちは温かいのですから、これは真剣に考えていますから。
脳死臨調や、臓器移植法案の法案審議の過程で明らかになったのは、脳死は医学的には人の死である、これは明らかになったと思うのですね。もう一つは、医学の進歩によって、死はプロセスであって、脳死は蘇生限界点を超えたところにある、これも明らかになったと思います。
ここで、脳死の死の定義の問題と移植の問題とは区別して考えるべきだと私は思いますが、法律でなぜ脳死体という概念を規定しているか。これは、医学の進歩によって死の概念が広がった、死のプロセスの中で臓器提供の意思を有する者に限ってこの法律の適用範囲を規定したのがこの法案の考え方だと思うのですね。他の既存の法律で死体と書いてある法律に影響するかどうかという議論はありますが、これはそれぞれの法律の有権解釈だと私は思いますが、この法案で初めて、死の概念が広がって、「(脳死体を含む。)」こう書いてありますから、「脳死体を含む」と書いていない既存の法律では脳死体は含まないのだろうと私は思います、有権解釈ですけれども。だから、既存の他の法律にはこれは影響しないと私は思っております。
最後に、私の結論の意見を述べたいと思います。
私は、その意味でいうと、臓器移植法の賛否、これは中山案に対しての賛否を問うべきだと思うのですね。大事なのは、脳死を人の死と認め、臓器移植を行うこと、これを一律にするのではなくて、提供する人と受ける人の自由意思の選択に限定する、これが大事だと思います、この点は共通しますけれども。
要は、中山案で大事なのは、脳死は医学的には死であって、これを人の死と認めて、臓器を提供しようとする人の自己決定の意思と、これを受ける人の意思、人間の自由意思による選択を社会的に受容できるか、この点が社会的に合意が得られるか、これが私はこの法律の賛否の基本だと思います。私は、臓器を提供しようとする方の意思、これは個々人の哲学や宗教によるものですから、この内面意思の自己決定は社会的に受容、尊重されるべきものだと思います。
ただ、最後に強調しておきたいのは、臓器移植の大前提、これは、自己決定の意思の尊重と医の倫理の確立、法律上のこの担保、これは、医学界は大きな責任を有するし、この点でこの法案で不足する部分があれば、それは私は書き加えた方がいいと思います。この医の倫理の確立、これを担保する措置は、もしここで不十分な点があれば私はもっと規制を強化してもいいと思います。
私は、人の死を定義するのは非常に政治家にとって重過ぎる課題でありますが、この法案の賛否に当たっては、私は、ナイーブな感覚も必要だし、人の意見に耳を傾ける、これは本当に大事だと思います。ただやはり、私は、これは本当に重い法案ですから、この法案で大事なのはウオームハートとクールヘッドとリーガルマインドだと思います。ということを申し上げまして、私の質問を終わります。
ありがとうございました。
北
北村哲男#27
○北村(哲)議員 今先生のいろいろ御意見は御意見として、質問ではありませんのでお答えできませんが、先ほど正確を欠く答弁をいたしましたので、訂正をしておきます。
安楽死の場合と脳死の場合は蘇生限界点が同じだと申しましたけれども、正確に言うと、私の言った趣旨は、もう生き返る見込みのないという意味で申しましたので、脳死の場合は蘇生限界点を超えている、しかし、安楽死の場合は蘇生限界点は超えてはいませんが、同じくもう死に行く人という意味で申しました。
失礼いたしました。
この発言だけを見る →安楽死の場合と脳死の場合は蘇生限界点が同じだと申しましたけれども、正確に言うと、私の言った趣旨は、もう生き返る見込みのないという意味で申しましたので、脳死の場合は蘇生限界点を超えている、しかし、安楽死の場合は蘇生限界点は超えてはいませんが、同じくもう死に行く人という意味で申しました。
失礼いたしました。
住
池
池坊保子#29
○池坊委員 新進党の池坊保子でございます。
私は、五年前、脳死臨調答申が出ましたときから、一国民として深い関心を持っておりました。と同時に、心臓六十から六百、肝臓三千の移植を待っている人がいる、そして年間五百人の人が死んでいる、死と背中合わせにいる人たちの現状を踏まえたときに、私は、遅々として進まない法案に政治家への強い不信と憤りすら感じておりましたので、これは一日も早い法案通過が政治家の責務ではないかと思っております。
脳死をみずからの死と認め、そして死後、臓器を他の人に役立たせたいと願う人間、それから、移植を受けることによって命を長らえたいと願う
人、この両者の意思が今は尊重されていないというのが現実だと思います。そのようなことを踏まえたときに、私は、基本的に原案に賛成でございます。
一点は、生きている体から移植すれば、これは生体解剖となり殺人になるのではないか。いかなる場合にも、私は、生きている状態から移植することは反対でございます。
二点目は、人間は生から死に移行するときにけじめが必要だと思います。同じ脳死状態でも、私が遺族でございましたら、御臨終ですと言われて、そして、そのあきらめの中から、次に故人の希望に沿っていきたいというふうに思います。脳死状態というわからない状態の中で、それでは、脳死状態でございますから他人に移植いたしますと言われるのは、何となく納得できない思いがいたします。これは多くの遺族の方がお持ちになる気持ちではないかと思うのです。私たちの日常生活の中に、どれだけけじめや儀式が大きな役割を果たしているかを考えていただきたいと思います。
それから三つ目に、国民の合意がないというお話でございますが、全国世論調査によりますと、六六%の人が脳死を人の死と認めております。これは合意ではないかと思います。と同時に、家族の承諾があれば人工呼吸器を外してもよいと容認している人が六七%ございます。多数決で決めてはいけないという意見がございますが、個々人の気持ちをそんたくしておりましては、これはいつまでたっても決まりません。やはり民主主義は多数決をとらなければいけないのではないかと思うのです。
それから四つ目は、議員が死の基準を法制化することに対しては、いけないのではないかという意見もございますけれども、移植調査会の九割がそれをすることを望んでおります。とともに、日本移植学会も法案の採決を待っております。この法案の採決がなければ移植ができない現状をまず考えていただきたいというふうに私は思っております。
そこで、それを踏まえて、私、時間が限られておりますので、問題提起と質問をさせていただきたいと思います。
今問題になっておりますのは、先ほどからございますように、九九%の人は三徴候死によって死を迎えるわけですから、これは問題ないわけです。一%の脳死の人が問題になっているのですけれども、その脳死の基準ですけれども、私はそこに選択死があってはいけないのかと申し上げたいのです。
つまり、一%の人の、臓器を移植する人間は、脳死をみずからの死と認めることにもう承諾しているわけです。だから私は、その方に対しては問題はないのではないかと思います。問題があるのは、自分は移植したくない、そういう本人、並びに家族までが、ぬくもりがある、心臓も動いている、でも御臨終ですと言われることはやはり嫌だ、こういう方に関しては、脳死から心臓死を経てこれを死とするということを決めてはいけないのかというのが私の提案でございます。
アメリカのニュージャージー州では一九九一年に、脳死を死と決めてもいいし、また、心停止まで待ってもいいという選択可能な死を内容とした法案がつくられております。これを日本にも取り入れることはできないのだろうか。
これは相続の点で民法的に問題があるとおっしゃる方がございますが、現在は死も二つの死がございます。つまり、従来どおりの心臓停止による死です。そして、それとともに尊厳死というのがあると思います。日本医師会では、一九九二年に「末期医療に臨む医師の在り方」という報告書の中で、回復の見込みのない重症患者の治療の打ち切りを容認しております。その判断は、患者の自己判断並びに家族の依頼による死期の調整ということなんです。つまり、自然の死ではなくて、自分が望み、あるいは家族がそれを望んだならば、死期をお医者様が決めることができるわけです。私の父も、故人の強い希望によって尊厳死を迎えました。もし呼吸器を外さなかったら、私の父の死は一週間後あるいは一カ月後であったかもしれません。こういうことが現在認められておりますので、先ほど私が申し上げました、死の選択が相続などの問題によって認められないというのは私は矛盾するのではないかと思いますので、まず、これはどうかということを伺いたいと思います。
この発言だけを見る →私は、五年前、脳死臨調答申が出ましたときから、一国民として深い関心を持っておりました。と同時に、心臓六十から六百、肝臓三千の移植を待っている人がいる、そして年間五百人の人が死んでいる、死と背中合わせにいる人たちの現状を踏まえたときに、私は、遅々として進まない法案に政治家への強い不信と憤りすら感じておりましたので、これは一日も早い法案通過が政治家の責務ではないかと思っております。
脳死をみずからの死と認め、そして死後、臓器を他の人に役立たせたいと願う人間、それから、移植を受けることによって命を長らえたいと願う
人、この両者の意思が今は尊重されていないというのが現実だと思います。そのようなことを踏まえたときに、私は、基本的に原案に賛成でございます。
一点は、生きている体から移植すれば、これは生体解剖となり殺人になるのではないか。いかなる場合にも、私は、生きている状態から移植することは反対でございます。
二点目は、人間は生から死に移行するときにけじめが必要だと思います。同じ脳死状態でも、私が遺族でございましたら、御臨終ですと言われて、そして、そのあきらめの中から、次に故人の希望に沿っていきたいというふうに思います。脳死状態というわからない状態の中で、それでは、脳死状態でございますから他人に移植いたしますと言われるのは、何となく納得できない思いがいたします。これは多くの遺族の方がお持ちになる気持ちではないかと思うのです。私たちの日常生活の中に、どれだけけじめや儀式が大きな役割を果たしているかを考えていただきたいと思います。
それから三つ目に、国民の合意がないというお話でございますが、全国世論調査によりますと、六六%の人が脳死を人の死と認めております。これは合意ではないかと思います。と同時に、家族の承諾があれば人工呼吸器を外してもよいと容認している人が六七%ございます。多数決で決めてはいけないという意見がございますが、個々人の気持ちをそんたくしておりましては、これはいつまでたっても決まりません。やはり民主主義は多数決をとらなければいけないのではないかと思うのです。
それから四つ目は、議員が死の基準を法制化することに対しては、いけないのではないかという意見もございますけれども、移植調査会の九割がそれをすることを望んでおります。とともに、日本移植学会も法案の採決を待っております。この法案の採決がなければ移植ができない現状をまず考えていただきたいというふうに私は思っております。
そこで、それを踏まえて、私、時間が限られておりますので、問題提起と質問をさせていただきたいと思います。
今問題になっておりますのは、先ほどからございますように、九九%の人は三徴候死によって死を迎えるわけですから、これは問題ないわけです。一%の脳死の人が問題になっているのですけれども、その脳死の基準ですけれども、私はそこに選択死があってはいけないのかと申し上げたいのです。
つまり、一%の人の、臓器を移植する人間は、脳死をみずからの死と認めることにもう承諾しているわけです。だから私は、その方に対しては問題はないのではないかと思います。問題があるのは、自分は移植したくない、そういう本人、並びに家族までが、ぬくもりがある、心臓も動いている、でも御臨終ですと言われることはやはり嫌だ、こういう方に関しては、脳死から心臓死を経てこれを死とするということを決めてはいけないのかというのが私の提案でございます。
アメリカのニュージャージー州では一九九一年に、脳死を死と決めてもいいし、また、心停止まで待ってもいいという選択可能な死を内容とした法案がつくられております。これを日本にも取り入れることはできないのだろうか。
これは相続の点で民法的に問題があるとおっしゃる方がございますが、現在は死も二つの死がございます。つまり、従来どおりの心臓停止による死です。そして、それとともに尊厳死というのがあると思います。日本医師会では、一九九二年に「末期医療に臨む医師の在り方」という報告書の中で、回復の見込みのない重症患者の治療の打ち切りを容認しております。その判断は、患者の自己判断並びに家族の依頼による死期の調整ということなんです。つまり、自然の死ではなくて、自分が望み、あるいは家族がそれを望んだならば、死期をお医者様が決めることができるわけです。私の父も、故人の強い希望によって尊厳死を迎えました。もし呼吸器を外さなかったら、私の父の死は一週間後あるいは一カ月後であったかもしれません。こういうことが現在認められておりますので、先ほど私が申し上げました、死の選択が相続などの問題によって認められないというのは私は矛盾するのではないかと思いますので、まず、これはどうかということを伺いたいと思います。